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きょうのことば

インマヌエル盛岡キリスト教会2020年8月2()のメッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『神の約束』(國光勝美牧師)
聖書個所 旧約聖書 創世記281022

10 ヤコブはベエル・シェバを出て、ハランへと向かった。
11 彼はある場所にたどり着き、そこで一夜を明かすことにした。ちょうど日が沈んだからである。彼はその場所で石を取って枕にし、その場所で横になった。
12 すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。
13 そして、見よ、主がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。
14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地上のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。
15 見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。
16 ヤコブは眠りからさめて、言った。「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」
17 彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」
18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを立てて石の柱とし、柱の頭に油を注いだ。

19 そして、その場所の名をベテルと呼んだ。その町の名は、もともとは、ルズであった。
20 ヤコブは請願を立てた。「神が私とともにおられて、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る着物を下さり、
21 無事に父の家に帰らせてくださるなら、主は私の神となり、
22 石の柱として立てたこの石は神の家となります。私は、すべてあなたが私に下さる十分一を必ずあなたに献げます。」

 

<説教>

  ついに岩手にも新型コロナの感染者が出ました。フェイスシールドの準備もいたしましたが、皆様との距離がありますので、きょうはマスクだけでご用を致します。 

 きょうは「神様の約束」ということに焦点を合わせたいと思っております。

創世記28章15節に「見よ」とあります。「見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」

 そして、創世記281012節をご覧いただきますと、これが何を意味するかがわかると思います。神様は約束して下さいます。しかも、神様がご自身にかけて約束してくださる。何々にかけてというとき、自分より力ある者の存在にかけて約束すれば、その約束は強められるわけですが、神様の場合には、自分より上の方はいないわけですから、神様はご自分の威信にかけて誓われます。神様のアブラハムの生涯への誓いを見ていただきましょう。創世記の1212節です。

1 主はアブラム(アブラハムの改名以前の呼び名)に言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。3 わたしはあなたを祝福する者を祝福し、あなたをのろう者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。

 これは神様のアブラハムに対する力強い約束であります。

 もう一つ、神様が誓われたことがあります。アブラハムはなかなか子どもに恵まれず待ちに待って与えられたのがイサクでした。神様はこのイサクを神に捧げよと命じます。アブラハムは全幅の信頼を神に置いて最愛の息子を神様の前に捧げました。創世記221518節にあります。
主の使いは再び天からアブラハムを呼んで、16こう言われた。「わたしは自分にかけて誓うー主のことばー。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、17確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。18あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」

 神様は、ご自分のお名前にかけて誓ってアブラハムを祝してくださった。そのアブラハムと同じ祝福を神様はヤコブにも誓われています。創世記281315節。13 そして、見よ、主がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。
14
あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地上のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。
15
見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」。

そしてこの神様のおことばにヤコブは

16 ヤコブは眠りからさめて、言った。「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」
17
彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」
18節 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを立てて石の柱とし、柱の頭に油を注いだ。
19 そして、その場所の名をベテルと呼んだ。その町の名は、もともとは、ルズであった。
20
ヤコブは請願を立てた。「神が私とともにおられて、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る着物を下さり、
21
無事に父の家に帰らせてくださるなら、主は私の神となり、
22
石の柱として立てたこの石は神の家となります。私は、すべてあなたが私に下さる十分一を必ずあなたに献げます。」

 このようにヤコブは神様に請願を立てて祈りました。

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 みなさんは2022節のヤコブの請願をどう思われますか。神様がヤコブに、「あなたをこのようにする、自分にかけて誓ってあなたを祝福する」と仰った約束の内容をタテに取って、ヤコブは神様に「もしあなたがそうしてくださるんならば私はあなたを私の神としますよ」とこういう言い方をしている。私はつくづくヤコブを嫌な男だなあと思いました。これほど神様がねんごろに語りかけてくださるのに、ヤコブは「もしほんとうに神様が私と共におられて、ほんとうにこの旅路を守って、もしほんとうに食べるパンと着物をくださり、ほんとうに父の家に帰らせてくださるなら、主は私の神となりますよ」とこう応えている。何ということでしょう。そして「石の柱として立てたこの石は神の家となる、ベテルとなる」と。嫌な男だなあと思いました。

 しかし、ここで嫌な男だと終わってはいられません。実はここは、翻訳者たちがいろいろと配慮しているところでもあるのです。どういうことかというと、多くの聖書はこのように、「もし神が共にお居られてこれこれの祝福をしてくださるならば、私はあなたを神とし、このようにあなたに誓いを果たします」を条件と理解し訳されています。ところが、これは必ずしもそのように訳すというところでもない。条件文として訳さなくてもいい。むしろ以下のように翻訳する人、理解する人もいます。つまり1315節のような神様の素晴らしい約束を受けたヤコブが、「そうですよねっ神様、あなたそうやって私に約束してくださったんですから、してくださらないではなくて、そうしてくださるんだから、だから、わたしはもうそのようにしますよ」と、既に神様のお約束はヤコブの中では成就している。「だから神様あなたにわたしはあなたを神とし、十分の一を捧げます」、そういう訳であってもいいのだというのです。

 今私たちは新改訳聖書2017訳を使っていますが、ここにこの教会が建てられたときに記念として買った30年近く前の新改訳聖書がありますので読んでみます。

創世記282022節です。

20 それからヤコブは請願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、私に食べるパンと着る着物を賜り、21私が無事に父の家に帰ることができ、主が私の神となってくださるので、22 私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。」とこう書いてあるのです。同じ新改訳でも違います。恐らくこれが新改訳のはじめの方なので、版が変わるごとに聖書学者たちが考え祈りながら修正していったかと思われます。多くの聖書が、「もしこうしてくださるならば」という条件で訳されております。しかし、今お読みしました新改訳の学者はどういう意図であったかというと、「もう神様のお約束は確かだから、だからもうこれは成就したものとして何々してくださるので」というような翻訳をしてもこれは間違いじゃないし、そう理解できると、そちらの方の解釈を取ったのでしょう。現在私たちはほとんどの聖書がそうであるように、「もしあなたがそうして下さるのならば」というように理解をしています。私は最初、ヤコブという人物を嫌な男だなあと思いました。しかし、神様はこのようなヤコブを祝福して下さっている。ここに福音の恵みというものがあるのではないか。ヤコブは極めて打算的で貪欲です。そして神様に条件のような提示をする。聖なる条件闘争とでもいいましょうか。「神様がほんとうにこうして下さるなら、あなたを私の神様としますよ」。これが神様への応答です。神様の祝福を受けるまでしがみつく。「あなたを去らせないぞ、祝福してくださらなければ」、これがヤコブです。

 ペニエルのあの経験、ヤコブは旅でハランまで行って、そこでやはりうまいこと言ってだまして、自分だけがすごく豊かになる。豊かになりすぎて、このハランの親族たちから恨まれ、こんどはまた義理のお父さんの所から逃げるようにして帰ってくる。彼はやっぱり嫌な男なのです。自分の打算で行動している。お兄さんのところに帰りたいものの、ひどいことをしているから殺されてしまうかもしれない。ヤボクという川を渡るといよいよ作戦に出ます。自分は列のしんがりにつきました。その時になってヤコブは神様から扱いを受けたのです。神様に扱われて神様と相撲をとったという言い方になりますが。神様と勝負になり、もう夜が明けるというときに神様はヤコブの腿のつがいを打った。ヤコブはもう歩けなくなってしまう。そうなるまでヤコブは「絶対あなたを離さないぞ」と、神の祝福を受けるまで我武者羅に知恵を駆使し画策して、何とかしようとする。

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 どうしてこのようなヤコブを神様は祝福してくださるのでしょうか。このヤコブと対照的なのがお兄さんのエソウです。エソウは双子の弟のヤコブが神様の祝福を必死になって得ようとしているときに「ああ長子の権、そんなことよりもいまお腹がペコペコなんだよ。そのおいしそうな一杯の煮物を」といってエソウはあっさりと1杯の煮物のために神様の祝福を放棄してしまう。創世記252934節にあります。

いわば神様の約束、或いは神様の祝福という事に対してエソウは淡泊。「神様の祝福? どうでも。あればいいけれども、なくたってそんなに」。ところがヤコブはそれとは違う。得るまでは離さない。だましてもいいというほどの意識です。

 さて皆さんはどっちに属しているタイプでしょうか。神様の約束に真剣になれる人、或いは神様の約束、祝福というものに対して真剣になれない人、こういう区別もできるでしょうか。そのように考えますと、イエス様のお話しの中で、「バプテスマのヨハネから今日に至るまで、天国は激しく攻められています。そして激しく責める者たちがそれを奪い取っています、というマタイ11章が思い出されます。激しく攻められている。激しく攻める者たちがそれを奪い取っている。マタイの1112節にあります。

 そうです。神様の祝福を受けるには、ほんとうに激しく攻める。淡泊であってはいけない。こういうことを思い巡らしますと、もう一つの面白いたとえばなしがあります。あまり仕事に熱心ではない裁判官のはなしです。

 あるやもめの女が面倒な訴訟問題を持ち込んできました。裁判官は何の面白い事件でもないので適当にあしらっていた。ところが断っても断ってもやもめはどうか正しく裁いてくれといって真剣に食い下がってやめない。夜昼やってきてもううるさくて仕方がない。注解には「目の下に隈ができる」とあるのですが、柔らかいものが当たってもそう隈にはなりませんが、しかし打ち続けられていれば隈ができてしまいます。そのような言葉が使われている。貪欲なまでに、何としても真剣に神様に訴えるということにおいて、ヤコブはそういう人でした。しかしエソウは神様の祝福のことにかけて淡泊だった。神様が本当に喜ばれる人とはどういう人なのか。真剣にお祈りをする。必死になってお祈りをする。

 ラオデキヤ的人と書きましたが、黙示録をお開きください。聖書のいちばん最後のところです。これは黙示録3章の後半部分ですが、このヨハネ黙示録23章というところは、この地上における教会について、その時代的に見るのもよいのでしょうが、7つの教会の特色をそれぞれ、エペソの教会、スミルナの教会、ペルガモの教会等など7つあげられておりますが、7つの教会のいちばん最後にラオデキヤの教会が出てきます。このラオデキヤの教会が黙示録314節、これイエス様が、ラオデキヤの教会の人たちにこう書き送りなさいと仰ったものです。

14 また、ラオディキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、確かで真実な証人、神による創造の源である方がこう言われる。
15
「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか、熱いかであってほしい。
16
そように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。

 ヤコブは一般の人間的な目から見れば嫌な奴です。しかし彼は一旦神様の祝福を求めようとなると、とにかく熱くなる。それが神様に愛され祝福される理由でしょう。そういった意味で私はヤコブになりたい。本気になって神様のお約束の言葉を握りしめて、神様、あなたはこう仰ったではありませんかと、お約束の言葉を握りしめて何回も何回も祈り続ける、そのことを神様はお喜びになる。

 お話しを締めくくらせていただきますが、

 このメッセージの一つのきっかけになったのは、先ごろのズーム聖会でひろ子先生が自分の証しをしたとき、「ねえ、神様、私はあなたにこう言いましたよね」こう祈っていましたよね」と話しておりましたが、これを聞きながら、これだなと思いました。ヤコブはこれを持っていました。

 創世記は一旦これで締めくくらせていただきますが、どうぞ、神様のお約束をしっかりと握りしめるヤコブのような信仰生活、クリスチャン信仰生活を送らせていただこうではありませんか。

※イラストは教会からお借りしています。

⛳7時ジャスト更新

 

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