きょうのことば
インマヌエル盛岡キリスト教会の2020年10月11日(日)の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。
説教題 『喜び歌う福音』(國光勝美牧師)
聖書個所 旧約聖書 詩篇63篇 1~11節
1 神よ あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない 衰え果てた乾いた地で 私のたましいは あなたに渇き 私の身も あなたをあえぎ求めます。
2 私は あなたの力と栄光を見るために こうして聖所で あなたを仰ぎ見ています。
3 あなたの恵みは いのちにもまさるゆえ 私の唇は あなたを賛美します。
4 それゆえ私は 生きるかぎりあなたをほめたたえ あなたの御名により 両手を上げて祈ります。
5 脂肪と髄をふるまわれたかのように 私のたましいは満ち足りています。喜びにあふれた唇で 私の口はあなたを賛美します。
6 床の上で あなたを思いおこすとき 夜もすがら あなたのことを思い巡らすときに。
7 まことに あなたは私の助けでした。 御翼の陰で 私は喜び歌います。
8 私のたましいは あなたにすがり あなたの右の手は 私を支えてくださいます。
9 私のいのちを求める者どもは滅び 地の深い所に行くでしょう。
10 彼らは剣の力に渡され 狐の餌食となるのです。
11 しかし 王は神にあって喜び 神にかけて誓う者は みな誇ります。偽りを言う者の口が封じられるからです。
<説教>
先ず、皆様方から事ごとにお祈りをいただきましたことに感謝を申し上げます。
伝道月間に入って第1週目、この機会に、私は、自分の信仰の位置づけを再確認し整理させていただこうと思っております。
私どもの課題が大変に好転しているのですが、世の中の方々がこれを耳にすれば、ご利益があったのだと思われるかもしれません。キリスト教ってずいぶんご利益があると見るでしょう。ここで、ほんとうにそのように理解してもいいのかどうか。祈りが答えられるとはどういうことなのか、改めて考え直すときが与えられました。
何年か前、「百万人の福音」に、フィリップ・ヤンシーというジャーナリストの方がユニークな立場でキリスト教信仰について書いた本が紹介されていました。日本でも出版されています。ヤンシーさんは私たちと同世代。今も活躍している方です。そのヤンシーさんが、アメリカのある祈祷会に出席しました。そこで、証しのある人はどうぞという促しがあった。会衆のお一人が手を挙げて「実はつい先週飛行機が墜落して多くの方が亡くなるという事故がありました。ほんとうは私の子どもが乗るつもりでチケットを持っていたのですが、事情があって乗ることができませんでした。もし乗っていたら墜落した一人となっていたでしょう。神様のお守りを感謝します」と言いました。会衆席には「ハレルヤ」「ハレルヤ」と声があがったそうです。私にはヤンシーさんがこのことを取りあげた感覚がわかります。じゃ、墜落し犠牲になった人たちには神の守りがなかったのか。そう突き詰めてみるとき、事情があって乗らなかったことに感謝し、その結果に単純にハレルヤといえるのか。これが神の恵みであると短絡し、結論付けることができるのだろうか。そのときにヤンシーさんが持ったちょっとしたクエスチョン、果たしてこれが神の恵みといえるのかという疑問は今でも心の中に深くございます。
お祈りすることにおいては、祈る人が神様から扱われる。例えば大きな病気をした人は、きっと自分の知っている神様にお祈りをするに違いない。それを軽蔑的な響きのあるご利益信仰とかご利益宗教などと一括りにできるのだろうか。それをこの機会によく分析する上で、神を利用して自分の願望を果たす、これがご利益信仰でありご利益宗教であるとこのように定義してみます。今回の私どもの課題においては、私は決して神を利用して自分の願望を果たそうとの思いはないのです。これはご利益信仰ではありません。祈りというのは、祈る人が、ほんとうに扱われるそういう機会であるとこのように思います。それで詩篇63篇のところにもう一度目を留めて頂きたいと存じます。
この63篇はダビデの詩であることがわかります。そして、「ユダの荒野にいたとき」、これは好んでユダの荒野にいたのでは決してない。ダビデはイスラエルの名君です。神を畏れた歴史的に偉大な信仰者として今も位置付けられています。王位にある彼が最も暗黒な経験をしたときのユダの荒野でのできごとです。具体的に言いますと、彼は自分の愛している子どもアブシャロム、その子どもがあろうことか父親であり王である自分に密かに謀反を企てました。ダビデ政権の中枢に踏み込んで、父王が頼りとしていた側近たちを密かに自分の側に引き込んでクーデターを起こし、ダビデを王宮から追放してしまった。ダビデは命からがら王宮からユダの荒野に逃げ込み隠れました。もしこのときにアブシャロムが一気にダビデを攻め滅ぼそうとしたなら、恐らくダビデはそこで命を落としていたでしょう。けれども、そこに神様の憐れみ深いご配材がありました。アブシャロムの側近にダビデの味方をする者が一人がおり、アブシャロムの耳に入るように情報を流します。あなたの父は歴戦の器であり、いまここで夜急襲をかけたとしても手負いの獅子ほど恐ろしいものはありません。むしろ、父王はいま命からがら何とかユダの荒野にいる。このときこそあなたは自分こそ王であると宣言して大軍を整え、一気にユダの荒野に追い討ちをかけ、父王を滅ぼすのが得策であるとの情報を流しました。
このときが彼の最暗黒の状況でした。これを心に留めて、ダビデの心の中を見てください。
1 「神よ あなたは私の神」「あなたを切に求めます」 「あなたに渇き」「あなたをあえぎ求めます」
2「あなたの力と栄光を」「こうして聖所で あなたを仰ぎ見ています」
3 「あなたの恵み」「あなたを賛美します」
4「生きるかぎりあなたを」「あなたの御名に」
5「私の口はあなたを賛美し」
6「あなたを思いおこすとき」「あなたのことを思い巡らすとき」
7「あなたは私の助け」
8「あなたにすがり」「あなたの右の手は 私を支えてくださいます」
ここでダビデは「あなた」と神様をお呼びしています。「あなた」、これは二人称です。「彼」をではない、第三者の神様ではなく、ダビデにとって神様は「あなた」なのです。最暗黒の状態の中にあって、神様を「あなた」とお呼びすることができる幸い。これがクリスチャンの祈ることのできる大きな恵みです。神様に「あなた」と呼びかけることができる。
そして、どうでしょうか。たとえば1節に「私はあなたを切に求めます」「私の魂はあなたに渇く」「私の身もあなたをあえぎ求める」。いわんとすることは、祝福を祈り求めているのではないのです。このような暗黒のときに神様を求めている。アブシャロムをこうしてください、ああしてくださいとは祈り求めていない。神様ご自身を求めている。私は祈るとき、祈る私自身が深く扱われることを実感します。神様との深い交わりにあって祈るときに私たちは扱われます。それが非常によく出ているのが4節からのところです。
4 それゆえ私は 生きるかぎりあなたをほめたたえ あなたの御名により 両手を上げて祈ります。
5 脂肪と髄ーこれは最高級のという意味合いであり、脂肪と髄というのは当時のイスラエルの最高級の料理ですーをふるまわれたかのように私のたましいは満ち足りています。喜びにあふれた唇で 私の口はあなたを賛美します。
6 床ーといってもこれは石や草の上なのですがーの上で あなたを思いおこすとき 夜もすがら あなたのことを思い巡らすときに。
7 まことに あなたは私の助けでした。―冷たい夜露のくだる野がダビデにとってはうるわしいところとなっていたことがわかります。-御翼の陰で 私は喜び歌います。
これを思い巡らしていたときに、私は一つの経験を思い出しておりました。この教会が北天昌寺町にあったころの事です。きょうは不思議なように当時をご存知のI兄が30数年ぶりかでいらしておりますが。あそこの風呂は薪を燃やすタイプでした。おが屑を圧縮したオガライトを使っておりました。新聞紙で火をつけて風呂を炊いていたのです。ひろ子先生があるとき「ねえ、鳥の声が聞えるよ」というのです。どうも鳥が迷い込んでいるらしい。煙突の蓋をあけて、煤だらけになったスズメを捕まえました。そのときの小鳥の温かさ、生きているってこういうことなんだ。あの温もりの感触が忘れられません。これは図鑑を見ただけではわからないことです。あ、あったかい。生きてるってこういうことなんだ。
この温かさ、神様の温かさを知ったおことばが7節です。
7 まことに あなたは私の助けでした。 御翼の陰で 私は喜び歌います。
神様が私を御翼の蔭におおってくださる。それまで神様というお方を聖書の中の全能の神様、聖書の中の祈りを聞きたもうお方、聖書の中にこう書いてあるお方というように理解はしていたのですが、それとある意味まったく違って、あのスズメの温かい感触のように神様の温かさが肌で感じられる。謂わんとするところがおわかりでしょうか。頭の中の神様ではなく、このお方に讃美を捧げる時に、神様ってこんなに温かいお方なのだということを祈りというこの交わりの中で体験いたしました。大きな課題に当たっての祈りの中で私がした貴重な体験、神様の温もりを肌で感じることができたというこの事実。聖書の神様から肌で温もりを感じることが出来る。ですから、たとえば8節
8 私のたましいは あなたにすがり あなたの右の手は 私を支えてくださいます。
この8節を皆さん方はどのように自分に当てはめますか。私のたましいがあなたにすがりつく。すがりつくという言葉を使いましたが、原典でも実際そのような意味の言葉が使われているそうです。払おうとしたって、ほんとうにすがりつく、たとえは悪いですけれども、溺れている人に軽率に近づいてはいけないといいます。自分にしがみつかれてしまう。自分の身動きがとれなくなるから。それでもほんとうに私たちは神様にすがりつくのです。ほんとうにすがりついたときに、神様は、おいそんなにすがりつくなよ、溺れてしまうじゃないかとは決しておっしゃらない。すがりつくとき、神様の温もりを肌で感じることができます。ダビデという人は、そうした人です。それが4節、5節、6節。ここにすがりついて祈る人ダビデのすがたが記されています。そして締めくくりに7節
7 まことに あなたは私の助けでした。 御翼の陰で 私は喜び歌います。
「喜び歌います」。彼は断言しました。喜び歌うということは、これは積極的な祈りです。課題には第一関門、第二関門があるでしょう。悪魔は、いまはこうだけれども、明日どうなるかわからないよ。そういってやってくる。それが一般的であるのかもしれませんが。それでも喜び歌うのです。「主よ感謝します」といって心から歌うこと。神様に喜び歌うことこそ、今私たちが私が為すべきことなのだと示されております。そのときに心に浮かんだのは、しばしばお話ししたネヘミヤ記のおことば「主を喜ぶことはあなたがたの力です」でした。そうだ、主を心から喜んで、いま与えられた神様からの恵みを「主よ感謝します」。その感謝、それは救われた感謝、贖いの恵みの感謝、永遠の命が与えられている感謝、もうさまざまな感謝がそのときにわいてきます。
「主を喜ぶことはあなた方の力です」
そうだ、思いっきり感謝し、神に賛美を捧げよう。このように皆さんとご一緒に歩ませていただきたいと思っているところでございます。
※画像は教会からお借りしています。
⛳5時52分更新
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