インマヌエル盛岡キリスト教会の2020年11月8日(日)の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。
説教題 『クリスチャンと聖書』(國光勝美牧師)
聖書個所 旧約聖書 詩篇119:103,105、130
103 あなたのみことばは 私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。
105 あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。
130 みことばの戸が開くと 光が差し 浅はかな者に悟りを与えます。
<説教>
私たちが依って立っておりますみことばというものが、どういう構成になっているのか基本的な整理をさせていただきたいと思っております。聖書は分厚い1冊になっていますが、これは66巻が1冊にまとめられた書物です。この聖書は大きく二つに、旧約聖書と新約聖書に分けられます。旧約聖書は、おおまかに言いますと、歴史を通し、詩歌を通し、或いは預言書などを通して、やがて私たちを救ってくださるメシヤ、救い主がいらっしゃることを記しています。新約聖書の方は、救い主が来られました。そのお方はイエス・キリスト様であり、あのクリスマスのときに乙女マリアから生まれ、そして十字架につけられ、よみがえられたこと。そしてその救い、福音をお弟子さんたちが人々に伝えていくようすが記されています。旧約聖書はやがて救い主が与えられること、新約聖書はそのお方はイエス・キリストご自身であることが書かれている、これが聖書のおおまかな分類です。
子ども賛美歌に「♪新約聖書の歌」があります。新約聖書のだいたいのところをとらえることができます。
マタイとマルコとルカ、ヨハネ
これらの4つは福音書、
これらの中にはイエスさまの
教えとみわざが書いてある
使徒の働きはイエスさまの
おでしがいろいろ働いて
世界の果てまで福音を
伝えるようすが書いてある
ローマとコリント、ガラテヤと
エペソとピリピとコロサイと
テサロニケにある教会に
パウロは手紙を書きました
テモテトとテトスとピレモンは
パウロが自分のともだちに
書いて送った手紙です
パウロの手紙は13通
ヘブルとヤコブとペテロの書
ヨハネの三つとユダの書は
イエスさま信じる人々に
おでしが送った手紙です
いちばん終わりは黙示録
この世の終わりにイエスさまが
ぼくらを楽しい天国に
入れてくださると書いてある
新約聖書は27
これらのみことばよく読んで
イエスさま信じて救われる
光のこどもになりましょう
覚えましょう覚えましょう新約聖書のなまえ
覚えましょう覚えましょう新約聖書のなまえ
もう一つ聖書を開くときに便利な歌があります。聖書を構成する66巻が歌われており、これを覚えておくと慌てずに聖書を開くことができます。「鉄道唱歌」のメロディーです。
創出レビ民申命記
ヨシュア士師ルツサム列王
歴代エズネヘエステル書
ヨブ詩箴言伝道雅歌
イザヤエレ哀エゼダニル
ホセアヨエアモオバヨナミ
ナホムハバククゼパハガイ
ゼカリヤマラキ39
マタイマコルカヨハネ伝
使徒ロマコリントガラテヤ書
エペソピリコロテサロニケ
テモテトピレモンヘブル書
ヤコブペテロヨハネユダ
ヨハネの黙示27
旧新両約合わせれば
聖書の数は66
さて、きょうのお話しの本題に戻りますけれども、今日は詩篇の119篇から103節、105節、130節の三つのおことばを掲げました。
私はここで神学校のクラスのような難しいお話をするつもりはありません。きょう皆さん方がこの礼拝を終えたあとで、聖書っていいなあ、読みたいなあと聖書に対する食欲が出るようなみことばの料理を提供したい。人生の中でみことばのすばらしさを知っていただければと思っております。
イエス様を信じ従って行こうと決断をしたときの新生経験のとき、或いは信仰生活の中でイエス様に自分のすべてを空け渡して進んでいく決心をしたときの聖潔のとき、この節目節目に与えられた聖書のおことばを握る、これはとても力強いことになります。というのは神様が語って下さるおことばに決して偽りはない。私たちは信頼している人の約束の言葉は必ず守りますし、それを裏切ってしまった時には本当に申し訳ない気持ちになります。
私が学生時代には携帯やスマホはありませんでした。ゼミの仲間たちと打ち合わせるために翌日に時間を決めて会うことにしておりました。御茶ノ水駅の聖橋口の改札で待つということで、3人の友達が私を待っていたんですけれども。どういうわけか、私はすっかり忘れて、約束をすっぽかしてしまったのです。後日に彼らと会って、「おまえどうしたんだよ、ずっと待ってたんだよ」に仰天、もうそのときの申し訳なさは。ズキンときたのは「あいつは約束を破るような人間じゃないんだ。待とう」と2時間も待ったというのです。何と愚かな失敗をしたものでしょう。忘れられません。しかし神様はうっかり忘れることはない。神様が語ってくださったおことば、それをしっかりと受けて、それをにぎりしめていくことです。
神様は私が危機に直面した時に「われ活くれば汝らも活くべければなり」というヨハネ14章19節のおことばをくださいました。これが私に栄養となり、私の魂に覚醒をあたえてくれました。何という大きな恵みでしょうか。何度繰り返し話しても色あせません。このおことばによってほんとうに支えられた。人は誰でも死ぬ、これは避けられない事。その死をしっかりと受け入れたときに、死んでよみがえってくださったお方、主イエス様が、わたしは生きているからあなた方も生きるんだ、というまさにそのおことばを心の中に与えてくださったとき、これは皆さん方もこれまでの人生の中でこのように神様のおことばが与えられたことがあるでしょう、そのおことばが光となり導きとなり覚醒となる。皆さんもすでに経験されたことです。
手術に臨もうとするある方のもとに、姪である方から申命記33:12その手術の方も葡萄の木と言う文集の中に記しているんですけれども、申命記の33:12「主に愛されている者。彼は安らかに主のそばに住まい、主はいつも彼をかばう。彼は主の背中に負われる」、これが英訳で送られてきました。他の方からも同じ申命記33:12送られてきたそうです。呼びかけが「主に愛されているもの」。これがどんなに大きな励ましであることか。みことばが私たちの滋養となり、私たちの光となり覚醒となってくれる、これはもう味わった者の特権です。
私はクリスチャンホ-ムで育ったわけではありませんし、学生時代の終わりごろに聖書に触れて社会人になった者ですから聖書知識は極めて少なかった。それがどのようにして聖書知識を心の中に蓄えていったのかというと、まずは教会の集会出席です。司会者が聖書を開き、メッセンジャーがお話しをしてくださる。賛美歌もたくさん覚えました。ああそうか、聖書とはこういうものなのだということも集会で知りました。その当時は文語訳聖書でした。ですから私の聖書の記憶の多くは文語訳です。今は口語訳で、特によい評価を得ている「新改訳2017」を公用聖書として使っております。
この分厚い聖書をいったいどうやって心の中に蓄えていったらいいのでしょうか。聖書を最初の創世記から最後の黙示録まで読むのはなかなか至難です。私は聖書を耕せと申し上げたい。皆さんは今聖書を開いてらっしゃいます。お帰りになってからはどうでしょう。机の上や書棚に置き去りになってはいないでしょうか。開かれもせずに埃が積もってはいないでしょうか。日曜日に教会に行くときだけ引っ張り出すようでは聖書は耕せません。耕すには新約聖書、旧約聖書をとにかく1日一回は開かねばなりません。これをしていただきたい。蔦田先生は「聖書を読まなくてもぱらぱらぱらとやってごらん」と冗談のように仰いました。「ふー、ぽん、クリスチャン」になってはいけません。家では開きもしなかった聖書を、さあ日曜日だというので埃をふっと息ではらって持ってくる、これじゃだめだということです。聖書を耕してもらいたい。1日一回はどうしても聖書を開いてもらいたい。そのためにいちばん現実的なよい書物に「日々の光」というのがあります。たとえばきょうは11月8日ですが、朝にその日の頁をめくってもらいたい。「しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう」第一テサロニケ5:8とあり、これがきょうのトップ・テキストです。このおことばと関係の深い聖書のおことばも幾つか出ています。そして夜には、「イスラエル人は彼らと向かい合って、二つの小さなやぎの群れのように陣を敷いたが、アラム人はその地に満ちていた」第一列王20:27、これが夜のトップ記事。またこれに関連して載っているみことばを、これをひとりで神様にお祈りするとき、或いは夫婦で一緒に祈るときに、このようにみことばを学ぶ工夫をして用いていただきたい。これはほんとうに現実的な課題です。忙しいときにもこれだけの短いお勧めですから読んでいただきたい。これを読む時間もなかったら、トップテキストだけでもいいからと、私はよく言われたことを思い出します。トップテキストだけでもいいから、これを読むのと読まないのとでは全く違う。せっかく聖書、神様のおことばがここに満ちている。その素晴らしい素材を抽出して幾つか読んでいくときに、ほんとうに心が恵まれてきます。ああこれに関係したところが聖書のここにある、ああそうだこれと関係したこういうことばが旧約聖書にある。その都度聖書を開くことになり、聖書を耕すことになる。必然、神様ありがとうございますというお祈りにもなるし、ありがとうございますと神様の約束のことばを握りしめることで、それがまた信仰になる。与えられた神様のおことばで悔い改めを迫られたのなら言い訳をせずに、主よ、そうです。私はこういうものでした。失敗をしましたといって悔い改める。或いは神様にすべてをお捧げしますとすべてをお捧げしたり、そのような心の中の営みを忠実に自分の光の中でやっていくとき、必ずみことばの恵みを知ることになります。
詩篇119:103 あなたのみことばは 私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。
詩篇119:105 あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。
詩篇119:130 みことばの戸が開くと 光が差し 浅はかな者に悟りを与えます。
申命記の33:12主に愛されている者。彼は安らかに主のそばに住まい、主はいつも彼をかばう。彼は主の背中に負われる
試練に臨むとき、そこには神様がおられます。神様のおことばがあります。
105 あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。
私たちが日々の生活を営むときに、暗い時に足につまずきがないように暗い時の道には光が必要でしょう。それを足の灯と。神様のおことばは、私がきょう歩くとき、いまあるときに躓かないように照らす脚の灯でもある。ちょうど北極星のように、ほらこちらが北だよ、とするとこちらが南だよというように進むべき道がはっきりわかるように灯台の光のようにといったらいいでしょうか。道の光、それは行こうとしているあなたの道はこちらだよと指示してくださる光でもある。
130節みことばの戸が開くと 光が差し 浅はかな者に悟りを与えます。
先ほどの「主に愛されている」という申命記のことばも、単なる語彙というのではなく、ことばの戸が開く。戸が開くと、ああ、そうだ私はこれほどに愛されているんだと実感される。戸が開かれるときに、感謝と喜びに満ち溢れるということを経験してまいります。
どうでしょう、皆さん方が手にしておられる聖書に、そういう素材がいっぱい満ちてる。このおことばを新約聖書、旧約聖書、詩篇とさまざまなところから光が与えられてそれを味わうことができるのです。
最後に一つだけ私が宝を発見したことを証しして締めくくります。
いま使われている聖書の多くは口語訳、私たちは新改訳2017ですので、文語訳聖書に触れる機会はほとんどなくなりました。それで文語訳関係の著書は屋根裏にしまい込んでおりました。しかしつい最近の事、どうしても聖書の言葉が文語訳でしか出てこないところがある。さて、このことば、昔持っていたあの本だったら何とか探しあてられるかもしれない。どこにあったかなあ。
古い本もやはり必要であるので、全部の頁をバラバラに裁断し1頁1頁をパソコンに取り込んでデータ保存することにしました。自炊といいますが。この自炊で、聖書の欄外にあるような小さな文字まで読み込んでくれるかどうか半信半疑でした。それが間違いなくデータ化され、検索するとヒットするんですね。この時代に生きていてよかったと思ったんですけども。文語訳の「べければなり」といった片言だけでもちゃんと引っ掛かってくる。これでもう旧約聖書の断片を検索しただけでぜんぶヒットできる! 宝物を見出したようなものです。大きな喜びでした。
何をいわんとするか。一つのみことば、たとえば「キリストのよみがえり」と検索するだけで、これに付随した幾つもの項目を手に入れられる。ここにも書いてある、ここにも書いてある、ここにもと。それを辿ることでまた聖書が生きてくるわけです。
皆さん方、是非ぜひこの聖書のいかに奥深いかを味わい、そしてこれが私たちのいのちであることを確信していただきたい。ふー、ぽん、クリスチャンになってはいけません。聖書によっていのちを益々豊かにし、道を誤ることなく、そして、このみことばによって悔い改め、扱われ、前進していく者であらせていただきたい。このように切に祈り願っております。
※説教は教会のデータをもとに起こしています。画像は教会からお借りしています。
⏰6時18分 更新
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