きょうのことば
インマヌエル盛岡キリスト教会2020年6月28日(日)のメッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。
説教題 『信じることの恵み』(國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 ペテロの手紙第一 第1章3~9節
1:3私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。 1:4また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために、天に蓄えられています。 1:5あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。 1:6そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、 1:7試練で試されたあなた方の信仰は、火で精練されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現われるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。 1:8あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びにおどっています。 1:9あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。
<説教>
はや上半期は締めくくられようとしております。
この週の6月25日は、この教団の創設者蔦田二雄が検挙された日でもあります。
治安維持法違反という嫌疑の下に教会が弾圧を受け何人もの牧師たち逮捕されております。第一弾がこの6月、それからまた11月に第2弾がありました。報道は統制されており新聞でもあまり取り上げられず、教会の中だけの情報として伝わっていたでしょう。教会はそのような困難を通ったときがありました。
今日の様々な困難の中での自粛という事態を考え合わせたときに、私たちの持っている信仰っていったい何なんだろうか。ここでもう一たび立ち止まって、ああ、これが私たちが信じている福音なのだということを共に共有し、下半期へと進みゆきたいと願って、きょうはエペソ人への手紙の連続講開からちょっと外れまして、そのところを扱いたいと思っているところであります。
さて、もし皆さん方、教会が閉鎖されるということになったなら、どのような在り方をするものでありましょうか。実際に昭和17年に宗教弾圧が政府の手によって為された時代があった。そんなに昔の事ではない、そしていま私たちがコロナに。ただ盛岡は感染者がないので変わらずに、マスク着用、手のアルコール消毒を励行しながら集会を持っておりますけれども、同じ教団でも首都圏、その他、さまざまな地域では集う事ができなくなっている。そういう中に、もういちど、さあ、あなたは何をもってクリスチャンとして歩んでいるのですかと突き付けられたとき、私は第一ペテロの1章の8節と9節。1:8あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びにおどっています。 1:9あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。
このおことばを掲げたい。とても大切なことばが8、9節に記されています。たしかにこれは今日の私たち一人ひとりがアーメンと肯くことのできる告白ではないでしょうか。
イエス・キリストを見たことはないけれども私たちは心から愛し信じている。信じているということは、そのお方にすべてを信頼して人生のすべてを賭けている。そして、栄えに満ちた喜びにおどっています。
第一ペテロの1章6節、7節など見ますと、今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならない、人間的に言えば悲しんでいる状態である。そして7節、試練で試されたあなた方の信仰は、火で精練されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、とありますが、ほんとうに大きな試みの中にある。問題課題が特にない淡々としている信仰生活のときもそれは恵みに違いないですけれども、しかし大きな試練の中にあっても、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これはほんとうにすばらしいものです。それはどうしてなのかというと、あなたがたが信仰の結果である魂の救いを得ているからなのです。このメッセージを昨晩準備をさせていただきながら、私も心も言い尽くせない栄に満ちた喜びに踊り、躍動している。もうじっとしていられない。それは、信仰の結果である魂の救いを得ているからです。
先ほど申しました昭和17年6月26日の弾圧を、私たちは蔦田二雄先生が群れを創設された後で折々に文書に遺したことで知っております。そしてなぜインマヌエルという名前を教団につけてこの働きを継承されたのかということも知っております。
あの弾圧は色々な見方があります。天皇を中心とした国の権力がそれを是としない、特に大国である欧米の宗教であるキリスト教を信奉しているとんでもない輩である。突然、特高がやってきて様々なものを押収していったそうです。その中には英文タイプライターも。暗号文章を作成するのだろうと。
蔦田先生がそのような今までの働きから突然切り離されて獄中に。それは反省するときでもあったといいます。ホーリネスの歴史を考えるときに負の遺産といったらいいのか、福音理解をめぐっての激しい衝突もありました。当時のホーリネスの中田重治監督が、イスラエルの救いをまず先に祈り求めるべきだと主張、これに対し、イスラエルの救いが第一ではなく伝道ときよめということが聖書の中心である。新生、聖化、神癒、再臨を掲げた路線があった。これが内紛問題にまでいってしまった。新聞の攻撃の絶好の種になってしまった。主の僕たちが争うというセンセーショナルとなったとも聞いております。その時になぜホーリネスの群れにこれだけ激しく弾圧がきたのか。
蔦田先生は獄中でほんとうに今が悔い改めるときだ、あの争いがどれだけ主の御名を傷つけ、主を悲しませたか、それをしっかりと受け止めて悔い改めるべきことを先ず行った。
これまで私は何を大切ななものとして伝えてきたのか、それは、「神が私たちとともにおられる」。獄中にあって、すべてのものから遮断されていた時、最後に自分がこれから伝えようとするものは何か。それは、「神が私たちとともにおられる」、この確信を持ち、そして、その働きがスタートしたということを思います。
この第一の手紙の1:8あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びにおどっています。 1:9あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。大きな意味をもっているように思います。獄中で、蔦田先生もまた同じ経験を。それは「信仰の結果であるたましいの救いを得ているから」なのです。
この第一ペテロの中に、私は「生ける」というキーワードがあるように思いますがこれでまとめることができるでしょう。
第一番目が「生ける望み」、これは3節にあります。
1:3私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。
ヴィヴィッドなほんとうに生命に溢れた生ける望みがあるから喜びに踊るのです。
もう一つ「生ける」という言葉が。
第一ペテロ1章23節
あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。
私たちが大きな試練の中にあってもなお喜び踊ることができる、生ける望みを持つことができる支えは何かというと、いつまでも変わることのない生ける神のことば。これによって支えられています。生けるかみのことばです。
1章24節見ますと
人はみな草の花のようだ。
草はしおれ、
花は散る。
しかし主のことばは永遠に立つ。
変わらないまことの生けるかみのことば、これがわかるから、私たちは生ける望みを持っているのです。
そしてもう一つ、尊い生ける石
第一ペテロの2章4節
主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた貴い生ける石です。
あんなのはメシヤじゃない、と多くの人々に捨てられ十字架につけられたお方、しかしこのお方はよみがえられたお方。人には捨てられたけれども神には選ばれた生ける石。そしてあなた自身も生ける石として霊の家に築き上げられた。
そして、2章6節
見よ、わたしはシオンに選ばれた石、
貴い要石を据える。
この方に信頼するものは
決して失望させられることがない。
私たちの生ける希望、それは変わることのない神のことば。そして死からよみがえって下さった生ける貴い石、このお方があるから、私たちはほんとうにしばしのあいだ苦しみがあるけれども、1章の8節9節はほんとうに大きな恵みのことばです。天国への望みとしても葬儀でもよくお開きすることがあります。
1:8あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びにおどっています。 1:9あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。
※ 画像は教会からお借りしています。
6時12分更新
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