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2021年1月

きょうのことば 「主は私の羊飼いー6」

インマヌエル盛岡キリスト教会2021124日の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『主は私の羊飼いー6』  (國光勝美 牧師)

聖書引証 旧約聖書 詩篇23篇1~6

ダビデの賛歌
1 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。
3 主は私のたましいを生き返らせ 御名のゆえに 私を義の道に導かれます。
4 たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。 あなたが ともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。
5 私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え 頭に香油を注いでくださいます。 私の杯は あふれています。
6 まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。 私はいつまでも 主の家に住まいます。

(前回の復習は割愛いたします)

主がともにおられる」、これはいったいどういうことなのだろうか。イザヤ書464節にも「あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。……わたしは運ぶ。背負って救い出す」とございます。ともにいてくださるという神様を、私たちはいったいどのようにして知ることができるのでしょう。
 これは「聖霊による歩み」、このことに帰結するのではないか、このように導かれました。ここからが、きょうのメッセージの始まりとなります。

 「ともにおられる」というときに、「聖霊によって歩む」。聴きなれていることばですけれども、それは具体的にどういうことか。くだかれやすい心。つまり、自分が行きたいところ、その方向にストップがかけられるとき、それは違うというときに、あくまでそれを通そうという思いがあったなら、あ、これは神様がストップをかけられたから方向変換しなければと、神様の前にくだかれ軌道修正することです。ダビデの持っているすばらしい霊的なものはなにかというと、ダビデは失敗を多くした王様でした。しかしそれを指摘されたときに、いつでもくだかれる心を持っていた。別な表現をすれば、教えられやすい心を持っていた。こういうことができるでしょう。

 いま國光幾代子先生とのちょっとした会話が思いだされました。聖霊によって歩むという事に関わる話です。幾代子先生がまだ浦和の神学校で奉仕をしていたとき、用事があって院長室に行ったそうです。用件を済ませて部屋を出しなに、幾代子先生が院長先生に、「私、最近主がともにおられるということが、以前と違ってよく分かるようになった気がします」と言うと院長先生が振り向かれて「ちょっと待て。もういちどそのことを」というので「最近神様がともにいてくださるということが以前と違ってよくわかるようになりました」と繰り返した。すると院長先生が仰ったそうです。「それがどういうことを意味するか、ようくにれはみなさい。それはあなたがくだかれた教えられやすい心をもって日々歩んでいるからです。聖霊によって歩んでいるときに、聖霊が、ともにいてくださることを実感させてくださる。これは人に教えられてわかることじゃない。あなたが光の中を歩んでいるとき、くだかれやすい心、教えられやすい心をもって日々歩んでいるときに醸し出されてくるそういう自覚なんだ。だからそれをよくにれはむ(反芻する)ことです」。おそらく幾代子先生は、私にもそれに気づいてもらいたいと話してくださったのでしょう。

 

4「たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません」
すごいことです。極限のときにあっても「わざわいを恐れません」。それは「あなたが ともにおられますから」。これが深い納得として捉えられる。その後「あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです」。前回もすこし触れましたけれども、「あなたのむち」、これをある方は誤訳だと言い切ります。しかし私はそうではないように思います。第3版でも文語訳でも、それから2017年版新改訳でも原語をよく知っておられる方が改訂をして尚「むち」という言葉が出ていますので私はこれは受け入れるべきと思いますが、これは誤訳でそれは太い棒なんだと主張する人の意見も非常に興味があります。それは野獣と戦うための太い棒、それを羊飼いは持っている。ライオンが襲ってきたとしても羊飼いは、字義通りの「むち」というよりは扱いやすい太い棒のようなもので野獣と戦う。だから良き羊飼いがともにいてくださるからだいじょうぶであるというのです。

 そして、「あなたの杖」というのは、前にもお話ししましたが、杖の先端が長くカーブしている。それを羊の首にかけてこっちだよと導く。「あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです」。ダビデは自分の生涯を振り返りながら、ああよき牧者でいらっしゃるお方は、私を幾たびも、もう絶体絶命であるところから、よき羊飼いはそのむち、ここではむちとありますけれども、或いは、闘うための武器をもって、あなたが守って下さった。そして、私を正しい道に導いてくださった。これが4節の意味であります。

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 きょうは羊飼いである主と私。それを「王なる主の宴と私」というこのテーマに変えてみます。変えると言っても主が私の羊飼いという大きなテーマはまったく変わらないのですが、良き羊飼いであられるお方、5節を見てください。

5 私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え 頭に香油を注いでくださいます。 私の杯は あふれています。

 王様の豊かな宴、王なる主の祝宴、それが5節の大きな背景になっている。つまり14節までは牧場、羊。そういうたとえの中で真理が語られているのですけれども、5節になると、よき羊飼いなるお方が、実は王の王、主の主なるお方であって、そのお方が羊である私たちに豊かな宴を備えていてくださる。
 きょうはこのところをすこし掘り下げてみたいと思います。
 「私の敵をよそに」、敵の前で宴を張る。しかもこれは勝利の宴です。こんなことができるのでしょうか。だいじょうぶ。「死の陰の谷を歩む」という大きな戦いにあったとしてもだいじょうぶです。もうそれらのことがいとも軽いとでもいうかの勝利の祝宴。

 ここで5節を一つひとつ見て行きましょう。「私の敵をよそに」、「主が備えられた宴」、「頭に香油を注いでくださいます」、VIP、これはボス・インポータント・パス。重要な賓客としての待遇です。そして「私の杯は溢れている」。この4つのところを深く味わってみたいと思います。

最初に、「私の敵をよそに」。

歴代誌第二の20章をお開き下さい。この201節に
1 その後のことであった。モアブ人とアンモン人、および彼らに合流した一部のアンモン人が、ヨシャファテと戦おうとして攻めて来た。
 ヨシャファテ、これはよい王様として私たちが理解している人物です。ユダの王様ヨシャファテが、連合軍に囲まれてしまった。しかも2節を見ると
2すると、人々は来て、ヨシャファテに次のように告げた。「海の向こうのアラムから、大軍があなたに向かって攻めて来ました。早くも、彼らはハツェツォン・タマル、すなわちエン・ゲディに来ています。」
 まさに絶体絶命の危機にヨシャファテは直面するのです。そのときに
3 ヨシャファテヨシャパテは恐れて、ただひたすら主に求め、ユダ全国に断食を布告した。
 さあ、みんな断食して祈ろう。ヨシャファテは祈りはじめました。そのときにすばらしい励ましのことばがありました。ヤハジエルという預言者がヨシャファテを励ますのです。
17 この戦いは、あなたがたが戦うのではない。堅く立って、あなたがたとともにおられる主の救いを見よ。ユダとエルサレムよ、恐れてはならない。おののいてはならない。明日、彼らに向かって出陣せよ。主はあなたがたとともにおられる。』」
このことばを聞いて1819
18 それで、ヨシャファテは地にひれ伏し、ユダのすべての人々とエルサレムの住民も主の前にひれ伏して、主を礼拝した。
19
ケハテの子孫、コラの子孫であるレビ人たちは立ち上がり、大声をあげてイスラエルの神、主を賛美した。

 これをずっと読んでいくと、ほんとうに胸が躍るようなすばらしい勝利が書かれています。
22 彼らが喜びと賛美の声をあげ始めると、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアンモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。
 大勝利です。これはヨシャパテ王が絶体絶命となったときに、だいじょうぶだ、必ず勝つことができる。この戦いはあなたの戦いじゃない、わたしの戦いであると神様は仰っている。その神への絶大な信頼。

 そして、これとよく似たところが新約聖書のローマ人への手紙837節、新約聖書の310頁にあります。
 パウロが書いたローマ人への手紙の先ず831節を見ますと
8:31では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。 8:32私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。
 こう言って、彼は勝利のクライマックスの方に行くんですね。そして、
8:37しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。
 私たちは圧倒的な勝利を約束されている。「あなたは私の前に食卓を整えた」、これを味わうと、とても大きな恵みを感じるのです。食卓を整えてくださるのは誰ですか。ふつうは、しもべが主人のために食卓を整える。それが、王様ご自身が、主ご自身が羊のような私たちのために食卓を整えてくださる。わがままな迷いやすい私たち羊のために、よき羊飼いなるお方は、神の子羊はその羊のためにいのちを捨ててくださって、十字架に架かり、羊にいのちを与えるために、十字架の贖いを成し遂げてくださった。そして、復活をしてくださった。
わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです(ヨハネの福音書1419)。十字架と復活、いやはての敵である死を前にしても、主は、ほら、私はあなたのために死に、贖いをなし、そして今もこのように生きているんだよ。

 王なる主が羊のために自ら食卓を備えてくださる。主が備えられた食卓、来週私たちはそれを記念して聖餐式を持たせていただきますけれども、ああ、このような主が備えてくださる宴、十字架の贖い、復活の力、これは主が備えて下さったのです。

頭に香油を注いでくださる」、これは最高級のもてなしです。主賓に対する当時として最高級の、しかも高価な油をもってする最高のもてなし。ここで、イエス様が十字架を目前にしておられたときに、ナルドの香油を惜しみなくイエス様の足に注いだあのマリアのことを思いだします。大いなる主の宴、主は私たちを、あなたはわたしの最も大切な者だよといって、最も高価な油を注いでくださる。さあ、あなたは私の血によって贖ったいちばん大切な主賓です。こういって私たちを備えてくださる。

そして、「私の杯は溢れています」。これはいったいどういうことなのだろうかと思い巡らすときに、私は詩編の63篇の場面が思い浮かびました。この63篇はダビデが自分の息子アブシャロムの反逆を受けて王座を追われ、命からがら荒野に一夜を過ごしたときのことです。それを思いながら63篇をご覧ください。

1 神よ あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない 衰え果てた乾いた地で 私のたましいは あなたに渇き 私の身も あなたをあえぎ求めます。
2 私は あなたの力と栄光を見るために こうして聖所で あなたを仰ぎ見ています
5 脂肪と髄をふるまわれたかのように 私のたましいは満ち足りています。
喜びにあふれた唇で 私の口はあなたを賛美します。
6
床の上で あなたを思い起こすとき 夜もすがら あなたのことを思い巡らすときに。
7
まことに あなたは私の助けでした。
御翼の陰で 私は喜び歌います。
8
私のたましいは あなたにすがり あなたの右の手は 私を支えてくださいます。

 まさに死の陰の谷を歩むダビデの経験を、この63篇でダビでは証ししているのです。冷たい石を枕にして寝なければならない、襲われるかもしれない、そのようなときにダビデは「あなたに渇き、あなたを仰ぎ見て」そして5節を見ると「脂肪と髄をふるまわれたかのように」、これは最高の祝宴、ごちそうです。ダビデは「ああ十分です。主よ、あなたがともにいてくださる、このことだけで私はもう十分です」。「私の杯は溢れています」というのはこの63篇の中に解説されている、このように思ったことであります。

 来週は「23篇の6 まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。 私はいつまでも 主の家に住まいます」、このところを。いつものみことばの学びというのではなくして、ほんとうに短い学びとなりますが、共に聖餐式に与り、そして教会総会へと入っていきます。

 どうぞ23篇の神様が私達を過ちなく導いてくださいますようにと、願い祈っております。

 

※画像は教会からお借りしています。

⏰パソコンの前についてきっかり5時。1月31日5:00と画面の左に見て、切れの良さを感じ、また外にはまだ暗い中に真っ白な路が延び、ところどころに街路灯が、ビルの灯りが浮かび、そしてまだ崩れてはいない雪景色が静かに広がっておりました。昨日までにデータを起こし、けさ5時から書式に編集、6時ジャストの更新です。

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雑感

 けさ、除雪車の写真などを撮ってデータ化しているうちに、J-MERO時間を忘れていた。とはいえ音楽番組はけっこうその後の時間帯にも流れている。久方ぶりに神尾真由子のバイオリンを聴いた。よい音楽番組はあるのだけれども、やはりゆっくりと聴けるのがクラシック倶楽部の時間帯。それでクラシック倶楽部を中心に聴くようになってしまっている。日中はできるだけTVを見ないようにしている。暮らしにメリハリが欠け、だらだらと流されてしまうからだ。立派にきちんと暮らしているわけではないけれども、TVだけで半日が終わってしまうのは物寂しい。

 積雪を見ると爽やかで清々しく、なぜか温かい気持ちになる。この辺りの路上も圧雪となり、真っ白な交差点から真っ白な路が四方にのびている。眺めていると、この道を行けばどこか見知らぬまちにたどり着きそうな、そんな思いがしてくる。真っ白な路。真っ白な屋根。雪を危なげにのせる電線。歩いてゆく人の小さな影。人やクルマがみな小さく見える。獣たちのすがたはない。その足跡もない。

 

⛳20時25分更新

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210129 クラシック倶楽部を聴く 若林顕の世界 ラフマニノフ ショパン

「楽興の時作品16から第1曲変ロ短調第4曲ホ短調」ラフマニノフ:作曲,(ピアノ)若林顕,「24の前奏曲作品28」ショパン:作曲,(ピアノ)若林顕 ~2020年11月30日武蔵野市民文化会館大ホールで収録~―番組紹介よりー


プログラム 
ラフマニノフ:楽興の時 第1番 変ロ短調 Op. 16-1&第4番 ホ短調 Op. 16-4
ショパン:24の前奏曲集 Op.28 (全曲)

 

若林顕:20歳でブゾーニ国際ピアノコンクール。22歳でエリーザベート王妃国際音楽コンクールで第二位。これまでベルリン交響楽団、NHK交響楽団など国内外のオーケストラと共演。カルミナ四重奏団、ライプチヒ四重奏団など室内楽分野でも著名な演奏家たちと数多く共演。リサイタルでは2018年よりショパンピアノ作品全曲シリーズを展開。

コメント
ピアノは自分の鏡というか、こちらの思いとか願いとかこめる度合いというものが強ければ強いほどいくらでも答えてかえって来てくれる。いくらでももう無限大に可能性があると思うんですけれども、すべては自分しだいというか、ピアノはどんとあって自分のそのままを映し出し努力した分だけ注ぎこんだ分だけ何らかの形でかえってきてくれる。ただピアノが答えてくれるような熱意の伝え方をしなければいけないというところで、双方とがやっぱりどうしても考えざるを得ない。いちばん大事なのはピアニストにとってはだいたいはホールのピアノにはじめて会って、時間でお友達になって、いかに仲良くといいますか、意思の疎通がちゃんと図れるといいますか、そこが楽しいところでも苦労するところでもあるという。僕としては、ピアノが嫌なことはしないというか、一緒に歌えるようにという気持ちを持ちながら弾いています。当然、意思があるように思いますよね。生き物じゃないかなと。

 

🎵「楽興の時」は第6曲まである。これはラフマニノフ23歳での作曲。スランプに入る直前の時期でラフマニノフの前半期の集大成であるとの番組解説。.wikipediaによればラフマニノフのピアノ独奏曲への復帰作にして、ピアノ曲作曲の転換期と位置付けられているようだ。第1曲はやさしく流麗、ラフマニノフならではの揺蕩うような旋律。第4曲では感情の湧出。この辺りがショパンやリストの影響なのかと思いつつ。ショパンの「24の前奏曲集」、これはバッハの「24の前奏曲」から着想を得ており、ショパン作品の中でも完成度が高いとされるとの番組の解説。第10番はエンドレスでいつまでも聴いていたいような心洗われるピュアな感じ。それがあまりに短すぎて。第23番にも10番に似た響きはでてくるけれども、こちらには遊びといえるかさりげない変容の感じも。第16番、焦燥を伴う感情の湧出。第15番「雨だれ」、超有名ときいていたが、最初はたしかに雨だれ、しだいに涙も出ないほどの耐え難い寂莫感と孤独が。これがショパンの孤独。ショパンの孤独が切々と胸に迫った。第20番の厳かで奥深くまた厳かに。第24番、感情の湧出、しかし第16番とのそれとは違っている。決意が秘められている感じも。最後の低音、設置のピアノの左から2番目の三つの低音にこの24曲を詩として肯定、位置付けるかの効果を覚えた。ショパンの感性の危うさ確かさ豊かさ凄さを聴いた。

🎧名曲アルバムはエルガーの「なぞ」。霧に幻と田舎のたたずまいを見せるウースター、緑に息づくウースターの映像。エルガーが暗号化した友人たち。暗号の第9番はニムロッド、即ちイェーガー。彼のような友人を得ていたエルガーが羨ましい。

⛳積雪。5時20分に除雪車が入った。ショパンの前奏曲第4番で除雪の音がし、終曲の24番で、音が消え、別な区域に移動したもよう。
コロナニュースを聞きながら7時2分更新。

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210128 クラシック倶楽部を聴く アンドレイ・ガヴリーロフ ピアノ・リサイタル

1974年18歳の時にチャイコフスキー国際コンクール優勝。同年のザルツブルク音楽祭でリヒテルの代役を務め脚光を浴びる。6年の活動休止時期を経て復活を果たした。【演奏】アンドレイ・ガヴリーロフ(ピアノ)【曲目】ノクターン 変ロ短調作品9第1(ショパン)ピアノ・ソナタ 第8番(プロコフィエフ)幻想曲 ニ短調 K.397(モーツァルト)ほか【収録】2020年11月15日 武蔵野市民文化会館大ホール―番組紹介よりー


アンドレイ・ガヴリーロフ
1955
年モスクワ生まれ。モスクワ中央音楽学校でタチャーナケストナーに、モスクワ音楽院でレフナーモフに師事。197418歳でチャイコフスキー国際コンクールで優勝。1994年から演奏活動から離れ、哲学、宗教を研究し新たな音楽を模索。2000年演奏活動開始。2001年モスクワ音楽院大ホールで一夜で4つのピアノ協奏曲を演奏し復活。

コメント(抜粋)
30
代でロンドン・ドイツ・ニューヨークに住んで世界を旅して得た結論は、音楽の世界が深い停滞の中にあるということでした。もっとも悩ましいのは、音楽・演奏の世界がすべて感覚に基づいていることでした。私は音楽作りの科学を打ち立てたかった。音楽言語を読む科学です。それは音楽を言語として理解するレベルにまで発展させることです。大変困難でリスクもあるが、もう一度ゼロから始めるという思い切った決断をしました。殻を破り新しい音楽の哲学を作りたかった。
私はリモート・コントロールで、聴衆と亡き人々の魂をつなげています。トンネルを作り彼らの意思を伝えています。
プロコフィエフの「ピアノ・ソナタ 第8番」について、彼はこの作品でついに真の作曲家に成長しました。これまで使用したさまざまな音楽言語や作曲様式を止めました。非常に簡潔な音楽形式に発展させたのです。

 

ノクターン 変ロ短調作品91(ショパン)
ノクターン 変ニ長調作品272(ショパン)
ノクターン 嬰ハ短調 遺作(ショパン)
ピアノ・ソナタ 第8番変ロ長調作品84(プロコフィエフ)
アンコール 幻想曲 ニ短調 K.397(モーツァルト)

 

🎵当年66歳。1994年に音楽活動を離れたいきさつをちょっと聞き落したかとも思うが、そこが肝心なところではあった。演奏に行き詰まったのか、持っていた疑問が頂点に達しそのままではいられなかったのか、それにしても演奏家が活動を止めるというのは命がけ。
「ノクターン 嬰ハ短調」、これは演奏の質如何に関わらず、もう聴こえてきただけで心揺さぶられる。この曲が貴族ではなく姉に捧げられているところも自らの内ではこの曲の好感度を高くしている。この辺りは、仮に、もう一つや二つキーの打ち間違いがあろうともどうということはない。
「ピアノ・ソナタ 第8番」193944年までに作られた「戦争ソナタ」のうちの一つ。とはいうものの、67番の曲調がどうであったかは曖昧なのだが。このプロコフィエフの8番こそがアンドレイ・ガヴリーロフが引っ提げて来日したものと納得。命の本質を見極めようとしたとの番組の解説もあったが。第一楽章、なぜだ! 不条理を神に問うと聴こえる。打ちひしがれる人々のすがたが映像的に感じられ、戦争のありさま、成り行きが。第二楽章は嵐が過ぎ去ったかの小康、明るさが。短めの楽章に平安を求める想いがこめられ。第3楽章先行きを求め模索し動き出す。プロコフィエフの真髄と、アンドレイ・ガヴリーロフのプロコフィエフは本物と得心。戦争のトラウマも超えて困難を激しく克服していく。時折ふと顔をあげてあたりの景色に心和ませながら力強く踏みしめる大地にロシア的な響きが。プロコフィエフが発展させた音楽形式とはまさしくこれだ! 実にすばらしかった。
渾身の大曲を引き終えて、沸き立つ観客、歓声を聞きながらも、次のモーツァルトにすっと入っていく。もう頭が次の曲に。切り替えの鮮やかさ!

🎧名曲アルバムはバッハのブランデンブルグの5番。5番はチェンバロ中心。雪のケーテン。バッハは歩いて10分のケーテン城に通勤。ここでの30代は素晴らしく充実していたようだ。いまでも毎晩16人の楽団が毎夜コンサート。ところで、ケーテンのあのバッハの住まいは、あの建物ぜんぶを使用していたのかそれともその一部であったのか。

 

⛳プロコフィエフに目が醒め、書くことが心地よかった今朝。曇りなれど頭か心の内には広がる青空。ちょっとはエベレストも見、天気予報を聞きながら、7時ジャスト更新。

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210127 クラシック倶楽部を聴く  牛牛 ピアノ・リサイタル

1997年生まれ 中国出身の若手ピアニストアニメ「ピアノの森」でパン・ウェイの演奏を担当ショパン「即興曲」「ピアノ・ソナタ第2番」「スケルツォ第3番」ほか―番組紹介よりー


1997
年中国生まれ。11歳でCDデビューし、国際的な活躍を始める。その後アメリカに留学。2018年にジュリアード音楽院を卒業。TVアニメ「ピアノの森」に登場するキャラクター、パン・ウェイの演奏を担当している。

コメント
牛牛(ニュウニュウ)というニックネームは生まれたときに両親がつけました。中国の暦でうし年に生まれたからです。ジュリアード音楽院には音楽のほか、舞踊と演劇部門もあります。舞踊部門・バレエの学生と友達になりました。どのように身体の動きを考案するのか彼らの話を聞き、演奏するときの手の動きをダンスとして考えるようになりました。コンサートでの演奏では視覚的な要素も大きいと私は考えています。演奏の視覚的な側面により集中するようになりました。自分が弾く曲のもっともドラマティックで激しい瞬間にあっても、心をクリアに保つべきだと気づきました。演劇では役になりきっているときにも常に自分自身を保つことが必要ですから。

 曲目

☆「即興曲 第2番 嬰ヘ長調 作品36」ショパン:作曲
「即興曲 第3番 変ト長調 作品51」ショパン:作曲
「ピアノ・ソナタ 第2番 変ロ短調 作品35」ショパン:作曲
「スケルツォ 第3番 嬰ハ短調 作品39」ショパン:
「ウィーンの夜会 第6番(シューベルトによるヴァルス・カプリス)」リスト:作曲~2019

🎵予告に牛牛とみただけで、ああ、あの身のこなし優雅な、と思いだした。舞踊の影響を受けたしなやかな彼の動き。ダンサーがピアノに舞い降りてきて弾いている、そんな感じも。ピアノソナタ第2番のなかの葬送行進曲中の、聖母の涙が流れるような澄明な心持で思い出をたどるようなピュアな響きがのこる。追憶に苛まれるかの第4楽章。スケルツォ、聴くたびに、作曲家が、繊細で細やかな音を最速でなぜにこのように美しい連なりをもってどこぞから汲みあげられるものかが不思議でならない。

🎧名曲アルバムはモーツァルトの交響曲第38番「プラハ」渡邊一正&東京フィル。モーツァルトが178731歳でプラハを訪れた頃には「フィガロの結婚」が大流行りだったらしい。
スタヴォフェスケー劇場は重要なオペラハウス三つのうちの一つ。開場は1783年と他の劇場よりも100年も歴史が古く、世界中のオペラハウスの中でも、現存するものとしては最古の劇場です。178710月にモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」が初演されたという栄光の歴史を誇り、「フィガロの結婚」や「魔笛」も大成功を収めました。1791年には最後のオペラ「皇帝ティトの慈悲」も初演されました。開場当初は国民劇場と呼ばれていましたが、1799年にボヘミア貴族(チェコ語でスタヴォヴェー)に売り渡されその際にスタヴォフスケー劇場と改名されました。その後、ドイツ語のオペラ中心になったり、チェコ語のオペラ中心になったりしましたが、第2次世界大戦後、19世紀の劇場監督ヨーゼフ・カイェタン・ティルにちなんでティル劇場と名前が変わりました。そして、8年もの長い改修工事ののち、1989年のビロード革命後、1980年の劇場の再開場と同時に再びスタヴォフスケー劇場へと名前が戻りました。現在は国民劇場と同じ組織で運営され、モーツァルトの作品が中心に上演されています。

⛳後で書こうかなと思いつつも一応書いてしまおうに押されて7時の更新。
この前番組ヒマラヤトレッキング、ドローンを飛ばしての空撮、波のように打ち寄せるかの雲海から神々しく夕日を浴びるエベレストの峰々。実に素晴らしかった。撮影機材も含めて100キロの荷を背負っての“苦役”の成果が。と書くうちに時間は7時2分に。

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210126 クラシック倶楽部を聴く アリス・紗良・オット

若い頃から世界的な活躍を続けるピアニストが、さらなる飛躍を目指して「ナイトフォール(逢魔時/おうまがとき)」をテーマに選んだフランス音楽の数々アリス・紗良・オット夢(ドビュッシー作曲)グノシエンヌ第1番、ジムノペディ第1番、グノシエンヌ第3番(サティー作曲)「夜のガスパール」(ラヴェル作曲)ほか2018年9月27日 東京オペラシティコンサートホール―番組紹介よりー

アンコールは亡き王女のためのパヴァーヌ(ラヴェル)

🎵収録の力の入れようも一入という感じが。まえに聴いたときには、アリス・紗良・オットの世界「逢魔時」を象徴するかのような青いライトの巧みさ、ナイトフォールに溶けこむかの紗良の美しさに惹きつけられ食い入るかに見入ったけれども、今回はむしろ視覚的な部分を伏せて、ほとんど目を閉じて聴いていたのだけれども。紗良のいう光と闇がぶつかり合う白黒つけがたい、これはいわば葛藤というものでもあるかと。自分の中にある二面性をさぐってもらいたいという紗良。華々しい世界的な活躍をひた走ってきた紗良がたどり着いたこの時点。この収録は2018年だが、現在の彼女にはまた芸術に昇華された変化が織り込まれているのではとユニバーサル・ミュージック・ジャパンに飛んで彼女の今を確認。

ラヴェルの「夜のガスパール」、底に静まっていた沈殿物が、水の面を過るさまざまな生物、動物、物体、などというと曲想からいえば物々しくなってしまうが、いずれ人のさまざまな感情を含んだことばなどで立つさざ波によって、浮遊、これはふだんの自分のありようから思わぬ方向、事態に自分の意思とは時として無関係に引っ張られてしまうような物理的な引力とはまた違った牽引力なのだろうけれども、引かれ浮遊し、自らの存在に安定感を失っている、そんなあり様を想像してしまった。魂の落ち着きどころがなく羅針盤を失った航海でもしているような感じがした。これがあたっているかどうか。

 

🎧名曲アルバム。ヴィヴァルディの「四季」から「冬」【バイオリン】千住真理子,【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団,【指揮】高関健
クラシック倶楽部は紗良で、そのあとが千住真理子。この豪華さ! 冬の硬質な弦の音が何とも。養育院の少女たちにバイオリンを教え、彼女たちのために多くの作曲をしたヴィヴァルディ。

⛳くもりぞら、しかししかし、紗良のピアノと千住の弦で心晴ればれ。7時9分更新。


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210125 クラシック倶楽部を聴く  ジョス・ファン・インマゼール&伊藤綾子 連弾  

1877年フランス製のエラール・ピアノで聴くドビュッシーとラヴェル。インマゼールと伊藤綾子の連弾で、作曲家と同じ時代を過ごした楽器の柔らかな音色をお送りする。―番組紹介よりー

インマゼールのコメント
優れた作曲家は音楽を作るための道具、つまり楽器のことをいつも考えています。作曲家の念頭にあるのは「ピアノ全般」ではなく目の前にある「一台のピアノ」です。ですからこの楽器で19世紀末から20世紀初頭のフランスの音楽を演奏するのは理にかなっています。エラール社は長い伝統を持つ最大規模のピアノ製作所だったのでとても重要です。またエラールはさまざまな作曲家と親しい関係を築いていました。この楽器に慣れてくるとほかの楽器ではできないさまざまなことができるようになります。ただ歴史あるピアノも現代のピアノもいい面もあればそんなに良くない面もあります。私たち人間と同じですね。

ジョス・ファン・インマゼール:ベルギー生まれ。1973年第一回パリ国際チェンバロコンクール優勝。
伊藤綾子:桐朋学園大学ピアノ科。ベルギーのアントワープベルギー音楽院留学。インマゼールの下で研鑽を積む。
2016
年、インマゼールと伊藤は曲が書かれた当時の音色の再現を目指して歴史的なピアノを再現するデュオを結成。

 

楽曲

「梨(なし)の形をした三つの小品」サティー:作曲
「「夜想曲」から「雲」「祭り」」ドビュッシー:作曲、ラヴェル:編曲
「ボレロ(ピアノ連弾版)」ラヴェル:作曲、ヴェル:編曲
アンコール「ハンガリー舞曲 第5番(アンコール)」ブラームス:作曲

🎵1877年フランス製のエラール・ピアノでの演奏、今回聴いていて、音がちょっと軽めかなと。けれどもフランスの鼻にちょっとかかる言葉の感覚にはあっているかもと。やはり存分にドラマテッィクな音をとなると、モダンの方だろうという感じが。ただ当時はこのように演奏されていたという考証的な音色にいくばくか当時の演奏に近づけたかと。サティ、「三つの小品」といっても、内容は1始め方、2同じものの延長、3小品Ⅰ、4小品Ⅱ、5小品Ⅲ、6おまけに、7言い回し、と七つから成っている。室内にある調度品、静まってある壺や額、敷物、椅子、鏡、そして窓、壁、床が音をたてはじめ、音と音のあいだの独立空間を保ちながらしだいに各々自らを物語りはじめる。「「夜想曲」から「雲」「祭り」」、編曲で勿論そうなるのだろうけれども、ラヴェル感覚のドビュッシー。

 

🎧名曲アルバム。ヨハン・シュトラウス「ウィーンのボンボン」。1866年にこの曲が作曲されているが、この当時、ウィーンには移民が多く住宅事情もあり、カフェが大流行り、第二の居間になっていたというけれども。

⛳最近番組をICレコーダーに録るようになり、番組の時間帯で内容を掴んでしまおうという気迫が希薄になってしまっている。また聴いてみてからという気分も生じ、更新も遅れがち。録画、録音も善しあし。
録音を聴きながら1143分更新。

 

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きょうのことば 「主は私の羊飼いー5」

インマヌエル盛岡キリスト教会2021117日の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『主は私の羊飼いー5』  (國光勝美 牧師)

聖書引証 旧約聖書 詩篇23篇1~6

ダビデの賛歌
1 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。
3 主は私のたましいを生き返らせ 御名のゆえに 私を義の道に導かれます。
4 たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。 あなたが ともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。
5 私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え 頭に香油を注いでくださいます。 私の杯は あふれています。
6 まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。 私はいつまでも 主の家に住まいます。

(前回の復習は割愛いたします)

きょうは、詩篇234 節「たとえ 死の陰の谷を歩むとしても」というところを取り上げてみましょう。

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死の陰の谷」というこの現実的な表現。これは人生の最も困難な辛いときです。私たちはよい羊飼いに導かれているのだから、こういう困難なところは避けて、やさしい楽な道を主は導いてくださると期待してしまいますけれども、実際はそうではない。よき羊飼いのあとに従って行くときにも、辛い、できたらこんなところを通りたくないという、そういうところを私たちは通らされるということがあります。そしてさらにいうのならば、人生の最も辛い時、それは、死でありますが、これを私たちは通らなければなりません。これはひとりで通過しなければならない門です。誰か近しい人と一緒にというわけにはいかない。一人ひとりが、この死というところを通過しなければならない通過点であります。そのときに、「たとえ 死の陰の谷を歩むとしても」。さあ、どうでしょうか。「私はわざわいを恐れません」。これは決して強がりとか思いこみで言っているのではありません。

ヨハネの福音書1427
27 わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。

 私たちはイエス様の平安を受けて、これを歩むことができます。そして、

新約聖書ローマ人への手紙831
31 では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

 神様が私たちの味方であってくださる。だから、たとえ死の陰の谷を歩むという人生の中の最も辛い、そして、私たちが避けて通れない死という一人で通らなければならないところであっても、神が私たちの味方であってくださる、これは決して強がりでいっていたり、或いは、思い込みでそういうことをいっているというのではない。「あなたが ともにおられますから」。

23篇ご覧ください。
1 主は私の羊飼い」「2 主は私を緑の牧場に伏させ」「3 主は私のたましいを生き返らせ」というすばらしい神様ご自身の事が言われています。

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ところが4節に入って、「4 たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。 あなたが ともにおられますから」。ここに「あなたが」と書いてあるのです。「主が」という客観的な事実。いままで13節に出ていたように、主はこういうお方です、神様はこういうお方です、というそれを超えて、つまり一線を一つ超えて、客観的な真実はそうだけれども、しかし、「あなたが ともにおられますから」というここに3人称から2人称、ダビデにとって神様の表現が変わっているのです。「主はともにいてくださる」という事実。そして「あなたはわたしと一緒にいてくださった」。このように経験的な事実。

イザヤ書4634
3ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいるときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。
4
あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。

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 私はダビデという一人の信仰者、イスラエルの王として知られている人物ですけれども、彼が234節「4 たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。 あなたが ともにおられますから」と告白したとき、彼の生涯も振り返ってみました。彼はまさに生まれたときから選ばれてイスラエルの王になるように、ある意味、主のご計画の中に入っていた祝福された選ばれた人でした。しかし、このダビデが、その時の王であったサウル王様に嫉妬され、そして命をつけ狙われてどれほど危険な目に遭っていたかという事を、歴史書は、私たちに示しています。まさに彼は人生の中に、何回も何回も、それこそ何回も「死の陰の谷」というところを通っています。その彼が、「あなたが ともにおられますから」。

 そして「あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです」とあります。「むち」、これには色々な解釈があります。いずれにせよ、矯正するための必ずしも心地よいものではありません。ピシッと叩かれるむち。或いはこれを、太い棒であると解釈する、ムチと訳すよりも、棒と訳した方がいいという意見も。聖書は「むち」と訳しておりますから「むち」でよろしいかと思います。いずれにせよ神様からピシッと叩かれる。或いは、「あなたの杖」というとき、羊飼いの杖というのは、よくイラストなどで見るのですが、大きな長い杖があって先端がちょうど曲がっていて、こっちだよと言うように羊の首に引っかけて導く。ダビデの生涯を見たときに、ダビデはほんとうにむちを受けました。自分の思い、それがついつい優先してしまって、そっちじゃないと、神様からピシッと大きなむちを受けたとき、或いは、彼の生涯の中で、バテシバ事件と言う大きな姦淫の罪を犯し殺人の罪を犯してしまったダビデ。そのときに、ナタンという預言者によって、「ダビデ王様、あなたがその悪い行いをした張本人です」といわれたとき、彼はほんとうにそのとき悔い改めました。むちで、しもとで打たれた。でもそれがどうでしょうか、ダビでは「あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです」。そして、そっちじゃないといって引っ張って行かれるとき、ついつい嫌だいやだと思ってしまうような、そしてそこから逃げてしまったのならば、それは逃げ出した羊、迷子の羊となりますけれども、ダビデは、死の陰の谷を歩むという経験、そして、神様から厳しく取り扱われる「あなたのむち」そして「杖」。

 ダビデのすばらしいところは、いつでも神様のお声に聞き従って悔い改めることができたことです。そして、そのとき、いつも、ああ私は主に担われている。ああこんな私を神様は担って、それこそ御名のゆえに。「わたしはあなたを最後までになう」。こう約束をしていてくださる。

 ここに「足跡」というすばらしい詩があります。マーガレット・パワーズという女性の詩であります。

 

4 たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。 あなたが ともにおられますから。

なぜダビデはここで、「あなた」という呼びかけ、神様に対してそうしたかというと、彼は自分の生涯を振り返って、ほんとうにそうだ、あなたはいつもわたしと一緒にいてくださった。これを体験したからです。

 ダビデと同じように私達も一人ひとり、これまでの人生を振り返り、またこれからの人生を展望するとき、ああ、ほんとうに、あなたは私と一緒にいてくださった。これからも、主は一緒にいてくださる。このことは、どんなに研究してもいえることではないのです。これはほんとうにいつでも良き羊飼いの声を聞いて、良き羊飼いの声に従って導かれて、そして、ある時には、ついつい、主の御声よりも自分の思いを優先させてしまっていたときに、さあ、こっちだと主から扱われて、ああ、そうだ。ごめんなさい。このようなことを何回も何回も経験してきた人が、まさに聖霊によって歩むという生涯をしていた人は、ああ、あなたはほんとうに私と一緒にいてくださった。あなたは私を背負っていてくださったんだと、これは思い込みでも強がりでもなく、ああ、そうだと、納得することができるのです。

 このフット・プリントというのを調べておりましたときに、私も知った一つのことがありました。実はこのマーガレット・パワーズという女性は、結婚するときに、マーガレットさん自身はほんとうに祝福されたクリスチャンホームで育った女性でしたが、結婚に導かれた方はもちろん立派なクリスチャンなんですけれども、彼は、幼いころにお父さんから激しい虐待を受けて少年院に送られる経験もした人でした。しかし、そのような人生を送っていたときに、彼は、クリスチャンの老夫妻の家庭に導かれて、そこで、クリスチャンになった。イエス様の十字架の贖いのはなしを聞いたときに、彼は初めて、彼のお母さんが亡くなった時以来流さなかった涙を流し悔い改め、クリスチャンになった。牧師になったそうです。そして、クリスチャンになった牧師と、この穏やかな家庭に育ったマーガレットさんがいよいよ結婚するという時に、果たして、このような環境があまりに違いすぎる者が家庭を築くことができるだろうかという非常な不安に駆られたんだそうです。そのときに、二人は湖の畔を歩いていたのですが、二人が歩いた足跡を振り返ったとき、ああ、だいじょうぶだ、このお方がともにいてくだされば。イエス様と一緒に歩む。その経験と言いますか、扱いをいただいて、このすばらしいフット・プリントという詩を造ったそうです。調べてみるとおもしろいなあと非常に恵まれたことでしたが。

この話には後日談があります。幸せな家庭を築いていたマーガレットさん一家。それから25年後といったでしょうか、お子さんにも恵まれていたのですが、交通事故に遭ってしまった。大けがをしてしまったそうです。失望したマーガレットさんに、ある看護婦さんが彼女を励ますために、誰がつくったのか知らないけれども、素晴らしい詩があるからあなたお読みになって下さいと示された、それがフット・プリントという彼女が25年前に造った詩、これを看護師さんが手渡してくださった。「これは私が造った詩です」とマーガレットさん。それでもう一度信仰の原点に立ち返ることができたということでした。

あしあと(footprint)

ある夜彼は夢を見た。
それは主イェスとともに海岸を歩いている夢だった。
空に彼の人生が次つぎと映し出された。
彼は人生のどの場面にも、ふたり分のあしあとが残っていることに気付いた。
一つはじぶんのもの
そしてもう一つは主イェスのものであった。
自分のこれまでの人生、砂浜に残されているあしあとを振り返ったとき、
いつも彼のあしあとの横に
もうひとりのあしあとが残っている。
それは主イエスがともにいてくださった。
そして人生最期の光景が映し出されたとき、
彼は砂浜のあしあとを見た。
そこにはひとりのあしあとしかなかった。
それは彼の人生で最も辛く悲しみに打ちひしがれていたときも同じであった。
彼はそのことでひどく悩み、イエスにたずねた。
主よ、かつてわたしがあなたに従おうと決心したとき、
あなたはどんなときにもわたしとともに歩んでくださると約束されたではありませんか。
けれどもわたしの人生で最もくるしかったときには、ひとりのあしあとしかありません。
わたしが最もあなたをひつようとしていたとき、
どうしてあなたはわたしを置き去りにされたのですか。
主は答えられた。
わたしの大切な子よ、わたしはあなたを愛している。
決して見捨てたりはしない。
あなたが試練や苦しみの只中にいたとき、
ただひとりのあしあとしかないときには、
わたしがあなたを背負って歩いていたのだ。 

 

 私がきょうのメッセージを締めくくろうとする時に、「あなたがともにおられますから」。3人称「主は」というところから「あなたが」と言うこの経験、聖霊によって導かれ歩んでいる時に、神様が必ずそのような理解を私たちに与えてくださる。そのような歩みをさせていただきたいと心から願っております。

フット・プリントをもとにした福音賛美歌395番もございます。

 

 

※画像は教会からお借りしています。
⏰6時20分更新

        

 

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J-MERO ざっと

けさのJ-MERO さわやかMay J.のエスコート。
ゲストは、ももいろクローバーZ&Da-iCE。ももいろクローバーZはストリート出身。マスクもファッション化させ、アクリル板も小道具にしてのパフォーマンス。コロナ対策も取り込んでのコロナ対峙。世界を目指し英会話も習得中。Da-iCE(ダイス)は武道館を2日連続2万人にしたとか。昔は若者たちの大騒ぎぐらいに見ていたこともあったが、ライブのこういった動員力は無視できないと気付き、いまでは何が、どこがと目を凝らすように。声は4オクターブが出せるという。メンバーの一人はコロナ感染し完治、復帰。パフォーマンスのフォームで意識していることは、の質問には、何より自分が楽しむこと。お客さんを楽しませるためには自分自身が楽しかったり感動してないと伝わらない。一曲一曲の世界観に入り込むこと。バラードだったらその悲しさを表現。楽しいときは思いっきり自分たちが楽しんで。作詞作曲は、先ずライブベース、それがバラードなのかアップテンポなのか、はたまたダンス・パートが欲しいのか、そういうライブをイメージして全体の構成を作って、今はやっている音色をどれぐらい入れるか(聞き落し)組み立てていくなどとこたえている。

さまざまな音楽世界で精一杯の模索が続けられている。ここで休んじゃったらコロナ収束で目の当たりにするのは、がらんどうの自分ということになりそう。

J-MEROの前番組で、北海道であったか、美しい樹氷の映像が流れており、つい見入ってしまった。降雪のあった朝、樹木に雪がまぶされている写真を撮りたいと思うも、家事を一段落させたころには、もう樹木の雪は解けてしまっていることが多い。なかなか難しい。

⛳自分で自分を急かすこともないとゆったりと寛ぎ過ごすうちにもうこんな時間。更新のための更新は19時15分。きょうも一日が終わる。

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210122 クラシック倶楽部を聴く ブルーオーロラサクソフォン・カルテット

「平均律クラヴィーア曲集第2巻第1番BWV870から前奏曲」バッハ:作曲,平野公崇:編曲,(演奏)ブルーオーロラサクソフォン・カルテットほか パリ国立高等音楽院に学びJ.M.ロンデックス国際サクソフォーン・コンクールで優勝した 平野公崇により結成。それぞれが独奏者としても活躍する名手たちによるアンサンブル。【演奏】平野公崇、田中拓也、加藤里志、本堂誠【曲目】サクソフォーン四重奏曲 第1番(サンジュレー作曲)、日本組曲(ホルスト作曲 久保田麻里・平野公崇編曲)、和樂(平野公崇作曲)【収録】2020年11月1日武蔵野市民文化会館 大ホール―番組紹介よりー

 

平野公崇:神奈川県生まれ。東京藝術大学在学中、第7回日本管打楽器コンクールサクソフォン部門にて史上最年少の第1位入賞。同大学卒業後、パリ国立高等音楽院に外国人枠廃止後、サクソフォン科初の日本人として入学し、サクソフォン科、室内楽科、即興演奏科を最優秀の成績で卒業。同音楽院在学中にJ=Mロンデックス国際コンクールを制して日本人サクソフォニスト初の国際コンクール優勝者となり、フランス国立ボルドー・アキテーヌ管の定期演奏会に出演、Sud-Ouest紙の絶賛を浴び華やかなフランス・デビューを果たす。日本では2000年、現代作品と即興のみで構成された異色のアルバム「ミレニアム」で鮮烈なデビューを果たす。読響、新日フィル、大フィル、札響、広響等オーケストラとの共演多数。また、山下洋輔、塩谷哲、アキコ・グレースらジャズメンとの共演も多い。フランス、ドイツ、スペイン等の音楽祭におけるコンサートは毎回好評を博し、その出演を待望する多くのファンを獲得している。

 

プログラム J.S.バッハ/平野公崇 編: 平均律クラヴィーア曲集 第2巻 第1番 BWV870 より プレリュード
ジャン=バティスト・サンジュレー:サクソフォン四重奏曲第1番 Op.53
平野公崇:和樂
日本民謡/田中拓也、平野公崇 編:津軽じょんがら節
沖縄民謡/平野公崇 編:てぃんさぐぬ花
G.
ホルスト/久保田麻里、平野公崇 編:日本組曲 作品33
アンコール  BASQプレリュード(J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集第1巻 第2BWV847より)

 

🎵サクソフォンの「てぃんさぐぬ花」、ゆったりとした抒情を高らかに心休まる演奏。アンコール「BASQプレリュード」、鎖がどうしても解けない、その硬質なものがもがく、あがく、叫ぶ。現代的、都会的なセンスが一枚のタピスリを織り上げる。けさ聴いたのはつまるところこの2曲だけ。きのう番組を見て楽しみにしていたわけだが、残念だった。特に「和樂」「津軽じょんがら節」に期待していたわけだが。ネットに出ているか、或いは待てばそのうち再放送もあるだろう。2曲だけでも才気を感じさせる。一応演奏予定とネットに出ていた番組の曲をぜんぶ書き出しておいた。

 

🎧名曲アルバムはグリークの「ピアノ協奏曲イ短調」。横山幸雄のピアノ。

⛳7時5分更新

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210121 クラシック倶楽部を聴く カナディアン・ブラス

50年にわたり金管五重奏の音楽をけん引し、世界中の聴衆をとりこにしてきたカナディアン・ブラス。確かな技術と豊かな音楽性で紡ぎ出されるスーパーサウンドをご紹介。 【出演】カナディアン・ブラス ブランドン・ライデナワー(トランペット)ケイレブ・ハドソン(トランペット)ジェフ・ネルセン(ホルン)アキレス・リアルマコプーロス(トロンボーン)チャック・デーレンバック(テューバ)【曲目】トッカータとフーガ ニ短調 BWV565(バッハ作曲ミルズ編曲)リベルタンゴ(ピアソラ作曲バーグストーラー編曲)ほか【収録】2020年2月1日  武蔵野市民文化会館 大ホール―番組紹介よりー

 

☆「ジャスト・ア・クローサー・ウォーク・ウィズ・ジー」黒人霊歌:作曲、ギリス:編曲
☆「戦いのガイヤルド」シャイト:作曲、カナディアン・ブラス:編曲
☆「トッカータとフーガ ニ短調 BWV565」バッハ:作曲、ミルズ:編曲
☆「ビートルズ・オン・ブラス」レノン/マッカートニー:作曲、ライデナワー/デドリック:編曲
☆「ライト・ナウ」ロングストレス:作曲、ライデナワー:編曲
☆「リベルタンゴ」ピアソラ:作曲、バーグストーラー:編曲
☆「ロンドンデリーの歌(ダニー・ボーイ)」アイルランド民謡:作曲、ハドソン:編曲
☆「デキシーランド・トリビュート」ヘンダーソン:編曲

🎵カナディアン・ブラス、伝統をまもり、未来をめざし、ブランドンいうに「今のこの瞬間がいちばん大切」と。もともとは子どもたちとの活動、子どもたちのために演奏していたのが、やがてはカーネギーホールに、世界にと。バッハからビートルズ、ソプラノからバスまでを5声、それぞれの個性をアンサンブルに反映させての演奏。演奏者自身がカナディアンを聴いて育ったとも。
 5人が黒のパンツスーツにオレンジ色のネクタイ、スニーカーで、黒人霊歌「ジャスト・ア・クローサー・ウォーク」を演奏しながら観客席に登場。客席のあいだを縫ってステージに。この曲を演奏しながら登場するのがこの楽団の定番であるという。続く「戦いのガイヤルド」。何と、ここまでがアンコール曲。時々時間の関係でできないこともあるので先にアンコールを演奏。これからがプログラムにある演奏です」とユーモアたっぷりの日本語挨拶。
 そしてバッハの「トッカータとフーガ」。軽さ、光の軽さとでもいおうか、そんな明るい響きを巧みに響かせながらも荘重さも感じさせる。ここで逆なりにパイプオルガンの響きが思いだされ、パイプオルガンの地を圧する地のすべてをおおう壮大な響きのすごさを再確認させられたような。「ビートルズ・オン・ブラス」ではビートルズナンバーから3曲を。トランペットで「イエスタディ」。トロンボーンで「ブラック・バード」、これは黒人女性を傷つきながらも飛びたつ黒い鳥にたとえた応援歌。続く「ケニ・レイン」。「リベル・タンゴ」。「ロンドンデリーの歌」。
 それにしても、このブラス使用の金管の美しさは! 譜面台や天井に並ぶライト、演奏する指のうごきなどが輝く金色のラッパの曲面に映りこみ繊細にうごき流れている。どこかの頁でアメリカのどこぞで製作されたものと出ていたけれども、華麗、流麗という感じが。
 ディキシー・ランドジャズ、発祥はニュー・オリンズ。1917年にニューオリンズに登場し、ニューヨーク、シカゴに移動して広まったのが190年か。1917年というと大正6年。たしか最初は大阪の道頓堀あたりで盛んに鳴っていたはず。しだいに東京へと。

 五重奏のディキシーランドジャズ「ハイ・ソサィエティ」、「ブラック・ボトム・スクンプ」、「テューバ・タイガー・ラグ」、軽々とチューバを自在に振り回し振り回されるチャックのパフォーマンス。せっかくのサービスに観客の反応はちょっと遅いのが残念。また3人の奏者が歌声を聴かせてくれた。ユーモアたっぷりな実力派金管五重奏、朝の空気を清々しく震わせてくれました。

ところで、アイルランド民謡は清楚で懐かしく澄んだ空気を思わせ心魅かれるのだが、どんなもながとググってみると、スコットランドの釣鐘草 変奏曲 イギリスの歌メドレー(ロッホ・ローモンド~アニー・ローリー~ロング・ロング・アゴー) サリーガーデン ロンドンデリーの歌 春の日の花と輝く 庭の千草(菊) 思い出のサリーガーデン と出てきた。これら一曲一曲をさらに旅してみたいもの。

🎧名曲アルバムはシューベルトの「ぼだい樹」でした。三原剛のバリトン。「冬の旅」にある楽曲。この一曲だけでも、これを生涯の課題とする方がいらっしゃることに肯ける気が。

⛳曇り空の下に除雪するすがたがそちこちに。たとえ部屋の空気は人の活動に適した温度でも、からだのどこかがことしの寒さをキャッチしていて細胞、臓器のエンジンのかかりが遅いのではなどと思ううち、はたと、厳寒のさ中にハウスの中で真っ赤に熟しているイチゴを思いだし、やはりこの緩慢さは怠慢なのだろうと結論。

更新は9時ではない、9時に2分前

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210120 クラシック倶楽部を聴く 上野耕平 サキソフォン・リサイタル

【出演】上野耕平,高橋優介「ファンタジー」ベダール:作曲,(ソプラノ・サクソフォン)上野耕平,(ピアノ)高橋優介ほか

20191124日豊岡市民会館文化ホール。ー番組紹介よりー

 

上野耕平:1992年茨城県出身。ベルギーのアドルフ・サックス国際コンクール第2位。
高橋優介:1994年千葉県出身。第10回東京音楽コンクール第一位。上野耕平とは2010年から共演。

 

☆ベダール:ファンタジー

参考D.ベダールは1950年、カナダに生まれた作曲家で、オルガンの作品が有名です。
ファンタジーは1984年に作曲された作品で、サクソフォンの、特にソプラノ・テナーサクソフォンのレパートリーの中で有名で重要なものとなっています。

☆トマジ:バラード

参考アンリ・トマジ(1901-1972)はフランスのマルセイユに生まれた作曲家で、1927年には、当時の作曲家にとって最高の栄誉とされた「ローマ大賞」を得ています。この曲は1939年に作られ、作曲者の親友で当時世界最高のサクソフォーン奏者として活躍していたマルセル・ミュールに捧げられました。

 タイトルにある「バラード」とは、もともとは詩の一形式を表わす言葉でしたが、18世紀以後は、物語の内容を持った器楽曲のタイトルにつけられるようになりました。このトマジ作曲の「バラード」も楽譜にはS.マラールの詩が添えられています。マラールの詩の内容はとても叙情的なもので、曰く「ためらいがちに鳴り響くサクソフォーン」がひとりの道化師を苦悩と絶望から立ち直らせるものとして登場します。

トマジのバラードに寄せる上野耕平のコメントは
秋がいちばん好き。これから冬に向かう何とも言えない美しさ、寂しさ。この秋のにおいが大好き。僕が好きな音楽はそういう音楽が多い気がする。いい音楽だなと思うのが夕焼けっぽかったり、秋っぽかったり、なんかこう散ってゆく枯れてゆく美しさというのがトマジの曲からも感じられる。人間の明と暗を描いているような、それを音楽でうまく表現しているというか、なんかこう、背中から漂う哀愁を感じる曲ですかね。

☆フランク:バイオリン・ソナタ

ふつうはバイオリンとピアノで奏されることが多いこの曲を、上野がアルト・サクソフォンで演奏。

上野耕平のコメントは
理想はあたかもサクソフォンのために書かれたかのように聴こえてほしい。ピアノパートがとても充実してて、今回共演する高橋君はバイオリンと葉もう数多く共演しているんですが、サクソフォンとははじめて(?)。バイオリンだと音量の問題でどうしてもピアノはおさえなくてはならないところがあるんですが、サクソフォンとはそういう心配は一切要らないので、ピアノものびのび弾いてくれると思うので、きっとバイオリンとピアノで聴けるのとはまた違ったフランクのバイオリン・ソナタを聴いていただけるんじゃないかと思います。

 

🎵トマジの「バラード」、拘泥することなく頓着することなく、角にぶち当たることもなく流れゆくのだが、しだいに秋、たたずんで水底の枯葉を見、秋の華やぎ紅葉を見まわし、自分は自分だという立ち位置を見出して閉じたような。フランク「バイオリン・ソナタ」、サクソフォンの方はバイオリンよりも広く切々と且つ高らかに訴えかける効果があるように感じられしみ込んだ。

 

🎧名曲アルバム。ジャズアレンジの「浜辺の歌」。TENDREの歌。定番を聴きなれた耳にはちょっと肩透かし。今はこの軽さがほどよいか。「はまべ」と標題を記した自筆譜に大正にタイムスリップ。

⛳ちょっと覇気が緩んだかで、日漸う高くなって雪も解けだす8時50分更新。

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210119 クラシック倶楽部を聴く ハインツ・ホリガーと仲間たち

80歳を迎えたホリガーは言う。「時計の針は人生を計るものではない。私は続けられる限り、演奏し、指揮し、作曲する。」信頼する仲間との絶妙なアンサンブルを放送するー番組紹介よりー

ハインツ・ホリガーは1939年生まれ。スイス出身のオーボエ奏者、指揮者、作曲家。演奏家としてバロック音楽から現代音楽までの作品に取り組む。作曲家としてさまざまな楽器の可能性を追求した作品を発表。

<演奏者>       
オーボエ、指揮:ハインツ・ホリガー
オーボエ、イングリッシュ・ホルン(*):マリー=リーゼ・シュプバッハ
ファゴット:ディエゴ・ケンナ
コントラバス:エディクソン・ルイース
チェンバロ:桒形亜樹子

<曲目>
J.S.
バッハ:トリオ・ソナタ第1番 変ホ長調 BWV525
細川俊夫:『結びハインツ・ホリガーの80歳の誕生日を祝して』(2019)
ハインツ・ホリガー:『Klaus-Ur(クラウス・ウール)
ゼレンカ:二つのオーボエ ファゴットと通奏低音のためのソナタ第5番 

 

🎵バッハとゼレンカを主に。バッハとゼレンカは交流があり、バッハがドレスデンにいた頃には、ゼレンカはバッハをよく訪れていたという。バッハの方もゼレンカには興味を持ち、バッハの息子にゼレンカの曲を写譜させていた。才能がある者同士は互いにその存在を意識し合うものかと思う。ただ、バッハの曲にはやはり神へのささげものである軸からの片よりは感じられず、ゼレンカの曲からは、世俗的な、「俗」という文字を当てはめるのは行き過ぎかとも思うが、同じような華やかさ、空気感、音の通りの良さでも、世に一脈通じるような気配、気分が感じられる。バッハとゼレンカの時代には、ロココ、感傷的な音楽もあったらしく、そちらの影響が入ってきていたのかとも。あとでそちこちのブログをぐぐっているうちに、ゼレンカの5番を「貴族的遊戯」と評していた方がいたが、まさしくの感。バッハ、ゼレンカが亡くなった後は信じられないことだが世に忘れられたふたり。バッハのマタイ受難曲を世に出したのがメンデルスゾーンだったが、ゼレンカを世に出したのはスメタナであったようだ。
 細川俊夫の「結び」。こんどはどう感じるだろうと興味津々で。ホリガーが贈り物をするときに布の端と端を結び合わせる、これは風呂敷のことかと思ったが。これがホリガーの80歳の誕生プレゼント曲。オーボエとイングリッシュホルンのデュエット。出だしには雅楽のような感じ。しだいに能楽を聴いている気がして、能面がイメージに現われると、それが脳裡から容易には去らず、ついに最後まで舞い続けていた。ところどころに和楽器の鼓が入っても不自然ではないと思われた。笙や篳篥をきいているような気分にも。ただこの和楽器、オーボエとイングリッシュホルンとの性能には格段の差があり、音域や技術的なことはよくわからないが、現代の楽器だからこそこの曲のように緻密で細やかな演奏も可能であり、幽玄ではあるけれども且つ現代的な仕上がりとしても聴かせるものになっているとも思われた。ホリガーの「Klaus-ur」、たえず炸裂するもの、大きくも小さくも火花を散らすもの、明滅するものの表現か。うめきというよりも見えないもの掴めない空間の呻きに意識の明滅とも。すごい感性の持ち主と。いちど聴いたら忘れない。譜面はいったいどう表記されているのだろうと。通常連なりうる旋律の埒外に見出した音符というには乾いた現代的な衝撃的な音なのだが、何れ平板と平板との間隙から拾い弾き集めたかのよう。最後部分のそれが点のように遠景となり締めくくられる。異形の造形なのだ。

ホリガーは音楽がなければ窒息するという。彼の肺呼吸は音楽。ヨーロッパの若者たちは物事への興味を失い老いている。人生は時計、時間では測れないものらしく、年齢はといったか、それは相対的なものであると。以前にも聴いてはいるのだが。何れ音楽がホリガーの人生のエネルギー源となっている。

相対的な齢を重ねるホリガー、そして仲間たちを、今朝も新鮮に聴いた。

 

🎧名曲アルバムはプッチーニ「ある晴れた日に」。木下美穂子のソプラノ、切々と。
蝶々夫人は宣教師サラ・ジェーン・コレルが出入りの商人から蝶々さんのはなしを聞き、それをアメリカにいるサラの弟が小説に書いたものだとか。

⛳けさは雪。降雪らしい降雪。クラシック倶楽部が始まる前に窓外を見ると、街路灯の下に落ちる電線の影が雪を散らしている。除雪車はまだ入っていないと、クラシック倶楽部を見て一曲終わったところでまた見ると、きれいに除雪されていた。5時ごろにはこの辺りの主な道路の除雪は完了したと思われる。日本海側の雪に比べると弱音を吐くレベルではない。殺人鬼コロナ、殺人鬼積雪、殺人鬼経済(これもコロナの仕業。どこからどこまでがコロナのせいで、どこからどこまでが政治責任で、どこからどこまでが個人の責任なのか)。3重苦のこの冬。
9時6分更新

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210118 クラシック倶楽部を聴く マテュー・デュフォー フルート・リサイタル

マテュー・デュフォー フルート・リサイタル

20歳でトゥールーズ・キャピタル管の首席就任、以降各地の名門オケの首席を歴任。2015年にはベルリン・フィルの首席に。ソロでも活躍するデュフォーの美音は必聴!―番組紹介よりー

 

【曲目】

プーランク:フルート・ソナタ

ミヨー:フルートとピアノのためのソナチネ op.76

ライネッケ:フルート・ソナタ ホ短調「ウンディーネ」op.167

【演奏】

マテュー・デュフォー(フルート):1972年パリ生まれ。8歳から本格的に始める。現在ベルリン・オーケストラ首席奏者。
浦壁信二(ピアノ):1969年生まれ。都立芸術高校、パリ国立高等音楽院に学ぶ。国内外の演奏家と共演。洗足楽員音楽大学客員教授。

【収録】2019年7月30日 武蔵野市民文化会館(東京都武蔵野市)

🎵デュフォーいうに、器楽はみな歌うような演奏を心がける。声は最も原始的な楽器だが声をイメージして歌うような演奏を心がける。フルートは声にいちばん近く、息と音がフルートに歌いかけるように息と戯れながら、フルートと戯れるように奏するのだという。また美しい音とはポジティブな感情もネガティブな感情も伝わる音のことで、変化や柔軟さがあってこそ音楽で、物語を語りメッセージを伝えられる音なのだと。何れ美しいだけの音は厭きられるとも話している。

 3人の作曲家による、それぞれの色合いをもったフルートの音。「ウンディーネ」、水の精を歌うフルート。時として陰影も伴う奥行きのあるフルートにピアノがけっこうドラマを付加してくれる。水の面をすべり揺らぐものがしだいに森の木立のかしこにあすをかなしく希望をさがしめぐるという感じが。悲しく呼ぶような、はたまたそれが木漏れ日に慰められてでもいるような魂のひとり歩き。第2楽章でアクティブに。いいじゃないの、これで、けっこうこれも愉快愉快と聴こえてからは解放されたような伸びやかさ。次楽章、それこそ、こうか、ああかと歌うような。終章、追いかけるのはピアノかフルートか、フルートかピアノかと華麗に勢いづく先の静けさ。

🎧名曲アルバムはマトス・ロドリゲスの「ラ・クンパルシータ」(バンドネオン)小松亮太(演奏)オルケスタ・ティピカ ~ウルグアイ・モンテビデオ~ー番組紹介からー
1917
年第一次大戦のさ中の初演。ロドリゲスが学生だったときに、仲間との行列行進のために作ったとか。ものすごい勢いで世界を席巻したらしい。久々に聴くバンドネオンは小松亮太。

 

⛳きのうのクラシック音楽館、武満というのでつい聴いてしまった。あの管の横割り、縦割りの配置は、やはり会場にいてこそ聞き分けられる効果のように思った。「武満さんには悪いけど」と鈴木独自の管配置だったような。ラーション、ベルワルド、ともに初めて聴く楽曲。コレギウム・ジャパンの顔、鈴木雅明の今一つの顔を指揮に見る。

そういえばフジコヘミングが新刊を。インタビューで「最も美しいものは音楽と自然」と。同感。

真冬日となりそうなきょう、しかし写真日和。そう思う日はあっても、なかなか実行に移せないでいる。コロナって何か根を生やす促進作用もあるようで、外出が億劫になってきている。

朝食1時間はさんで、9時12分更新。

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きょうのことば

インマヌエル盛岡キリスト教会2021110日の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『主は私の羊飼いー4』  (國光勝美 牧師)

聖書引証 旧約聖書 詩篇23篇1~6

ダビデの賛歌
1
主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
2
主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。
3
主は私のたましいを生き返らせ 御名のゆえに 私を義の道に導かれます。
4 たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。 あなたが ともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。
5
私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え 頭に香油を注いでくださいます。 私の杯は あふれています。
6
まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。 私はいつまでも 主の家に住まいます。

(前回の復習は割愛いたします)

きょうは、詩篇233節「主は私のたましいを生き返らせ 御名のゆえに 私を義の道に導かれます。」このおことばに集中して恵みをいただきたく願っております。

「主は私のたましいを生き返らせ」。聖書の中で、たましいというのは、私を私たらしめているいちばん根源的な本質的なものです。その私を私たらしめているいちばん大切な私のたましいを生き返らせるのがよき羊飼い。よき羊飼いに出あう以前は、私たちは死んでいた者だということです。「生き返らせ」とありますから、それまでいのちの根源である神様から離れていた私たちが、まことのいのちそのものでいらっしゃるイエス様によっていのちが与えられた。これを新生の恵みと言います。誰でもこのよき羊飼いに出あうまでは、私たちは罪の中に死んでいたものです。時代がどうであろうと聖書は言います。このイエス・キリストは私たちの罪の身代わりとして死んで、そしてよみがえってくださった。そのいのちに与って、初めて私たちはいのちを得るのです。罪を悔い改め、イエス・キリストを信じたとき、私たちは新しいいのち、ほんとうのいのちを得ることができます。その意味で、主はわたしのたましいを生き返らせてくださるのです。

 

しかし、もう一つ、私たちはきよめの恵みというものをいただいて生きる。

これを新約聖書ガラテヤ人の手紙第51621節。
16
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。
17
肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。
18
御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。
19
肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、汚れ、好色、
20
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
21
ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。

 「主は私のたましいを生き返らせ」というとき、私たちを新たに生まれ返させてくださるとともに、御霊によって歩むきよめの恵みにも導いてくださるということを覚えたいと思います。

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 そして旧約聖書のサムエル記第一1522

22 サムエルは言った。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに 喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

 神様は聖書の中に、神様のお声を聞き、そして神様の御声に聞き従う。よき羊飼いの御声に聴き従うということを喜ばれます。このようにして歩んでいくときに、私たちは詩編23篇「主は私のたましいを生き返らせてくださる」ということを納得するのであります。

 

 そしてここ詩篇23篇の3節に「御名のゆえに」とございます。きょうは旧約聖書をお読みするだけになりますけれども、
エゼキエル書3622

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22 それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう言われる。イスラエルの家よ。わたしが事を行うのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った国々の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。

 私たちが義の道に導かれる、正しい道に導かれる、肉の行いから離れていのちの道を歩む、聞き従って行くことは、神様が、これはあなた方のためと言うよりはむしろわたしの名のためであるというのです。神様ご自身のお名前のために、私たちをそのようにする。つまり、詩篇23篇の祝福というのは、このポイントを捉えていただきたいのですが、 詩篇23篇の祝福と言うのは、あなたがたのためにそうするのではない、そうではなく、わたしがよき羊飼いだから、そしてわたしの声に従って行く羊がどんなに大きな祝福を受ける生涯を歩むことができるのかということをあなた方に示すのは、それはあなた方がかわいいからとかあなた方を慈しむからということが第一義的なことではなく、わたしの名にかけて、わたしが私だから、わたしの名にかけてわたしは私の声に聞き従って行く者を必ず祝福する。ダビデはこのことを自分の生涯において確かにそうだったと振り返っている。ダビデは、自分の生涯で、たしかに主に従って行ったこともあった。けれどもついこの世の中の誘惑に負けて、大きな罪を犯してしまったこともあった。また自分の虚栄のために、また自分がどんなに偉大であるかという事を示すために、神様の喜ばれない政策をして、多くの国民が命を失うという大きな禍さえも彼は国に至らしめました。しかし、失敗の多い弱さを持ったダビデでしたけれども、ほら、私の声に聞き従っていてごらん、必ず祝福してあげるから。このように言われるのであります。「御名のゆえに」なのです。神様は私たち一人ひとり、ご自身の名にかけて祝福して下さる。ことし詩篇23篇が与えられておりますが、大きな力であり拠り所です。

 

「私を義の道に導かれます」。アブラハムが神の前に義と認められた、これは創世記のところにありますけれども、アブラハムが神様のことばを信じた、それが彼の義と認められた、とあります。彼は、正しい行いをしたから神の前に義と認められたというのではない。彼が主を信じた。詩篇23篇の祝福して下さるという主を信じた。この時、それが、彼の義と認められることになった。すこし専門的な表現になってしまったかもしれませんけれども、私はことし、23篇、神様がご自身のきよい御名にかけてわたしの声に聞き、私の声に従って行く者を必ず祝福してあげる、そして義の道、これはいのちの道といっていいでしょう、そこに主が必ず導いてくださる。この詩篇23篇の神様を愚直なまでに信じて従って行く羊であらせていただきたい。このような私たちの群れであらせていただきたい。これがこの朝のメッセージであります。

 

※画像は教会からお借りしています。
⏰一昨日は異音がしてパソコンが壊れたかと思いましたが、またサクサク感がもどり更新できました。6時26分。

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J-MERO ざっと

J-MERO フレッシュMay J.リモートでインタビュー、ゲストは宮沢和史、BAND-MAID、超ときめき宣伝部

宮沢和史のコメント。
これから音楽家はどうなるんだろうと立ち止まらざるを得ない、誰かが何かを始めないとなにもはじまらないだろうなという気運もありましたし、一方で、近い現場からクラスターが出たというニュースもあり二の足を踏んでる状況で、逆にどうしたらできるのかを模索しようということで、コンサートのプロデューサー、スタッフ、会場を貸してくださる方も非常な決断が要ることだと。みんなで時間をかけて話し合って、配信と言う形とライブと言う形を同時に実験的にやってみた。コンサート自体は非常に成功。とはいえそれから2週間後に何事も無ければ成功なので、何事もなく胸を撫でおろした。現地の照明さん、音響の人、みんなが気持ちを一つにして、音楽を届けるという気持ちを一つにしないと難しい作業だなということも分かったこと。

 「次世界」について、これからの道のりはそういい事ばかりじゃない。けっこう困難も待ち受けている。それを噛みしめていく時代。困難が待っているかもしれないけれども、今までにない喜びも待ってるかもしれない。次の世界へ皆で肩組んで行こうじゃないかという曲。サウンド的にはヘビーな部分も、ロック的な要素も強い。メッセージは前向き。ただ無責任にただ未来は明るいよという歌は歌いたくないという宮沢節。

 環境の崩壊など現実的な問題提起も視野にあり、厳しい先々のどのあたりに次世代を探りうるのかの問いの投げかけかとも。

 ⛳7時2分更新

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210115 クラシック倶楽部を聴く ズーラシアン オーケストラ

「ズーラシアンフィルハーモニー管弦楽団」は、動物たちによるオーケストラ。独自のアレンジやユニークな演出で子供たちに大人気の演奏会をお届けする。 【出演】ズーラシアンフィルハーモニー管弦楽団【曲目】祝典序曲 作品96(ショスタコーヴィチ)どんぐりころころ ~オケにはまってさあ大変!~(高橋宏樹 編曲)行進曲「威風堂々」第1番(エルガー)ほか【収録】2020年10月23日 東京オペラシティ コンサートホールー番組解説よりー

曲目
祝典序曲 Op.96 (作曲:ドミートリイ・ショスタコーヴィチ)
どんぐりころころ〜オケにはまってさあ大変! (編曲:高橋宏樹)
ソーラン・ブラス (作曲:北海道民謡/ 伊藤多喜雄 編曲:山口尚人)
この素晴らしき世界 (作曲:ジョージ・デヴィッド・ワイス/ ジョージ・ダグラス 編曲:石川亮太)
悲愴 (作曲:ベートーヴェン)
きらきら星 (フランス民謡 編曲:高橋宏樹)
闘牛士のマンボ (作曲:モンテルデ・ベルナルディノ・バウティスタ 編曲:高橋宏樹)
行進曲「威風堂々」第1番 (作曲:エドワード・エルガー)
アンコール 幻想曲「かごめ」(石川亮太)

 

🎵どこがどう演奏されたかよりも、とにかく楽しく癒される楽団。服装は一般的なクラシックスタイルなのだが、頭にはみなすっぽりと動物の仮面。ズーラシアンブラスのときには絶滅した動物だけが登場。しかし、今回のオケでは弦ウサギや打楽器担当でナマケモノも登場。まだほかにも絶滅していない動物がいたかもしれない。とはいえ生き物すべてが絶滅危惧種の観を呈している昨今ではある。

 「どんぐりころころ〜オケにはまってさあ大変!」、なにが転がり出るかと思いきや、ベートーベン5番シンフォニー、展覧会の絵、ブラームスのハンガリー舞曲、ヴィヴァルディの四季、ヨハン・シュトラウスのトリッチ・トラッチポルカ、ドボルザークの新世界、パッヘルバルのカノン、チャイコフスキーの序曲1812、エルガーの威風堂々、ビゼーのカルメン前奏曲、この10曲の超有名なフレーズが次々に。どんぐりコロコロの節々の間に転がり込んでいた。ズーラシアンの「悲愴」は何と優しく夢見るような世界!「きらきら星」でなぜか度々現れては雑音を鳴らして演奏をかき乱し、ずっこけそうな指揮者、演奏者。会場からカバを呼んでいるか、子どもの声がしていたが、ほんとうにとても静かに見てはいられない楽しさ温かさ。

 

名曲は「偉大な芸術家の思い出」。チャイコフスキーがニコライ・ルビンシティンの死を悼んで作曲。

 

きょうは真冬日でも日差しが輝く1日になりそう。写真を撮るには絶好の日。7時更新。

 

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210114 クラシック倶楽部を聴く  ニルス・メンケマイヤー 室内楽演奏会

メンケマイヤーは2006年バシュメット国際ビオラ・コンクール覇者。ビオラが特に重要な役割をつとめる室内楽の名曲を、名手メンケマイヤーの演奏でお送りする。ー番組解説よりー

ビオラが重要な役割をつとめる室内楽の名曲を、名手メンケマイヤーの演奏でお送りする。ドイツ・ブレーメン出身のニルス・メンケマイヤーは、2006年、ユーリ・バシュメット国際ビオラ・コンクールで優勝した俊英。「ビオラは天国と地上の間にある楽器です。光り輝くバイオリンに対し、ビオラは影と憂いの楽器。暗く陰影を帯びたビロードのような音色が、心に奥深いところに訴えかけてきます。(メンケマイヤー)」

楽曲

☆「バイオリンとビオラのための二重奏曲 K.423から 第2楽章」モーツァルト:作曲
(バイオリン)山根 一仁、(ビオラ)ニルス・メンケマイヤー
☆「ピアノ、クラリネットとビオラのための三重奏曲 変ホ長調 K.498」モーツァルト:作曲
(ピアノ)島田 彩乃、(クラリネット)コハーン・イシュトヴァン、(ビオラ)ニルス・メンケマイヤー
☆「ビオラ・ソナタ第2番 変ホ長調 作品120第2」ブラームス:作曲
(ビオラ)ニルス・メンケマイヤー、(ピアノ)島田 彩乃

 

🎵「ピアノ、クラリネットとビオラのための三重奏曲 変ホ長調 K.498」、ビオラはバイオリンが添い鳴っていて自然というパターンに親しんでいるせいか、バイオリンのない曲をきいていて、その1オクターブ上あたりをバイオリンが鳴っているように、これは幻聴に近い感じなのだが、そんな感じに捉えられることがある。この曲、ジョークを飛ばしながらのことばの戯れのような。「ビオラ・ソナタ第2番 変ホ長調 作品120第2」、これは、ビオラが確固たる立ち位置を得、陣取って鳴り響いているという感じ。ブラームスはよくわからないが、人の底の想いを持ち上げ芸術上の市民権を得させてくれているかなと。番組解説にもあったが、WIKIにも、これはブラームスが晩年になって創作意欲を失っていたところ、名クラリネット奏者リヒャルト・ミュールフェルトの演奏に刺激されて立て続けにクラリネット作品を作曲したが、ブラームス本人によってビオラ用に書かれた曲。やはり、これもクララ・シューマンに批評を求め、またロベルト・シューマンの影響もあるのかもしれない。このところは、磯部周平の研究に詳しいらしい。

🎧名曲アルバムはプーランク「愛の小径」
波多野睦美のメゾ・ソプラノが自然な感じで耳に。二次大戦中、ドイツにパリが占領され、プーランクはパリの南230キロのノワゼーに疎開。こんなさ中にパリ公演ができる日を信じて作曲された一つがこの「愛の小径」。エスプリが効いた一曲との番組解説。

⛳外気温は1℃程度か、日中は3℃までにはなりそう。いくらかは雪も解けるだろう。7時更新

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210113 クラシック俱楽部を聴く マット・ハイモヴィッツ&児玉麻里

1970年イスラエル生まれのチェロの鬼才、マット・ハイモヴィッツ、そしてパリを拠点に活躍する国際派のピアニスト、児玉麻里のデュオ・リサイタルから。ー番組解説よりー

マット・ハイモヴィッツ1970123日生まれ、イスラエル・テルアビブ地区バト・ヤム出身のチェリスト。5歳より米国で育つ。13歳でメータ指揮イスラエル・フィルと共演、18歳の88年にレヴァイン指揮シカゴ響をバックにドイツ・グラモフォンに初録音するなど神童として華々しいデビューを飾る。その後、バロックから現代、さらにジャズ、ロックとジャンルの枠を越えた多彩なプログラムに挑戦。近年はベートーヴェンのチェロとピアノのための作品全曲集、J.S.バッハの無伴奏チェロ組曲を経て、シューベルトのアルペジョーネ・ソナタと弦楽五重奏曲を録音。

児玉麻里 大阪生まれ。6歳で渡欧。14歳の時、最年少、最優秀でパリ国立高等音楽院に入学。ピアノをジェルメーヌ・ムニエ、タチアナ・ニコラエワ、アルフレッド・ブレンデルに、室内楽をジュヌヴィエーヌ・ジョア・デュティユに学ぶ。17歳でプルミエ・プリを獲得して卒業。同年、同音楽院のマスター・コースに進み、19歳で修了。この間、数多くのコンクール等で、優勝、上位入賞を果たす。
 同音楽院を修了後すぐに、ロンドン・フィルとバービカン・センターで共演、ロンドン・デビューを果たす。更に同年、クィーン・エリザベス・ホールで、ロンドンでのリサイタル・デビュー。「これほど若くて感受性に富んだピアニストには会えない」と賞賛された。1995年にはカーネギー・ホールでニューヨーク・デビューを果たす。また1999年からロサンジェルスにて、2003年から東京の浜離宮朝日ホールにて、「ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全曲演奏会」に取り組み、高い評価を得た。

 

☆ベートーヴェン: ヘンデルの『ユダス・マカベウス』の主題による12の変奏曲

☆ドビュッシー: チェロ・ソナタ
☆プーランク: チェロ・ソナタ

 

こうなれば正直に書くしかないのだが、けさの視聴はドビュッシーのチェロ・ソナタの第3楽章からとなった。朝寝坊と言うよりはあれこれ余計なことを思い巡らすうちに時を逸した。だいたい早朝に目覚めて考えることにはろくなことがない。このことからも、朝いちばんには聖書を開いて祈ることとの教えは間違ってはいないのだ。
音楽のことからすこし逸れたけれども、たしかハイモヴィッツは華々しいCDデビューから30年経っての来日だったような。師の代役でカーネギーホールデビューという幸運も。けさはまだ頭がもうろう状態。それと同じようにと言っては失礼で、これは世界的な奏者と自らを引き比べるなどあってはならないと心得てはいるのだが。しかし、どんな天才にもさて今からステージだというときに、なぜか弾くきになれない、体調が悪い。曲の気分になれないということもあるかと思う。それでもプロであるからには、とにかくステージに進み出て、プログラムを一通りこなさなければならない。これ一つとってもやはりプロはすごいと。

ベートーベンの「ヘンデルの『ユダス・マカベウス』の主題による12の変奏曲」は聴けないでしまった。ドビュッシーは樹木の影がそちこちに横たわっているその影を踏んで歩いているような思いで、そしてプーランクはなかなか叙情てきであり、ドラマティック。

名曲アルバムはモーツァルトの「プラハ」。当時のプラハでのモーツァルト人気のすごさを知る

クラシック倶楽部、書き落した曲もあるかもと危ぶみつつ7時5分更新

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210112 クラシック俱楽部を聴く ギル・シャハム バイオリン・リサイタル 

名手ギル・シャハムによるバッハの無伴奏パルティータ、そしてシャハムが「すばらしい音楽の達人」と評するピアノの江口玲との共演でフランクのバイオリン・ソナタほか。ー番組解説よりー

ギル・シャハム:1971年アメリカ、イリノイ州生まれ。幼少期にイスラエルに移住。10歳でエルサレム交響楽団との共演でデビュー。その後著名なオーケストラ、指揮者と共演。今日のバイオリン奏者を牽引する一人。
江口玲:東京都出身。東京芸術大学作曲科卒。ジュリアード音楽院でピアノを学ぶ。洗足音楽大学大学院、東京芸術大学で教鞭を執る。

クライスラー: プニャーニの様式による前奏曲とアレグロ
『プニャーニの様式による前奏曲とアレグロ』も、ヴァイオリンとピアノのための演奏会用小品のひとつ。冒頭、マルカートの4分音符のみで提示される全22小節のアレグロ主題は、聴く者の魂を揺さぶるかのような強い意志と悲劇性を帯びている。やがて16分音符を中心にした技巧的な変奏曲が続き、重音を駆使した畳みかけるようなフレーズによって劇的なクライマックスを形づくる。なおこの作品は、当初、クライスラーが演奏旅行先の図書館で発見したイタリアの作曲家ガエターノ・プニャーニ(17311798)の未発表曲の編曲として発表されたが、後にクライスラー自身が自作であると告白し、一大センセーションを巻き起こした一連の曲のひとつである。通称「作曲者詐称事件」
J.S.バッハ: 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番 ホ長調 BWV1006
フランク: ヴァイオリン・ソナタ イ長調

🎵シャハムと江口の会話にはシャハムの人間味あふれる人柄が伝わってくる。シャハムは長い間バッハを弾いておらず弾くのが怖いというのだが、江口が、私にとってシャハムのバッハは完璧で僕の大好きなバッハだ、シャハムはバッハのすべてを引き出してくれるという。シャハムの曲解釈の誠実さ正直さも。ふたりの会話が実に互いを輝かせるという爽やかさ。シャハムいう「玲のような共犯者と“悪だくみ”」しながらの30年もの共演。続いた所以がここに。「アキラの演奏は隙が無く曲が巧みに完成されている」とも。。シャハムが「バッハほど喜びをもたらす音楽家はおらず、バッハを弾くと良い人になったような気がする」と。また歴代の作曲者たちをあげ、ポップ・ミュージシャンさえもバッハとつながっていると話す。意外だったのは、シャハムが「バイオリンはスマートホンのようなもの。使いこなせない。少しずつこのマシンのすばらしさを発見しつつあるところ」と。二人のこの関係は確かに演奏に反映されており、互いが互いの個性を引き出し互いが存分に自らの演奏を充実させているという感じが。
 クライスラーの「プニャーニの様式による前奏曲とアレグロ」、この曲に関しては別なブログから引いておいた。クライスラーという人物を知る一つの手がかりであるかと。
 バッハの「無伴奏バイオリンパルティータ第3番」、とにかく風通しがいい。これは前にも書いたことだが、たとえは適切かどうか自信はないけれども、超能力を備えたハウスキーパーが、へやにあるものを次つぎに、一点の曇りもなく見る見る間に磨き上げていく。床、ガラス、天井、照明、ドアノブ、手すり、スイッチ、壺、日常に使う食器の数々。つまりこのへやが筆者の内面なのだが。マイナスの感情を痛みもなく切り落として、すっきりとそのもの本来のありようを取り戻してくれるのだ。ギル・シャハムもいっている「バッハがいてよかった」と。ロンドン風ガボットではもう喜びが満ち溢れている。玲が言ったとおり「シャハムの演奏は、目の覚めるようなクレイトーン、天国にいるような響き」であり、バッハは、シャハムが言うとおり、彼に言わせれば演奏した後はということなのだろうが、聴いたあとには「良い人になった」かの思いにさせてくれるのだ。
バッハは宇宙をも思わせる。賢治のよく挿絵にある夜空を窓灯り連なる列車が星空をひた走っている感じとはすこし違っていて、バッハの宇宙は宇宙の暗さをそのままに透過性を効かせて明るく照らしている。その響きゆえに暗さは暗さとしてあるのだが決して暗くはない、そんな感じなのだ。
 フランクの「バイオリン・ソナタ」。フランクは人生の大半を教会のオルガン奏者として過ごしたようだ。この曲はフランク64歳の作曲。フランクの人生のドラマ展開をシャハムの小気味よい見事な演奏展開で聴かせてくれた。この響き、私には、人生捨てたもんじゃない、人生はすばらしい、これでいい、全ては懐かしい。ドラマもあるさ、涙もあるさ、だけど人生はなかなかわるくはない。全面肯定と聴こえる。
 湧き上がるブラボー。音楽的にだけでなく、シャハムの人柄からもつたわってくる冴えと人間味を兼ね合わせたすばらしい演奏だった。

 

🎧 名曲アルバムはエルガーの「なぞ」。大友直人&東京フィル。
ウースター郊外にあるエルガーの生家。科学にも傾倒、「なぞ」にも暗号が。

⛳けさの盛岡の外気温は-6℃。7時更新

 

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210111 クラシック倶楽部を聴く レーピン バイオリン・リサイタル

世界的活躍を40年以上にわたり続けるロシアの名バイオリニスト、ヴァディム・レーピンがおくるプロコフィエフやチャイコフスキーの名曲アンドレイ・コロベイニコフ(ピアノ)ソナタ(ドビュッシー作曲)、ソナタ第2番(プロコフィエフ作曲)、歌劇「エフゲーニ・オネーギン」よりレンスキーのアリア(チャイコフスキー作曲)2018年7月7日豊田市コンサートホールー番組解説よりー

ヴァディム・レーピン
シベリアのノヴォシビルスク生まれ。11歳でヴィエニャフスキ国際コンクール優勝。17歳でエリザベート王妃国際コンクールに優勝。この回の第2位は諏訪内晶子だった。世界のひのき舞台へ。今日まで一流のオーケストラや指揮者と共演を重ねる。2014年トランス・シベリア芸術祭を立ち上げ、西は中東から東は日本まで様々な芸術をつなぐ。現在、世界で最も活躍する演奏家の一人。 

アンドレイ・コロベイニコフ
1986
年モスクワ生まれ。2004年スクリャービン国際ピアノコンクール優勝。2005年ラフマニノフ国際ピアノコンクール第2位、及び聴衆賞を受賞。作詞、作曲も手掛けるほか、他分野で数々の論文も発表する異色のアーテスト。

レーピンのコメント
「音楽」は旅です。本のようなものでツィッターではありません。もっと厚みがあり、聴き手が私たち音楽家を信頼してくれれば、音楽の美しさ、作品の美しさへと誘うことができます。私たち音楽家は、ツアーのガイドのようなもので、作品の隠れた魅力や普通知ることのない特別なことを知っています。旅人が念入りに探そうとしてもそれは難しいでしょう。私は自分の職業はツアーガイドだと思っています。

「バイオリン・ソナタ ト短調」ドビュッシー:作曲
第一次世界大戦中1917年病に伏していたドビュッシーが作曲した最後の作品。ソナタ形式の中でドビュッシーらしい虚無的な和音が響く。死を前にした作曲家の不安は隠され、曲は生き生きと華やかに展開する。
「バイオリン・ソナタ第2番 ニ長調 作品94bis」プロコフィエフ:作曲
プロコフィエフの晩年の作品。ロシア革命の混乱を避け、1918年にアメリカに亡命したプロコフィエフ。時代に翻弄されながらも欧米各地で活躍し、1930年にはソビエトに復帰。1944年に完成したこの曲には晩年の内省的な表現がうかがえる。
「歌劇「エフゲーニ・オネーギン」よりレンスキーのアリア「青春の日は遠く過ぎ去り」」
チャイコフスキー:作曲。歌劇「エフゲーニ・オネーギン」の名アリアをバイオリニストのアウアー(18451939)が編曲している。決闘を迎えるレンスキーが、人生への未練と婚約者への愛を切なく歌う。
「ワルツ・スケルツォ」チャイコフスキー:作曲
 バイオリンの華やかな技巧と甘い旋律が散りばめられた小品。

 

🎵本当の旅に出ることはない私は、いつも音楽の旅を楽しんでいる。レーピンは自らを音楽のツァーガイドだといっている。レーピンがけさ連れていってくれたところは、たしかに自分では探り得なかっただろう。
 「バイオリン・ソナタ ト短調」、ドビュッシーが死を前に作曲しているのだが、1楽章では、病床にあり、すでに死んだ眼で窓から動く鳥や木の葉のざわめきを眺めているような感じがしたのだ。2楽章ではそれでもなお自分の心音や体の温もりでまだ自分がたしかに生きていることを確かめているような。まだ自分が生きていることの証明を一つひとつ探っているような。この曲の指示には「幻想的かつ軽快に」とあるようだけれども。3楽章は「きわめて活発に」だ。それが自らを生かす音楽への没入、自らを投じていっていると。これはガストン・プーレのヴァイオリン、ドビュッシー本人のピアノによって初演されている。

「バイオリン・ソナタ第2番 ニ長調 作品94bis」、これもプロコフィエフ晩年の作品。いま置かれているところに人生が収められたありとあらゆる箱の内容物が引っ繰り返されというほど物々しくはないのだが、何か人生のそれぞれを混ぜ返しているようにも。そしてまた果てしない旅に出かけていく感じもして。「行ってくるよ」と手をふっているすがた、そしてついに遠くなり先に消えて見えなくなる。

「青春の日は遠く過ぎ去り」、音ながら雄弁な響き。「ワルツ・スケルツォ」、バイオリンに「君を花咲かせてやるよ」とばかりに奏でられる。うち続く庭にありとあらゆる花の艶やかさ、かたちの美しさ、かおりを楽しみながら散策するような気分に。

 文学から受ける文字からの創造は、作者の意図にはめられての場合もあるが、音楽にはことばがない分、自由に幾とおりもの想像が広がる。きょうの夢想が作曲家の意図から多少ずれていたとしても、これぐらい楽しませてもらったのであれば、たぶん作曲家、演奏家からもゆるしていただけるのではないかと。

🎧名曲アルバム「ブランデンブルク協奏曲 第5番」(チェンバロ)有田千代子,(フルート)有田正広,(バイオリン)上野美科,(弦楽合奏)クラシカル・プレーヤーズ東京
バッハの時代、ケーテン城の大広間では毎晩16名の楽士たちが音楽会を催していたとか。バッハに多くの作曲をさせたレオポルト公爵。

⛳現在外は-9℃。7時1分 更新

深刻な雪の被害は災害級。

 

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きょうのことば ー元旦礼拝&新年第一聖日礼拝ー

 インマヌエル盛岡キリスト教会2021年元旦と、1月の第一聖日(3)の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『主は私の羊飼い』 ―元旦礼拝― (國光勝美 牧師)

聖書引証 旧約聖書 詩篇23篇1~6

ダビデの賛歌
1 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。
3 主は私のたましいを生き返らせ 御名のゆえに 私を義の道に導かれます。
4 たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。 あなたが ともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。
5 私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え 頭に香油を注いでくださいます。 私の杯は あふれています。
6 まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。 私はいつまでも 主の家に住まいます。

 けさは、主が詩篇23篇を語りかけて下さったと信仰をもって受け止めております。年末の感謝礼拝にも助走のように開かせていただいた箇所です。これを2021年のおことばとして元旦礼拝、そして、こんどの第一回の礼拝に「主は私の羊飼い」と題して、この詩篇23篇を扱わせていただきます。これを12節とゆっくりと区切って恵みをと導かれております。

 さて、神様は私にとって「主は私の羊飼い」、このようなお方であります。詩篇182節には「主はわが巌 わが砦 わが救い主 身を避けるわが岩 わが神。 わが盾 わが救いの角 わがやぐら」とございますが、天に帰られて久しいS兄にお祈りをお願いしますと、よくこの箇所を引用してお祈りを始められたものでした。神様とは、S兄にとっても私たちにとっても、ほんとうに「身を避けるわが岩 わが神」であります。すばらしい恵みです。

 詩篇23篇はダビデの詩なのですが、「主は私の羊飼い」だとダビデはいっている。神様を「主はわが巌 わが砦 わが救い主 身を避けるわが岩 わが神。 わが盾 わが救いの角 わがやぐら」と捉えるのに比べて、「私の羊飼い」といったときには、そこに神様との人格的な交わりが感じられます。神様は私のことをよくご存知で人格的な交わりを持って下さるお方である。これは詩編18篇のそれとはまた違った恵みです。

 「主は私の羊飼い」であるなら、自分の必要はすべて満たされる。また主が私の羊飼いであるから、それ以外のものは私にとって必要がない。このような頷きをこの1節から感じることはできないでしょうか。1節「主は私の羊飼い」に続いて「私は乏しいことがありません」とある。宝を持っているかどうかなんてことじゃない、主がどういうお方であるかを知れば乏しいことがない。この表現はおもしろいなと思います。だから私は豊かだという表現をするのではなく、乏しいことがない。つまり私の必要を主はご存知で、私にいま必要なものをちゃんと与えてくださる。私の生涯には尚これから必要なものが色々あるでしょうけれども、だけども、主が羊飼いであってくださるのであれば、それ以外のものは何もいらないというほどの意味がこの中にあるように感じます。だから私は乏しいことがない。

 私のことをよくご存知で、わたしを導いてくださる。乏しきことがない。主が共にいて下さりさえすれば、それ以上のものは要らない、こういう確信に至ります。この23篇の1節は私達に主要な主題を投げかけていてくださる。そうお思いになりませんでしょうか。私たちの生涯で主が共にいてさえくださるのならば、それ以上のものは何もいらない。前回も申し上げましたが、これはダビデの生涯を振り返っての晩年の詩であるといわれています。ダビデ、ソロモンの栄華、その華々しい繁栄をダビデ自身も経験しました。しかし、それらぜんぶを思い返しながら、いいや私の人生にとっていちばん大切だったこと、それは主が共にいてくださった、このことであったと証しております。

ことし私たちの教会に、また私個人にも与えられました詩篇23篇の意味を、これでお分かりいただけましたでしょうか。 

 さて2節に主は私を緑の牧場に伏させとございます。これは羊が安心して草の上にやすんでいる、そういう状態を思い起こさせます。つまり満腹になって、ああ青い草を一杯食べることができた。それから、羊ばかりいるわけではない。ダビデの生涯をご存知の方は、彼が少年だったとき羊飼いだったこと、その羊飼いの少年ダビデを神様が選んで、このことは神様がサムエルにそれを告げたわけですけれども、ダビデは神様から選ばれて王様になった。サムエルはダビデの父親エッサイを訪問し、あなたの子どもたちの中に主が油を注がれる方がいると知らせる。エッサイは子どもたちを何人か紹介しましたけれどもサムエルは違うという。エッサイは羊飼いをしているいちばん小さな子がいるけれども、あの子はここに呼ぶ必要はないでしょう。ところが少年でありましたけれどもそのダビデが選ばれたのです。

ダビデは羊を荒き狼、野獣から守っていた。石つぶては彼の得意な武器でした。羊が外敵から守られ、牧場で安心して草を一杯食べることができ、緑の牧場に伏させ、そして憩いの水際に伴う。「緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます」と詩篇にあるように。

 ある先生がこの場所を講開されたときに、羊飼いが先頭になり羊がその後をついていく。ダビデが羊を飼ったこの地方は決して豊かな土壌ではない。緑の牧場というけれども、小岩井農場のように緑豊かな牧場ではない。だから草が生えているところを見つけては、お腹を空かせている羊たちがすこしでも満腹できるようにはからう。だけどもすぐ羊たちがそれを食べてしまう。羊飼いがまた草が生えている別なところに羊を導いていかなければならない。そういう意味でよき羊飼いというのは、羊の状態を良く知って導き、ゆっくりやすむことができるように絶えず気を配っているわけでありまして、その中で大切なことは水を確保することです。生き物にとって水がどれだけ大切なものであるか。これはもう想像していただけるだろうと思います。水を、よい羊飼いは確保しています。

 羊が飲むことのできる水は、濁り溜まった水ではない。流れているきれいな水です。ドイツ大使館のある方が言っていました。ドイツの名前でバッハは日本でいえば小川さんですと。きれいな水の流れる小川。バッハのメヌエットでは、その小川の響きが感じられます。豊かにやすらう羊のすがたが想像せられます。よき羊飼いはその小川の水を確保する。これで印象深く水を思いだして頂けるかと思います。あそこにいけばきれいな水がある、あそこに行けば草がある。羊飼いはそれを知っているのです。そして羊はとても臆病な動物だといわれています。外敵があるとせっかく水があっても安心して飲むことができない。ここで4節を見ていただくと、あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。とこうあるのですが、「あなたのムチ」の別訳を見ますと、太いこん棒のような強い武器とあります。ダビデは狼や獅子と戦った。羊がちゃんと水を飲んだかどうか。いこいのみぎわにとダビデはいつも気を配っていた。

 それからもう一つ、「あなたの杖」。長い杖、上が曲がっているのですが。羊は迷いやすいので優しく首に杖を伸ばして導く。いずれにせよ2主は私を緑の牧場に伏させ。羊飼いの仕事には、当時の社会で最下層の人たちが携わっていました。群れを十分に食めるところに導いて、水のきれいなところに連れて行かなくちゃいけないし、またそういうところは、ほかの羊もやってきます。自分たちを押しのけて他の羊飼いたちが、これは俺のところだと奪ってしまうこともある。羊にはストレスがいっぱいです。せっかく飲んでいたのに。そのような状況にも対応して羊を飼う。羊飼いは当時の社会ではいちばん蔑視されていた仕事でした。
 クリスマス、羊飼いたちがイエス様の誕生を真っ先にお祝できました。救い主なるお方が、ベツレヘムの馬小屋で飼い葉おけにお生まれになったときに、真っ先に駆けつけたのは羊飼いたちでした。ああ、この方だ。

 私達を神様は羊飼いにたとえられているのです。こんな不可解なたとえってありませんでしょう。しかし、これはすばらしいたとえなのです。なぜならば、私たちの救い主、主イエス様は、いちばん低くなって下さったお方、世の中のいちばん貧しい辛い立場のそういう人たちのところにやってきて、そして、羊は動物の中でいちばん弱く愚かである。環境が整わないと眠れない動物だということも聞きました。
 私たちはどうでしょうか。この羊たちと同じような自分たちであります。ダビデは、私は羊だ。羊の愚かさをよく知っている。ダビデは、私はほんとうに愚かなことをしてしまった。過ちをしてしまった。彼はそのようなことを言っております。

 ここでちょっと逸れますが、教会学校の子どもたちとCSの教師で小岩井農場に行ったことがあります。ちょうど羊ショーがありました。その時のお話しがとても印象深かった。羊飼いをしている方がクイズを出しました。葛巻で羊飼いをしているというイベント企画の方でした。彼が葛巻で作っている羊の肉はほんとうにおいしいそうで、あの人の作った羊の肉をたべたいというリクエストがあるほど。有名な人でした。その彼のクイズです。羊がいちばんストレスを感じるのはどういうときでしょうか。子どもたちの真剣さ。牧師ですから聖書をおもいめぐらして。彼がいうには、羊は孤独になるといちばんストレスを感じる。ひとりになると羊はストレスで食べることができなくなる。寝ることもできない。環境が整わないと眠れない動物だということでした。私たちはどうでしょう。よきまことの牧者なるお方は、弱く迷いやすい、いちばん愚かな私たちを外敵から守り、われ乏しきことあらじと言わしめる。わたしが与えるものは世が与えるものとは違う。ストレス、それもぜんぶご存知で主がよき牧者として私たちを導いてくださる。

ダビデは羊飼いでした。そしてそのダビデが、主はわたしの羊飼い、このように23篇で堂々と述べているのでございます。

イザヤ4011
11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。 

20210105-171828

 

 それでは、元旦礼拝に引き続きまして、この年の第一回目の聖日礼拝に「主は私の羊飼い」、この説教題でともに恵みに与りたいと思います。復習になるところもありますが。

「主は私の羊飼い」というときに、神様をどのように捉えているのか。詩篇の18篇にあるように、2 主はわが巌、わが砦、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。こちらは力強い、ほんとうに依りすがって、隠れどころとして、そのように神様を捉えている。これは大きな恵みであります。それに対して、「主は羊飼い」というとき、この違いはなんなのか。それは23篇において、人格的なまじわり、これをダビデは23篇で述べている。ダビデは、神様と人格的な交わりを経験してきた、このように言う事ができるでしょう。

そして主は私の羊飼い、だから、自分の必要はすべて満たされている。そして、主が私の羊飼いであるから、それ以外のものは必要ないという確信。ですから「私には乏しいことがありません」。豊かであるといった肯定的な表現ではなく、乏しいことがありませんというこの言い回しは、とても興味ある意味の深い言葉だとこのように思います。主が私と共にいてさえくだされば、それ以上のものは私にはいりません。これが23篇の1節。まさに大きな中心であると確認させていただきました。

そして「緑の牧場に伏させてくださる」お方。羊が安心して休む。そしてお腹いっぱいに満たされて、寛いでいる。この状態。それからもう一つ、羊飼いなるお方は、いこいのみぎわに伴ってくださる。「緑の牧場」、草もそうですけれども、生き物にとって水というのは非常に意味のある生命的な必要であります。羊飼いが水場をしっかりと把握しておくのは非常に大切です。静かに流れてくる小川。安心して飲むことができる。いつ襲われるか分からないという時には水を飲ませることはできません。羊飼いがちゃんと水のある所に導いてくださる。このことを今日の私たち、よき羊飼いは、私たちに緑の野に伏させて、満ちたらせてくださる。個人において家庭においてよき羊飼いなるお方は、緑の牧場に私たちを導き伏させ、ともにいてくださる。

今日、私は、主がことし皆さん方をどのような緑の牧場に導いてくださるか、そして水を与えてくださるのか。そのことを思いめぐらしました。前回のお話しを思い起こしてください。この23篇は非常に牧歌的な雰囲気がしますが、実は、パレスチナの地というのは、それほど豊かな緑が生えているところとは必ずしもいえない。羊が増えてくるときに、その食欲を満たすために、何処に行ったらどれだけの羊を養えるか、食べ終わったらまた別なところに行って飢えないように導く。私たちの糧は聖書のみことばです。糧を求めて私たちは聖書を開きます。その時々の必要に応じて満たすことができたならどんなに幸いでしょうか。そんな思い巡らしをしているときに第一歴代410節が思い当たりました。

10 ヤベツはイスラエルの神に呼び求めて言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあってわざわいから遠ざけ、私が痛みを覚えることがないようにしてください。」神は彼の願ったことをかなえられた。

ヤベツの祈りと言われているところです。いまから10年以上もまえのこと、ヤベツの祈りというこの場所を取り上げた方が。多くのクリスチャンたちに恵みを与えたことを思い起こします。

第一歴代410節の前後、12345章ごらんください。

 私とひろ子先生はいつも一緒に聖書を読んでおります。面白くないところもありますが、とにかく順番にずっと満遍なく読んでいます。新改訳2017年版が出たときに始めた読み合い、声を出して合わせて読むのですが、ついこの前12月の中頃に黙示録の最後までいきまして、終わったね、と一息つきました。3年ぐらいかかりました。

 歴代誌の10章味気ないところだったんですけれども。23篇のようにめぐまれるところもあります。
 この第一歴代4章のヤベツという人、9 ヤベツは彼の兄弟たちの中で最も重んじられた。彼の母は、「私が痛みのうちにこの子を産んだから」と言って、彼にヤベツという名をつけた

 よほど難産だったんでしょうか。ヤベツ、欄外を見ると「痛み」。自分の名前に「痛い」という名前を付けられてしまった。そういう彼だったんですが、ヤベツは「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあってわざわいから遠ざけ、私が痛みを覚えることがないようにしてください。」
 実に率直な大胆な祈りをしています。そして神は彼の願ったことをかなえられた。

 これだけの分厚い聖書の中に、よき羊飼いが導いていてくださって、こんなおいしい草があるよ。ほかの読者は見過ごしにしているかもしれませんけれども、聖書の中に、いまあなたが必要としているのは、ここのところじゃないか。このようにして私のことをよくご存じの神様は、一人一人の、一匹一匹の羊を聖書の中で、この草を、このところはどう? というように、緑の草のあるところに羊を導いて伏させてくださる。このことを経験していくこと。みことばを神様から与えられてそれによって養われること、これを23篇を通して味わうならどんなに幸いでしょうか。

今年のおことばを皆さん方どのように祈り求めていらっしゃるでしょうか。教会は詩篇23篇とともに歩むことに致しました。それでは、私を、主はどういうおことばで導いてくださるでしょう。そのときヨハネの手紙第一の17節が通いました。

1:7もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。

このおことばが一つのきっかけになりました。

 私ども、3年前から家拝で一緒に聖書を読んで、二人でお祈りを捧げます。教会のために、会員のお一人おひとりを覚えながら、よほどのことが無い限り二人で祈っています。そのときに、このところずっと覚えておりますのは、その子イエスのすべての罪より我らをきよむというおことばです。どうぞイエス様の血が、病んでいる方のその部分、毛細血管の隅々までが御子イエスの血によってきよめられ癒されますように。必ずこのおことばをもってお祈りします。そして、そのお祈りをしているときに、ああそうだというように、もう一つ心に浮かぶのは、エゼキエル書47章9節です。

9 この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。

これはエゼキエルという預言者が与えられた回復の幻なのです。エゼキエルが見た幻の中に、そこに神殿が回復されていた。その回復された神殿のところから、1節を見ると、神殿の敷居の下から東の方へと水が流れており、そして、東の方に流れていく水が、たんたんたんたんと、さっきバッハの小川のことを言いましたが、小川のように流れていく。やがて5節、6節を見ますと大きな川になっていくのがわかります。そして8彼は私に言った。「この水は東の地域に流れて行き、アラバに下って海に入る。海に注ぎ込まれると、そこの水は良くなる。そして9 この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。

このおことばが、御子イエスの血、すべての罪よりわれらをきよむ、というおことばとともに、このエゼキエルの479節、神殿から流れ出る水が行くところすべて生きる。そして12 川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。

 病んでいる方々に、どうぞ御子イエス様の血が豊かに流れますように、そして、きよめられますように、そしてそれがエゼキエルにある神殿のもとから流れるきよい水がものみな生かして、豊かな結実を与えていきますようにと、このエゼキエルのおことばを心の拠り所としよう、このおことばを個人的にはいただこう、このような思いめぐらしの中にあるのです。

 詩篇23篇にお帰りください。

1 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
2
主は私を緑の牧場に伏させ

こんなにすばらしい聖書のおことばが満ち満ちている。そして、いま必要な守りとなるおことばを、よき羊飼いであられる主が指し示し導いてくださる。どうか皆さ方も、きょう個人的に或いは家庭にあって、或いは職場にあって、どのような緑の牧場の草に私たちを導き、どのようなきよい水のほとりに私たちを導いてくださって、憩わせてくださるであろうか、そのことをみなさんがたと一緒にこの年の初めに心に留めたいと思っているのです。

 

イザヤ40911

9 シオンに良い知らせを伝える者よ、高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ、力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。「見よ、あなたがたの神を。」
10
見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の御前にある。
11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。

 きょう皆さん方に、ヘンデルのメサイア、このみことばイザヤ40911節が歌われておりますところと、マタイの福音書112830までが歌われているところをお聴きいただきたいと思います。例年であればキャンドルサービスの日に鑑賞しておりましたが、ことしはそれもございませんので、部分的ではありますが、ここでご一緒にお聴きしましょう。

マタイの福音書11章28~30節
11:28すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。 11:30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

 お帰りになられたら、ことし主がどのような緑の草を私たちに与えてくださるか、きょうこのメッセージを、或いは、デイリー・ライト、またダイジェスト・バイブルといったものもございます。これらを参考にことしの指針となるおことばを捉えていただければと願うことでございます。

※画像は教会からお借りしています。

⏰5時52分更新

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雑感

 朝にJ-MEROを聴いたものの、注意力散漫、メモ程度も怪しいというわけで、後で、としたところが、今になって更新のための更新も危うく忘れそうに。

FANTASTICS from EXILE パフォーマンスに掛ける熱は一通りではない。スタイリッシュに、クールに、きれいに。体感トレーニング専ら。時には80年代のビートに乗り、熱くかっこよく。ハイ・フィーバー、80年代のソウルスタンス、ロック、はたまたオールドスクールのニュアンスの取り入れ。そして大切なミックス感。
 TRIBE&SUPER★DRAGON 平均年齢18歳、歌とラップ、ビートボックス、デスボイスと多様な側面。

この番組もオンデマンドで配信中、わざわざの早起きは要らないわけだが、これも習慣づいてのこと。

14時からはウィーン・フィルのニューイヤー・コンンサートの再放送。元旦に聴きかねて。楽友協会の無観客の寂しさは。音楽評論家石戸谷結子がムーティーの指揮による演奏からは「紫の煙がただよい立つ」と。団の中にヘーデンボルク直樹、和樹兄弟を見つけて、いよいよこのオケが身近に。最後にコメントが入ったのも嬉しかった。彼らもやはり年越しはそば、元旦には餅であるようだ。「憂いなく」を作曲したとき、ヨーゼフ・シュトラウスは42歳、すでに病気であったかと。じきに亡くなっている。死期が近くとも、病のさ中にもシュトラウスは明るい。天国を望み見ていたせいだろうか、それはわからないけれども。陽気で軽やかで明るい。ラデッキー行進曲は手拍子もなく張り合いのないものだったが、しかし、しかし、ムーティー&ウィーン・フィルの3時間の演奏は抜群に楽しかった。来年の指揮はバレンボイム、またしても80歳の方と決まったようだ。

 

⛳冷えに冷えた今朝、盛岡は-12.5。-13とも出ていたけれども。21時近い今は-7。真冬日に怖じてついに1歩も外には出ないでしまった。専ら明日更新の説教の準備に。21時更新

 

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210108 クラシック倶楽部を聴く タリス・スコラーズ 合唱アンサンブル

ルネサンスの作曲家、トマス・タリスの名を冠したコーラス・アンサンブル、タリス・スコラーズ。透明で濁りのないその歌声は比類のない美しさで聞くものの心をとらえてきた【出演】タリス・スコラーズ(合唱)ピーター・フィリップス(指揮)【曲目】「マリアよ あなたはすべてに美しい」(ゲレーロ作曲)「レクイエム(死者のための聖務)」(ビクトリア)【収録】2019年6月4日 東京オペラシティ コンサートホール―番組紹介よりー

タリス・スコラーズはルネッサンス音楽研究の第一人者であり、現在も指揮を務めるピーター・フィリップスが1973年に創設したイギリスの合唱団。ルネサンス期に書かれた無伴奏の合唱曲を主なレパートリーとしている。凡そ半世紀にわたってルネサンス期の音楽を世界に広める。(番組の解説から)

ピーター・フィリップスのコメント
タリス・スコラーズの響きの特色
ルネサンス音楽を演奏するためにこの合唱団をつくりました。当時はこの時代の作品を演奏する団体はまれでした。合唱団のメンバーに求められるのは、透明かつ強い声です。そして常に新しい技術を習得することを心がけてきました。ルネサンス音楽は、その後のバロック音楽とはまったく異なったスタイルが要求されます。リズムもチューニングも違いますし。ルネサンス音楽は独唱ではなく小規模の合唱ですから、これだけ大きなホールで歌うのはとても難しいのですが、日本は大きなホールが多く、声の響かせ方を学ぶことができました。
ビクトリアの「レクイエム」について
ビクトリアの才能を説明するのは難しい。彼は奇跡の作曲家です。とにかく響きが強烈で、ごくふつうの和音をより印象深く響かせる能力に優れていました。パレストリーナやタリス、バードのような作曲家はもっと音楽が複雑で、声部も入り組んでいます。一方で、ビクトリアは和声の選択が巧みで、聴く人に感動をもたらします。彼は聖職者で敬虔なキリスト教徒でした。レクイエムは彼の親愛なる主人皇太后マリアのために書かれました。ビクトリアの感情と宗教観のすべてが彼女への思いとして表現されたのだと思います。これは彼の音楽の極致であり、ルネサンス音楽の極致でもあると私は思います。

「マリアよ あなたはすべてに美しい」ゲレーロ:作曲
ゲローレは、16世紀後半に活躍したスペインの作曲家。多くの教会音楽を残している。この作品は1570年に出版されたモテット集に含まれている。
「レクイエム(死者のための聖務)」ビクトリア:作曲
ビクトリアは1548年にスペインで生まれ、教会のオルガン奏者や楽長を務めた。この作品は彼が司祭として仕えたマリア皇太后の死を悼んで書かれ1605年に出版された。

🎵「マリアよ あなたはすべてに美しい」、マリアへの賛美、これは透明で清らか、包むような優しさで歌われる。―あなたはただ一回で私の心を奪った あなたの首飾りの一珠で私の心を奪ったー、ここにある首飾りは真珠かと思うが、「首飾りの一珠」に宗教的な意味があったかどうか。マリアへの信仰的な心酔が歌われる。
「レクイエム(死者のための聖務)」の冒頭―わが心は生活に疲れたり われは敢えてわが言葉を投げん わが心の苦しみを示さん われ神に語らん われを非難したもうことなからんーこの後には、これはなぜなのか、との問い、煩悶が続く。そして入祭唱―主よ永遠の安息を彼らに与えー司祭の祈りなのか。キリエーキリストよ憐れみをかけたまえー、昇階唱、サンクス、ベネディクトゥスー聖なる聖なる聖なる 天の軍勢なる天の主はー、アニュスディー神の仔羊 この世の罪を取り去りたもう方よー、拝領唱―永遠に御身の聖人らとともに 御身慈悲深きゆえに 安らかに眠らせたまえー、葬送モテットー主よこの恐るべき日に 我を永遠の死より解き放ちたまえー主よあわれみをかけたまえー甚だしく簡略に記したけれども。この翻訳はルネサンス音楽史専攻の今谷和徳と出ていた。

 

🎧名曲アルバムはヴィヴァルディ「四季から」(バイオリン)千住真理子,(管弦楽)東京フィルハーモニー交響楽団,(指揮)高関健 ~イタリア・ベネチア~

観光客が途絶えるベネチアの冬景色とともに。

⛳1都3県緊急時事態宣言下、710分更新

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210107 クラシック倶楽部を聴く ウィーン少年合唱団

クラシック界のアイドル的存在として、長年、日本のファンを楽しませてきたウィーン少年合唱団が登場。ヨハン・シュトラウスに加え日本の歌やドイツの合唱曲などを歌う。【出演】ウィーン少年合唱団(合唱)マノロ・カニン(ピアノ・指揮)【曲目】ポルカ「雷鳴と電光」、ワルツ「美しく青きドナウ」(ヨハン・シュトラウス作曲)、「ふるさと」(岡野貞一作曲)【収録】2019年5月29日 東京芸術劇場大ホール―番組紹介よりー

神聖ローマ帝国から500年の歴史を持つ。ハイドン、シューベルトも少年時代に参加。拠点はアウガルテン宮殿にある全寮制の学校。オーストリア内外から集まった1014歳までの凡そ100人の少年たちがブルックナー組、ハイドン組、モーツァルト組、シューベルト組の4つに分かれ学ぶ。学習はもちろん海外ツァーも。2019年はイタリア出身のマノロ・カニンが率いるブルックナー組の少年たちが来日。30回以上の公演を行う。カニンは合唱団について、先ず歌うのは最高に楽しいと感じること、そしてプロとして常に高いレベルを目指しながら互いに尊重し合い、チームワークを築くことが大事と語っている。

曲目

喜べ正しい人たちよ:ヴィアダーナ
天は神の栄光を語り:ハイドン
詩篇第13番 主よいつまで私をお忘れになるのですか:ブラームス
3声のためのカプリース 動物たちの対位法:バンキエーリ
リベルタンゴ:ピアソラ
サウンド・オブ・ミュージックより ひとりぼっちの羊飼い:
ねむの木の子守歌:皇后陛下御作詞 山本正美作曲
ふるさと:岡野貞一
内なる平和:ヴィルト
ポルカ 雷鳴と稲妻:ヨハン・シュトラウス
ワルツ 美しく青きドナウ:ヨハン・シュトラウス
アンコール 花は咲く:菅野よう子

 🎵「喜べ正しい人たちよ」、―主を賛美することは 誠実な者にふさわしいー。「天は神の栄光を語り」では、ケントくんの日本語紹介。この後にも日本語挨拶、日本語での合唱がここまでやってくれたのという感じで出てくるのだけれども、同団は世界中で公演をしており、英語、フランス語、ドイツ語、或いはラテン語をはじめとして、行く先々の言葉で語り歌っているのかと思うが、そういった訓練もすんなりと受け入れ努力するすがたが浮かんだ。
「主よいつまで私をお忘れになるのですか」、こんな心境になることも。一応、新改訳を取り出してみると、

指揮者のために、ダビデの賛歌

1 主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。
2
いつまで私は自分のたましいのうちで思い計らなければならないのでしょう。私の心には、一日中、悲しみがあります。いつまで敵が私の上に、勝ちおごるのでしょう。3 私に目を注ぎ、私に答えてください。私の神、主よ。私の目を輝かせてください。私が死の眠りにつかないように。4 また私の敵が、「おれは彼に勝った」と言わないように。私がよろめいた、と言って私の仇が喜ばないように。5 私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあたの救いを喜びます。6 私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。

(太字の部分は番組では「どうか敵がお前を制圧したと「驕る」ことがないように」と訳されている。)

3声のためのカプリース」、金澤正剛の訳。マリスくんのコメント。犬、猫、カッコウ、みみずくなどの登場。明るく愉快。「リベルタンゴ」、因習からの脱却という意味がこめられているとか。「ひとりぼっちの羊飼い」はティモくんのピアノ。「ねむの木の子守歌」、デヴィットくんのコメント。「ふるさと」、1914年尋常小学唱歌集に登場。ふるさととは実は天国のことであるとか。「内なる平和」、カビールの詩をタゴールが英訳。これがちょっと考えさせられる内容の詩なのだが、

庭に入ってはいけません
花咲く庭に
友よ! 入るのはそこではありません
友よ! あなたの身体の中にこそ
花咲く庭があるのです
たくさんの蓮の花弁に座り

そこで無限の美を見つめなさい

「雷鳴と稲妻」、結局どこにいても雷鳴と稲妻は避けられないと悟る。何処に行っても逃れ場はなかったか。ユーモラス。「美しく青きドナウ」の詩がすばらしい。別訳の抜粋だけれども。1867プロイセンとの戦いに疲弊した人心を慰め励ます。

ウィーンで君の流れを止めてくれ
そこは君をとても愛しているのだから
君がどこをみようとも
第二のウィーンは見つからないだろう

(番組の訳では「君がどこをみようとも」は「君がどこに流れていこうと」)

ここにはいっぱいの胸から流れ出ている
明るい喜びに満ちた魔法が
そして忠実なドイツの心が
ここから遠くへまかれる

私たちは一つになろう
兄弟たちをしっかりと輪舞に加えて
重苦しい時代でも明るく
私たちに危機が迫っても、勇気をもって

ドナウの川岸の故郷は
私たちの心の絆
いつも君のために
財産も血も捧げる

最後に もう一度挨拶しよう
私たちの愛するドナウに 素晴らしい川に!
その日 私たちにもたらしてくれるもの
忠実と団結

それがいつも私たちを守ってくれますように
そう 忠実と団結!
()の心を 力で自分のものとする

(しっかり団結して困難なときにも明るく!!!)

 

ウィーン少年合唱団、凪いだ海の面に散らされ微細に光を放ちさざめき歌うちっちゃな宝石たちのメッセージが清新。

🎧名曲アルバム。ワルツ 「ウィーンのボンボン」:ヨハン・シュトラウス

人づきあいが苦手なシュトラウス、自宅にカフェを充実させて楽しんでいたとか。つられてついコーヒーを淹れ、その時間分の遅れが出、⛳

852分更新。




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210106 クラシック倶楽部を聴く ベルリンRIAS室内合唱団

ドイツを代表する室内合唱団、ベルリンRIAS室内合唱団。ジャスティン・ドイルの指揮でバッハやブルックナーといった宗教合唱曲の精髄をお送りする。【曲目】「神よ なぜわたしを見捨てられたのか」(メンデルスゾーン作曲)「キリストはわれらのために」「エサイの枝は芽を出し」(ブルックナー作曲)「イエスはわが喜び」(バッハ作曲) ほか【収録】2018年11月2日 東京オペラシティ コンサートホール―番組紹介よりー

曲目

☆「歌え 主のみ前に新しい歌を BWV225」バッハ:作曲
☆「3つの詩編 作品78第3 詩編22 神よ なぜわたしを見捨てられたのか」メンデルスゾーン:作曲
(合唱)ベルリンRIAS室内合唱団、(指揮)ジャスティン・ドイル
☆「キリストは われらのために」ブルックナー:作曲
☆「エサイの枝は芽を出し」ブルックナー:作曲
☆「イエスは わが喜び BWV227」バッハ:作曲

🎵メンデルスゾーン「神よどうして私を見捨てられたのか」、井形ちづるさんの訳に、打ち捨てられた、底辺にある人たちの嘆き、悲しみ、慟哭が切々と迫り胸を打った。バッハの「イエスはわが喜び」、これも井形さんの訳。「悪魔を嗅ぎわけ 敵を苦しめたまえ」「罪と地獄が襲いかかっても イエスが私を守ってくださる」「大地も奈落の淵も……たとえどんなに轟音をたてようとも」、神への全き信頼の訳、これはいうまでもなく聖書にあるのだが、この揺るがない全的神への信頼には、足らざるわたしなどはほんとうにひっくり返ってしまうほど。照らされるのだ。今谷和徳さんの訳ももうすこし聴きたかった。

ベルリンRIAS室内合唱団はドイツを代表する合唱団、その水準が保たれる要因の一つには、やはりオペラやオラトリオでソリストを務めるほどの人材がこの合唱団に流れてきていることにあるようだ。しっかりと歌える存在が合唱団の中に一人いるだけでもその存在の影響力の大きさが察せられるが、おそらくそのような方々が何人も。ジャスティン・ドイルの就任は2017年、つい最近。彼がこの合唱団をいうに「35人が一つの生き物のように動く」「繊細なしなやかさを持つ」「カメレオンのような」これは変幻自在、であったか、「寛大で勤勉な彼ら」、何れ表現のいかなる要求にもこたえ得る力を持つのだなと。カンタータのような大作の委嘱もはじめているとか。ベルリンRIASはドイツの音楽土壌、合唱団の質からも「大使」であると自負。それとともに他国の民謡などにも取り組んでいるとか。

 宗教曲を聴くようになったのは、この地方都市にあって異色ともいえる国際的な活躍も目指すバッハ・カンタータ・フェライン盛岡の影響が大きい。10年前にはこういった宗教曲はまるで自分の内には届かなかった。自分の中にその土壌の質的なものが欠けていた。さらにいえばわかったふりをして聴いたふり。しかし同団に興味をもって耳を傾けることで、いまは、聞いていて心休まるというところにたどり着いてはいる。これはどんな優れた合唱団を問わず、宗教曲は、まだまだ多くの人々の頭上高くに、君臨と言えばいいすぎだけれども、下界をはるかに下して鳴り響いているなという実感を否めない。キリストこそ本質的には庶民の宗教、それがなぜかいつまでもどこまでも遠いと人に思わせるところが。かといって崇高さを貶めることはこれはできることではない。これはほんとうに難しい課題であると思われる。
 あれこれ考えているうちにはや7時。クリスチャンや宗教音楽関係者だけが歌い聴いて満足しているにはもったいないと思うが故の思い巡らしなのだけれども。ただこれには伝道を使命とする教会と宗教音楽を研究し歌い検証する使命を持つ合唱団とを混同している誤りから来る疑問であるのかもしれない。

🎧名曲アルバムはグリークの「ピアノ協奏曲イ短調」。ピアノ横山幸雄。ノルウェー、フィヨルドなどの厳しくも美しい自然景観とともに。

⛳明日にも新型コロナの非常事態宣言が。コロナ初期のイタリアの惨状がまざまざと思いだされて。7時7分更新

 

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210105 クラシック倶楽部を聴く  東京混声合唱団 

1956年の設立以来、250回を超える定期演奏会、200曲を超える新曲委嘱を行ってきた東京混声合唱団。日本の合唱界をけん引してきたアンサンブルをご紹介します。【出演】東京混声合唱団(合唱)、山田和樹(指揮)、福間洸太朗(ピアノM3のみ)【曲目】1.コンダリラ(スティーブン・リーク作曲)、2.カンタータ「人間の顔」(プーランク作曲)、3.混声合唱とピアノのための「鉄道組曲」(信長貴富作曲) 【収録】2020年2月8日 東京文化会館 小ホールで収録―番組紹介よりー

東京混声合唱団:創立当時から常任指揮者を務め、現在桂冠指揮者となっている田中信昭とともに成長。2014年は第51回ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝した山田和樹を音楽監督に迎える。ピアノはクリーブランド国際コンクールで優勝した福間洸太朗。

 

山田和樹のコメント:東混ができた当時は合唱曲というものがそもそも日本に少なかった。それを委嘱して作っていこうという団体でもあって、必然的にそれが委嘱初演というものが活動の主軸にあって、今の時代ですからハーモニーがちゃんとしている曲から無調のような現代音楽まで幅広いものに対応できないとプロフェッショナルとしてやっていけないものですから、そこらへんはここに技量の高い人が集まっているという面もあります。一つ今回、自然と人というんですか「コンラリダという曲も、アボリジニに伝わる曲でして、そこに先ず大自然があって、そこに人が生まれて、そして音楽が生まれて行ったというこの三つの自然と人と音楽を結びつけるようなプログラミングになればいいなあというのがありまして、そこに信長さんが加わってレールがそこに敷かれるというスト-リー的にはうまくまとまったんではないかなと思っております。

 

☆「コンダリラ」
スティーブン・リーク/アン・フェアバーン:作詞、井形ちづる:訳
スティーブン・リーク:作曲
☆「カンタータ「人間の顔」」ポール・エリュアール:作詞、プーランク:作曲
☆「混声合唱とピアノのための「鉄道組曲」」
三宮麻由子、宮沢賢治、石川啄木、室生犀星、吉野弘、四代目・柳亭痴楽:作詞
信長貴富:作曲[-2019年度 新作委嘱初演-]

🎵どれもよかったというと怪しい感じにもなるのだが、やっぱり東混、いいものはいい、と。

「コンダリラ」、歌詞を手にしようと検索したがうまくいきつかない。「コンダリラ」とはアボリジニに伝わる「滝の精」のことらしい。曲のはじめは、原始の大地に湧きあがり原始の森の闇に鳴り出でる鳥や動物たちの自然の様態といった感じ。団員の何人かが観客席のそちこちから立ち現れ、ステージに歩み寄りステージ上に待機するみなに合流するのも、それを表現しているかと思われた。古代の精霊の影を神秘に踏み込むように風や水にそのすがたを夢と追いかける。もしかすればアボリジニに伝わる楽器ディジュリドゥもこんな響きの具現を図ってのものであろうか。アボリジニのたどった道に迷い込み時間を食ってしまった。
「人間の顔」、プーランクがナチス占領下のパリで作曲。戦時下の苦悩と自由への希求があるという。詩に惹かれた。高橋英郎の訳詞を録りかねたので、叱られるかと思いつつここは個人的な楽しみの場でもあるので、こちらを参考に。

  1. 直きに
    歴史上のあらゆる春のうちで
    いまは最も卑しむべき春だ。
    全ての生き方のなかで
    私のお人好しの性格が最も良い
    草は雪を押し上げる
    恰もそれが墓標であるかのように
    しかし私は嵐の間中眠る
    そして両目を輝かせて覚醒する
    時にゆっくり時に素早く時間は過ぎる
    全ての道が尽きるところでは
    私の最も個人的な秘密を通してなら
    私は誰かと出遇うのかもしれない
    私には聞こえない、怪物どもが何を言っているのか
    しかし私はそれを知っている、そして奴らは以前何を言っていたかを全て
    私は美しい顔だけ見る
    己を真に知っている人の美しい顔を
    疑いなくもう直きなのだ、それらの持ち主が滅びるのは
    ***
    II.
    歌いながら、家政婦たちは突進する(一人の男が殺された場所を清める為に)
    おしろい粉で化粧した可憐な少女たちは 素早く彼女等の膝へ向けて
    その両手を差し延ばす
    歓喜の日の初めての経験のように無垢で
    爽やかな空気に向って
    彼女等の手を見る為に振り向く、死人は
    彼女等の涙ぐんだ目を見る為に振り向く
    それは蜉蝣たちの儀式だ
    生命の最後の儀式
    石は落ちて消える
    広大で永遠の深淵のなかに
    時間の最後の儀式
    かろうじて一つの記憶が残る
    美徳の数々の泉はもう長い間干上がっていて、
    耐え難い欠如となり
    そして、欠点の勝利へと
    虚弱な肉体を明け渡している
    ***
    III.
    沈黙の如く低く
    頭の中へ影のみが差す
    地の下へ埋められた死体の
    沈黙の如く低く
    人間の頭上にその暗黒を吐きかける
    むっとする恥辱の毒気に覆い隠され
    その花とそしてその金色の獣とを掠奪された
    湖の秋の如く
    単調で何も聞こえない
    ***
    IV.
    忍耐(辛抱強い君よ)
    私の辛抱強いものたる君、私の忍耐よ、私を守護する者
    高々と鷲掴みにされた喉、穏やかな夜の臓器
    その恵みによって天国をすべて覆い尽くしている崇敬は、
    復讐のために、そこで私が生れるかもしれぬ寝床を用意する。
    ***
    V.
    最初の行軍、別の声で(空と星とを見て笑いながら)
    空と星とを笑いとばしながら
    口は傲慢を滴らせている
    賢人たちは息子を望み、
    息子たちのためにその息子を望む、
    彼等が虚しく果てるまで
    行軍のときは愚か者にだけ重荷を背負わせるのではない
    地獄のみが繁栄を極める
    そして賢人たちは愚か者にされている
    ***
    VI.
    狼 (昼は私を驚かせ、夜は私を怯えさせる)
    昼は私を驚かせ、夜は私を怯えさせる
    夏は私を悩まし、冬は私を追い回す
    一匹の獣がその足跡を刻みつけている
    雪の上に、砂の上に、もしくは泥の上に
    その足跡は私の足取りよりもずっと先へ進んでいる
    死が人生の痕跡をもたらす路の上で
    ***
    VII.
    汚点一つない火(赤い空の下の脅威)
    赤い空の下の脅威
    あごの下からやって来た
    天秤と
    滑り易く重い鎖の環

命は広くバラ撒かれた
死が無意識に支払われる税金を
厳かに手に取ることが出来るようにと

死は愛の神だった
そして勝者は接吻しながら
彼らの犠牲にうっとりとなり
その心は腐ったままだ

そしてなお、赤い空の下では
血への渇望に支配され
悲惨な飢えに支配され
大洞窟は口を閉じる

役立つ土は覆った
前もって掘られていた墓の上を
子供たちは最早怖がっていない
その母なる深みを

そして愚かさや、痴呆や
そして俗悪は路を譲る
人間性と兄弟愛に
最早限りある寿命に逆らうことなく

そして不滅の人類へと向って
***
VIII.
自由
学習ノートに
机に 木々に
砂に 雪に
ぼくは書きつける

読み終えたページに
真っ白な紙に
石 血 紙 又は灰に
ぼくは書きつける

黄金の像に
兵士の武器に
王冠に
ぼくは書きつける

ジャングルに 砂漠に
巣に 藪に
子供の頃のこだまに
ぼくは書きつける

すてきな夜に
白いパンに
婚約した季節に
ぼくは書きつける

青いぼろきれに
沼に カビの生えた太陽に
湖に 明るい月に
ぼくは書きつける

野原に 地平線に
鳥の翼に
風車の影に
ぼくは書きつける

オーロラのきらめきに
海に 船に
悠々たる山に
ぼくは書きつける

あわのような雲に
嵐のような汗に
霏霏たる雨に
ぼくは書きつける

きらめく形に
色鮮やかな時計に
物質の真実に
ぼくは書きつける

上り坂に
広い道に
はみ出た場所に
ぼくは書きつける

燃えるランプに
消えたランプに
建て直した家に
ぼくは書きつける

鏡の中の 部屋の中の
おいしそうな果物に
ベッドに 貝殻に
ぼくは書きつける

食いしん坊のかわいい犬に
ピンとたった犬の耳に
不器用そうな犬の足に
ぼくは書きつける

玄関のステップに
見慣れたオブジェに
聖火の列に
ぼくは書きつける

調和した肉体に
友達の額に
差し出された手に
ぼくは書きつける

驚きのガラスに
きりりと黙って
引き締まった唇に
ぼくは書きつける

廃墟の隠れ家に
崩れた灯台に
倦怠の壁に
ぼくは書きつける

欲望の不在に
裸の孤独に
葬式の行進に
ぼくは書きつける

回復した健康に
なくなった危険に
過去のない希望に
ぼくは書きつける

言葉の力を借りて
ぼくは人生をやり直す
その言葉がぼくを勇気付ける
それは自由という言葉だ

「鉄道組曲」、室井犀星の詩を書きたくなった。


「上野ステエション」
   室生犀星


トップトップと汽車は出てゆく
汽車はつくつく
あかり点くころ
北国の雪をつもらせ
つかれて熱い息をつく汽車である
みやこやちまたに
遠い雪国の心をうつす
私はふみきりの橋の上から
ゆきの匂いをかいでいる
汽車のあかりもみえる橋の上
(『抒情小曲集』より
 感情詩社/19189月)


吉野弘「夕焼け」。これも別訳。

 

夕焼け

   
 

いつものことだが

電車は満員だった。

そして

いつものことだが

若者と娘が腰をおろし

としよりが立っていた。

うつむいていた娘が立って

としよりに席をゆずった。

そそくさととしよりが坐った。

礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。

娘は坐った。

別のとしよりが娘の前に

横あいから押されてきた。

娘はうつむいた。

しかし

又立って

席を

そのとしよりにゆずった。

としよりは次の駅で礼を言って降りた。

娘は坐った。

二度あることは と言う通り

別のとしよりが娘の前に

押し出された。

可哀想に。

娘はうつむいて

そして今度は席を立たなかった。

次の駅も

次の駅も

下唇をギュッと噛んで

身体をこわばらせて---。

僕は電車を降りた。

固くなってうつむいて

娘はどこまで行ったろう。

やさしい心の持主は

いつでもどこでも

われにもあらず受難者となる。

何故って

やさしい心の持主は

他人のつらさを自分のつらさのように

感じるから。

やさしい心に責められながら

娘はどこまでゆけるだろう。

下唇を噛んで

つらい気持ちで

美しい夕焼けも見ないで。

     
             

団員がずっと観客席に背を向けている。「僕は電車を降りて」のところで、こんどは全員が観客席と相対する。これが何か二律背反を表してでもいるかに見えた。

啄木、賢治は身近。この岩手で聴く機会は多いが東混での演奏はまた格別。
これだけの特異な演奏の仕分けと言うか、それで、山田のいう団員の技量の高さを聴いた。

 

🎧名曲アルバムはシューベルトの「ぼだい樹」ドイツのミューラーの詩から。ドイツ語でこの詩をどこぞに書き送っている方も数多くいるだろう。

⛳昨日と同じ嵩の積雪に眩い朝日が。9時33分更新

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210104 クラシック倶楽部を聴く  戸山俊樹 バス・リサイタル

長年ドイツ歌曲に取り組んできたバスの戸山俊樹が満を持してのぞむブラームス鈴木謙一郎(ピアノ)「永遠の愛 作品43第1」「野の寂しさ 作品86第2」ほか―番組紹介よりー

会場は愛知県立芸術大学キャンパス内にある室内楽ホールで2013年竣工。

戸山俊樹
東京芸術大学大学院オペラ科修了。1982年日本音楽コンクール第2位、198488年ドイツのハーゲン市立歌劇場専属歌手。1990年に帰国後、日生劇場中心に数々のオペラに出演。宗教曲のソリストとしても活躍。1992年ジローオペラ賞受賞。

鈴木謙一郎

1991年日本音楽コンクール1位。渡仏。   2003年ホロヴィッツ国際音楽コンクールで銅メダル受賞。


コメント:ブラームスの歌曲の魅力について戸山は、「ブラームスは非常にさみしがり屋で内向的で人づきあいは下手だし不器用な人。でも人恋しくてしようがない。でも孤独でいたいと、なかなか付き合うのは難しい難しい人間だったろうなと。そういうところに逆にブラームスの魅力を感じるし、ブラームスの歌曲自体ぜんぜんどちらかというと派手さがないんですけども。そこに逆にいうと内向的な人間というか、決して派手ではないけれども、そういう世界をとても自分自身の言ってみればロマンティックな、そして孤独な世界なんですけれども、それをすごく大切にした作曲家だと思うし、そこに魅力を感じますね」と。また「オペラというのは、登場から最後まで一つのキャラクター、一人の人間を演じてるわけですけれども、歌曲の場合は一曲一曲設定が主人公が全くぜんぶ違う。その一曲一曲ステーションを変えていくわけですよね。それが、やっぱりオペラを経験すると即その中に入っていくというトレーニングを知らず知らずのうちに、毎日それでもって、状況に入っていくのとリンクしてるので、すごく役に立ってますね。だからオペラをやってなかったら、逆にいうと縄張りと歌うのは難しかったかもしれないですね。まあ集中力の問題です。

 

「おまえの蒼い瞳よ 作品598」グロート:作詞
「郷愁その2 帰り道はどこ 作品638」グロート:作詞
「ご機嫌いかが?私の女王様 作品329」ハーフィス/ダウマー:作詞
「墓地で 作品1054」リリーエンクローン:作詞
「湖で 作品592」ジムロック:作詞
「われらはさまよい歩いた 作品962」ダウマー:作詞
「五月の夜 作品432」ヘルティ:作詞
「永遠の愛 作品431」ヴェンツィヒ:作詞
「一本の菩提樹が立っています~49のドイツ民謡集 第1集」
「谷の底では 49のドイツ民謡集 第1集 第6番」
「静かな夜に 49のドイツ民謡集 第42番」
「僕の彼女はばら色の唇をしている 49のドイツ民謡集 第25番」
アンコール「愛の歌 作品715」ヘルティ:作詞
アンコール「たより 作品471」ダウマー:作詞
アンコール「野の寂しさ 作品862」アルメルス:作詞

🎵55分編集の中で14曲を次つぎに歌ってくれた。オールブラームス。歌う方々は、曲が変わるごとによくもこのようにその曲に入り込み、歌い上げるものと感心していたが、戸山俊樹が仰っていたが、これはオペラの経験があり集中力も備わっていてできることであると。オペラでは状況にすぐに入っていける訓練を積むのだそう。オペラは登場して最後まで一つのキャラクターを演じ歌う。いうなれば一つのドラマにのっとって歌えるということなのだろう。ところが歌曲は一曲一曲ステーションが変わる。即対応し感情移入ができるすごさ。

「おまえの蒼い瞳よ」(グロート詞)、「帰り道はどこ」(グロート詞)―帰り道はどこ なぜ幸せを求めて母の手を放してしまったのかー、「ごきげんいかが私の女王様」―ほほえむだけで春風がふき おもたいこの心もしあわせにー、「墓地で」(リーリエンクローン詞)、「湖で」(シムロック詞)、「われらはさまよい歩いた」(ダウマー詞)、「5月の夜」(ヘルティ詞)―自分はやぶの間をさびしくさまよう 木の葉に隠れたつがいの鳩が 甘やかな声を聞かせるが 自分は背を向け 暗い影をもとめ ひとりで涙にくれるー、「永遠の愛」(ヴェンツィヒ詞)―ふたりの愛を分かつのはむり 鋼も鉄も堅いけど ふたりの愛はもっと硬い 鉄も鋼もきたえれば形が変わるが ふたりの愛の形は変わらない―ふつうは感情的な美しいことばがつかわれるところに、硬質な語彙の登場がおもしろい。次からは「49のドイツ民謡集」からで、「一本の菩提樹が立っている」、喪失の嘆きをぼだい樹に慰められる。「谷の底には」、「しずかな夜に」―獣も嘆いてくれる 石と岩の影からー、「僕の彼女はばら色の唇をしている」、これが今回の曲目の中では唯一、明るく弾んで、ちょっと有頂天な曲だったけれども、これはバスという音域ではけっこう難しい表現であるかと思われた。アンコール曲は「「愛の歌」(ヘルティ詞)、「たより」(ダウマー詞)、「野の寂しさ」(アルメルス詞)

バスの魅力はやはりロシア民謡、広大な、荒涼たる表現に向くとの思い込みがあったが、沈みゆくような、地の底からの意思、暗闇、陰、嘆き、さらには愛の喪失というステージを深くもの憂げに思慮深く歌うにも相応しいのだと知らされる。底深いドラマ性のある胸の内といったところを聞くことができた。ブラームスの孤独の深さをしばし共有。

もうすこし時間が経てば、筆者にもダウマーのように「想ったことはすべて美しかった、天国のように明るかった、頭の中で思ったことが、金色の鈴のように鳴り響いた」と思われる日が訪れるだろうか。

訳は広瀬大介。

🎧名曲アルバムは成田為三の「浜辺の歌」。ポップのようにうたう方、どなたであったか名前見落とし。自筆楽譜も。 

⛳駆け足で冷える冷える朝、感染拡大の朝、7時3分更新。

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きょうのことば 『主は私の羊飼い』 ―年末感謝講壇―

インマヌエル盛岡キリスト教会20201227()の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。(説教は1週間遅れで掲載しております)

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説教題 『主は私の羊飼い』 ―年末感謝講壇― (國光勝美 牧師)

聖書引証 旧約聖書 詩篇23篇1~6

ダビデの賛歌
1 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。
3 主は私のたましいを生き返らせ 御名のゆえに 私を義の道に導かれます。
4 たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。 あなたが ともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。
5 私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え 頭に香油を注いでくださいます。 私の杯は あふれています。
6 まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。 私はいつまでも 主の家に住まいます。

<お話し>

 1年を締めくくるこの朝は「主は私の羊飼い」、詩篇23篇に導かれました。皆さん方と共に恵みをお分かちさせていただきたいと願っております。

 (ここで教会の1年の動向、新型コロナの状況下にある活動などを振り返るときが持たれました)

  きょうは感謝とともに聖餐式を持とうとしております。

「主は私の羊飼い」、聖書に親しんでいる方々は、 ほんとうにそうだ、ほんとうに主は私の羊飼いでいらっしゃるとそれを経験的に深く納得し、このみことばを受け留めていらっしゃるだろうと思います。

 詩篇23篇は、ダビデが晩年になって、主はまことに私の羊飼いでいらしたと自分の生涯を振り返り詩に記したものです。ダビデは少年時代、羊飼いをしていました。そのときの王様は初代のイスラエル王サウルです。サウルは自分の王座が、敵との戦いに次々に勝利し人気が高まるダビデに簒奪されるのではないかと恐れ、ダビデの命を狙いました。しかし、ダビデは身に危険が迫る中で、羊飼いなるお方、命を守って下さるお方がおられる経験をいたしました。30歳で即位しイスラエル全土を統治しましたが、晩年は自分の息子アブサロムに裏切られ命を狙われることともなり、それは彼の生涯の中で最も悲しく辛いできごとでありました。荒野の中で、ダビデは経験的に、ああ、主は私の羊飼いであると納得したのであります。また、ダビデは人間の弱さも持っておりました。王座にあったときに、臣下ナタンの妻であるバテシバと関係を結んでしまいます。それを預言者ナタンに叱責されます。あなたはいったい何ということをしたのか。ダビデはその時、王の権威をもってナタンを殺すこともできたはずです。しかし、神様の前にほんとうに罪を悔い改め、主から扱いを受けたときに、義の道に導いてくださった憐れみ深い主を知ったのであります。ダビデはその生涯を通して理想の王であるといわれていますけれども、決して欠点のない王様ではありませんでした。しかし、主の前にいつでも砕かれ悔い改めて赦していただく、そのことを生涯かけて体験していきました。

 この23篇を知的に知っているというだけではなく、2020年の歩みを振り返って、或いは、自分の生涯を振り返って、ああ、主はほんとうに私の羊飼いでいらした。主は私と共にいてくださった。このように深く納得し頷くことができる歩みを一人ひとりがさせていただいたように思います。そして、私自身この1年を振り返るとき、まさに詩篇の23篇がそのとおりでした。主よ有り難うございます。主は私と共におられました。これからも主よ共にいてください。このように告白するものです。

 羊とは愚かなものです。迷いやすいものです。しかし羊のために命を捨て、羊をやさしく導き抱いてくださる主が私の主であってくださる。どうぞこの納得を深く深く確認をしていただく23篇でありたいと思っております。

 ここにニューヨーク市立大学のリハビリテーションルームに刻まれた詩がございます。
ベトナム戦争に従軍した若者が書いたといわれています。

 

苦難にある者たちの告白

大事をなそうとして
力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと
弱さを授かった

より偉大なことができるように
健康を求めたのに
よりよきことができるようにと
病弱を与えられた

幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと
貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして
権力を求めたのに
神の前にひざまづくようにと
弱さを授かった

人生を享楽しようと
あらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと
生命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた

私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ

 これはまさに詩篇23篇そのものであるように思います。

 詩篇23篇、皆さんは新改訳2017で味わっておられるでしょう。こんどは私が親しんでおります文語訳聖書の方でお読みしてみます。

ダビデのうた

23:1ヱホバは我が牧者なり われ乏しきことあらじ

23:2ヱホバは我をみどりの野にふさせ いこひの水濱にともなひたまふ

23:3ヱホバはわが霊魂をいかし名のゆゑをもて我をただしき路にみちびき給ふ

23:4たとひわれ死のかげの谷をあゆむとも禍害をおそれじ なんぢ我とともに在せばなり なんぢの笞なんぢの杖われを慰む

23:5なんぢわが仇のまへに我がために筵をまうけ わが首にあぶらをそそぎたまふ わが酒杯はあふるるなり

23:6わが世にあらん限りはかならず恩惠と憐憫とわれにそひきたらん 我はとこしへにヱホバの宮にすまん

20201228-162440

 

(引き続き聖餐式が執り行われました)

 聖餐式はその生涯クリスチャンが折あるごとに主イエス様の十字架の贖い、そして、裂いてくださった十字架上のおからだ、流してくださった贖いの血潮、それをパンと葡萄の液を用いて、クリスチャンたちが何回も何回も思い起こし恵みを新たにさせていただく儀式です。洗礼式は生涯においてただ一度のものです。しかし聖餐式はその機会があったのならば感謝し謹んでこれを受けるべき聖餐の礼典であります。

聖書をお読みいたします。第一コリント112329

11:23私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、 11:24感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」 11:25食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」 11:26ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。 11:27したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。 11:28だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。 11:29みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。

賛美歌「しみもとがも♪」を歌って聖餐式に入りました。

※画像は教会からお借りしています。

⏰6:00更新

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新年雑感

 クラシック倶楽部もお休みで何か手持無沙汰のような心境で「明治神宮不思議の森」にチャンネルを合わせてみる。天皇家ゆかりということでどうかなと思っていたのだが、これがすばらしい宝であることが。樹木、昆虫、動物、水生植物、その他その他。世界的な権威の学者たちが一丸となって、というよりも自分の専門分野に無我夢中で調査、研究の結果記録されたものなのだが。再放送。150年前に本田静六ら3人の林学士らの計画による森林。たぶんこの森の調査結果がまとめられた著書が出版されているかもしれない。この番組をすでに見た方も多いだろう。この森林計画、植樹する樹の種類に反対した大隈重信を本田静六が説得し広葉樹の森に。あの大都会に、このような豊かな質を宿す森が存在していることの驚き。いま本田のように行政に断固反対し環境の重要性についてものを言える学者が何人いるのだろうと思いが及んだ。

 正月は元旦礼拝からはじまる。元旦の聖書からのおすすめが何であったかは後日となるけれども。年末に考えていた。考えるより先に行動した方がいいという考え方もあるようだけれども。たしかに考えるばかりで終わってしまうことの方が多い自分ではある。それでも年末に思いめぐらしていた。教会の中にあって自分は格別に正義感が強く悪い者に向かって敢然と立ちはだかり弾劾するというタイプではない。聖潔という点においては、キリストの十字架、つまりこれを信じる者には何人であってもその罪を赦しきよめるというこれによってのみ赦されている者であるという自覚がある。私は自分をこのほど「神様に掃き寄せられた者」と自覚。おまえは1にも2にもまだまだ足りないがこちら側、神の側について、自分のできることをやりなさい。落ち葉がほうきでサッサと掃き寄せられるように、神によって神の側に掃き寄せられているものである。聖書には偉大な信仰者が出て来るけれども、自分はそういった人物には1にも2にも足りないけれども、どうやら、もう神によってそう掃き寄せられてしまっている。

 コロナ禍にあってそう深刻にならずにいられるのは、やはり音楽によるところが大きい。大晦日夜8時からは12時近くまでやはりTVだった。またTVか。そうです。これがベートーヴェンの交響曲、エグモント序曲であったところもあるが、京都、仙台、群馬、九州、山形、大阪、名古屋、札幌、広島、広島がエグモントだったが。各オケを通してふだん名前だけを知っている、他の方々はみなよく知っているに違いないのだが、自分は。その指揮者の指揮を見ることができた。各オケの今の顔、また一挙に日本の指揮者たちの個性あふれるすばらしい指揮を見ることができた。いったいどうなったかと気がかりだった主な音楽祭バイロイトは空調設備がなく中止だったようだが。ザルツブルク、チューリッヒのようす。またウィーン楽友協会でのジョン・ウィリアムズの「スター・ウォーズ」の演奏に対するウィーンの反応。すでにぎりりと世界に一角を画する新倉瞳、嬉しいことに岩手の宮古ジュニア弦楽合奏団に昭和47年に来てくれた堀米ゆず子の登場。彼女は日本初のエリザベートの優勝者、あのときいったい誰が堀米という少女が後にここまでと想像し得ていただろうかと思うと愉快。庄司紗也香、パガニーニ最年少優勝の人。この方のやはり世界の「バルトーク」は鋼色の切れ味。3月かに再放送が。コロナ禍に響く音楽の数々はとにかく素晴らしく明るかった!
気になるのは紅白。どうであったか。

⛳6時49分更新。

 

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新年のご挨拶を申し上げます。

明けましておめでとうございます!

ことしも宜しくお願い申し上げます!

コロナの収束を願いつつ。

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6時41分更新

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