きょうのことば 『ヨセフとマリアの信仰』―第三アドベントー
メリー メリー・クリスマス!
クリスマスは25日とされていますが、全世界の多くの教会はきょう20日にクリスマス礼拝を持ちます。
このブログの教会の説教は一週間遅れで掲載しておりますので、クリスマス・メッセージは来週になります。
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インマヌエル盛岡キリスト教会の2020年12月13日(日)の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。
説教題『ヨセフとマリアの信仰』―第三アドベントー (國光勝美 牧師)
聖書引証
新約聖書 マタイの福音書1章18~25節
1:18イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。 1:19夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にはしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。 1:20彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフよ。恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。 1:21マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」 1:22このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。 1:23「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。 1:24ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、 1:25子を産むまでは彼女を知ることがなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。
<お話し>
きょうは「ヨセフとマリアの信仰」ということでメッセージを語らせていただきます。
クリスマスのできごとですが、地図をご覧ください。
まず小さな数字の1というところ、これはベツレヘムと書いてある近くですけれども、イエスはをマリアとヨセフを親としてベツレヘムに生まれたとあります。それから、2というところ、グリーンの矢印が上から下のほうに出ています。2のところを読みますと、東方(バビロニアかペルシャだと思われるが、アラビヤの可能性もある)の占星術師が王になるおさなごを見ようとやってきた。ヘロデ王は彼らの知らせに心をかき乱されるとあります。これは博士たちがやってきたあの場面です。これが地図の上から下の方にグリーンの矢印、エルサレムにやってきました。そしてこんどは3、ヘロデは彼らをベツレヘムに送った。そこで彼らはイエスを見て贈り物を捧げたのですが、4彼らは大急ぎで別の道を通って帰っていきました。さあ、ヘロデ王はこのおさなごイエス様を殺そうと企んでいたわけでありますが、こんどは5、赤い矢印がベツレヘムからエジプトの方へと長い矢印が出ています。これは、夢で警告を受けたマリアとヨセフが安全のためにおさなごをエジプトにつれてくる。これが赤い矢印です。そして6ヘロデはベツレヘムで2歳以下の男の子を殺したということです。
さてこんどは新約聖書のマタイの福音書1章にイエス・キリストの系図が出ています。
1節アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。
最初にこのように書かれている。そして、誰が誰を生み、誰が誰を生みと、……と連綿と続くのですが、たとえば
7節、ソロモンがレハブアムを生み、レハブアムがアビヤを生み、アビヤがアサを生みというように、ずっと系図が書かれてあるのですが、15節エリウデがエレアザルを生み、エレアザルがマタンを生み、マタンがヤコブを生み、16節ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスはこのマリアからお生まれになった
セフはアブラハム、ダビデの家系を引き継ぐそういう人物である。ヨセフが生まれたのですけれども、16節をよく読むと、キリストと呼ばれるイエスはこのマリアからお生まれになったと、こうあるわけです。いままでとちょっと書き方が違います。つまり、この書き方を見て、イエス様がヨセフの子と記されて、つまりヨセフがイエスを生みというようには書いていない。キリストと呼ばれるイエス様はこのマリアからお生まれになった。明らかに今までの書き方と違っており、イエス様の母はマリアである。そしてそのマリアの夫であるヨセフはアブラハム、イサク、ダビデの子であるけれども、それはイエス様のいわゆる父ではない。マリアが聖霊によってみごもったということであり、17節18節以降に出ているわけであります。どうぞこの系図、このような特色があることを心に留めさせていただきましょう。
マリアと夫のヨセフ、イエス様がこの二人の間に生まれました。しかし、その後、ヨセフとマリアの間には子どもが生まれています。その証拠にマタイの13章55節をお開き下さい。イエス様が伝道をしているときに人々が、イエス様のお話しを真剣に聞くことができなかった。なんで偉そうにイエスは話をしているんだ。自分たちはあの家庭をよく知ってるぞ、という文脈です。
13:55この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。
ここでヨセフが大工だったということがわかります。そしてその母親はマリアじゃないか。その弟たちはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダじゃないか。こう人々はいっている。つまりこの図にもどりますけれども、ヨセフとマリアとの間には、イエス様がまずお生まれになった。しかしそれはヨセフが所謂人間における父親ではなく、聖霊によってマリアが身ごもった。しかし、ヨセフとマリアの二人の間には、これだけのイエス様の兄弟たちが生まれているということがわかります。最初に書かれておりますヤコブという人は新約聖書のずっと後ろの方にヤコブ書というのが出てまいります。ヘブル書のあとにヤコブの手紙がありますけれども。このヤコブの手紙を書いたのがこのイエス様のいわゆる肉における弟のヤコブです。
実は言い伝えがありまして、イエス様が活躍をし伝道をしておられるときに、ヤコブたち兄弟がまだイエス様を、つまり自分の兄貴を神の子であり救い主であるとは受けとめられなかった時期がありました。わかる気がします。しかし、イエス様のよみがえりを目のあたりにしてからは、ああそうだったのか、ほんとうに十字架のあと、復活のあと、ヤコブは重要な証人として、ある意味教会の指導的な立場になったといわれています。きょうはそのことに詳しくは触れませんけれども、これが、マリア、ヨセフとの関係であるということを心に留めさせていただきましょう。
さて、ヨセフがマリアの受胎を知ったのはマタイの福音書1章18節
1:18イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
これはヨセフが誰よりもよく知っていることです。私はまだマリアと一緒になっていない。しかし、マリアのお腹の中には赤ちゃんがいる。
いちばん戸惑ったのは、ルカの福音書なども参考にしますと、マリアは受胎告知、聖霊によって身ごもり、天使によってその受胎がわかったとき、彼女はおばさんのエリサベツという人物のところに行きました。これはルカの福音書1章16節にございます。あまり詳しくは触れませんが、マリア自身も戸惑って、これはどういうことかと自分のことをよく理解してくれる親戚のエリサベツのもとに3か月間滞在をしています。そこでマリアが心の整理がきちんとついたところで、さあこのことを婚約者である誠実なヨセフに伝えなければならない。マリアは、その覚悟をもって、エリサベツのもとから帰ってきました。そして、ヨセフに話します。これを聴いたヨセフは心から信頼していたあのマリアが。その心の苦しみはいかばかりでありましたでしょうか。
1:19夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にはしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。
これがヨセフの結論でした。どう見ても未婚のマリアが赤ちゃんをはらんでいるなどはあり得ないことだ。そして、マリアは、これは聖霊によるといったけれども、どうしても受け容れられるものではないだろう。夫のヨセフは正しい人です。申命記22章23、24節にありますけれども、
23 ある人と婚約中の処女の娘がいて、ほかの男が町で彼女を見かけて一緒に寝た場合、24 あなたがたはその二人をその町の門のところに連れ出し、石を投げて殺さなければならない。その女は町の中にいながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻を辱めたからである。こうして、あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。
石打の刑というのは、最も残酷な死刑の方法です。その最初に石を投げなければならないのはヨセフ自身。マリアを石打にする、死刑にするその石をヨセフが最初に投げねばならない。たしかにマリアを受け入れることはできないけれども、しかしそういうようなことはとてもできない。ヨセフのもう一つの結論は密かに離縁しようということでした。ここでヨハネの福音書8章7節おひらきください。新約聖書の195頁になります。
7 しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」
イエス様の周りにはいつもイエス様の言葉尻をつかんで何とかイエス様を陥れようと企む人々がいましたが、その者たちが絶好の口実を得たできごとが、このヨハネの福音書8章の冒頭部分にございます。
その4節を見ると
4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。」
この女は姦淫の現場で捕えられた。言い逃れもできない。この女を引き立ててきて、「イエス様、あなたは日頃愛を説いておられますけれども、さあ、どうしますか。この女は姦淫の現場で捕まえられた女です。あなたは律法の正しい教えをなさる教師でいらっしゃいます。さあ、律法ではこのような女を石打にするよう、このように書いてあるのを、あなたはよもや知らないとは言わないでしょう。この女は姦淫の現場で捕まえられてきた女です。さあどうしますか。」、こうイエス様に詰め寄った。ヨハネの福音書8章7節にございます。
7節しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」
イエス様はこのように答えられた。そう律法ではたしかにこのような者には石打の刑、それを命じている。さあ、それと同じように、あなた方の中で罪のない者が先ずこの女に石を投げなさい。殺しなさい。
9節 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。
10 イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」
11 彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたに裁きを下さない。行きなさいこれからは決して罪を犯してはなりません。」
再び罪を犯すんじゃないですよといって、イエス様はこのように女性を扱いました。さあ、このことを心に留めながらもういちどマタイの福音書1章にお帰りください。
1:19夫のヨセフは正しい人で、
律法を正しく行うならば石打の刑、ヨセフがまず石を投げなければならないでしょう。しかし夫のヨセフは正しい人で、密かにマリアを離縁しようとした。ここに夫ヨセフの人となりがよく表れています。ヨセフの決断の中に、あのイエス様と同じ思い、それがあった。これも心に留めながら、
1:20彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフよ。」
何ものかが、そう、主の使いがこうヨセフに呼びかけた。軽くさっと読み流してしまいそうなところですけれども、「ダビデの子ヨセフよ」と呼びかけられたのです。先ほど系図にありました。アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。その中にヨセフがいる。
見よ、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフよ。恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。」
あなたがマリアを妻として迎えなさい。マリアから生まれるこの子どもは聖霊によるんだよ。イエス様のような思いやりのあるヨセフに対して、御使いは、あなたはこれから大切な使命を果たすために選ばれた男なんだよ。マリアの胎にいるのは聖霊によるんだよと。そして、21節
1:21マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
その名をイエスとつける。これは「罪からの救い」ということを表すことば。つまりこのおさなご、これからマリアの胎から生まれるこのお方は、罪から人々を救うための男の子として生まれるんですよ。こうヨセフに夢で御使いが示されたのです。マリアとヨセフ、あなたはダビデの子孫だよ。そしてダビデの子孫から救い主が生まれるんでしょう。マリアから生まれる。あなたの妻のマリアから生まれる。そしてもう一つ、22、23節
1:22このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。 1:23「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
この23節のおことばが、このマリアの胎に宿っている男の子、それは「その名はインマヌエル」、その意味は「神が私たちとともにおられる」。これがこのお方の本質をあらわしている。
つまりこの21節では、生まれるその子はイエスであり、罪からの救い主という使命を果たす。そして23節では、これから生まれるところのおさなごは「神が私たちとともにおられる」という本質をもっているということを御使いがヨセフに夢を通して告げられたのであります。
しめくくりにヨセフとマリアの信仰、これを見ていきましょう。私は二人とも自立した信仰を持っていた人たちだとこのように申します。
ルカの福音書1章38節1:38マリヤは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」
未婚の自分が子を宿すという事がどういう社会的な批判を受け、辱めを受けなければならないかも分かっていながら、「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」とはっきりとマリアは自分の信仰をもって神のことばに従いました。「私は主のはしためです」。そしてマタイの福音書1章にあるようにヨセフは恐れずにマリアを迎えました。マタイの福音書1章20節にあるとおりでした。
「ダビデの子ヨセフよ。恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。」。そして24節1:24ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れた。
これがヨセフとマリアの信仰として私たちがきょう心に留めたい大切なメッセージです。私達もどうか、マリアのごとくまたヨセフのように、神のことばにはっきりと従って進んで行く者であらせていただきたいと存じます。
※週報、画像は教会で作成されたものをお借りしています。
⏰5時41分更新
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