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きょうのことば

インマヌエル盛岡キリスト教会の20201018()の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『その信仰に倣おうー教団創立記念礼拝―』(國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 ヘブル書1378

13:7神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。 13:8イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。

<説教>

きょうは教団創立記念礼拝でございます。週報にも蔦田二雄という創設者の方の写真を載せてございます。今年またこの月にその恵みを共に振り返りたいと願っております。ですので、内容が重複するところもございますがご了解ください。

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きょうは、私が蔦田二雄という人にはじめてお目にかかったときのことからお話をさせていただきます。それは1969(昭和44)2月有楽町の近くの丸の内教会の礼拝に於いてでありました。その3か月ほど前に私はお茶の水キリスト教会館で信仰に導かれたばかり。19681116日にダビッド・マーチン先生のメッセージに心探られ信仰に導かれたのであります。ダビッド・マーチン先生という方は、今でいう日本同盟教団の宣教師でいらっしゃいました。所謂アライアンス・ミッションといわれる福音的な宣教団体の一員でいらっしゃいました。その特集でイエス・キリストを救い主として信じたのです。そのときお茶の水キリスト教会館のチャペレンでらした後藤牧人先生が茶菓を交えたお交わりの中で、「ここは教会ではないから、ここで信仰を持った君たちが、教会に導かれるように祈っているから。日本には今いろいろな教団があるんだけれども」と幾つかの教団を紹介し、その中にインマヌエル綜合伝道団も。インマヌエル綜合伝道団について先生が「この教団はね、迫害を受けた教団なんだ。迫害を乗り越えた教団というのは強いんだね」と付け加えたことがとても心に残りました。

ころは学生時代、アパートで自炊。最後の3年生、4年生を過ごしておりました。雪が谷大塚駅のところでチラシをもらったことを思い出し、たしかそれにインマヌエルとあったなと、帰ってすぐに引き出しの中を探りますと、1年前のチラシが出てきて、インマヌエル雪が谷伝道所とありました。これが後藤先生が仰ったインマヌエルだ。チラシの地図を頼りに駅から比較的近いその教会を見つけました。集会のあるその時間に行きました。当時は國光幾代子先生と副牧師として大滝昭子先生がいらっしゃいました。忘れられないのは、入っていくなり國光幾代子先生が開口一番「ここはきよめを標榜する教会です」と仰いました。どうもその当時は学生運動が激化しており、青山学院でも「神は死んだ」と大きな立て看板を立てかけて学園封鎖をしておりました。全共闘や過激派の学生たちが暴徒化するという時代でした。あちこち教会をゆき巡って教会をかき回すような一人であると取られかねないような社会的状況がありました。私とすれば、この教会でご指導いただきたいと思っていたものですから宜しくお願いしますという思いでした。すると「ここはインマヌエル丸の内教会の雪が谷伝道所ですので、ここでは礼拝を持っておりません。礼拝は丸の内の教会で行っています」ということでありました。

学校もロックアウトされて何か月も経ち、私は卒業を控えていたものですから卒業試験がいつあるかわからない。でも卒業しないと会社の内定が取り消されてしまう。会社というのはビクターレコードでしたが。朝ドラの「エール」の方はコロンビアでしたでしょうか。それはともかく卒業しないと内定も取り消され、就職できなくなってしまうという不安定な中で11月に信仰を持ったのでしたが。大学がロックアウトされここにいてもしかたない、東京にいるよりも郷里の松本に帰省しようと決めました。クリスチャンになって初めてクリスマスも控えてはおりましたが。松本の家では私がクリスチャンになったことについては、おおそうかという程度でそれほど深刻に考えていませんでした。クリスマスには教会に行きたいなと思う気持ちはありました。後藤牧人先生からは「松本に同盟教団という教会があるからそこに顔を出したらいいよ」と言われ、住所、電話番号を控えております。けれどもクリスマスのときに行かないで、私がもしほんとうに救われているのならば、きっと教会に導かれるだろう。しかし、もし私の信仰が一時的な宗教的な感動、一過性のものだとすれば、私はこのまま教会から信仰から離れていくだろうなと、自分をテストするような思いで敢えてクリスマスには紹介された教会に行きませんでした。

いよいよ年末年始です。どこの地方でも初詣がある。家は世間一般の家でしたので習慣的に初詣に出かけます。いざ皆が行くとなったとき、流石に1216日私はまじめにイエス様を信じた身です。それで「僕は留守番してるからみんな行ってもいいよ」と皆を見送りました。厳密にいうと「紅白歌合戦」が終わって、「ゆく年くる年」が始まるころに出かけます。いわゆる2年参りと言うのでしょうか、年をまたいでいくとご利益があるというようなことで、近所の人たちがぞろぞろぞろと行くわけですけれども。わたしは行かないで留守をまもって、いよいよ元旦の朝を迎えたとき、考えました。これではいかんと思いました。きっと元旦に教会で集会を持っているかもしれない。電話をしてみますと「いらっしゃい。元旦礼拝がありますから」と。同盟教団の松本の教会に行って、「ついこの前お茶の水で信仰に導かれた者です」と挨拶をしました。「よくいらっしゃいました」。「すぐまた東京に帰るんですけれども、その卒業試験があるそれまでの1か月か2か月か、お交わりの中にお願いします」と言いました。そこに若い先生ご夫妻がいらっしゃり真実に迎えてくださった。牧師夫人が「実はわたし、ビリー・グラハム大会の時の事務方をお茶の水会館で持っていたのです」。そういうお話をされて、その夫である先生が仰るに「あのとき蔦田二雄先生にお目にかかりましたけれども、あの方はほんとうにジェントルマンです」と。感極まったように「いい先生でした」と仰いました。私はインマヌエルにしてよかったという思いで、それで1月末までおりました。しかし、東京に帰っていないと卒業試験を受けられないので、そのために東京に戻りました。

2月になって、さあ、それじゃ丸の内教会に行こうということで、有楽町の駅から歩いて近いところでしたけれども、その丸の内教会に行きました。新国際ビルの9階でした。当時300人ぐらいの人が礼拝に集まっていました。ですので、何の関りのない者がポンと行ってもなかなかその中に馴染むのに難しさはあったのです。しかし、そこに行きまして初めて週報というものがあることも知りました。説教はマタイ伝の連続講開でした。説教者のところに蔦田二雄総理と書いてあります。ふつうは政府の総理を言います。それしか総理という言葉が結びつかなかったのですけれども。いろんな人たちの話を聞いていると「蔦田総理が」、「どこ総理が」という話をしている。草履じゃないことはたしかだし、何だろうと思いました。「総理」は今でいう「代表」のことでした。おずおずと礼拝の席に着きましたらば、小柄なお爺ちゃんが、説教者の椅子に座っているのです。ほんとうに小柄です。その蔦田二雄という先生が、いよいよ説教となったときに、説教台にがしっと手を置いて聖書からお話をされたときのその迫力、決して威圧的というのではない、まさに神のことばを語る者の威厳と権威というものを肌で感じることが出来ました。ダビッド・マーチン先生のときのメッセージとか、お茶の水の会館で聞いたメッセージとはまたちょっと質の異なる迫力がありました。そして、何回か、魅せられるように日曜日が来るのを待ち焦がれて行きました。礼拝では時々、オーエン・ガントレットという先生がフルートを吹いてくださる、そういう礼拝でもありました。これが私がインマヌエル綜合伝道団の蔦田二雄という人物に触れたその初めでありました。

インマヌエル綜合伝道団のルーツはジョン・ウェスレーであることを心に留めねばなりません。彼はイギリス国教会の、つまり国王を教会の頭と仰ぐ所謂国家の宗教、イギリス国教会の忠実な牧師でした。彼自身の証しを見ますと、当時のイギリスから独立しようとするアメリカ新大陸に、彼は福音を携えて行くのですが、船が大嵐に遭います。そのとき、絶望的な大嵐の中で静かに賛美歌を歌っているグループがいました。ドイツからだったでしょうか、アメリカに移住するひとたちで、それがモラービアン派と呼ばれるグループでした。何と激しく揺すぶられる船底で、大人も子供も、主をほめたたえる賛美歌を歌っているのです。自分は国教会の牧師ではあるけれども、彼らの持っている信仰は私にはないということに気が付きました。そしてアメリカに渡り、挫折をし、そして失意のうちに彼は母国イギリスに帰ってくるわけです。そのとき、アルダスゲートという小さなところで、そのモラービアン派の人たちの集会があるというので行きました。たまたまそこで彼らはルターのロマ書講開の本を読んでいた、訓練された者が大説教するというのではなく、モラービアンの兄弟が導かれて読んだその恵みをお分かちするというような集会だったのでしょう。それを聞いているうちに、ああ、そうだ、神様のわざがすでに成し遂げられている、あの十字架のわざを信じることによってというその福音信仰にウェスレーは目覚め、大きな転機を迎えました。これが彼の大きな内的な変化でありました。青山大学の正門を入って右側にウェスレーの銅像があります。あれは所謂メソジスト系の学校として青山学院があることを語っています。

さて、この私たちの信仰のルーツがジョン・ウェスレーにあることを先に申し上げました。彼が生まれたのは1703年。日本での1703年には赤穂浪士の吉良邸討ち入りです。これとリンクすると覚えやすいのかもしれません。1703年、これで、そうかあのときにジョン・ウェスレーはイギリスに生まれたのかとメソジストの歴史をちょっと近しく感じることができます。

 こんどは私たちのインマヌエルに関わることになります。蔦田二雄先生はほんとうに小柄な方でした。この蔦田先生は、オーエン・ガントレット先生に大きな影響をいただきました。オーエン・ガントレット(1907 - 1988年)は、イギリス人エドワード・ガントレットと山田耕作の実子ツネとの間の長男です。朝ドラの「エール」で、山田耕作はちょっと悪者的な扱いでしたが。オーエン・ガントレット先生が日本にフルートやテニスを普及させました。そして、このガントレット先生のお父さんが、山口県の秋芳洞を発見しました。そんなこともあって、ガントレット先生は山口県の名誉県民と言う称号をいただいたようです。

このガントレット先生と蔦田先生とは1歳違い。ほとんど同年代の時に蔦田先生がシンガポールからイギリスのロンドン大学に留学するために船に乗ってい時に、船員さんが、蔦田先生がいつも聖書を読んでいるすがたを見て、「君と同じような本を読んでいる変わった青年がもう一人いるよ」と。その船員から聞いて会ったところが、このガントレット青年だったわけなのです。で、ガントレット兄が蔦田に「君、救われているかい?」と訊いたのです。蔦田先生はもう真面目な人物。お父さんもシンガポールで歯科医であり、民間領事でもある方だった。メソジスト家庭で、小さいころから教会に行き聖書を読んでいる。しかしガントレット兄、「それはわかるけど、君、新生経験持ってるの?」と訊いてきました。蔦田先生は困って、人は一生懸命にまじめに生きてそして天国に入ることができる。生きている間に天国に行けるかどうかだなんて、そんなことは傲慢な考えだというような意識を持っていた。そのときにガントレット青年はヨハネの福音書6章47節を引いて蔦田青年に「君が読んでいる聖書にこう書いてあるだろう、ヨハネ6:47まことにまことにあなたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。ここに「持っています」とあるだろう、持つかもしれないなんて書いてないだろう、信じる者は永遠のいのち、これは死んでから与えられる復活のいのちというものじゃない、それとは違って、信じる者はいまイエス・キリストのいのちを持っているんだ」。

私はある方の手術のときに、「われ生くれば汝らも生くべければなり」というおことばが与えられたときのことを思い起こしました。そしてガントレット兄が示した「信じる者はいま永遠のいのちをもつ」。

蔦田青年がこのことに気が付いたときに、回心、ほんとうの新生経験というものを持つわけです。このことがきっかけだったようです。イギリスにいってロンドン大学で外交官を目指していた蔦田青年でしたが、いよいよ卒業間近になりました。

大阪伝法教会の朝比奈協という元は有名なヤクザだった先生も、やはりホーア先生という婦人宣教師との出会いを通して救われております。

イギリスにあって蔦田二雄先生は、バックストン先生の関係の集会に出席したときに「その神に従え」という声を聞きました。これから自分の生涯をどうしたらいいのか、このままいけば外交官として当時の国際連盟に行くことになっていたのだそうですけれども、どうしようかとシンガポールのお父さんに電報で訊いたところ、すぐに返信電報が届き、それには「「Obey  GOD」と記されていたということです。卒業間際に彼は日本に帰ってきたわけです。

ウェスレーのアルダスゲートの経験と、それからこのオーエン・ガントレット宣教師との船の上での出会いというものが、一人の人がほんとうにキリストによって変えられるということをいみじくも私たちに思い起こさせる大きなことでした。私たち一人ひとりの信仰生活にも同じことがいえるわけであります。

蔦田二雄先生はそのあと日本橋ホーリネス教会、東京のど真ん中といっていいでしょう、そこで教会の活動を始めました。これは戦後のことですので、ここで日本が戦争に入っていくときに戻ります。当然のことながら中国にも欧米の宣教師たちが福音を伝えっていった。たとえばハドソン・テーラーです。チャイナ・インランド・ミッションというすばらしい働きが中国にも進められていったのですが、戦争状態になって欧米の宣教師たちは国に帰らざるを得なくなる。その時に、この蔦田先生、ほんとうにまだ若い蔦田先生たちが、欧米の宣教師たちが引き揚げた後の重荷を自分たちが背負うべきではないかとリバイバル・リーグという御霊に満たされた働きを進めているなかに宣教師としてその当時の満州の新京に渡りました。その一人が岩城幸策先生、それから上海の方にいったのが松村導男先生であったり、そういうリバイバルリーグの人たちが中国の方に派遣されたわけです。蔦田先生が実際に現地に行って慰問し講演、みんな戦争に疲れているわけですけれども。後で聞いたのですが、「おもしろいんだよ、講演で、恐れ多くも天皇陛下は、というと、天皇陛下と聴いただけでうとうとしていた人がはっと威儀をただす」。そういう訓練を受けていた人たちがいたのかなとちょっと蛇足のように付け加えましたけれども。そういうように現地の方まで視察に行ってきたのですが、ご承知の通り弾圧を受けて囚われの身となってしまいました。その時に、それまでの自分の福音に関わる働きを深く深く鑑みて、そして「神われらと共にいます」、神がいかなる時にも私たちと私と共にいてくださるという真理に覚めます。これこそほんとうの福音経験、そしてもしいのち赦されて戦後活動ができるなら、日本人の手によるメソジスト的なホーリネスを証しする教会、これを目指そうと決意しました。これが戦後の写真です。

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女医の長谷川元子先生、正子先生の双子の姉妹が船橋でインマヌエル医院を開設し、この医務部と農耕部を包括してインマヌエル綜合伝道団という名前をつけたのだそうです。写真の中央のいちばん小柄な方が蔦田二雄先生です。中学生だった蔦田真理先生もいます。朝比奈寛先生、大橋武雄先生、川口始先生、これはみんな神戸の先生です。そして大阪伝法教会の朝比奈先生。松村導男先生。それから蔦田先生の奥様。そして発足から一丸となって働かれた山本岩次郎先生がいらっしゃいます。

さて、こんどは別な角度からですが。蔦田先生たちがバックストンの働きに導きを受けたことで、私たちは間接的にはバックストン先生に近い関りをもっているわけです。賛美歌「しみもとがもけがれもなき」を作詞した笹尾鉄三郎先生もまた、バックストンと関りを持ち、日本の福音派の中で良い影響を与えてくださった方であります。中田重治先生は弘前出身であります。1870(明治3)年生まれ。昭和14年までの活動期間でした。蔦田先生は1906(明治39)年生まれと、だいたいこういう流れ。蔦田先生が1906年とすれば車田秋次先生は1887(明治20)年ですので、もう一世代とまではいかないけれども、蔦田先生の先代の先生でこの方もかたもホーリネスの非常にすばらしい器でありました。

現代にだんだん近づいてきますが、本田弘慈先生、この方が大正元年生まれ。そして2002年にお亡くなりになった。羽鳥明先生は1920(大正9)年生まれ、2017年に召されなさっている。これで働きの年代感覚がわかります。羽鳥先生というとやはり福音伝道教団であります。羽鳥先生もバーネット宣教師の導きで入信しました。福音伝道教団は群馬県や、あの中部地方に重荷をもって伝道した教団です。それからバックストン先生の直系的な流れとして関西聖書神学校があり、小島伊助、沢村五郎というような先生がいらっしゃいます。こういう方々を、日本の福音派として記憶に留めたいそういう方であります。

そして簡単に戦後の福音派というものを見てみますと、宗教法人登録でいちばんはやく日本キリスト教団から脱退し、つまり戦争中、東条内閣によって、多くの教会が強制的に日本キリスト教団にまとめられたという経緯がありますが、そのところから出て新たな福音本来の活動をしようといちばん最初に宗教法人として立ち上がっったのがインマヌエル綜合伝道団であります。その後まもなく車田先生方を中心とした日本ホーリネス教団。その他、日本イエス・キリスト教団というのがあります。この日本イエス・キリスト教団は、移管されたバックストン先生の流れを引き受け包括するというような形でできております。ですから今となればバックストン先生の直系的な流れはとなれば日本イエス・キリスト教団ということになるかもしれません。

それからもう一つ、さっきちょっと出た同盟キリスト教団がありますが、これはアライアンス・ミッションと呼ばれているところでありまして、これも福音的な非常に良い働きをしております。このアライアンス・ミッションの働きから、いのちのことば社などの福音的な出版の働きが出てきたように思います。よくここの宣教師のことをティームの宣教師といいますが、どういうチームなのかなと思っていたのですが、これは、TEAM(ゼ・エバンゼリカル・アライアンスミッション、The Evangelical Alliance Mission)のことですので、日本福音伝道教団というのが所謂ティームの働きになるわけです。主な私たちの身の回りのホーリネス、福音的な教団というのは、このような流れになります。そしてさらにいうのならば本田先生は教会ではなく、日本福音クルセードとか太平洋放送協会、これは羽鳥明先生方が中心となっておられ、そして今そのあとを引き継いだのが、今はイムマヌエル綜合伝道団出版事業部におります矢木良雄先生方です。いのちのことば社のほかにキリスト者学生会、KGKといわれるところ、それから私の救いのきっかけとなった当時は学生キリスト教センターといいましたが、いまはお茶の水クリスチャンセンターOCCというような流れになってきております。これが今私たちを取り巻く福音派の環境です。そして私たちのインマヌエル綜合伝道団がどんなところに位置付けられているかということを知っていただくのにすこしでもお役に立てばというように思っております。

あと残る時間は、私達の信仰の嗣業はということで、聖書、そしてイエス・キリストの十字架、そしてキリストの内住。聖書信仰と贖罪信仰と臨在信仰。これが私たちが持っている大切な信仰の譲りの嗣業の内容です。そして私たちはそれを聖化、宣教と言う角度からも、これらもぜんぶ包括してインマヌエル綜合伝道団の位置づけをと願っております。

 

最後になりますが、その信仰に倣おう、このお言葉を皆さんと一緒に確認をしたいと思います。

まず神のことばです。聖書。これをしっかりと自分の信仰の土台として、

13:7神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。

あの先生、この先生というような人、私にとっては蔦田二雄先生というひとですけれども、この人たちのことをしっかりと覚えること。そして大切なことは彼らの生き方から生まれた者、どういうものがその生き方から生まれてきたのか。インマヌエルというこの群れを見たとき、それをよく見て、その信仰に倣いなさい。

そして

13:8イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。

決してジョン・ウェスレーだとか、或いは蔦田二雄とか、或いはガントレット、或いは、そういったいま名前が出ていたような人たち、その信仰者にではなく、彼らを斯くさせたのは主イエス・キリストであります。多くの信仰者たちが、みなこの変わりないお方と結びついている。だからこのイエス・キリストというお方は、ウェスレーの交わった、ウェスレーを斯くならしめた神様であり、蔦田二雄を斯くならしめた神様である。そのように思いますと、今私たちも、その方々のありように、イエス・キリストご自身、このお方をしっかりと仰ぎ見て、信仰に倣わせていただきたいと願う事であります。

※今回はレコーダーから起こし、編集させていただいた時点で9017字、400字詰め原稿用紙換算で約2枚分、実にやりがいがありました。
⏰1日遅れで11時34分更新。

  

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