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2020年8月

200831 クラシック倶楽部を聴く 原田幸一郎と仲間たちの室内楽

バイオリニストの原田幸一郎を中心に、門下生や盟友が集ったコンサートから。教育者としても名高い原田幸一郎(バイオリン)、原田の門下生で国際コンクールで優勝した神谷美千子(バイオリン)と神尾真由子(バイオリン)、原田と共に東京クヮルテットを結成した磯村和英(ビオラ)、原田の盟友毛利伯郎(チェロ)、強い結びつきを持つ仲間たちとの白熱の演奏をお送りする。2017年7月14日 紀尾井ホールで収録。―番組紹介よりー

【出演】原田幸一郎,神谷美千子,神尾真由子,磯村和英,毛利伯郎,ミロスラフ・クルティシェフ

🎵紹介に「白熱の演奏」とあったが、フランクの「ピアノ五重奏曲」、ドラマティックであり勇壮である中に嘆きも語らい焦燥もあり、聴きごたえというものを感じさせるあらゆる要素に彩られている。それぞれの響きがダイレクトに届いた。

Wikipediaには「フランクの後期作品は緊密な循環形式の使用によって特徴づけられる。後期でも早い段階で書かれたこのピアノ五重奏曲においてその特徴は既に現れており[1]、冒頭に提示されるモチーフによって全曲の有機的統一が図られている[3]。」とある。

10時半過ぎてからの書き足しになるけれども、けさの前半20分ほどを聴き逃した分を20年1月10日のブログから補強しておく。

☆「弦楽四重奏曲 K.421から 第2楽章、第3楽章」モーツァルト:作曲
(バイオリン)原田幸一郎、(バイオリン)神谷美千子、(ビオラ)磯村和英、(チェロ)毛利伯郎
☆「ピアノ五重奏曲 ヘ短調」フランク:作曲
(バイオリン)原田幸一郎、(バイオリン)神尾真由子、(ピオラ)磯村和英、(チェロ)毛利伯郎、(ピアノ)ミロスラフ・クルティシェフ


🎵原田幸一郎のコメントで、弦楽四重奏にはソリスティックな面白さもある、特にフランクはそれが多い、と。このコメントで、「ピアノ五重奏曲ヘ短調」の持つ玄妙さとピアノの面白さをより楽しむことができた。教育の面では、原田は、個性を邪魔しないように、あまり細かく言わないようにしているという。またクラッシク音楽で奇抜なことをして世に出ようとする音楽家がいるけれども、あまりクラシックという道から外れた演奏はしないで欲しいと語っていた。
 ゲーム音楽、アニメ音楽で育っているいまに、クラシックの良さをいったいどうやってわかってもらったらいいのかと思い巡らすうちに、小学校のときにある音楽の先生が授業で何を教えるというよりも、毎回、先ずハチャトウィリアンの「剣の舞」を聴かせてくださったことを思いだした。大人になってからも、無性に聴きたくなることがあった。その先生が好きな曲だったのかもしれない。或いは音楽は理屈よりも先ず聞かせることであると思っておられたのか。何れ、この曲は自分の中でいまだに生きていて、ふっとしたときに聴きたくなる。

🎧名曲アルバム。横坂源のチェロでバッハの「無伴奏チェロ第一番プレリュード サラバンド」

⛳6時43分更新

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きょうのことば

 インマヌエル盛岡キリスト教会2020年8月23()のメッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『堅く立とう』(國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 エペソ書6:1020

10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。14そして、堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、15 足には平和の福音の備えをはきなさい。16 これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。17 救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。18あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。19 また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。20 私はこの福音のために、鎖につながれながらも使節の務めを果たしています。宣べ伝える際、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。

 

<説教>

(前回の復習は割愛いたします)

 先週、ガラテヤ書の21920節のおことばを信仰を持って自分に当てはめるということをお話ししました。これを実際に適用するには具体的にどうしたらいいのだろうか。このことをずっと思い巡らしておりました。
 クリスチャンであってみれば、信仰は大切、信仰によって生きているということは当然です。
 ここで、信仰と不信仰、信じられればよいのですが、信じることができないという場合があり得る。この実際問題に、信仰をどのように適用していったらいいのか。水曜の祈祷会で、「信仰と不信仰の狭間」について語らせていただきました。マルコの福音書922~24節に示唆があります。これをエペソ人への手紙の学びの助けにしたいと導かれております。

9:22霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」 9:23イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」 9:24するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」

 これがどのような場面であったのか、理解のためにマルコの福音書9章のポイントだけをお話ししますと、イエス様が十字架につけられる前に「あなたがたは、わたしを誰だと言いますか」(マタイ1615)という非常にきわどい質問をお弟子さんたちに投げかけられました。そのときペテロがお弟子さんたちを代表して、「あなたは生ける神の子キリストです」(マタイ1616)と告白をいたします。マルコの福音書9章にありますが、その後イエス様は、ヘルモン山という、これは都エルサレムから遠く離れたガリラヤ湖のもっと北の方にある夏でも雪を戴くような高い山ですけれども、その山、変貌山ともいわれるこの山に、イエス様は、3人のお弟子さんたち、所謂ビッグ3といわれるペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて登られます。そのときにイエス様の御姿が変わった。衣が真っ白に輝いた。そして天から「これはわたしの愛する子、彼の言うことを聞け」という声がしました。イエス様のご生涯にとっても一つのピークとなる大きなできごとです。

 そのとき、他のお弟子さんたちは山麓にいたのですが、実はそこで困った問題が起きていました。麓にいた弟子たちのところに、悪霊に憑かれた息子を連れて来た人がいた。弟子たちに、どうか息子にとりついた悪霊を追い出してくださいと願ったが、弟子たちにはできなかった。息子は泡を吹いて歯ぎしりし、からだをこわばらせています。何とかイエス様に癒してもらいたいとやってきたのですが、あいにくその時はおられなかった。お弟子さんたちではダメだった。ちょうどそこにイエス様が降りて来られたのでした。マルコの福音書920節から読んでみましょう。

9:20そこで、人々はその子をイエスのところに連れて来た。イエスを見ると、霊がすぐ彼にひきつけを起こさせたので、彼は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回った。 9:21イエスは父親にお尋ねになった。「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか」。父親は答えた。「幼い時からです。 9:22霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」 9:23イエスは言われた。「できるなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」 9:24するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」

 この後の結末は、見事にこの子どもの病は癒され、悪霊が追い出されました。こういうできごとであります。
このお父さんとイエス様との会話、これはまさに私たちが今直面している現実の課題であるように思うのです。
 ここに父親が「おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください」と。それに対してイエス様は言われた。「できるなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」。そしてお父さんは「信じます。不信仰な私をお助けください」。
 私は、私自身の信仰とこの父親の信仰とが二重写しのように思われ、自分もほんとうにこのお父さんのような者であると思いました。このお父さんを、イエス様はどのように扱われるのか。

 この場面を、私は次のように分析してみました。
お父さんは「その子をわたしのところに連れて来なさい」とイエス様から言われたときに、「信じます。不信仰な私をお助け下さい」と心から叫びます。不信仰な私、これは罪ある私です。神を信じない、これが罪であり不信仰です。罪の本質は神様に対する反逆といえますが、しかし、このときのお父さんは、神様を信じたくない、だから信じない、だったのでしょうか。そうではないと思いました。これはむしろ人間の持っている弱さ、脆弱さのゆえなのです。イエス様が近づかれた途端に、できたら私を救ってください、でも不信仰な私をお助け下さい、と嘆願している。これはお父さんの罪というよりも人間の弱さからくる、そういうものではないだろうか。不信仰は、罪の本質からなのか、それとも、この不信仰は人間の弱さからなのか。罪の本質、それは不信仰ですけれども、それはサタン的な疑惑とは違います。どうせ神様なんか信じたって駄目なんだとサタンは思わせる。どうせ神様を信じたって駄目なんだ、これが否定的な不信仰なんです。このお父さんの場合、お父さんがそうだとは私は決して思わない。お父さんはイエス様のところに行って何とかしてもらいたかったわけですから。
 もう一つ、これは、人間の未熟さからくる疑惑。いままでの自分たちの経験とか、世間の一般的な常識などから見て、わー、これはいくらイエス様でもさすがダメだろうな、でも治してもらいたいなという人間の持っている弱さからくる疑惑。この二つに分けて考えてみたらどうでしょう。
 さて私はどっちだったんだろう。どうせ神様なんか信じたってダメなんだという罪からくる不信仰だったら、それは信仰者ではありません。しかし、信じたいけれども、信じ切れない弱さ。不信仰というものをこのようなパターンで考えてみたらどうでしょう。

不信仰が罪から来る、どうせ神様なんかという心がどこかにあったのならば、それはほんとうに潔められなければならない。これは、イエス様の十字架の血潮によって、どうせ神様なんかという神様を信じきれないところの、神様のご誠実さを疑ってしまうようなそれは、ほんとうに罪の性質ですから、この罪の性質を潔めていただかなければならない。しかし人間の弱さからくる、或いは未熟さからくる疑念だったのならば、それは成長していく中で、神を信じるということができるようになってくる。そういうプロセスを私はこの表で表そうとしているのです。

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 マルコの福音書923節。「信じる者には、どんなことでもできるのです。」

 この「信じる」というときに、これは、イエス様が持っておられるような信仰です。イエス様が持っておられる信仰を持ちなさい。イエス様が父なる神に対して持っておられる心からの信頼と愛をもって信じるそのイエス様の信仰。そのイエス様が持っておられる信仰をどうか私のものにさせてください。
 往々にしてありがちなちっぽけな信仰ではなく、そうではなく、イエス様が父なる神様に持っておられる信頼と愛に満ちた、どうかそのような信仰を私の信仰とさせてください。「この神を信じなさい」というところの微妙な違い、この区別、いわんとするところをわかっていただけるでしょうか。私が一生懸命頑張って信じるというのではなく、イエス様が持っておられる父なる神様に持っておられるその信頼、信仰がどうか私のものとなりますように、これが、神を信じるということの意味であると、私は理解をさせておただきました。

 そして、これらの事を前提としてエペソ人への手紙6章10節からのところとなります。

エペソ人への手紙6章10節「10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。」、これはキリストご自身の信仰によって強められなさい、パウロはそのように言っているのです。「主にあって、その大能の力によって強められなさい。」、キリストご自身の信仰によってどうか強められなさい。そして「11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」

 悪魔の誘惑のいちばんの例がマタイの福音書4章にあります。イエス様が悪魔の誘惑を受けた箇所です。これが悪魔の策略。「もしあなたがほんとうに神の子だったら」、「どうして世の中にこんな不公平な貧富の差があるんだ」、「平等な食料の分配、パンの問題さえ解決していない」、「あなたがもし神の子だったら神の子らしく奇蹟を示してご自身を表したらどうだろう」、或いは、サタンは、「どうだい、私はこんな力を持っているから私を神としたらどうか」。イエス様に対して悪魔は最もらしい誘惑をもってきます。イエス様さえも、このように悪魔の熾烈な誘惑を受けたのであります。誘惑をうけるということは決して罪ではありません。イエス様も誘惑に直面されそして悩まれたのです。そこがすばらしいところなんです。イエス様は私たちの弱さをようくご存知で、そしてこの悪魔の誘惑にしっかりと立って、神の剣をもって、要するに神の武具を身に着けて戦うようにとある。イエス様ご自身も、聖書にはこのように書いてある、聖書にはこのように書いてあるといって、悪魔の誘惑に勝を得られたわけです。どうか私達もエペソの6章11節「 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」。また13節「ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい」

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 締めくくります。先ずしっかりと「堅く立ちましょう」。堅く、しっかりと立とうではありませんか。信仰生活の中で、どうかこの筋力を、先ず立ち上がる、先ず立つ。この筋力を、信仰の力を取らせていただきましょう。腰には真理の帯を、胸には正義の胸当て、足には平和の福音、信仰の盾、悪魔の火矢を打ち消すことができるように。救いのかぶと、そして御霊の剣を身に帯びましょう。

※画像は教会からお借りしています。

⏰5時48分更新


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雑感

J-MEROはさわやかmay J.のエスコート。ゲストSKE48KREVA、德永英明
SKE48、メンバーの方々は先々どのような展望を持っているのだろうと思っていたが、団体自体ではやはりセカイツァーなどがあげられる。個々としては、ソロライブに、ミュージカルに、女優、ドラマ出演といったビジョンがあるようだ。KREVA、ラップの最先端を空気をフロアーについついと滑りゆく。毎月曲を発表しているらしい。たわいのない歌詞でウッパーラッパーとかき分けゆく。自分の曲をカバーしてくれる者はいないかと。德永英明、ポップ界の森進一とも。50代で声がかすれてと言いながら、この声を持ち味に「太陽がいっぱい」、消えがてとも聴こえる声質に昇りつめる太陽は沈みそうもなく。

 この前番組で軽井沢の映像が流れていた。最近読んだ本で知ったところでは、軽井沢はもともと街道筋にあって宿場もあり遊郭というほどかどうか、何やら遊び場があったと知った。廃れた後に外人宣教師がふらりとやって来て良さを認めたところから、雰囲気は一転。現在の軽井沢に。
緑の豊かさ、癒し。樹木のあるところ、2、3℃、場合によってはもっと涼しい。樹木の価値は計り知れない。それが……
 あるカナダのブログで「ここから森林火災が見える」という一枚の写真に、世界の森林火災をググってみた。恐ろしい実態が。

 樹木のありがたさは、歌曲の詩にある内容ばかりではない。

⛳窓からすこしでも緑を目にすることが出来る有難さを覚えながら7時2分更新。

 

 

 

 

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20828  クラシック倶楽部を聴く 田部京子 ピアノ・リサイタル

17歳での日本音楽コンクール第1位をはじめ、数々のコンクールで上位入賞を果たしてきた田部京子。今回はシューベルトを軸にしたシリーズからシューマンとブラームスを放送―番組紹介よりー
田部京子 ピアノ・リサイタル。191212日 浜離宮朝日ホール

曲目は
「「こどもの情景 作品15」から「知らない国々」「トロイメライ」「炉ばたで」「詩人のお話」」シューマン:作曲
「ピアノ・ソナタ 第3番 ヘ短調 作品5」ブラームス:作曲

🎵20年1月に聴いたときには、ブラームスのピアノ・ソナタとはほんとうのところ相性がいまいち、と書いていたようだ。田部のコメントに導かれて最後まで聴きとおすことができた、とも。田部が、ピアノの音は打鍵のあと減衰していくがそこがピアノの美しさの一つと。これまではそこがピアノの欠点としか捉えられなかった意識を変えてくれた。
 けさのシューマン、静かめに心に寄り添ってくれる。近頃はコロナ疲れか猛暑疲れで、起きがけの耳は音をしっかと捉えかねている。それでけさは久方ぶりにヘッドホンで聴く。シューマンが周りの気配のようにそこにあってくれた。ブラームス、3番はやはり大曲であるなと。ブラームスが20歳代で作曲した三つのピアノ・ソナタのなかでは破格の質量とも感じられた。音の連鎖も瑞々しく聴くことができた。第5楽章、聴く者を道連れにそれこそ彼が求めた見出したフレーズで見得をきるような響きが。この楽章のアレグロ・モデラート・マ・ルバートを再現しながらこれを書いている。

🎧🎵名曲アルバム、ヴィヴァルディ「海の嵐」すでに眼前に広がるのはベネチアの遠浅の海。波に揉まれる小舟の影。ブラームスを聴きなおしながらヴィヴァルディを書くというのもまた妙ではあるのだが。ヴィヴァルディ、生粋のベネチア人。ブラーノ島の色とりどりの家並み。LPのランパルのレコード、あれほどに聴いたレコードも、引っ越しの時に処分してしまったが。CDには何枚かあるだろうが、取り出し聴いてみてはいない。「海の嵐」、脳裡に鳴るのはいまだランパルだが、けさの有田正広のフルートはまさしくベネチアの風景となってこの朝を爽やかに駆けてくれた。

⛳室温27℃。けだるさをけだるいままに覗く湿度の針は64%を指す。盛岡、きょうは35度にもなりそう。3時20分ごろには震度3。こんなトッピングの多い近頃。どうかコロナはトッピングしないで! 恐れていても始まらない。注意項目とともにけさもスタート!
曲は変わっていつの間にかシャコンヌに。次から次へと差し出してくれるユーチューブ。6時52分更新。

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200827 クラシック倶楽部を聴く ミシェル・ダルベルト ピアノ・リサイタル

シューベルトやリスト、そしてドビュッシーをはじめとするフランス音楽の演奏で特に高く評価されるダルベルト。ドビュッシー没後100年を記念するコンサートから。【出演】ミシェル・ダルベルト(ピアノ)【曲目】前奏曲、コラールとフーガ(フランク作曲)、月の光(ドビュッシー作曲)、こどもの領分(ドビュッシー作曲)、前奏曲作品45(ショパン作曲)【収録】2018年11月1日 浜離宮朝日ホール(東京都中央区)―番組紹介よりー

 

ミシェル・ダルベルト、この番組では56回は出会っているような気がする。フランス人紳士といった風格。1955年パリ生まれ。だが、この年代の方々で、1975年クララ・ハスキルピアノ・コンクール優勝、1978年リーズ国際ピアノ・コンクール優勝の経歴と年代から、演奏には教え諭すような含蓄も。シューベルトのピアノ・ソナタ全集のほか、数々の名録音を残す現代を代表する巨匠であるとの解説。力強いタッチ、深く輝くような音色。
コメント
今回のリサイタルのテーマについて

このリサイタルはフランクとドビュッシーを軸に構成しています。西洋音楽史はドビュッシー以前と以降に分けられると言っても過言ではありません。ドビュッシーは作曲の初期から、それまでと全く異なる音楽を目指したのです。一方のフランクの視線は、過去の時代へ向いています。バッハやそれ以前にまでさかのぼる音楽です。当時のフランスではフランクを父とあがめ、古い音楽を解雇する作曲家たちがいて、一方ではドビュッシーを新時代の旗手にすえた急進的で未来志向の作曲家がいました。こうした19世紀後半から20世紀前半にかけてのフランスの音楽の潮流を紹介したかったのです。
ドビュッシーの作品について
ドビュッシーは昔から演奏していますが、集中的に弾いてはいませんでした。それが15年ほど前から頻繁に取り上げるようになりました。ドビュッシーの楽譜を見ていると、ある「言葉」が繰り返し記されていることに気づきます。柔軟性を求める「ルバート」で、どの作品にも共通して求められる表現です。学生にはよく「ドビュッシートラヴェルを同じように弾かないで」と注意しています。柔軟な「ルバート」を求めるのがドビュッシーの音楽で、ラヴェルはメトロノームのような厳格な拍を求める作曲家です。ドビュッシーを弾くうえで大切なのは響きに対する豊かな想像力です。ドビュッシーは「空想」で曲を書く作曲家だからです。彼の作品には題名を持つものが多いですが、どれも漠然としたものばかりです。あくまでイメージにすぎず、異なるアイデアで弾いてもいい「ご自由に」という感じです。ですからドビュッシーを弾くときは想像力を膨らませることです。

楽曲
「前奏曲、コラールとフーガ」フランク:作曲
フランクは技巧派のピアニストとしてキャリアをスタートし、20代後半からは教会のオルガン奏者を長く務めた。作品を通してフーガの主題が循環し、終結部では曲を構成するテーマが同時に鳴らされ荘厳な響きをつくる。
「「ベルガマスク組曲」から 月の光」ドビュッシー:作曲
「ベルガマスク組曲」はドビュッシーが28歳となる1890年頃に着手され1905年に出版された。「月の光」はこの組曲の第3曲にあたり、単独で演奏される機会も多い。この作品でドビュッシーは、きらめく月光のイメージを甘美な旋律と色彩豊かな和声で見事に描き出している。
「こどもの領分」ドビュッシー:作曲
この作品はドビュッシーが46歳になる1908年に完成し、当時まだ3歳だった愛娘エマに捧げられた。大人の視点でとらえた子どもの世界をドビュッシーは愛情深くユーモアを交えて描いている。
「前奏曲 嬰ハ短調 作品45 (アンコール)」ショパン:作曲

⛳力強いタッチ、深く輝くような音色と評価のあるダルベルト、音を捕えてにれはむ、それに時間の流れを感じさせるわけではないが、捕えた音には必ず魅力的な思い入れを付加して後に手放し旋律と成していくような響きの深さ。それがドビュッシーにいよいよ世界の広がりを与えているといった感じが。聴く者に聴くための努力を強いない名演奏であると思う。

🎧名曲アルバム。ロッシーニ「セビリアの理髪師」。角井鋼亮&東フィル()
🎵スペインのセビリアの春の祭り「フェリア」、1週に400万人が繰り出し飲んで踊る。祭りのおしゃれをサポートする理髪師にスポット。

⛳やはり夏の疲れがどこかに淀んでいる。書くのは後にしようかなと一瞬、というより5分ほども迷っていたが、続けてきた朝練のようなものでもあり、前に書いたものを引っ張り出すなどして、とにかく6時57分の更新。

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200826 クラシック倶楽部を聴く 佐藤卓史 ピアノ・リサイタル

佐藤卓史 軽井沢町公開収録

🎵今回は軽井沢町大賀ホールでの公開録画。軽井沢は現在人口2万。その昔、宿場町として栄えていたらしい。それが国道開通で閑散となる。そこに1886年カナダ人のキリスト教の宣教師アレキサンダー・クロフト・ショーがやって来て避暑地にすることを思いつき、軽井沢の別荘第一号を旧軽井沢の大塚山に建てる。ショーの教会は1922年に完成。外人や財界関係者がやってくるようになり音楽交流も。教会は日中に限り出入り自由。

佐藤卓史は1983年秋田市生まれ。2007年第11回シューベルト国際ピアノコンクール第1位、2010年エリザベート王妃国際音楽コンクール入賞、2011年第21回カントゥ国際ピアノコンクール第1位、メンデルスゾーン国際ピアノコンクール最高位(第1位なしの第2位)など受賞多数。

2014年よりシューベルトのピアノ曲全曲演奏会「佐藤卓史シューベルトツィクルス」を開催していたはずだが、これが完遂したものか、コロナ禍に巻き込まれたのかは確かめていない。

今回の番組ではシューベルト「楽響の時」、ショパン「幻想即興曲」、「舟歌」、「英雄ポロネーズ」。佐藤の「楽響の時」の12、これが彼の歌曲にある旅の感じが。音の逍遥の内に作曲者の自己愛が聞えた気がしたが。3でやっと明るい気分に。45、流れるような響き、躍動感、これが明快さが率先したというか。6何等かを探り求めながらの終。続くショパンよりもやはりシューベルトの方に佐藤の思い入れが。佐藤いう「聴衆と奏者との11の親密な関係」は、シューベルトの方にあった。

🎧名曲アルバム。ラロ「スペイン交響曲」。名バイオリニスト・サラサーテとの出会いで生まれた名作を放送する【バイオリン】渡辺玲子【指揮】円光寺雅彦【管弦楽】NHK交響楽団【ロケ地】フランス・リールほかー番組紹介よりー

渡辺玲子のバイオリン切れ味爽やか。

⛳室温27℃。湿度54%。いまは小雨がぱらつきそうにも見えるが、日中はまたけっこう暑くなるのだろう。コロナの睨みがきょうもまた。
6時51分更新

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200825 クラシック倶楽部を聴く  ニコラ・アンゲリッシュ ピアノ・リサイタル

米で生まれ仏で学んだアンゲリッシュ。来日の回数は多いものの、オーケストラとの共演がメインで本格的なソロ演奏会は今回がほぼ初めて。卓越したピアニズムを聴く。【曲目】「きたれ、異教徒の救い主よ」BWV659(バッハ作曲ブゾーニ編曲)、クライスレリアーナ 作品16(シューマン作曲)ほか【演奏】ニコラ・アンゲリッシュ(ピアノ)【収録】2019年10月15日 紀尾井ホールー番組紹介よりー

 

20194月に来日したマルタ・アルゲリッチがアンゲリッシュを語るに、「ニコラのことは何年も前、彼が若い時からよく知っていてよく共演もしています。しかし、間もなく50歳を迎える彼が日本であまり知られていないなんて、信じられないわ!だってニコラは私がサポートなんてする必要はまったくなく、ヨーロッパでは素晴らしいキャリアを積んで充実した活動をしているのに。彼は真摯で謙虚。インテリジェントで本当に素晴らしい音楽を聴かせてくれます。彼に『スター』という感覚はないかもしれないけれど、音楽家としてこういう態度はとても大事だし、ニコラのようなピアニストにこそ人々の関心が強まることを望んでいます」。その信じられない一人がこのブログの管理人なのだ。ともかく聴いた「きたれ、異教徒の救い主よ」、「クライスレリアーナ 作品16」。そしてアンコールの「子どもの情景」から「知らない国々」
忙しくじっくり聴けなかったけさ。心の奥で誰かが、それはおそらくは自分だろうけれども、「笑います」と言っている。けさは感想を書いても、その感想を後で読んで「笑います」「笑えます」「笑いましょう」となりそうなので、演奏者と一曲だけを然るべき先につなぐだけとする。

 

🎧名曲アルバム。ドビュッシー「花火 前奏曲集 第二巻から」。【ピアノ】小川典子 ~映像はフランス・パリ~

⛳なにか気分が散逸、あれこれとやりながら聴いていたのだが、たとえTVでも奏者に失礼かなと思っている自分に失笑。7時ジャスト更新。

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200824 200824 クラシック倶楽部を聴く  クリスティアン・ベザイデンホウト リサイタル

フォルテピアノの名手、クリスティアン・ベザイデンホウトのリサイタルから。平均律ではなく、古典調律でチューニングされた楽器によるモーツァルトのソナタをお送りする。―番組紹介よりー

番組予告で「フォルテピアノ」「古典調律」この語彙二つに惹かれてけさもTVの前に。

 ☆「ピアノ・ソナタ ヘ長調 K.332
「ピアノ・ソナタ 変ロ長調 K.281 から 第2楽章、第3楽章」
「ピアノ・ソナタ ハ短調 K.457

クリスティアン・ベザイデンホウト1979年、南アフリカ生まれ。21歳でブルージュ国際古楽コンクール(2001)の第1位と聴衆賞を獲得、今日では世界の主要アンサンブルから頻繁に招かれており、ブリュッヘン、ホグウッド、ケラス、ムローヴァなど著名アーティストとの共演や音楽祭への出演も多数。09年からハルモニアムンディと長期的な録音プロジェクトを継続中。

🎵この番組で聴くのは4回目となる演奏家。
 前々回には、モダン、チェンバロ、フォルテに関してボツボツと聴き逃し、王子ホールの頁をググって参考にしていたようだ。
「チェンバロがアーティキュレーションやアゴーギクやニュアンスをいかに大切にしているかを知ったことは、大きな衝撃でした――スタインウェイに代表されるモダンピアノには音色やダイナミクスという面で大きな可能性がありますが、表現力豊かなチェンバロ演奏に不可決なアーティキュレーションへの飽くなきこだわりのようなものは見られません。その反対に、継続してスタインウェイを弾いてきたことでリリカルで心を揺さぶる演奏を志すにあたっての基礎ができましたし、こういったことすべてがフォルテピアノの演奏でも役立っているのです。フォルテピアノというと、チェンバロの後継者という歴史的な位置づけのことばかりが頭にある人が多く、音色の変化、トーンやテクスチュアの多彩さといった無限の可能性がまだまだ認知されていないような気がします。」
 番組では、ベザイデンホウトが、フォルテピアノはチェンバロとモダンの間にあって、上品さ、きめこまやかさ、歌うような抒情性があると語っていたが、私がこれに気づかされたのは、ここのところのクラッシク倶楽部のフォルテピアノ演奏のお蔭。それまでは、フォルテピアノを聴きもせずに未開の楽器としか区分していなかった。
 ベザイデンホウトは、モーツァルトの音の説明に歌舞伎の見得を引いている。
 ふだんはモダン・ピアノで聴くことの多いモーツァルトだが、今回理屈云々をさておき、虚心に耳を傾けてみると、モーツァルトの湧きあふれるような才気がより一層身近に躍ってくれた。作曲者の作曲時の演奏をできるだけ詳細に再現することは、作曲者の作曲時の心情により近づくことであると思い至った。

 

🎧名曲アルバム。レスピーギ「交響詩ローマの祭りチルチェンセス」(管弦楽)東京フィルハーモニー交響楽団,(指揮)渡邊一正 ~イタリア・ローマ~―番組紹介よりー

5万人が、クリスチャンが猛獣に食いちぎられる血祭を目当てに、コロッセオに押しかけていた時代が。

⛳7時ジャスト更新

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きょうのことば

 インマヌエル盛岡キリスト教会2020年8月16()のメッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。

 Img153

説教題 『信仰と感情』(國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 エペソ書6:1~6:13

6:1子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。 6:2「あなたの父と母を敬え。」これは約束を伴う第一の戒めです。 6:3「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。 6:4父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。6:5奴隷たちよ。キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。6:6ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、キリストのしもべとして心から神のみこころを行ない、 6:7人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。 6:8奴隷であっても自由人であっても、良いことを行えば、それぞれ主からその報いを受けることを、あなたがたは知っています。 6:9主人たちよ。あなたがたも奴隷に対して同じようにしなさい。脅すことはやめなさい。あなたがたは、彼らの主、またあなた方の主が天におられ、主は人を差別なさらないことを知っているのです。10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。

<説教>

 いまエペソ人への手紙をベースに礼拝の恵みを順追って進んでおります。きょうは61節から入り、10節の主にあってその大能の力によって強められなさい、11節以降、神の武具をまとってこの世と戦うように、というように学びを進めてまいります。

 人と接するときに様々な感情をもちますが、きょうは「感情」というテーマでお話しします。「感情」を聖書中で検索にかけてみますと、喜怒哀楽、喜び、怒り、愛、悲しみなどがありました。その中でいちばん多く出ているのが、何と「怒り」でした。感情問題は780パーセントが「怒り」の問題でした。驚きです。「怒り」を一つのテーマにするのは理に適っている、そう思います。

 聖書の中にも、怒って失敗した人物が出てきます。カイン、そしてヨナです。
 カインは創世記4章にあるようにアダムとエバの初めての子どもです。その弟はアベル。アベルは羊飼い、カインは耕す者となった。ふたりとも神様に感謝のささげ物をします。カインは大地の実りの穀物を、アベルは羊の初子の中の肥えたものをささげました。神様はアベルのささげ物を受け入れられ、カインのには目を留めなかった。その理由は、アダムとエバが罪を犯しエデンを追放されるとき、神様は獣の衣を彼らにお与えになった。ここで動物が屠られ血が流されています。神様は血を流した衣で自分たちを覆ってくださった。だから神様に近づくためには生贄が捧げられなければならないことを、アダムとエバは自分の子どもたちに話していたでしょう。アベルはそれに想いが到っており羊をささげた。なぜかカインのささげ物は受け入れられなかった。創世記445節をご覧ください。


4 アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た、主はアベルとそのささげ物に目を留められた。
5 しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それでカインは激しく怒り、顔を伏せた。

 ここに「怒り」が書かれています。そうか人間はこういう性質を持っているのだ、それに気づきました。ただ怒りをどのようにコントロールすることができるかは大変な課題です。

 またヨナですが、旧約聖書の1579頁、ヨナ書34章にあります。神様は預言者ヨナにニネベ行きを命じたにもかかわらず、彼は行きたくないと反対の方向に行った人物です。しかし乗った船が嵐に沈みかけたとき、神に背いているのは私ですと名乗り出る。そこで海に投げ出されて結局は悔い改めてニネベに行きます。心の中では、あんなニネベは亡びるがいい、と思っています。そんな心境を抱えながらもニネベで神様のことばを宣べ伝えたところ、意外にも王様から民までが悔い改めて救われます。神様はニネベを滅ぼさなかった。ところがヨナはそれが不愉快でした。ヨナはここで怒ってしまいます。ヨナ434

3 ですから、主よ、どうか今、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましです。」
4 主は言われた。「あなたは当然であるかのように怒るのか。」

 未熟なヨナです。しかし神様は未熟でも預言者としてお用いになられる。またそんなヨナに、私たちは近親感も覚えます。ヨナは私たちの写しでもあるわけなのです。

 カインにしてもヨナにしても、感情のふり幅が大きく未熟です。感情の抑制の欠落がある。

 

 また子育てにある日常で、ついつい怒りに任せて子どもを叱ってしまうこともあるでしょう。64節ですが、


6:4父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。


 子どもを叱るにしても人格を否定するような叱り方はいけません。今でも鮮明に思い出される説教があります。昔、丸の内教会で語られた子どもの躾けに関するメッセージです。
 箴言にもあるようにムチを持たないで子どもを育てるのは正しいことではない。子どもをしっかり躾けるのは親として当然のこと。ただ、親が怒って子どもを躾けてはならない。親が躾けのためにムチを使うときには、首より上、顔には絶対に手をあげてはいけない。顔はその人の人格の表れているところ。子どもを叱るとき、いかに怒っていても、首から上、顔に手をあげるのは、相手の人格を否定することになるので絶対やってはいけないというお話しでした。神様は打ってもいいところを備えられた、それがお尻だというのです。

 人に対して怒り、自分自身に対して怒ることもあります。対他ということはよくわかりますけれども、自分自身に対してとなると、絶望、自棄になってしまうことがある。何れここでの課題は、「怒り」という感情を私たちがどのように解決していったらいいのかです。

「私はキリストとともに十字架につけられました」というおことばがあります。この私は、私たち人間は、まさにカインのその子孫であり、あの激しく怒ったカインの性質を受け継いでいる。そういう激しさを持っている私であり、私達なのです。イエス・キリストを信じるこの私は、もはや十字架につけられているのです。

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「私はキリストとともに十字架につけられました」。あのカインの罪を持ち、何かにつけてかーッとなってしまうその感情、自分で自分をコントロールできないようなその自分、これを、


私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。


 十字架に架かって下さったこのお方と一緒に、私は十字架につけられました、これも信仰によって十字架につけられるのです。これこそガラテヤ21920節のおことばです。

 この「怒り」という問題を解決しようと、修行を行ったり、カウンセラーに行ったりする方もあります。悪いとは言えません。しかし私たちクリスチャンは、キリストとともに自分を十字架につけてしまった、死んでしまったのです。今私が生きているのは、このキリストのいのちによって生きている。これは一つの信じるという転機でもあります。時には、もうどうしようもないこの罪の性質というものを、もうこのままだとクリスチャンとして到底やっていけない、そこに光が与えられたときに、そうだ、こんな私のためにイエス様が十字架にお架かりになって死んでくださったのだ。私が今生きているのは、キリストが私のうちにあって生きていてくださる。「キリスト我が内に在りて生くるなり 」 、このおことばを何回も繰り返そう、そして成長していこう。肝心なのは、この最初の転機をきちっと持っていることです。そしてこの転機をずっと成長過程の中に習熟していくことです。また怒りの感情に捕まりそうになったときには、それを何度も繰り返すことです。
 自転車に乗り始めるときのことを思い出してください。自転車は最初はなかなか乗れません。乗り方を何回も繰り返しては転ぶ。転んでもまた乗ればいいのです。繰り返しているうちに習熟していきます。

 ローマ611節にあります。
同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪でに対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。

これはガラテヤ書のおことばと同じことをいっています。
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「認めなさい」ということばの意味を理解するために、私の思い出話をしましょう。
私は1969年5月にペンテコステの日に洗礼を受けました。礼拝のとき、何人かで洗礼を受けるのですが、司式する先生の前に集められたのを今でも覚えています。
「あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい」。この「認めなさい」は文語訳では「おもうべし」となっていますが、これは「計算しなさい」という意味であると説明がありました。

 他の聖書、新改訳では「おもいなさい」。2017版では「認めなさい」、英語では 「consider」。もう一つは「カウントしなさい」「計算しなさい」」があります。いずれにせよ、そのように「認める」のです。

 日常生活の中で怒りに駆られたときは、どうぞガラテヤ21920のおことばを、ロマ書611を当てはめることでクールダウンしましょう。繰り返すうちには習熟していきます。

 高校時代、数学クラスで因数分解を学んだのですが、単純な数式の時はいいのですが、複雑な時はなかなか因数が分かりにくい。因数には幾つかパターンがある。先生がそれを黒板に書いてくれました。これでやるといいと教えてくれました。みんなからサブちゃんと呼ばれている先生でした。
 余談ですが、その高校はサッカーが強く、当時、長野県の代表でありました。サブちゃんが基礎を作ったサッカー部です。Jリーグの松本山雅の元となったのがこのサッカー部でした。
 このサブちゃんの授業で、私は手をあげて、「先生、どうしてその部分が因数だとわかるんですか」と質問しますと、サブちゃんがにやっと笑って「それはな、長年の勘と経験だ」といわれました。

 長年の勘と経験。その時そのときに、みことばを適応していけば、そのことが必ず生かされてくる。大きなプラスになっていくはずです。どうか長年の勘と経験を培うべく、是非にもガラテヤ21920節、ローマ書611節を口ずさみ適用、充当して、成熟していっていただきたい。必ずや「怒り」を克服し大きな勝利を得ることが出来るはずです。

※画像は教会からお借りしています。

⏰けさ5時の気温26度、湿度54%。ヤマバトの鳴き声が響いていました。なかなかに厳しい作業、やるたびに今回はもうやりかねるかなと思いながら、あらかじめ起こしておいた説教を5時起きで編集。何とか形と成し、今回もどうにか5時47分の更新です。

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雑感

J-MERO。
フレッシュMay J.けさも。ゲスト森口博子、SILENT SIREN
アニメの主題歌を誰が歌っているか、思えば意識上になかった。それがこの「機動戦士ガンダム」、海外ツァーとなれば、ライブで全員が日本語で歌って応えてくれるというのだから、浸潤性、浸透性はものすごい。85年のデビュー、と書きながら、アニソン系は一つ二つ書いても続かないなと心のどこかで思っているのだが、この一瞬一瞬の興味がふつふつ。透明感のある声で歌う「水の星へ愛をこめて」。よくよく聞けばこれが何とも素敵なのだ。ほにゃらららの年齢を残酷にググると今52歳。現在進行形で次々にカバーが。デビューより35年間活躍し続けているところがすごい。作詞 - 売野雅勇https://www.uta-net.com/movie/42807/

「あなたが祈るたびに宇宙(おおぞらに)に帆があがる/優しさにひかれて/蒼い眠りを解かれた美しい星よ」(抜粋)。作曲ニール・セダカ。

 このところの暑さで、冷房があってもどこか本当ではないという感じが。もし守り支えてくれている電気器具、機械がなかったら、……と思うと。つまりそれがなければ生きられない環境はもはや生き物が生きられるところではないというこの現実。科学が追いかけ追いつき問題を駆逐することのみでどうにか生き延びられる。けれども神の世界では、信じる者はみな救われると。

⛳姑の墓参りを7時前に済ませ、朝食に、コーヒータイム。そしてブログタイムは11時2分に。


 

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200821 クラシック倶楽部を聴く

波多野睦美が続けてきた「歌曲の変容シリーズ」の第13回。波多野睦美とピアニストのジュリア・スー、コンテンポラリー・ダンスの辻田暁の3人が18世紀後半から19世紀にかけて活躍したモーツァルト、ベートーベン、シューベルトの作品をそれぞれの表現で描く【曲目】「クロエに」(モーツァルト)ピアノ・ソナタ「月光」から(ベートーベン)「魔王」(シューベルト)他【収録】2019年11月12日 王子ホール(東京)―番組紹介よりー

けさのプログラムにまたまた惹かれて聴いてみる。波多野が「小さな曲が好き」「歌詞を翻訳するのが楽しみ」「詩の一つのことばの前後の状況で照り返しが違う」と。その波多野の選曲は、ここではさらに番組の選曲ということになるだろうが、モーツァルトの「寂しい森の中で」「クロエに」「ルイゼがつれない恋人の手紙を焼いたとき」「すみれ」。そしてベートーベンの「アデライーデ」。ベートーベンがこの曲をマティスに献呈している。やはりすばらしい。自然の中でほめたたえられる愛しい幻、影ともいえるだろうが次のフレーズ「灰になった心臓から咲く花」には!
後半はダンスとのコラボ。辻田暁のコンテンポラリーダンス。ベートーベンの「月光」、その後の一連の表現から見てもダントツの名場面は「月光」の曲の出だしに合わせて、月の周りを満たす闇に同化しきっている上体、腕、指先を用いた表現。これが素晴らしかった。すこし距離を置いてみる方が意図するところがより伝わったのではないかと。月を包む夜の息遣い、ほのあかりまでが凝縮されている。

シューベルトの「夜の曲」、老境の達観した心境。「清らかな夜よ もうすぐすべてが終わる 私はもうすぐ長い眠りにつく すべての苦しみから解放されるのだ」(一部の抜粋)
次はシューベルトの「冬の旅」。第5曲「菩提樹」。うれしいときも悲しいときも寄り添ってくれる菩提樹。「ここへおいで友よ 君の安らぎのあるのはここだ」ミューラー詩。当初は暗さに驚かれたという経緯もあるようだが。さてこの地域で菩提樹はあったかしらんと、前の歌曲に菩提樹が出て来た時に検索してみたが、まだ所在がつかめてはいない。多くのことばを書き付けられる菩提樹。いいときも悲しいときも苦しいときも不遇のときも、言葉を書き付けられる樹木。第17曲「村で」。犬よ「吠えろ ぼくを眠りの中にやすませるな」。
 詩をじっくり聴かせてくれる今朝の歌声。前半とは違った人生の味わいの後半。
シューベルト「魔王」。モーツァルト「夕暮れの情緒」、このときモーツァルトの父が病に伏す。「天に舞う風となってみんなの前に現われましょう」、これが「千の風になって」の原型かしらんと。歌われる人生の終末。果たして筆者が墓に入ったときに、「心のこもったまなざしで優しく見下ろして」くれる存在があるだろうかと思い巡らすは愚。

名曲はアビニヨンの橋の上で。フェステバルでにぎわう楽しい映像。

⛳7時4分駆け足更新

 

 

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200820 クラシック倶楽部を聴く  清水華澄 メゾ・ソプラノリサイタル

「未来の自分へ」と銘打たれた清水華澄の初リサイタルから。「さすらう若者の歌」「臨死船」と、人生や未来に正面から向き合った意欲的なプログラムを聴く。【出演】清水華澄(メゾ・ソプラノ)/鈴木広志(サクソフォーン)/越知晴子(ピアノ)【曲目】さすらう若者の歌(マーラー)/「エディプス王」から(ストラヴィンスキー)/臨死船(詩:谷川俊太郎 根本卓也作曲)ほか【収録】2018年6月26日 紀尾井ホールー番組紹介よりー

 

☆グスタフ・マーラー 「さすらう若人の歌」。詩の訳は喜多尾道冬。1さすらう若者の歌2朝の野辺を歩けば3燃えるような短剣で4彼女の青い目が。訳は喜多尾道冬、よくレコード芸術で見かけた方。
ストラヴィンスキー 『エディプス王』より「恥と思わぬか、王子たち」
☆谷川俊太郎 詩/根本卓也 曲 カンタータ『臨死船RINSHISEN*
☆」アンコール 谷川俊太郎 詩  武満徹 曲「うたうだけ」

 

🎧名曲アルバムは古関裕而の「長崎の鐘」大井剛史・指揮、東京フィル。
⛳連続三日の記事消失。どこか注意力散漫になっているか、これが自分のやることかどうか吟味しなさいという天からの忠告かとけさはほんとうに思ってしまった。消えたブログ頁のほとんどは詩に関することであったが。書いた3分の一程度だけれども、一応更新950分更新。音楽内容はあったのだけれども、筆者の疲労事情で、これ以上時間を費やすことは賢明ではないと思い、筆記を打ち切る。

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200819 クラシック倶楽部を聴く 

日本を代表するテノール・笛田博昭が、オペラ・アリア、歌曲の伴奏者として一流歌手から絶大な信頼を寄せられているスカレーラとベッリーニ、マスネなどの名曲の数々を熱演【出演】笛田博昭(テノール)ヴィンチェンツォ・スカレーラ(ピアノ)【曲目】マリンコニーア(ベッリーニ作曲)、オシアンの歌「春風よ、なぜ私を目ざますのか」(マスネ作曲)ほか【収録】2019年6月9日 テアトロ・ジーリオ・ショウワー番組紹介よりー

🎵前回聴いたときのメモから

笛田博昭がいうに、「あまり日本で歌われないというか、みんながやるようなプログラムではないようなものをやりたかったと。「アマランタ」は初めて。歌曲はたくさん勉強してこなかったので、勉強する作業が楽しかった。アクート、高い声を出すのにはそこに集中しなければいけない、けれどもそうするとドラマが見えてこない。「アマランタ」を勉強していてあるとき、オペラ歌手というのは役者以上に芝居ができなければ成立しないのだとすごく思った。動いて表現するよりも言葉のニュアンスとか、動かないでそのドラマを再現するという意味では、ものすごく芝居心とかが必要だなとよくわかりました」。

ヴィンチェンツォ・スカレーラ:コメント
今回初挑戦するマスネの歌曲について
フランス語のマスネのアリアは私のアイデアでした。彼の声に合っていると思ったのです。ベッリーニの歌曲からイタリア歌劇のアリアへの橋渡しになると思いました。私がそうだと言っているわけではありませんが、優れた伴奏者というのは、歌手の息が続かないなどトラブルが起きたとき助けられる人です。リハーサルからやり方を変えて演奏を音楽的に成り立たせるのです。

曲目

「フィッリデの悲しげな姿よ」ベッリーニ:作曲
ベッリーニの若き日の恋から生まれたといわれる作品。今は亡き恋人に変わらぬ愛を歌いかける。
「マリンコニーア」ピンデモンテ:作詞、ベッリーニ:作曲
「マリンコニーア」はイタリア語で「憂愁」「哀しげ」の意味。恋人をニンフ(妖精)に例え、「憂愁」にひそむ甘美を歌う。
「お行き、幸せなバラよ」ベッリーニ:作曲
6つのアリエッタ」の第2曲。ベッリーニらしい旋律美にあふれた作品。
「アマランタの4つの歌」ダンヌンツィオ:作詞、トスティ:作曲
トスティの生涯の友人で詩人・劇作家のダンヌンツィオと意見を交わしながら作曲した歌曲集。
「あなたの青い目を開け」ロビケ:作詞、マスネ:作曲
マスネが母校パリ音楽院の作曲家教授に就任した1879年の作品。歌曲集『愛の詩』の第3曲。
「エレジー」ガレ:作詞、マスネ:作曲
ピアノ独奏だった曲にガレが詩をつけた作品。フランス歌曲の名作の一つとして広く愛唱されている。
「歌劇「ウェルテル」からオシアンの歌「春風よ、なぜ私を目ざますのか」」マスネ:作曲
若き詩人ウェルテルが人妻シャルロッテへの思いを、伝説の詩人オシアンの詩に託して歌う甘美なアリア。
「タイスの瞑想曲」マスネ:作曲
「歌劇「運命の力」から「この世は地獄」「天使のようなレオノーラよ」」ヴェルディ:作曲
アルヴァーロが不幸な生い立ちを振り返り、レオノーラへの愛と絶望を情熱的に歌うアリア。

訳は河野典子

🎵けさは最初のベッリーニ3曲を聴き逃す。目覚めて5時8分というわけだ。「アマランタの4つの歌」は1そっとしておいて2暁は光と影を分け3虚しく祈り4賢者の言葉よ、何を語っているのか。ガレの「エレジー」春はもう戻っては来ないと切々。ヴェルディ「運命の力」、王座を夢見た者は皆斧で殺され、その血筋にあることにふるえながら不運に掴まれた慟哭が真に迫り地を圧するの感。

🎧名曲アルバム。バッハ「無伴奏チェロ組曲」。ケーテンはバッハが愛した小さな町。チェロの可能性を広げた画期的な「無伴奏チェロ組曲」は音楽好きの君主との出会いから誕生、時を越えて町の人々から深く愛されている。―番組紹介からー

チェロ・横坂源

⛳すでに秋の気配。室温26℃。湿度55%。ついでに血圧120-75。体温36。コロナに感染してはいないと思うけれども。
秋の気配。鳥の音も遠く。7時1分更新

 

 

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200818 クラシック倶楽部を聴く  中村襟ソプラノ・リサイタル

ソプラノの中村恵理リサイタルから。バイエルン国立歌劇場の専属歌手を6年務め、豊かな声量とオペラのさまざまな女性を演じることで培われた表現力で、現在は国内外で活躍中。「小さなものでも」(イタリア歌曲集/ヴォルフ)をコンサートのテーマに、日常生活の中で“小さくて忘れがちだけれども大切なこと”に思いをよせて、日本の歌曲からオペラアリアまで、多彩なプログラムでお送りする。ー番組紹介よりー

中村恵理
大阪音楽大学、同大学院修了。新国立劇場オペラ研修所を経て、2008年英国コヴェントガーデン王立歌劇場にデビュー。翌年、同劇場の「カプレーティ家とモンテッキ家」にアンナ・ネトレプコの代役として出演し、一躍脚光を浴びる。そののち、カーディフ国際声楽コンクールにて、歌唱賞・オーケストラ賞の両部門で本選進出。10年~16年、バイエルン国立歌劇場のソリストとして専属契約。「フィガロの結婚」スザンナ役でデビュー
コメント
ふだんリサイタルでは自分でひとつの役としてやるのには早いが、アリアは勉強して発表させて頂く機会にしたりすることも。今回は以前やらせて頂いたもの、実はグノー以外はぜんぶ舞台で役として演じたものが今回集まった。バイエルン国立歌劇場で6年間専属歌手。バイエルンもとても伝統があって、ドイツの中では12を争うすばらしい劇場。6年もいると大抵のことは大丈夫だと思って歌えるようになる。どちらかというと間違っても表現したいタイプ。たとえそれが起こったとしても熱くなってくる自分を抑えずにそのままストレートにお客様に伝わるような表現をしたいと思う。

木下 志寿子
お茶の水女子大学文教育学部音楽科ピアノ専攻卒業。同大学院修了。200506年ドイツに留学、ドレスデンのザクセン州立歌劇場において研鑽を積む。コレペティトゥールとして数々のオペラ公演を支えながら、声楽の共演ピアニストとしてリサイタル伴奏等でも活躍している。これまでに二期会、新国立劇場を中心に多数のオペラ公演において音楽スタッフを務め、国内外の指揮者、歌手達から高い評価を得ている。特にドイツオペラ上演においては重要な存在であり、ワーグナーやR.シュトラウスの作品に数多く関わる国内有数のピアニストである。

☆「北秋の」清水重道:作詞、信時潔:作曲
☆「かなしくなったときは」寺山修司:作詞、大中恩:作曲
☆「ハイゼの詩によるイタリア歌曲から 第1`小さなものでも'」ハイゼ:作詞、ヴォルフ:作曲
☆「ハイゼの詩によるイタリア歌曲から 第2`遠くへ旅立つと聞いたが'」ハイゼ:作詞、ヴォルフ:作曲「ハイゼの詩によるイタリア歌曲から 第11`ずっと前から望んでいた'」ハイゼ:作詞、ヴォルフ:作曲
☆「ハイゼの詩によるイタリア歌曲から 第20`恋人は歌った'」ハイゼ:作詞、ヴォルフ:作曲「ハイゼの詩によるイタリア歌曲から 第46`ペンナにも私の恋人がいる'
ハイゼ:作詞、ヴォルフ:作曲
☆「わが愛はむなしく 作品321」ヘンケル:作詞、リヒャルト・シュトラウス:作曲
☆「知らず 作品102」ギルム:作詞、リヒャルト・シュトラウス:作曲
☆「鐘の響き 作品483」ヘンケル:作詞、リヒャルト・シュトラウス:作曲
☆「歌劇「イドメネオ」から`お父様、お兄様、さようなら'」、モーツァルト:作曲
☆「歌劇「ボエーム」から`私が町を歩くと'」プッチーニ:作曲
☆「歌劇「トゥーランドット」から`氷のような姫君の心も'」プッチーニ:作曲
☆「歌劇「ファウスト」から`宝石の歌'」グノー:作曲
☆「歌劇「ドン・パスクァーレ」から`騎士はあのまなざしを'」ドニゼッティ:作曲
☆「ウィーン、わが夢の街」ジーツィンスキ:作曲

🎵
  最初の2曲は聴き逃し。実はきょうのプログラムではいちばん聴いておきたかったのだが。それにしても、アリアは劇中でさまざまなドラマの中にあって一層その値がわかるというものなのだろうし、また演奏家にとっても劇中でこそ、ここぞと歌い甲斐のあるところかと思う。それが一挙に。大会のメイン花火が幾つも一挙に上がっている感じが。それをピアノ伴奏で、劇中に身を置いているかに、ある意味そこがどんなステージであれ、遜色なく、恋、愛、葛藤、懺悔などあらゆる感情を劇的に歌いあげ歌いつくす。
 「鐘の響き」、これは信仰によって神から与えられる歓喜なのだが、信心には遠い方々にはそれこそ錯覚、戯言と思われてしまうのでは。「ウィーン、わが夢の街」、ジーツィンスキーのウィーンへのノスタルジア、熱き追憶がこめられている。当時の、いまもそうかもしれないが、音楽家たちのウィーンへの憧れがわかる。

 以上が前回聴いたときの備忘録。今回聴き逃した最初の2曲を補填すべく耳を傾ける。中村が、プログラムを組む場合、2つか3つ程度の言語を入れるようにしていると。ふだんはドイツ住まいなので、日本に来た時には、観客との距離を近づけるためと日本人である自分を取りもどすために日本の曲を始めに入れている。この2曲が信時の「北秋の」、詩は清水重道(1909~1958)大中恩(1924~2018)「かなしくなったときは」詩が寺山修司。

清水重道「北秋の」

北秋(きたあき)の
峡(かひ)のこヾしき道のくま
わが見し花に
名づけてよ 君

いなむしろ
君によそへて
呼ばましものを

みつみつし
白く小さき
北秋(きたあき)の花

寺山修司「悲しくなったときは海を見にゆく」、これには中田喜直の曲もあるようだ。

悲しくなったときは 海を見にゆく
古本屋のかえりも 海を見にゆく
あなたが病気なら 海を見にゆく
こころ貧しい朝も 海を見にゆく

ああ 海よ 大きな肩とひろい胸よ
おまえはもっと悲しい おまえの悲しみに
私の生活(くらし)は 洗われる

どんなつらい朝も どんなむごい夜も
いつかは終る
人生はいつか終るが 海だけは終らないのだ
悲しくなったときは 海を見にゆく
一人ぽっちの夜も 海を見にゆく

 

今回気づいてみれば、井形ちづる、小瀬村幸子、増田ユリ子、広塚よう子の各氏が訳を。語学に疎い音楽初心者には有難い存在。

🎧名曲アルバム。リムスキーコルサコフ「シェェラザード」ー「海とシンドバットの船」。指揮は沼尻竜典
海軍に入り、地中海、アメリカ・アルゼンチンなどに寄港。この旅でか実を結んだというこの曲。

岩手の近代に澤恩という音楽する人がいたが、ふとこの恩は大中恩からでているかと思ったが。
朝に聴くは聴いたけれども、7時前に書くは書いたがまたまた記事消失。連日。がっかりもせず、今頃にトツトツと前回のメモに書き足してみた。
4時34分更新

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200817 クラシック倶楽部を聴く タマール・イヴェーリ ソプラノ・リサイタル  

タマール・イヴェーリ ソプラノ・リサイタルジョージア・トビリシ出身のイヴェーリによるチャイコフスキー&ラフマニノフのロシア歌曲、そしてイタリアオペラの名アリア【出演】タマール・イヴェーリ(ソプラノ)、浅野菜生子(ピアノ)【曲目】「昼の輝きが満ち夜の静けさが広がっても」(チャイコフスキー)、「ある晴れた日に(蝶々夫人)」(プッチーニ)ほか【収録】2017年5月19日 紀尾井ホールー番組紹介よりー

 

🎵2019年128日のこのブログには以下のように記していたようだ。

 イヴェーリはジョージア国(グルジア)の首都トビリシ生まれ。タマルは、ヘブライ語でナツメヤシを意味するようだ。自分が知らない名にあうと、これを聴いて自分に何かわかることがあるだろうかと一瞬たじろぐ。それが23曲も聴けば、この方がどういった経歴でどの範囲で活躍しているものかは察しがつくようになっている。それも、この番組を聴き続けてきたお蔭だ。一応その一端を書き留めると、ウィーン、メトロポリタン両歌劇場で活躍、その他数々。浅野菜生子は桐朋出身、声楽家の信頼が厚いということだ。
 イヴェーリには、予備知識もなにも要らない、ただイヴェーリを聴きさえすれば、ぜんぶをイヴェーリが分からせてくれる。すごかった。狂おしさ、甘やかさ、幸福感、生の喜び、憂い、悩み、哀れさ、まだ書き落としているかもしれないが、人生で遭遇する、迎えるありとあらゆる想いをドラマテッィクに表現。イヴェーリがいうに、聴いている者に希望を与え、聴いているあいだだけでも悩みを忘れさせ、その響きがひとの記憶にずっと後々までものこる歌でありたい、と。自信があふれている。
 
☆「リラの花 作品215」、ラフマニノフ・作曲。「もし私が知っていたら 作品471」、チャイコフスキー・作曲。「春まだ浅いころ 作品382」、チャイコフスキー作曲。「歌うな、美しい人よ 作品44」、ラフマニノフ・作曲。「雪解け 作品1411」、ラフマニノフ・作曲。「昼の輝きが満ち夜の静けさが広がっても 作品476」、チャイコフスキー・作曲。「歌劇「アドリアーナ・ルクヴルール」から 「私は神の卑しいしもべです」」、チレーア・作曲「歌劇「道化師」から 鳥の歌「大空をはれやかに」」、レオンカヴァルロ・作曲。「歌劇「ルサルカ」から 「月に寄せる歌」」、ドボルザーク・作曲。「歌劇「ワリー」から 「さようなら、ふるさとの家よ」」カタラーニ・作曲。「歌劇「蝶々夫人」から 「ある晴れた日に」」、プッチーニ・作曲。

 今回、聴いた瞬間、マリア・カラスを思い出したのは前回に同じ。今回は、特にラフマニノフの「雪解け」の歌詞に惹かれた。春を待つロシアの人々の想いがわかる。詩はフョードル・チュッチェフ(1803~73))。ロシアの詩人であり外交官であった。「頭でロシアは分からない」という。してみれば、分かったつもりのロシアの詩ということにはなるが、こんなところでの引用もふさわしいものかどうか。チュッチェフはミュンヘン、トリノに暮らし、ハイネ・シェリングと親交があったとか。およそ400編の詩が残されている。詩をググると23か所でてきたけれども、番組の訳とはちょっと違っている。番組では広塚洋子の訳であったか。

 

🎧名曲アルバム。ヘンデル「水上の音楽」(指揮)円光寺雅彦,(管弦楽)東京フィルハーモニー交響楽団 ~イギリス・ロンドン~

⛳朝のうちに更新しようとして失敗。何かうまくいかない。そうだ疲れているのだとやっと気づき、きょうは休養日に。
それにしても、昨晩のNHKスペシャル「アウシュビッツで発見……」。ナチ関係は多くあるけれども、見ておかなければ、と見たものの、かなり、というよりもどん底の底の底、キツイ内容だった。自分が手を下さずに、と書きながら、こんな端っこに簡略に書くべき内容じゃない!とどこかから聞こえた気が。後にアイヒマンが裁判でいった「わたしはユダヤ人を殺してはいない」。自分が手を汚さずに不都合な者を第3者を使い失脚させたり亡きものにしてしまう、これは政界にも実業界にも、とにかくさまざまな分野に歴然としてあったなと。
 もう14時22分。 

 

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きょうのことば

 インマヌエル盛岡キリスト教会2020年8月2()のメッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『聖なる秩序の美』(國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 エペソ書5:29~6:9

5:29いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろ、それを養い育てます。キリストも教会に対してそのようになさるのです。 5:30私たちはキリストのからだの部分だからです。 5:31「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」 5:32この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。 5:33それはそれとして、あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。妻もまた、自分の夫を敬いなさい。6:1子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。 6:2「あなたの父と母を敬え。」これは約束を伴う第一の戒めです。 6:3「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。 6:4父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。6:5奴隷たちよ。キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。 6:6ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、キリストのしもべとして心から神のみこころを行ない、 6:7人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。 6:8奴隷であっても自由人であっても、良いことを行えば、それぞれ主からその報いを受けることを、あなたがたは知っています。 6:9主人たちよ。あなたがたも奴隷に対して同じようにしなさい。脅すことはやめなさい。あなたがたは、彼らの主、またあなた方の主が天におられ、主は人を差別なさらないことを知っているのです。

<説教>

 エペソ人の手紙、学びが56章と進んでおりますが、エペソ人への手紙は次のように分けることができます。

20200812-94050

 前半が13章。後半が46章。ただ後半の方は56章をまたぐ部分はあります。パウロの手紙はいつもそうですが、前半部分と後半部分は連関しており、まず前半を書いてそれを前提として後半を書いています。

 さてここで「坐す」という視点で13章を見ます。パウロは前半部分で神様の前に深く坐して自分たちクリスチャンは、どういうものであるのかを思い巡らしていることがわかります。たとえばエペソ書14節「1:4神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです」、ここにいったい私たちはどういう者なのかが書かれている。そしてパウロは16節で「1:16祈るときは、あなたがたのことを思い、絶えず感謝しています」と言っている。「 1:17どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。 1:18また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、 1:19また、神の大能の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように」とパウロは神様の前に、自分たちが一体どういう者であるのか、救われているとはどういうことなのかを教え祈っています。

 それから2章にいきますと、「2:1あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり」と書き、けれども罪と汚れの中に死んでいた私たちは憐れみを受けてキリストと共によみがえらせられ、ここで6節「2:6キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上にすわらせてくださいました」、もう座る所、天の居所までも確保してくださっている、救いとはそういうものなのだ、クリスチャンになるということはこういうことなのだと言っています。

 そして3章の方では1節「3:1こういうわけで、あなたがた異邦人のために、私パウロはキリスト・イエスの囚人となっています」。この福音を伝えたために私は囚人になったというのです。それは4節「3:4それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよく分かるはずです。 3:5この奥義は、前の時代には、今のように人の子らに知らされていませんでしたが、今は御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されています。3:6それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人となり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者となるということです」。ここにキリストの救いはユダヤ人だけの救いじゃない。このキリストの救いは全世界の異邦人にも隔てなく提供されるものなのだとあるのです。これは画期的なことでした。11節「3:11私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた、永遠のご計画によるものです。 3:12私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます」。私たちはこの奥義を知らされているのです。

 3章の締めくくりへと行きましょう。14節「3:14こういうわけで、私は膝をかがめて、 3:15天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります」。パウロはこう言って、ここで祈っているのです。どうか私の伝えている福音があなたがたに正しく伝わりますように。19節「3:19人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。3:20どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに越えて行うことのできる方に、 3:21教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。

 これで1章、2章、3章の意味がわかります。彼は坐して私たちクリスチャンたちはこういう救いの中にあるのですよ、いいですね。このところが前提となって、こんどは4章、5章、だから私たちはこのように歩みましょう。これが4章になるわけです。

 つまり、4章1節、「4:1さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい」。17節「4:17主にあって厳かに勧めます。あなたがたはもはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません」。「4:30神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです」。だから、正しく歩みましょう。

 そして5章に入ります。1節「5:1ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。 5:2また、愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを献げてくださいました

5:8光の子どもとして歩みなさい」。「5:15知恵のない者としてではなく、知恵のある者として」「5:20すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい」。 

 このように極めて実践的にパウロは、どうかこのような実際生活を送ってくださいと祈っています。

 4章、5章、そして6章の前半では、このようにどうか異邦人の中にあって私たちは光の子、細心の注意を払って歩みましょうとあります。そして610節でパウロは「6:10終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。 6:11悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい」とあり、このところのキーワードは「固くしっかり立ちなさい」。このようにエペソの前半の方はどうか神の前に坐しましょう、そして4章、5章のところは、このようにどうか異邦人の中にあって私たちは光の子、細心の注意を払って歩みましょう。そして終わりに言います。どうか、神の前にしっかりと、悪魔の策略に対して立つことが出来るようにすべての武具を身に着けて、救いの兜をかぶって、しっかり立ちなさい。こういっている。これで大きくエペソ人への手紙を把握することが出来ると思います。復習になりますけれども、クリスチャンの恵みということをどうか坐して深く思いますように。そして私たちクリスチャンたちの生活を見直しましょう。パウロは、頭で思っていながら実際とは離れている、そんなあり様を決して認めてはいません。深く思ったのならば、クリスチャンならば、このように歩みましょう。そして悪魔の策略に対し、この世に対してしっかり立つように。
 この神に倣うものとなりなさい。それから愛の内を歩みなさい。あなた方はキリストの十字架の贖いの恵みの中にあるのでしょう。だから世の中の人たちの淫らないい加減なそういった者たちの仲間になるのではなく、光の子どもとして光の道をしっかり歩むように。

 この58節今は主にあって光のようになりました。光の子どもとして歩みなさい。そして、自分がどのように歩んでいるか、あなた方は細かく注意を払いなさい。ぜんぶこれはキリストの贖いというものを前提としてだから、このようにしましょうねというこの流れのなかで、たとえば前回の学びの中で、「5:18節ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい」「5:19詩と讃美と霊との歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から讃美し、歌いなさい」「5:20父である神に感謝しなさい」。そしてそのあとに「5:22妻たちよ、主に従うように、自分の夫に従いなさい」「5:25夫たちよ」と。この夫婦、お互いが愛し、お互い尊敬し、仕え合うように、これはぜんぶキリストの贖いという裏打ちがあってのことです。

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 これは封建的な解釈とは全く違う。秩序に見る美しさ、それは三位一体の父、子、御霊が、それぞれの信頼関係で、お互いそれぞれの人格を認めて、それぞれ父・子・御霊という秩序の中で麗しく一致している。この三位一体の神の愛というものに裏付けられた夫と妻、これが家庭のいちばん基本的なものであり中核であることを心に留めましょう。互いに従い、互いに尊敬する、これは、実際生活、私たちが家庭生活を営んでいるときに、ただこうであったらいいなあという理想像が言われるだけでなく、このことにほんとうにアーメンと肯けること。なされるそれが三位一体の神、愛なる神様、その恵みによる形における家庭であり、夫と妻である。どうかほんとうに世の中的な価値観が大勢でありますときに、私たちクリスチャンが、どうかこの聖書に基づいた価値観に立ちたいと思いますし、そして最後に、砕かれた心というものを大切な実際的なものとして指摘をさせていただきます。いつでも神の前に砕かれる。砕かれた悔いた魂、それを神は決して辱めたもうことはありません。

 6章に入りますと、子どもたちよ、あなたの父母を敬えというところ、そして父たちよ自分の子どもたちを怒らせてはいけない。また繰り返しますが、奴隷たちよ、ともあります。ここに出てくる奴隷、奴隷制度によって成り立っているローマ帝国の奴隷、ガレー船で櫓をこぎ、鎖で足を繋がれてローマの軍艦の労働力として使い捨てされる奴隷のイメージがある。しかし、奴隷が主人の子どもを鞭打って叱ることも許されていた。それは教育のための奴隷であり、そしてまた、然るべき代価を払えば、お風呂にも一般の人たちと一緒にはいることもできたといいます。奴隷がいなければ国が成り立たないという時代ですので、どうぞ単純に間違った奴隷のイメージを持たないように。

 さてきょう心に留めたい61節「子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。6:2「あなたの父と母を敬え。」これは約束を伴う第一の戒めです。6:3「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です」

 これは何を下敷きにしているかというと、是非これは覚えておいていただきたい。出エジプト記20章。そして十戒の章はといったらこれはもう反射的に出エジプト20章であります。十戒の章です。神様がモーセにシナイ山で与えてくださった律法中で2012節「12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられるその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである」から出ており、約束を伴うとは、この「主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである」に言及しているのです。

 ここでエペソの6章にお帰りください。パウロはここで自分の意見をいっているのではない。聖書に則って、「子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。6:2「あなたの父と母を敬え」。その後、私は今回のメッセージの備えをさせていただくときに、この4節のことばが非常に心に留まったのです。

 きょうはあまりそれは展開できませんが、4節「6:4父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい」。子どもたちを怒らせてはならない、この怒りということ、怒りというのは私たち人間みな感情を持っています。その中で、怒りをきちっとコントロールする、これはとても大切な要素なのだ。

 予告編のような形ですが、カインという人物。人類初めて人間が初めて人を殺した。カインとアベルを思い起こしていただきたい。ここに怒りがあります。それから聖書の中で怒りということで直ぐに心に留まったのがヨナという預言者がおります。ヨナの、魚に飲み込まれて吐き出されてというヨナ。ヨナもよく怒った。自分の思い通りにならないと怒って神様の命令になんか従わないと言って逃げ出そうとする。ようやく助け出されて悔い改めて、そしてニネベの国に行って福音を伝えて、悔い改めさせるのですが、こんな悪い人間は滅んでしまえばいいと思っていたそのニネベの国の人たちが、ほんとうに悔い改めて神様の怒りがそこにくだらなくなったときに、おもしろくない、あんなニネベなんか滅びればいいのに、面白くないと言ってヨナはまたダダをこねる。

 このようなふっと思っただけでも、怒りという問題、感情、これはけっこう真剣にクリスチャン信仰を生きて行こうとする時に感情をコントロールすることは、非常に大切なことです。この怒りというのは、人格の未熟、或いは、歪み、こういう表現ができると思います。感情をコントロールする、そういう力が欠けている、そして、相手の人格を否定してしまう。だから、子どもを怒らせるというときに、子どもの人格を否定してしまう。あなたのような人は、と人格を否定する、これは怒りというものの持っている要素です。夫婦の間でも、それこそ人間関係の間で、人格を否定してしまう、それが他の人に向けられる場合には、喧嘩になるでしょう。また感情のコントロールができないで、こんどは自分の人格を否定してしまう。ああ私のようなものはダメだ。生きている意味がないとか、このようにして自分自身の人格を否定してしまうというようなことも、これは怒りの為すわざです。私はここでまたきよめという問題を挙げます。この怒りの問題を解決するのは何か、そのヒントが次のみことばです。

私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
いま私が、肉において生きている命は、私を愛し私のためにご自分を与えてくださった神の御子に対する信仰にあるのです。

ガラテヤ人への手紙2:19-20


 
この怒りの問題、感情の問題、これが家庭の中にあっても大きく影響することであります。どうぞこのきよめの成長過程、ああ今自分はこういうところを通らされているんだ、砕かれやすい心をもって、ああ、自分は今こういう恵みの中に生きているのだということを再確認して、きよめの道を歩みゆきたく思います。

 来週はまたこのところをテーマに進ませていただきたいというふうに思っております。

 

※画像は教会からお借りしています。

⏰5時21分更新

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雑感

フレッシュMay J.のエスコートでJ-MEROをちょっと。ゲストはアンジュルム、宮本佳林(Juice=Juice)、清野桃々姫(BEYOOOOONDS)。「オリビエを聴きながら」、ちょっと繊細で心を静かに癒してくれそう。なぜか数十人、或いは十数人がシテージ狭しと歌とパフォーマンスを繰り広げるグループが大うけ。ファンに個が見えていないかと思えばさにあらず。それぞれにお目当てがあるらしい。ふつうの女の子が、夢のためにだいぶ窮屈な自分を演じているうちにけっこう嵌っていくのかなと。いまはリモートでできることをNSN配信などで。一本の魚をおろせる女の子が新鮮だった。

この時間帯はけっこうおもしろい番組が続いており、次なる巨大重機、これが2019収録で、新東名高速道の工事で、静岡、神奈川間2700キロトンネル、谷ケ山トンネルの掘削工事。大規模崩落を防ぐためにドリルジャンボ、自由断面掘削機、ブレーカ、ホイールローダー、ダンプトラック、コンクリート吹き付け機が活躍。松林良一という方が指揮していたが、これまでにけが人は一人も出していないと。ダムサイトなどに行くと殉職者の碑が湖面を背景に建っていたりする。けが人、殉職者皆無に感動。

これも今朝のTV。IT関連企業から農業に転職した方。夜によく眠れると。充実した日々。眠れなくて睡眠薬処方を受けている方々の数がどれぐらいかは知らないが、とんでもない数なのでは。土への回帰が一つの対処法になるとの示唆。

日中は滅多にTVを点けることはないが、今朝は何となく見続けている。

⛳919分更新

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200814 クラシック倶楽部を聴く  無言館・祈りⅡ

戦後75年を前に、戦没画学生の作品を集めた無言館で奏でる、平和への祈り捕虜収容所でメシアンが作曲した名作「世の終わりのための四重奏曲」ディルク・アルトマン(クラリネット)白井圭(バイオリン)横坂源(チェロ)岡本麻子(ピアノ)出征直前、画学生たちが最後に遺した作品を前に、今を生きる演奏家たちがその思いを引き継ぎ、音楽で祈りを捧げる2019年9月長野県上田市での4K収録ー番組紹介よりー

🎵TVの解説を基にあれこれたどってみたが。

メシアン、神学者、鳥類学者でもある作曲家。音を聴くと色彩や模様などを連想するという共感覚の持ち主。パリの教会で60年間オルガニストを務める。第二次世界大戦でフランスに従軍。ドイツ軍の捕虜となり、収容所内で「世の終わりのための四重奏曲」を作曲。曲想は『ヨハネの黙示録10章に基づく。これがなぜクラリネット、バイオリン、チェロ、ピアノといった特殊な編成なのかは音楽家たちとの戦時下での偶然の出会いによるらしい。初演は41年にバラックのような兵舎で115日というから極寒のさ中、400人の聴衆たちのまえで。無言館での演奏であると同時に、初演時の状況下でのようすを思い巡らしながら聴いた。その解説をのぞくと、自分の耳が捕らえられるような単純なものではないようだ。以下はwikipediaからの転載。

  1. 水晶の典礼

移調の限られた旋法とリズム・セリーによって異なる周期の時間を重ね合わせ、ピアノによる透明な水晶の和音とチェロによる高音のグリッサンドとが多次元的に層をなし、その朝靄の中にヴァイオリンによるクロウタドリクラリネットによるナイチンゲールが即興的に囀る。それらが光の中で高揚の頂点を迎えた後、静寂の中に前奏曲としての役割を終える。

  1. 世の終わりを告げる天使のためのヴォカリーズ

ABaの3部形式で構成され、A部分は御使いの強い力を喚起させる強固な表現を持つ。減8度音程、増8度音程や7度音程などを骨格に組み込んだ大胆でリズム的な和音がピアノによって担当されるが、その畏怖の中に、ヴァイオリンチェロとがユニゾンで世の終わりの切迫感を表現し、クラリネットは鳥の囀りを繰り返す。A部分の結尾部は、移調の限られた旋法2番を上行する弦によるユニゾンの後、恐怖を煽るトリルヴァイオリンチェロクラリネットと階梯導入され、ピアノは上行する複調和音のアルペジオの後、下行する和音で閉じられる。中間のB部分は天使のヴォカリーズに該当し、弦による美しいユニゾンの上を、メシアン自身が「ブルー=オレンジ」と表現した和音が水の滝を穏やかに落とし、遥か彼方のカリヨンの響きでそれを包む。最後のa部分は、A部分の結尾部を反行型にしたもので、移調の限られた旋法2番を下行する弦によるユニゾンの後、恐怖を煽るトリルチェロヴァイオリンクラリネットと階梯導入され、ピアノは下行する複調和音のアルペジオの後、上行する和音で閉じられる。

  1. 鳥たちの深淵

鳥の歌を使用したクラリネットの独奏曲で、有効に使った休符の中に満ちた深い精神的な空間と、長く引き伸ばされたクレッシェンドクラリネットの表現力を充分に生かしており、単独に抜粋されてアンコールなどの演奏会で演奏されることもある。

  1. 間奏曲

ヴァイオリン、クラリネット、チェロの三重奏。ユニゾンで協調する部分と、アンサンブル的に掛け合う部分とが効果的に構成されている。3者が模倣を引き継いだり、2者と1者とが呼応したり、短い中に三重奏の様々な姿が凝集されている。全体を通して4分の2拍子で書かれている。

  1. イエスの永遠性への賛歌

チェロとピアノの二重奏。1937年オンド・マルトノの六重奏のために作曲した組曲「美しき水の祭典」からの一曲を引用して編曲されている。全長転位音ともみなされる解決されない非和声音が曲の推進力を強く保ち、高らかに賛美を歌った後、永遠の彼方へと消えていく。

  1. 7つのトランペットのための狂乱(怒り)の踊り

ユニゾンに終始する。変型された4分の4拍子とも見なされ、そこに付加リズムを含んで拡大・縮小される。即興的に主題が拡大され、それが大規模な姿を呈した絶頂の後、非可逆リズムによって神の奥義の成就を象徴する。初演時のタイトルは「ファンファーレ」であった。

  1. 世の終わりを告げる天使のための虹の混乱(錯乱)

ピアノの伴奏に乗ってチェロが息の長い旋律を歌うが、ヴァイオリン、ピアノが入った激しいアンサンブルにより中断される。その後はクラリネットが旋律を歌ったのち激しいアンサンブルが再現され、ピアノを中心とした色彩豊かな部分が続いた後に、激しいアンサンブルにより締めくくられる。

  1. イエスの不滅性への賛歌

ヴァイオリンとピアノの二重奏。1930年オルガンのために作曲した「二枚折絵」の第二部(後にこの部分に"Le Paradis「天国」"と副題を付けている)から編曲されている。メシアンらしい、天国的な遅さの中に、じっくりと賛歌が歌われる。初演時のタイトルは「イエスの永遠性への第二讃歌」であった。

1鳥の目覚めに始まり、2の決して大音量ではない密かな声の不穏な預言か。3ここでクラリネットのソロ、鳥の声もなく生き物が鳴りを潜める。4で再び生の躍動が。5はチェロとピアノ。これ以降は神に向けられている賛美歌であるととらえたのだけれども。この時間帯でこの内容を玩味、吟味するには時間的な厳しさが。 

戦没した画学生たちの想いは、今日来るか明日来るかの召集令状、自己存在の不安定さ、不確かさが、描く人物の目に、運命への覚悟として現われている作品が。女性が美しく華やかな色彩で描かれているものには、生への渇望と悲しみが感じられた。 

🎧名曲アルバム。メンデルスゾ-ン「交響曲 イタリア」。若ききメンデルスゾーンが旅した、憧れの国「イタリア」。海の都ベネチアの「ドゥカーレ宮殿」「サン・マルコ寺院」に残る、美しく圧倒的な芸術とともにお送りする。ー番組紹介よりー

⛳7時6分更新。

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200813 クラシック倶楽部を聴く  無言館での演奏

戦没画学生の作品を集めた無言館での平和への祈り戦争に触発されて作曲されたクラム作曲「ブラック・エンジェルズ」、ビーバー作曲「パッサカリア」、バーバー作曲 弦楽四重奏曲川又明日香、瀧村依里(バイオリン)正田響子(ビオラ)髙木慶太(チェロ)白井圭(バイオリン)出征直前、画学生たちが最後に遺した作品を前に、今を生きる演奏家たちがその思いを引き継ぎ、音楽で祈りを捧げる長野県上田市―番組紹介よりー

🎵ジョージ・クラムの「ブラック・エンジェルズ」に関しては参考になるを繋いでおく。この曲は当初第二次世界大戦後かに作曲されたのかと思っていたところ、ベトナム戦争のころとあった。ほとんど恐怖映画の音響とあるが、一部をお借りし転載すると
『ブラック・エンジェルズ』はヴェトナム戦争で疲弊し、悲しみと苛立ちを抱える人々に受け入れられた。この作品に込められたメッセージは深い。最初は音響効果に耳を奪われるが、何度か聴いているうちに13のイメージが描き出すストーリーが見えてくる。凶兆、混乱、苦痛、涙、空虚、そして祈り......。これは寓話である。外観は革新的で、歪んでいて、まがまがしいのに、聴いた後は聖なる音楽にふれたような感触が残る。奇怪な音響がひしめきながらも、散漫な感じがしない。これはクラムの数霊術的計算のなせるわざなのか、古典引用の絶妙なバランス感覚のおかげなのか。
 若い奏者のお一人おひとりが、戦没画学生の無念を受け留められての悲壮感極まる演奏だった。

ビーバーの「パッサカリア」演奏のときに紹介された中村萬平の出征数日前の身ごもっている妻の絵や伊澤洋の理想とする家族団らんの絵。日高安典があと5分あと10分この絵を描いていたいという言葉。片岡進の彫刻だろうか、この像だけを自分だと思ってほしいと彫られた頭像が胸を打った。

バーバーの「弦楽四重奏曲 作品11」が胸に沁みた。ケネディの葬儀で使用されてから有名になったが、バーバー自身は葬儀用に作ったのではないと不満だったらしい。しかし、この曲も静かな光に展示されたている絵画を照らし出すように響き、一層青年たちの無念さを感じながら、こうして切羽詰まった時空からは遠く過ごし、遊んではいなかったものの、神からの賜物をおろそかにし、重きを置かず、その時々の事情によって放り出し、大切にしていない自分のあり様がさらけ出された気がした。黙して語る作品群をきょうの、といってもこれも再放送であるのだが、再び、戦争に散った作家たちを惜しみ、また自分をも惜しむ心境となっている。

🎧名曲アルバム。リヒャルト・シュトラウス「アルプス交響曲」。田中良和・指揮&東京フィル。
アルプスの自然体験描写。初演には137人のオケで。1864生まれで1949没。戦後まで生きたのだ。

⛳録音は録らないので、別な音源で「弦楽四重奏 作品11」を聴きながら。10時08分更新
帰省客のない盆の入り。窓から吹き込む風の爽やかさ。今日の気温はどうであったか。

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20812クラシク倶楽部を聴く  青木尚佳(バイオリン)、ウェン・シン・ヤン(チェロ) ヂュオ・リサイタル

若手の新星・青木尚佳、そしてバイエルン放送交響楽団で首席奏者を務め、現在は世界各地で活躍するウェン・シン・ヤン。個性際立つふたりによる二重奏の世界をお送りする。【出演】青木尚佳(バイオリン)、ウェン・シン・ヤン(チェロ)【曲目】八つの小品 作品39から(グリエール作曲)、バイオリンとチェロのための二重奏曲 作品7(コダーイ作曲) ほか【収録】2018年12月4日 武蔵野市民文化会館小ホール―番組紹介よりー

🎵青木がヤンを深い音を奏でる、また対等に音楽する人と。一方、ヤンは青木を技術があり自然な音楽性を持つこと、自由さが備わっていると。イザイのソナタ以外はこのお二方の二重奏。バイオリンとチェロの二重奏曲は沢山あるだろうと思っていたところ、これが意外に少ないのだという。その中からの選曲がグリエールの「二重奏曲 作品39」。第45曲がちょうどバイオリン描く細い川とチェロが描く幅広の川が地の上を交差し、くっきりと跡を記しながら歌い流れ下るような映像が想像せられる。7のスケルツォの躍動感に遠景に見えていた川が近景と迫り、あがる飛沫に砕け遊ぶ飛沫飛沫。

イザイの「無伴奏ソナタ第4番」。おもしろいのは1924に全6曲が完成するのだが、それぞれが偉大なバイオリニストに捧げられているところ。因みにこの4番はフリッツ・クライスラーに献呈されている。イザイも光と影の作曲家。この第4番の第3楽章では、これもあるか、そこにもある、おお、むこうにも、スポットライトが隠れた存在を照射し、存在をくっきりと浮かび上がらせていくのだ。
 さて、献呈された名だたるバイオリニストとは、と見ると、第1番はヨーゼフ・シゲティに。第2番はジャック・ティボーに。第3番はジョルジェ・エネスクに。第4番はもちろんフリッツ・クライスラーに。第5番はマチュー・クリック・ボームに。第6番はマヌエル・キロガに。すべて7~12分前後の曲。この中で筆者が知るバイオリニストは貧しくもフリッツ・クライスラーただひとり。音楽評論家ならみな把握しているのかも。ただ、イザイが曲を献呈したがゆえにその後までも名をのこすことになったバイオリニストが何人かはいるだろうという側面があるかないかを知るには、その演奏を聴いてみるほかはないのだが。ここで思うのはイザイのために献呈された作品はあるのだろうか。デュメイ、カプソン、パパヴラミといった大物たち。エリザベート音楽院やエリザベート国際コンクールから排出された人々による作品があるようだ。こうして辿るときりもないのでこの辺で。

コダーイ「二重奏曲 作品7」。コダーイは民俗音楽の研究者。民俗音楽に起因するというか、影響の大きい曲はどこか骨太な感じがする。

🎧🎵名曲アルバム。「フルート協奏曲 海の嵐」ヴィヴァルディ
【フルート】有田正広,【演奏】クラシカル・プレイヤーズ東京 ~イタリア・ベネチア、ブラーノ島~ー番組紹介からー

20代の頃は毎日聴いていたこの曲。太平洋の延々と続き広がる明るい波頭を想像しながら聴いていたものだけれども。しかし今朝の映像で見るベネチア。レコード解説などはまったく読まずにただただ聴きまくっていた時代。あれはランパルだった。ヴィヴァルディはベネチア生まれ。あの遠浅の海、ベネチア本島から30分のブラーノ島に並ぶ家々は、壁面がピンク、オレンジ、茶、青、緑と実にカラフルで明るいのだが、こんなところも「海の嵐」には息づいているのだと。これを含む6曲が初のフルート協奏曲であるらしい。300年も朽ちず色褪せずに。ブラーノ島のような街並みが身近にあったら楽しいだろうなとも。

⛳10時22分更新。1日はやい墓参りが。盆は日本人習慣に深くある。

 

 

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20811 クラシック倶楽部を聴く   三浦文彰×デジタルアート

来場者100万人突破という東京の新名所「チームラボ・ボーダレス」を舞台に、バイオリンの俊英・三浦文彰がデジタルアート作品とコラボを実現!クライスラー作曲「愛の喜び」ユン・イサン作曲「大王の主題」パガニーニ作曲「『ネル・コル・ピウ』による変奏曲」モーツァルト作曲「バイオリン・ソナタ変ロ長調K.454」服部隆之作曲「大河ドラマ『真田丸』メインテーマ」ピアノ・江口玲―番組紹介よりー

🎵とにかくあの真田丸のテーマが流れたときの鮮烈な驚きは今もって忘れられない。奏者が字幕に現われるのを息をつめて待った。それが三浦だった。その三浦とデジタルアートとのコラボなのだ。チームラボ・ボーダレスは作品に触れながらさ迷い歩く。作品が自ら動きだし、人と触れ合い、しだいに人との垣根が消えてゆくという、それも現実にあったかなかったかの感覚がのこるのでは、いちど行ってみたいと思いつつ出かけることが危惧され、いまだ叶わずにいる。1万平方に無数のデジタルアートがあるらしい。

白づくめ衣装で、クライスラー作曲「愛の喜び」に始まり、花と人の森でユン・イサン作曲「大王の主題」。次には黒づくめの衣装でランプの森でパガニーニ作曲「『ネル・コル・ピウ』による変奏曲」。三浦はパガニーニを10代から弾いているという。今回、全く時代の違った曲をバランスよく選曲したという。パガニーニ、あらゆる奏法のオンパレードなのだが、これがちょうど今のポップス界の若者たちのパフォーマンスの機敏さを感じさせる。ユン・イサン、パガニーニと、表現が適切かはわからないが、切り取られた音の表面に凸凹がない、三浦が翳す弓の空間には、実に見事で颯爽とした一面が有無を言わさず君臨しているとさえ思われることが。モーツァルト作曲「バイオリン・ソナタ変ロ長調K.454」、では奏者のまた別側面の感性が。穏やかで叙情的、それこそ「人のため岩に憑依する滝」に流れる水が己の行方を問うているかなのだ。服部隆之作曲「大河ドラマ『真田丸』メインテーマ」。意表を憑く冒頭のフレーズに靄がかった脳内もスッキリ。

🎧🎵名曲アルバム。古関裕而「長崎の鐘」上柴はじめ。指揮、大井剛史。東京フィル。
古関について軍歌に協力した戦争責任はあるとしたいのが磯田さんであったような。高橋源一郎は一口に軍歌と言ってもいい曲として思い出されるのは古関の曲と。音楽評論家は音楽は音楽であったか。苦しいさなか口ずさめる歌がなかったならどんなに……と思うのがわたし。それでも歌詞にはやはり程度問題はあるかと。「長崎の鐘」は永井隆に感動しての古関の作曲。平和への願いがこもっている。

⛳7時更新。盛岡34度になりそう。山形など危険な熱さに。

 

 

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20810 クラシック倶楽部を聴く  コリヤ・ブラッハー バイオリン・コンサート  

ベルリン・フィルの第1コンサートマスターを6年間務めた経歴を持つコリヤ・ブラッハー。現在、世界各国で独奏者として活躍。ピアノは室内楽奏者としても信頼の厚いオズガー・アイディン。【出演】コリヤ・ブラッハー(バイオリン)オズガー・アイディン(ピアノ)【曲目】「バイオリン・ソナタ第3番」(ブラームス作曲)「ヴォカリーズ 作品34第14」(ラフマニノフ作曲)ほか【収録】2019年6月22日トッパンホールー番組紹介よりー

🎵けさの聴きどころは、2台の名器、ただどんなに録音技術が優れていても、空気感、空気への親和感、ごく繊細な部分は捉えかねるものかとも思うが、しかし、楽しむにそう欠けるところはないと思っている。ブラームスの「ヴァイオリン・ソナタ 第3番 ニ短調 op.108」、これが1730年製グァルネリ・デル・ジェス「Ex.ズッカーマン」での演奏。ブラッハーいうに「グァルネリは深みがあり甘く温かく、心情的で自由奔放で奏者に寛容である」「操作に主導権を譲ってくれる」とも。
ベートーヴェンの「ヴァイオリン・ソナタ 第9番イ長調 op.47『クロイツェル』」、この番組編成は13楽章。これが1730年製ストラディヴァリウス「トリトン」での演奏。ブラッハーがストラディヴァリウスに関し「骨太で存在感ある響き」「頑固で奏者を追従させる」と。
一つの楽器を理解するのには35年かかるが、時間をかけて奏者の望む音に楽器を導くのだそう。ブラッハーは2台の名器との相性を探り出し鳴らし続けているわけだ。ヴァイオリンを引き継いだばかりのときは、前の使用者の音が出るというのだが。

「トリトン」はキミコ・パワーズ氏より貸与されている。「トリトン」とは20年来の付き合い。このキミコ・パワーズ氏に興味がわき、ググってみると、

「長野県に生まれ。国際基督教大学卒業後、ブリティッシュ・エアウェイズに入社。客室乗務員として勤めた後、1963年にニューヨークに渡る。夫のジョン・パワーズ氏とともに、日本美術と現代美術のコレクションを始める。特にアメリカン・ポップ・アートにおいては、黎明期の1960年代からパトロン、コレクターとして積極的にかかわり、世界最大級のポップ・アート・コレクションを築く『アーティストたちとの会話 アメリカン・ポップ・アート誕生の熱気』より」とあった。

音楽界は音楽世界のみならず、さまざまな人材、或いは産業との連関にあることを実感。

🎧🎵名曲アルバム。歌劇「セビリアの理髪師」(ロッシーニ)
歌劇「セビリアの理髪師」の舞台、スペイン南部の街セビリアの映像。年に一度、老若男女が歌い踊り、街中が盛り上がる「セビリアの春祭り」の様子とともに名曲を聴く。

指揮角田鋼亮

1週間に400万人を惹きつけるフェリア。この祭りに頭髪も衣装も整え備える人々。

⛳久しぶりに明るい日が。6時53分更新

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きょうのことば

インマヌエル盛岡キリスト教会2020年8月2()のメッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『神の約束』(國光勝美牧師)
聖書個所 旧約聖書 創世記281022

10 ヤコブはベエル・シェバを出て、ハランへと向かった。
11 彼はある場所にたどり着き、そこで一夜を明かすことにした。ちょうど日が沈んだからである。彼はその場所で石を取って枕にし、その場所で横になった。
12 すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。
13 そして、見よ、主がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。
14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地上のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。
15 見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。
16 ヤコブは眠りからさめて、言った。「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」
17 彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」
18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを立てて石の柱とし、柱の頭に油を注いだ。

19 そして、その場所の名をベテルと呼んだ。その町の名は、もともとは、ルズであった。
20 ヤコブは請願を立てた。「神が私とともにおられて、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る着物を下さり、
21 無事に父の家に帰らせてくださるなら、主は私の神となり、
22 石の柱として立てたこの石は神の家となります。私は、すべてあなたが私に下さる十分一を必ずあなたに献げます。」

 

<説教>

  ついに岩手にも新型コロナの感染者が出ました。フェイスシールドの準備もいたしましたが、皆様との距離がありますので、きょうはマスクだけでご用を致します。 

 きょうは「神様の約束」ということに焦点を合わせたいと思っております。

創世記28章15節に「見よ」とあります。「見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」

 そして、創世記281012節をご覧いただきますと、これが何を意味するかがわかると思います。神様は約束して下さいます。しかも、神様がご自身にかけて約束してくださる。何々にかけてというとき、自分より力ある者の存在にかけて約束すれば、その約束は強められるわけですが、神様の場合には、自分より上の方はいないわけですから、神様はご自分の威信にかけて誓われます。神様のアブラハムの生涯への誓いを見ていただきましょう。創世記の1212節です。

1 主はアブラム(アブラハムの改名以前の呼び名)に言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。3 わたしはあなたを祝福する者を祝福し、あなたをのろう者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。

 これは神様のアブラハムに対する力強い約束であります。

 もう一つ、神様が誓われたことがあります。アブラハムはなかなか子どもに恵まれず待ちに待って与えられたのがイサクでした。神様はこのイサクを神に捧げよと命じます。アブラハムは全幅の信頼を神に置いて最愛の息子を神様の前に捧げました。創世記221518節にあります。
主の使いは再び天からアブラハムを呼んで、16こう言われた。「わたしは自分にかけて誓うー主のことばー。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、17確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。18あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」

 神様は、ご自分のお名前にかけて誓ってアブラハムを祝してくださった。そのアブラハムと同じ祝福を神様はヤコブにも誓われています。創世記281315節。13 そして、見よ、主がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。
14
あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地上のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。
15
見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」。

そしてこの神様のおことばにヤコブは

16 ヤコブは眠りからさめて、言った。「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」
17
彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」
18節 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを立てて石の柱とし、柱の頭に油を注いだ。
19 そして、その場所の名をベテルと呼んだ。その町の名は、もともとは、ルズであった。
20
ヤコブは請願を立てた。「神が私とともにおられて、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る着物を下さり、
21
無事に父の家に帰らせてくださるなら、主は私の神となり、
22
石の柱として立てたこの石は神の家となります。私は、すべてあなたが私に下さる十分一を必ずあなたに献げます。」

 このようにヤコブは神様に請願を立てて祈りました。

20200804-90957

 みなさんは2022節のヤコブの請願をどう思われますか。神様がヤコブに、「あなたをこのようにする、自分にかけて誓ってあなたを祝福する」と仰った約束の内容をタテに取って、ヤコブは神様に「もしあなたがそうしてくださるんならば私はあなたを私の神としますよ」とこういう言い方をしている。私はつくづくヤコブを嫌な男だなあと思いました。これほど神様がねんごろに語りかけてくださるのに、ヤコブは「もしほんとうに神様が私と共におられて、ほんとうにこの旅路を守って、もしほんとうに食べるパンと着物をくださり、ほんとうに父の家に帰らせてくださるなら、主は私の神となりますよ」とこう応えている。何ということでしょう。そして「石の柱として立てたこの石は神の家となる、ベテルとなる」と。嫌な男だなあと思いました。

 しかし、ここで嫌な男だと終わってはいられません。実はここは、翻訳者たちがいろいろと配慮しているところでもあるのです。どういうことかというと、多くの聖書はこのように、「もし神が共にお居られてこれこれの祝福をしてくださるならば、私はあなたを神とし、このようにあなたに誓いを果たします」を条件と理解し訳されています。ところが、これは必ずしもそのように訳すというところでもない。条件文として訳さなくてもいい。むしろ以下のように翻訳する人、理解する人もいます。つまり1315節のような神様の素晴らしい約束を受けたヤコブが、「そうですよねっ神様、あなたそうやって私に約束してくださったんですから、してくださらないではなくて、そうしてくださるんだから、だから、わたしはもうそのようにしますよ」と、既に神様のお約束はヤコブの中では成就している。「だから神様あなたにわたしはあなたを神とし、十分の一を捧げます」、そういう訳であってもいいのだというのです。

 今私たちは新改訳聖書2017訳を使っていますが、ここにこの教会が建てられたときに記念として買った30年近く前の新改訳聖書がありますので読んでみます。

創世記282022節です。

20 それからヤコブは請願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、私に食べるパンと着る着物を賜り、21私が無事に父の家に帰ることができ、主が私の神となってくださるので、22 私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。」とこう書いてあるのです。同じ新改訳でも違います。恐らくこれが新改訳のはじめの方なので、版が変わるごとに聖書学者たちが考え祈りながら修正していったかと思われます。多くの聖書が、「もしこうしてくださるならば」という条件で訳されております。しかし、今お読みしました新改訳の学者はどういう意図であったかというと、「もう神様のお約束は確かだから、だからもうこれは成就したものとして何々してくださるので」というような翻訳をしてもこれは間違いじゃないし、そう理解できると、そちらの方の解釈を取ったのでしょう。現在私たちはほとんどの聖書がそうであるように、「もしあなたがそうして下さるのならば」というように理解をしています。私は最初、ヤコブという人物を嫌な男だなあと思いました。しかし、神様はこのようなヤコブを祝福して下さっている。ここに福音の恵みというものがあるのではないか。ヤコブは極めて打算的で貪欲です。そして神様に条件のような提示をする。聖なる条件闘争とでもいいましょうか。「神様がほんとうにこうして下さるなら、あなたを私の神様としますよ」。これが神様への応答です。神様の祝福を受けるまでしがみつく。「あなたを去らせないぞ、祝福してくださらなければ」、これがヤコブです。

 ペニエルのあの経験、ヤコブは旅でハランまで行って、そこでやはりうまいこと言ってだまして、自分だけがすごく豊かになる。豊かになりすぎて、このハランの親族たちから恨まれ、こんどはまた義理のお父さんの所から逃げるようにして帰ってくる。彼はやっぱり嫌な男なのです。自分の打算で行動している。お兄さんのところに帰りたいものの、ひどいことをしているから殺されてしまうかもしれない。ヤボクという川を渡るといよいよ作戦に出ます。自分は列のしんがりにつきました。その時になってヤコブは神様から扱いを受けたのです。神様に扱われて神様と相撲をとったという言い方になりますが。神様と勝負になり、もう夜が明けるというときに神様はヤコブの腿のつがいを打った。ヤコブはもう歩けなくなってしまう。そうなるまでヤコブは「絶対あなたを離さないぞ」と、神の祝福を受けるまで我武者羅に知恵を駆使し画策して、何とかしようとする。

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 どうしてこのようなヤコブを神様は祝福してくださるのでしょうか。このヤコブと対照的なのがお兄さんのエソウです。エソウは双子の弟のヤコブが神様の祝福を必死になって得ようとしているときに「ああ長子の権、そんなことよりもいまお腹がペコペコなんだよ。そのおいしそうな一杯の煮物を」といってエソウはあっさりと1杯の煮物のために神様の祝福を放棄してしまう。創世記252934節にあります。

いわば神様の約束、或いは神様の祝福という事に対してエソウは淡泊。「神様の祝福? どうでも。あればいいけれども、なくたってそんなに」。ところがヤコブはそれとは違う。得るまでは離さない。だましてもいいというほどの意識です。

 さて皆さんはどっちに属しているタイプでしょうか。神様の約束に真剣になれる人、或いは神様の約束、祝福というものに対して真剣になれない人、こういう区別もできるでしょうか。そのように考えますと、イエス様のお話しの中で、「バプテスマのヨハネから今日に至るまで、天国は激しく攻められています。そして激しく責める者たちがそれを奪い取っています、というマタイ11章が思い出されます。激しく攻められている。激しく攻める者たちがそれを奪い取っている。マタイの1112節にあります。

 そうです。神様の祝福を受けるには、ほんとうに激しく攻める。淡泊であってはいけない。こういうことを思い巡らしますと、もう一つの面白いたとえばなしがあります。あまり仕事に熱心ではない裁判官のはなしです。

 あるやもめの女が面倒な訴訟問題を持ち込んできました。裁判官は何の面白い事件でもないので適当にあしらっていた。ところが断っても断ってもやもめはどうか正しく裁いてくれといって真剣に食い下がってやめない。夜昼やってきてもううるさくて仕方がない。注解には「目の下に隈ができる」とあるのですが、柔らかいものが当たってもそう隈にはなりませんが、しかし打ち続けられていれば隈ができてしまいます。そのような言葉が使われている。貪欲なまでに、何としても真剣に神様に訴えるということにおいて、ヤコブはそういう人でした。しかしエソウは神様の祝福のことにかけて淡泊だった。神様が本当に喜ばれる人とはどういう人なのか。真剣にお祈りをする。必死になってお祈りをする。

 ラオデキヤ的人と書きましたが、黙示録をお開きください。聖書のいちばん最後のところです。これは黙示録3章の後半部分ですが、このヨハネ黙示録23章というところは、この地上における教会について、その時代的に見るのもよいのでしょうが、7つの教会の特色をそれぞれ、エペソの教会、スミルナの教会、ペルガモの教会等など7つあげられておりますが、7つの教会のいちばん最後にラオデキヤの教会が出てきます。このラオデキヤの教会が黙示録314節、これイエス様が、ラオデキヤの教会の人たちにこう書き送りなさいと仰ったものです。

14 また、ラオディキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、確かで真実な証人、神による創造の源である方がこう言われる。
15
「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか、熱いかであってほしい。
16
そように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。

 ヤコブは一般の人間的な目から見れば嫌な奴です。しかし彼は一旦神様の祝福を求めようとなると、とにかく熱くなる。それが神様に愛され祝福される理由でしょう。そういった意味で私はヤコブになりたい。本気になって神様のお約束の言葉を握りしめて、神様、あなたはこう仰ったではありませんかと、お約束の言葉を握りしめて何回も何回も祈り続ける、そのことを神様はお喜びになる。

 お話しを締めくくらせていただきますが、

 このメッセージの一つのきっかけになったのは、先ごろのズーム聖会でひろ子先生が自分の証しをしたとき、「ねえ、神様、私はあなたにこう言いましたよね」こう祈っていましたよね」と話しておりましたが、これを聞きながら、これだなと思いました。ヤコブはこれを持っていました。

 創世記は一旦これで締めくくらせていただきますが、どうぞ、神様のお約束をしっかりと握りしめるヤコブのような信仰生活、クリスチャン信仰生活を送らせていただこうではありませんか。

※イラストは教会からお借りしています。

⛳7時ジャスト更新

 

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J-MERO ざっと

若者最前線をのぞいてみるJ-MERO,ホストMay J.元気拡散。
ゲスト、佐々木彩夏、超特急。
佐々木彩夏、往年のピンクレディを思い出す。拘泥なく屈託なく夾雑物はどこかに投げ込んで、ひたすら明るくリズミカル。歌うスイーツ踊るスイーツ。このパフォーマンス、膨大なエネルギーの蓄積。ハネて部屋に戻るやどうっと倒れ込んでいると思うのは年配ファン。満足げに冷蔵庫から冷えた飲み物を取り出しグラスに注いでニンマリなのかも。
超特急、自分たちの曲に合わせて踊る子どもたちの動画を募集したようだ。これなら退屈な子どもたちがただただ部屋を暴れまわらずに楽しめるかも。8周年記念の新曲は「Stando up」。いいね。立ち上がれ、立ち上がれ、何があっても立ち上がれ、どん底からも立ち上がれ。こう励ましてる。振りは子どもたちもまねして楽しめ、学祭でもやる者が現われそう、とはいえ、このパフォーマンスをカッコよくこなすとなればハンパじゃない練習量が。「ぼくら未完成でも光ってる」「誰かのためになりたいです」どんなことばも難なくリズムに乗せるラップ。ラップが出たばかりの頃は、アップ、アップとしか聞こえなかったけれど、こうしてみるとラップもわるくはない。

⛳6時からのワールドニュース、BBCでいまだ押し寄せる難民。
コロナに押されててしまったニュースが幾つも。
6時51分更新。

 

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2,087  クラシック倶楽部を聴く  三村奈々恵  マリンバ・コンサート

クラシックからポップス、民族音楽まで幅広いジャンルで活躍するマリンバ奏者、三村奈々恵。ニューヨーク・カーネギーホールでのデビューリサイタル以来、欧米やアジア、中南米など20におよぶ国々で演奏活動を行ってきた。演奏も録音もされずに埋もれていたという吉松隆の幻の作品「バードスケイプ」、そして原譜に立ち返って編曲したというバッハ「シャコンヌ」ほか、三村奈々恵による変幻自在なマリンバの世界をお送りする。―番組紹介よりー

 

「「フロム・マイ・リトル・アイランド」から「賛美歌」「ダンス・オブ・パッション」「フォークソング」」ロバート・アルドリッジ:作曲、ナンシー・ゼルツマン:編曲
「バードスケイプ 作品20吉松隆:作曲
「ブエノスアイレスの春」ピアソラ:作曲、三村奈々恵:編曲
「トッカータ」アンナ・イグナトヴィチ・グリンスカ:作曲
「シャコンヌ」バッハ:作曲、三村奈々恵:編曲
「変奏曲「謎」作品36から「ニムロッド」」エルガー:作曲、三村奈々恵:編曲

🎵バッハがきっかけで音楽の道にはいったという三村。演奏ぜんたいにそれが感じられる。シャコンヌの編曲は三村が原点に立ち返っての仕事であるようだ。打楽器でこんなに深く聴かせられるものかと驚く、と書いてみて、驚くは適切ではないなと。目が見開かれると言った方が適切であるようだ。マリンバのために曲が書かれるようになったのは1950年以降で、多くが編曲を要する。楽器の性格上もそうなるのだろう。演奏でこういう音が欲しいなと模索する中で新しい奏法が産み出されるのだという。ゴム、布、毛糸などの様々な素材のマレットを数百本所有しているようだが、一つのコンサートで使うのは3050本を曲に合わせて選んでいる。冒頭の「フロム・マイ・リトル・アイランド」、これは1988にできたマリンバのための作品で、「賛美歌」の静謐な中に奥行きのある響きに魅せられた。「ダンス・オブ・パッション」、水滴が幾とおりもの色彩を帯びてダンスさながら滴り落ちる様が浮かんだ。吉松隆の「バードスケイプ 作品20」、マリンバのための作品だが、長く知られずにいたのを2016年に三村が着目し光を当てる。森の生き物たちの息遣い、鳥が飛び立ったあとの木の葉の微妙な揺れ、陰影までが聴こえる。「トッカータ」の高音域はピアノのようでもあり、低音域に移ってまた馥郁とした響きがひろがっていく。マリンバの可能性を知らされた。 

以上は、筆者が20116日にこのブログに書いた内容を転載。

今回聴いてみて、吉松隆の「バードスケイプ」が自然描写ということもあり、森の奥での鳥たちの営みが爽やかに響いてきてくれた。この演奏の時にマリンバの上の方、ちょうど三村の背丈の高さに、名称はわからないが微妙なニュアンスを付加できる小道具といったらいいのか、鳴り物といったらいいのか、鈴や竹、素材が貝ではないかと思われるものが9種類ほど吊り下げられていたが、はっとする効果音となって聴き耳をたてさせられた。

「シャコンヌ」、水底から気泡のように立ち上ってくる、それが時間の観念と相まって埋めがたい音の間隙を埋めてくれていたという感じが。

🎧🎵名曲アルバム。ラロ作曲「スペイン交響曲」

仏リールに1823年生まれのラロ。16歳でパリへ。なかなか目が出なかったらしい。弦楽四重奏の奏者として活躍。サラサーテとの出会いで1874年作曲し彼に献呈した「スペイン交響曲」、これが初演されたのが52歳。名声を勝ち取る。その後大曲オペラ「椅子の王様」を作曲。52歳で。それまでには作曲はしていたものか。「スペイン交響曲」までの人生がどんなものであったろうか。

バイオリン渡辺玲子。指揮、圓光寺雅彦、N響であったか、ちょっと考え事をしてしまい聴き落す。

⛳きょうは太陽がにじみ出るようすもないが、昨朝「ちゃんとここにいるよ」と顔をのぞかせた同じ陽は、けさもたしかにあそこに。6時48分更新。

 

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2,086  クラシック倶楽部を聴く   ビアンコ ギター・リサイタル

「次世代のトップ・ギタリスト」の呼び声高い、フランスのガブリエル・ビアンコが初来日。難関コンクールとして知られるGFA国際ギターコンクールほか、若手
の登竜門とされるコンクールを次々制覇、早くも50を超える国と地域で演奏活動を展開しているプログラムには「アストゥーリアス」「アラブ風奇想曲」などギターの名曲が続々登場!アンコールにはあの曲も 2017年8月28日 武蔵野文化会館・小ホールで収録―番組紹介よりー

🎵ビアンコは1988パリ生まれ。父がギターを弾く姿、14歳で母がくれたラヴェルのCD、これがオーケストラだったらしいが、それから音楽の虜に。トゥリーナ作曲の「セビリャーナ」。カステルヌオーヴォ・テデスコ「世紀を渡る変奏曲」。グラナードス「アンダルーサ」。アルベニス「アストゥーリアス」。タレガ「アラビア風奇想曲」。コスト「オートゥイユの夜会」。アンコールはトローバ「マドローニョス」とタレガ「アランブラ宮殿の思い出」。

グラナードス「アンダルーサ」とアルベニス「アストゥーリアス」はともにピアノ曲集の中の一曲であったのを、ギター曲で演奏されることにより知られ、また有名になっている。演奏楽器を変える、或いは奏者が変わることで、それまで知られざる曲に奇跡的な異変が起こることもあるようだ。ギター曲の理解度が低い筆者は、「アランブラ宮殿の思い出」でギターを聴いたと満足し、「アストゥーリアス」に唸っている。テデスコはあまり知られていないが知って欲しいとビアンコ。それにしてもビアンコのギターと曲への愛情、これが演奏する半径数メートルを、観客を包む空気を真摯さと愛情で満たしてくれている。

🎧名曲アルバム。ドビュッシー「花火 前奏曲 第二巻から」【ピアノ】小川典子 ~フランス・パリ~
🎵映像、凱旋門前を交差するヘッドライトとテールランプが印象的。714日パリ祭の世紀末花火がドビュッシーの「花火」か。
コロナ収束には大曲級の花火で祝うことができたなら。

⛳6時前に薄雲の向こうからにじみ出ようとした太陽。また隠れてしまったが、だいじょうぶここにいるからと存在を確認させてくれたようでもある。神の存在も、ほんのちょっとしたことで、ところで、存在を表し、垣間見せてくれるのだ。いま見た目の日の光はないが、たしかに太陽はいま光を放っている。暗い朝も暗くはない。6時45分更新。

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2085 クラシック倶楽部を聴く  二期会2019サマーコンサート3 抜粋

🎵会員・準会員2700人から成る二期会の20198月サマーコンサート3 

☆上田純子。グノー 『ファウスト』より 宝石の歌
服飾品、宝石を身に着けて悦に入る女心を歌う。

☆金見美佳。マスネ 『タイース』より 私を美しいと言って(鏡のアリア)

空っぽの自分。満たせるものはどこに。「タイスおまえは老いる」「ある日タイスがタイスでなくなる日が来る」

☆又吉秀樹(テノール)。チレア 歌劇『アルルの女』第2幕よりありふれた話

眠りは忘却。しかし深く傷つけられた心は何にも癒されない苦しみ。

☆佐藤優子(ソプラノ)、狩野賢一(バスバリトン)
  ベッリーニ 歌劇『清教徒』第1幕よりおお、最愛の叔父様
人の皮を着た獣、とか人の皮を着た悪党などは聞いたことがあるが、ここで歌われるのは「人の皮を着た無垢の化身」への叔父からの結婚の勧め。
☆ 山下牧子(メゾソプラノ)
  サン=サーンス 歌劇『サムソンとデリラ』第2幕よりあなたの声に心は開く

サムソンの力の秘密を聞き出そうとするのはやはりこんなメゾソプラノが。

☆塩田美奈子(ソプラノ)
パブロ・ルーナ サルスエラ『ユダヤの子』より私はスペインから来た
「ロマ」はスペインの血の細部に宿り。
☆与田朝子(メゾソプラノ)。マスネ 歌劇『ウェルテル』第3幕より 「手紙の歌」

ウェルテルの傷心。「ぼくは一人常に一人」
☆今井俊介俊輔(バリトン)。ジョルダーノ 歌劇「アンドレア・シェニエ」第3幕より「祖国の敵」

詩人は破壊者? 「今俺は下僕、殺しながら泣く日々」勝者必衰に泣くか。

☆待ちました。オールスター20人かでの椿姫「乾杯の歌」。愉快そうに歌うも聴くも皆愉快。

 

歌劇から一場面を取り出してのアリア、一連の流れの中になくとも情感こめて歌うすごさ。こうしてみると、オペラの内容は何も構えて聴くものではない。世間によくありがちな人間関係の機微、人情を歌っている。壁があるとすれば、やはり言語。ドイツ、フランス、英語圏に生まれずに損をしたような気分にもちょっと。自動翻訳機があっても……。それはあるとしても、すばらしい声質、声量。二期会、神が人間に与えた“名器”が2700も。これが全く同じ声がなかったとしたら、この楽器の製作者の凄腕がわかろうというもの。

ピアノ伴奏は大藤玲子、山岸茂人。

 



名曲アルバム。レスピーギ「交響詩ローマの祭りチルチェンセス」(管弦楽)東京フィルハーモニー交響楽団,(指揮)渡邊一正 ~イタリア・ローマ~

凄まじいキリスト教迫害。キリスト教、313公認。392国教に。ローマの祭り、血の匂い。

9時46分更新

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2084 クラシック倶楽部を聴く  二期会サマーコンサート2 抜粋

今をときめく豪華な顔ぶれが出演した二期会のサマーコンサート。40人を超える歌手とピアニストが名曲の数々を披露しました。コンサートの2日目から抜粋でご紹介します。【曲目】歌劇「椿姫」から、歌劇「ドン・カルロ」から(以上ヴェルディ)ほか【演奏】山口道子(ソプラノ)多田羅迪夫(バス・バリトン)岸本力(バス)腰越満美(ソプラノ)山岸茂人(ピアノ)他【収録】2019年8月24日渋谷区 大和田さくらホールー番組紹介からー

🎵菊地美奈、ニコライ「ウィンザーの陽気な女房たち」より 「いらっしゃい、陽気な移り気よ」。
日比野幸、与儀巧、ソプラノとテノールで「ヴェルディの歌劇 椿姫」から「パリを離れて」
山口道子、レハール「メリー・ウィドー」より「ヴィリアの歌」。

ここまでの3曲は愛の機微を直截に。すばらしい声量、声質!

鈴木 准・大川 博・多田羅迪夫、モーツァルト「コジ・ファン・トゥッテ」より「我がドラベッラはそんなことありえない」、テノール、バリトン、バスバリトンで女性の貞節はありえない、いや彼女は、をめぐっての掛け合いがちょっと愉快。
嘉目真木子、ドヴォルザーク「ルサルカ」より「月に寄せる歌」。これが比較的日本的というか、ちょうど一昨日の夜中に気づくと月が煌々と家々を照らしだしていたこともありわかりやすく。この歌詞にも愛がこめられているのだが、輻輳する感情が濾過されている分、奥行、美しさがあり、好感が持てた。―空の彼方のお月さまあなたの光はどこまでも届く……世界のどこまでも届き人々の住まいを見つめている……―
岸本 力、ムソルグスキー「ボリス・ゴドゥノフ」より「ボリスの死~さようならわが子よ」
いま息を引き取ろうとするもなお皇帝であり続け、自らは罪に苛まれつつ、次の皇帝たる我が息子を神よ悪から災厄から誘惑から守りたまえと祈り、弔いの鐘を聞きつつ神よ死よわれを赦したまえと迫真の演技が身近に。
腰越満美、ヴェルディ「ドン・カルロ」より「世の空しさを知る神」。もし人が天国でも泣くことがあるなら私の涙を主の玉座へお届けくださいと歌う。堂に入った華麗さとでもいおうか。
字幕は多田茂史、ピアノ山岸茂人。

近代で上演された歌劇がどんなものであったかを思うときに、歌も演技も学ばれ研究され磨き抜かれて現在に斯くあることに隔世の感を覚えた。こんどは日本の歌劇の現代版といった演目を聴きたい。

🎧名曲アルバム。「アビニョンの橋の上で~月の光に」

⛳7時7分更新

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2083 2083 クラシック倶楽部を聴く  二期会サマコンサート1

今をときめく豪華な顔ぶれが出演した二期会のサマーコンサート。40人を超える歌手とピアニストが名曲の数々を披露しました。コンサートの1日目から抜粋でご紹介します。【曲目】歌劇「リゴレット」から(ヴェルディ)歌劇「ミニョン」から(トマ)【演奏】松永知史(ソプラノ)加耒徹(バリトン)三縄みどり(ソプラノ)岩森美里(メゾ・ソプラノ)大藤玲子(ピアノ)他【収録】2019年8月23日渋谷区大和田さくらホールー番組紹介からー

🎵歌劇の一つの聴きどころはやはり、ニコライ「ウィンザーの陽気な女房たち」にある「あなたの娘さんをお嫁にください」のように、僕にはこんなに娘さんに愛があるのだからと愛という宝で父親の説得に努める青年に扮するテノールの西岡慎介と、これに対する父親に扮するバスの倉本晋児は年間600ポンドの収入ある資産家の息子と結婚させるとこの申し出を受け入れないこの平行線、青年と娘の父親との対立を掛け合いで歌い上げ、おもしろいのは賑々しくもドラマテッィクに音楽的に調和ある響きになっているところだ。そしてまたチレーアの歌劇「アドリアーナ・ルクヴルール」にある  「さあ 答えがないわ 開けてください」でソプラノの三縄みどり、メゾソプラノの岩森美里、このふたりが扮する女性は恋敵。これも対立する二人の台詞の掛け合いが奇しくも熟練の表現豊かな音楽表現をも含めて豊かに響き合うおもしろさがある。
前後したけれども、フロトーの歌劇「マルタ」の「もっと近くへおいで はにかみやのお嬢さん」のソプラノ松永知史、メゾソプラノ成田伊美、テノール新津耕平、バリトン藪内俊弥の一幕も狡猾さまでが辛子を効かせて楽しかった。
またアリアを歌いあげた以下の方々、やはりすばらしい声。感心しました。

ヴェルディ作曲:歌劇『リゴレット』から
  「慕わしい人の名は」
   (ソプラノ)全 詠玉
ヴェルディ作曲:歌劇『リゴレット』から
  「ほおの涙が」
   (テノール)山本耕平
トマ作曲:歌劇『ミニョン』から
  「こよい 私は妖精の女王」
   (ソプラノ)愛 もも胡
チャイコフスキー作曲:歌劇『スペードの女王』から
  「あなたを愛しています」
   (バリトン)加耒 徹
ベルリオーズ作曲:劇的物語『ファウストのごう罰』から
  ロマンス「燃える恋の思いに」
   (メゾソプラノ)小林由佳

🎧名曲アルバム。「長崎の鐘」古関裕而・作曲、上柴はじめ・編曲
昭和20年8月9日、長崎を破壊した原爆。がれきの中から、浦上天主堂の鐘が、奇跡的にほぼ無傷で発見される。被爆した鐘は今もなお平和への祈りをのせて長崎に鳴り響くー番組紹介よりー

🎵「エール」の古関裕而。高橋源一郎ら3人の対談を思い出しながら聴いた。

⛳聴き終えてかき始める時間が遅くなってきている。一息つきたくなる近頃。けさは6時半からの書き出し。して7時6分更新。

 

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きょうのことば

インマヌエル盛岡キリスト教会2020年7月26()のメッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『危機に証しされるホーリネス』(國光勝美牧師)
聖書個所 旧約聖書 創世記281022

10 ヤコブはベエル・シェバを出て、ハランへと向かった。
11 彼はある場所にたどり着き、そこで一夜を明かすことにした。ちょうど日が沈んだからである。彼はその場所で石を取って枕にし、その場所で横になった。
12 すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。
13 そして、見よ、主がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。
14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地上のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。
15 見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。
16 ヤコブは眠りからさめて、言った。「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」
17 彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」
18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを立てて石の柱とし、柱の頭に油を注いだ。
19 そして、その場所の名をベテルと呼んだ。その町の名は、もともとは、ルズであった。
20 ヤコブは請願を立てた。「神が私とともにおられて、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る着物を下さり、
21 無事に父の家に帰らせてくださるなら、主は私の神となり、
22 石の柱として立てたこの石は神の家となります。私は、すべてあなたが私に下さる十分一を必ずあなたに献げます。」

 (7月23,24日にインマヌエルの東北、北海道、深川教会参加のズーム聖会が開かれましたが、開催の経緯などに多くの時間が用いられました。國光牧師は2日目の登壇でした。本日のメッセージはこの時の説教に関連した内容です)

 <説教>

 毎年、夏の聖会が開かれておりましたが、ことしはズームでの聖会となりました。東北、北海道、また深川の方々の参加もございました。聖会第2日目でメッセージを取次がせていただきましたが、その準備の背景などを『危機に証しされるホーリネス』と題してお話ししたく願っております。

 実は今回は、「歩く」ということが聖会メッセージのキーワードになりました。このための心備え、思い巡らしは一か月前からで、ずっと頭の中では準備はされていたのですが、どういう切り口で限られた時間内にお話をすべきか。

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 私はよく鞍掛山に出かけます。山歩き。皆さんはもうご存知ですが、これは自分の生活にはとても大切な部分となっています。もう20年も前になりましょうか、仙台の茂庭で聖会が開かれたときの講師は野田秀先生でした。司会が光栄なことに私。思えば私の山歩きはそのときから続いております。さあいよいよ来週が東北聖会だというので、私は鞍掛山の道をずっと歩きながら思い巡らしていたのです。夏休みで、相ノ沢キャンプ場にはたくさんのテントが並んでいます。テントがまだ目覚めていない朝早くにそこを過って、山道を登っていきます。主よ、と近づいた東北聖会のために祈りながら歩く。これがよい恵みの時なのですが。歩いているうちにガサガサ、ガサガサッと藪の中に足音が聞こえました。こんなに朝早く藪の中を歩く人って何だろう。だんだん近づいてくる。何とクマが間近に来ていたのです。忘れられません。それをいつも思い出します。

 新たな試みであるズーム聖会ではどんなことを話したらよいか、思い巡らしながら鞍掛山の道を歩いていきました。個人的な経験からですが、歩くということは、ひとりになれる。特に日曜日の御用を終えて、だいたい私は月曜日に行くことが多いのですが、ほんとうの意味で孤独に身を置いて色々と思い巡らす。反省したり、或いは、祈ったり、物理的にひとりになれるのがこのときです。
 そのときに神様が語りかけてくださる。これは何か神秘的な声が聞えるのではなく、聖書の中の言葉が、その時に応じて思い巡らしの中に出てくるのです。ああそうでした。神様が語りかけ、そして私がそれを祈るという形で応答ができます。神様、こうしてください。それに対して神様が応えてくださる。そこは誰にも迷惑をかけず、ひとりの世界です。そこで大声をたてようが叫ぼうが泣こうが、ひとりになって歩くことは格別な祝福です。今回『危機に証しされるホーリネス』をメッセージするにあたって、歩き、祈るうちに、創世記28章が心に留まりました。

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 地図をご覧ください。エルサレムの下の方にベエルシェバがあります。これを出発点として、行き先はハラン。現在のハッラーンです。歩くと188時間の距離。ここをヤコブがひとりであるくことがどんなことを意味するのか。
 どんな辛い悲しい恐ろしい気持ちでこのベエルシェバから行ったのでしょうか。そして、そこに自分が鞍掛山で経験した一歩一歩あるくとき、神様が語りかけてくださる。ひとりになって涙をぼろぼろ流したかもしれません。ヤコブは、兄エソウが受けるはずの長子の祝福をだまし取りじくじたるものがあったでしょう。自己弁護もしたかもしれない。兄エソウが先に生まれただけで、なぜ長子の特権を受けることができるのか。僕だって同じ権利があるはずじゃないか、なんでこんなに違うんだ。人間的にはそんな思いがヤコブの中にある。たった一杯のスープと引き換えに神の祝福をあっさり譲る兄の軽薄さをなじったかもしれない。だから兄はダメなんだ。彼は歩きながら自分を正当化しよう正当化しようとする。そういうものなのです。ひとりになって歩くとき、夜には遠くでウォーっと野獣が吠える。コンビニに行って何かを買える状況にもない。孤独で歩くときには、あれこれ考えるものなのです。お兄さんが悪い? 結局、ぼくが悪いんじゃないかなどなど。

 鞍掛を歩いていたときに、神様に扱われた人にはエリヤもいたなと。エリヤがカルメル山でバアルの預言者たちと対決し大勝利を得たことがありますが、王妃イゼベルがエリヤを殺害しようとしたために、エリヤはベエルシェバまで逃げていきます。どれぐらい歩いたのか。カルメル山からベエルシェバまで歩いて39時間。このときエリヤは、どうして俺が殺されなくちゃならないんだ、これだけ神様の使命を果たしてるじゃないか、そんな思いだったでしょう。ベエルシェバから神の山ホレブまで歩いていくのです。これも見ますと86時間。エリヤは神の山ホレブに至って、そこで神様と出会う。神様が「エリヤ、おまえはここで何をしているのか。」。嵐の中に神はおわし、しかしそこに静かな神の御声があった。エリヤはここで立ち直りました。歩いている人は神に扱われます。神と出会う。ヤコブも神と出あった。エリヤも神と出あっている。同じ体験をした放蕩息子もいます。

 放蕩息子は早々と財産の分け前を受けて遠い国に行ってしまう。ある意味、お父さんの目の届かないいちばん遠いところ、神様の目が届かないと思われるいちばん遠い国まで行って、そこで湯水のように財産を使い果たし、落ちるところまで落ちて、彼はついにはっと気がつくのです。ルカの福音書15章にあります。

17しかし、彼は我に返って言った。……18 立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。 19 もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』 20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。

 このときもこの息子は歩いていた。歩きながら自分の愚かさを反省し悔い改めている。自分自身の本質を徹底的に見つめた歩きではなかったか。彼がお父さんのもとに帰り謝罪すると

 22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。 23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』

 お父さんの方が彼を見つけて走り駆けよってよく帰って来たと迎えている。

 山道をほんとうにひとりになって、主の前に出るとき、その山道が、或いは、ヤコブ、エリヤ、放蕩息子が歩きたどったその道が、その場所が、神様に扱われる宝物のような場所になるわけです。

 人の試練とは何なのか。ヤコブは自分の責任から来た試練。エリヤは神様の御用を果たしたにも関わらずなぜ自分がこのような目に遭うのか、そういった試練。放蕩息子は自らの愚かさからどん底になる。危機に遭う試練に遭う原因と種類はそれぞれに違いますけれども、ただ言えることは、そこで等しく神様の取り扱いを受けているということです。神様に扱われてホーリネスのすがたに導かれる。そこに至るのだということであります。

※画像は教会からお借りしています。

⏰5時56分更新

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雑感

6時前には、もう梅雨明けかと思われる眩い光が屋根屋根を照らしていたが、いまはその鋭さを隠して穏やかな空気が一帯を包んでいる。

一応J-MEROを一通り聴く。ゲスト3グループのうち、E-girls、三つのユニットを備える。バラード、ダンススキル、ヒップホップのどれにも即対応可能。紹介された動画「シンデレラフィット」のファッションがなかなかのオートクチュール感覚。デザインはいったい誰が……。

 この後番組、「廃線」紹介、山陰の鉄旅の紹介。思えば日本海側の路線を歩いたことはないが、このコロナの時期は密を避けられる路線なのかかも。とはいうものの旅する予定はない。岩手の岩泉線も紹介されていて、紅葉はコロラドに負けないと。

 「廃線」を見ているうちにいつの間にか「廃校」、子どもたちの通わない、歓声が途絶えて久しい校舎と校庭が脳裡に。その数はウィキペディアにも出ている。

 スタートを切った8月。「線路は続くよ」。先ずは助走をつけ緩急あるアンダンテでいこうか。

⛳6時45分更新


 

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