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きょうのことば  

 インマヌエル盛岡キリスト教会の20201115()の礼拝はズームによる自宅礼拝となりました。宣教聖日となっておりますが、平瀬義樹先生のメッセージ部分を視聴しました。


 DVDを視聴に先立って國光牧師から次のような挨拶がありました。
・コロナ感染拡大が盛岡市中心街に及び、クラスターが複数発生しています。
・教会も真剣にこれに対処するべく、急遽会堂礼拝ではなくZoom礼拝を行うことになりました。
・「世界宣教局作成DVD」による礼拝を予定していましたが、台湾派遣宣教師・平瀬義樹先生のメッセージ部分を用いさせて頂きます。
We will not fear, but  prepare.(私たちは恐れません。でも備えます。)
 このことばは、ケニア派遣宣教師・蔦田就子先生からのもので、ケニア・テヌウェック病院でコロナ対策を進めるスローガンとなっているそうです。
 Ⅱテモ1:7   神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。
・初めてのZoom礼拝、またDVDを用いてのメッセージとなります。牧師の不慣れな操作になりますが、愛兄姉方のご協力・ご寛容をお願い致します。

   20201117-175459

説教題 「神のみことばはどこに?」(台湾派遣宣教師 平瀬義樹 先生)

聖書個所 使徒の働き6章7節・8章4節 
使徒の働き6章7節こうして、神のことばはますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった。
使徒の働き8章4節散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。

 使徒の働きは初代教会の歴史です。古い聖書、文語訳聖書の使徒行傳、この同じ漢字が中国の書名です。まさに聖霊に満たされた使徒たちが活き活きと活動した信仰生活の歩みが記されています。

 それを読むと、教会が目覚ましい勢いで成長したことがわかります。主イエスは天に戻られるまえに、エルサレムに留まって聖霊が与えられるのを待つように弟子たちにお命じになります。その時の弟子たちはおよそ120名です。ところがペンテコステのときに聖霊が弟子たちに降られ、彼らは御霊に満たされて神のみことばを宣べ伝えたとき、その日だけで3000人がバプテスマを受け弟子たちの群れに加えられました。主は毎日主を信じて救われる人々を教会に加えてくださり、あまり日が経たないうちに弟子の数が男性だけでも5000人になりました。使徒の働きの514節には「そして主を信じる者たちはますます増え男も女も大勢になった」とあります。

 いまお開きをしました使徒の働きの67節には「こうして、神のことばはますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった。」とあります。聖書はその具体的な数を記していません。このような目覚ましい教会の成長の拡大はどのようにして起こったのでしょうか。

 使徒の働きを読むと、一つのキーワードに要約された節が幾つもあることに気がつきます。それは使徒の働きの随所にちりばめられている「こうして」という節です。

その働きには5つあります。

一つ目は使徒の働きの67節「こうして、神のことばはますます広まっていき」

二つ目は使徒の働きの931節「こうして、教会は……聖霊に励まされて前進し続けた」

三つ目は使徒の働きの1124節「こうして、大勢の人たちが主に導かれた」

四つ目は使徒の働きの165節「こうして諸教会は信仰を強められ日ごとに人数を増えていった」

五つ目は使徒の働きの1920節「こうして、主のことばは力強く広まり、勢いを得ていった」

 「こうして」とはどうしてなのでしょう。それを理解すれば初代教会の成長の秘訣、伝道の方策を見つけることができるのではないでしょうか。

 実はこの「こうして」の前に、初代教会は幾多の問題に直面しているのです。まず第一は、教会は問題課題によって成長する。教会は問題課題を解決することによって成長するということです。

 一つ目の使徒の働きの67節の前半をご覧ください。「こうして、神のことばはますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった」。最初の「こうして」とある場所は、使徒の働きの6章の1節~7節です。ここにある問題は、教会内のやもめたちへの食糧の配給に関してのものでした。
 当時の社会は貧富の差が大きく、教会が貧しい人たちを助けていました。エルサレム教会では、豊かな人たちがその財産を売り、その代金を教会に捧げ、それが貧しい人々に分け与えられていたのです。けれどもどんなに細やかな配慮をしていても、人の集まるところには何らかのトラブルが起こるものです。ギリシャ語を話すユダヤ人から、「ヘブル語のやもめたちには毎日配給があるのに、私たちには配給がない日がある」と苦情がでました。この背景に、ヘブル語を話す人たちとギリシャ語を話す人たちとの間の不一致があったのです。ギリシャ語を話すユダヤ人というのは外国生まれのユダヤ人で、外国から母国に帰ってきたのですがまだヘブル語を話せないでいる人たちでした。この人たちは言葉の壁もあり色々な面で肩身の狭い思いをしていたのでしょう。初代教会は多言語、多文化の教会でした。これだけでも色々なトラブルが起こる要素があります。けれども教会はその言葉の壁、文化の壁を乗り越えて一つになっていかなければなりませんでした。愛する兄弟姉妹、けれどもこれは初代教会だけの問題課題でしょうか。私たちの心に他の人たちを思いやる心、受け入れる心、赦す心がすこしずつ萎えてゆき、失われてはいないでしょうか。
 やもめたちへの配給の問題には、教会の霊的な一致という大きな課題が含まれていましたが、神様はこの問題を通して教会にさらに一致を与えようとされたのです。7節に「こうして、神のことばはますます広まっていき」とあるように教会はこの問題課題によって、もっと正確にいうなら、この問題課題を解決することによって成長していきました。しかもどこか外からというのではなく、教会の中からその解決のために人材を選びその任に当たるという方法をとったのです。教会は問題課題のないところではありません。けれども教会は問題課題を克服し解決していくところです。そして、その教会の問題課題が克服され、解決されていくと、神のみことばがさらに広がっていくのです。主の導きと助けによって問題課題の解決を求めて進むとき、主は私たちに為すべきことを示してくださるのではないでしょうか。

 大きな2番目として、このとき私たちが心に留めさせていただきたいのは、教会はみことばを宣べ伝えながら成長していくということです。8章の4節をごらんください。「散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた」。

 この8章では初代教会の問題課題は一層深刻なものとなり、彼らはさらに厳しい現実に直面させられます。サウロによる「この道の者」たちへの情け容赦ない迫害です。あの執事のひとり、御霊と知恵とに満ちた恵みと信仰と力に満ちたステパノが公衆の面前で命を落とした。それはあまりにも突然の受け入れられない事態でした。初代教会の人々の心の痛みと悲しみは察するに余りあります。主よなぜですか。主よどうしてですか。サウロの迫害はさらに勢いを増し、激化します。クリスチャンたちは非常な恐れと募る愁いをもって散り散りばらばらに散らされていきます。主よいつまでですか。どこにおられるのですか。助けてくださらないのですか。愛する兄弟姉妹、彼らは散らされて何をしたのでしょう。

 もういちど84節の後半をみてみましょう。「みことばの福音を伝えながら巡り歩いた」。
 散らされた人々、初代教会の人々がしたのは、それはみことばを伝えたということでした。ルカはみことばを、4章の31節には、「神のことば」、5章の20節では「いのちのことば」、8章の25節では「主のことば」、そして157節では「福音のことば」と記しています。さらに使徒の働きの記述の中で、繰り返し繰り返し強調しています。ひとに本当の自由と救いを与える神の生けるみことばこそが、いつの時代にもどのような状況においても、教会が聞くべき、そして信ずるべき、そして宣べ伝えるべき教会の宣教の中心なのです。
84節「散らされた人々はみことばを伝えながら巡り歩きました」
 たしかに迫害者たちの目からみれば、使徒たちはエルサレムから散り散りばらばらに散らされていったのですが、けれどもその視点を聖霊の力による宣教の前進というところに置くとき、この散らされたという現実は主の御手によって遣わされていった派遣の旅ということになります。宣教の困難についても理由をあげればきりがありません。もしこの状況では宣教活動は難しい。自粛しようというときがあるとすれば、それはいつでもそのようなときになるかもしれません。特に彼らの置かれているときは、まさにそのような状況のとき、十分あてはまるときだった、このように申し上げることができます。けれども彼らはこの困難な拡大のとき、遂行と〇〇(聞き取れませんでした)のときをそのようには捕えませんでした。むしろ彼らは散らされていることを宣教の拡大と前進の時と受け止め果敢に福音を宣べ伝えることにチャレンジしていったのです。この初代教会のクリスチャンたちの活き活きとしたすがたに、時にそのしたたかさやしぶとさすら痛快に覚える気がします。

 いま私たちはそれぞれの家庭に、それぞれの会社に、それぞれの学校に、地域に社会に国に、みんなと離れ離れになり散り散りになってひとりで置かれているのではありません。イエス様の「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」との約束により、聖霊による力と励まし、慰めを受けて、見えない公同の教会の交わりの中で、今ここに遣わされている。私達も私たちの存在の小ささや弱さ力のなさのゆえに意気消沈することがむしろ知らされてこそ主の証人であると燃える思い信仰をもってこの時代にまっすぐに生きて行く者であらせていただきましょう。

※このメッセージはyoutubeで公開されております。

⏰6時5分更新

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