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きょうのことば

 インマヌエル盛岡キリスト教会2020104()の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『証しする福音』(國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 テモテへの手紙第一 11217

1:12私は、私を強くしてくださる、私たちの主キリスト・イエスに感謝をしています。キリストは、私を忠実な者と認めて、この務めに任命してくださったからです。 1:13私は以前には、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。 1:14私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、満ちあふれました。 1:15「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた。」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。 1:16しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例とするためでした。17どうか、世々の王、すなわち、朽ちることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

<説教>

 エペソ書の連講を終えまして、この10月は伝道月間としての学びに入りたく願っております。

 果敢な伝道の証人としてはパウロ先生の存在がございます。もしこの場所にパウロ先生が盛岡の伝道月間の証人として立たれたとすればと、そんな大それた思いを持ちながら、この大それた者が立っております。しかしその思いは決して間違ってはいないはずだと思います。
 第一テモテの113節にあります「私は以前には、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました」とあるこのパウロ先生の証しに学びたく願っております。

 

パウロの回心の経験、これは使徒の働きの中に繰り返し証しされております。使徒の働きの9119節をお開き下さい。

9:1さてサウロは、―これはパウロと同一人物で、まだサウロと呼ばれていたーなおも主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻き、大祭司のところに行って、 9:2ダマスコの諸会堂宛ての手紙を求めた。それは、この道―これはまだキリストを信じる者がクリスチャンと呼ばれていない時代であり、この道と呼んでいたーの者であれば男でも女でも見つけだし縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。 9:3ところが、サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。 9:4彼は地に倒れて自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」―彼は、自分の名前を呼ばれて「なぜわたしを迫害するのか」ということばを聞き、その意味するところにきっと大きな衝撃を受けたはずです。彼はダマスコにいるこの道の者を捕えようとしていたのです。それが、天からの声は、「なぜわたしを迫害するのか」と聞える。いったい、この「わたし」という方は誰なのか。―9:5彼が「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 9:6立ち上がって、町―ダマスコーに入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられる。」―つまりパウロにはこれから証人としての使命があったわけです。それがここに語られているわけです。― 9:7同行していた人たちは、声は聞こえてもだれも見えないので、ものも言えずに立っていた。 9:8サウロは地面から立ち上がった。しかし、目を開けていたものの、何も見えなかった。それで人々は彼の手を引いて、ダマスコに連れて行った。 9:9彼は三日間、目が見えず、食べることも飲むこともしなかった。


9:10さて、ダマスコにアナニヤという名の弟子がいた。主が幻の中で、「アナニヤよ。」と言われたので、彼は「主よ、ここにおります」と答えた。 9:11すると、主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』と呼ばれる通りに行き、ユダの家にいるサウロという名のタルソ人を訪ねなさい。―この固有名詞がタルソという町出身の、という意味なのですがー彼はそこで祈っています。-アナニヤというこの道の者、たぶん指導者のような人でしょう。そこに復活のイエス様が語りかけて「さあ、サウロという人物を訪ねてごらん。そこで彼は祈っているから。これもほんとうに意味のあることばです。祈っているのです。パウロはそれまで、ずっと敬虔なユダヤ教の信徒として祈っていたはずです。しかし、彼のこのときの祈りは、いままでユダヤ教徒として祈っていたこれまでの彼の祈りとは本質的に違っている。「おれはいったい今まで何をしていたんだ。おれはいったい何なんだ、どういうことなんだ」。そこには彼の悔い改めの祈り、ほんとうに真実を求める祈りがあったでしょう。「あなたが迫害しているイエスだ」、わたしはこの方を迫害していたのか。彼は数日間、祈っていた。今はほんとうの意味の祈りをしていた。もしパウロ先生がここで講壇に立ったなら、「わたしはそこではじめて本当の祈りを捧げました」と証ししたでしょうね、そのように思います。―9:12彼は幻の中で、アナニヤという名の人が入って来て、自分の上に手を置き、再び見えるようにしてくれるのを見たのです。 9:13しかし、アナニヤは答えた。「主よ。私は多くの人たちから、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。-アナニヤはダマスコのこの道の指導者でしょう。このサウロという人が何の目的でここに来たか私は知っています。どんなにひどいことをしたのかを知っているとアナニヤー 9:14彼はここでも、あなたの名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから与えられています。」 9:15しかし、主はアナニヤに言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。 9:16彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します。」― そうまで言われてアナニヤはついに意を決して迫害者としてきたサウロのいるところにはいっていきます。―9:17そこでアナニヤは出かけて行って、その家にはいり、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。―兄弟サウロと呼んでいるのです。もうこのときに、アナニヤはもう自分の使命をしっかりと受け止めていたでしょうー「兄弟サウロ、あなたが来る途中であなたに現われた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」 9:18するとただちに、サウロの目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになった。―付け足しですが、あるクイズ番組で「目から鱗」の語源はどこに? 答えは「聖書の中です」というのがありましたが。目から鱗が落ちて目が見えるようになった。―そこで、彼は立ち上がってバプテスマを受け、 9:19食事をして元気になった。

 これがパウロが、私が救われたのはこういうことだったんです、と述べたに違いないところです。彼はそれを必要とあれば何回でもこの事実を繰り返し語ったでしょう。使徒の働きの22章にもございます。

22:1「兄弟たち、父たちよ。いま私が皆さんにしようとする弁明を聞いてください。」
22:2パウロがヘブル語で語りかけるのを聞いて、人々はますます静粛になった。そこでパウロは話し続けた。
22:3「私はキリキヤのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで私たちの先祖の律法について厳格な教育を受け、今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした。 22:4私はこの道を迫害し、男も女も縛って牢に投じ、死にまでも至らせたのです。 22:5このことは、大祭司も、長老たちの全議会も証言してくれます。この人たちから、私は兄弟たちへあてた手紙までも受け取り、ダマスコへ向かって出発しました。そこにいる者たちを縛り上げ、エルサレムに連れて来て処罰するためでした。 22:6ところが、旅を続けて、真昼ごろダマスコに近づいたとき、突然、天からまばゆい光が私の回りを照らしたのです。 22:7私は地に倒れ、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。』という声を聞きました。 22:8そこで私が答えて、『主よ。あなたはどなたですか。』と言うと、その方は、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスだ。』と言われました。

 あの迫害者パウロがここにいるというので彼を殺そうとする人たちで騒動が起ころうとした。パウロを護衛しなければならない隊長は、大混乱になることを恐れて、いったいこれは何が原因なのか、いったいあなたは何をしたのか、ここで話してくれとパウロに求めたところで3節からパウロの証しが始まるわけです。

「わたしはキリキアのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この街で育てられ、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しく教育を受け、今日皆さんとおなじように神に対して熱心なものでした。ところがダマスコ途上、私は地に倒れ、サウロ、サウロどうして私を迫害するのかというイエス様の声を聞いたのです」。

 それから使徒の働きの26章、パウロはアグリッパ王の前に引き出されたときに、いったい自分がどのような状況であなたの前に立っているのかをアグリッパ王に向かって話している。たとえば12節「このような次第で私は祭司長たちから権威と委任を受けてダマスコへ向かいました。その途中のこと、王様、真昼に私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、同行していた者たちの周りを照らしました……云々」。これが使徒の働きの26章に記されている。ですから彼は、しなければならない証しをいつでも何回でも語っている。パウロ書簡の中にはしばしば自分の救われたあのできごとをベースにして福音を示しているのがわかります。その中の一つとして今日は、第一テモテの1章のところから、かつて私はこういうものでしたという彼の証しに目を留めているわけであります。

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 それを、もうすこし知識を立体的にするために、地図で関係のある地を確認してみましょう。タルソ、これがパウロが生まれた場所です。大きな場所とすればエルサレム。そしてダマスコ。この地とパウロとの関係は、まず彼はタルソでローマ市民権を持ったユダヤ人として生まれます。当時はローマ帝国の時代ですからローマ市民権があればどこへでも自由に行くことができる。そういう特権がありました。一等国民としての優遇を受けることができたのです。

 パウロはユダヤ人ですが、どうして生まれながらのローマ市民権を持つことができたかというと、彼の両親の生業はタルソでテントづくりをしており裕福だったのでお金で市民権を買う事ができた。ローマ市民権を持っている両親から生まれた子供は生まれながらローマ市民としての保護を受ける資格がありました。

 ここで一つチェックしておきたいのは、パウロは、イエス様とだいたい同年代、バプテスマのヨハネとも同年代です。よくプロ野球などで松坂世代というようなことがいわれます。これを何世代といったらいいのでしょうか、イエス様とほとんど同世代に、こんなすごい人たちが生まれたことに思いが到ります。

 パウロはこのエルサレムのユダヤ教を教える教師たちの中でも非常に人々の尊敬を受けている穏健な学者ガマリエルの門下生として、教育をエルサレムで受けることになったわけです。ちょうど彼がガマリエルの門下で学び始めているときに、どうも大工のせがれであるイエスという男が、自分が神であるメシアであると自称し、事実、数々の奇蹟を起こし、崇められ、信仰の対象となっていることを耳にします。イエスの使徒と言われる中心的な者たちは、エルサレムからみればとんでもない田舎のガリラヤの湖で漁師をしている学ぶ機会もないような、―その場合の学ぶ機会というのは、ユダヤ教の律法とか学者としての学びのことなのですが。当時についてよく聖書の中に「無学なただ人」とありますが、律法を専門的に学ぶような機会にも恵まれない者という意味―ガリラヤの漁師たちである。無学な田舎のそういう者たちが、何でも人々を煽動して、宗教運動、メシアの宗教活動をしているという。きっとパウロは、ここで苦々しい思いだったでしょう。それが、人々がメシヤが来たと期待したイエス・キリストは人々の反感を買って、とうとう十字架につけられる。これでナザレの一派、あの連中はおしまいだと思っていたところが、こんどは、よみがえったとたわごとを言っているらしい。殊にもステパノという男は、待ち望んでいたメシアはあなた方が十字架につけたあのナザレのイエス様であると敢然と主張し殉教して果てる。ステパノ、これは「ギリシャことばを話すユダヤ人」でありますけれども。このステパノが人々の反感を買い、とんでもない教えをするものだと怒りを買い殉教してしまう。時間を短縮するために、非常によくまとまっている文章を読ませていただきます。皆さん方もきちんと整理していただけるのではないかと思います。

 「パウロの正義感の矛先はあるユダヤ教グループに向けられました。エルサレムでイエスの弟子であったペテロ、ヨハネなどを中心にナザレ人の一派が形成された。そこに加わる人々は増し続け、大きく成長し始めていました。彼らはナザレのイエスがメシアであると主張して悔い改めを迫り、洗礼の儀式を行っていました。パウロによる迫害の発端は、ギリシャ語を話すヘレニストユダヤ人であるステパノの出現でした。ステパノはリベルテンと呼ばれるギリシャ語の会堂で、力強くイエスがメシアであると宣言したのです。パウロはステパノとの論争の中で、キリスト者の語る福音がモーセの律法を根底から覆す危険性があることを見抜きました。ナザレのイエスがまことのメシアであるのなら、聖書の預言は成就し、神の国が到来したことになるのです。しかし、イエスは偽メシアであり、十字架で処刑された犯罪人です。パウロはメシアの到来を待ち望んでいましたが、イエスは偽物だと確信していたのです。ナザレ人の一派は危険な異端だとパウロの目には映ったのかもしれません。ステパノを処刑することに賛同したパウロは、それ以降、自分自身が先頭に立って迫害を始めました。キリスト者と教会は、イエスという偽ものを真のメシアと主張して神を冒涜しモーセの律法を覆す、危険な教えを広めている。そう考えたパウロは徹底的にこの異端を撲滅することを決意したのです。彼を動かしていたのは、神に対する熱心さでした。それは神に対する正義感と忠誠心です。彼は情け容赦なくキリスト者を捕え投獄しました。そして国外に逃げていったキリスト者にまで迫害の手をのばそうと祭司に掛け合い、権限を受けてダマスコに向かったのです。

 背景がこれでおわかりいただけたと思います。

 ダマスコに向かう途中、パウロは天からの光に照らされ、「サウロ、サウロなぜわたしを迫害するのか」という声を聞きました。パウロは目の前に光輝くすがたで立っている人物が待ち望んでいたメシアである。彼が仕えてきた主ご自身であると理解しました。それで「主よ、あなたはどなたですか」と訊き返しました。するとこれまでの人生を崩壊させるような衝撃的な答えが返ってきたのです。「わたしはあなたが迫害しているイエスである」。パウロは自分が完全に間違っていたことに目が開かれました。偽物だと思っていたナザレのイエスは、本物のメシアであり、しかも神ご自身であったのです。神とその律法に熱心に仕え、教会を迫害したことは神の御心ではなく、自分の身勝手な正義感だったことに気づいたパウロはすぐに自分の過ちを認め悔い改め洗礼を受けました。その日からパウロは、キリスト者となり主イエスの福音を伝えるための宣教者、使徒となりました。迫害者が主イエスキリスト、そして教会に仕える者へとつくり変えられたのです。

 パウロの証し、皆さんどうでしたか。これが私たちが信じている福音なのですよとパウロは証ししているのです。

 

第一テモテ1章に帰りましょう。

1:15「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた。」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。 1:16しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例とするためでした。

 彼は「私は赦された罪びとであり、その罪びとのかしらである」ということを生涯持ち続けた、それが彼の信仰の土台になっていたという事はおわかりいただけるでしょう。私はそのときにこのように思いました。

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 神様は私たちの罪を覚えておられるんだろうか。イザヤ4325節にこう書いてあります。

25 わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

 パウロはずっと自分の罪を、特に血を流した自責の念を持ち続けていましたけれども、神様は、わたしはもうあなたの罪を拭い去って、もうあなたの罪は私が思い出さないよ、と仰ってくださるのです。

 私たちはどうでしょうか。私たちはもう自分の犯した罪を忘れ去って思い出さないのではなく、ある意味、こんな者を、犯した罪を赦してくださった神様であるということを、感謝と恵みにあふれる思いで絶えず十字架と赦しの福音をまたしてもまたしても思い起こすことでしょう。よく恩に感じる、感恩の情という言葉が使われますけれども。恩に感じる、それは何か、神の御子がこのお方がこの私のこの罪を拭い去って忘れてくださると神様は仰るこの恩。ああかたじけないと、私たちはいつでもその神の恵みと憐れみに直結して自分たちの罪を思い出します。しかし、サタンは違います。サタンは、古い律法をもって絶えず私たちを、ほら、あなたはこんな罪を犯していたね、こんなことやっただろう、絶えず私たちを夜昼神様の前に訴える存在がサタンです。しかしそのときに、どうか第一テモテの1章にあるパウロの証しを心に留めてください。第一テモテの112節からみなさんと声を合わせてお読みしてきょうのメッセージを締めくくらせていただきたいと思います。

※地図は「新改訳2017」から、イラストは教会からお借りしています。

⏰5時43分更新

 

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