きょうのことば
インマヌエル盛岡キリスト教会2020年7月12(日)のメッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。
説教題 『どのような歩み方を』(國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 エペソ人への手紙 第5章15~20節
5:15ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、 5:16機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。 5:17ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。 5:18また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。 5:19詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から讃美し、歌いなさい。5:20いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。
<説教>
きょうは前回とも深く関わるのですけれども、自分がどのように歩んでいるかというエペソ5章15節にポイントを定めて学んでいこうと思っております。これを思い巡らしているときに、私の心の中には、「自分が」と「自分は」の二通りが浮かびました。「自分が」どのように歩むかという捕え方よりも「自分は」果たしてどう歩んでいるのかに向き合ってみましょう。
私はどのように歩んでいるのか。歩むうえで細かく注意を払いなさいとあります。聖霊とともにむとき、注意深く歩むことがとても大切です。
テレビの番組で、児童たちが何人かずつ組んで、対抗の縄跳びをしているのを見ました。両端を持って回す縄を、一人跳び、二人跳び、そして跳ぶ人数が増えていく。たくさんの人がそこに入って果たして何回跳べるのか、そんな競技です。一人でもリズムを崩すと途中で記録が止まってしまう。まして、聖霊様、イエス様と歩調を合わせてあるくときには、細かく注意しながら歩みたいものです。
「知恵のない者としてではなく、知恵のある者として」歩みなさいとあります。このエペソ書を記したパウロは、「知恵のない者」、「知恵のある者」をどのようにイメージしていたのでしょう。
聖書には「知恵のない者」と「知恵のある者」の両方が出てきます。
「知恵のない者」、これは、「愚か者」である。そんな言葉を使っていいものだろうかと躊躇するのですが、詩篇14篇1節「愚か者は心の中で「神はいない」と言う」。ここに「心の中で」とある。微妙です。私は無神論者のような愚か者ではありませんよ、自分は神様を信じている者です、と言っていながら、本音を探ると、なあに神様神様と言ったって、クリスチャンと言ったって、という本気ではない思いがある。それは公にではありません。その人の信仰の深いところで、ほんとうに私は神を信じているかどうかを探られます。心の中で、神はいないという。これは、神の恵みに心を閉ざす者。これを愚か者と言わずして何と言いましょうか。神の恵みがせっかくあるのに、その神様の恵みに心を閉ざしている者を聖書は愚か者というのです。
エペソの5:15に返りますけれども、私たちが、どうか、そのような知恵のない者でありませんように。ほんとうに神様の前に「我常にエホバの前に身を置けり、汝われにいませば、我動かさるることなし」と言えるような、いつでも神様を意識し、そのような細心の注意を払って歩もうではないかとパウロはここでいっているのではないでしょうか。
これに対する「知恵ある者」。聖書の中にはたくさん出てくる。その「賢い人」の一例を挙げますと、
マタイ7章24節「7:24わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます」
「賢い人」、それは神のことばを聞いて、実際にそれを行う人のこと、そして、神の恵みに心を開く人のことです。エペソの5章にもあるとおりです。
社会にあって様々な人々に囲まれて生きている私たちです。何が神様に喜ばれることなのか、どうか光の内を歩みましょう。そのように命じられる神様は、私たちに御子イエス様の恵みを十分に与えておられます。さあ聖霊と一緒に、御霊と共に歩もうではありませんか。私たちはそのような歩みができない者じゃない、歩むことができる恵みを十分に与えてくださるその神様に心を開いて、そして聞いて、なるほど、そして、そのようにしましょうといって御霊と共に歩む。細心の注意を払いながら、神のおことば聞いて、それを行う。行わせてくださる神様の恵みは十分なのだ、そうだ! と神様の恵みに心を開きましょう。
何が神様に喜ばれることなのか
エペソの5章15節「自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、 歩こうではないか」。
自分はそのように歩んでいるだろうかと顧みるときだろうと思います。
さらにこのところを読んでいきますと、16節「機会を十分に活かしなさい」とあります。「機会」とは、
コリント第二 6章2節
「神は言われます。
「恵みの時に、わたしはあなたに答え、
救いの日に、あなたを助ける。」
見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。」
そうです。今が神様の恵みの時なのです。そうだ、機会を十分に、この機会を生かさなければ。生かそう。生かさなければ。この機会を十分に生かしていこう。今は時代が悪い。しかしその時に、恵みの神様が、さあ祈ってごらん。わたしはあなたを助ける。見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。
テレビで林修先生でしたでしょうか、「今でしょう」と。そう今です。
エペソ5章15,16節に耳を傾けますと、おことばが諄々と私たちを諭してくれます。
そして17節「愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい」。とあります。主の御心が何であるのかを悟り、そして注意深くそれを行うように。そして今は恵みの時、今は救いの日です。ならば、さあ神様の御心は何でしょうか。テサロニケ第一4章3節にあります。「神のみこころは、あなたがたがきよくなることです」。はっきり書いてある。これを細かく注意を払いながらエペソ書にあるこれらのことを1節1節味わいながら次の18節「また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです」。
よくクリスチャンがお酒を飲むのはどうですか。だって聖書の中には、あなたは体が弱いから葡萄酒を用いてと書かれているところもあるじゃないですか。しかし、聖書のおことばは全体をよく見て総合的に理解しなければなりません。たしかに聖餐式のときには葡萄酒が用いられる。私はここでクリスチャンと飲酒問題をテーマにお話しするよう導かれてはおりませんが。おもしろいのは「葡萄酒に酔うな」と書いてある。逆に酔わなければいいのか。しかし18節の「ぶどう酒に酔ってはいけません」の次に「そこには放蕩があるからです」とある。「放蕩」、もうこれは私たちは世の中で見てきました。どうかこのところだけが今日のメッセージの中で忘れがたいところと取られると、また本意ではないのですが。
明治以降に福音が入って来たときに、宣教師たちには、自分の聖書が伝える理念、理想によって人がつくり変えられるのだという聖なる実験ともいえる信念があったでしょう。キリスト教は、酒も特には咎めない神道、仏教の価値観のある人々には、「酒飲むなたばこ吸うなの耶蘇教はアーメンどうな宗旨なりけり」とも揶揄されました。一般には抵抗感を持たれるほど、福音とはこういうものであると知らせたいものがあったのだろうと思います。そのところだけを大きくクローズアアップして、キリスト教とはアーメンどうなとからかわれるようになったのかもしれない。でもそれらのことを今どうこういうのではなくして、現実的にお酒に酔うことが人生を奈落に突き落とし、酒に酔って放蕩に身を持ち崩すことをどれほど周囲に知るかというときに、飲まなくて済むものなら飲まない方がどれほど楽だろうか。つくづくそう思います。
パウロは、葡萄酒に酔うんじゃないと言っています。ここでは「御霊に満たされなさい」とある。むしろ御霊に酔ったらいいというのです。ペンテコステに御霊の注ぎがあったときに、エルサレムに集まった人たちは、聖霊に満たされて異なる言語で歌って語った。このようすを見て、あの連中は酒に酔ってるんだと批判する人たちがいたほどで、御霊に満たされた弟子たちは、ほんとうに御霊に酔っていた。一時的なアルコールの持つ快楽とはまったく違います。御霊は放蕩とは無縁です。
5:19詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から讃美し、歌いなさい。
エペソ5章14節をみてください。
明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。
「眠っている人よ。目をさませ。
死者の中から起き上がれ。
そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」
暗闇の中で、罪の中で眠っている者たちよさあ起きなさい。罪と滅びの中にいる死者の中から起き上がりなさい。そうすればキリストはあなた方を照らされる。我は世の光なりというイエス様です。「」で括られている部分、これは歌だったわけです。「詩と賛美と霊の歌」、どんな歌だったのか聴いてみたいですね。とにかく御霊に満たされて、さあ眠っている人よ起きよ、キリストがあなたを照らされる。何々さん、何々くん、ほんとにそうだよね。互いに語り合って主に向かって心から讃美し歌いなさい。ファニークロスビーの賛美歌もあります。チャールズウェスレーの賛美歌もあります。私たちが親しみ恵まれている賛美歌を、聖霊に満たされて喜びに満ちて、詩と讃美と霊の歌を持って歌おうではありませんか。
果たして自分はどのように歩んでいるだろうか。どうか今日は立ち止まって思い巡らしましょう。1節1節追うように恵みをいただきました。どうぞ御霊に満たされて詩と讃美と霊をもってお互いに恵みを分かち合い主に向かって心から讃美するときに、繰り返すようですが、先生お酒を飲むことはいい事ですか、悪い事ですか、そんな質問は出て来なくなるでしょう。もうこれだ、ここでこれだけ出されたほかに何があるんだろうか。という思いをもって、おことばに聞く耳を持ち、そして与えてくださる力、神の恵みに心を開いて、愚かな者でなく賢いものとして歩ませていただきたいと思います。
※教会ではマスク、アルコール消毒、マスク着用をこころがけています。写真はコロナ以前に撮ったものです。
⛳久しぶりの梅雨晴れ。明るい朝を迎えています。6時45分更新
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