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2020年11月

201130 クラシック倶楽部を聴く マキシミリアン・ホルヌング&河村尚子 デュオ・リサイタル

マキシミリアン・ホルヌング&河村尚子 デュオ・リサイタル【収録】2017年10月12日 京都コンサートホール アンサンブルホールムラタ―番組紹介よりー

19歳でドイツ音楽コンクールで優勝。バイエルン放響首席チェリストを経て、現在はソリストとしてムター、ヤンソンス/バイエルン放響、ジンマン/ピッツバーグ響、ロンドンフィルなど世界的なオーケストラや演奏家と共演。ソニークラシカルと契約し、ドイツにて優れたCDに贈られる「エコー賞」を2年連続で受賞。河村尚子とは2016年秋にウィグモアホールデビュー。ドイツ在住。

曲目

☆さすらう若者の歌  マーラー(ホルヌング編)

☆チェロ・ソナタ第2番 ヘ長調 op.99  ブラームス

☆アンコール 愛の悲しみ   シューマン

 

🎵きのう番組予告を見ないでしまったのがいけなかったか、なぜか今回も10分遅れての視聴。5時8分にはっと目覚めて大変! とスイッチ・オン。何が大変なのか、習慣的に聴いてきた番組をここで途絶えさせてはならないというのか、朝練に怠慢を生じてしまったというのか、それがどうも前回放送のときも最初の10分ほどが欠けてしまったようで、なぜ? しかしこれは音楽の内容とはほとんど無関係なはなし。

 「さすらう若者の歌」、この4つの区分を.wikipedia.から拾うと

  1. 恋人の婚礼の時 Wenn mein Schatz Hochzeit macht
  2. 朝の野を歩けば Ging heut' morgens übers Feld
  3. 僕の胸の中には燃える剣が Ich hab' ein glühend Messer
  4. 恋人の青い目 Die zwei blauen Augen

 この番組で4は「彼女の青い目が」であった。この4から聴いたわけだけれども。さまざまな悲しみの表現といった感じが。1~3をも思いだしていうと、悲痛、寂寥、孤独、沈んだ怒り、苦しみが。芸術家の苦しみ悲しみはかくも味わい深いかと。

 「チェロ・ソナタ第2番」、名曲アルバムのブラームスの曲をめぐる映像をみたばかりで、書こうとするとクララの蔭が付きまとっている。親交を知ると、ブラームス曲へのクララの影響がいよいよ色濃く聴こえだしているところが、音楽鑑賞のうえでは厄介。

 今回の演奏、チェロもよかったが、ピアノも好ましく耳にのこっている。

 

🎧名曲アルバム。ブラームスの「3つの間奏曲 第一番」

⛳けさは寝坊したというよりも、病気の友人のことを考えていた。彼女の顔が浮かんで、こんな善人がなぜだ~! 世の中には連日遊びまわって愉快に暮らしている人間がいる。元気元気で。それが善人がなぜ!
永遠の不条理を抱えたまま7時8分更新

 

 

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201129 きょうのことば 『恐れないが備えよう』

インマヌエル盛岡キリスト教会202011月8日()の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。

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説教題『恐れないが備えよう』(國光勝美 牧師)

聖書個所 第二テモテ1:7  神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。

<説教>

今回、岩手でも急激なコロナ感染拡大がありました。それに伴い、今回のお話しは短くワンポイントにしまして、クリスマスの持ち方などをこのズームで皆様と話し合う時間を取りますので、ご了解いただきたいと思います。

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 前回は世界宣教聖日でしたが、そのDVDはお見せできませんでしたが、その中でケニヤの蔦田就子医療宣教師が紹介しておられた先生が「テヌウェック病院では去年の7月からコロナ対策チームを結成しました。私たちは恐れない、しかし備える」と言っておられました。

「私たちは恐れない。しかし備える」。このことばが神様からの私への語りかけとして大きな意味を持ちました。私たちは世の中の人たちがいうように恐れはしない。だからといって私たちがそれに無知なのではない。怖れて何もしない、できないではなく、備える。このバランス感覚を私たちは今こそ現実の問題として受け止めるときではないでしょうか。神が私たちに与えてくださったのは、恐れる、臆する霊ではない。この臆病という言葉は消極的な響きですが、恐れるということが罪と直結するとはにわかには理解しがたい。恐れるということと、それが罪であるということとは必ずしも直結しないと思うのです。私はこれを思いめぐらすときに、よきサマリヤ人のたとえを思い起こしました。ルカの福音書の1030節からにございます。

10:30イエスは答えられた。
「ある人が、エルサレムからエリコへ下っていったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。10:31たまたま祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。 10:32同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。 10:33ところが、旅をしていた一人のサマリヤ人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。10:34そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。

 ここで祭司が瀕死の旅人を近くを通りながら、これに関わりたくないとその人を避けて遠回りをして過ぎ去っていく。神に仕えるレビ人もそのようにして過ぎ去ってしまいました。しかしそこに、当時の人々からは軽蔑されていたサマリヤ人が、強盗に襲われて瀕死の状態になっていた旅人を助けた。そのところに、この臆病というのは、人を助けることができるのにそれをしなかったというのは、何も行わないという事の犯罪にもつながる。これは世の中の法律でもそうでありまして、すればその人は死ななかったのに、あなたには助ける機会があったのにそれを敢えてしなかった場合、それは不作為の犯罪となってしまう。それを思いますと、私は、臆病になってはいけない。為すべきこと、よきこと、それをしっかりとするべきであり、そのために神様は力と愛と慎みとの霊を与えてくださった。この力いただいて、世の中の人が恐れると同じようなことではなくして、神様が私達に力を与えてくださる。よきサマリヤ人は愛をもって行動しました。ここに調和の麗しさがございます。

 この力と愛と慎みの霊が、積極的に良きことを行わせてくださる。それから慎み、これは消極的な側面ですけれども、しかし、たとえば、自分はこのようにやっているのに、同じようなところを通ったあの人は自分と同じようにしなかったと人を裁いてしまう事が私たちには十分あり得るのですけれども、私たちには、神様から力が与えられている。良きことを行う力。しかし、それとともに、自分と同じようにしなかったからといって人を裁いてしまうのではなく、ここにほんとうに慎みの霊をもってそれを見事に調和させてくださるのは愛です。ちょうど愛という言葉が真ん中に入って神様は私たちに積極的な力、そして慎重な慎み、この二つの事がうるわしく調和して今私たちが置かれているこの状況にあって、私たちのあり方を教えてくれているように思われます。

※画像は教会からお借りしています。

⛳5時51分更新

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雑感

 昨朝、今朝と、なぜかメンデルスゾーンの「ピアノトリオ第1番」が頭の中で流れていた。それはそれで5時20分には行動開始。といっても目的のある行動を起こしているわけでもなく、習慣的に、あ、J-MEROが始まる、というだけなのだが。昨夕に1時間ばかりバイオリンで賛美歌ばかりを弾いていたが、そのときのひどかった肩こりも3通りの体操で解消。カーテンを開くと、予報通り一面の雪景色。厚く積ってはいない。どの屋根も屋上も真っ白に区画されて曇り空に寡黙に横たわっているかに見える。室温17℃、湿度32%と乾燥気味。加湿しいまやっと38%に。自然界の花の季節が終わったとたんに、むしろ花屋の店先のシクラメンやポインセチアが彩鮮やかに思い出される。オペラという品種のシクラメンのちょっとクラシカルな紅の華やぎ。緑と赤がクリスマスの定番の色とすれば、降誕にはちょっと遠くなったかに見えるイエロールクスという名のポインセチア。毎年新たな品種の登場に、花の原型が失われ忘れ去られてはしまわないか。

 J-MERO、若手によるJポップのカバーがよく出ているらしい。May J.の「M」も見えていた。「天空の城ラピュタ」、こうして書いているうちにもう7時。キャッチコピーは「ある日、空から少女がふってきた」。あの場面が何とも素敵なアニメ映画に心ぬくもる。架空の世界を歩いていたくなるニュースがけさも。GO TOトラベル、移動が危ぶまれるなら空想の旅にでも出かけてみよう。

 

⛳7時5分更新

 

 

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201127 クラシック倶楽部を聴く 藤倉大 「個展」

イギリスを拠点に国際的に活躍する作曲家、藤倉大。ハクジュホールの開館15周年を記念して行われた公演「藤倉大 個展」からお送りする。【出演】藤倉大(作曲)、本條秀慈郎(三味線)、小林紗羅(ソプラノ)、福川伸陽(ホルン)、新倉瞳(チェロ)ほか【曲目】「NEO(音緒)」「きいて」「Osm」「はらはら」ほか(以上藤倉大作曲)【収録】2018年10月20日 ハクジュホール(東京都渋谷区)―番組紹介よりー

 

藤倉大は1977年大阪生まれ。15歳でイギリスに留学。20歳、最年少で1998年セロッキー国際作曲コンクールで優勝。イギリス拠点に作曲活動。2015年初のオペラ作品「ソラリス」をパリのシャンゼリゼ劇場で初演。クラシック界最前線で活躍。

 

藤倉大のコメント

 僕は作曲する人は必ず演奏する人と密着でないといけない。僕は信じてる。仲間ですから。音階書くだけだったら音楽じゃないですから。誰か音にしなきゃいけないわけで、音にしなきゃいけない人が演奏家だったら、もうその人たちと二人三脚以上の関係じゃないと無理じゃないですか。こうやってきょうの皆さんみたいに友達だと向こうも言ってくるし。こうやったらこんなにうまく吹けるんだよね、といってその録音が入って来て、あとこっちのほうがいいよねとなるんですよ。じゃ、楽譜を変えればいいじゃん、そんな感じで、どんどん書いていくというんでしょうか。けっこうそういうコンタクトする人少ないんですよ、僕の見る限りでは。サーチはするんですけども。訊けばいいじゃん、なんです。
 「GO~ピアノと管楽のための~ から 第5楽章」の完成までに関して。「ゆらゆら」に関しては:たとえばクラリネットのこの曲、GOというとこからくるクラリネットの曲なんですけど、あれも今思い出したのが、僕一応  の教授やってんですけど、僕の家で教えている。僕行きたくないから。でしかも定期的じゃなくてそんな教えなんですけども、それで生徒が10分遅れたかでそのときにクラリネットの吉田 誠くんがフェイスブックやってる、でメッセンジャーでオンラインになってから、3小節ちょっと書いて送ったら、さっと録音して送り返してくれたんです。それをもっとじゃ書き直して書き直して書き直してまた書き足して送ったら、その場でもう15分ぐらいダーっとやって、いいとこでピンポンと来るんですよ。生徒が。それを待たしておいて、それでちょっと書いてそれで、しょうがないから教えてみたいな、また生徒が出て行ったらまた続き。だからGOのあの曲はほんとうにその朝にできちゃった。短いとこなんですけども。皆さん忙しいですから。オンラインのときに捕まったらダーッとできますけど、「ゆらゆら」なんかもほんとに、福川君のお友達のマンションで、福川君の友達が一緒にいたらしいんですけども、僕は電話して、そしたら、その友達が一緒に来ていいよ。ほんとに子どもの感じですよ。遊びに来ていいって。それで遊びにいったんですよ。人の家にもかかわらず夜9時なのにホルン弾いていいって言ってくださったんで、マンションでしょ、そこでいろいろ実験し始めたらその「ゆらゆら」みたいなその不思議な奏法でできるというのがわかって、でも福川君もまあ耳の方もいいんですけども、あんまり、ちょこっと使う事があるって、スタカット的に。あんなにメロディーを、それだけしかない曲ってない、難しいらしいので、ほんとうに僕、あの、7(2018年時点で)の娘がいるんですけど、小っちゃい子どもが子ども同士で遊んでるのとまったく同じですね、僕にとって作曲と言うのは。
 40代を迎えて感じること:若い時って大変なんですよ作曲って。いろんなこと考えなきゃいけないし、作曲っていう面では齢をとればとるほど僕はもっともっと楽しいしもっとやりやすくなってます。作曲するのが簡単というわけじゃないですけど、やりたいと思う事ができる。だからたとえば、たぶんですけどスポーツ選手と比べたら逆、逆走するんだと思うんですよ。よく言うじゃないですか、若い時にはこういうふうにこんなに早く走れたけど、10年経ったら走れないとか。できたことができなくなっちゃうことが齢をとるみたいじゃないですか。でも作曲は逆だと思う。若い時にできなかったことがどんどんできていくという、20代の時は悩んで悩んで大変だったなということも思い出しますけどね。やってるわりに空振りしてるわけですから、あんなに凝ってやってんのにオーケストラに聞いたらそこまで効果的じゃなかったとか。それはそれでいいや、そういう曲だなというのもありますけども、今の方が作曲はいいなと思いますね。

 作曲・オール藤倉大

NEO(音緒)~三味線のための~」
(三味線)本條 秀慈郎
「きいて~ソプラノのための~」
(ソプラノ)小林 紗羅
GO~ピアノと管楽のための~ から 第5楽章」
(クラリネット)吉田 誠
「ゆらゆら~ホルンと弦楽四重奏のための~」
(ホルン)福川 伸陽、(弦楽四重奏)カルテット・アマービレ
Osm(オズム)~チェロのための~」
(チェロ)新倉 瞳
「チャンス・モンスーン~ギターのための~」
(ギター)村治 奏一
「はらはら~ホルンのための~」
(ホルン)福川 伸陽

🎵意外性、独創性に富んでいる。凡そこの音から曲想が湧くとは思われない音から旋律が連なり出ていたり、時としては狐につままれた気分に迷いこませられもする。「またこの曲を聴きたいと思うかといえば、自分には特異すぎて理解が届かない、消化しきれないという思いが」と私は前回書いたのだが、実際聴くという時間になってみると、あの奇異な音の連なりがよみがえり、もしや消化不良にと思いきや、前よりも一層興味深く聴いてしまった。聴かされてしまったというところ。
 
NEO(音緒)」、確かに弾いているのは三味線であるけれども、この演奏から聴こえてくるのは、ロマ、南米それもインカ、中東、インド、そして最後が若干津軽風かなと。エスニックの香も濃厚なのだ。広範囲の学びを感じた。「きいて~」、これは小林 紗羅の作詩。小林 紗羅の正統派イメージを覆そうとグロテスクに仕上げたという。あたかも水の中で苦しみあえぎながらの「聞いて」の連続。やっとステージに浮かび出たかに「聞いて わたしの声を おちをこえ 心をこえ たどりついた 人々のおもい」と歌い上げる。「GO~ピアノと管楽のための~ から 第5楽章」、これは第5楽章がクラリネット演奏になっている。何とピアノの小菅優の委嘱作品。水の底にたゆたい、時折水面に息をしては、表現がどうかと思うが、息せき切ってくちゃくちゃとおしゃべりをするような感じなのだが、これは藤倉が緩徐のあとに用いる一つの手法であると思われた。「ゆらゆら」は福川 伸陽の委嘱。ふつうは使わないハーフ・バルブ奏法であるという。どこか遠くで叫び声もなく訴える声を押し殺した声に弦のさざめきが呼応するという流れ。楽器奏法上のいわば“死角”、この表現が行き過ぎているかもしれないが、そういった緞帳の蔭ともいった部分を探り出し、演奏可能なスペースの響きをかき集めたように感じられる。「Osm(オズム)」、2015年ギアン・ケラスによって初演されている。チェロはどこにいるの? チェロの一般的な朗々とした響きは最後部分で現れるのみ。しかしその変幻のベールをひらりと脱いだかにチェロらしい響きが現われた途端に機械音の重たさ鋭さにも似た旋律の提示。これが藤倉の美感覚に照らして納得したところの音楽であるのか。「チャンス・モンスーン」、これが宇宙観。今回の作品群の中ではむしろ写実的と聴こえた。ギターでの宇宙は聞いたことがないが、これがまた藤倉の実験なのだろうか。「はらはら」、ハクジュホールの委嘱。このコンサートでが世界初演。左手の細かい動きで音を刻んでいるという。ついに最後まで個展の“一枚一枚”の前に立ち止まらせられじっくりと音を流し込まれてしまった。襟首掴まれ聴かされたという実感が。

🎧名曲アルバムは歌劇ローエングリンから。沼尻&N響
ワーグナーはそこそこにのはずが、再び。それにしてもルートヴィッヒ2世がワーグナーの虜になったのは15歳の時。バイエルン国立歌劇場でであった。やはり何でも若いうちに学ぶべきかとため息。ノイシュバンシュタイン城の上空、真上からの映像は素晴らしかった。

⛳一時間の食事と後始末を中に挟んで、8時56分更新。いい天気。

 

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201126 クラシック倶楽部を聴く イ・ムジチ合奏団&天羽明惠

1952年に活動を開始したイ・ムジチ合奏団は、長年にわたり様々な音楽家と共演してきた。今回は日本を代表する歌手の一人、ソプラノの天羽明惠との共演をお送りする。―番組紹介よりー

イ・ムジチ合奏団 演奏会
2019
102日 サントリーホール 大ホール

☆「ディヴェルティメント ニ長調 K.136」モーツァルト:作曲
「歌劇「ジュリアス・シーザー」から「つらい運命に涙は流れ」」ヘンデル:作曲
(ソプラノ)天羽 明惠
「歌劇「クセルクセス」から ラルゴ「なつかしい木陰」」ヘンデル:作曲
(ソプラノ)天羽 明惠
「ディヴェルティメント 第2番 変ロ長調 TWV50:23テレマン:作曲
「モテット「踊れ、喜べ、幸いな魂よ」K.165」モーツァルト:作曲
(ソプラノ)天羽 明惠

🎵イ・ムジチの年齢は当年68歳。今回は懐かしいというよりも、団のお一方お一方が、中には若い方もおられ、またどの程度か団員の交代もあったかと思うが、胸につんとこみあげるものがあった。ウィキからの転載で「イ・ムジチ合奏団演奏による『四季』は1995年時点の日本において、6種の録音の合計で280万枚を売り上げている[1]。特に3回目の録音は日本で初めて(レコードとしては今も唯一)の、クラシック音楽でのミリオンセラーを記録した」と。日本の経済を背景に、ヴィヴァルディの「四季」もそうだが、モーツァルトやテレマンで混沌とした空気を浄化し、心を明るく闊達にしてくれた楽団。このモーツァルトの「ディヴェルティメント」を聞いていても「もうどこもかしこも明るいのです。影を帯びた寡黙な草木や建物たちまでが目覚め動きだし、すっかり軽くなってひょいと雲に便乗し、口笛を吹きならして鳥たちにまでこんにちはと両腕を大きくふっています」とこんな陽気な気分になる。
 サントリーホールも満席。観客席で居眠りの方1名映っていたけれども。天羽明惠との共演。ソプラノを引き立てる自在さ、並び立つ柔軟さも。演奏はどこまでも心地よい。
ヘンデル、多田茂史・訳の抜粋「草木がつくりあげたなかで かけがえがないいとおしい ほんとうに心地よい これほどの陰は存在しなかっただろう」。ついそちこちにある保存樹木を思い出していた。猛暑が苛酷になるほどに、大樹のもたらす涼しさ、森の大切さが思われる。神社仏閣にある樹木よりも森の中にある草木にはそんな包容力が。街の中にもできるだけ樹木は存在していてほしい。
「モテット」のコロラトゥーラ、天高くに引き連れられた。なぜこのような声が出るのかが不思議。
テレマンの「ディヴェルティメント」、1767年、彼の最晩年の作曲らしい。テレマンはアマチュアの音楽団体も組織していたというから、宮廷、教会ばかりではなく市民にも音楽の楽しみを提供していたようだ。

🎧けさの名曲アルバムはシャブリエの「狂詩曲スペイン」。角田&東京フィル。スペインは刺激的。

⛳7時5分更新

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201125 クラシック倶楽部を聴く  小山由美 メゾ・ソプラノ リサイタル

国内外の第一線で活躍を続けるメゾ・ソプラノ、小山由美。ピアノは指揮者としても活躍する佐藤正浩。20世紀の作曲家たちの知られざる名曲を集めた演奏会から。【出演】メゾ・ソプラノ/小山由美、ピアノ/佐藤正浩【曲目】シュテファン・ゲオルゲの詩による「架空庭園の書」から(シェーンベルク作曲)、メーテルリンクの詩による歌曲から(ツェムリンスキー作曲)、待雪草(コルンゴルト作曲)、子守歌(ショスタコーヴィチ作曲)ほか【収録】2018年9月22日 ハクジュホールー番組紹介からー

 

「シュテファン・ゲオルゲの詩による「架空庭園の書」作品15 から」ゲオルゲ:作詞、シェーンベルク:作曲
「眠り、眠り、眠りだけ 作品2第2」ヘッベル:作詞、ベルク:作曲
「メーテルリンクの詩による歌曲 作品13 から」メーテルリンク:作詞、ツェムリンスキー:作曲
「歌曲集 作品18 から」モルゲンシュテルン:作詞、ヒンデミット:作曲
「待雪草 作品9第1」アイヒェンドルフ:作詞、コルンゴルト:作曲
「祝詞 作品38第1」デーメル:作詞、コルンゴルト:作曲
「「博物誌」から「こおろぎ」」ルナール:作詞、ラヴェル:作曲
「「ヘブライの歌」から「永遠の謎」」ラヴェル:作曲
「「気まぐれな婚約」から「バイオリン」」ヴィルモラン:作詞、プーランク:作曲
「「ハラウィ  愛と死の歌」から「シラブル」」メシアン:作詞、メシアン:作曲
「子守歌 作品79第3」ショスタコーヴィチ:作曲
「歌うな、美しい人よ 作品4第4」、プーシキン:作詞、ラフマニノフ:作曲
「私はすべてを奪われた 作品26第2」チュッチェフ:作詞、ラフマニノフ:作曲

🎵以前にも聴いているはずなのだけれども、いったい何をどう聴いていたやら、今回聴いてみると、これが近年聴いたリートの中では記憶にのこるものとなった。当初、知られざる名曲と聞いて、きっと厭きるだろうと聞き始めたところが、次は? つぎは? と55分があっという間に。この歌詞はネットではおいそれと出てはこないのではないかと今そちこちをググっている。詳しく年代別に並べてみたい気もしたのだが。
 小山由美、失礼なようだけれども、敬称略で、小山由美がいうに「20世紀前半、第一次世界大戦、第二次世界大戦前後激動の時代を生きた作曲家たちがどういうふうにどんな曲を書いているのか一つはこの興味があってのこと。もう一つはやはりその頃の曲が好きだというのもある。現代に近づくことによって私たちが持ってる感覚で歌えるという何分にしてもです。もちろん語学ができないとできないことですけれども。そのことばを通してどんなことをいっているのか伝えようとしているのか音楽を通して両方から迫ってみようかなと思った。かなり意欲的と言うか挑戦的なプログラムで、一般受けはしないと思ってました。こういうプログラムを組んでやらせてくださったことにとても感謝してます」と。 いわば近代のリートの流れを理論はもっとあるのだろうけれども実際に楽曲に託してつたえてくれたのだ。一般受けしないと仰っていたが、一般受けしない曲がこんなにおもしろいとは! 実にわかりやすくリートをお話くださった。完璧に拾うことはできないが「リートを歌うことは、美術館にある一枚一枚違う絵画を客観的に見てていくような、モネを見たり、古いミケランジェロを見たりという感じでしょうかね。技術的には、ある意味でリートの方が難しいですね。オペラの場合はオケがざーっと入ってきれいな声で歌えばいいけれども、リートの場合はその曲その曲に合った彩を探して、言葉をいろんなふうに遊んでといったらいいですか、ドイツ語だったらドイツ語、フランス語だったらフランス語の愛情のこめ方が違うというか、それで歌曲の方が人格、自分のパーソナリティを聴かれているという意味では難しいとおもっています。いつも思うんです、日本語のものを歌ったときに、みなさんそれぞれに日本語の曲に対する思い入れがあるでしょう。必ずある。だからそれを一般的な思い入れではなくて、自分にとっての思い入れ、ドイツ語にしてもロシア語にしても、或いは日本語にしても自分にとっての思い入れをもっと個性として出しちゃうというか、間違っててもこうだというそのぐらいのパーソナリティー、自分の個性を大事にして自分の言いたいことを言う、言っていく、音楽を通して。作曲のやりたいことを私たちはやっていかないといけないかなと思っています」。
 歌への「愛情のこめ方」、そして次が歌い手にとって険しくも厳しいところなのかと思うが、「パーソナリティを聴かれている」というのだ。これは怖い。次に出てくる言葉は「真価」であるかと思いきや「たとえ反発があっても自分のやりたいことを主張し出すこと」であると。
 どこが良かったか、「どれもそれぞれに」、どれも捨てがたいということなのだが、歌詞の内容、それに密着し引き出してメゾ・ソプラノの幅のある奥行のある豊かさで「ぐんと惹きつけられたという点では、「架空庭園の書から」。「メーテルリンク」「祝詞」。メシアンの「シラブル」。「待雪草 作品9第1」アイヒェンドルフ:作詞、これは私自らスノードロップが芽吹いたときの感動を詩に書いており通じるものを覚えた。ルナールの「こおろぎ」の詩には唸った。こんな詩が書きたいもの。ショスタコーヴィッチの「子守唄」、これを聴きながら、ソ連時代の収容所列島なども思い出し、子守唄というよりはソ連、ロシアの多くの婦人たちのやりきれない癒しがたい思いがつたわってきた。「シラブル」まできたときに、さまざまなリートの世界、その一枚一枚を様々な窓から見させられている、聴かせられている、ほんとうにそう実感したことに驚きを。「私はすべてを奪われた」私はすべてを厳格な神に奪われた/健康も 力も 意志も 呼吸も 眠りも/神が私に残されたもの/それはお前だけ/神へと 私はまだ祈りを捧げることができるようにとーこれを前回ネットから落として書いたと思ったが、今回放送の伊東一郎さんの訳詞のほうがより真実味が伝わってきた。

 

🎧🎵名曲アルバムはベルクのある「天使の思い出に」。今回渡辺玲子さんのバイオリンに、これは葬送の曲であるなと。

 

⛳書き足りないかんじではあるけれども7時4分更新

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201124 クラシック倶楽部を聴く モイツァ・エルトマン リサイタル

「声は神様から授かった贈り物」と語るドイツのソプラノ、モイツァ・エルトマンのリサイタル。メンデルスゾーンとモーツァルトのみで構成された意欲的な演奏会から。世紀を分かつ二人の作曲家の声楽曲をお送りする。【出演】モイツァ・エルトマン(ソプラノ)、ゲッツ・ペイヤー(ピアノ)【曲目】歌の翼に(メンデルスゾーン作曲)、春へのあこがれ(モーツァルト作曲)ほか【収録】2018年7月3日 紀尾井ホール―番組紹介よりー

メンデルスゾーン
新しい恋. 19a-4
ライカ Op. 34-4
Op. 86-5
歌の翼に Op. 34-2

モーツァルト
満足 KV349
すみれ KV476 
寂しい森の中で KV308
魔法使い KV472
ルイーゼが不実な恋人の手紙を焼いたとき KV520
こころよい静けさが KV152
歓喜に寄す KV53
春へのあこがれ KV596
ラウラに寄せる夕べの思い KV523
アリア「我が美しき恋人よ、さらば」 KV528
アンコール メンデルスゾーン:夜の歌Op.71-6

🎵真珠のようなエルトマンには白いドレスが良く似合う。澄明な歌声でリリカルに聴かせてくれたのはメンデルスゾーン。彼女が歌うと、メンデルスゾーンの音符にはみなきららかな水晶の羽がついているかのよう。エルトマンが言うに「モーツァルトの歌曲には無駄がない。大げさな表現で余計なことをするとすべてが崩れてしまう」「逃げも隠れもできない」。モーツァルトがどの程度、頻度で推敲をしていたものかはわからないが、巧まざるして出来上がった楽曲とはこうしたものであろうか。「我が美しき恋人よ、さらば」、これは圧巻だった。悲劇的、情熱的で声質に与る天上的な香りが。エルトマンが抒情歌手としてもすばらしいが、その範疇を超えられることを聴いた瞬間。バイロイトの華たりうる所以を聴いた気が。平岡さんであったか「劇的な詞と歌が剥離することが無い」とネットに出ている。
 それぞれの詞も興味深い。「満足」は小さな幸せに満足し感謝する心情を歌う。これには2通りの詞があるようだが、今回はウルムの牧師で民謡風の歌を作詞していたミラーの詞であった。神様から健康を授かってさえいれば心朗らかに感謝の気持ちを持って暮らせるという内容。「すみれ」のはじめは、いかにもああエルトマンが歌うに相応しいと思いきや、突如すみれが起きあがりすみれの本音を呟いたか、がらりと詩の雰囲気が変わる。踏みつぶされたすみれが、どこかの頁で「あの子に踏み潰されるのなら死んでもいい」と口にするのだから。明るさの影に見え隠れする生の儚さを示唆する箇所であるが、その細やかな歌い分けも万全だ」と感想か解説かを述べていたけれども。日本のリートにこんな詩があったかどうか。

「ぶらあぼ」にギルゲエフを驚嘆させた名歌とあった。「ラウラに寄せる夕べの思い K.523」はエルトマンが最も愛する曲の一つであるらしい。エルトマンのコメントもこの誌に掲載されている。彼女がプログラムの最後に入れたモーツァルトのオペラのアリア「わが美しき恋人よ、さらば」は圧巻、悲劇的、情熱的で声質に与る天上的な香りが。

アンコール曲「夜の歌」、詩がアイヒェンドルフということで、前回拾ってみた歌詞を。


昼の明るさはもはやない
彼方から届くのは鐘の音
かくして時は夜をめぐり
不意に人の命を奪いもする
楽しかったことどもは今いずこ
友の慰めはまことの腕は
愛する女の甘きまなざしは?
わたしと目覚めていたいものはないのか?
さあ意気揚げてナイチンゲールよ
ごうと鳴る滝よお前もだ
神をたたえようともに和して
まばゆき朝が輝き出るまで

🎧🎵名曲アルバムはヴェルディの「マクベス」から「しいたげられた祖国」
マクベス、精神錯乱、狂気を組み込んでの物語はいかにも劇的で悲劇的。そこはシェークスピアの才能か。舞台のコーダー城、マクベスに殺害されたスコットランド王の霊はこの城にいまもさまよっているのかもとむしろ想像をふくらませると、劇中人物がいよいよ劇的に感じられて。朽ち果てた墓に、人の愛憎、怨念も朽ち果て一陣の風と胸中に過るかに。人の地上における一生は大方こんなものかとも。ただ神につながるいのちはまた別ものと信じられる。

⛳この音楽の朝練、いつまで続けられるやらと思いつつ6時51分更新

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201123 クラシック倶楽部を聴く  宮里直樹 情熱のベルカント

宮里直樹 情熱のベルカント

幼いころからバイオリンを学び、高校3年生で声楽に転向。東京藝術大学および同大学院で学ぶ。その後ウィーン、ミラノへ留学。オペラ出演を中心に、演奏会でもN響をはじめ主要オケとの共演多数【出演】宮里直樹(テノール)河原忠之(ピアノ)【曲目】オー・ソレ・ミオ(ディ・カプア)歌劇「ファウスト」から「この清らかなすまい」(グノー)ほか【収録】2020年8月19日 武蔵野音楽大学 ブラームスホール―番組紹介よりー

宮里のコメント
僕は高校の3年の夏までバイオリンで受験しようとやってたんですけど、3つ離れた妹がいて、妹がミュージカルの方に行きたいとなって中学3年のときに歌の先生についたんです。その先生の歌のレッスンのときに、僕がたまたまピアノの伴奏でついていって妹のピアノ伴奏をしたんですけど、そのとき先生から「お兄ちゃんは歌やらないの」というはなしになって、「やらない」とこたえたんですけど、「ちょっと歌ってみて」。そのとき、なんで先生がそういったのか僕にはわからないんですけど、でも一曲歌った。知ってる曲もあったので。そしたら是非歌に来いと。プロの方がそう言ってくださるなら何かあるのかもしれないと、恐々と何も知らないまま歌をじゃちょっとやってみますという感じで受験をしたんです。知らない曲ばかりで作曲家もぼくが弦楽器でやってた作曲家と全然違っててドニゼッティなんて出てこなかった。僕の辞書にはなかったから。すごく不安だったし、これからぜんぶ新しいことやるんだなとおもってたんですけど。歌える曲が増えて来たなと思って。それからちょっと勉強するようになって、「あ、歌好きかも」と。

ナポリ民謡へのおもいは:どうしてもテノール歌手が歌うナポレッターナとナポリ民謡とそのほんとうにナポリの人たちが歌うナポリ民謡とちょっと違うんですよね。僕らお客さんに聴かせなきゃならんからどうしても声大きく出さなきゃいけないというとこがあるけれども、でも彼らはほんとうはやっぱりギター片手で、吟遊詩人じゃないですけども、(ここでオーソレミオの一か節をネイティブ風に歌って)こういう感じで歌うんですよ。でも僕たちはこうして声を張って歌わなきゃいけない、そこのところのギャップを埋めたいなと思うんですけど、なかなか難しいとこがあって、ただそのやっぱり彼らの持前のエネルギーだとか明るさだったりとか、やっぱり人を好きになるという気持ちはやっぱり日本人とはパワーが違うので、そういうところに太陽だったりとか海とかだったりとかそれを形容できるだけの力を彼らはその愛というものに対して持っているんだなというのはすごく肌で感じて、それが音楽に表れてて、それがああいう明るい音楽だったりとかまた悲しいおんがくだったりとかできるんだなと。テノール歌手である僕がこの曲をどういうふうに処理するのか、ひとりの芸術家としてこの曲をつくったときにどういうふうに歌うのかというところを聴いていただけたら嬉しい。

僕はコンクールをガルダ湖というところで受けたんですけど、そこの景色はほんとうに素晴らしくて、たとえば「愛の妙薬」一応あれはスペインのとあるバスク地方とかどこにでもあるような町という設定でやってますけど、ほんとうに窓をぱっと開けた瞬間にこういうことかという、窓から見える景色だったりとか、外を見る景色だったり、または海だったり湖だったり。ああこういうことか、太陽がこういうふうに光っているんだという、そこはもう全然空気感も違うし、感じる太陽の熱も全然違ったし、勿論湿度も違うし、色んな意味で違いましたね。イタリア語の発音だったり、空気感だったりとか食べ物もそうだし、彼らの生き方というか性格だったり、やはり日本人とはかけ離れてて簡単に電車もストライキするし、いろんな意味で悪い面もたくさんあったし、でもいい面では仲良くなったりするとすごく仲良くなって本当に兄弟のように家族のように接してくれたというのもあるし、そういうところから言葉だったり音楽だったりとか生まれてきたんだろうなというのはすごく肌で感じました。

曲目

「オー・ソレ・ミオ」カプロ:作詞、ディ・カプア:作曲
「マリウ 愛の言葉を」ネーリ:作詞、ビクシオ:作曲
「とても君を愛してる」フルノ:作詞、デ・クルティス:作曲
「つれない心」コルディフェッロ:作詞、カルディッロ:作曲
「歌劇「愛の妙薬」から「人知れぬ涙」」ドニゼッティ:作曲
「歌劇「連隊の娘」から「ああ友よ、なんと楽しい日」」ドニゼッティ:作曲
「歌劇「マノン・レスコー」から間奏曲」プッチーニ:作曲
(ピアノ)河原忠之 
「歌劇「リゴレット」から「あれかこれか」」ヴェルディ:作曲
「歌劇「リゴレット」から女心の歌「風の中の羽のように」」ヴェルディ:作曲「歌劇「ファウスト」から「この清らかなすまい」」グノー:作曲
「歌劇「エフゲーニ・オネーギン」から「青春の日は遠く過ぎ去り」」チャイコフスキー:作曲

🎵きょうのコメント、オーソレミオの一か節をその土地の人たちの自然な感じでネイティブに歌ってくれただけで、むこうの空気感が流れ込んできた。いかにオペラ歌手たちがそれこそ張って歌っているものかがくっきりとした。このギャップを埋めたいという。最初に聴いたときから何か一味違ったものが感じられたけれども、それを感じ取っていたのかもしれない。自分の感覚に「かもしれない」はないだろうとも思うのだが、どうしてそう聴こえるかがわからないときには、かもしれないというほかはない。ただ聴き進むうちに、この歌にまさしくコメントにあるような日本の風土、習慣、空気感とは違ったエネルギーが聴こえていることを実感。

 

🎧🎵名曲アルバムは、またまたドニゼッティの「人知れぬ涙」こんどは吉田浩之で。苦学したドニゼッティ、生涯に73曲のオペラを。

⛳コロナと経済のせめぎ合い、この深刻さ。ニュースを後ろに7時7分更新

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きょうのことば  

 インマヌエル盛岡キリスト教会の20201115()の礼拝はズームによる自宅礼拝となりました。宣教聖日となっておりますが、平瀬義樹先生のメッセージ部分を視聴しました。


 DVDを視聴に先立って國光牧師から次のような挨拶がありました。
・コロナ感染拡大が盛岡市中心街に及び、クラスターが複数発生しています。
・教会も真剣にこれに対処するべく、急遽会堂礼拝ではなくZoom礼拝を行うことになりました。
・「世界宣教局作成DVD」による礼拝を予定していましたが、台湾派遣宣教師・平瀬義樹先生のメッセージ部分を用いさせて頂きます。
We will not fear, but  prepare.(私たちは恐れません。でも備えます。)
 このことばは、ケニア派遣宣教師・蔦田就子先生からのもので、ケニア・テヌウェック病院でコロナ対策を進めるスローガンとなっているそうです。
 Ⅱテモ1:7   神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。
・初めてのZoom礼拝、またDVDを用いてのメッセージとなります。牧師の不慣れな操作になりますが、愛兄姉方のご協力・ご寛容をお願い致します。

   20201117-175459

説教題 「神のみことばはどこに?」(台湾派遣宣教師 平瀬義樹 先生)

聖書個所 使徒の働き6章7節・8章4節 
使徒の働き6章7節こうして、神のことばはますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった。
使徒の働き8章4節散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。

 使徒の働きは初代教会の歴史です。古い聖書、文語訳聖書の使徒行傳、この同じ漢字が中国の書名です。まさに聖霊に満たされた使徒たちが活き活きと活動した信仰生活の歩みが記されています。

 それを読むと、教会が目覚ましい勢いで成長したことがわかります。主イエスは天に戻られるまえに、エルサレムに留まって聖霊が与えられるのを待つように弟子たちにお命じになります。その時の弟子たちはおよそ120名です。ところがペンテコステのときに聖霊が弟子たちに降られ、彼らは御霊に満たされて神のみことばを宣べ伝えたとき、その日だけで3000人がバプテスマを受け弟子たちの群れに加えられました。主は毎日主を信じて救われる人々を教会に加えてくださり、あまり日が経たないうちに弟子の数が男性だけでも5000人になりました。使徒の働きの514節には「そして主を信じる者たちはますます増え男も女も大勢になった」とあります。

 いまお開きをしました使徒の働きの67節には「こうして、神のことばはますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった。」とあります。聖書はその具体的な数を記していません。このような目覚ましい教会の成長の拡大はどのようにして起こったのでしょうか。

 使徒の働きを読むと、一つのキーワードに要約された節が幾つもあることに気がつきます。それは使徒の働きの随所にちりばめられている「こうして」という節です。

その働きには5つあります。

一つ目は使徒の働きの67節「こうして、神のことばはますます広まっていき」

二つ目は使徒の働きの931節「こうして、教会は……聖霊に励まされて前進し続けた」

三つ目は使徒の働きの1124節「こうして、大勢の人たちが主に導かれた」

四つ目は使徒の働きの165節「こうして諸教会は信仰を強められ日ごとに人数を増えていった」

五つ目は使徒の働きの1920節「こうして、主のことばは力強く広まり、勢いを得ていった」

 「こうして」とはどうしてなのでしょう。それを理解すれば初代教会の成長の秘訣、伝道の方策を見つけることができるのではないでしょうか。

 実はこの「こうして」の前に、初代教会は幾多の問題に直面しているのです。まず第一は、教会は問題課題によって成長する。教会は問題課題を解決することによって成長するということです。

 一つ目の使徒の働きの67節の前半をご覧ください。「こうして、神のことばはますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった」。最初の「こうして」とある場所は、使徒の働きの6章の1節~7節です。ここにある問題は、教会内のやもめたちへの食糧の配給に関してのものでした。
 当時の社会は貧富の差が大きく、教会が貧しい人たちを助けていました。エルサレム教会では、豊かな人たちがその財産を売り、その代金を教会に捧げ、それが貧しい人々に分け与えられていたのです。けれどもどんなに細やかな配慮をしていても、人の集まるところには何らかのトラブルが起こるものです。ギリシャ語を話すユダヤ人から、「ヘブル語のやもめたちには毎日配給があるのに、私たちには配給がない日がある」と苦情がでました。この背景に、ヘブル語を話す人たちとギリシャ語を話す人たちとの間の不一致があったのです。ギリシャ語を話すユダヤ人というのは外国生まれのユダヤ人で、外国から母国に帰ってきたのですがまだヘブル語を話せないでいる人たちでした。この人たちは言葉の壁もあり色々な面で肩身の狭い思いをしていたのでしょう。初代教会は多言語、多文化の教会でした。これだけでも色々なトラブルが起こる要素があります。けれども教会はその言葉の壁、文化の壁を乗り越えて一つになっていかなければなりませんでした。愛する兄弟姉妹、けれどもこれは初代教会だけの問題課題でしょうか。私たちの心に他の人たちを思いやる心、受け入れる心、赦す心がすこしずつ萎えてゆき、失われてはいないでしょうか。
 やもめたちへの配給の問題には、教会の霊的な一致という大きな課題が含まれていましたが、神様はこの問題を通して教会にさらに一致を与えようとされたのです。7節に「こうして、神のことばはますます広まっていき」とあるように教会はこの問題課題によって、もっと正確にいうなら、この問題課題を解決することによって成長していきました。しかもどこか外からというのではなく、教会の中からその解決のために人材を選びその任に当たるという方法をとったのです。教会は問題課題のないところではありません。けれども教会は問題課題を克服し解決していくところです。そして、その教会の問題課題が克服され、解決されていくと、神のみことばがさらに広がっていくのです。主の導きと助けによって問題課題の解決を求めて進むとき、主は私たちに為すべきことを示してくださるのではないでしょうか。

 大きな2番目として、このとき私たちが心に留めさせていただきたいのは、教会はみことばを宣べ伝えながら成長していくということです。8章の4節をごらんください。「散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた」。

 この8章では初代教会の問題課題は一層深刻なものとなり、彼らはさらに厳しい現実に直面させられます。サウロによる「この道の者」たちへの情け容赦ない迫害です。あの執事のひとり、御霊と知恵とに満ちた恵みと信仰と力に満ちたステパノが公衆の面前で命を落とした。それはあまりにも突然の受け入れられない事態でした。初代教会の人々の心の痛みと悲しみは察するに余りあります。主よなぜですか。主よどうしてですか。サウロの迫害はさらに勢いを増し、激化します。クリスチャンたちは非常な恐れと募る愁いをもって散り散りばらばらに散らされていきます。主よいつまでですか。どこにおられるのですか。助けてくださらないのですか。愛する兄弟姉妹、彼らは散らされて何をしたのでしょう。

 もういちど84節の後半をみてみましょう。「みことばの福音を伝えながら巡り歩いた」。
 散らされた人々、初代教会の人々がしたのは、それはみことばを伝えたということでした。ルカはみことばを、4章の31節には、「神のことば」、5章の20節では「いのちのことば」、8章の25節では「主のことば」、そして157節では「福音のことば」と記しています。さらに使徒の働きの記述の中で、繰り返し繰り返し強調しています。ひとに本当の自由と救いを与える神の生けるみことばこそが、いつの時代にもどのような状況においても、教会が聞くべき、そして信ずるべき、そして宣べ伝えるべき教会の宣教の中心なのです。
84節「散らされた人々はみことばを伝えながら巡り歩きました」
 たしかに迫害者たちの目からみれば、使徒たちはエルサレムから散り散りばらばらに散らされていったのですが、けれどもその視点を聖霊の力による宣教の前進というところに置くとき、この散らされたという現実は主の御手によって遣わされていった派遣の旅ということになります。宣教の困難についても理由をあげればきりがありません。もしこの状況では宣教活動は難しい。自粛しようというときがあるとすれば、それはいつでもそのようなときになるかもしれません。特に彼らの置かれているときは、まさにそのような状況のとき、十分あてはまるときだった、このように申し上げることができます。けれども彼らはこの困難な拡大のとき、遂行と〇〇(聞き取れませんでした)のときをそのようには捕えませんでした。むしろ彼らは散らされていることを宣教の拡大と前進の時と受け止め果敢に福音を宣べ伝えることにチャレンジしていったのです。この初代教会のクリスチャンたちの活き活きとしたすがたに、時にそのしたたかさやしぶとさすら痛快に覚える気がします。

 いま私たちはそれぞれの家庭に、それぞれの会社に、それぞれの学校に、地域に社会に国に、みんなと離れ離れになり散り散りになってひとりで置かれているのではありません。イエス様の「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」との約束により、聖霊による力と励まし、慰めを受けて、見えない公同の教会の交わりの中で、今ここに遣わされている。私達も私たちの存在の小ささや弱さ力のなさのゆえに意気消沈することがむしろ知らされてこそ主の証人であると燃える思い信仰をもってこの時代にまっすぐに生きて行く者であらせていただきましょう。

※このメッセージはyoutubeで公開されております。

⏰6時5分更新

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朝の雑感

 季節が移ろうというよりは、藍色を帯びた山々を背景に、紅葉をおえた樹木たちが、くすんだ緑のままに、落ち葉を落としたすがたのままに、静かなたたずまいではあるが、その存在を、何の隠し立てもなく、曇り空に見せている。

 昨夜はららクラシック、辻井伸行と三浦文彰が出演、素晴らしかった。そしてけさはホストは爽やかMay J.でファンタステック&スーパー・ドラゴンのすごいパフォーマンス。アスリートもびっくりの日ごろの鍛錬。クールにシャープに。ラップに乗った「サムライ」の歌詞、字幕なければ幾つわかるか語彙の数。

さてこれからの時間は、レオンハルトの平均律、パルティータはすでに聴き遣り、そろそろかやっとかフーガの技法に入ってみよう。

 

⛳雲の奥から告げる太陽の声「ここにいるよ」。6時55分更新。

 

 

 

 

 

 

 

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201120 クラシック倶楽部を聴く ザ・ベース・ギャングコンサート

イタリア出身の4人のコントラバス奏者による驚異のアンサンブル。クラシックからジャズ、映画音楽、ロックまで名曲の数々を、巧みなアレンジとパフォーマンスでお届け!【曲目】フニクリ・フニクラ(デンツァ作曲)、モリコーネ・メドレー(モリコーネ作曲)、バードランド(ザヴィヌル作曲)、赤とんぼ(山田耕筰作曲)、恋(星野源作曲)ほか 2018年10月11日 京都コンサートホール アンサンブルホールムラタで収録―番組紹介よりー

メンバーのコメント
アントニオ・シャンカレーポレ:来日するたびに日本人の心をとらえている曲を模索する。スキヤキ(上を向いて歩こう) 、赤とんぼなど。日本曲のいくつかはイタリアでも大成功をおさめている。

アンドレア・ピーギ :オケで35年弾いていた。もともとはジャズ・ポップスを演奏していた。オケの開演前や終演後にジャズやポップスを演奏していた。

アルベルト・ボチーニ:コントラバスで4人は例がないだろう。第9はベートーベンに敬意を表しつつ革新的なリズムを前面にした。本質的な部分はすべて尊重した。 

アメリーゴ・ベルナルディ:レパートリーは広くジャンルは多岐にわたる。編曲をしているアンドレアはクラシックにも精通している。

曲目

「20世フォックス・トレード・マーク・ファンファーレ」ニューマン:作曲
「黒猫・白猫」カライリチほか
「月影のナポリ」デ・フィリッピ
「フニクリ・フニクラ」デンツァ
「オー・ソレ・ミオ」ディ・カプア
「バートランド」サヴィヌル
「モリコーネ・メドレー」
 ウェスタン、続夕日のガンマン、ミッション、ニュー・シネマ・パラダイス
「ボラーレ」モドゥーニョ 
「ロックンロール No.9 」ベートーヴェン、進上広行・編曲
「赤とんぼ」山田耕筰
「恋」星野 源
5×4メドレー」
 テイク・ファイブ、チャイコフスキー、ジーザス・スーパースターから
「ラテン・ベース・メドレー」
 (見落とし)、ブラジルの水彩画、南京豆売り、コーヒー・ルンバ、ティコ・ティコ、テキーラ、マシュケ・ナダ、ビリン・バウ 

🎵ベース・カルテットというものなのかどうかはわからない。ただ4人のベースはめずらしい。以前か同時期かにもう一つのグループがあったらしいが続かなかったようだ。このグループがいまだ活躍し続けている理由は、各々の個性が存分に生かされている、殊にもアントニオ・シャンカレーポレの存在、演奏中の突然の雄たけびに驚きもしたが、ステージにとにかく観客をぐいと引き込む。眠る者も起こされる。歌う。それも、演奏もそうだけれども、日本の歌をうたうにしても日本語でということもあるが、曲がよく咀嚼されている。ほかの3人も言葉は少なくともベーシストらしい大ぶりの楽器を抱え込んで低音を奏でる「らしさ」にも好感がもてる。選曲、編曲のよさもあるだろう。何れサービス精神あふれる演奏企画の練りがある。
この大型楽器でのラテン・ベーメドレは明るく、聴いているうちに、ああ、向こうの方々はテキーラをやりながらこんなに陽気に愉快にやっているかと思ったところに、何と「テキーラ」が鳴りだし、大きな声で「テキーラ!」と謳歌の声が。コントラバスはオケの傍らにいての底力と思っていたが、覆して、バスでの演奏は高音域でもむしろ小さな弦楽器よりも豊かな幅、空間を感じさせ広く空間を満たす。

 

🎧🎵名曲はダッタン人の踊り。遊牧民は敵将をさらし者にせず牢にぶち込まず? 踊りでもてなした! 粋なはからい。

⛳コロナを甘く見ると、もうこうなれば強烈に、棺桶が間に合わなくなる! ニュース聞きつつ7時7分更新

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201119 クラシック倶楽部を聴く エルデーディ弦楽四重奏団

2019年に結成30年を迎えたエルデーディ弦楽四重奏団。東京芸術大学出身者によって1989年に結成された。ロンドンでアマデウス弦楽四重奏団のメンバーなどに師事。【出演】エルデーディ弦楽四重奏団 蒲生克郷(バイオリン) 花崎淳生(バイオリン) 桐山建志(ビオラ) 花崎薫(チェロ)【曲目】1.弦楽四重奏曲 第3番 イ短調 作品33(ドホナーニ作曲) 2.弦楽四重奏曲 へ短調 作品95「厳粛」(ベートーベン作曲)【収録】2020年2月2日 東京・第一生命ホールで収録―番組紹介よりー

コメント
蒲生克郷(がもうかつさと)30年ちょっと前に最初の演奏会をやったのが初めなんですけれども、小さな喫茶店で演奏会をやらせていただいて、その時にハイドンの作品76の4の「日の出」を演奏してきたんですね。それはエルデーディ伯爵に献呈されたという事がありまして、で、そこからエルデーディ弦楽四重奏団と名前をつけるときにいただいたという形ですね。
花崎淳生(はなざきあつみ):以前ハンガリーの作曲家を集めたえんそうかいのときにドホナーニを取り上げたことがあって、その時をたぶんきょうもドホナーニのカルテットを聴いたことがあるという人はいないような感じなんですけど、でも私たちがそのドホナーニに取組んだ手ごたえというのがおもしろくて充実してて、これはもっと人にも聴いてもらいたいなと言う思いはもっていたので。
桐山建志(きりやまたけし):きょうのお客さんも含めてドホナーニがよかったと言ってくださるお客様はすごく多いので、他の演奏会でも、たとえばよく知られた曲と知られてない曲と並べたときに、初めて聴いたけどその曲がよかったと言ってくださる方というのはすごく多いですね。

花崎薫(はなざきかおる):今までもあまり演奏されない曲に取組んだことが幾つかありまして、前回の時はイベールのカルテットをやってます。それも素晴らしい曲で、あとはイタリアのピテッツィの作品もやったことあるんですけども、それもほんとうにすばらしいんですけども長くて、だからあまり聴いたことがなかったんですよね。そういったなかなか演奏される機会がない少ない曲を取り上げていきたいのもあります。

 

☆「弦楽四重奏曲 第3番 イ短調 Op.33」ドホナーニ
☆「弦楽四重奏曲 ヘ短調 Op.95「厳粛」」ベートーヴェン

🎵知らない作曲家の知らない曲を取り上げて演奏してくれる四重奏団。まだ観客の反応も分からない曲を演奏するのには思い切った決断も要るものかと思う。敢えてそれに挑戦する気構えを持ち続けての30年。手掛けてきたそういった系列のそれぞれその時々に対する観客の反応がどうであったかも聴いてみたい気がした。それはこの楽団の財産ともなっているのかなと。
wikipedia
によれば、「ドホナーニは自作自演よりも、古典的なレパートリー、とりわけモーツァルトベートーヴェンシューマンを得意としたピアニスト。いくつかの録音は現在CDにも復刻されている。ピアニストとしては、正確無比の演奏技巧と、独自の解釈によって知られ、近年イギリスや日本で復刻が行われている。」

ブラームスの流れを汲むというモリコーネ。「弦楽四重奏曲 第3番 イ短調 Op.33」ではそれに+透徹した意思、眼力というものを感じさせられた。
「厳粛」、人生のドラマを吟味しながら石橋をたたいて歩を進めていくという感じが。

🎧🎵名曲アルバム。モリコーネ作曲、栗山和樹編曲。円光寺&東京フィル。「ニュー・シネマ・パラダイス」。映画を撮影した1988年当時から変わらぬシチリア島の地方都市パラッツォ・アドリアーノの街、少年の家と設定されたドアにもさまざまなドラマが連想される。音楽とともに少年の好奇心いっぱいの輝く瞳がよみがえる。

⛳恐ろしいばかりの感染拡大。そんなニュースを聴きながら7時1分更新。

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201118 クラシック倶楽部を聴く カルテット・アマービレ 演奏会

2016年にミュンヘン国際音楽コンクール入賞(3)を果たした注目のアンサンブル、カルテット・アマービレ。恩師、堤剛(チェロ)、磯村和英(ビオラ)が参加した公演を放送。【出演】カルテット:アマービレ 篠原悠那、北田千尋(以上、バイオリン)中恵菜(ビオラ)笹沼樹(チェロ)ゲスト:堤剛(チェロ)磯村和英(ビオラ)【曲目】弦楽六重奏曲第1番(ブラームス)ほか【収録】2020年1月29日ハクジュホール(渋谷)―番組紹介よりー

カルテット・アマービレは当時桐朋に在学中だった4人によって2015年に結成される。
コメント
篠原:私たちが桐朋学園大学に在籍中に今回のゲストでもある磯村和英先生に指導していただいていたんですけれども、2016年のミュンヘン国際音楽コンクールを是非受けてみませんかと先生が勧めてくださったことがきっかけとなり、それが私たちカルテット・アマービレの演奏活動の始まりです。
中恵:アマービレはイタリア語で優しくとか愛らしくという意味があるんですけれども、最初はなじみきれないというか、そんな思いがあったんですけれども、最近はだんだん板について来たというか、カルテット・アマービレという名前にフィットしてきたんじゃないかなと思っております。
北田:コンクールが終わってから有難いことにたくさん演奏会とかすばらしい音楽家たちと共演させていただける機会をいただき貴重な経験ができて感謝しています。

笹沼:僕たち4人はカルテット以外の活動でソロであったりオーケストラであったりとかまだ全員20代ということもあって色々な活動をしておりますので、それを4人がいちばん気持ちいい形で一つの響きに混ぜ合わせていく、それが聞いている方にも伝わったらいいなというのがポイントです。

☆弦楽四重奏のための緩徐楽章」ウェーベルン:作曲
(演奏)カルテット・アマービレ
「弦楽六重奏曲 第1番 変ロ長調 作品18」ブラームス:作曲
(演奏)カルテット・アマービレ、(ビオラ)磯村和英、(チェロ)堤剛

🎵 ウェーベルンは前衛音楽に強い影響を与えた作曲家なようだ。このウェーベルンの曲は1905年に作曲されたにもかかわらず生前には出版されず、ウェーベルンの死後17年経てやっと研究者によって見出され公開され出版され、1962年になってから初演されたようだ。最後部分夜空の星に染みとおっていくような音の消失が魅力的。
 ブラームスの六重奏の第2楽章、ここにくるともう有無をいわさぬというところ。これがクララ・シューマンの意見を求めつつ書き上げたと解説があった。第2楽章の極めつけの部分にももしやクララの助言がなどと想像。曲にクララのイメージが溶け込んでくるような気がし、はてクララはどんな作曲をしていたのかと興味が。
 アマービレの恩師の磯村、堤と全員20代のアマービレの演奏。音楽を伝えてくれた方々と、伝えられた方々が同じステージで弦を和するという調べは妙なるかな。

 

🎧🎵名曲アルバム。ウェーバー作曲、ベルリオーズ編曲「舞踏への勧誘」。もとはピアノ曲として作曲され愛妻カロリーネに捧げられたとか。ドレスデンの宮廷の華やぎ。飯守泰次郎&N響。

⛳今朝は主人に起こされて5時ちょっと前の起床。
コロナと楽器との因果関係は。近頃またヴァイオリンを取り出し専ら簡単、単純な、しかしなぐさめにあふれる賛美歌を中心に弾いている。バイオリンはそれほどウィルスを散らさないかと思っているけれども、主人がたまに取り出しているフルートはこれは要注意であるのか、そこのところの詳しい事情は知りかねている。

曇り空の底にところどころ紅葉を眺めながら1118分ゆったり更新。

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201117 クラシック倶楽部を聴く  ウェールズ弦楽四重奏団 演奏会

桐朋学園の学生により2006年に結成されたカルテット、ウェールズ弦楽四重奏団。三人のゲストとともに演奏した「変容(弦楽七重奏版)」を中心にお送りする。2019319日紀尾井ホール―番組紹介よりー

ウェールズ弦楽四重奏団
ヴァイオリン﨑谷直人、ヴァイオリン三原久遠 、ヴィオラ横溝耕一、チェロ富岡廉太郎。桐朋学園の学生により2006年に結成。2008年ミュンヘンARD国際音楽コンクールにて第3位入賞。これまでメナヘム・プレスラーやポール・メイエなどの著名な音楽家と共演。2017年よりベートーヴェンの弦楽四重奏曲全曲録音プロジェクトを開始。その名の示す通り真の音楽を誠実に追及する姿勢が高く評価されているカルテットである。

ウェールズ弦楽四重奏団のコメント
「今回の演奏会のテーマが変奏と変容ということで、一曲目は第3楽章にとてもユーモアにあふれて美しい変奏曲を持つベートーベンの第5番を演奏します。メインはリヒャルト・シュトラウスのメタモルフォーゼン(変容)を演奏します。いまできる曲をバーンとやってるだけじゃないから、うちの場合。三原が考えてますけど、きょうのもちゃんと全体を通してストーリーがありますし、それと僕ら今ベートーヴェンを全曲取り上げるというのを軸にやっていて、それプラスアルファで何ができるかなということをすごく考えてくれてます。」
「三原がもってきて、まず僕がファーストは難しいのでスケジュールとにらめっこして間に合うかなとか、﨑谷からNGが出たことも過去にはある。﨑谷がやるといったら、それはもったいないから俺たちは何もいわない。」「言ったことないよね、直前になってやめときゃよかったとか」「いつも見事よね」「うん。無意味なプログラミングは僕らはぜったいにしない。それはもう見事、手前みそですが。」「仲悪くはなく友達という感じでもない。それぞれ各オーケストラで仕事もしてますし、いろんな現場で別な方と弾く機会もあるんですけど、各自が経験したものを持ち帰ってきて、ああでもないこうでもないと、一定の緊張感のある現場なので、持ち帰って論議しあう、そういう関係ですね。ずっと一緒に成長してきたし変化もしてきた仲間なので、演奏家としての自分をいちばんわかってくれていると信じているし、音楽的なつながりが強い仲間かなと思います。」「もちろんここで自分がこう弾きたいと思っても、話し合いの末却下されることもありますが、オーケストラになると、より自分の意思だとか表現したいものはどうしても薄まる。人数も多いですし。より自分がナチュラルに表現できる、だから自分にとっては、やはり帰る家みたいに思っています。」
「ここまで弦楽四重奏に打ち込むことは、たぶんこのメンバーに出あわないとしなかったことなので、よく出会ったなと、ほんとにメンバーにはすごく感謝してて、僕が個人的にすごく成長できたのも、このメンバーといるときがほとんどだったので、ついてる人生だったなと思っています。」

「弦楽四重奏曲 イ長調 作品185から 第3楽章・第4楽章」ベートーベン:作曲
ウェールズ弦楽四重奏団

この曲は若きベートーヴェンによる弦楽四重奏曲で、第3楽章は主題と5つの変奏で構成されている。

「変容(ルドルフ・レオポルトによる弦楽七重奏版)」リヒャルト・シュトラウス:作曲
ウェールズ弦楽四重奏団、(ビオラ)佐々木亮、(チェロ)横坂源、(コントラバス)池松宏

🎵ベートーベンの全曲演奏のリリースにも漕ぎつけたベートーベンに通じるウェールズが選んだベートーベンの「弦楽四重奏曲イ長調」は、やはり「変容」を念頭に置いた選曲。4人がそれぞれの意見を提示し、否定されることがあってもそれこそ変容を遂げつつ邁進中かと。ベートーベンの弦楽四重奏曲イ長調」は、ここでは第34楽章。
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+池松宏、佐々木亮、横坂源の弦楽7重奏はリヒャルト・シュトラウスの「変容」。これが何とシュトラウス81歳での作曲。ほんとかな? ぐぐってみるとほんとうだった。第二次世界大戦の末期に作曲されている。自分が初演した劇場が次々に焼け落ち瓦解していく状況下での作曲。哀惜、悲しみと怒りが昇華され、本来は23の弦のための作曲でもあったようだが、ここでは7つの弦が、まるで叫びをのど元に抑え、音符に落とし込んで浄化させたような各々の響きが相和している。表現しよう、表現したいと、絵筆を取ったり、楽器を取ったりする、そして楽譜や画布に、或いは彫刻にとその枠の中に表出を修めることの技術というか、能力というか、想いというか、これらが不思議に思われてならない。戦争による変容、苛酷さ、悲哀。変容の段階、或いは変容させ形と成した段階にもたらされるカタルシスも感じられる。感情のエッセンスが集められ濾過され凝縮せられる芸術の不思議さ。動物と人間はこんなところでも違うのだ、そんなことを思わせられた。

「変容」はまず弦楽七重奏の形で構想が練られたらしい。1990年になって初期の七重奏の楽譜が発見され、現代の音楽家が手を加えて弦楽七重奏版の「変容」が完成したという。

 

🎧🎵名曲アルバム。ブラームスの「つの間奏曲の第一番」。
ピアニストであり優れた作曲もできたクララの一側面。ブラームスとの親交が深く、作曲の感想も求められている。シューマンの入水自殺未遂をつなげられると、なにかそれがシューマンの苦悩の種となっていたのかと短絡するが、実際そうだったのか。クララが亡くなってまもなくブラームスも亡くなっているという。クララが音楽的な精神的支えであったのか。

⛳オリンピックが怖いと思う朝。ワクチンが開発された場合の見通し。7時2分更新。

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201116 クラシック倶楽部を聴く 関西弦楽四重奏団演奏会

関西を拠点に活躍する4人により2012年に結成された気鋭の弦楽四重奏団。林七奈,田村安祐美,小峰航一,上森祥平シュルホフによる1920年代の先鋭的な作品と、ラヴェルの傑作を組み合わせた意欲的なプログラムで、カルテットの多彩な響きをお届けします。関西ゆかりのメロディーによるアンコール曲も。【曲目】5つの小品(シュルホフ作曲)、弦楽四重奏曲(ラヴェル作曲)、関西ラプソディ(福富秀夫)【収録】2018年5月26日 奈良県文化会館国際ホール―番組紹介よりー

 

5つの小品」、シュルホフ:作曲
「弦楽四重奏曲 ヘ長調」、ラヴェル:作曲
「関西ラプソディ」、福富 秀夫:作曲

関西弦楽四重奏団
バイオリン:林七奈、田村 安祐美
ヴィオラ:小峰 航一
チェロ:上森 祥平

2012年に結成。4人はそれぞれ東京藝術大学で学び、ヨーロッパでの研鑽と活動の後、林 七奈は現在、大阪交響楽団コンサートマスター。田村 安祐美は同じく大阪響のコンサートマスターを歴任し、現在は京都市交響楽団で活躍。小峰 航一は札幌交響楽団首席ヴィオラ奏者を経て現在は京都市交響楽団首席ヴィオラ奏者。上森 祥平は日本音楽コンクール第一位を契機にドイツでの研鑽を経て、現在ソリストとして、また主要オーケストラの客演首席奏者としても多忙な活躍を続けており、2016年には第14回 齋藤秀雄メモリアル基金賞を受賞している。 2014年度 大阪文化祭賞奨励賞、2015年度咲くやこの花賞受賞。

 

🎵上森いうあの関西弁の独特のリズム感。どういうふうに弾いたらいいか困ったときにキーワードみたいにして出るのが「関西(のノリ)でいこうよ」なそうだ。はっきりものいう覇気ある練習風景が想像せられたのは前回までで、ああそうか、「関西でいこうよ」ですべてがあうんの呼吸でうまくいくのがこのカルテットなのかもと。前回聴いて「うまいな! 上手い、巧い、旨い!」。今回またしても「上手い、巧い、旨い!」。

関西系で聴いたことがあるのは、大阪交響楽団、それも朝比奈隆、それとたまに流れる民謡。東北にいると関西系を聴く機会はまずない。それが弦楽四重奏団というわけで興味津々。
 シュルホフの年代は、18941942チェコ。「5つの小品」、再評価が進んでいるというが、民俗舞曲にデフォルメしたという面白い曲。1、ウィーン風のワルツ、切り口鮮やか。2、セレナーデ、土俗的な感触も斬新に。3、チェコ風に、エネルギッシュ。民俗的な熱が。4、タンゴ・ミロンガ、叙情に甘く蠱惑的なエッセンス。5、タランテラ。焦燥に駆られ疾駆。民族舞踏を大胆にデフォルメしたシュルホフの代表作。民族音楽は、世紀を超えて、どの時代にも形を変えるなりして息を吹き返すものらしい。4、に、日本のどこかで聴いたような旋律もあり、どこにあっても人の同じ想いというものを聴いたような。5、タランテラではなぜか宮澤賢治の風の又三郎が浮かんだ。賢治の精神風土に吹く風はこんな風もいい、そう思われた。
 ラヴェル唯一の「弦楽四重奏曲」。ところどころに醸される響きにぞくっと。
アンコール「関西ラプソディ」、この出演の日のために、特別に福富秀夫氏に委嘱したという。最初にラヴェル、シュルホフ感覚の響きが。まるたけえびす、琵琶湖周航の歌など関西各地の歌のメドレー。関西方面の民謡に通じていない分だけ残念なことに。観客には大うけ。

 世界の中心地イーハトーブ岩手県のモリーオ(盛岡市)に住みながら、盛岡弁もよく知らず、関西の方々のように、これぞ我々の原語と盛岡弁でバシリと感想をぶつけたい衝動はあるものの、すっかり標準語に毒されてしまった盛岡弁しか知らない筆者には何とも歯がゆい。
「どんと晴れ」。

 

🎧🎵名曲アルバム。沼尻&N響でワーグナーの「ローエングリン」の第一幕への前奏曲。
政治に関心なくワーグナーの「ローエングリン」芸術の再現であるノイシュバンシュタインの建設と芸術にあけくれたルートヴィッヒ2世は謎の水死体で発見される。ワーグナーはほどほどにといったら叱られるだろうか。

⛳いま山際に眩い曙光が輝いていたがまたその上の雲のも中に潜り込んでいく。ドラマティックな雲。クラシック倶楽部を見るようになって一日が豊かになったという宮古市の友人も見たであろうこの1時間。6時47分更新

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きょうのことばークリスチャンと聖書ー  

 インマヌエル盛岡キリスト教会202011月8日()の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『クリスチャンと聖書』(國光勝美牧師)
聖書個所 旧約聖書 詩篇119103105130

103 あなたのみことばは 私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。
105 あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。
130 みことばの戸が開くと 光が差し 浅はかな者に悟りを与えます。

 

<説教>

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 私たちが依って立っておりますみことばというものが、どういう構成になっているのか基本的な整理をさせていただきたいと思っております。聖書は分厚い1冊になっていますが、これは66巻が1冊にまとめられた書物です。この聖書は大きく二つに、旧約聖書と新約聖書に分けられます。旧約聖書は、おおまかに言いますと、歴史を通し、詩歌を通し、或いは預言書などを通して、やがて私たちを救ってくださるメシヤ、救い主がいらっしゃることを記しています。新約聖書の方は、救い主が来られました。そのお方はイエス・キリスト様であり、あのクリスマスのときに乙女マリアから生まれ、そして十字架につけられ、よみがえられたこと。そしてその救い、福音をお弟子さんたちが人々に伝えていくようすが記されています。旧約聖書はやがて救い主が与えられること、新約聖書はそのお方はイエス・キリストご自身であることが書かれている、これが聖書のおおまかな分類です。

子ども賛美歌に「♪新約聖書の歌」があります。新約聖書のだいたいのところをとらえることができます。

マタイとマルコとルカ、ヨハネ
これらの4つは福音書、
これらの中にはイエスさまの
教えとみわざが書いてある

使徒の働きはイエスさまの
おでしがいろいろ働いて
世界の果てまで福音を
伝えるようすが書いてある
 

ローマとコリント、ガラテヤと
エペソとピリピとコロサイと
テサロニケにある教会に
パウロは手紙を書きました

テモテトとテトスとピレモンは
パウロが自分のともだちに
書いて送った手紙です
パウロの手紙は13通

ヘブルとヤコブとペテロの書
ヨハネの三つとユダの書は
イエスさま信じる人々に
おでしが送った手紙です

いちばん終わりは黙示録
この世の終わりにイエスさまが
ぼくらを楽しい天国に
入れてくださると書いてある

新約聖書は27
これらのみことばよく読んで
イエスさま信じて救われる
光のこどもになりましょう

覚えましょう覚えましょう新約聖書のなまえ
覚えましょう覚えましょう新約聖書のなまえ

 

 もう一つ聖書を開くときに便利な歌があります。聖書を構成する66巻が歌われており、これを覚えておくと慌てずに聖書を開くことができます。「鉄道唱歌」のメロディーです。

 

レビ申命記
ヨシュア士師ルツサム列王
歴代エズネヘエステル書
ヨブ箴言伝道雅歌

イザヤエレ哀エゼダニル
ホセアヨエアモオバヨナ
ナホムハバククゼパハガイ
ゼカリヤマラキ39

マタイマコルカヨハネ伝
使徒ロマコリントガラテヤ書
エペソピリコロテサロニケ
テモテトピレモンヘブル書

ヤコブペテロヨハネユダ
ヨハネの黙示27
旧新両約合わせれば
聖書の数は66

 

 さて、きょうのお話しの本題に戻りますけれども、今日は詩篇の119篇から103節、105節、130節の三つのおことばを掲げました。

私はここで神学校のクラスのような難しいお話をするつもりはありません。きょう皆さん方がこの礼拝を終えたあとで、聖書っていいなあ、読みたいなあと聖書に対する食欲が出るようなみことばの料理を提供したい。人生の中でみことばのすばらしさを知っていただければと思っております。

 イエス様を信じ従って行こうと決断をしたときの新生経験のとき、或いは信仰生活の中でイエス様に自分のすべてを空け渡して進んでいく決心をしたときの聖潔のとき、この節目節目に与えられた聖書のおことばを握る、これはとても力強いことになります。というのは神様が語って下さるおことばに決して偽りはない。私たちは信頼している人の約束の言葉は必ず守りますし、それを裏切ってしまった時には本当に申し訳ない気持ちになります。

 私が学生時代には携帯やスマホはありませんでした。ゼミの仲間たちと打ち合わせるために翌日に時間を決めて会うことにしておりました。御茶ノ水駅の聖橋口の改札で待つということで、3人の友達が私を待っていたんですけれども。どういうわけか、私はすっかり忘れて、約束をすっぽかしてしまったのです。後日に彼らと会って、「おまえどうしたんだよ、ずっと待ってたんだよ」に仰天、もうそのときの申し訳なさは。ズキンときたのは「あいつは約束を破るような人間じゃないんだ。待とう」と2時間も待ったというのです。何と愚かな失敗をしたものでしょう。忘れられません。しかし神様はうっかり忘れることはない。神様が語ってくださったおことば、それをしっかりと受けて、それをにぎりしめていくことです。 

 神様は私が危機に直面した時に「われ活くれば汝らも活くべければなり」というヨハネ1419節のおことばをくださいました。これが私に栄養となり、私の魂に覚醒をあたえてくれました。何という大きな恵みでしょうか。何度繰り返し話しても色あせません。このおことばによってほんとうに支えられた。人は誰でも死ぬ、これは避けられない事。その死をしっかりと受け入れたときに、死んでよみがえってくださったお方、主イエス様が、わたしは生きているからあなた方も生きるんだ、というまさにそのおことばを心の中に与えてくださったとき、これは皆さん方もこれまでの人生の中でこのように神様のおことばが与えられたことがあるでしょう、そのおことばが光となり導きとなり覚醒となる。皆さんもすでに経験されたことです。

 手術に臨もうとするある方のもとに、姪である方から申命記33:12その手術の方も葡萄の木と言う文集の中に記しているんですけれども、申命記の33:12「主に愛されている者。彼は安らかに主のそばに住まい、主はいつも彼をかばう。彼は主の背中に負われる」、これが英訳で送られてきました。他の方からも同じ申命記33:12送られてきたそうです。呼びかけが「主に愛されているもの」。これがどんなに大きな励ましであることか。みことばが私たちの滋養となり、私たちの光となり覚醒となってくれる、これはもう味わった者の特権です。

 私はクリスチャンホ-ムで育ったわけではありませんし、学生時代の終わりごろに聖書に触れて社会人になった者ですから聖書知識は極めて少なかった。それがどのようにして聖書知識を心の中に蓄えていったのかというと、まずは教会の集会出席です。司会者が聖書を開き、メッセンジャーがお話しをしてくださる。賛美歌もたくさん覚えました。ああそうか、聖書とはこういうものなのだということも集会で知りました。その当時は文語訳聖書でした。ですから私の聖書の記憶の多くは文語訳です。今は口語訳で、特によい評価を得ている「新改訳2017」を公用聖書として使っております。

 この分厚い聖書をいったいどうやって心の中に蓄えていったらいいのでしょうか。聖書を最初の創世記から最後の黙示録まで読むのはなかなか至難です。私は聖書を耕せと申し上げたい。皆さんは今聖書を開いてらっしゃいます。お帰りになってからはどうでしょう。机の上や書棚に置き去りになってはいないでしょうか。開かれもせずに埃が積もってはいないでしょうか。日曜日に教会に行くときだけ引っ張り出すようでは聖書は耕せません。耕すには新約聖書、旧約聖書をとにかく1日一回は開かねばなりません。これをしていただきたい。蔦田先生は「聖書を読まなくてもぱらぱらぱらとやってごらん」と冗談のように仰いました。「ふー、ぽん、クリスチャン」になってはいけません。家では開きもしなかった聖書を、さあ日曜日だというので埃をふっと息ではらって持ってくる、これじゃだめだということです。聖書を耕してもらいたい。1日一回はどうしても聖書を開いてもらいたい。そのためにいちばん現実的なよい書物に「日々の光」というのがあります。たとえばきょうは118日ですが、朝にその日の頁をめくってもらいたい。「しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう」第一テサロニケ58とあり、これがきょうのトップ・テキストです。このおことばと関係の深い聖書のおことばも幾つか出ています。そして夜には、「イスラエル人は彼らと向かい合って、二つの小さなやぎの群れのように陣を敷いたが、アラム人はその地に満ちていた」第一列王2027、これが夜のトップ記事。またこれに関連して載っているみことばを、これをひとりで神様にお祈りするとき、或いは夫婦で一緒に祈るときに、このようにみことばを学ぶ工夫をして用いていただきたい。これはほんとうに現実的な課題です。忙しいときにもこれだけの短いお勧めですから読んでいただきたい。これを読む時間もなかったら、トップテキストだけでもいいからと、私はよく言われたことを思い出します。トップテキストだけでもいいから、これを読むのと読まないのとでは全く違う。せっかく聖書、神様のおことばがここに満ちている。その素晴らしい素材を抽出して幾つか読んでいくときに、ほんとうに心が恵まれてきます。ああこれに関係したところが聖書のここにある、ああそうだこれと関係したこういうことばが旧約聖書にある。その都度聖書を開くことになり、聖書を耕すことになる。必然、神様ありがとうございますというお祈りにもなるし、ありがとうございますと神様の約束のことばを握りしめることで、それがまた信仰になる。与えられた神様のおことばで悔い改めを迫られたのなら言い訳をせずに、主よ、そうです。私はこういうものでした。失敗をしましたといって悔い改める。或いは神様にすべてをお捧げしますとすべてをお捧げしたり、そのような心の中の営みを忠実に自分の光の中でやっていくとき、必ずみことばの恵みを知ることになります。

詩篇119:103 あなたのみことばは 私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。
詩篇119:105 あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。
詩篇119:130 みことばの戸が開くと 光が差し 浅はかな者に悟りを与えます。
申命記の33:12主に愛されている者。彼は安らかに主のそばに住まい、主はいつも彼をかばう。彼は主の背中に負われる

 試練に臨むとき、そこには神様がおられます。神様のおことばがあります。

105 あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。
 私たちが日々の生活を営むときに、暗い時に足につまずきがないように暗い時の道には光が必要でしょう。それを足の灯と。神様のおことばは、私がきょう歩くとき、いまあるときに躓かないように照らす脚の灯でもある。ちょうど北極星のように、ほらこちらが北だよ、とするとこちらが南だよというように進むべき道がはっきりわかるように灯台の光のようにといったらいいでしょうか。道の光、それは行こうとしているあなたの道はこちらだよと指示してくださる光でもある。


130
節みことばの戸が開くと 光が差し 浅はかな者に悟りを与えます。
 先ほどの「主に愛されている」という申命記のことばも、単なる語彙というのではなく、ことばの戸が開く。戸が開くと、ああ、そうだ私はこれほどに愛されているんだと実感される。戸が開かれるときに、感謝と喜びに満ち溢れるということを経験してまいります。

 どうでしょう、皆さん方が手にしておられる聖書に、そういう素材がいっぱい満ちてる。このおことばを新約聖書、旧約聖書、詩篇とさまざまなところから光が与えられてそれを味わうことができるのです。

 最後に一つだけ私が宝を発見したことを証しして締めくくります。

いま使われている聖書の多くは口語訳、私たちは新改訳2017ですので、文語訳聖書に触れる機会はほとんどなくなりました。それで文語訳関係の著書は屋根裏にしまい込んでおりました。しかしつい最近の事、どうしても聖書の言葉が文語訳でしか出てこないところがある。さて、このことば、昔持っていたあの本だったら何とか探しあてられるかもしれない。どこにあったかなあ。

古い本もやはり必要であるので、全部の頁をバラバラに裁断し1頁1頁をパソコンに取り込んでデータ保存することにしました。自炊といいますが。この自炊で、聖書の欄外にあるような小さな文字まで読み込んでくれるかどうか半信半疑でした。それが間違いなくデータ化され、検索するとヒットするんですね。この時代に生きていてよかったと思ったんですけども。文語訳の「べければなり」といった片言だけでもちゃんと引っ掛かってくる。これでもう旧約聖書の断片を検索しただけでぜんぶヒットできる! 宝物を見出したようなものです。大きな喜びでした。

何をいわんとするか。一つのみことば、たとえば「キリストのよみがえり」と検索するだけで、これに付随した幾つもの項目を手に入れられる。ここにも書いてある、ここにも書いてある、ここにもと。それを辿ることでまた聖書が生きてくるわけです。

皆さん方、是非ぜひこの聖書のいかに奥深いかを味わい、そしてこれが私たちのいのちであることを確信していただきたい。ふー、ぽん、クリスチャンになってはいけません。聖書によっていのちを益々豊かにし、道を誤ることなく、そして、このみことばによって悔い改め、扱われ、前進していく者であらせていただきたい。このように切に祈り願っております。

 

※説教は教会のデータをもとに起こしています。画像は教会からお借りしています。

 

⏰6時18分 更新

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オペラ講座

J-MERO、けさTVを点けてみると何と番組がプレミアムシネマに。「ユリシーズ」。ホメロスの「オデュッセイア」の映画化。1954年のイタリア映画。長そうと思いつつ7時まで視聴。古代ギリシャにこんな面白い物語がと今更ながら興味深く観た。この映画の中でのトロイの征服者ユリシーズ、凱旋途中で海神の怒りにふれ難破、漂着したが記憶を失っている。あわやその地の王女と結婚かと思ったところで記憶を取り戻す。
 ポセイドンの息子であるという一つ目の巨人にはジョナサン・スウィフトのガリバー旅行記が思い出されたし、セイレンの岩場の女の歌う声ではローレライが思い出された。後々の多くの物語のルーツであるかもしれないとも勝手に想像したが。
 召使がみな耳が聞こえない、口がきけないといった発想、これは或いは当時は身分の低い者の殺傷に罪悪感を持たない時代であったかもしれず、人為的に為された可能性も無きにしもあらずと思うのだが。何れ7時までしか見ておらず、つまりは肝心な後半部分が落ちているというお粗末さなのだが、大昔の、それも古代の、これまでまったく興味もなかったのだが、面白さに目見開かれた1時間半であった。

 

きのう「オペラ講座」、最後の5回目を受講。これがもったいない内容、誰にもったいないか。私にはということだが。「何が何だか分からなくともすごいことをやってる」、これは講師の方が冗談にか仰ったことばだが、まさしく何が何だかわけは分からなくとも素晴らしいものは必ずみなに通じる、わたしにも通じた、とこういうことであった。
オペラ「アイーダ」の解説、作曲者の人間的なグレードをも付加しての解説。DVDも超一級。そして誰もが待っていたのは、実演。衣装はつけてはいない、またそれを望むだけの受講料も支払ってはいないのだ。5回で2000円。一回分400円。内容も400円かと言うと、これはもう一回数千円には相当する。金額ではないというものの。つまりはボランティアで資料作り、プロジェクター担当、司会、ピアノ伴奏、歌唱、解説とけっこうな人員が動いてくださっている。ギュッと絞った生ジュース。何通りもの材料で煮詰められたソースがけのメインディッシュというわけだ。

「あなたの運命を決める祭司たちが」「神の聖霊よ」在原泉、西野真史、菊池玲子、小原一穂、及川康生、佐々木保雪
これが、何が何だかわからないけど、凄かった! あの時間帯で消えたことが惜しまれと書きながら、あららまだ耳奥で聞こえてる。

 

⛳15時26分 更新
コロナのクラスター発生で緊張感はましたけれども、すばらしい秋晴れ。


 

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201113 クラシック倶楽部を聴く 川口成彦 フォルテピアノの響き

現代のピアノのほか歴史的な鍵盤楽器で演奏活動を行う。第1回ショパン国際ピリオド楽器コン第2位、2016年ブルージュ国際古楽コン・フォルテピアノ部門最高位、2018年第一回ショパン国際ピリオド楽器コンクール第二位。第1回ローマ・フォルテピアノ国際コン優勝など受賞多数。第3ローマ・フォルテピアノ国際コンクールでは審査員を務める。世界各地の古楽音楽祭にも多数出演。【曲目】「田園風」「無頓着」「傲慢」(ソル作曲)創作主題による32の変奏曲(ベートーベン作曲)ほか【収録】2020年9月17日 府中の森芸術劇場 ウィーンホール―番組紹介よりー

 

1989年に岩手県盛岡市で出生し、横浜で育つ。東京藝術大学音楽学部楽理科を卒業。大学在学中に古楽器にフォルテピアノに出会い、先輩の勧めでフォルテピアノを中心とした古楽器による演奏活動を開始した[1]。その後、同大学院修士課程古楽科に進学し、大学院アカンサス賞を得て首席修了。アムステルダム音楽院古楽科修士課程を特別栄誉賞を得て首席修了。現在オランダアムステルダム在住。歴史的な鍵盤楽器を用いる。

川口成彦のコメント

ちょうど20歳になるころ、東京芸術大学の楽理科に在学していて、副科実技でフォルテピアノをやることになったんですが、ハイドンのソナタを弾いたときに、今まで現代のピアノで自分が知っていたイメージしていたハイドンとまるで違うものが見えてきて、はじめて古典派の音楽にかっこいいなと心から魅了され、それからどんどん嵌っていきました。昔のピアノというのは川の水のようないろんなものが混ざっているような音色に素朴さというか自然さを感じて、より人の声に近いなという感覚がある。それで昔のピアノって面白いなと思っています。

 きょうのこの楽器はジョン・ブロードウッドといって当時のイギリスを代表する製作家の楽器で、それを太田垣 さんという日本人の修復家の方が2020年に修復されたオリジナル楽器なんです。1800年ごろのものをそのまま現在でも音が出るように新しく修復された楽器です。今回使ったピアノに限っていうと、すごく軽いです。鍵盤数が5オクターブ半。今のピアノに比べるとすごく少ないです。それから中の弦が平行に張られている。パラレルスプリング、平行弦というんですが。平行に張られているのが特徴です。きょうの楽器はこれ(つまみのようなものですがよくは見落としました)がついていて、つまりこれをスライドすると、2本弦にしたり、1本弦にしたり。弦が3本張られているのが1本弦までできる。ペダル、右のがダンパーで音を響かせるやつですけれども、当時の楽器は1本弦、2本弦、3本弦と変えられたんですけれども、現代のピアノは2本弦までというのも大きな違いです。スペインの楽器の歴史というのは非常にイギリスのピアノの製作の影響を受けていて、スペインからイギリスに楽器製作を学びに行った人もいたり、マドリードの王宮にはブロードウッドがあった。で、それがいまボストン美術館にある楽器なんですけれども、イギリスの楽器って豪快さもあるんですね、派手さがあるというか。スペインのピアノ曲というのも、ギターからインスピレーションを受けたような表現も多いので、あとはスペインの民族的な歌だとか舞曲だとか、ピアノ音楽でそういうのを取り入れるにあたってもジョン・ブロードウッドの楽器、イギリス系の楽器というのは、スペインの作曲家たちにインスピレーションを与えたんじゃないかなと思います。

ベートーベンというのは、モーツァルトやハイドンに比べると、より一層楽器の限界を突破しようとした人なんだなというのを、やはり当時の楽器を弾いてみるとすごく感じます。最大限の自分のマキシマムなエネルギーをピアノと言う楽器に向けていた作曲家だなと思います。「月光」ソナタの第3楽章を当時の楽器で弾くともう崖っぷち状態にいるような緊迫感がすごくありますね。もう楽器も壊れるんじゃないかというぐらいのエネルギーがあって、ドナルド・ブラウティハム(オランダを代表する演奏家)さんという人の「月光」の録音が大好きなんですけれども、聴衆としてそれを聞くともう椅子にしがみつきながら聴きたくなるような崖っぷち状態。これは現代のピアノではなかなか表現できない世界。現代のピアノはもうどんな音を出しても余裕で大らかに受け止めてくれるので。ベートーベンがいかにその楽器の限界突破に挑もうとしていたか、未来志向だったのかなと思います。きょうの楽器というのは、「熱情」ソナタとか、(2文字聴き落し)の楽器ですけれども、これで「熱情」の3楽章とかも弾きますと、やっぱり限界値に到達、連れて行ってくれるといいますか、その白熱するエネルギーというか、その時にベートーベンって凄まじいエネルギーを持っていた人間なんだなと思います。

曲目
☆「アリア ニ短調」アングレス:作曲
ラファエル・アングレス(17301816) 176221日にバレンシアのカテドラルのオルガニストとして就任し、86歳で死ぬまでその職を務めたということです。オルガニストの職と共に、グレゴリオ聖歌の指導をしたり、他の楽器の楽団員の審査員をしたりもしました。(全てニューグローヴ音楽事典からの情報です。アングレスに関する面白いネタ話はなかなか見つかりませんでした)―川口成彦の頁からー
☆「スペインのファンダンゴによる変奏曲」ロペス:作曲
フェリックス・マクシモ・ロペス(17421821)
☆「ソナタ ニ長調」アルベニス(17551831):作曲
1790
作曲。サパティアードの影響。スペイン舞曲の影響。
☆「ファンダンゴ風メヌエットによる変奏曲 ニ短調」ロペス:作曲
カスタネットとギターで踊るファン・ダンゴの影響。
☆「田園風」ソル:作曲
フェルナンド・ソル(17781839)
☆「無頓着」ソル:作曲
☆「傲慢」ソル:作曲
☆「アンダンテ・ファボリ」ベートーベン:作曲

もともとワルトシュタイン・ソナタの中間楽章として書かれたが、冗長になるのを恐れて独立した楽曲にした。1803年から1804年にかけて作曲され、1805年に出版された。章の構想であったのをソナタには組み込まれずに独立した作品として1805年に出版された。
☆「創作主題による32の変奏曲 ハ短調」ベートーベン:作曲

1806に作曲したピアノ独奏のための作品。

作曲者36歳の中期に属する作品で、古典的な作曲法と巧みな変奏技法とが見事に一体となった変奏曲である。ベートーヴェンはハ短調には特に名作が多く、交響曲第5番ピアノ協奏曲第3番ヴァイオリンソナタ第7番など、大作が揃っている。

🎵だいたい同年代の作曲家たち。ベートーベンは1770だけれども。アルベニスまではギターの響きのような音色もあり陽気で明るく舞曲のような躍動感。「ファンダンゴ風……」は足を床に打ち鳴らすような響きが心地よい。ソルは練習曲を聴いているような。それがベートーベンで一転。「創作主題による……」、解説、コメントが一層の真実味を。ベートーベンのベートーベンたる所以に満足度もまたマキシマム。


因みにソロ・アルバム「ゴヤの生きたスペインより」の
使用楽器
ジョン・ブロードウッド&サン 1792年製(エドウィン・ベウンク氏修復)トラック1-3811-14
クリストファー・ゲイナー スクエアピアノ 1780年頃製 (オラフ・ファン・ヒース氏修復)…トラック4-7910

🎧名曲アルバムはベルクの「ある天使の思い出に」。渡邊玲子のバイオリンが永遠に尾を引いて。

⛳10時更新

それからの書き足しで、盛岡出身と聞きくとやはり嬉しい。世界で、中央で、地元でさまざまな才能が活躍。

10時

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201112 クラシック倶楽部を聴く 反田恭平 ピアノ・リサイタル

反田恭平 オール・ショパン・プログラム情熱的な演奏で注目を集める若手ピアニスト・反田恭平日本各地で演奏会をおこない常に多くの聞き手を魅了しているショパンの故郷ポーランドで学んできた反田恭平がその成果を披露天才ショパンが遺した傑作を集めてお送りするスペシャルコンサート曲目「アンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズ」「マズルカ 作品56第3」「ピアノ・ソナタ第3番」―番組紹介よりー
2019
130日CHABOHIBAHALL(東京都立川市)

1994年生まれ。2012年、高校生のとき日本音楽コンクール1位(男性では史上最年少)2014 - モスクワ音楽院に首席(日本人初の最高得点)で入学。2015年「チッタ・ディ・カントゥ国際ピアノ協奏曲コンクール」古典派部門で優勝。
F.ショパン国立音楽大学(旧ワルシャワ音楽院)研究科修了。現在、同大学研究科(3期目)にてピオトル・パレチニに師事。

 

☆「アンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズ 作品22
「マズルカ ハ短調 作品56 3
「ピアノ・ソナタ第3番 ロ短調 作品58


 反田恭平のコメントでは「どう弾くのが正しいのか、正解を知りたくてポーランドに留学。徐々に自分のものになってきたが、とりあえず、ことし(2019)のツァーでそれをお届けしたい」と。ポーランドでショパンの博物館にも足を運び自筆譜などを見ていると、ショパンが使用しないでしまった作曲上のアイデアがさまざまのこっているとのこている反田。ピアノだけを弾いているのではなく、作曲家の研究にも余念がない。
 「マズルカ」について、ショパンは拍子にもこだわりを持っており、特にルバートに関しては、大木を揺らしてゆらしてなじませていく。幹は動かず、その葉だけがさわさわと、か、ざわざわとか、揺れ動くのがルバートであるという。 「マズルカ」はファンタジーに近い聴きがいのある難しい作品。「ピアノ・ソナタ第3番」、34歳での作曲。古典的な手法による大規模な作品で、巧みな楽曲が組み合わされている。バッハの対位法を忠実に再現しているとことも。第一楽章の動機がちりばめられており、色々なパッセージが組み込まれている。終楽章での3回目の主題には、あー、来た来たと、ざわーとするのだという。ショパンの生涯が含まれている作品であると。

🎵「ピアノ・ソナタ第3番」、ショパンを聴くとき、いつも水の3態、水の流れが浮かぶのだが、この4楽章では尽くされた楽曲が、これもか、これでもかと立ち現れ迫ってき、それがマッスとなって、人生の集約をドラマティックに提示された思いがした。また第二楽章の終わりの二つの音が心の底に落ちて、今も鳴っている感じ。あれは諦念でもなく沈潜でもない。第3楽章には人生の不条理も聴こえた気がしたのだけれども。
 今回は公開録音ではない。CHABOHIBAHALLでの録画。カメラが、ピアノの持つ今一つの機能、周りにあるさまざまなものを美しく映し出すという可能性を追ってくれた。特に、持ち上げられた天板の角度の延長線の高さから捉えたピアノの内部構造、高橋アキがいう「ピアノは弦である」さまが、琴線さざめくごとくにとらえられていた。観客席にあるときには、視覚の範囲は一定しており、決して味わうことのない断面を、この映像では豊かに提供してくれた。ファツィオリと、それを縦横に弾きこなす演奏家と、カメラワークが作り出す詩の世界。

🎧名曲アルバム。ボロディンのイーゴリ公から「ダッタン人の踊り」。沼尻&N響? ボロディンの墓碑にこの譜が刻まれて。

 

⛳640分に眩い光が。建具、家具の断面が一挙にライトアップ。6時55分更新。盛岡市薮川-9,3度。盛岡ではいちばん寒いところ。冬の忍び足。

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201111  クラシック倶楽部を聴く イノン・バルナタン ピアノ・リサイタル

1979年イスラエル・テルアビブ生まれのピアニスト、イノン・バルナタンの演奏会からおおくりする。ピアノの巨匠レオン・フライシャーの薫陶を受け、現在はニューヨークを拠点に活動するバルナタン。圧倒的なテクニックを誇るが、シューベルトの後期ソナタの録音、室内楽奏者としての数々の演奏など、深い知性による多面的な活動が注目を集めている。トッパンホールのリサイタルシリーズ「異才たちのピアニズム」から。―番組紹介よりー

 

イノン・バルナタン
1979
年イスラエルのテルアビブ生まれ。3歳でピアノを始め11歳でオ-ケストラと共演しデビュー。ロンドンの王立音楽院でクリストファー・エルトンに師事。これまでにニューヨーク・フィルハモニックやベルリン・ドイツ交響楽団など世界有数のオーケストラと共演。指揮者アラン・ギルバートはバルナタンの洗練された緻密な音楽を高く評価。2009年には優れた若手音楽家に送られるエイヴリー・フィッシャー・キャリア賞受賞。
コメント
私はピアノが持つ無限の可能性に驚いています。あらゆる楽器で演奏される音はすべてピアノで再現することができます。
作曲家と演奏家の違いは、演奏家は音楽の中で「役」を演じます。役者は脚本の中に生きる登場人物とその世界について思考しなければなりません。演奏家はどのように演奏するのかだけではなく、作品の世界観、目的、意図を創造するのです。演奏家としてピアノを弾くことは俳優が役を演じることと似ています。
「目に見える暗闇」アデスはジョン・ダウランドが1610年に書いた歌曲。「暗闇に住まわせておくれ」を素材にしました。音符もリズムも変えていませんが、原曲の構築を破壊しました。原曲の音符はあらゆる所で音域を変えて出現します。私はアデスの音楽を夢を見ているような感覚で聴いています。夢の中で感じるような微妙で不思議な違和感を覚えるのです。なぜ500600年前の曲を用いて現代的な作品を生み出せるのかと驚いています。終盤はダウランドの音楽を直接引用しています。しかし古典の音楽が新たな作品として聞えるように書かれているのです。

 

曲目

「ベルガマスク組曲」ドビュッシー:作曲
「目に見える暗闇」トマス・アデス:作曲
「夜のガスパール」ラヴェル:作曲

🎵バルナタン、けさ、演奏を聴いていて、水の動き、輝き繊細さといった描写をほんとうに瑞々しく弾いてくれると思った。
「目に見える暗闇」では、闇の奥にある静寂を手探りしまるで糸巻機で巻き取るように、人差し指と親指で絡め取ってでもいるような響きが印象的。出だしで、音の配列、間合いによってこうも意表を憑く描出がされるものかと。トマス・アデス、「ぶらあぼ」では「その音楽は多彩な声部や音色がシスティマティックに管理されつつ輝きを放ち、まるで現代における情報網を音にして聴かせるような趣きさえ感じられるものだ」。これはいわく言い難いところをしっかりと言葉にしてくれている。原曲は1610年に書かれた歌曲「暗闇に住まわせておくれ」。バルナタンのコメントにあるけれども500600年前の曲で現代曲が書けるのが不思議。後に作曲家たちの心を強く捉える優れた古の旋律がどこですがたを現わすかおもしろいところ。トマス・アデスはポスト・モダン。この曲は、1992年にアデス自身がブダペストで初演している。私にしてもドヴォルザーク、ベートーベンに満足しながらも、音楽番組に向かうと、常に、まだ聴いたことのない斬新で奇抜で、奇想天外な音を待っている自分がある。
 「夜のガスパール」、第一曲、感情の上り下りをアルペジオに聴く。オンデーヌが笑ったところはここかな、などと物語の内容を追うゆとりはここではあるのだが、第2曲は、「絞首台」というショッキングなタイトルが、曲に釘付けにする。重々しいテンポに、深淵に引き込まれてゆくような雰囲気は読み取るのだが、死体がさらされているような感覚にまではならない。第3曲、リストの「メフィスト・ワルツ」第一番からの着想、これが下敷きになっているらしい。難易度の高い指運びは、この曲の一つの特徴でもあるようで、終始運指に目を凝らしてしまった。曲を理解しようとするうちに、作曲者の野心がみっちりと詰め込まれている凄さがぐいんと刻まれた。

🎧名曲アルバム。名曲アルバムはベートーベンの7番。7番といえばこれしかない7番。かつて聴き、今も聴き、これからも聴くであろう生涯的ベートーべ7番。ウィーンの城壁の上の館で彼はこの曲を。円光寺&東京フィル。

 ⛳7時更新

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201110 クラシック倶楽部を聴く  ニコライ・ルガンスキー ピアノリサイタル

 「ロシア・ピアニズム」の正統派として高く評価されているピアニスト、ニコライ・ルガンスキーのリサイタルから。世界各地で賞賛を集めるルガンスキーだが、2018年2月の東京公演でも作品の内面に向けられた深々とした共感、そして圧倒的で輝かしいテクニックで聴衆を魅了した。「ショパンの作品の中でも特に美しく、悲劇の色が濃く、そして私がもっとも好きな作品のひとつ」と語る「バラード第4番ヘ短調」ほかをお送りする。―番組紹介よりー

ニコライ・ルガンスキー
1972
年モスクワ生まれ。モスクワ音楽院でタチアナ・ニコラーエワ、ヘルゲイ・ドレンスキーに師事。1994年チャイコフスキー国際コンクール第2(最高位)。優雅で繊細、時に力強く輝かし演奏は、ロシア・ピアニズムの正統派として高く評価されている。20134月栄誉あるロシア人民芸術家の称号を授与された。ルガンスキーは、ロシア音楽、特にラフマニノフの演奏に定評がある。

ルガンスキーのコメント
ピアノに向き合う時の気持ちについては
多彩なアーティストでありたいとおもっています。それぞれの作品に入り込み、その作曲家になりきって演奏することを目指しています。内面的にも作曲家に同調して苦悩を感じたり、子どものような感性をもったりと変化していかねばならない。演奏する曲によって、異なる課題を自分に課しているのです。
シューマンの「こどもの情景」については
私は10歳の時に弾いたこの曲に45歳になった今戻ってきました。私はこの曲が子どものための作品なのか大人のための作品なのかいつも不思議に思います。シューマンはまるで子どものような生き生きした感受性を持っていました。大人にとって何気ないことでも、子どもは大きな反応を示すものです。大人と子どもが組み合わされたようなこの作品にシューマンは日常のふとしたことへの感情をこめました。その感情は子どもにも大人にも感じ取ることができるのです。
ショパンの「舟歌」については
この曲は私が最も好きなショパンの作品の一つです。「舟歌」はショパン晩年の作品で、彼の哲学的な面が映し出されています。世界はすばらしく感動をもたらすものだというショパンのメッセージが伝わってきます。
「バラード第4番」につては
ショパンの作品の中で最も美しく、そして悲劇の色が濃い作品です。ショパンが書いた4曲のバラードの中で最も悲劇的で夢、幸福、愛は最も悲しい結末を迎えます。この曲も私が最も好きなショパンの作品です。

 

 ☆「こどもの情景 作品15」シューマン:作曲
「こどもの情景」は、13の小品で構成された若きシューマンのピアノ作品。比較的やさしいテクニックで演奏できるように書かれているが、子ども用の教材作品ではなく、「クライスレリアーナ」や「幻想曲」とともにシューマンの創作活動を代表する傑作の一つ。
1知らない国々、2珍しいお話、3鬼ごっこ、4おねだり、5満足、6大事件、7トロイメライ、8炉ばたで、9木馬の騎士、10むきになって、11おどかし、12こどもは眠る、13詩人のお話
「舟歌 作品60」ショパン:作曲
「舟歌」は幻想ポロネーズ、マズルカ作品59、夜想曲作品62などと同じく、ショパン晩年の1曲。ベネチアのゴンドラの唄に端を発するジャンルの作品で、流麗なメロディーが歌われるが、晩年のショパンの作品に共通する憂愁が全体を覆っている。
「バラード第4番 へ短調 作品52」ショパン:作曲
ショパンは、「バラード」と名付けた作品を4曲遺した。(一節書き落とし)きわめて自由な形で進行し、ドラマティクなクライマックスと一瞬の静寂、そして悲劇的なコーダで曲が閉じられる。ショパンの最高傑作と評価されることも多く、名作として名高い1曲。
「リラの花」ラフマニノフ:作曲
「練習曲 ヘ長調 作品108」ショパン:作曲

 

 🎵シューマンの「子どもの情景」、この解説としてはやはり番組紹介では「内面に向けられた深々とした共感、そして圧倒的で輝かしいテクニック」なのだが、13曲のそれぞれのタイトルを念頭に聴いてみる。すると子どもの情景、風景が実にリアルに客観的に感性によってスケッチされており、そのイメージが音という濾紙を通過する段階で、情感を装ってできあがっている。これが単に子どものために書かれた曲ではなく、「クライスレリアーナ」や「幻想曲」に並ぶ芸術創作作品という位置づけを得ている所以かと思われた。ルガンスキーは10歳で弾いたこの曲を45歳になって弾いて子どもに戻ったようだと言いながら、子どものための作曲か大人のための作曲かが不思議、大人と子どもが組み合わされたような作品であるとも語っている。
 ショパンの晩年の作品「舟歌」、番組解説では「晩年のショパンに共通している憂愁が全体をおおっている」と。これをルガンスキーは哲学的な面が映し出されるという。そして「世界はすばらしく、感動をもたらすものだ」というメッセージがあると。最後部分、私には、それでもそれでも、そら、世界は輝いてるじゃないか。そして更に最後には、ああ、この曲もうまくいった、というショパンの満足を聴いた。
 ショパンの「バラード4番」についてルガンスキーは「ショパンの作品の中でも特に美しく、悲劇の色が濃く、そして私がもっとも好きな作品のひとつ」と語っていると。
 アンコールはラフマニノフの「リラの花21-5」。白、ピンク、青のライラックの花のグラデーションの感じか。もう一曲はショパンの「エチュード10-8」、最後部分、アンコールはもうこれで終わりよ、と聴こえもしたが、この日のアンコール曲は実は4曲。その後先はわからない。このアンコールの2曲がけさは一層明るく輝いて繊細、流麗に流れこんでくる。尽きない魅力が最後の一音まで。

 

🎧🎵名曲アルバムは映画「ニューシネマ・パラダイス」。舞台であるシチリアの今も変わらずに景観を留めるパラッツォ・アドリアーナと人々のすがた。映画を見てみようかな久方ぶりに。円光寺&東京フィル。

⛳シチリアの地名がちょっと怪しいかなと思いつつ、6時57分更新。

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ともだちの作品

「青の会」展に行ってきました。
大信田時子さんの作品です。写真がなかなかうまくいかず、2点のみアップ。

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201109 クラシック倶楽部を聴く  

現代屈指のプロコフィエフ弾き・トラーゼ、待望の来日公演!ピアノ協奏曲の第2番、第3番を、トラーゼ編曲のソロ、愛弟子との2台ピアノで一挙演奏した話題の演奏会からー番組紹介よりー

アレクサンドル・トラーゼ
1952年、旧ソ連グルジア・トビリシ出身。バンクライバーン国際ピアノコンクール入賞。モスクワ音楽院で教職につく。1983年アメリカ移住。91年インディアナ大学教授。出身のグルジア文化に愛着があり、演奏作品もプロコフィエフ、ラフマニノフ、ストラヴィンスキーなど、華やかさと、洗練さよりも民族的な音響を優先したロシア音楽を得意とする。(wikipediaより)

 

収録は2018523日トッパンホール。協賛は竹中工務店だと知り企業イメージがアップ。
トラーゼは語る「わたしは演奏そのものには興味がない。心を惹きつけるのは曲に秘められたストーリー。ハイドンの「ピアノ・ソナタ第49番 変ホ長調 Hob.XVI-49は、トラーゼが10代から演奏し、ともに歩んできた曲。特に第2楽章の美しい部分は恋仲にあったマリアのために書かれており、マリアのテーマともいうべき。親密なふたり。(所謂作曲のための作曲という意味であるかと思うが)ただ音符を並べられた曲よりも楽しんでもらえる」と。
またトラーゼはプロコフィエフの「ピアノ協奏曲第2番 ト短調 Op.16より 第1楽章 カデンツァ」について、この曲を「プロコフィエフは自身が最も大切だとした曲。1913年完成。私の父はジョージアやソ連では名の知れた作曲家でした。父は若い頃グリエールという作曲家に師事していたのですが、プロコフィエフも父の師・グリエールに作曲を習っていたんです。弟子のプロコフィエフについてグリエールは父にこう語っていたそうです。「プロコフィエフの作品は曲の11音すべてが天才の創造物なのだ!」。プロコフィエフは曲に込めた思いの丈を楽譜に細かく書き込んでいます。ピアノ協奏曲第2番 第1楽章のカデンツァでは、彼が抱いていた言葉に言い表せないほどの深い苦悩を楽譜から感じ取ることができます。三つのfでとても強くと何度も何度も指示した末に、colossale“これ以上ないくらいにという言葉を書き込んでいます。実はこれは最愛の友を自殺で亡くした時の底知れぬ悲しみの表れなのです。ピアノソロのカデンツァは、この曲全体では70小節にも及んでいる。私にとって楽譜は完璧なガイドブックです。作曲家の祖国、文化、芸術、そして人生のあらゆる局面すべてが記されている。私はそれを聴き手に伝えたいのです」。
「ピアノ協奏曲第3番 作品26から 第3楽章」プロコフィエフ:作曲
この曲のみトラーゼとキム・シウォンが2台のピアノで演奏。
20世紀を代表する作品であるこの協奏曲は、1921年にプロコフィエフ自身のピアノで初演された。作曲前にプロコフィエフが日本を訪れていたことから、トラーゼはこの楽章に日本の影響を感じている。今回はプロコフィエフが手掛けた2台のピアノ版での演奏。オーケストラパートはトラーゼの愛弟子で韓国出身のキム・シウォンが務めた。

🎵あのいかめしく見えるハイドンにも様々な人生模様があったことに意外性を。トラーゼが「ピアノ・ソナタ第49番」で、第2楽章がまずできあがりその後にその前後の各章ができあがったというようなことを語っていたが、全曲を聴くことがけっこうしんどいと思うものの、全曲聴いて各章の意味や位置づけができるかと思っていたけれども、作曲者がこういった作曲のプロセスを経ているのであれば、最も耳障りのよい章のみの鑑賞も可であると思われた。プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第2番」、何をどうあがこうとも癒すことの不可能な懊悩、苦悶が痛々しい。「華やかさと、洗練さよりも民族的な音響を優先したロシア音楽を得意とする」トラーゼならではの響きが打鍵の激しさとともに胸奥に突き刺さったまま。

🎧🎵名曲アルバム。ベートーベンの「交響曲第8番」。昨夜もTVで久方ぶりに群馬交響楽団、九州交響楽団のベートーベンを聴いたが、何かその延長線上に映像を伴って8番を聴いたような。8番がつくられたテプリツェの映像、とにかくベートーベンやゲーテが現われた宿ったところのすべてに張り付けられるモニュメントの立派さは!

⛳きょうも眩い朝日が。7時ジャスト更新。

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きょうのことば 昇天者記念礼拝メッセージ

インマヌエル盛岡キリスト教会202011月1日()の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『復活の希望と確信―昇天者記念礼拝』(國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 第一コリント151220

15:12ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。 15:13もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。 15:14そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。 15:15私たちは神についての偽証人ということにさえなります。なぜなら、かりに死者がよみがえらないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずなのに、私たちは神がキリストをよみがえらせたと言って、神に逆らう証言をしたことになるからです。 15:16もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。 15:17そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいます。 15:18そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。 15:19もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。15:20しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

 

<説教>

 私たちは、毎年11月の第一日曜日をかつてはこの教会で共に礼拝した兄弟姉妹方、天に帰られたそれらの方々を格別に覚えながら記念するときを持っております。今年もこのように御前に持つことが赦されました。この日にはお一人おひとりの遺影を並べ偲んでまいりましたが、いつの間にか場所的に掲示しきれなくなったころに、ちょうどプロジェクターという便利なものを使うようになったものですから、スクリーンに映し出すようになりました。
 礼拝が終わりましたら皆様方とご一緒に写真を撮りまして、この日を覚えたいと思っております。

「復活の希望と確信」というテーマで、きょうは短くおことばを取りつがせていただきたいと願っております。

Bc-20201101-203817

 

第一コリントの1519節に
15:19もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。

 これはパウロという人物がコリントの教会に書いたお手紙の1節であります。パウロが謂わんとしているのは、しかしイエス様はほんとうによみがえり、生きて私たちに生ける希望を与えていてくださる、だからこの19節を裏返していうのなら、私たちは世界でいちばんしあわせな者たちなのだということなのです。なぜならば、
15:20しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
 キリストはまことによみがえってくださった。今日は、このところからお話をと導かれております。

 今パウロという人のことでお話をしましたが、皆さん方は教会で、ペテロという名前をよく耳にしています。これはお弟子さんたちの中でもリーダー格の器であります。このペテロもイエス様の証人です。イエス様が十字架につけられ復活されたことを目の当たりにします。彼は、ほんとうのよみがえり、永遠のいのちはこの方にあると気が付きました。当時はネロというローマ皇帝がキリストを告白した者を処刑していました。ペテロもこの迫害を逃れようとしていたのです。しかしよみがえりのイエス様に触れて、彼はもういちどネロ皇帝の待つローマに帰って行く。たとえ殺されようとも主を証しすることを選んだのです。勿論十字架刑になったのですけれども、彼は、我らの主と同じ十字架の死というのではかたじけないと逆さ磔つけを望みました。この殉教も実に印象的であります。

 実はペテロは、いったい自分が何を伝えているのかを、新約聖書のずっと最後の方にある第一ペテロ18節で書いています。

1:8あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見ていないけれども信じており、ことばに尽くせない栄えに満ちた喜びにおどっています。 1:9あなたがたが信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。

また第二ペテロ116節でも

1:16私たちはあなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨を知らせましたが、それは、巧みな作り話に従ったのではありません。私たちは、キリストの威光の目撃者としてつたえたのです。

 ペテロは自分の全存在を賭けて、私はこの復活されたイエス様、永遠のいのち、よみがえられたイエス様を知っています。あなたがたは見たことはない、けれども私の証言、私の証しは確かです。私は目撃者なのです。その証人として今あるのです。
 私達の信仰が単なる宗教的な作り話の上に成り立っているものでは決してないということをここで確認しておきましょう。

 ペテロと同じ代表的な使徒のひとりでヨハネという人物がいます。このヨハネという人は、第一ヨハネの手紙というところがあります。ここに
1:1
初めからあったもの、私たちが聞いていたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、 1:2―このいのちが現われました。御父と共にあり、私たちに現われたこの永遠のいのちを私は見たので証しして、あなた方に伝えます。

 ペテロ然り、そしてヨハネも、私は実際に自分の目で見たもの、じっと見つめたもの、自分の手でさわったもの、即ちいのちのことばについて、よみがえりのイエス様、もちろん十字架のイエス様のみもとにもヨハネは行きましたが、よみがえられたお方をしっかりと見て、私はこの永遠のいのちなるお方の証人として立っている。
 どうですか、ペテロ、ヨハネ、この方々が自分の人格のすべてを注ぎだしてキリスト、永遠のいのち、これを証ししていてくださる。そして、パウロの第一コリント15章に戻りますけれども、もし私が巧みなつくり話によって、キリストがよみがえった、永遠のいのちというようなことを言っているとするなら、そんなことを証ししている私は、神に呪わるべきものだし、世の中で一番愚かなそして哀れな者だとパウロはいうのです。しかし、私はほんとうによみがえられたこのお方を知っている、このお方によって私は罪が赦された新しいいのちを与えられてその証人として今いるのだ。

 ペテロ、ヨハネ、パウロ。これらの方々が、自分の人格、生涯のすべてを注ぎだしてキリストの復活を、永遠のいのちを私たちに証ししてくださるとき、死に対する勝利、永遠の希望というものが、この方々の証言に基づいているのだという事を、改めて思うのでございます。 

「うるわしのしらゆり」という賛美歌がございます。私はこの場所で、NHKの朝ドラをご覧くださいというつもりではないのですが、いま放映されております「エール」という朝ドラの中で、薬師丸ひろ子という人が、この「うるわしのしらゆり」を歌いました。そのことに関わる背景を記している文章がありました。戦争中にキリスト教が迫害を受けていた場面がありました。今回キリスト教の時代考証を担当したのは立教大学のキリスト教の学者である西原廉太教授でした。立教大学というとイギリス国教会の流れを汲む。ジョン・ウェスレーもイギリス聖公会の牧師でありました。そういう意味で関係の深い流れのひとつではありますけれども。いずれにせよ、そのキリスト教学者の時代考証であるようです。

 その学者が述べているところを簡単にご紹介するのですけれども。
 古関裕二がモデルである主人公が作曲した戦時歌謡によって、たくさんの若者たちが戦争に行き命を落としてしまったという自責の念を彼は深く持つわけです。彼には愛知県の豊橋出身の奥さんがおられて、実際もそうなのですが、彼女の実家が聖公会の信仰を持っていました。戦争当時、中心的に弾圧を受けたのは、ホーリネスと聖公会です。そのへんのところが時代考証されていました。さていよいよ戦争が激しくなり、空襲にさらされてしまうわけです。豊橋の方もですが。今まで築いてきたものがすべてを灰に帰した中で、主人公の奥さんのお母さんが薬師丸ひろ子です。薬師丸は台本では焼け野原で地面をたたいて「戦争の、こんちくしょう! こんちくしょう!」唸りながら地面を叩く台詞が用意されていたそうです。ところが、薬師丸が、ここはそうじゃなくて、この「うるわしのしらゆり」を歌いたいと主張、その方がきっといいだろうと。実際にそのようにやるには意見もあったでしょう。NHKです。キリスト教の教理、イエス様の復活とか、永遠のいのちといった内容を115分の中でそんなに長く歌うことはない、薬師丸さんがどうしても歌いたいなら、2節の「はるにおうはなゆり ゆめじよりめさまて かぎりなきいのちに さきいずるすがたよ」だけなら何とかいけるかなということだったようです。それが薬師丸は是非1番から3番まで歌いたいと言ったそうです。ご自身のクリスチャンとしてのアイデンティティーを貫かれた。放送では2番でおしまいになっていましたが、それでも賛美歌の雰囲気が伝わってきた場面となっていました。1番は「うるわしのしらゆり ささやきぬむかしを イエスきみの墓より 出でまししむかしを」、これはまさしく復活の事実を歌っているわけです。これをNHKで歌うのは難しいだろうとちょっと遠慮したものの、どうしても歌いたいと、それでこの12番、撮影現場では実際3番までぜんぶ歌ったそうです。そのときにスタッフの人たちもじーんときてしまい、とてもよい雰囲気だったと。やはり通じるのでしょう。それが後で話題になったと賛美歌が聞えてきたのですけれども。

 皆さん方とご一緒に、この「うるわしきしらゆり」をインマヌエル賛美歌457番で1番から3番まで歌ってみましょう。3番に「ふゆがれのさまより ゆりしろきはなのに いとし子を父はも さましたもういまなお」の「いとし子を父はも」、これがどういう意味か調べますと、「いとし子」はイエス様。「父」、これは天の父なる神様のこと。「はも」は古文の言い方で、すぐ前の言葉を強調する。ですから「天の父」を強調している。これで意訳すれば、「天のお父様は御子イエス様をよみがえらせたもうたのだ、ああ、何という感謝なことだろう」となります。
 この番組はNHKプラスでパソコンでもアイホンでも見られますので、第90話というところを指定してみてください。感動的なその場面が見られます。 

 きょうの「復活と希望の確信」のお話しとともに、この賛美歌「うるわしのしらゆり」も心に留めて、ことしの昇天者記念メッセージとさせていただきます。

※画像は教会からお借りしています。

⏰6時5分更新

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雑感

 J-MERO、スイッチ・オンは6時10分ほど前か曖昧。May J.の手をふる姿を見て終わりかなと思いきや、船木結が「痛みが加速していく」と歌っていた。コロナ禍、医療現場で、保健所での対応などで、心の痛みまでが加速しつつある方々も。罹患数減速、ワクチン使用開始といった朗報を待ちわびる日々。

 今朝の濃霧は! それでも時が経ち晴れてみると、これがそちこちに鮮やかな紅葉のグラデーション。

⛳更新のための更新は17時36分。

 

 

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201106 クラシック倶楽部を聴く 中川英二郎 トロンボーン演奏会

【出演】中川英二郎(トロンボーン),宮本貴奈(ピアノ),オッタビアーノ・クリストーフォリ(トランペット)「管弦楽組曲第3番からアリア」バッハ:作曲,ー番組紹介よりー


2018
121日富山県射水市アイザック小杉文化ホール 公開収録
射水市は人口約9万3千。富山湾に接し早朝だけでなく昼にもセリが行われている。これは全国でも珍しい。冬には旬の味のカニを求めて多くの客が。内川(新湊地区)の景観は日本のヴェニスと呼ばれる。小杉地区は旧北陸道の宿場町として栄える。左官職人を数多く輩出。

中川 英二郎
音楽家一家、育ち、5歳でトロンボーンを始める。高校在学中に初リーダー作をニューヨークで録音。以来クラシック、ジャズ、ポップスとジャンルを問わない活躍であまたのビッグアーチストやオケーケストラと共演を重ね、世界各地で演奏活動を行っている。2002年金管八重奏団「侍ブラス」結成。2008年朝のTV連続小節「瞳」のメインテーマを演奏。国内主要オーケストラとメインソリストとして共演。国立音楽大学ジャズ専修講師。

中川のコメント:この作品(竹内源造記念館にある「双龍」)とか見たら、芸術的じゃないですか。これってもう職人をさらに一つ越えているもんじゃないか。トロンボーンは同じように職人なんですよね。同じ職人の演奏家として感銘を受けますね。
 自分がこの楽器を演奏するときに気を付けることは、彩パレットをなるべく多くしたい。音楽をやるうえではそのパレットというのは、恐らくリズムや音色だとおもうんですけど、音色とリズムの組み合わせがもう無数にあるんですけど、それを自分でコントロールして、そうやって表現するという事をいつも考えてるんですね。それがトロンボーンのいちばんの魅力なんじゃないですかね。

オッタビアーノ・クリストーフォリ
イタリア・ウーディネ市出身。2009年日本フィルハーモニー交響楽団に入団。ソロ・トランペット奏者を務める。中川率いる「侍ブラス」のメンバー。
宮本 貴奈
茨城県結城市出身。アメリカ・バークリー音楽大学卒業後、ジャズピアニスト、作曲家として幅広く活躍。全米エドマンジャズピアノ大会優賞。国立音楽大学ジャズ専修講師。

曲目
「管弦楽組曲 第3番 から アリア」バッハ:作曲
「歌劇「運命の力」序曲」ヴェルディ:作曲、ニール・ベネット:編曲
「ファンダンゴ」ジョゼフ・トゥリン:作曲
現代アメリカの作曲家ジョゼフ・トゥリンが、メキシコの吹奏楽団のため2000年に作曲。スペイン発祥の舞踊ファンダンゴのリズムとメロディーが引用されている。
「シークレット・ゲート」中川英二郎:作曲
2007
年自身のアルバム制作のために作曲。扉を開くような曲想から後に名がつけられた。ジャズセッションのような即興演奏や楽器同士の掛け合いが聴きどころ。
「トライセンス」中川英二郎:作曲
トライ(3つの)センス(感覚)の名の通り3部で構成され演奏技術の粋を尽くした作品。
アンコール「チャールダーシュ」モンティ:作曲

 

🎵 中川にしろ、宮本にしろ、もう体の芯からジャズのリズムが刻み出てくるという感じ。
 トランペットのオッタビアーノ・クリストーフォリと3人のバッハの「アリア」、ヴェルディの「運命の力 序曲」、トゥリアンの「ファンダンゴ」、これはメキシコの吹奏楽団のために作曲されている。ファンダンゴはスペイン発祥の舞踏らしい。こうしてみると何回か聴いていても聴き落し見落としが多々。

次は中川作曲の作品。中川はよく入浴中に着想を得るらしい。いわゆる降ってくるというのだ。きっかけがあると、さーっとエンディングまでが出て来るらしく、それを手でスケッチ風に書く。コンピュターでシュミレーションするのはその後。楽器の演奏は職人的だが、作曲ではひとりの芸術家として自分をさらけ出せる。人間性や人となりが聴こえるはずという。

中川の「シークレットゲート」、2007年作曲。扉を開くような曲想からのジャズセッション。トロンボーンというとヘッドライトとテールランプの都会の夜を連想しがちだけれども、この曲、次つぎと新たな扉が開かれ、俺はこう行くよ。各部屋をあるときは確かめ、ある時には興味薄に、ある時にはそこに存在する者に相槌を打ち、そしてまた都会にあり得るありとあらゆる形態を扉の向こうに探すという連続性を勝手に連想してしまった。同じく中川の「トライセンス」、出だしが中世ののどかで幾分雅な感じがして、もしやここからバロック、古典と時代をくだっていくのかと早合点したが、次第に広い景観がつたわってきた。殊にもピアノが民俗色を打ち出したときには、この曲のおもしろさがすこしわかりかけた。わかろうが分かるまいが聴かせてしまう演奏の巧みさ。組曲のような感じも受けて聞き終えた。なにかやわらかく深く醸される音色が作曲者の人間味に通じているかと。宮本のピアノ、ジャズぎっしりの牽引力。アンコールはモンテの「チャールダッシュ」。中川が「みなさんがよく知っている曲です。もし知らない人は隣に聞いてください」と。ジャズ感覚がキュキュとこの曲を引き寄せ、時としてついと別世界にはみ出てはまた歩みよる。おもしろい編曲。

 

🎧名曲アルバム。ベートーベンの「クロイツェル」。小林美恵のバイオリン&清水和音のピアノ。ベートーベンの激情に息をのむ。そこが何とも。

⛳まだあちらの開票は続いているだろう。こちら、けさはテレビを消して、空ぜんたいを覆う雲を見やる。鳥インフルも出ている。どこかで犬が吠えているらしい。眩い光のない朝、しかし、雲の向こうには太陽が輝いているはず。7時更新

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201105 クラシック倶楽部を聴く レ・ヴァン・フランセ 協奏交響曲の夕べ

世界のトップ・プレーヤーが結成するアンサンブル、レ・ヴァン・フランセ(フランスの風)。木管楽器のスーパースターたちによる「協奏交響曲の夕べ」をお送りする。―番組紹介よりー

ポール・メイエが中心となって結成されたトップ・プレイヤーたちによるアンサンブル・グループ。2002年創設。

(フルート)エマニュエル・パユ
(オーボエ)フランソワ・ルルー
(クラリネット)ポール・メイエ
(ホルン)ラドヴァン・ヴラトコヴィチ
(バソン)ジルベール・オダン
(管弦楽)東京フィルハーモニー交響楽団

2018424日 東京オペラシティコンサートホール

コメント
フランソワ・ルルー これまでに素晴らしい活動、そして今回のように素敵なホールで演奏してきました。「唯一無二の音」を持つこのアンサンブルだからこそ多様なプログラムが実現可能です。
ポール・メイエ 演奏曲はシーズンごとに決めています。たとえば今回の協奏交響曲のように。この企画は2年以上前から温めていました。さきざきのプログラムをメンバーで漠然と話し合い、徐々に企画が固まっていく感じです。
ラドヴァン・ヴラトコヴィチ 今回はオーケストラとの共演で「協奏交響曲」だけのプログラムが実現しました。
ジルベール・オダン 楽器を引き立たせる独創的なところ、またオーケストラと対話するところが協奏交響曲の魅力です。あらゆる形の対話で展開していくところが最大の魅力です。すばらしい仲間との共演はとても嬉しいです。そして今回はオーケストラの一緒!
エマニュエル・パユ 管楽器の多様な組み合わせをお楽しみください。そして私たちと一緒にすばらしい音楽のひとときを楽しみましょう。

 

「フルート、オーボエ、ホルン、バソンのための協奏交響曲 第5番 ヘ長調から 第2章と第3楽章」プレイエル:作曲
プレイエルはオーストリア生まれ。作曲をハイドンに師事。またピアノ製作と楽譜出版でも高い名声を博した。生涯に協奏交響曲を6曲残した。第5番はフランスに活動拠点を移した後の作品。
「フルート、オーボエ、ホルン、バソンのための協奏交響曲 第2番 ヘ長調から 第2章と第3楽章」ドヴィエンヌ:作曲
ドヴィエンヌはフルート奏者とバソン奏者、そして作曲家と多彩な才能を持った音楽家。第2番はフランスのモーツァルトと称されたドヴィエンヌらしい優美さを感じさせる作品。
「オーボエ、クラリネット、ホルン、バソンのための協奏交響曲 変ホ長調 K.297b」モーツァルト:作曲
1778
4月、コンセール・スピリチュエルの演奏会のために、オーボエ、クラリネット、ホルン、バソンのための協奏曲を作曲。しかし演奏会はなぜか開催されず、楽譜も行方不明となってしまった。1870年に筆写譜が見つかるが、フルートではなくクラリネットを用いた楽譜だった。偽作ともいわれているが、卓越した曲想から名作の一つとして親しまれている。
アンコール「木管五重奏のための3つの小品から 第1曲」イベール:作曲

 

🎵ジルバール・オダンがオーケストラとの対話といっていたが、聴いているうちに、オーケストラはホスト役で、招かれた客たちの居心地が良いように、テーブルをしつらえ花を飾り、窓からの光の具合はとカーテンを調整したり、合いそうなクッションの椅子を準備したりと最大限温かい受け入れ態勢。そこで5人の賓客、精鋭5人が華やぎ楽しんでいるという光景が浮かんだ。客たちの会話は曲目によって少しずつ内容が違っていて、プレイエルでは精緻で穏やか、2楽章では「そうでしょう」「そうそう」「もちろんですよ」。3楽章では幾分テンションがあがったところで、ジョークもとびだし笑いさざめいているような。最後は「まあ、そんなものでしょう」と切り上げる。ドヴィエンヌの第2楽章で思索的に。第3楽章では「そうじゃないでしょう」「こうじゃないですか」と各々の意見の展開。モーツァルトはどうかといえば、もうわかってる、そうそう、こんなふう、うんうん、そんなふうと聴いているうちに解説に「偽作とも」と。え、そんな、それはないでしょう。しかし、しかし細やかな部分も取り込んだ空気を明るく豊かに換えてしまう見事さ! 
アンコール曲で、演奏するレ・ヴァン・フランセを、楽器をやすませて見守る東京フィルの方々の表情が何とも素敵でした。  

 

🎧名曲アルバム。「狂詩曲スペイン」シャブリエ作曲。シャブリエのスペイン滞在の鮮烈な思い出をもとに作曲された名曲。白い壁、青い海に囲まれたアンダルシア地方特有の風景とともに華やかな一曲をお送りする。【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団,【指揮】角田鋼亮―番組紹介よりー

🎵アンダルシア州マラガ県。連なる白壁に朱色の屋根。食べてみたいマラガ名物イワシの炭焼き。見ながら聴く「狂詩曲スペイン」は胸おどる躍動感。
スペインを題材にした管弦楽曲としては、ドビュッシーの『イベリア』、ラヴェルの『スペイン狂詩曲』、『ボレロ』などの先駆ともなっている。(wikipediaより)

⛳大統領選、どちらの足がどれだけ長くなって終わるやら。6時51分更新。

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201104 クラシック倶楽部を聴く 吉井瑞穂 オーボエ・リサイタル

秋田県大仙市でおこなわれた世界的オーボエ奏者 吉井瑞穂のリサイタルから。巨匠アバドの薫陶を受け、2000年からマーラー室内管弦楽団の首席オーボエ奏者を務める実力派が、知る人ぞ知る名曲から朝ドラのテーマ音楽まで、オーボエの魅力たっぷりのプログラムを披露する。【曲目】オーボエとピアノのための組曲(パヴェル・ハース作曲)、風笛(大島ミチル作曲)ほか【収録】2019年6月14日 大曲市民会館―番組紹介よりー

岡純子は(ピアノ)

吉井 瑞穂 2000年にマーラー・チェンバー・オーケストラの首席オーボエ奏者に就任。07年のザルツブルク音楽祭では、フィッシャーの《オーボエ協奏曲》でソロデビュー。各新聞で絶賛された。いままでに、シュトゥットガルト放送交響楽団、バイエルン放送交響楽団、ケルン放送交響楽団、フランクフルト放送交響楽団などでソロ・オーボエ奏者として出演。
コメント(抜粋) 大曲で花火伝統文化継承資料館を見て花火も音楽も瞬間芸術。おなじようなことをやっているという驚きがあった。
最後の曲は「オーボエとピアノのための組曲」でパヴェル・ハース作曲。ハースハユダヤ人でガス室送りになった方。平和と音楽のもたらすことのできる何が芸術で世の中のお役に立てるのかを自分に問いかけつつ皆さんと一緒に考えられたらいいなと、を選んでみました。


岡 純子 10歳からピアノを始める。
大阪音楽大学卒業。在学中にオペラハウス管弦楽団と共演。
ジュネーブ音楽院伴奏科においてディプロム取得。第41回ティボールヴァルガ、ヴァイオリン国際コンクール公式伴奏者。西安国際オーボエフェスティバル公式伴奏者。
10回および11回 国際オーボエコンクール・軽井沢公式伴奏者。第3637回草津国際夏期音楽アカデミーでヴァイオリンクラス、ファゴットクラスのアシスタントピアニストを務める。
(OBOE
より転載)

☆「オーボエ四重奏曲 ヘ長調 K.370」モーツァルト:作曲、ピーター・ホジソン:編曲
「シチリア舞曲 作品78」フォーレ:作曲、アンリ・ビュッセル:編曲
「歌劇「イーゴリ公」から「ダッタン人の踊り」」ボロディン:作曲、グラハム・バスタブル:編曲
「風笛」大島 ミチル:作曲、荻野 松宣:編曲「映画「ミッション」から「ガブリエルのオーボエ」」モリコーネ:作曲
「オーボエとピアノのための組曲 作品17」パヴェル・ハース:作曲
パヴェル・ハースはナチス軍の占領下にチェコ北部のテレジン強制収容所に入れられた後アウシュヴィッツへ移送され、1944年ガス室でその生涯を閉じた。「オーボエとピアノのための組曲」は、第二次大戦が始まる1939年に作曲された。
アンコール「千の風になって」新井満:作曲、荻野松宣:編曲

🎵「シチリア舞曲 作品78」、シチリアの空気感、青空を背景に動物たちが憩っている景色を勝手に想像しながら。「ダッタン人の踊り」、ダッタン人って? ググると短く分かりやすく解説してくれているブログがこちら「風笛」、瞼に移ろうノスタルジア。
「オーボエとピアノのための組曲 作品17」、単純に通り抜けられない気がして
パヴェル・ハース:チェコのユダヤ人の靴職人ジクムントと、オデッサ出身のオリガ・エプシュテインの子として、チェコ語を母語として生まれ育つ。 14歳からブルノで正規の音楽教育を受ける。1919年から1921ブルノ音楽院ヤン・クンツヴィレーム・ペテルジェルカに学び、その後2年間レオシュ・ヤナーチェクの私塾で研鑽を積んだ。それ後20年の間に50曲以上が作曲されたが、作曲者自身によって作品番号を与えられたのは僅か18曲であった。家業の靴製造を手伝うかたわら、あらゆる種類の作曲にたずさわり、《交響曲》や合唱曲、歌曲、室内楽、映画音楽(「犬の生活」のための音楽)、舞台音楽、歌劇《サルラタン Sarlátan 》を創り続けた。1941年にテレージエンシュタット強制収容所に送致され、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で処刑された。《交響曲》は長らく未完成のまま放置されたが、1994年にズデニェク・ゾウハルにより、ハースの作曲様式を踏まえてオーケストレーションを施された。ハースの作品は、ボヘミアモラヴィア民俗音楽に根差しており、時折りユダヤ人の民謡にも似た趣きがある。テレージエンシュタット時代の作品は僅かに8作が遺されたにすぎない。(wikipediaより転載)
1939年前後の背景はこちら。ハースも日々の恐怖と戦っていたに違いない。出口、精神的な空気孔が作曲であったものか。背景を思うからか切ない思いに。
「千の風になって」、歌と違い、やわらかいけれどもどこか硬質な音が天からふって。絶品。

 

🎧名曲アルバム。「ある天使の思い出に」ベルク作曲
1935に少女の死を悼んで作曲されたとか。最後は自殺未遂、結婚生活の破たんと、10代後半から波乱万丈であったベルク。一口に作曲家と言ってもさまざまな人生が。

⛳書きながら、関口のウェールズ訪問がうしろに聴こえている。フラッシュ・モブに一旦手を休めて見入ってしまった。ウェールズで最も古い男性合唱団であるとか。ふつうの通行人に見せながら次第に歌いながら集まって合唱。ユーチューブにもこのパターンはでているけれども。はっと気づいた曲は何であったか。続くはウェールズ国歌、きよしこの夜。男声合唱は産業革命当時、炭鉱労働者のあいだに生まれたとか。
77歳対74歳の戦はどうなるやら。青紫の雲の縁ににじむ朝日、6時55分更新。

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201103 クラシック倶楽部を聴く アテア五重奏団

2009年に結成され、イギリスを拠点に活躍するアテア木管五重奏団の演奏会から。クラリネットの橋本杏奈、フルートのアレーナ・ルゴヴキナ、オーボエのフィリップ・ハワース、ファゴットのアシュリー・マイヤル、ホルンのクリストファー・ビーグルス、五人の若き名手たちによる色とりどりの木管楽器のアンサンブルをお送りする。―番組紹介よりー

 

「木管五重奏曲 作品43」ニールセン:作曲
(演奏)アテア木管五重奏団、(フルート)アレーナ・ルゴヴキナ、(オーボエ)フィリップ・ハワース、(ホルン)クリストファー・ビーグルス、(ファゴット)アシュリー・マイヤル、(クラリネット)橋本杏奈
「夜の音楽のための小品集」ボザ:作曲
(演奏)アテア木管五重奏団、(フルート)アレーナ・ルゴヴキナ、(オーボエ)フィリップ・ハワース、(ファゴット)アシュリー・マイヤル、(クラリネット)橋本杏奈
「木管五重奏曲 ト短調」タファネル:作曲
(演奏)アテア木管五重奏団、(フルート)アレーナ・ルゴヴキナ、(オーボエ)フィリップ・ハワース、(ホルン)クリストファー・ビーグルス、(ファゴット)アシュリー・マイヤル、(クラリネット)橋本杏奈

🎵この楽団、ああ、「生演奏を聴きなさい、未来のクラシック音楽界のためにも」というアレーナがいる五重奏団ね。こう思い出す。「日本はいつでも街にクラシックが流れていてすばらしいけれども、ぜひ生演奏を聴くことを忘れないで欲しい、クラシックの未来のために友達を誘ってほしい」と語っていた。耳が痛かった。出不精となり、日常的な所用以外は滅多に出かけなくなっている。いまはコロナで逆に出かけようにも……なのだが。思えばファゴットは木管五重奏で聴く機会はあったはずが、記憶の片隅に寄せられてしまっていた。フルートやホルンが終演にも耳の奥で誇らしく高らかに鳴っている。今回は先ごろのファゴット・ソナタが功を奏し、比較的聞き取れたかと。今回、このファゴットの力、というか、ファゴットが柔らかな低音で、他の楽器の演奏を一押しも二押しもして曲に説得力を増し加えることに気づかされた。どうしてここがこんなに心地よいのかと耳を澄ませると「それはわたしです」とファゴットが鳴っているという具合。

「木管五重奏曲 作品43」、風景描写、人々の生業のさざめきのうちに、それぞれの楽器が十人十色の主張を始める。そこが聴きどころ。ひとつの和合を見たかに再び穏やかに、軽快に重奏、最後が完全な和合、一致で締めくくられる。この曲の作曲年代は日本でいうと大正の関東大震災の直前。

ボザの曲はなかなか優美、「夜の音楽のための3つの小品」、軽快で細やかな音遣い。この曲がそうであるかどうかは分からないが、ボザの作品は「管楽器向けの作品の多くはパリ音楽院の入試・または卒業試験のための課題曲であり、そのため現在でも各種コンクールや音楽大学入試のための課題曲としてボザの作品は頻繁に取り上げられる(wikipedia)」「作風としては、現代に属する作家ながら特殊な技法や奏法は用いず(管楽器のためのエチュード図形楽譜」は例外)、一般的な奏法の中で創作している。楽器の能力の限界まで挑戦した演奏技術が要求される一方、20世紀のフランス室内楽の特徴である表現豊かで美しい旋律をもつ形式は失われていない。またレスピーギプーランクラヴェルドビュッシーなどボザ自身が影響を受けた他の作曲家の引用を多く用いている(wikipedia)」。

タファネルの「木管五重奏曲」。タファネルは「フルートのフランス楽派の創始者であり、20世紀におけるフルートの演奏指導において主流となる教本を上梓した。 また、指揮者としても活躍した」「タファネルは遺作となる『17のメカニズム日課大練習』を残し、死後に2人の弟子、ルイ・フルーリフィリップ・ゴーベールによって完成された。この教本は、今日までフルートの最も有名な教本として世界中で使われている」(wikipedia)。ニルセン、タファネル、ともに管の教則本的な作品がいまも多く演奏されているようだ。
 神経を逆立てずとも、自然に周辺に鳴っていてくれるような安心感。それぞれの音色を楽しんだ。クラリネットの橋本杏奈についつい格別に耳を澄まして。

 

🎧🎵名曲アルバム。ヴェルディの「しいたげられた祖国」。東京混声&東京フィル&梅田氏
ドラマティック。コーダー城の外観がおどろおどろしくも空しくも、抜け殻のようにも見えて。

⛳関口の旅番組、これも再放送かと思うが、アイルランドの人たちが歌う歌に心魅かれながら筆記。地元の人たちが普段着でいつものように歌い楽しむ歌がいちばんとおもうことしばしば。6時49分更新

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201102 クラシック倶楽部を聴く トルヴェール・クヮルテット サクソフォン・リサイタル

【出演】トルヴェール・クヮルテット,小柳美奈子

1987年に結成し、30周年を迎えたサクソフォーン四重奏団、「トルヴェール・クヮルテット」の記念公演から。サクソフォーンのためのオリジナル作品からトルヴェールならではのアレンジ作品まで、魅力たっぷりのコンサートをお送りする。ピアノの小柳美奈子が加わって演奏された「ティプシー(ほろ酔い)・チューン」ではチゴイナーワイゼン、巨人、革命、チャールダーシュとおなじみのメロディーが次々登場。―番組紹介よりー

2017108日 東京文化会館小ホール
ルヴェール・クヮルテット
須川展也(ソプラノ・サクソフォーン)
日本で最も有名なサクソフォーン奏者のひとり。多くの作品を委嘱し、サクソフォーンの新たなレパートリーを開拓。
彦坂眞一郎(アルト・サクソフォーン)
東京芸術大学大学院修了。室内楽を中心に活動。ソロやアンサンブルなど数多くの演奏・録音に参加。
神保佳祐(テナー・サクソフォーン)
アンサンブルを中心にオーケストラや吹奏楽の公演に参加。2017年からトルヴェールに参加。
田中靖人(バリトン・サクソフォーン)
第一回日本管打楽器コンクール第一位。東京佼成ウィンドオーケストラのコンサートマストーを務める。

小柳美奈子(ピアノ)
室内楽を中心に活動。トルヴェールとは結成間もないころから共演。


1987
年結成。2017年には結成30周年を迎える。クラシック作品、ポップス、オリジナル楽曲など多彩なレパートリーを持ち幅広く支持されている。29年間オリジナルメンバーで活動。2016年テナー・サクソフォーンの新井靖志が逝去。2017年新井に師事していた神保佳祐がメンバーに加わる。92年東京国際音楽コンクール第2位、第5回日本吹奏楽アカデミー賞「演奏部門」受賞。
「トルヴェール」とは、中世フランスで街行く人々に恋愛や社会について歌い語った吟遊詩人のこと。

 

コメント
須川
ことしで30周年ということで、みんなでかばい合って信頼し合って続けていきたい。もちろん練習のときには、音楽の深いところまで突き詰めていくんですけれど、本番になったらどちらかというと解放して、練習でいままで起こったことをみんなで楽しむ。移動するとき、食事するときもみんなでたわいのない話をしながらも、話題のキャッチボールができるような、これが秘訣じゃないか、これが長い時間かけることで秘伝になり秘伝のたれとしてこれからもやっていきたい。
彦坂
始めたときからそうなんですが、すごい達者な人たちが集まってるなという自覚があって始まったわけですけど、やはり、自分にできないところがあったら、みんなのようにとそれで頑張ったり、或いは、この人はこういうのが苦手なんだなという事がだんだん分かってきたりして、それぞれが名手なんだけれども、苦手があったり。演奏している時はほんとうに楽しくて幸せで、別の宇宙がある、実生活じゃなくて音楽の中のまた宇宙があって、そこで一緒に生きていけるのが幸せだなと思っています。
神保
ぼくが高校生の時に初めてカルテットを聴かせていただいて、その時はCDでした。すごいテンションの高さがあった。一緒に演奏させていただけるようになり、もっとシリアスな感じで音楽づくりをされてるのかなと思ってたんですけども、ある意味、シリアスさはあるかもしれないけれども、とてもリラックスして、ここで音楽をしているというよりは、未来ある音楽にみんなで向かっていくというような姿勢がとても素敵だなと思って、一緒に演奏させていただいてとても幸せです。
彦坂
30
年経って、いちばん最初に新井靖志がいたんですが、その新井君と作ってきたものが、こうやって30年を迎えて、移ろってきて、いま神保君が入って、こんなふうに常に時間が流れ移ろっていくものだから、音楽を演奏するときに決めたとおりにやるんじゃなくて、今が次につながっていくという、そういう先がどうなるかを決めたものでやってくのが音楽だとみんな思ってるんだけど、僕は逆だと思っていて、過去に何があったから今こうなっていくというものを作っていくというものが音楽だから、そういうふうに前を見るだけじゃなくて後ろを見たりとか、というふうに視点を色々変えながら演奏していくということが、すごく新しく同じ音楽でも演奏するときはまた変わっていく、移ろっていく、それを楽しんでいけばいんじゃないかな。
田中
CDでは聴いていただく機会が多いと思ってるんですけども、今回ライブの映像ですので、楽しんでいるすがたをどうぞお楽しみください。
練習の時とはちょっと違う事件といいますか、いつもこう吹いているんだけどちょっと違うなとか、フェイクして吹いているな、それプラス振り付けを付けたりとかすることでお客様にも楽しんでいただくんですが、やはりメンバーに楽しんでほしい。
小柳
それぞれのユニークなキャラクターが集まった時にできる音楽、そこがトルヴェールのすごいところ。ピアノが入ることによって私が支え役になってみんなのそれぞれの活躍できる場が音楽の上でも広がる。弦楽四重奏とピアノだと4対1が多いのですが、トルヴェールの中に入るときは、ピアノひとりじゃなくて、もう一つ支え役のサックスが入ったようなつもりで、みんなが自由に歌ったりできるように心がけています。

G線上のアリア」バッハ:作曲
「弦楽四重奏曲 ヘ長調」ラヴェル:作曲、新井靖志:編曲
トルヴェール・クワルテットのメンバーである新井志が彼ら自身のレパートリーとして演奏するために編曲。弦のピチカートなどをサクソフォーンの特殊奏法で表現し原曲の弦楽四重奏の持ち味を生かしている。
「ティプシー・チューン」長生 淳:作曲
「ティプシー」とは「ほろ酔い」を意味する。トルヴェール・クワルテットの曲を数多く手掛ける作曲家長生淳の作品。


🎵以上のコメントなどは2017の記録。我ながらよく面倒がらず丹念に記したもの。バッハの「G線上のアリア」、ラヴェルの「弦楽四重奏」、そして長生淳の「ディプシー・チューン」は「チゴイナーワイゼン」「巨人」「革命」「チャールダーシュ」など有名なメロディーが次つぎに登場。「五木の子守歌」や「オーゼの死」の1フレーズも。いったい長生という人の頭の中はどうなっちゃってんの。と、こんな言い方も許されそうなミックス。名曲をもじったジョークの掛け合い。パフォーマンスも交えファン待望の一コマ。

この編成の解説を聞くまでは、彦坂が持っているタイプがサクソフォンだと思っていた。須川のソプラノ・サクソフォンを予備知識なく見せられたとしても、たぶんサクソフォンだとはわからなかったろう。

🎧🎵名曲アルバム。吉田浩之が歌うドニゼッティ「人知れぬ涙」。ドニゼッティ、貧しい家庭の5男。無償の音楽学校を出て歌手として成功。歌劇「愛の妙薬」は2週間で書き上げたとか。イタリアオペラの黄金期を築いた一人らしい。

⛳聴くときは身を乗り出すけれども、書く時点ではテンションが幾分落ちている近頃。少し遅れても、7時までに書く競技はそろそろこの辺で、競技と言っても対戦相手がいるわけではないが、気構えが緩くなってきている。齢かな。自分は70まで生きられたら御の字と思っていたが、米の大統領選、74歳と77歳の元気さは! 互いにあらかじめ足の長さを短くしておいた方がよかったのでは。熾烈な足の引っ張り合い。こき下ろしにいかに迫真性をもたせられるかの競い合い。これは大統領選ばかりではないけれども。それはともかくあの元気さは! 元気さにだけはあやかりたいもの。
吉田浩之の歌もよかったが何しろ録音を撮っていないので、ユーチューブで聞きなおし、そのまま流していたところ、今は辻井伸行のラフマニノフのピアノ協奏曲の第2番が。また際限なくなるので辻井さんが終わったら今朝の音楽タイムは終わりとしよう。
9時10分更新 

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きょうのことば  

インマヌエル盛岡キリスト教会20201025()の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『よき羊飼いなる主』(國光勝美牧師)
聖書個所 旧約聖書 詩篇231~6

1 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。
3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のゆえに 私を義の道に導かれます。
4 たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。あなたが ともにおられますから。

あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。
5 私の敵をよそに あなたは私の前に食事をととのえ 頭に香油をそそいでくださいます。私の杯は あふれています。
6 まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。私はいつまでも 主の家に住まいます。

 

<説教>

 特別伝道月間の締めくくりのこのとき、私が伝えようとしているのは何なのか、キリスト教というものを伝えようとしているのか。皆さん方は、教会というこの場所に何を求めて来ておられるのか、このことに共に心を向けてみたいと思っております。

 私の書斎からずいぶん古い写真が出てきました。実は私がはじめてキリスト教というものに主体的に関わった時の記録の一枚であります。初めて教会に行った思い出の資料をきちんと整理し取っておいたわけではありません。いまはお茶ノ水キリスト教会館といいますが当時は御茶ノ水学生キリスト教会館、そこで撮られた写真です。昔は御茶ノ水駅近くには東京でも有名な名曲喫茶「丘」がありました。これで私の時代がわかるでしょう。その隣にあるここで1968年の1112日から16日までダビッド・マーチンという人がキリスト教講演会を開くというチラシを私は御茶の水駅前でもらいました。そのときに信仰に導かれた人たちと一緒に写真を撮ってもらったのですけれども。このときに会館の事務方をしておられたご夫妻を、いちどこの教会にお招きしたことがあったのですが、それが渡辺兄姉。当時をよく覚えておられました。「これが、先生が信仰を持った時のチラシですよ」「これが、その時に撮った写真ですよ」とプレゼントしてくださいました。

 チラシを見ますと、キリスト教講演会と書いてある、伝道会とは書いていません。講演会、そうか、キリスト教がどんなものか学んでみたいという思いで講演会に行きました。今振り返りますと、この時からよき羊飼いなる主は、この者を導いていてくださったのです。あの一枚のチラシはよき羊飼いのお声、そして会館に行ったのも、イエス様の御手に引かれてのことであったと思います。写真にはダビッド・マーチン先生、当時の御茶の水のチャペレンをしておられた後藤牧人先生。見ますとけっこうたくさんの人たち学生の姿があります。

 

 

 初めてキリスト教の講演会を聴きに行って、ああよかったなと思いました。2日目も行こう。楽しみに行きました。いよいよ最終日が明日になりました。私も正直、宗教というものに対するアレルギーがありました。もう今回で、いちど聞いてみたかったキリスト教がどういうものかを聞いてみたから、もうこれでいいだろうと思っていました。明日もあるけれども今日でおしまいにしましょうと。講演が終わって帰ろうとしていたところ、先生がつかつかと近づいてきて、「君、昨日も来てくれたね。きょうも来てくれてありがとう。明日待ってるからね」といわれました。そうか、じゃまた来てみよう。そしてマーチン先生のお話しを聞いたのです。この先生が汗をたらたらと流しながら迸るような情熱を傾けて語られる。オーバーに言っているのではありません。見てわかるのです。あとで聞いたのですが、先生は心臓弁膜症を患っておられ、この集会の講師は控えた方がいいとドクター・ストップがかかっていた。先生はいつ倒れてもという覚悟でお話をしてくださったのです。イエス・キリストの十字架の意味、罪がどういうものか。そして地獄。十字架の意味もそういうことなのかと精一杯それなりに理解し、罪についてもそうかなあと思われるところがありましたが、地獄と聞いたとたん、心中、おいおいそれじゃそのあたりの宗教じゃないか、天国と言ってくれるならまだ素直に聞けるかもしれない。あなた方は悔い改めなければ永遠の地獄に行くんですよと言われて、おいおい、ここは他でもない学生たちが集まっているところで、そこで地獄はないだろうと思ったことを覚えています。しかしそれと同時に、この先生はどうも命がけで話しをしてくださってる。あなたはどうなんだと自分自身に問いかけられたのです。私は間もなく卒業して社会人として出ていくけれど、私はこの先生が持っている確信に満ちたものを持ってはいない。しかも、これはほんとうにきよらかなものだ。こういうものがあったらいいなあと思えたのです。地獄に多少は引っ掛かりがありました。いかにも宗教っぽい引っ掛かりはありましたけれども、それははるかに超えて、私はこの先生が仰っておられるその信仰というものを持たなければいけない、私がここでキリスト教というものを聞いて理解しようとする自分がある。自分がどうキリスト教を理解しているかという事を超えて、あなたが今立っているその土台は何なのだ、ほんとうに確かなものなのか、あなたは確かな上に立っているのか。いいやこの先生がおっしゃる通り、私はこのままでは永遠の滅びに行かねばならない。しかしイエス・キリストの十字架がここにある、これだ、私が求めていたのはこれなんだ、間違いない。私はキリスト教がわかったのではない、このよき牧者でおられる主イエス様、このお方と共に人生を歩むこの生き方こそほんとうなのだ。私はこのときに信仰を持って一歩を踏み出していました。

 私がここでお話ししようとしているのは、キリスト教のお話しではなく、ほんとうに私のためにいのちをかけて十字架に架かり罪の贖いを成してくださったそのお方の愛が私は必要なのだという、そのことを知ったそれを皆さん方と共に、この場所で確認をさせていただきたいと思っているのであります。

 

さて、詩篇23篇の方に集中していきましょう。

1 主は私の羊飼い。

 すばらしいおことばです。羊飼いはわたしのことをご存知で、羊飼いはわたしのことを愛していてくださる。こんなすばらしい生涯はない。

 もう何度かお話ししましたが、私の忘れられないことで、夏に小岩井農場のイベントに教会学校の子どもたちと一緒に行ったことがありました。「只今から羊のイベントがあります」と案内があり、人が集まっています。私達も行きました。飼育担当と思われる青年が言いました。「私は本物の羊飼いです。葛巻で羊飼いをしています。ここで皆さん方にクイズを出します。羊がいちばんストレスを感じるのはどういうときですか?」。みんなが考えていると羊飼いの青年が「羊がいちばんストレスを感じるのは群れから離れて一匹になったときです」。
 これが群れで行動している羊の本質でした。たった1匹になる。それは耐えられないほどのストレスなのだそうです。みんなと一緒にいるときは安心だけれども、一人になると不安になる。私たちはこれまで人生をそれぞれ生きているわけですけれども、一人ぼっちで生きている生涯もある。ここでどうか気づいてください。いつでも私と一緒にいてくださるお方がいらっしゃる、私のことを心に留めて、私の事を愛して、私の名前を呼んでくださるお方がいらっしゃる。イエス・キリスト様です。

20201027-201930

詩篇23篇をご覧ください。

2 主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。
3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のゆえに 私を義の道に導かれます。
4 たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。
―どうしてでしょうーあなたが ともにおられますから。

主イエス様が一緒にいてくださる。

 

 これも私の経験の中では大きなものでありましたけれども、幼いころから私を可愛がってくれたおじが、私が小学校の5年から6年にあがる春休みの時でしたが、自ら命を絶ってしまったということがありました。その衝撃は大きなものでありました。想像していただけると思います。

 私が20歳になった時に、あるとき両親が「お前に見せたいものがある」と。おじの遺書でありました。鉛筆で書かれておりました。3回繰り返されていたのは、「俺の人生は八方塞がりだ」ということばでした。詳しいことはここでは省略しますけれども、そのおじも、長野県の松本の山奥に暮らしておりました。松本の町に出ますと路傍伝道というのがあって教会の案内をしていた。おじは松本に買い物に出たときに、たまたまチラシをもらい、その教会に導かれてはいった。ああこういう世界があるんだ。チラシを持って家に帰ったところが「そんな耶蘇のところに行くんじゃない」と酷く叱られて教会には行かなくなった。もしあのときにおじが続けて教会に行き、牧者なるお方にお会いすることができたなら、「俺の人生は八方塞がりだ」ということはなかったなと残念です。
 私は御茶の水でもらった小さなチラシを今でも覚えています。そして、御茶の水の駅前で降りる人たちのほとんどはチラシをもらっては捨て、もらっては捨て、それでゴミ箱がいっぱいになってしまうのですが、私はそのチラシを捨てずに集会に出てよき羊飼いと出会うことができた。

 おじの自殺は、今思うと一番感受性が強い時のできごとでしたから、以来私は同年代の人たちよりも死をごく身近に感じるるようになったのです。おじががもしかしたら助かるかもしれないというので松本国立病院に行きました。どうか命を助けてください、命を助けてくださいと念じましたけれども。直ぐ来いと。息を引き取って間もないおじ。「いちばんお前を可愛がっていた、触ってごらん」といわれ私ははじめて死んで間もない人の頬に触ってみました。その時から私は、ああ、人はこんなに簡単に死ねるんだ。何も頑張って生きていくことなんかないんじゃないか。厭世的な思い、なあに、いざとなったら簡単に死ねるんだ。その自分の思いがすごく嫌なんですね。もう心の中で黒い炎がいつでもちらちらと燃えているような。いやだなー。こんな気持ちを私は生涯抱えながら生きていくのか。表面は中学時代、高校時代、東京での学生時代、そしてこれから先もふつうに生きているんだけれども、心の中でふっと、なあに、死ねば簡単なんだというその思いが、ああいやだ、わたしはもう生涯この黒い火と付き合わなくちゃいけないのかと思ったのです。
 しかし御茶の水の会館で、救い主、羊飼いなるお方と出会ったとき、喜びにあふれて、ほんとうに分からないことはいっぱいあります。乙女マリア、奇蹟がわからない、復活が分からない、しかし私はわからないからといってそれを否定するつもりはまったくありませんでした。よりよく知りたいために、疑問はそのままぶつけました。そして後藤先生は一つ一つ答えてくださった。ああこれが福音の救いなんだ、嬉しいなあ。その救われた喜び。よき羊飼いと出会った喜びでいっぱいになっていた。自炊していたアパートの部屋で、私は、はたと気づきました。あれ、あの黒い火はどこへ行ったの? 消えていたんです。消そうと思っても消えなかったあの黒い炎が消えたのです。ほんとうに詩篇23篇の3節、4節、これは真実でした。主は導いてくださいました。死の怖れは取り除かれました。そして、私はあなたと一緒にいるよと。もし伯父がこのお方を知ってさえいたなら。

20201027-201919

 イザヤ書4634節をご覧ください。

3 わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。―この部分は呼びかけです。この時の書かれたときの呼びかけですけれども、どうかその内容に心を向けてください。-胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。
4 あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。

神様は、よき羊飼いなるお方は、私たちが生まれる前から背負っていてくださっている。

 

詩篇23篇に帰っていただきます。

6 まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。私はいつまでも 主の家に住まいます。

 先ほどY姉が仰ったように、私は山歩きが好きです。近くの鞍掛山には度々行っています。山に行く一つの大きな動機は、神様にしがみつくことができる場所だということなのです。大好きな道を歩くとき、心を注ぎだして祈ります。私が決めた私の木というものがありまして、この私の木のところに行きます。早朝ですから人に出あう事はほとんどありません。そこで私の木のところに行って、私は私の木にだきついて祈るのです。ほんとうに「主よ」。そして祈り終わって、ありがとうとそこをぽんぽんとたたいて、それから登頂します。しがみついて祈っていくときに、神様は語りかけてくださる。神様は励ましてくださる。みことばを与えてくださる。ご利益を望むような祈りはしません。ただ本気になって神様にしがみついて祈ることができる幸いは何にも優るものです。

6節をご覧ください。

6 いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。

 「いつくしみと恵みが私を追って来る」。私はしがみつきます。そして神様のいつくしみと恵みは私を追いかけてきて絶対に離さない、そして「私はあなたを背負う」。こういうお方、よき牧者なるお方が私達に与えられていること、これを知っていただきたい。このお方を知っていただきたい。キリスト教をではなくして、このお方を知っていただきたいと心から願っております。どうかこのよき羊飼いなるお方と共に生涯歩もうではありませんか。

 

※画像は教会からお借りしています。

⏰6時更新

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