インマヌエル盛岡キリスト教会2020年8月2(日)のメッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。
説教題 『聖なる秩序の美』(國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 エペソ書5:29~6:9
5:29いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろ、それを養い育てます。キリストも教会に対してそのようになさるのです。 5:30私たちはキリストのからだの部分だからです。 5:31「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」 5:32この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。 5:33それはそれとして、あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。妻もまた、自分の夫を敬いなさい。6:1子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。 6:2「あなたの父と母を敬え。」これは約束を伴う第一の戒めです。 6:3「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。 6:4父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。6:5奴隷たちよ。キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。 6:6ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、キリストのしもべとして心から神のみこころを行ない、 6:7人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。 6:8奴隷であっても自由人であっても、良いことを行えば、それぞれ主からその報いを受けることを、あなたがたは知っています。 6:9主人たちよ。あなたがたも奴隷に対して同じようにしなさい。脅すことはやめなさい。あなたがたは、彼らの主、またあなた方の主が天におられ、主は人を差別なさらないことを知っているのです。
<説教>
エペソ人の手紙、学びが5,6章と進んでおりますが、エペソ人への手紙は次のように分けることができます。

前半が1~3章。後半が4~6章。ただ後半の方は5,6章をまたぐ部分はあります。パウロの手紙はいつもそうですが、前半部分と後半部分は連関しており、まず前半を書いてそれを前提として後半を書いています。
さてここで「坐す」という視点で1~3章を見ます。パウロは前半部分で神様の前に深く坐して自分たちクリスチャンは、どういうものであるのかを思い巡らしていることがわかります。たとえばエペソ書1章4節「1:4神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです」、ここにいったい私たちはどういう者なのかが書かれている。そしてパウロは16節で「1:16祈るときは、あなたがたのことを思い、絶えず感謝しています」と言っている。「 1:17どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。 1:18また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、 1:19また、神の大能の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように」とパウロは神様の前に、自分たちが一体どういう者であるのか、救われているとはどういうことなのかを教え祈っています。
それから2章にいきますと、「2:1あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり」と書き、けれども罪と汚れの中に死んでいた私たちは憐れみを受けてキリストと共によみがえらせられ、ここで6節「2:6キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上にすわらせてくださいました」、もう座る所、天の居所までも確保してくださっている、救いとはそういうものなのだ、クリスチャンになるということはこういうことなのだと言っています。
そして3章の方では1節「3:1こういうわけで、あなたがた異邦人のために、私パウロはキリスト・イエスの囚人となっています」。この福音を伝えたために私は囚人になったというのです。それは4節「3:4それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよく分かるはずです。 3:5この奥義は、前の時代には、今のように人の子らに知らされていませんでしたが、今は御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されています。3:6それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人となり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者となるということです」。ここにキリストの救いはユダヤ人だけの救いじゃない。このキリストの救いは全世界の異邦人にも隔てなく提供されるものなのだとあるのです。これは画期的なことでした。11節「3:11私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた、永遠のご計画によるものです。 3:12私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます」。私たちはこの奥義を知らされているのです。
3章の締めくくりへと行きましょう。14節「3:14こういうわけで、私は膝をかがめて、 3:15天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります」。パウロはこう言って、ここで祈っているのです。どうか私の伝えている福音があなたがたに正しく伝わりますように。19節「3:19人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。3:20どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに越えて行うことのできる方に、 3:21教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。」
これで1章、2章、3章の意味がわかります。彼は坐して私たちクリスチャンたちはこういう救いの中にあるのですよ、いいですね。このところが前提となって、こんどは4章、5章、だから私たちはこのように歩みましょう。これが4章になるわけです。
つまり、4章1節、「4:1さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい」。17節「4:17主にあって厳かに勧めます。あなたがたはもはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません」。「4:30神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです」。だから、正しく歩みましょう。
そして5章に入ります。1節「5:1ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。 5:2また、愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを献げてくださいました」
「5:8光の子どもとして歩みなさい」。「5:15知恵のない者としてではなく、知恵のある者として」「5:20すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい」。
このように極めて実践的にパウロは、どうかこのような実際生活を送ってくださいと祈っています。
4章、5章、そして6章の前半では、このようにどうか異邦人の中にあって私たちは光の子、細心の注意を払って歩みましょうとあります。そして6章10節でパウロは「6:10終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。 6:11悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい」とあり、このところのキーワードは「固くしっかり立ちなさい」。このようにエペソの前半の方はどうか神の前に坐しましょう、そして4章、5章のところは、このようにどうか異邦人の中にあって私たちは光の子、細心の注意を払って歩みましょう。そして終わりに言います。どうか、神の前にしっかりと、悪魔の策略に対して立つことが出来るようにすべての武具を身に着けて、救いの兜をかぶって、しっかり立ちなさい。こういっている。これで大きくエペソ人への手紙を把握することが出来ると思います。復習になりますけれども、クリスチャンの恵みということをどうか坐して深く思いますように。そして私たちクリスチャンたちの生活を見直しましょう。パウロは、頭で思っていながら実際とは離れている、そんなあり様を決して認めてはいません。深く思ったのならば、クリスチャンならば、このように歩みましょう。そして悪魔の策略に対し、この世に対してしっかり立つように。
この神に倣うものとなりなさい。それから愛の内を歩みなさい。あなた方はキリストの十字架の贖いの恵みの中にあるのでしょう。だから世の中の人たちの淫らないい加減なそういった者たちの仲間になるのではなく、光の子どもとして光の道をしっかり歩むように。
この5章8節今は主にあって光のようになりました。光の子どもとして歩みなさい。そして、自分がどのように歩んでいるか、あなた方は細かく注意を払いなさい。ぜんぶこれはキリストの贖いというものを前提としてだから、このようにしましょうねというこの流れのなかで、たとえば前回の学びの中で、「5:18節ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい」「5:19詩と讃美と霊との歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から讃美し、歌いなさい」「5:20父である神に感謝しなさい」。そしてそのあとに「5:22妻たちよ、主に従うように、自分の夫に従いなさい」「5:25夫たちよ」と。この夫婦、お互いが愛し、お互い尊敬し、仕え合うように、これはぜんぶキリストの贖いという裏打ちがあってのことです。

これは封建的な解釈とは全く違う。秩序に見る美しさ、それは三位一体の父、子、御霊が、それぞれの信頼関係で、お互いそれぞれの人格を認めて、それぞれ父・子・御霊という秩序の中で麗しく一致している。この三位一体の神の愛というものに裏付けられた夫と妻、これが家庭のいちばん基本的なものであり中核であることを心に留めましょう。互いに従い、互いに尊敬する、これは、実際生活、私たちが家庭生活を営んでいるときに、ただこうであったらいいなあという理想像が言われるだけでなく、このことにほんとうにアーメンと肯けること。なされるそれが三位一体の神、愛なる神様、その恵みによる形における家庭であり、夫と妻である。どうかほんとうに世の中的な価値観が大勢でありますときに、私たちクリスチャンが、どうかこの聖書に基づいた価値観に立ちたいと思いますし、そして最後に、砕かれた心というものを大切な実際的なものとして指摘をさせていただきます。いつでも神の前に砕かれる。砕かれた悔いた魂、それを神は決して辱めたもうことはありません。
6章に入りますと、子どもたちよ、あなたの父母を敬えというところ、そして父たちよ自分の子どもたちを怒らせてはいけない。また繰り返しますが、奴隷たちよ、ともあります。ここに出てくる奴隷、奴隷制度によって成り立っているローマ帝国の奴隷、ガレー船で櫓をこぎ、鎖で足を繋がれてローマの軍艦の労働力として使い捨てされる奴隷のイメージがある。しかし、奴隷が主人の子どもを鞭打って叱ることも許されていた。それは教育のための奴隷であり、そしてまた、然るべき代価を払えば、お風呂にも一般の人たちと一緒にはいることもできたといいます。奴隷がいなければ国が成り立たないという時代ですので、どうぞ単純に間違った奴隷のイメージを持たないように。
さてきょう心に留めたい6章1節「子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。6:2「あなたの父と母を敬え。」これは約束を伴う第一の戒めです。6:3「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です」
これは何を下敷きにしているかというと、是非これは覚えておいていただきたい。出エジプト記20章。そして十戒の章はといったらこれはもう反射的に出エジプト20章であります。十戒の章です。神様がモーセにシナイ山で与えてくださった律法中で20章12節「12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられるその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである」から出ており、約束を伴うとは、この「主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである」に言及しているのです。
ここでエペソの6章にお帰りください。パウロはここで自分の意見をいっているのではない。聖書に則って、「子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。6:2「あなたの父と母を敬え」。その後、私は今回のメッセージの備えをさせていただくときに、この4節のことばが非常に心に留まったのです。
きょうはあまりそれは展開できませんが、4節「6:4父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい」。子どもたちを怒らせてはならない、この怒りということ、怒りというのは私たち人間みな感情を持っています。その中で、怒りをきちっとコントロールする、これはとても大切な要素なのだ。
予告編のような形ですが、カインという人物。人類初めて人間が初めて人を殺した。カインとアベルを思い起こしていただきたい。ここに怒りがあります。それから聖書の中で怒りということで直ぐに心に留まったのがヨナという預言者がおります。ヨナの、魚に飲み込まれて吐き出されてというヨナ。ヨナもよく怒った。自分の思い通りにならないと怒って神様の命令になんか従わないと言って逃げ出そうとする。ようやく助け出されて悔い改めて、そしてニネベの国に行って福音を伝えて、悔い改めさせるのですが、こんな悪い人間は滅んでしまえばいいと思っていたそのニネベの国の人たちが、ほんとうに悔い改めて神様の怒りがそこにくだらなくなったときに、おもしろくない、あんなニネベなんか滅びればいいのに、面白くないと言ってヨナはまたダダをこねる。
このようなふっと思っただけでも、怒りという問題、感情、これはけっこう真剣にクリスチャン信仰を生きて行こうとする時に感情をコントロールすることは、非常に大切なことです。この怒りというのは、人格の未熟、或いは、歪み、こういう表現ができると思います。感情をコントロールする、そういう力が欠けている、そして、相手の人格を否定してしまう。だから、子どもを怒らせるというときに、子どもの人格を否定してしまう。あなたのような人は、と人格を否定する、これは怒りというものの持っている要素です。夫婦の間でも、それこそ人間関係の間で、人格を否定してしまう、それが他の人に向けられる場合には、喧嘩になるでしょう。また感情のコントロールができないで、こんどは自分の人格を否定してしまう。ああ私のようなものはダメだ。生きている意味がないとか、このようにして自分自身の人格を否定してしまうというようなことも、これは怒りの為すわざです。私はここでまたきよめという問題を挙げます。この怒りの問題を解決するのは何か、そのヒントが次のみことばです。
私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
いま私が、肉において生きている命は、私を愛し私のためにご自分を与えてくださった神の御子に対する信仰にあるのです。
ガラテヤ人への手紙2:19-20
この怒りの問題、感情の問題、これが家庭の中にあっても大きく影響することであります。どうぞこのきよめの成長過程、ああ今自分はこういうところを通らされているんだ、砕かれやすい心をもって、ああ、自分は今こういう恵みの中に生きているのだということを再確認して、きよめの道を歩みゆきたく思います。
来週はまたこのところをテーマに進ませていただきたいというふうに思っております。
※画像は教会からお借りしています。
⏰5時21分更新
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