インマヌエル盛岡キリスト教会の2020年9月27(日)の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。
説教題 『平安-愛・恵み』(國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 エペソ6:21~24
6:21私の様子や、私が何をしているかを、あなたがたにも分ってもらうために、愛する兄弟、主にある忠実な奉仕者であるティキコがすべてを知らせます。 6:22ティキコをあなたがたのもとに遣わすのは、ほかでもなく、あなたがたが私たちの様子を知って、心に励ましを受けるためです。6:23信仰に伴う、平安と愛が、父なる神と主イエス・キリストから、兄弟たちにありますように。 6:24朽ちることのない愛をもって私たちの主イエス・キリストを愛する、すべての人とともに、恵みがありますように。
<説教>
基本的な流れとしてはエペソ人への手紙を連続的に学んでおります。ただ翌日を敬老の日として控えた日曜日には、一旦エペソ書を離れて別の角度からおことばを開きました。9月の最終聖日の今朝(9月30日)、またエペソ人への手紙に戻りますが、これがこの書の最終の学びでございます。連続講開というには不十分であるかもしれませんが、ともかく連続したエペソ書の学びはきょうまでとなります。振り返りますと、この連講はちょうどS兄が洗礼を受けた日から始まったことを思い、感慨を覚えております。
コロサイ書とエペソ書は、ほとんど同じような内容ですけれども、どちらかと言えばエペソ書の方ががっちりとした母なる手紙であります。そしてコロサイ書はその従たる書簡と私は位置づけております。エペソ書が主、コロサイ書が従である。両書簡を開けばひらくほどに、パウロという人物がまさしく聖霊に導かれて記した双子のような手紙であると実感しております。
地図挿入
地図をご覧いただきますと、パウロはローマの獄中で幽囚書簡或いは獄中書簡と呼ばれる手紙を書き、ほとんど同じ地域にあるエペソとコロサイに宛てて出したということになります。
エペソ人への手紙がどういう構成になっていたかもご確認ください。きょうの御用は皆様にもうひとたびエペソ書を振り返っていただくところに主眼がございます。
おおまかに1、2,3章と4、5、6章、そして正確にいうと6章の半ばからではある6章と、だいたいこのような区割りでエペソ書を学びました。特に前半では「坐す」ということ。それから後半では「歩む」ということ。そして、「立つ」というカギのことばでエペソ書をひも解きました。
「坐す」。クリスチャンの恵みと祝福を深く瞑想、黙想するために必要です。エペソ書の1~3章には、クリスチャンであるあなた方はこういう世界に生まれ変わっているんですよとあり、3章のいちばん最後のところに、「教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン」とお祈りがあります。あと4章、5章、6章とあるわけですけれども、悪魔の策略に対して神の武具をもってよろい、そして堅く立ちましょうという構成になっていることを確認いただけるだろうと思います。
先ず、前半「クリスチャンの恵みを深く思う」で、エペソ書の1章2節をご覧ください。
恵みと平安があなた方にありますように。
これはパウロ書簡のスタイル、いわばお手紙の締めくくりの定型句ですが、これを念頭に置いて、きょうのところ、エペソ6章の最後の部分23、24節をご覧いただきますと、
6:23信仰に伴う、平安と愛が、父なる神と主イエス・キリストから、兄弟たちにありますように。 6:24朽ちることのない愛をもって私たちの主イエス・キリストを愛する、すべての人とともに、恵みがありますように。
つまりエペソ書は、「恵みと平安があなたがたにありますように」。そして最後の方は、「平安と愛が、父なる神と主イエス・キリストから、兄弟たちにありますように」とあるように、すばらしいおことばで始まり、すばらしいおことばで締めくくられていることを私たちは知ることができます。ああそうだったと頷かれるかと思います。「平安」ということばを最後の学びのこのときに、またすこし形を変えて使わせていただきますけれども、神様からの恵み、平安、憐れみがあるのだということです。
さて、それはどういうことであるのか。ただ単にことばだけ、定型句であるというのではなく、どういうことなのか。これを1章のところから見ました。
1章のたとえば7節「7このキリストにあって、私たちはその血による贖い、その背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。8この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ、9みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました」と続いていきます。パウロが、さあ、あなた方はクリスチャンになったことを深く思うように、それはどういうことなのか、パウロが私たちに伝えたいのは次のことです。
イエス・キリストの十字架の事実。この十字架上のイエス・キリストこそが、ほふられた仔羊であるということ。血による贖い、背きの罪の赦し、この事実です。
神学院時代に河村襄先生が仰いました。「信仰から離れるなどということは考えられない。もしそうだとすれば、それは救われていないからに違いない。ほんとうにクリスチャンになり救われているということが何を意味しているかがわかったら信仰から離れるなんて凡そあり得ないことだ」。アーメンです。イエス・キリストの十字架に示された神の愛、罪の赦し、これが私たちの信仰の土台として、ほんとうに一人ひとりに打ち込まれていきますように、その通りだと確信していただければ幸いでございます。
なぜ十字架なのか。なぜ仔羊はほふられなければならないのか。キリスト教というと一般の方々はロマンティックなイメージがあるかもしれません。しかし血の贖いを知るクリスチャンたちは、私たちの主がいかに苦しみを受け、血を流し、そしてよみがえってくださったかを深く心にとめております。
創世記にございますが、アダムとイブが罪を犯したためにエデンから追放されるとき、神様は動物をほふり皮の衣を作ってふたりに着せました。エデンの園の何の罪もない動物を神ご自身がほふって血を流して、その動物の衣をアダムとエバに与えてくださった。これが私達イエス・キリストの十字架の血潮の原点であります。
またノアが大洪水のあと、壇の上で全焼のささげものを捧げたということ。血による贖い。そしてヘブル書9章22節には、「律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられ。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません」とあります。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。もしそうでなかったならば、神の御子が私たちのために人となっていのちを捨て、苦しみを受けられるそのようなことはなくてよかったはずなのです。血を流すことがなければ、これは本来私たちが神様から裁かれて、律法に適わない者として罪あるものと断ぜられて殺されなければならなかった。滅ぼされなければならなかった。この私たちの代わりに、何と御子イエス様が。この福音の大切なポイントを聖霊によって頷くことができる私たちであることは何と幸いなことでありましょうか。
第一ペテロにも、血の注ぎを受けるように選ばれた人たちと記されている幾つかを思い起こしていただいたい。私たちの背きの罪。それを正しい義なる神様はそのまま赦すことはできない。それは絶対的に裁かれなければならない。神の義は立たなければなりません。しかし神の愛が、どうしてもそこに現わされる必要がある。そこで御子イエス、神の御子を身代わりにされた。私たちの罪の身代わりに御子が死んでくださった。ここに、神の義と神の愛があらわされている。黙示録で「世の初めからほふられた仔羊」とイエス様をいっているのはそういうことです。イエス様は、世の初めからほふられた仔羊であります。
エペソ1章7節にあります「これは神のゆたかな恵みによることです」。ですので、エペソの手紙の最初の挨拶が「恵みと平安があなたがたにありますように」というこの、「恵み」がこれだけ深い意味を持っている。そして、これこそが御心の奥義、福音の奥義ということができます。

この「恵み」がどういうものであるのか。「信仰」がどういうものであるのか。この「恵み」は賜物です。イラストのこの手が「信仰」の手です。イエス・キリストの十字架の贖いの恵みを信仰の手をもって受け止める。「恵み」というのは、相応しくない者、価値のない者に無代価で与えられる神の賜物である。これは標準的な神学書に書かれてある「恵み」の定義です。相応しくない者、価値のない者、それは私達です。それは無代価で与えられる神の愛の賜物まさにキリストの十字架であります。
もう一度信仰とは何かを確認させていただきましょう。それは受け留める行為。そしてもう一つ握りしめる行為。自分の納得した信仰理解を一つご紹介します。
私は潔(きよ)めの信仰に立つということがなかなかできませんでした。聖会などに出かけては「主よ、すべてを捧げます」といって真心をこめてお祈りするのですが、潔められたという確信が来ない。真心こめて神の前にそう取引をしたつもりなんですが。ある先生に「だったらもうそのまま信仰に立ちなさい」と言われました。何とか自分の心を潔められたいし、その信仰を持ちたいと思っているので、「はい」と言って信仰に立ったのですが、今一つピンとこない。神学院に献身するには潔めの証しを書かねばなりません。林間聖会のとき、「すべてを主に捧げて潔めの信仰に立ちました」とそれを書いて提出しようとそのところまでいきました。入学試験が3月にあって、その年の1月に板橋教会のCS教師講習会に出席しました。インマヌエル以外の教会に行ったのはそれが初めてだったものですから。これが板橋教会だと思いながら見て、そこで1冊の本S.A.キーンの「信仰の盈満」を、初めて板橋教会に来た記念にと買って帰りました。
読んでみますと、「あなたはきよめの信仰を受けようとするときに、神様にすべてを捧げています。信じています。きよめてくださいと、いわばこういう待ちの姿勢をもっているのではないか、つまり、きよめの恵みを神様が私の懐にねじりこんでくださるのを待っている。それが何かピカッとする奇蹟だとか、そういう超自然的な何等かのものだという誤解を持っているのではないか。信仰というのは、神様が与えてくださるのをただ待っているだけではない、ありがとうございますといって手を出して握りしめることなのです」とありました。はたと気づきました。僕は確かに潔められることを待っていた。だけどそうじゃない、これだけ神様がすべてのものを準備してくださっているときに、どうして、ありがとうございますといって、こちらから手を出してそれを握りしめないのか。目からうろこが落ちました。ああ、そうだそうだ、そうだよな。握りしめる。心にストンと落ちました。この納得がありましたので、神学院の試験を受けるときに、とても大きな励ましになった記憶がいまもございます。
信仰とは何か、「さあここに救いがあります。これにつかまればあなたは助かりますよ」というときに、ぜんぶやってくださるのを待っているのではなく、ありがとうございますとつかめばいいのです。これが私達の神様と十字架の救いの信仰である、これを覚えていただければと思います。
エペソ書の前半1、2、3章、ここで私たちがクリスチャンとなるとはどういうことなのかを坐してしっかりと思うように。そして後後半4,5,6章はこれはもうひも解かせて頂いた部分ですが「歩みなさい」。柔和と寛容を尽くす歩み。寛容を示し、愛をもって耐え、互いに耐え忍ぶ信仰。歩みです。平和の絆で結ばれ御霊による一致、これが4章、いよいよ実践的な部分として、さあこのように相応しく歩みましょうと。
イエス様の謙遜と柔和の限りを尽くすとはどういうことか。イエス様は百卒長たちにも、或いは隣の強盗からも、お前が神の子ならそこから降りてみろ、そうしたら信じてやろうと嘲られました。十字架刑を控えてゲッセマネで血の汗を流すような苦しみをなさった。これがイエス様の謙遜と柔和であると先ずイメージしていただいたのならば、この方が、どういう在り方をしてくださったのか。私たちは、人間関係や或いはその他身の回り周辺に起こり来ることがらに、もう堪忍袋の緒が切れそうだが自分がクリスチャンなんだから、恵みに生きてるんだから頑張らなくちゃという忍耐力で、今にもつぶれそうでも我慢だ、忍耐しなさいということなんでしょうか。
そうではなく、ここにあのイエス様のあのゲッセマネで祈られ十字架の上で辱めを受けられたそのお方の忍耐力、わたしが一生懸命頑張るのではなく、そこにイエス様の忍耐、寛容、それはイエス様への信仰によるのです。信仰とは、私たちがしっかりそれを受け留め握りしめることでした。自分で頑張るのではなく、そこにイエス様を当てはめる。
國光幾代子先生のはなしですが、潔めあるいは信仰、潔めの信仰について「いいですか、数字で1と0を思い浮かべて、1というのは実体のあるもの。0というのは何にもない。クリスチャンにとって1がイエス様、そして何もない0が私です。そして実体のある1というものがあって、そのあとに何もない0というものが多ければ多いほどそれは価値のあるものになってくるのです。自分の虚しさ足りなさというものをしっかりと分かって、そこに実体なるイエス様と信仰をもって結びつくときに、もう限界だというような忍耐のところから、私たちはイエス様に代わっていただける」。このようなことも4章のところから学ばせていただきました。
エペソ4:3御霊による一致を熱心に保ちなさい。
これはすべての努力を傾けて御霊の一致を保つように。逆にいうと、逆を真とするならば、それほど私たちは弱いですから、一致というのが保ちにくい。でもそこにほんとうのキリストにある謙遜があるのならば。御霊の一致を保つためのあらゆる努力を払って、一致していきましょう。
そして、「歩みましょう」と5章に入りました。5章には「歩みなさい」ということばが幾つかありました。5章の2節「愛のうちに歩みなさい」、8節「光の子どもとして歩みなさい」、そしてガラテヤ書5章16節にも「御霊によって歩みなさい」とあります。愛のうちに歩みましょう。また光のうちに歩みましょう。御霊と共に歩みましょう。
これらのことをベースにして、エペソ5章の最後のところ、6章と見ていただきますと、これが三位一体の神様が父・御子・御霊がうるわしく統一し一致されている。それがホーリネスの美であるとするならば、それが家庭において、夫と妻との間に於いてもこの秩序に見るホーリネスというものが証しされていくものです。
こんど6章を見ると「子どもたちよ」というようなところに入っていきます。そこで心に留まりましたのは、4節「父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい」。これは連続講開の比重からいうのならば、ここにそれほどこだわるべきみことばではないように思ったのですが、ちょうど私はこのところを扱わせていただきましたときに、「怒り」という問題を意識しておりました。それで、全体の比重とは関係なく、この「怒り」という問題を取り上げてみようと導かれました。怒り、これは感情の制御の欠落、或いは、相手の人格否定であります。カインの怒り、或いはヨナの怒りでお話しさせていただいたところでした。怒り、これをどうコントロールし、コントロールできる恵みに成長するのか。それぞれに置かれている環境、状況は違います。
日常生活の中で祈らないとき、祈れないとき、こういう区別をしてみましょう。祈らないとき、或いは祈れないとき、それは鏡を見るときです。小さいことにイラッとしてしまうことがある。そのときに鏡を見る。それは実際に鏡を見るのではなく、「祈りという鏡」の前に今自分がどんな思いでいるのかをふっと立ち止まってみる。すると、そこにイラッとしている自分の顔が映るわけです。イラッとするときは、それが相手にも伝わる。すぐそこで調整をする。悔い改めます。その繰り返しで成長できます。
ですからいつでもそんな自分を鏡の前に見たときに、必ず鏡を見て祈る。その鏡の前で自分の今の心の在り方、それは、世の中の鏡では身だしなみでしょうけれども、「祈りという鏡」では、神と一緒に、神と共に歩もうとしている今、私はきちっとした姿で神の前にあるだろうか。このことを探られ悔い改めをお祈りしたり、或いはそこで、ほんとうに寛容さというものを当てはめる。ほんとうにこれは学科だと思うのです。
ティキコという、パウロにいちばん近くあった人物がいました。パウロは信頼するティキコに自分の手紙を託します。これをエペソの教会に、これをコロサイの教会に、これをピレモンさんにしっかりと渡すように頼んだのです。他の者たちは色々な理由はあるだろうけれども、パウロの傍からみな離れていってしまう。第二テモテ4章10~12節にありますが、しかし、ティキコはパウロに真実に仕えた人物であった。おそらく、パウロはけっこう気性が激しい人だったと思います。確信があるだけに。バルナバと大論争もしている。人には色々なタイプがあることをそこからも学ぶわけですが。そのすごいパウロに、ティキコは長く仕えて、他の人がパウロから去ってしまってもいつでもパウロの近くに居る。このティキコこそ潔められた人であると思われます。
クリスチャンの特権は、それはまず平安です。ヨハネの福音書14章27節に「わたしはあなたがたに平安を残します」とあります。エペソ書の最初の挨拶1章2節「恵みと平安があなたがたにありますように」の「平安」です。いつでもイエス様の平安が私達にある。それから愛。これは窮状にある人への同情、神の真実な愛。これは憐れみとまったく同じです。そして恵み。それは受けるのに値しない者への神のご厚意。どうか信仰に伴う愛と平安、そして、エペソ書のいちばん最後6章24節にある締め括りのおことば「主イエス・キリストを愛する、すべての人とともに、恵みがありますように」を皆さん方と一緒に確認をさせていただいて、この連続公開を締めくくらせていただきたいと、このように思っております。
※画像は教会からお借りしています。
⏰けさは7,543字。5時48分更新です。
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