きょうのことば
インマヌエル盛岡キリスト教会の2020年9月13(日)の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。
説教題 『忠実な奉仕者とは』(國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 エペソ書6:21~24
6:21私の様子や、私が何をしているかを、あなたがたにも分ってもらうために、愛する兄弟、主にある忠実な奉仕者であるティキコがすべてを知らせます。 6:22ティキコをあなたがたのもとに遣わすのは、ほかでもなく、あなたがたが私たちの様子を知って、心から励ましを受けるためです。
6:23信仰に伴う平安と愛が、父なる神と主イエス・キリストから、兄弟たちにありますように。 6:24朽ちることのない愛をもって私たちの主イエス・キリストを愛する、すべての人とともに、恵みがありますように。
<説教>
(前置き、前回の復習は割愛いたします)
きょうはエペソ6章21節からです。
エペソ書はパウロがローマの獄中で書いたお手紙です。
6:21私の様子や、私が何をしているかを、あなたがたにも分ってもらうために、愛する兄弟、主にある忠実な奉仕者であるティキコがすべてを知らせます。 6:22ティキコをあなたがたのもとに遣わすのは、ほかでもなく、あなたがたが私たちの様子を知って、心から励ましを受けるためです。
パウロがエペソに長く滞在し、エペソ教会を開拓したときのその仲間であるエペソの教会の人たちに、「今私は囚われ獄中生活を送っているけれども、あなたがたエペソの人たちがほんとうに心配してくれているので、私のこの状況を具に手紙に書きました。これを私のいちばん身近にいてよく知っているティキコに託します。どうかティキコから今の私の状況を聞き知って安心してください」と、こういうことであります。
このティキコにはもう一つ大切なお仕事がありました。それは、ピレモンという人のところにオネシモという人物がいたことがあるのですが、このオネシモがどろぼうをしてしまった。犯罪です。オネシモはピレモンのところから逃亡して、大都会であるローマに逃げこんでいたのです。いきさつは分かりませんが、オネニモはこのローマでパウロと出会います。彼はパウロによって明確に回心しました。オネシモがもうはっきりと悔い改めていることをピレモンに伝えてくれるように、パウロはこのこともティキコに頼んでいたのです。
その引証があります。
エペソ6章21節、そしてコロサイ4章7節
コロサイ4:7私の様子はすべて、愛する兄弟、忠実な奉仕者、主にあるティキコが、あなたがたに知らせます。4:8ティキコをあなたがたのもとに遣わすのは、ほかでもなく、あなたがたが私たちの様子を知って、心に励ましを受けるためです。 4:9また彼は、あなたがたの仲間の一人で、忠実な、愛する兄弟オネシモと一緒に行きます。この二人がこちらの様子をすべて知らせます。
「この二人がこちらのパウロのようすを知らせます」、と、こうなっている。いま申し上げたお話しと合致して、それこそ了解していただけるでしょう。
これがティキコという人物であり、エペソ書、それからコロサイ書にも記されてありますように、逃亡奴隷であったオネシモはすでに赦されているのだという大切なメッセージがあるとわかります。パウロは大切な任務をティキコに全面的な信頼を置いて委ねることができました。そして主にある忠実な奉仕者、こういう評価がティキコにもオネシモにも与えられております。
ティキコは聖書の中では決して目立つ存在ではない。神学生であっても、ティキコって誰? と思い巡らすほどあまり登場しない。ほんの小さな役割しかないのに、「主にある忠実な奉仕者」といわれるティキコ。ずっと長くパウロのいちばん近く仕え、パウロが信頼を置いていた奉仕者ティキコ。
私たちパウロというとすぐさま偉大な大使徒パウロ、ペテロも偉大な大使徒ペテロという概念です。往々にして偉大な誰々に着目しがちです。パウロにしてもペテロにしてもこれは否定的な意味ではなく、人であってみれば、さまざまな面があったでしょう。
私は公人としては牧師でありさまざまなお役目があります。しかし一個人でもある。一所に生活している家内は、私人としての私のすべてを知っているわけです。決して表と裏があるようにしているつもりはないのですけれども、たとえばどんな番組のテレビを見、どんな食べ物を好むか等など。偉大な使徒といっていますけれど、人パウロなのです。そこに個性、考え方の違いがあるかもしれない。さまざまな個性ある一人の人に長く信頼をおいて奉仕者として仕え続けるのは並大抵ではない。偉大であるとさえ思います。パウロ先生にもある意味公的な部分私的な部分がある。それらよく知っていて尚、これほどの信頼を奉仕者に抱かせるということは、これはほんとうに主イエスに忠実な人であったのだということを思います。主の前に忠実な奉仕者。これをもっと砕けた言い方で言うなら、居てもらいたいときにいつもそこに居る人。ひろ子先生は私と同じ神学校で同じ時期に学んで、同じ指導者に薫陶を受けておりますので、それをよく知っています。インマヌエルの初代総理蔦田二雄先生がよく仰った「あの兄弟は居てもらいたいなあというときには、振り返るといつも居てくれた」と。
國光良子、この人はひろ子先生の祖母にあたります。義理の娘である國光幾代子先生が献身したときのことをも知っている。國光家が信仰に導かれる第一歩となったのはこの良子からでした。このような事実からも、忠実なよい信仰の証人でした。この姉妹が、蔦田二雄という人のすべてをよく知る立場にありました。この人は、蔦田二雄先生はほんとうに神の器であることを知っています。それはもう間違いないのですが、また、パウロがそうであったように一私人でもあります。蔦田二雄という人の個性、リーダーシップ、あり様に、ついていくのが難しい場合もある。ひろ子先生が小さかったとき、「どうしておばあちゃんは蔦田先生がこれをする、あれをするというときに、賛成ではないことでもそれを賛成するの?」と訊いたことがあるそうです。すると返ってきた答えは「私は今回このことは賛成できない。けれども、神様が立ててくださった器がそうすると言っているのだから、私はその方針に従う」。
この答えはもろ刃の剣のように、いいことと悪いこととがありうる。絶対的なこととは思えません。聖書のことばではありません。しかし、皆さん方の判断材料の一つにはなります。プロジェクトについていけず反対し、離れていってしまう人たちがいるかもしれない。ただ蔦田先生が仰っていた「居てもらいたいと思うときに、いつでも居てくれる人」。これは凄い人だなと思うのです。ティキコはまさにそういう人物でした。
テモテ第二の手紙4章、これはパウロの殉教目前の遺書のような手紙です。テモテに対して書いています。
第二テモテ4:9あなたは、何とかして早く私のところに来てください。 4:10デマスは今の世を愛し、私を見捨ててテサロニケに行ってしまいました。また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマティヤに行きました。
つまり信頼していた弟子の何人かがパウロから離れてしまったというのです。
4:11ルカだけが私とともにいます。マルコを伴って、一緒に来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。
マルコを伴ってとありますが、パウロの第一次伝道旅行のときに、マルコは途中でもうパウロ先生にはついていけないと抜けてしまった人物です。マルコは、だいたい自分の叔父のバルナバがいたからこそパウロはこうやって神様の働きの第一線に就けたんじゃないか、それなのにバルナバおじさんを出し抜いてリーダーシップを執るとは! マルコはそんな思いだったでしょう。それでマルコは第一次伝道旅行から離れてしまった。それで第二次伝道旅行のときに、バルナバがマルコのあのときの離反をとりなして、こんどの第二次伝道旅行に是非一緒にマルコを連れて行きましょうと言ったところが、パウロは許さなかった。マルコは絶対に連れて行かないと大反対。結局マルコの扱いをめぐってパウロとバルナバは分裂してしまった。パウロの方がフォーカスがあたり、バルナバの方が光の舞台からすこし離れてしまった。そういういきさつを知っていればいるほど、パウロが晩年になってから、そのマルコを「どうか伴って一緒に来てほしい、マルコは私の務めのために役立っている」といっている。長い間に関係がすっかり修復されていたのです。よかったなあと思います。
それとともに12節に「わたしはティキコをエペソに遣わします」とある。先ほど話しましたティキコです。つまりティキコは居てもらいたいなあと思うときに、いつで居るんです。パウロも働きの方策をめぐって働き人達との困難にぶつかり、デマスは去っていき、クレスケンスも去っていき、あのテトスさえも去っていってしまった。「ルカは私と一緒にいる」とあります。このような中で、パウロはティキコにエペソへの手紙を託し、状況を報告してくれるよう頼んでいる。ティキコという人物はすごいなあと思います。
パウロのもとから去っていった人たちの理由も、ティキコはよく知っていたはずです。けれどもティキコは、パウロ先生のもとにある。それは人にではなく神に、イエス様のもとに仕えているからこそできるのです。そして、居てもらいたいときに、いつでもそのもとに居る人ティキコ。
エペソ書に返りましょう。
6:22ティキコをあなたがたのもとに遣わすのは、ほかでもなく、あなたがたが私たちの様子を知って、心から励ましを受けるためです。
これを潔めの信仰に生きていると言わずしてどう言うべきでしょうか。ほんとうに自分に死んでいるのです。これだけの人ですから、もっともっとフォーカスされ、表舞台に取り上げられて当然の人物なのですが、すこしも自分が重んじられるようなことは求めず、主の働きのために、いつでもパウロの近くにいて、大切な仕事を黙々と担っていく。これは潔めの信仰のある人でなければあり得ない。そういう人物である、そういうことも含めながら、エペソ6章21、22節を、あまり聖書に出てこないティキコという人物に、きょうはフォーカスを当てて、皆様と一緒に、ティキコへの新たな認識と感謝、尊敬をもって皆さまがたとエペソ6:21,22を読ませていただきましょう。
6:21私の様子や、私が何をしているかを、あなたがたにも分ってもらうために、愛する兄弟、主にある忠実な奉仕者であるティキコがすべてを知らせます。 6:22ティキコをあなたがたのもとに遣わすのは、ほかでもなく、あなたがたが私たちの様子を知って、心から励ましを受けるためです。
私たちもどうぞティキコとなりますように。
※画像は教会からお借りしています。
⛳6時14分更新
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