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きょうのことば

 インマヌエル盛岡キリスト教会2020年8月23()のメッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『堅く立とう』(國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 エペソ書6:1020

10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。14そして、堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、15 足には平和の福音の備えをはきなさい。16 これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。17 救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。18あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。19 また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。20 私はこの福音のために、鎖につながれながらも使節の務めを果たしています。宣べ伝える際、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。

 

<説教>

(前回の復習は割愛いたします)

 先週、ガラテヤ書の21920節のおことばを信仰を持って自分に当てはめるということをお話ししました。これを実際に適用するには具体的にどうしたらいいのだろうか。このことをずっと思い巡らしておりました。
 クリスチャンであってみれば、信仰は大切、信仰によって生きているということは当然です。
 ここで、信仰と不信仰、信じられればよいのですが、信じることができないという場合があり得る。この実際問題に、信仰をどのように適用していったらいいのか。水曜の祈祷会で、「信仰と不信仰の狭間」について語らせていただきました。マルコの福音書922~24節に示唆があります。これをエペソ人への手紙の学びの助けにしたいと導かれております。

9:22霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」 9:23イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」 9:24するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」

 これがどのような場面であったのか、理解のためにマルコの福音書9章のポイントだけをお話ししますと、イエス様が十字架につけられる前に「あなたがたは、わたしを誰だと言いますか」(マタイ1615)という非常にきわどい質問をお弟子さんたちに投げかけられました。そのときペテロがお弟子さんたちを代表して、「あなたは生ける神の子キリストです」(マタイ1616)と告白をいたします。マルコの福音書9章にありますが、その後イエス様は、ヘルモン山という、これは都エルサレムから遠く離れたガリラヤ湖のもっと北の方にある夏でも雪を戴くような高い山ですけれども、その山、変貌山ともいわれるこの山に、イエス様は、3人のお弟子さんたち、所謂ビッグ3といわれるペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて登られます。そのときにイエス様の御姿が変わった。衣が真っ白に輝いた。そして天から「これはわたしの愛する子、彼の言うことを聞け」という声がしました。イエス様のご生涯にとっても一つのピークとなる大きなできごとです。

 そのとき、他のお弟子さんたちは山麓にいたのですが、実はそこで困った問題が起きていました。麓にいた弟子たちのところに、悪霊に憑かれた息子を連れて来た人がいた。弟子たちに、どうか息子にとりついた悪霊を追い出してくださいと願ったが、弟子たちにはできなかった。息子は泡を吹いて歯ぎしりし、からだをこわばらせています。何とかイエス様に癒してもらいたいとやってきたのですが、あいにくその時はおられなかった。お弟子さんたちではダメだった。ちょうどそこにイエス様が降りて来られたのでした。マルコの福音書920節から読んでみましょう。

9:20そこで、人々はその子をイエスのところに連れて来た。イエスを見ると、霊がすぐ彼にひきつけを起こさせたので、彼は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回った。 9:21イエスは父親にお尋ねになった。「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか」。父親は答えた。「幼い時からです。 9:22霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」 9:23イエスは言われた。「できるなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」 9:24するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」

 この後の結末は、見事にこの子どもの病は癒され、悪霊が追い出されました。こういうできごとであります。
このお父さんとイエス様との会話、これはまさに私たちが今直面している現実の課題であるように思うのです。
 ここに父親が「おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください」と。それに対してイエス様は言われた。「できるなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」。そしてお父さんは「信じます。不信仰な私をお助けください」。
 私は、私自身の信仰とこの父親の信仰とが二重写しのように思われ、自分もほんとうにこのお父さんのような者であると思いました。このお父さんを、イエス様はどのように扱われるのか。

 この場面を、私は次のように分析してみました。
お父さんは「その子をわたしのところに連れて来なさい」とイエス様から言われたときに、「信じます。不信仰な私をお助け下さい」と心から叫びます。不信仰な私、これは罪ある私です。神を信じない、これが罪であり不信仰です。罪の本質は神様に対する反逆といえますが、しかし、このときのお父さんは、神様を信じたくない、だから信じない、だったのでしょうか。そうではないと思いました。これはむしろ人間の持っている弱さ、脆弱さのゆえなのです。イエス様が近づかれた途端に、できたら私を救ってください、でも不信仰な私をお助け下さい、と嘆願している。これはお父さんの罪というよりも人間の弱さからくる、そういうものではないだろうか。不信仰は、罪の本質からなのか、それとも、この不信仰は人間の弱さからなのか。罪の本質、それは不信仰ですけれども、それはサタン的な疑惑とは違います。どうせ神様なんか信じたって駄目なんだとサタンは思わせる。どうせ神様を信じたって駄目なんだ、これが否定的な不信仰なんです。このお父さんの場合、お父さんがそうだとは私は決して思わない。お父さんはイエス様のところに行って何とかしてもらいたかったわけですから。
 もう一つ、これは、人間の未熟さからくる疑惑。いままでの自分たちの経験とか、世間の一般的な常識などから見て、わー、これはいくらイエス様でもさすがダメだろうな、でも治してもらいたいなという人間の持っている弱さからくる疑惑。この二つに分けて考えてみたらどうでしょう。
 さて私はどっちだったんだろう。どうせ神様なんか信じたってダメなんだという罪からくる不信仰だったら、それは信仰者ではありません。しかし、信じたいけれども、信じ切れない弱さ。不信仰というものをこのようなパターンで考えてみたらどうでしょう。

不信仰が罪から来る、どうせ神様なんかという心がどこかにあったのならば、それはほんとうに潔められなければならない。これは、イエス様の十字架の血潮によって、どうせ神様なんかという神様を信じきれないところの、神様のご誠実さを疑ってしまうようなそれは、ほんとうに罪の性質ですから、この罪の性質を潔めていただかなければならない。しかし人間の弱さからくる、或いは未熟さからくる疑念だったのならば、それは成長していく中で、神を信じるということができるようになってくる。そういうプロセスを私はこの表で表そうとしているのです。

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 マルコの福音書923節。「信じる者には、どんなことでもできるのです。」

 この「信じる」というときに、これは、イエス様が持っておられるような信仰です。イエス様が持っておられる信仰を持ちなさい。イエス様が父なる神に対して持っておられる心からの信頼と愛をもって信じるそのイエス様の信仰。そのイエス様が持っておられる信仰をどうか私のものにさせてください。
 往々にしてありがちなちっぽけな信仰ではなく、そうではなく、イエス様が父なる神様に持っておられる信頼と愛に満ちた、どうかそのような信仰を私の信仰とさせてください。「この神を信じなさい」というところの微妙な違い、この区別、いわんとするところをわかっていただけるでしょうか。私が一生懸命頑張って信じるというのではなく、イエス様が持っておられる父なる神様に持っておられるその信頼、信仰がどうか私のものとなりますように、これが、神を信じるということの意味であると、私は理解をさせておただきました。

 そして、これらの事を前提としてエペソ人への手紙6章10節からのところとなります。

エペソ人への手紙6章10節「10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。」、これはキリストご自身の信仰によって強められなさい、パウロはそのように言っているのです。「主にあって、その大能の力によって強められなさい。」、キリストご自身の信仰によってどうか強められなさい。そして「11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」

 悪魔の誘惑のいちばんの例がマタイの福音書4章にあります。イエス様が悪魔の誘惑を受けた箇所です。これが悪魔の策略。「もしあなたがほんとうに神の子だったら」、「どうして世の中にこんな不公平な貧富の差があるんだ」、「平等な食料の分配、パンの問題さえ解決していない」、「あなたがもし神の子だったら神の子らしく奇蹟を示してご自身を表したらどうだろう」、或いは、サタンは、「どうだい、私はこんな力を持っているから私を神としたらどうか」。イエス様に対して悪魔は最もらしい誘惑をもってきます。イエス様さえも、このように悪魔の熾烈な誘惑を受けたのであります。誘惑をうけるということは決して罪ではありません。イエス様も誘惑に直面されそして悩まれたのです。そこがすばらしいところなんです。イエス様は私たちの弱さをようくご存知で、そしてこの悪魔の誘惑にしっかりと立って、神の剣をもって、要するに神の武具を身に着けて戦うようにとある。イエス様ご自身も、聖書にはこのように書いてある、聖書にはこのように書いてあるといって、悪魔の誘惑に勝を得られたわけです。どうか私達もエペソの6章11節「 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」。また13節「ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい」

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 締めくくります。先ずしっかりと「堅く立ちましょう」。堅く、しっかりと立とうではありませんか。信仰生活の中で、どうかこの筋力を、先ず立ち上がる、先ず立つ。この筋力を、信仰の力を取らせていただきましょう。腰には真理の帯を、胸には正義の胸当て、足には平和の福音、信仰の盾、悪魔の火矢を打ち消すことができるように。救いのかぶと、そして御霊の剣を身に帯びましょう。

※画像は教会からお借りしています。

⏰5時48分更新


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