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2020年7月

20731 20731 20731  クラシック倶楽部を聴く  タカーチ弦楽四重奏団  

世界屈指の人気カルテット「タカーチ弦楽四重奏団」が登場!ハイドンとベートーベンの傑作を披露!ー番組紹介よりー 

🎵タカーチ弦楽四重奏団は1975年ハンガリー生まれ。メンバーの入れ替わりは当然あったようで、現メンバーは

1バイオリン エドワード・デユシンベレ
2バイオリン ハルミ・ローズ
ビオラ ジェラルディン・ウォルサ
チェロ アンドラーシュ・フェイエール

演奏に現われる明るさを感じながらそれぞれのコメントを聞く。ウォルサが自画自賛すればこのカルテットは芳醇で明朗と。 

1曲目ハイドン「弦楽四重奏曲 鳥」、朝の目さっと覚めにはリズミカルで明るく心地よい響き。森の眠りと思わせる部分が薄闇の奥に聴こえるようなのだが、鳥たちは目覚めて軽快、明朗。

2曲目ベートーベン「弦楽四重奏曲 ラズモフスキー」。第一楽章、孤独感に残留せずにさっと次の光さす世界に扉が開く。それが「明るく堂々たる曲調」との解説のごとくなのだ。第2楽章、ビオラの旋律に苦しさ、チェロの憂鬱。作曲者が楽譜に書き入れているさまをなぜか想像していた。こんな感じかな、こうでいいだろう、ここはまだまだ、そうこんなところだろう……。落ち込む気分というよりは逡巡しながら音を探り出しているそのさまをそのまま音符にしているのではないかと。第3楽章、もうこの辺で、こんな感じに……。自分が納得できる旋律に届きそう、第9でこの音じゃない、その音でもない、そうそうこの音という場面が思い出される。第4楽章、見えてきたとばかりに、そうこうだ、これなんだよと、どんどんあふれ出してくる。奏者たちの後ろをのぞきまわっているベートーベンのすがたを勝手に想像する。実に創造は自由で楽しく愉快なもの。

 タカーチいう「ベートーベンが努力して勝ち得た」一曲がここに。 

🎧名曲アルバム「無伴奏バイオリン・ソナタ 第4番」(バイオリン)川田知子 ~ベルギー・リエージュ、ブリュッセル~

⛳7時10分更新

 

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20/7/30  クラシック倶楽部を聴く  ノトス・カルテット

2007年にベルリンで結成された世界でも珍しい常設のピアノ四重奏団、ノトス・カルテット。マーラーとバルトークのピアノ四重奏曲が演奏された。マーラーは16歳、バルトークは17歳で作曲された若き日の作品。バルトークは楽譜が失われていた知られざる作品で、ノトス・カルテットが再発見し、今回の日本初演が実現した。2019年7月2日、京都コンサートホール アンサンブルホールムラタでの収録。―番組紹介よりー

 

🎵

ヴァイオリン シンドリ・レーデラー
ヴィオラ アンドレア・ブルガー
チェロ フィリップ・グラハム
ピアノ アントニア・ケスター

 

マーラーが16歳で作曲した「ピアノ四重奏曲イ短調」、歌心あふれ抒情性に富み、瑞々しい、それに加えてドラマ性も。とても16歳とは思われない老成した部分も。レーデラーであったか、我々はオーケストラのようにも23人で弾くようにも演奏できると語っていたが、もうこの曲からにして、ピアノが入っているという理由からばかりではなく、オケ並みの量感、質感を感じさせる。第一楽章からが終章のような豊かさがあり、この楽章だけでも事足りるかの満足感。曲が進むごとに、調和という目標はすでに眼下、気づけば各パートが完全に前面に躍り出て各々の個性を存分に発揮している。これがノトスならではの響き、滋養の豊かさであるかと。

バルトークの「ピアノ四重奏曲ハ短調」、これがまたすばらしかった。ノトスの誇りとする曲。ブタペストの国立公文書館にこの曲があると知ったもののコピーを取ることができず、楽譜を探し歩きやっと発見し、初演に漕ぎつけたのだとか。日本では初演。バルトーク17歳、ブラームスの影響が濃く、密度の高い演奏との解説。終始聴く者の意識を逸らせないすばらしい演奏だった。

アンコールはブルガーの日本語での紹介で、クライスラー「愛の悲しみ」、エルガー「愛のあいさつ」の2曲が。実はクライスラーが来日の時、盛岡にも来てくれていたのです。

 

 

🎧🎵名曲アルバム。「歌劇椿姫からプロヴァンスの海と陸」(バリトン)小森輝彦,(管弦楽)東京フィルハーモニー交響楽団,(指揮)北原幸男 ~フランス エクサン・プロヴァンス~―番組紹介よりー

⛳昨日、岩手にもコロナ感染者。きょう対策本部会議が。7時ジャスト更新。



 

 

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20729 クラシック倶楽部を聴く キアロスクーロ四重奏団

名手アリーナ・イブラギモヴァが率いるカルテット、キアロスクーロ四重奏団。チェロ以外の三人が立って演奏する独特なスタイルによる、しなやかなアンサンブルをおおくりする。【曲目】弦楽四重奏曲ト長調作品18第2(ベートーベン作曲)、弦楽四重奏曲第1番変ホ長調作品12(メンデルスゾーン作曲)【収録】2019年4月23日 王子ホール(東京都中央区)―番組紹介よりー

 

🎵「キアロスクーロ」、これは絵画の方でいう「光と影」であるという。弦楽四重奏としては珍しい立奏。チェロだけは楽器の性質上座っているけれども。コメンントでは、立奏の方が音がよく出ると。ガット弦を低く調弦するなど、光と影を弦で描出するためにさまざまな工夫が為されているようだ。メンバーは
アリーナ・イブラギモヴァ:ヴァイオリン
パブロ・ヘルナン・ベネディ:ヴァイオリン
エミリエ・ヘルンルント:ヴィオラ
クラーレ・ティリオン:チェロ

2005年の結成。「並外れたユニークな音色だけでなくアンサンブルに知性ある姿を兼ね備え」とユーラシックには出ている。この知性が曲を凌駕したというほどではないが、この知性支配とまでは言い難いかもしれないが、何か、曲そのものを超えていたという感じが。ただし、これがベートーベンの曲も多分に実験的であると感じられたままに聴いているわけで、そこに整合性を聴き分けられなかったのは、それこそ筆者の側の感性の乏しさであることも多分にあるかもしれず、モノ申した分を引っ込め引き下がれとなっても、直感を押し通すだけの迫力と論拠を持ち合わせてもいない。演奏技術の高さはもうその通りで、もしかすれば曲の好みの問題か。

ベートーベンの「弦楽四重奏曲ト長調作品18第2」。そしてメンデルスゾーンの「弦楽四重奏曲第1番変ホ長調作品12」、1829年メンデルスゾーン20歳での作品。ベートーベンの影響があると。メンデルスゾーンの終楽章の巧みさ見事さをこの曲でも見せつけられたというか、いよいよ認識を強くしたというか。終楽章が受けた多くの影響の集大成、大団円と感じられた。

 

🎧名曲アルバム

リュートのための古風な舞曲とアリア第3組曲から第1曲イタリアーナ」レスピーギ作曲 (リュート)櫻田亨,(弦楽合奏)東京フィルハーモニー交響楽団, 

🎵この工房はローマの中心部にあるらしい。リュートもまた古くからの技法であると。いまは古楽器やリュートの修復が主な仕事。リュートは16世紀に隆盛、バロックの終わりに衰退。これに光を当てたのがレスピーギ。近頃は古の楽器がむしろ音が溢れジャンルを問わずに選べる現代に、単一の音で気分をシンプルに平明に単一的に、そして安ど感をくれるところがある。

⛳けさも聴いている最中535分に地震情報が。こんどはどこ? と書きはするが、「こんどは」と思うゆとりはなく、「どこ?」。大雨災害にたたられ、それがまだたたられ途上にあるこのときに、また!? まさか九州じゃ、あそこじゃ、こっちじゃなかろう、と数々の被災地が浮かぶ。茨城県震度3と出てすこしほっと。コロナ危機に流され壊され、それでも沈まぬ沈んでなるかの日本列島などと自分を励ましている今朝

7時5分更新。

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20728 クラシック倶楽部を聴く  ヴェリタス弦楽四重奏団   

アメリカ、イギリス、日本と世界各地のオーケストラを拠点にもつ4人が集ったヴェリタス弦楽四重奏団。新世代の演奏家による四重奏をお送りする。【出演】ヴェリタス弦楽四重奏団(バイオリン:岩崎潤島田真千子 ビオラ:小倉幸子 チェロ:工藤すみれ)【曲目】弦楽四重奏曲第2番「カンパニー」(グラス作曲)弦楽四重奏曲ヘ長調(ラヴェル作曲)ほか【収録】2019年3月27日 上野学園 石橋メモリアルホールー番組紹介からー

🎵一旦書いた記事消失してしまい、とりあえずラヴェルの演奏だけを。
「弦楽四重奏曲ヘ長調」こころの襞の見え隠れ、揺れ、そして第3楽章では活き活きと、緩急の緩のフレーズでも激しさを感じさせる巧みな演奏、聴いた後にはすっきりとした共感があった。

作曲家グラス、簡略にはジュリアード音楽院、フランスでも学び、のちにはシタール奏者のラヴィ・シャンカールに強い影響を受けたらしい。に宗教的な動機から北インドへ旅行し、1972年に、というから35歳かで仏教徒となっている。チベット難民を強力に支援している。この曲ではないけれども、グラスのインタビューが出ており、こちらで、どんな方か身近に。ラヴィ・シャンカールの響きはこちらに。

🎧🎵名曲アルバムはマーラー「交響曲第9番」飯森範親&N響
マーラーは最後の部分に「死に絶えるように」という指示を記しているようだが、むしろこの部分を聴き逃さじとポリュームをアップ。大自然の懐に回帰、吸い込まれていくように消えていったと感じたのは、映像の魔術ばかりではなかったかと。

⛳グラス周辺を当たっているうちに記事消失。誤操作したという認識もない。誤ってキーを押したものか、PCが疲れていたか。とりあえず6時58分更新。東北に土砂災害警報。秋田新幹線はストップか。明日の明け方までは警戒。

 

 

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20/7/27 クラシック倶楽部を聴く ベルチャ弦楽四重奏団

ダイナミックで自由な音楽解釈が高く評価されているベルチャ四重奏団。メンデルスゾーンの第6番ほか、作曲家の最後の弦楽四重奏曲を集めたコンサートからお送りする。【出演】ベルチャ四重奏団(バイオリン:コリーナ・ベルチャ、アクセル・シャハー、ビオラ:クシシュトフ・ホジェルスキー、チェロ:アントワーヌ・レデルラン)【曲目】弦楽四重奏曲第6番(メンデルスゾーン作曲)ほか【収録】2019年2月1日 紀尾井ホールー番組紹介よりー

 

🎵ベルチャがいう「4人はそれぞれに演奏技術もヴィブラートの掛け方も違う」といっていた点は意外。モーツァルトの「弦楽四重奏曲変ロ長調K.589」、拘泥することなく駆けるといったところがない。筆者の壊れかけた脳細胞を再生させる効果まではともかく、傷ついた部分が癒されはするだろうと第2楽章の逍遥に気分を合わせていたが、第4楽章での4台の楽器の語り合いは、こういうことがあったよ、ああそう、ああいうこともあったよ、それはよかった、人生捨てたもんじゃないさ、そんな会話が聞こえたような。

メンデルスゾーンの「弦楽四重奏ヘ短調第6番」、これがメンデルスゾーンが最後にたどり着いた音楽の形であるとベルチャ。メンデルスゾーンが最愛の姉ファニーを失くしての作曲。この2か月後には自らもこの世を去っている。

「ダイナミックで自由な音楽解釈」とはこのメンデルスゾーンの演奏のことかと。斬新な切り口。これは最後まで迫り徹頭徹尾聴かせるだろう、そしてそれは当たっていた。内容的にはシューベルトの「死と乙女」を連想させる。緊迫感が注意力を逸らせない。寂しげな影が移ろう。これがあの「ホ短調」を作曲した彼なのか。第2楽章での煩悶。第3楽章で魂の居場所を求め探り出したか。第4楽章、情動の緩急の巧みさ。1楽章がここで尚深まり行く感じが。おさまりのつかぬ索漠に敢えて折り合い整合性をつけるかに弦が融和し一つのマッスとなって落着。実にすばらしい演奏だった。

 

🎧🎵名曲アルバムはショスタコーヴィッチの「革命交響曲」高関健&N響。
1937
年革命20周年記念のとき初演。前衛の気概を削いだヒトラー並みのスターリンの血の粛清。思い過ごしか、今がそんな時代に逆行しそうな気配も。

⛳けさはちょっと疲れ気味。6時に聞き終えて10分休憩。それからのPC立ち上げ。音楽は道連れ。メンデルスゾーン最後の曲、寂しさ、煩悶、拘泥あるもこの力強さは!7時ジャスト更新。

 

 

 

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きょうのことば

インマヌエル盛岡キリスト教会2020年7月1()のメッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『秩序に見るホーリネスの美』(國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 エペソ人への手紙 第5章21~33

5:21キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。5:22妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。 5:23キリストが教会のかしらであり、ご自身がそのからだの救い主であるように、夫は妻のかしらなのです。 5:24教会がキリストに従うように、妻もすべてにおいて夫に従いなさい。 5:25夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を捧げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。 5:26キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、 5:27ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。 5:28同様に夫たちも、自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。 5:29いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろ、それを養い育てます。キリストも教会に対してそのようになさるのです。 5:30私たちはキリストのからだの部分だからです。 5:31「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」 5:32この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とを指して言っているのです。 5:33それはそれとして、あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。妻もまた、自分の夫を敬いなさい。

 

<説教>

 (前置き、前回の復習は割愛いたします)

 きょうはエペソ書521節以降を学びたく願っております。
私たちはエペソ人への手紙を学ぶ前に、コロサイ人への手紙を学んでおりました。その3章18節にもこうございます。

妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。19節夫たちよ。妻を愛しなさい。妻に対してつらく当たってはいけません。

 このあとに子どもたちよ奴隷たちよと続き、具体的な家庭の人間関係に言及している。そのことをコロサイ人への手紙の連続講開で扱わせていただいたことを思い起こしながら、新たな思いでエペソ人への手紙のこの部分に目を留めているわけであります。

この二つのお手紙、パウロは獄中書簡の中で、家庭における人間関係、特に夫と妻との関係を、非常に意味のある大切な事として位置付けていることがわかります。

20200722-123024horinesuno これを見るとき、私は家庭における妻と夫の関係のいちばん大きな土台となるのは、「父・子・聖霊」という三位一体の神様の麗しい調和、一致です。ここに麗しさ、美しさ、そして、私たちが思い描く最終的なゴールがある。この関係の中に収斂される、このように位置づけてよいでしょう。父、子、聖霊という三位一体の神様、これは、聖書の神として私たちは理解しているところであります。ここにお互いが深い交わりと信頼の中に見事に一致している。この神様のあり様。三位一体の神様のあり様が、私たちが生きている世界の模範です。

 私がお救いに与って間もなく、ですからもう50年も前のことです。インマヌエルの丸の内教会の講壇において、世々限りなく栄光を神に学ぶ、といった説教がありました。「世々」、「世」という言葉が取りあげられております。そこで印象深かったのは、この世というのは一つの始まりがあって終わりがある。一つの鎖のようなもの、アイオンである。今の私たちは、この一つの部分を聖書の天地創造から黙示録の主の再臨によって新しい新天地が始まるというこのアイオンの中に存在している。これを聞きまして、何かもやもやとしたものがはっきりとしたことを思い出します。斬新な切り口でしたので、非常に鮮明に覚えております。そして、世々限りなくというからには、前の一つのアイオンというものがあったのではないか、その前のアイオンにおけるいちばんの価値あるもの、それは何か。それは私たちにははっきりとは啓示されていない。けれども聖書の黙示録には、ありとあらゆる宝石の名前がいっぱい出てきます。もしかすれば、まえのアイオンはそういった物質界における美しさ、ビューティ、そういう価値観の世界であったのか。それをミネラルビューティー、鉱物的なビューティ、そういう美の価値観であったのか。何らかの価値観によって世界が成り立っているとするならば、恐らく前のアイオンがミネラルビューティーのアイオンではなかっただろうか。

 そして、もう一つのこんど私たちが生かされているアイオン、このアイオンに於いていちばん根底にある価値観、何をもっていちばん美しいものとするのか、これを聖書から見るとき、これはモラルビューティー、これは愛ということに集約される。神はご自身に似せて造られた人間を愛されている。そしてお互いがその愛によって造られる関係、これこそ私たちが生きているアイオンのいちばん根底を貫くものである。そしてまた新しいこのアイオンが締めくくられて次のアイオンが始まるとき、そこには、どういう価値観がビューティーとしてあるのか私たちは知ることはできない。しかしおそらく私たちはその新天地、神と共にあるそのところに身を置いて、それを楽しむことができる。それまで考えたこともない世界に目が見開かれたのを覚えております。

 そのような価値観、これは、もしかしたら究極的なものかもしれない。つまり、神様というお方は人格を持っておられ、父なる神様、子なる神様、御霊なる神様が、それぞれご人格を持っておられ、そこに愛というものにおいて全く一つとなって、しかもその中に、秩序がきちんとある。父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神様。この三つの位格には、どちらが偉く、どちらが下だといった理屈ではない秩序がある。神様はそういうように秩序をもってお造りになられる。父、子、聖霊のご人格はそれぞれ愛によって一つである。それが美。この三位一体の神様の美こそ、私たちが究極に願っている、神に似せて造られた人間の本来あるべき姿なのだと理解します。

 

ここでダビデによる詩篇。御霊に感じたダビデは詩篇4078節にこう記しています。

7節 そのとき、私は申し上げました。「今 私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。8節 わが神よ 私は あなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは 私の心のうちにあります。

 これを私たちはただ40篇の中のことばだという位置づけを超えて、これは天上界における父なる神と神の御子キリストのやり取りであること。御子であるキリストが、父なる神様に「私は あなたのみこころを行うことを喜びとします」そして「あなたの御教えは私の心の内にあります」。こういって、子なるキリストは御父なるお方の想いをことごとく行う事を喜びとする。従って行く。そして父と子によって遣わされた聖霊、それは被造物である私たちの内に遣わされたご聖霊でありますが、これらの真理をそうだよそうだよと、私たちに教えてくださるのが聖霊なのです。僭越ながら言わせていただくと、今メッセージを語らせていただきながら、そう、その通りだよという神様からの深い納得、そう、それでいいんだよという神様からの納得を持っておりますが、それは、聖霊なる神様がくださっているものです。父、子、聖霊というそれぞれの人格を持っている神様が、一つになって秩序をもって存在する。これが三位一体にあらわれる神様のすばらしさです。そして「我らの形に似せてひとを造る」といった神様によって、アダムとエバをはじめとして作られた人間の関係が、この関りと無関係では絶対にない。この麗しさを、夫と妻の間に、或いは子どもとの関係において家庭というものが築かれていく、こう理解するのです。

 

さてエペソのほうに入りましょう。

20200722-123037kudakatrta エペソの521節キリストを恐れて、互いに従い合いなさい
このことばの意味するところは深いと思います。従うというときに、その間には力関係があるものですが、聖書は、「互いに従い合いなさい」というのです。それが三位一体の神様の麗しさではないでしょうか。互いに従い合う。それは互いに尊敬し合う。私はこのエペソ人への手紙、夫が妻に、妻と夫をそれぞれに尊敬するということ。このことを改めて教えられて今日あります。

 コロサイ人への手紙で、夫と妻との間、それを扱っていた数年前の連続講開のときでした。精一杯御用をさせていただきました。そして、今、同じところを、夫と妻というところを語らせていただき、その時々によって自分自身の通り方に違いがないではありません。こうありたいと思ったところをその通りにやっていくには、やはり神様に扱われるところがある。そしてその中で、砕かれた心、ほんとうに神様の前に砕かれた心というものをもって初めてイエス様の前に夫と妻が互いに従い合い互いに尊敬することができる。どうしても通らねばならないところは、心を砕かれる経験です。神様によって罪から救われた私たちです。私たちがどんなところから救われて、今ここにいるのかということを思えば思うほど、互いに従う、互いに尊敬し合う。そして、足らざるところばかりありますけれども、それに砕かれた心をもっていつでも主の前に出る。肝心なのはこのことです。父なる神、子なるキリスト、聖霊というモラルビューティーが世界の根幹を成しているとするならば、私たちは、それを家庭の中で実現する特権があるのです。

 私は、ポイントが次の聖書のことばにあるように思います。

テモテ第一11415
14私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。 15「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

 こんな私が今憐れみを受けている。この神様の愛を知っている。

それから、テトス345
4しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現われたとき、5神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。

 このいちばんのポイントは、十字架の贖いの愛を知っているということです。ヨハネ316はもう言うまでもありません。 お互い従い合う。お互い尊敬し合う。そして、主の前にいつも心砕かれた状態にあることです。

ペテロ第一 37
7同じように、夫たちよ、妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに暮らしなさい。また、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りは妨げられません。 

 このことが無かったなら、祈りが妨げられるというのです。ほんとうにお互い赦し合い、お互い尊敬し合う、そういう心を持ってもういちど、私たちはこの世界観、あの三位一体の麗しい価値観の世界、それを証しするものとして今あるのだということを、どうかご聖霊様が一人ひとりに語りかけてくださり、この生き方を証しするものであらせていただきたいと心から願うことであります。

 

※説教はICレコーダーから筆者が起こし文章化しております。
イラストは教会からお借りしています。
牧師夫妻の写真は筆者が任意で掲載しております。

⏰5時28分更新

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雑記

J-MERO。ホスト May J. ゲスト SHISHAMO、超特急

「再放送 再々放送 厭きもせず」、一応川柳のつもりで。そろそろコロナワクチンの出現か。
宮崎朝子、作詞作曲を手掛ける。中学生向けの合唱曲も作曲。かつては漫画家志望。CDジャケットのデザインも。宮崎の視野にある内容に可能性と将来性が。3人の個性際立つ。

「超特急乗せられちゃった8号車」、一応これもJ-MERO向け川柳。ダンサーも務まる7人。

 

 ☆

 

TVに登場するものばかりが……とか、いま自分がやっていることは……とか、もう7月も終わりそう……とか、友達が書いてくれたマザーテレサの言葉があったけ……とか、サラ・ヤングを思い出したり……。まとまりのつかぬまま。

 

⛳650分更新

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'20/7/24 クラシック倶楽部を聴く イ・ムジチ

イ・ムジチといえば四季、四季といえばイ・ムジチ。1980年代、全世界に四季ブームを巻き起こした「イ・ムジチ合奏団」の現在の、清冽な「四季」をお送りする。―番組紹介からー

 

🎵2019102日サントリーホール収録分。

   ヴィヴァルディの「四季」といえば私の中にはギドン・クレーメルがびっしりと入っており、それが標準となっているほどなのだが、今回のイ・ムジチの「四季」、一通りではない理解、これは現在のコンサートマスター、マッシモ・スパダーノの感覚かと思ったが、前任者のアントニオ・アンセルミはこの公演の直前に急逝しており、コンマスを引き継いだマッシモが成り行きからいっていきなりアンセルミの音を覆すとも思われない。ただソロはマッシモ。アンセルミはドラマティックな演奏を得意としていたようだが、マッシモは古楽に通じているという。1983年までに1000万枚を売り上げたイ・ムジチ。地球全体に認知され聴かれているということか。1952年デビューだから68年の歴史。

 今回の字幕は「あずさまゆみ」。ググったがよくわからなかった。しかしこの字幕で、実にドラマティックに聴くことができた。これには哲学的な意味も込められているといっていたのは誰だったか、もう云十年前に読んだ解説のこと。
 夏の楽章で、北風が挑みかかってきたところで「牧人は運命が脅かされているのを恐れて泣く」「凶暴なハエどものため疲れた手足が憩うことができない」「ああ悪いこと恐れているとおりだった」「雹がふって誇らしげな麦の穂を絶つ」……、ここで宮沢賢治が農民のために流した涙と嘆きが感じられた。ただ賢治の詩には土のにおいがどこかにするのだが、ヴィヴァルディの曲には苦悩すらも降り注ぐ光の中にある、光の透過があると感じられる。これは宗教土壌の違いであるかとも思う。「秋」の章で「村人は歌と踊りで豊かな秋の刈り入れの喜び合う」に賢治の「方十里 稗貫のみかも 稲熟れて み祭三日 そらはれわたる」が重なった。ヴィヴァルディはカトリックの司祭でもある。「冬」の章、最後の「冬は喜びをもたらしてくれる」。あたたかくそして意味の深いことばだ。
 
あまりに有名なヴィヴァルディ、しかしこのヴィヴァルディを自分がどの程度把握しているかはずいぶんと怪しい。というわけで、こちらを繋いでみた。
 アンコールはバッハの「アリア」、ヴィヴァルディの「調和の霊感 作品3第10番 第一楽章」

🎧名曲アルバム。「カルメン組曲第2番 ロマの踊り」
カルメンの舞台となったセビリア。恋に、踊りに。誇り高く生きる女性たちが今もなお暮らしている。情熱的なフラメンコの踊りとともにお送りする。―番組紹介からー

⛳とりあえず7時9分更新。一旦書いた記事を誤操作で失い、書き直す。
「四季」を聴き終え、アンコール曲に移るかというときに、にわかに空が明るくなる。仰ぐと、雲に隠れていた朝日が、ちょうど雲間から、わたしはここにいるよと球体の輪郭を現したのだ。ほどなくまた雲の陰に隠れてしまったが、そのあたりの雲が眩い光をにじませていた。これもまたけさの神様からのプレゼント。
8時44分に再び更新

 

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20723  クラシック倶楽部を聴く  タリス・スコラーズ コーラス・アンサンブル 

ルネサンスの作曲家、トマス・タリスの名を冠したコーラス・アンサンブル、タリス・スコラーズ。透明で濁りのないその歌声は比類のない美しさで聞くものの心をとらえてきた【出演】タリス・スコラーズ(合唱)ピーター・フィリップス(指揮)【曲目】「マリアよ あなたはすべてに美しい」(ゲレーロ作曲)「レクイエム(死者のための聖務)」(ビクトリア)【収録】2019年6月4日 東京オペラシティ コンサートホールー番組紹介よりー

 

🎵ピーター・フィリップスはルネサンス音楽研究の第一人者。ルネサンスに書かれた合唱曲をレパトリーとしている。彼によれば、タリス・スコラーズ、45年の活動歴。透明かつ力強い声を求めている。後のバロックとはリズム、チューニング違うという。今回のホールは大きすぎる。小さなホールがよいとも。10人の合唱団。
曲はゲレーロ作曲「マリアよ あなたはすべてに美しい」。ゲレーロ、あまり聴くことはないが当時は大変な人気だったよう。

次はビクトリア作曲「レクイエム(死者のための聖務)」。レクイエムというと今はモツレク、ベルディのみと思いがちだが、ビクトリアのレクイエム。フィリップスの解説では、ビクトリアは和音の選択が巧みでふつうの和音よりも美しく響かせると。このレクイエムにはビクトリアの宗教観、音楽観ともいったと思うが、ともかく彼のすべてが詰まっているという。1605年にマリア皇太后の死を悼んで作曲している。ゲローレとビクトリアはともにスペインの作曲家。

「レクイエム」、ルネサンス音楽史専攻の今谷和徳の訳で「わが心は生活に疲れたり われは敢えて我が言葉を投げん わが心の苦しみを示さん わが神に語らん」の冒頭の涙が浄化されたかの美しい響きがくっと心を掴む。聴くうちに「主よ永遠の安息を彼らに与え 絶えざる光を彼らの上に照らし給え」が被災された方々への祈りにつながった。

 

🎧名曲アルバム。「ラ・マルセイエーズ」。「ラ・マルセイエーズ」(バリトン)直野資,(合唱)二期会合唱団,東京少年少女合唱隊,(管弦楽)東京フィルハーモニー交響楽団,(指揮)矢崎彦太郎

🎵今回のこのバリトンも合唱も国歌としての品格があり素晴らしいけれども、筆者がユーチューブで見つけたこちらも、野卑な感じもちょっとあるが、語感に相まってより当時の状況、作曲者の意図に近いのではないかと思われる。お聴きください。

⛳元気で音楽を聴くことができる今に感謝! 6時58分更新

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20/7/22クラシック倶楽部は   アンドレアス・シュタイアー  チェンバロ    

【出演】アンドレアス・シュタイアー「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ」ジョン・ブル:作曲,(チェンバロ)アンドレアス・シュタイアーほか

 「半音階的幻想曲SwWV258」スウェーリンク:作曲,(チェンバロ)アンドレアス・シュタイアー,「平均律クラヴィーア曲集第2巻から第20番イ短調BWV889」バッハ:作曲,(チェンバロ)アンドレアス・シュタイアー,「クラヴサン曲集第2巻第8組曲から「ラファエル」」クープラン:作曲,(チェンバロ)アンドレアス・シュタイアーほかー番組紹介よりー

 

こう番組紹介を書き入れたものの、昨夜真夜中に体調を崩し、無理してまで起床すべきではないと、この回を聴かないのはもったいないと思いつつ。神様なぜですか? そうか、すこし休みなさい、眼も休ませないかも、と。ちょっとした解説も、このちょっとしたが大変なもので、長大なとまでいえるかどうか、何れ長い長い解説を、番組のために2,3行に縮めるのはけっこう苦労なものなのでは。何れけさは断念。いま元気が回復してまたそちこちググってみたくなるのだがここまでに。それにしても感想は聴いてから30分以内に書くのがいちばんとつくづく。

⛳21時45分更新

☆  ☆

体調がすこしおかしいなと思うと、まず血圧を測り、熱を。熱がないとコロナではなさそうとほっと。岩手はいまのところ感染者はでていない。いつ自分が感染者第一号にならないとも限らないとの怖れ。しかし、食品の買い出し以外にはどこにも出かけてはいない。まず大丈夫だろうとおもっても、すこし体調が悪いと熱を測るまでは安心できない。

コロナの収束と九州の苛酷な状況、うち続く災害、なにをどう祈れば。それでも祈ることが出来る限りは。誰も一人も、理不尽に命を失いたくはないはず。

 

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20/7/21クラシック倶楽部を聴く アンサンブル・ディアーロギ

アンサンブル・ディアーロギは「フォルテピアノ」「オーボエ」「クラリネット」「ナチュラル・ホルン」「ファゴット」の五重奏団。古典派の音楽を作曲当時の楽器の音色でおおくりする。【曲目】ピアノと管楽器のための五重奏曲変ホ長調作品16(ベートーベン作曲)ほか【収録】2019年1月23日 浜離宮朝日ホール(東京都中央区)―番組紹介よりー 

🎵ディアーロギは「対話」、聴衆とのコミュニケーションを意識してつけたとか。(フォルテピアノ)クリスティーナ・エスクラペス、(オーボエ)ジョセプ・ドメネク、(クラリネット)ロレンツォ・コッポラ、(ナチュラル・ホルン)ピエール・アントワーヌ・トレンブレイ、(ファゴット)ハビエル・ザフラ。このメンバー、古楽器奏者というとどこか時代がかったアンチーク世界にあるかと思いきや、このページを見るとみなオペラ、オペレッタの陽気な世界で存外愉快に人生を音楽を楽しんでいるという雰囲気が。
それにしてもやはりおもしろいナチュラル・ホルン。穴もキーもない。音程はよくない、ということは正確な演奏はけっこう難しいということに。しかし作曲家はこのような特性も周知の上でやはりこの楽器を組み入れているのだろう。ナチュラル・ホルンについての音域などのあれこれはこちら

ハイドンの「ピアノ三重奏曲ニ長調 Hob.XV-16」。ハイドンには端正、律義といってしまっては語弊があるかもしれないがそんな感じ、それと気品を感じるのだが、それらがすこし奥まったところで穏やかに流れるといった感じ。ハイドン58歳での作曲。ベートーベンの「ピアノと弦楽器のための五重奏曲 作品16」。これぞベートーベンという情感の流れがどこに出て来るのかと待てど。解説では、これはモーツァルトの同じ楽器編成での曲をモデルとしたベートーベン26歳の作曲であると。

モダン楽器演奏を聴いてからこの古楽器演奏を聴けば、さらにその違いが分かると思われるけれどもそこまでの時間がというよりもマメさ、熱心さが今一。ただ古楽器演奏は作曲者が生きた音楽の時代の空気感をやんわりと伝えてくれる。そして音程が狂いやすいことも含めてより人間的で優しい響きを醸してくれている。コッポラがクラリネットを置いて、日本語を交えオペレッタのような愉快なパフォーマンス、これがまた愉快。

 

 

🎧名曲アルバム。「ピアノ協奏曲イ短調」グリーグ
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団,【ピアノ】横山幸雄,【指揮】矢崎彦太郎 ~ノルウェー・ソグネフィヨルド~―番組紹介よりー

🎵氷塊が一瞬にして微塵にくだけ、ものいわぬ透明さ、ただに美しい透明さに霧散するピアノの響きがフィヨルドの静まり返った水面に移ろう。

⛳いま窓外を過り悠々と羽を宙に泳がせて去ったのはトンビだろうか。ワシならもっと山奥にいるだろう。カラスの声も聞こえる。メシアンの「鳥のカタログ」にはトンビとカラスが出てきていたかどうか、さてはて。
6時55分更新。

 

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20/7/20クラシック倶楽部を聴く  バンジャマン・アラール オルガン・チェンバロ  

主要な古楽アンサンブルのメンバーとしても活躍する名手、バンジャマン・アラール。オルガンとチェンバロをともに演奏したオール・バッハ・プログラムによる演奏会からお送りする。【出演】バンジャマン・アラール(オルガン/チェンバロ)【曲目】イタリア協奏曲BWV971(バッハ作曲)、前奏曲、トリオとフーガBWV545b(バッハ作曲) ほか【収録】2018年12月8日 武蔵野市民文化会館 小ホールー番組紹介よりー

🎵オールバッハ。前半はチェンバロで「ソナタBWV964」、「イタリア協奏曲BWV971」。後半はオルガンで「トリオ・ソナタBWV528」、「前奏曲、トリオとフーガBWV545b」。「バッハを演奏する者は勤勉でなければならない」とバンジャマン。このことばが何か愉快だった。日々番組を聴いていて、学ぶならやはり若いうちだという思いもないではない。いつからでも遅くはないだろうという意識に支えられている。けさの演奏のうちではやはり「イタリア協奏曲」がいちばん。20歳代で毎晩聴いていた曲でもあり、徹頭徹尾浸潤した音が細胞の中に生きている感じが。これはバッハが、当時は最先端であったイタリアの音楽の影響を受けて作曲したとの解説。協奏曲のトゥッティと独奏を2段の鍵盤で演奏している。第一、三楽章の流麗で活き活きとした躍動感には厭きることがない。時をにれはむような穏やかな響きも静かに心を潤してくれる。バンジャマンが「オルガンは長く音を出せるが、それだけではだめで、そこに命をあたえなければ」と。「トリオ・ソナタBWV528」には、まだ明けきらぬ自然に漂う朝もやの呼吸、息吹、命がある。それがふつふつと明けてゆく響きが。「前奏曲、トリオとフーガBWV545b」、これはヴィオラ・ダ・ガンバのソナタ第3番の編曲版であるとか。その観点からおもしろく聴いた。

 

🎧名曲アルバム。ホルスト「組曲惑星から木星」(管弦楽)東京フィルハーモニー交響楽団,(指揮)飯森範親 ~イギリス・チェルトナム~

🎵40歳を過ぎて、ホルストはこの曲を発表。やけに齢を気にするところは……これから一体何ができるのかと自らに問いつつ。

⛳7時ジャスト更新。

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きょうのことば

インマヌエル盛岡キリスト教会2020年7月12()のメッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『どのような歩み方を』(國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 エペソ人への手紙 第51520

5:15ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、 5:16機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。 5:17ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。 5:18また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。 5:19詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から讃美し、歌いなさい。5:20いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。

 

<説教>

 きょうは前回とも深く関わるのですけれども、自分がどのように歩んでいるかというエペソ515節にポイントを定めて学んでいこうと思っております。これを思い巡らしているときに、私の心の中には、「自分が」と「自分は」の二通りが浮かびました。「自分が」どのように歩むかという捕え方よりも「自分は」果たしてどう歩んでいるのかに向き合ってみましょう。

 私はどのように歩んでいるのか。歩むうえで細かく注意を払いなさいとあります。聖霊とともにむとき、注意深く歩むことがとても大切です。
 テレビの番組で、児童たちが何人かずつ組んで、対抗の縄跳びをしているのを見ました。両端を持って回す縄を、一人跳び、二人跳び、そして跳ぶ人数が増えていく。たくさんの人がそこに入って果たして何回跳べるのか、そんな競技です。一人でもリズムを崩すと途中で記録が止まってしまう。まして、聖霊様、イエス様と歩調を合わせてあるくときには、細かく注意しながら歩みたいものです。 

「知恵のない者としてではなく、知恵のある者として」歩みなさいとあります。このエペソ書を記したパウロは、「知恵のない者」、「知恵のある者」をどのようにイメージしていたのでしょう。

聖書には「知恵のない者」と「知恵のある者」の両方が出てきます。
「知恵のない者」、これは、「愚か者」である。そんな言葉を使っていいものだろうかと躊躇するのですが、詩篇141「愚か者は心の中で「神はいない」と言う」。ここに「心の中で」とある。微妙です。私は無神論者のような愚か者ではありませんよ、自分は神様を信じている者です、と言っていながら、本音を探ると、なあに神様神様と言ったって、クリスチャンと言ったって、という本気ではない思いがある。それは公にではありません。その人の信仰の深いところで、ほんとうに私は神を信じているかどうかを探られます。心の中で、神はいないという。これは、神の恵みに心を閉ざす者。これを愚か者と言わずして何と言いましょうか。神の恵みがせっかくあるのに、その神様の恵みに心を閉ざしている者を聖書は愚か者というのです。

エペソの515に返りますけれども、私たちが、どうか、そのような知恵のない者でありませんように。ほんとうに神様の前に「我常にエホバの前に身を置けり、汝われにいませば、我動かさるることなし」と言えるような、いつでも神様を意識し、そのような細心の注意を払って歩もうではないかとパウロはここでいっているのではないでしょうか。

これに対する「知恵ある者」。聖書の中にはたくさん出てくる。その「賢い人」の一例を挙げますと、
マタイ724節「7:24わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます」
「賢い人」、それは神のことばを聞いて、実際にそれを行う人のこと、そして、神の恵みに心を開く人のことです。エペソの5章にもあるとおりです。

 社会にあって様々な人々に囲まれて生きている私たちです。何が神様に喜ばれることなのか、どうか光の内を歩みましょう。そのように命じられる神様は、私たちに御子イエス様の恵みを十分に与えておられます。さあ聖霊と一緒に、御霊と共に歩もうではありませんか。私たちはそのような歩みができない者じゃない、歩むことができる恵みを十分に与えてくださるその神様に心を開いて、そして聞いて、なるほど、そして、そのようにしましょうといって御霊と共に歩む。細心の注意を払いながら、神のおことば聞いて、それを行う。行わせてくださる神様の恵みは十分なのだ、そうだ! と神様の恵みに心を開きましょう。

 

何が神様に喜ばれることなのか

エペソの515節「自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、 歩こうではないか」。

自分はそのように歩んでいるだろうかと顧みるときだろうと思います。
さらにこのところを読んでいきますと、16節「機会を十分に活かしなさい」とあります。「機会」とは、

コリント第二 62
「神は言われます。
「恵みの時に、わたしはあなたに答え、
救いの日に、あなたを助ける。」

見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。」

そうです。今が神様の恵みの時なのです。そうだ、機会を十分に、この機会を生かさなければ。生かそう。生かさなければ。この機会を十分に生かしていこう。今は時代が悪い。しかしその時に、恵みの神様が、さあ祈ってごらん。わたしはあなたを助ける。見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。
テレビで林修先生でしたでしょうか、「今でしょう」と。そう今です。

エペソ51516節に耳を傾けますと、おことばが諄々と私たちを諭してくれます。
そして17節「愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい」。とあります。主の御心が何であるのかを悟り、そして注意深くそれを行うように。そして今は恵みの時、今は救いの日です。ならば、さあ神様の御心は何でしょうか。テサロニケ第一43節にあります。「神のみこころは、あなたがたがきよくなることです」。はっきり書いてある。これを細かく注意を払いながらエペソ書にあるこれらのことを11節味わいながら次の18節「また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです」。

よくクリスチャンがお酒を飲むのはどうですか。だって聖書の中には、あなたは体が弱いから葡萄酒を用いてと書かれているところもあるじゃないですか。しかし、聖書のおことばは全体をよく見て総合的に理解しなければなりません。たしかに聖餐式のときには葡萄酒が用いられる。私はここでクリスチャンと飲酒問題をテーマにお話しするよう導かれてはおりませんが。おもしろいのは「葡萄酒に酔うな」と書いてある。逆に酔わなければいいのか。しかし18節の「ぶどう酒に酔ってはいけません」の次に「そこには放蕩があるからです」とある。「放蕩」、もうこれは私たちは世の中で見てきました。どうかこのところだけが今日のメッセージの中で忘れがたいところと取られると、また本意ではないのですが。

 明治以降に福音が入って来たときに、宣教師たちには、自分の聖書が伝える理念、理想によって人がつくり変えられるのだという聖なる実験ともいえる信念があったでしょう。キリスト教は、酒も特には咎めない神道、仏教の価値観のある人々には、「酒飲むなたばこ吸うなの耶蘇教はアーメンどうな宗旨なりけり」とも揶揄されました。一般には抵抗感を持たれるほど、福音とはこういうものであると知らせたいものがあったのだろうと思います。そのところだけを大きくクローズアアップして、キリスト教とはアーメンどうなとからかわれるようになったのかもしれない。でもそれらのことを今どうこういうのではなくして、現実的にお酒に酔うことが人生を奈落に突き落とし、酒に酔って放蕩に身を持ち崩すことをどれほど周囲に知るかというときに、飲まなくて済むものなら飲まない方がどれほど楽だろうか。つくづくそう思います。

 パウロは、葡萄酒に酔うんじゃないと言っています。ここでは「御霊に満たされなさい」とある。むしろ御霊に酔ったらいいというのです。ペンテコステに御霊の注ぎがあったときに、エルサレムに集まった人たちは、聖霊に満たされて異なる言語で歌って語った。このようすを見て、あの連中は酒に酔ってるんだと批判する人たちがいたほどで、御霊に満たされた弟子たちは、ほんとうに御霊に酔っていた。一時的なアルコールの持つ快楽とはまったく違います。御霊は放蕩とは無縁です。

5:19詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から讃美し、歌いなさい。

エペソ514節をみてください。
明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。
「眠っている人よ。目をさませ。
死者の中から起き上がれ。
そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」

 暗闇の中で、罪の中で眠っている者たちよさあ起きなさい。罪と滅びの中にいる死者の中から起き上がりなさい。そうすればキリストはあなた方を照らされる。我は世の光なりというイエス様です。「」で括られている部分、これは歌だったわけです。「詩と賛美と霊の歌」、どんな歌だったのか聴いてみたいですね。とにかく御霊に満たされて、さあ眠っている人よ起きよ、キリストがあなたを照らされる。何々さん、何々くん、ほんとにそうだよね。互いに語り合って主に向かって心から讃美し歌いなさい。ファニークロスビーの賛美歌もあります。チャールズウェスレーの賛美歌もあります。私たちが親しみ恵まれている賛美歌を、聖霊に満たされて喜びに満ちて、詩と讃美と霊の歌を持って歌おうではありませんか。

 果たして自分はどのように歩んでいるだろうか。どうか今日は立ち止まって思い巡らしましょう。11節追うように恵みをいただきました。どうぞ御霊に満たされて詩と讃美と霊をもってお互いに恵みを分かち合い主に向かって心から讃美するときに、繰り返すようですが、先生お酒を飲むことはいい事ですか、悪い事ですか、そんな質問は出て来なくなるでしょう。もうこれだ、ここでこれだけ出されたほかに何があるんだろうか。という思いをもって、おことばに聞く耳を持ち、そして与えてくださる力、神の恵みに心を開いて、愚かな者でなく賢いものとして歩ませていただきたいと思います。

※教会ではマスク、アルコール消毒、マスク着用をこころがけています。写真はコロナ以前に撮ったものです。

⛳久しぶりの梅雨晴れ。明るい朝を迎えています。6時45分更新

 

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J-MERO J-MERO & 雑感

J-MERO
ホスト MayJ.
ゲストMIYAVI、モーニング娘。'19fhána

 

MIYAVIUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の親善大使としてギター一本で難民を訪問する場面に心が動いた。2017年に任命されている。
彼のギターはフラット奏法。三味線の影響もあるらしい。どんなに平和を歌っても現実を変えられない無力感があるとMIYAVI。とにかく自分のできるところからやると。はじめて子どもたちの前でギターを弾いたときに、子どもたちから引き出されたパワーに驚いたという。メッセージとあした頑張ろうと思えるパワーを受け取ってもらえればと。
胸元に見える「不退転」の文字のこれはボディペインティングだろうか。不退転、とにかくこれをやるしかないと率直。

これまで日本のミュージシャンはという意識でこの番組を見て来たけれども、海外300回以上の公演などと聞くと、もはや視点が違っているかなと。日本からミュージシャンの活躍をみるのではなく、世界的な視点から日本のミュージシャンがどうであるのかを知ってみたい気が。

⛳梅雨どき特有の街を取り囲む山々のたたずまい。雀の鳴き声が。響く「不退転」。6時54分更新

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20/7/17 クラシック倶楽部を聴く 小曽根真&富士山

日本を代表するピアニスト・小曽根真が、日本最高峰・富士山をバックにクラシックとジャズの熱演を披露する。即興演奏を得意とする小曽根が、富士山からのインスピレーションを得て紡ぎ出す音楽とは 【曲目】マズルカ イ短調(ショパン作曲)、「クープランの墓」から前奏曲(ラヴェル作曲)、Asian Dream(小曽根真作曲)ほか【収録】2019年2月4日 ハイランドリゾート グランドバンケット富士―番組紹介よりー

 

🎵ジャズを専門に教える音楽大学があることを知ったのは、確かこの番組だったと思う。小曽根はバークリー音大で。「音楽にジャンルはない。表現の手段はちがうけれども、表現したいものはみな同じ」と小曽根。最初の4曲はクラシックのジャズアレンジ版。ジャズとクラシックではリクワイアメントが違うというところを果たしてどのように。やはりコンポーザーによってアレンジしやすい、しにくいはあるらしく、たとえば、モーツァルトでは「どうぞ、そこがここですよ」と投げかけてくるというのだ。小曽根がそんな親和性から編曲してみたのはショパンの「マズルカ イ短調」、スカルラッティ「ソナタ ホ短調K20」、バッハの「シンフォニア 第7番」、ラヴェル「クープランの墓 前奏曲」。元曲をなぞるところから、あらら、これのどこがショパンでどこが、と聴かせる変幻こそがおもしろく、また元フレーズを響かせて聴く側の感情を引き戻して、その自在さを納得させる。

後半4曲は小曽根の作曲によるジャズ4曲。

NO SIESTA」、いったい何を表現? わかるようなわからないような、ところがそのとき、曲の中からか、自分の内なる声なのか、そんなしかめっ面はよそう、もっと気楽に、お気楽に、と。口笛吹きながら行こう! そう思ったとたんに、このリズムが俄然楽しくなって。「My Witch’s Blue」、これは時のユーモア、ジョーク。「Mirror Circle」、まえの曲で、ジャズと哲学は相いれないかなと思いきや、この曲の登板。むこうから扉が開かれ、どうぞとそんな世界に招き入れられた気が。「Asian Dream」、日常の人の生業、いつに変わらぬ表情を遠景に見る作曲者の穏やかで温かい視線が。

さて、富士山とのコラボは曲とどんな因果関係に? 小曾根が力を得たというのはTV曲の企画に異議を申し立てかねてのことかと一瞬勘繰りもしたところ、「きょうはすごくうまく弾けた、メロディーが次つぎと聴こえてきた。いつも客として自分の演奏を聴いている感覚があるが、こうして録音スタッフからも富士山からも、演奏中それは見えないけれども、確かに力を得ている」と。富士山とのコラボが確かに力をくれたのはほんとうに本当のよう。

ジャズは夕方6時、7時頃からライブハウスかジャズ喫茶で演奏されるものという先入観がいつしか出来上がっていたが、この清々しい富士山を容れるひと区画の背景と素通しのこれ以上ない広い素通し硝子がくれる明るい日差しに包まれながら響くジャズはまた新鮮。

 

🎧🎵名曲アルバム。高橋アキのピアノでサティ晩年作曲の「ノクチュルヌ」。シャンソンの酒場で多くの作品を遺したサティだったが、晩年、彼が街まで出かける途中のポプラ並木、これは当時もあったと思うが、そして小鳥のさえずりに着想を得て作曲したこの曲が晩年の代表作と。

⛳感染をせずとも日々のニュースでコロナ病。6時55分更新。

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20/7/16クラシック倶楽部を聴く ユリアンナ・アヴデーエワ ピアノ・リサイタル

「ショパンの音楽は無尽蔵」と語るユリアンナ・アヴデーエワ。ショパン国際ピアノ・コンクール優勝から9年。日本で初めてショパンの最高傑作ピアノ・ソナタ第3番を熱演した公演から。―番組紹介からー 

🎵ユリアンナ・アヴデーエワ。ラヴェルの「絞首台」を演奏しているときに、豪華ドレスを着ていることに疑問を感じ、以来、音楽を生かすためにパンツスーツに。2019219日東京オペラシティでの収録分。この日本公演のためにアヴデーエワが弾き込んで弾き込んで持ち込んだのがショパンの「ピアノ・ソナタ第3番ロ短調作品58」。ソナタ形式の代表作で、作品の中で頂点を極めた作品。ヴィルトオーソ的な技巧があるとも。第一楽章で木の葉がはらりと舞い落ち降りつもり、それが森の中でというよりは、ショパンの中で多様な変転、変容を遂げていく。第3楽章では、思い入れのこもる音が孤独に逍遥し、内奥へと深く沈潜していく。ピアノを弾きつつも癒しには入れない魂が感じられる。第4楽章、孤独を強いて音の華やぎで埋めるかに奏法を繰り出し、最期の強烈な響きで、この全楽章の肯定し飾った、そんな感じを持った。曲の美しさから、壮絶なまでの孤独を感じてしまった。この感想が全うであるかはわからないが、聴いて感じたまま。アヴデーエワが言う「どんな局面にあっても自分の楽器と音楽を愛すること」、それがショパンのこのときであったような気も。

最初の曲はショパンの「3つのマズルカ作品59」、アンコール曲はシューベルトの「楽興の時」。それにしてもアヴデーエワが大きく影響を受けたコモ湖国際アカデミー、遠い遠いそこにある音楽のさざめきに心惹かれる。

 

🎧名曲アルバム。イザイの「無伴奏バイオリン・ソナタ 第4番」(バイオリン)川田知子 ~ベルギー・リエージュ、ブリュッセル~―番組紹介からー 

🎵イザイが60歳でバッハの影響から作曲。イザイ周辺を川田知子のバイオリンで。

⛳目に見えず、つかみどころのないコロナの人身支配、心の支配、経済支配、政治支配のもとでうち続く大雨災害。音楽さえも活動の場を取り上げられて。もしこのマスメディアまでが取り去られた場合の惨状、窮状を想像すると……。人工知能はどこまで対応可能なのか。6時55分更新。

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20/7/15 クラシック倶楽部を聴く フレディ・ケンプ ピアノ・リサイタル

ピアニスト、フレディ・ケンプの来日公演から。チャイコフスキー国際コンクールで聴衆の圧倒的な支持を得た演奏家が挑む、オール・ショパン・プログラム。ー番組紹介よりー

 

🎵オールショパン。「アンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズ」、「バラード第4番ヘ長調」、「スケルツォ第4番」、「ノクターンロ長調作品62第1」、「ポロネーズ変イ長調 英雄」。評論ではケンプの穏やかな流麗さ、長いフレーズをゆったり歌わせる、弱音を自然に響かせる、静謐な音色で余韻を楽しませる、などなどいわれているけれども、この回では、「アンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズ」が何といってもいちばん。よい演奏は必ず映像的なイメージをくれるが、瑞々しさと躍動感、華麗さに加え、波間に飛び跳ねる魚の群れ、青く銀色に跳ねる魚たちが波間に漂いながら、しかし、勢いと素早さ、鋭さをみせて跳ねる、そんな光景が浮かんだ。動き、色彩が湧きあがり、沸き立つところはケンプの巧みな技巧によると。これはすばらしかった。それと「英雄」、はじめはちょっと引き急ぎ過ぎてはいないかとも感じられたが、克明な打鍵に引き連れられ一連に納得しつつ聴き終える。

父はドイツ人、あのケンプの血筋にあたっているらしいのだが。母は日本人。モーツァルトの使ったピアノを弾いたことがあり、そのときにはじめてモーツアルトの楽譜での指示がわかったといっていたが、演奏はそれを考慮したうえでなのだろう。その考慮にもやはり奏者の理解、感性が出るものかと思う。

 

🎧名曲アルバム。「クラリネット協奏曲」モーツァルト
音楽の都ウィーンで頂点を極めたモーツァルトが、死を前に書いた不朽の名作。ゆかりある世界遺産シェーンブルン宮殿やシュテファン大聖堂の美しい情景とともにお送りする。ー番組紹介よりー
死の直前35歳の作。モーツァルト、最期にはコンスタンツェに「何というか、空っぽなのです」と。「空っぽ」、なにか寂しげな音がポンと鳴ったような鳴らないような。

⛳7時2分更新

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20714クラシック倶楽部を聴く  ベンジャミン・フリス ピアノ・リサイタル

ブゾーニ国際コン2位、ルビンシュタイン国際コン優勝の経歴を持つイギリスのピアニスト、ベンジャミン・フリス。評価の高いベートーベンのディアベルリ変奏曲を放送する。演奏時間が50分にもおよぶ巨大な変奏曲を余すところなく描ききる名演。【出演】ベンジャミン・フリス(ピアノ)【曲目】「ディアベルリ変奏曲 ハ長調 作品120」(ベートーベン作曲)【収録】2019年6月19日 すみだトリフォニーホール小ホールー番組紹介よりー

 

🎵ベートーヴェンが作曲したピアノ独奏曲。1823年に完成された晩年の傑作である。ベートーベンは1827年には亡くなっている。この亡くなるまでの数年間ベートーベンは敬愛する作曲家たちと音楽で様々に語り合っていたのではないか。ピアノを弾くベートーベンに入れ代わり立ち代わり彼らが現われていたと妄想し楽しんだ。 

去年8月に放送されたときに、最初の5分間を聴き逃して、最後まで喪失感を引きずってしまったことを思い出す。今回はその最初をしっかりと聴き留める。音楽の改革を絶えず目指したベートーベンだけれども、ベンジャミンの話しでも、それまでの作曲家にも深い敬愛の念を抱いていたようだ。特にこのディアベルリ変奏曲にはバッハとショパンへの想いがこめられているといった解説で、理解が深まった。ベンジャミンの名刺代わりの曲とまでいわれる。演奏家は聴衆のサービスに多くのレパートリーを準備してはいるが、本音は「名刺代わり」を演奏したいもではないかと。ああ、ここはバッハ追想か、ああ、ここはショパン的、ここがベートーベンのベートーベンたる所以と。最後にはやはりベートーベンの足音が聞えたような気が。

 

🎧名曲アルバム。「ラ・マルセイエーズ」工兵大尉‎ルージェ・ド・リールが1792年一晩で作曲。
フランスがオーストリアに宣戦布告。ライン軍を鼓舞するために市長フィリップ=フレデリク・ド・ディートリヒ男爵が委嘱。義勇軍はパリへの800キロの道を歌いながら行軍。1879年国歌に。もともとは「ライン軍のための軍歌」。改めて聴いてみると、すごい内容の歌詞!「奴らの汚らわしき血で 我らの田を満たせよ」。
🎵1789
99年の革命の血のたぎりがこの「ライン軍のための軍歌」にも。

 

⛳大雨の警戒。バケツで、ではないプールの水を引っ繰り返しているのか。もっとすごい水ガメか、7時ジャスト更新。受け皿は溢れかえって。

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20/7/13クラシック倶楽部を聴く ホアキン・アチュカロピアノ・リサイタル

1932年スペイン・ビルバオ生まれのピアニスト、ホアキン・アチュカロ。86歳の巨匠による、モンポウ、ファリャを集めたスペイン・プログラムのコンサートからお送りする。【曲目】スペイン小曲集から(ファリャ作曲)、ドビュッシーの墓にささげる賛歌(ファリャ作曲)、歌と踊り第6番(モンポウ作曲)、ショパンの主題による変奏曲(モンポウ作曲)ほか【収録】2019年1月15日 武蔵野市民文化会館小ホールー番組紹介よりー 

🎵ホアキン・アチュカロ、ことしは87歳に。これまでに200を超えるオケ、350人を超える指揮者との公演、その他、華々しい幾多の名誉をみてしまうと、この番組のプログラムを聴いただけで云々できるものではない。前回観たときには、結構な齢でこれだけの演奏がと感心したところまでであったが、改めて、この年齢まで演奏を続けられる方の内には、びっしりと華々しい演奏歴が詰まっていることを知らされる。「ぶらあぼ」で「繊細に織り上げてゆく音のショール。たおやかな手触りと静かな情熱を伴って、私たちの心を優しく包み込み、温めてくれるだろう」評されるところ、それこそ今にこそ求められる音色なのだ。

最初の10分ばかり聴き逃してしまったが、ファリャの「ドビュッシーの墓にささげる賛歌」、モンポウの「前奏曲10番」「前奏曲7番」、「歌と踊り第6番」、「ショパンの主題による変奏曲」を聴いた。こうしたコンサートからの抜粋も、プログラム中の選り抜き(時間配分の難しさもあると思うが)でもあり、55分でいいものだけをというメリットが。スペインの作曲家紹介を使命ともしているアチュカロ、まだまだコンサート活動は続く予感が。

 

🎧名曲アルバム。「歌劇椿姫からプロヴァンスの海と陸」(バリトン)小森輝彦,(管弦楽)東京フィルハーモニー交響楽団,(指揮)北原幸男 ~フランス エクサン・プロヴァンス~ー番組紹介からー

プロヴァンスはルネ王がパリに対抗する文藝の都をつくろうとしたところらしい。

⛳小林輝彦のバリトンを聴きながら、10時20分更新。

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きょうのことば

インマヌエル盛岡キリスト教会2020年7月5()のメッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『日常生活の中で』(國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 エペソ人への手紙 第51~14

5:1ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。 5:2また、愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを捧げてくださいました。
5:3あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、淫らな行いも、どんな汚れも、また貪りも、口にすることさえしてはいけません。 5:4また、わいせつなことや、愚かなおしゃべり、下品な冗談もそうです。これらは、ふさわしくありません。むしろ、口にすべきは感謝のことばです。5:5あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です。――こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。 5:6むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。 5:7ですから、彼らの仲間になってはいけません。 5:8あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。 5:9――光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。―― 5:10そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。 5:11実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。 5:12なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。 5:13けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。 5:14明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。
「眠っている人よ。目をさませ。
死者の中から起き上がれ。
そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」
 

<説教>

 (前置き、前回の復習は割愛いたします)

 きょうはエペソ人への手紙の連続講開、第5章に入っていきたく願っております。

 これは極めて実践的なことです。日常生活の中で等しく経験することばかりです。これに気をつけなさいね。クリスチャンとしてどういう歩みをしたらいいのかについて実際的に記されております。

「歩みましょう」或いは「歩みなさい」とあります。パウロはこの5章に入って、前半の部分はクリスチャンとは、信仰とはをしっかりと打ち込んだあとに、だからこう歩みましょうと実践的な部分になっておりまして、たとえば52節に「歩みなさい」とあります。それから「歩み」ということに留意すると、58節が出てきます。
5:8あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもとして歩みなさい」
そして、エペソ515節「ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい」とある。ですので、きょうのテキストのところを簡単にもういちど目を留めていただき、さあ、私たちはこの世にあってどういう歩みが期待されているか、命じられているかということに心を向けたいと思うのです。

3「節聖徒にふさわしい歩みをするように」。或いは4節ひとりひとりにこれがチェックポイントとしてありますね。そして5「むなしいことばに、だまされてはいけません。世の中で著名な人がこういうことは当たり前のことなのだという価値観を述べているようなそんな時代に、私たちがどういう歩みをするべきか。そして910節を目で追ってみますと、これは現実問題、暗闇の中で、「主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい」とあります。

 先日、ズーム聖会の打ち合わせがありました。私は聖会初日の午後のメッセージの担当。ひろ子先生は証しをし、私がメッセージを取次がせていただき、司会が十和田教会の先生が。そして讃美はY姉ということなど、映し出されている画面を見ながら検討が為されました。
 聖会に参加している教会や、或いは個人で参加している方のパソコンにこういう画面が映るようになるには、つまり画面を共有するためには「画面設定」をする必要があるそうで、よく知っておられる先生が、画面共有では、パソコンの画面を整理しておいてください。会計などが映ったりしてしまうことがあります。画面共有をしてもいいところの画面を出しておいてから画面共有を設定してくださいと仰いました。

 いったい何を皆さんにパソコンで共有していただくか。これはズーム聖会のときのことですが、申し上げたいところは、何が主に喜ばれることなのかを共有したい。実を結ばない暗闇のわざが支配的であるとき、私たちはイエス様によって画面共有ではないですけれども、神様の前にあるとき、光の中に歩むべきことをしっかり共有することは、現実的な問題なのだ、このように思ったことです。

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5章の2節の方は愛のうちにあゆみましょう、このように確認していただけるでしょう。52節「愛のうちに歩みなさい」。

それから58節、これは何かというと、「光のうちに歩みなさい」。そして、910節「何が主に喜ばれることなのかを吟味し」、11節「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい」。
 同じパウロ書簡でガラテヤ書の5章16節「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません」。17節「肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります」。18「御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません」。

 ここに大切な御霊によって歩むということが記されており、そして25節には「私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか」
 アーメン。「御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではないか」。まさにこのことを前提として読むときに、エペソ5章のきょうのテキスト1~14節を見るとき、御霊によって歩む、御霊によって御霊とともに生きる、こういう歩みをすることが、神様が願っておられる具体的なことどもなのです。

 エペソの5章にもどりますけれども、このおことばに皆さんと一緒に目を走らせていきますと、このような中で私たちが今生きている、生きるということ、それはどういう感覚なのか、御霊によって生きるということは、どういうことなんだろうかということは、これは5章の1節1節を、たとえば注解書を読んだことで解決し、そしてそれをお伝えすることでは到底意味のないことであって、私はきょうここを共有させて頂こうとするときに、最近、私自身が経験したことをお分かちすることが、きっと皆さん方にもこれを自分の問題として捉えて頂けるのではないかと思います。

 ちょうど、先週の月曜日の日でした。私は山歩きが好きなんですが、この時期、ハヤチネウスユキソウがきれいに咲く時期なのです。年ごとに様々な事情から、このところ見ておりませんでした。今回はこの時期にと早池峰に行きますとウスユキソウがありました。ただ風があまりに強く登頂は断念し、早めに教会に、午後2時ごろには戻りました。帰宅して家内に写真を見せたりしておりましたとき、玄関のチャイムが鳴り、「トイレ貸してください」と男性が立っておりました。雰囲気にちょっと意表をつかれ、家内ではなく私が出てよかった、山から早く帰ってきていてよかったと思いました。教会なので、どうぞとトイレを使っていただきました。はなしの内容から、さまざまな教会のようすをご存知であるらしい。「トイレ」は口実で、むしろそれが目的とも思われます。女性牧師お一人で牧会している教会が恐喝にあったはなしも聞いております。別れ際に「俺この近くだから」。そう言って帰っていかれました。けっこうな労力を要する後始末もせねばなりませんでした。それをしながら、「これらの小さい者にしたことは私にしたことだよ」というイエス様のおことばが心に通いました。掃除をしている最中に、もしかしたら私はイエス様をお迎えする気持ちでこれをしているかどうか、ほんとうに神様からよいテストを受けたような、しかし、あのお手洗いの掃除しながら落ち着いて、イエス様を迎える、偏見を持って人を見てはいけない。イエス様だったら、どういう対応をされたのだろうかということが現実として私のよい課題、レッスンとなりました。そんなことを思いながら過ごした一週間でもありました。

 金曜日の夜にズームの先生方との打ち合わせの時にまた一つ考えさせられることがあったのです。ズーム聖会で信仰のお証をくださる方の内容についてでありました。そこに意見の違いがありました。結論は、証しをする方の内容に関し介入すべきではないと一致しました。意見の相違はあるが、こうしろ、ああしろと言うべきではない。証しする本人に任せるべきである。

 私たちにとって肝心なことは御霊と共に歩むということです。傍から見ただけで、まるでリトマス試験紙で言うように是非をつけるべきではないのです。私たちは人それぞれの光の中にある。Aさんがお酒を飲む、或いはBさんがクリスチャンなのにお酒を飲んだ、とんでもないというようなそのような価値観では測れない。もしかイエス様が取税人たちと食事をしたというときに、どういう感覚をお持ちだったのか。それらのことを考える時に、ほんとうに具体的に軽々にあの人がこの人がというレベルの問題ではなく、私たちは御霊と一緒に、自分たちは御霊と共に歩むという事に熟達していけば、きっとそのようなところ、一人ひとり神様が通らせてくださるのだろうと思います。

 トイレを借りに来た方、驚くような行動の人、そして理不尽と思われる後始末をせざるを得なかったとき、それを私がイヤな人が来たという感じで終わってしまうのか、それともほんとうにその汚れを熱湯をかけて掃除した、やっぱり教えられたな、イエス様がああいう形でいらしたとしたら、私の心はどうであったか。現実、私の問題としてとらえさせていただきました。

 5章6章と進んでいきますが、御霊によって生まれたのなら御霊によって歩もうではないか、この歩みをすることこそ神様が願っておられること。そしてその歩み方には人それぞれの成長段階があるのであって、軽々に決して人を裁くものではない。そのことを率直に教えられたことでした。

※イラストは教会からお借りしています。

⏰5時52分更新

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コロナの羽交い絞め

J-MERO、ゲストは佐々木彩夏、超特急。ライブあっての彼ら。コロナ禍は動画配信でファンとの距離を縮めているらしい。若者たちに、けっこうな年齢層も見えたりするのだが、とにかく夢中になれるものに浸りたい人々に夢中になれるものを提供。「スタンド・アップ」の歌詞は強烈なライトの明滅。言葉の意味が的確に届かなくとも、言葉の断片がリズムと相まってノリまくれる。ホストMay J.新鮮。

「ぶらあぼ」6月号でも音楽家たちがいまをどう思い過ごしているかを特集していた。
いまニュースでウィーン少年合唱団の存続危機を聞いている。7割は、年間300回の公演収入。日本では一回の来日で30回。これがなくなっている。500年の伝統あるこの合唱団が風前の灯とは! コロナの羽交い絞めがここにも。

 

⛳6時44分更新

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20710クラシック倶楽部を聴く ギル・シャハム バイオリン・リサイタル &江口玲

名手ギル・シャハムによるバッハの無伴奏パルティータ、そしてシャハムが「すばらしい音楽の達人」と評するピアノの江口玲との共演でフランクのバイオリン・ソナタほか。ー番組紹介よりー

 

🎵2020416日の「中ぶんなの日記」に記した感想は、
「ふたりの会話が実に互いを輝かせるというリップサービスなしの爽やかさ。まことの友人とはこんなものであろうと思わせられる。断片とはなるが、ギル・シャハムが「バッハを弾くのは怖い」というこれが意外だった。長い間バッハを弾かなかったらしい。そこに江口が「シャハムはバッハのすべてを引き出してくれる」と。シャハムいう「玲のような共犯者と悪だくみ」しながら30年の共演であると。音楽の悪だくみ、信頼ある愉快なことばだ。すでに完成かと聴いたギル・シャハムがいう「バイオリンはスマートホンのようなもの。使いこなせない。少しずつこのマシンのすばらしさを発見しつつあるところ」。この関係は確かに演奏に反映されており、互いが互いの個性を引き出し互いが存分に自らの演奏を充実させ次の可能性を期待させてくれていた。
 バッハの「無伴奏バイオリンパルティータ第3番」、これはすばらしかった。どんなふうに、とにかく風通しがいい。たとえは適切かどうか自信はないけれども、超能力を備えたハウスキーパーが、へやにあるものを次つぎに、一点の曇りもなく見る見る間に磨き上げていく。床、ガラス、天井、照明、ドアノブ、手すり、スイッチ、壺、日常に使う食器の数々。つまりこのへやが筆者の内面なのだが。マイナスの感情を痛みもなく切り落として、すっきりとそのもの本来のありようを取り戻してくれるのだ。ギル・シャハムもいっている「バッハがいてよかった」と。ロンドン風ガボットではもう喜びが満ち溢れている。玲が言ったとおり「シャハムの演奏は、目の覚めるようなクレイトーン、天国にいるような響き」であり、バッハは、シャハムが言うとおり、彼に言わせれば演奏した後はということなのだろうが、聴いたあとには「良い人になった」かの思いにさせてくれるのだ。
 フランクの「バイオリン・ソナタ」。フランクは人生の大半を教会のオルガン奏者として過ごしたようだ。この曲はフランク64歳の作曲。フランクの人生のドラマ展開をシャハムの小気味よい見事な演奏展開で聴かせてくれた。収録は2018年6月24日 紀尾井ホール。湧き上がるブラボー。音楽的にだけでなく、シャハムの人柄からもつたわってくる冴えと人間味を兼ね合わせたすばらしい演奏だった。」

 今回も聴くに値する演奏と。特にバッハは、起きがけの頭の靄が晴れていく。どこまでも親身に付き添ってくれる光という感じが。「素晴らしき悪だくみ」をまた聴きたいもの。

 

 

🎧名曲アルバム。「リュートのための古風な舞曲とアリアから イタリアーナ」レスピーギ作曲。演奏・櫻田亨 

🎵リュート工房を興味深く。
レスピーギは聖チェチリアーナ音楽院の院長であった時期もあったようだが、ここの蔵書20万冊の中から古書を読むのが楽しみであったらしく、この中でリュートの曲を発掘し管弦楽用にしたという。楽器も発掘する人物によって息を吹き返すことがあるようだ。
盛岡市にある松本ヴァイオリン工房でも、バリートーンという古楽器の復元を企んでいるようだ。ネットでググったがたどり着けなかった。聞いてはいないが、たぶん原書の資料も持っているのかもしれない。

⛳7時ジャスト更新。ニュースに移行。

 

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2078クラシック倶楽部を聴く  ヴァディム・レーピン バイオリン・リサイタル

世界的活躍を40年以上にわたり続けるロシアの名バイオリニスト、ヴァディム・レーピンがおくるプロコフィエフやチャイコフスキーの名曲アンドレイ・コロベイニコフ(ピアノ)ソナタ(ドビュッシー作曲)、ソナタ第2番(プロコフィエフ作曲)、歌劇「エフゲーニ・オネーギン」よりレンスキーのアリア(チャイコフスキー作曲)2018年7月7日豊田市コンサートホールー番組紹介よりー

 

🎵ヴァディム・レーピンノヴォシビルスク生まれ。
ドビュッシー「バイオリン・ソナタ」は1917年大戦中に病の中に作曲。プロコフィエフ「バイオリン・ソナタ第2番」は1944年完成。ともに晩年の作品。作曲に際して死などの不安要素が現われる場合、またそれらを抱えながらも作曲するときには日常は引きずられてしまうような重さからは解放されるという同じ曲からでもそんな二つの側面が感じられる。チャイコフスキーの「ワルツ・スケルツオ」、ワルツのリズムの中にもヨーロッパとは一味違う濃さがあると感じたけれども、このうえにキラリと光る剃刀はこれをどんなふうに切ってくれるだろうか。世の中のA級評論家のコメントは数々。
レーピンは、1989年のエリザベト王妃国際音楽コンクールに優勝。この回の第2位は諏訪内晶子だった。
レーピンの至芸は健在。

 

🎧名曲アルバム。「交響曲第9番」マーラー。【管弦楽】NHK交響楽団,【指揮】飯森範親
マーラーは生涯最後の3年、南チロルのトブラッハで夏を過ごした。アルプスの大自然の中で書かれた傑作交響曲第9番には、危機や苦難を乗り越えた崇高な境地が表れている。―番組紹介よりー

🎵作曲小屋で孤独環境を確保しての作曲

⛳なにか調べたりない、もっと聞きこんだ方がいいのではと思い迷いつつ更新。大雨、こんどはどこでどんなふうに暴れまくっているやら……。7時ジャスト更新

 

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20/7/8 クラシック倶楽部を聴く 9人のヴィオラ 

28回を迎えたビオラの祭典。世界各地からビオラの名手が集まり、将来を嘱望される日本の若手奏者たちと競演を繰り広げる。ビオラ・ファンならずとも必見のコンサート。【出演】アントワン・タメスティ(指揮/ビオラ)今井信子、佐々木亮、(以上ビオラ)ガース・ノックス(ヴィオラ・ダモーレ)三浦一馬(バンドネオン)ほか【曲目】「ストレンジャー」(ノックス作曲)【収録】2019年6月5日上野学園石橋メモリアルホール

 

🎵朝のトレーニング化しているこのクラシック倶楽部のメモ書き。きょうは定刻に。聴き終えて、ずいぶん長く内容ある演奏を聴いたという実感が持てた日は、やはり録音を録った方がいいかなとも思う。しかし、一旦それをすると、聴かなくなる。いつでも聴ける、だから後回し、それで結局は聴いていない、聴かないということに。やはりこの時間起きて聴くというところで、聴いた! という実感もひとしお。 

ガース・ノックスの「ストレンジャー」、アントワン・タメスティのビオラとガース・ノックスのヴィオラ・ダモーレのデユオ。人に忘れられた兵士の心境、これはたとえばかつてはステージで華々しく活躍しいまは忘れられた俳優、或いは、かつては皆に愛されたが年老いていまは忘れられた何某に通じるところが。懐かしさ、傷痍、寂渺感。これがステージ上を動きながらの演奏。ステージ上を動きながら演奏するのは今や何も珍しくない。観客を飽きさせないために多くの演奏会で行われているのだが、純然たるクラシックでこれも表現の一つとして加えられることはめずらしく、これは舞台空間をも利用し旅をしている感じにという作曲者の意図によるようだ。
西村朗の「8つのビオラのための<>」、今井信子他ルオ・シャファンら8人のヴィオラ。なかなか重厚。荒涼とした野を彷徨う感じに始まり、これは……と思ったところに、東日本大震災の後に西村が作曲と解説が流れ、ああ、そうだったと。観客席から現れた西村氏。ひところは作曲家がいちばんエライと思っていた。自分が死んだ何百年の後までも、演奏家たちに生涯の学び突詰めを課す。墓の下から譜面を通してものを言い続ける。けれども今回、演奏家の存在の大きさをも認識。偉大な楽譜も演奏者がなければただの紙切れ。実際埋没してしまった名曲もまだあるかもしれない。膨大な楽譜を一読して曲の構造までを掴める人物はそう多くはないだろう。演奏家があって名曲を名曲たらしめる。すでに分かっていたことながら、なぜかけさはそれを実感。

ピアソラの「ル・グラン・タンゴ」、これはロストロポーヴィッチのために作曲されている。まるで三浦一馬のバンドネオンの熱さと切なさを玩味しつくしたかの佐々木亮のビオラ、江口友理香のチェロ。さまざまな人生の味わいが。

ブレット・ディーンの「テスタメント」、これはハイリゲンシュタットの遺書に因んでの作品という。主導権が目まぐるしく変わり縦横無尽にとの解説。この主導権の移ろいに、あすをも知れぬ存在の不確かさが感じられ、また松脂を塗らない弓を使うという発想は及びもつかないのだが、それが持ち替えられて。聞えにくい、音にならない、聞こえないといった不安感。また夜の森を歩いたことはないが、もし歩いたならば、こんな怖い樹上のざわめきがきこえるのではないかと。桐朋の若きヴィオラ奏者たちの登場。含蓄ある響き。

今回は長く充実した時間を持てた実感がのこった。

 

 

🎧名曲アルバム。「革命交響曲」ショスタコーヴィッチ
ロシアの作曲家ショスタコーヴィチが、重圧の中で書き上げた。血の粛清で芸術家たちが次々と処刑される中、葛藤を抱えながらも社会主義の理想を力強く描いた傑作。【指揮】高関健,【管弦楽】NHK交響楽団―番組紹介よりー 

🎵先鋭的な曲想はスターリンが死ぬまで封印され。

⛳7時ジャスト更新。九州は……

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20/7/7クラシック倶楽部を聴く  ナビル・シェハタ コントラバス

エジプト人とドイツ人の両親のもとクウェートで生まれたナビル・シェハタはベルリン・フィルで首席奏者として活躍した名手。実兄カリムとの共演で低音の魅力を聴く。【出演】ナビル・シェハタ(コントラバス)、カリム・シェハタ(ピアノ)【曲目】無伴奏チェロ組曲第1番・コントラバス版(バッハ作曲)、歌劇「夢遊病の女」による幻想曲(ボッテシーニ作曲)ほか【収録】2018年11月22日 ハクジュホールー番組紹介よりー

 

聴いたといえるかどうか、数年ぶりの寝坊で目を覚ましたのはアンコールのリベルタンゴのとき。こんな日もある、そんな日もある。

コントラバスというこの大型楽器。これもバイオリン属と思っていたが、実はヴィオラ・ダ・ガンバ属なようだ。カリム・シェハタについてあまり詳しくは知らない。これだけの大型楽器を自在に弾きこなせるのは果たして何歳までなのだろうかと思った。






カリム・シェハタ(ピアノ)

Karim Shehata , piano
クウェート生まれ。5歳よりドイツに移住。音楽教育者の家庭に育ち自然にピアノを始める。フェルデン音楽学校を卒業後、ハノーファー音楽演劇大学で学び、さらにブレーメン芸術大学大学院で研鑽を重ね多くの名演奏家の薫陶を受ける。
“レーガー・フォーラム”(ブレーメン)、“シューベルト・ピアノ・プロジェクト”(バイロイト)等の音楽祭、現代音楽シリーズ“リアルタイム”、シュヴァンドルフ“ピアノの春”等のコンサート・シリーズに招かれており、また近年は実弟である気鋭のコントラバス奏者、ナビル・シェハタとのデュオ・リサイタルも度々行っている。

 

名曲アルバム。「カルメン組曲第2番 ロマの踊り」ビゼー作曲
歌劇「カルメン」の舞台となったセビリア。恋に、踊りに。誇り高く生きる女性たちが今もなお暮らしている。情熱的なフラメンコの踊りとともにお送りする。【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団,【指揮】角田鋼亮ー番組紹介からー
ロマのような人生の選択は、いつでも死と隣り合わせ。死ぬ覚悟がなければできない生き方のように私には思われる。

⛳正直、書きようがないといった朝になってしまった。次の番組イスタンブールを面白く観た。

 

 

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2076クラシック倶楽部を聴く 佐藤俊介 バイオリン バッハ無伴奏

オランダを拠点に世界的に活躍するバイオリニスト佐藤俊介。バイオリン音楽の金字塔、バッハの無伴奏ソナタとパルティータ全曲をピリオド楽器で演奏したコンサートから。【出演】バイオリン/佐藤俊介【曲目】無伴奏バイオリン・ソナタ第2番イ短調から第1・第2・第4楽章(バッハ作曲)、無伴奏バイオリン・パルティータ第2番ニ短調全曲(バッハ作曲)【収録】2018年11月15日 浜離宮朝日ホール(東京都中央区)―番組紹介よりー

 

🎵指板が短めで弾きやすいと見える1684年製のオランダの古楽器でのバッハの無伴奏、聴くごとになにやら不思議感ある距離から引き寄せ、というよりも或いは音の方から近づいて譜面に腰を掛け腰をおろし並んでくれたのではないかと。ある大作曲家はシャコンヌは全世界だといったようだけれども、私がチョン・キョンファのシャコンヌを聴いたときには、これは全人生だと思い、きょうの佐藤の演奏を聴きながら、バッハの無伴奏は「岩から染み出る、岩からほとばしり出る水」、即ち神の奇蹟だと思うに到った。ふと、在庫のCDライブラリーからできる限りの演奏家のシャコンヌを聴いてみたくなった。このバロックバイオリン、顎あてがないと佐藤がいっていたけれども、演奏家がもしそれを使おうと思えば使えなくはないはずで、これは製作者の意図であるのか、或いは使わない方が楽器が安定的に身に添ってくれるものなのか。大らかでまるいまろやかな音と言っていたけれども。

バッハのシャコンヌのスタート地点は舞曲であるとか。テンポアップで流れが変わる。シャコンヌは巨大な城であるとも佐藤。いろんな色彩が見えるシャコンヌであってほしいと。

佐藤は2歳からバイオリンを習ったようだ。3歳、5歳、7歳はよく聴いた気がするけれども。2018年に就任していまはオランダバッハ協会第6代芸術監督。 

 

🎧名曲アルバム。美しい海の都・ベネチアに魅了されたワーグナー。「ニュルンベルクのマイスタージンガー 前奏曲」完成の背景には、ベネチアに残された、とある絵画との出会いがあった。 

🎵ベネチアのサンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂にあるティツィアーノの聖母被昇天がワーグナーをして、頓挫していた「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を完成に。ワーグナーより300年前に描かれた絵画の持つ力は、もしや周囲の再三の説得にも優って力があったのか。

偉大な芸術家たちを衝き動かしてきたベネチア。1750年創業というカフェ・ラヴェーナ、コロナに屈せずたぶんいまもあるだろう。

⛳7時1分、九州大雨災害のニュースを聞きながら更新

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きょうのことば  

インマヌエル盛岡キリスト教会2020年6月28日()のメッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『信じることの恵み』(國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 ペテロの手紙第一 第1章3~9節

1:3私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。 1:4また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために、天に蓄えられています。 1:5あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。 1:6そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、 1:7試練で試されたあなた方の信仰は、火で精練されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現われるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。 1:8あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びにおどっています。 1:9あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。

 

<説教>

 はや上半期は締めくくられようとしております。
この週の625日は、この教団の創設者蔦田二雄が検挙された日でもあります。
 治安維持法違反という嫌疑の下に教会が弾圧を受け何人もの牧師たち逮捕されております。第一弾がこの6月、それからまた11月に第2弾がありました。報道は統制されており新聞でもあまり取り上げられず、教会の中だけの情報として伝わっていたでしょう。教会はそのような困難を通ったときがありました。
 今日の様々な困難の中での自粛という事態を考え合わせたときに、私たちの持っている信仰っていったい何なんだろうか。ここでもう一たび立ち止まって、ああ、これが私たちが信じている福音なのだということを共に共有し、下半期へと進みゆきたいと願って、きょうはエペソ人への手紙の連続講開からちょっと外れまして、そのところを扱いたいと思っているところであります。 

 さて、もし皆さん方、教会が閉鎖されるということになったなら、どのような在り方をするものでありましょうか。実際に昭和17年に宗教弾圧が政府の手によって為された時代があった。そんなに昔の事ではない、そしていま私たちがコロナに。ただ盛岡は感染者がないので変わらずに、マスク着用、手のアルコール消毒を励行しながら集会を持っておりますけれども、同じ教団でも首都圏、その他、さまざまな地域では集う事ができなくなっている。そういう中に、もういちど、さあ、あなたは何をもってクリスチャンとして歩んでいるのですかと突き付けられたとき、私は第一ペテロの1章の8節と9節。1:8あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びにおどっています。 1:9あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。
 このおことばを掲げたい。とても大切なことばが89節に記されています。たしかにこれは今日の私たち一人ひとりがアーメンと肯くことのできる告白ではないでしょうか。

イエス・キリストを見たことはないけれども私たちは心から愛し信じている。信じているということは、そのお方にすべてを信頼して人生のすべてを賭けている。そして、栄えに満ちた喜びにおどっています。

第一ペテロの16節、7節など見ますと、今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならない、人間的に言えば悲しんでいる状態である。そして7節、試練で試されたあなた方の信仰は、火で精練されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、とありますが、ほんとうに大きな試みの中にある。問題課題が特にない淡々としている信仰生活のときもそれは恵みに違いないですけれども、しかし大きな試練の中にあっても、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これはほんとうにすばらしいものです。それはどうしてなのかというと、あなたがたが信仰の結果である魂の救いを得ているからなのです。このメッセージを昨晩準備をさせていただきながら、私も心も言い尽くせない栄に満ちた喜びに踊り、躍動している。もうじっとしていられない。それは、信仰の結果である魂の救いを得ているからです。

 先ほど申しました昭和17626日の弾圧を、私たちは蔦田二雄先生が群れを創設された後で折々に文書に遺したことで知っております。そしてなぜインマヌエルという名前を教団につけてこの働きを継承されたのかということも知っております。
 あの弾圧は色々な見方があります。天皇を中心とした国の権力がそれを是としない、特に大国である欧米の宗教であるキリスト教を信奉しているとんでもない輩である。突然、特高がやってきて様々なものを押収していったそうです。その中には英文タイプライターも。暗号文章を作成するのだろうと。

蔦田先生がそのような今までの働きから突然切り離されて獄中に。それは反省するときでもあったといいます。ホーリネスの歴史を考えるときに負の遺産といったらいいのか、福音理解をめぐっての激しい衝突もありました。当時のホーリネスの中田重治監督が、イスラエルの救いをまず先に祈り求めるべきだと主張、これに対し、イスラエルの救いが第一ではなく伝道ときよめということが聖書の中心である。新生、聖化、神癒、再臨を掲げた路線があった。これが内紛問題にまでいってしまった。新聞の攻撃の絶好の種になってしまった。主の僕たちが争うというセンセーショナルとなったとも聞いております。その時になぜホーリネスの群れにこれだけ激しく弾圧がきたのか。

 蔦田先生は獄中でほんとうに今が悔い改めるときだ、あの争いがどれだけ主の御名を傷つけ、主を悲しませたか、それをしっかりと受け止めて悔い改めるべきことを先ず行った。

これまで私は何を大切ななものとして伝えてきたのか、それは、「神が私たちとともにおられる」。獄中にあって、すべてのものから遮断されていた時、最後に自分がこれから伝えようとするものは何か。それは、「神が私たちとともにおられる」、この確信を持ち、そして、その働きがスタートしたということを思います。

この第一の手紙の1:8あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びにおどっています。 1:9あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。大きな意味をもっているように思います。獄中で、蔦田先生もまた同じ経験を。それは「信仰の結果であるたましいの救いを得ているから」なのです。

 

 

この第一ペテロの中に、私は「生ける」というキーワードがあるように思いますがこれでまとめることができるでしょう。
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第一番目が「生ける望み」、これは3節にあります。
1:3私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。
ヴィヴィッドなほんとうに生命に溢れた生ける望みがあるから喜びに踊るのです。

もう一つ「生ける」という言葉が。
第一ペテロ1章23節
あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。
私たちが大きな試練の中にあってもなお喜び踊ることができる、生ける望みを持つことができる支えは何かというと、いつまでも変わることのない生ける神のことば。これによって支えられています。生けるかみのことばです。

1章24節見ますと
人はみな草の花のようだ。
草はしおれ、
花は散る。
しかし主のことばは永遠に立つ。
変わらないまことの生けるかみのことば、これがわかるから、私たちは生ける望みを持っているのです。

そしてもう一つ、尊い生ける石
第一ペテロの24
主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた貴い生ける石です。
あんなのはメシヤじゃない、と多くの人々に捨てられ十字架につけられたお方、しかしこのお方はよみがえられたお方。人には捨てられたけれども神には選ばれた生ける石。そしてあなた自身も生ける石として霊の家に築き上げられた。

そして、26
見よ、わたしはシオンに選ばれた石、
貴い要石を据える。
この方に信頼するものは
決して失望させられることがない。

私たちの生ける希望、それは変わることのない神のことば。そして死からよみがえって下さった生ける貴い石、このお方があるから、私たちはほんとうにしばしのあいだ苦しみがあるけれども、1章の89節はほんとうに大きな恵みのことばです。天国への望みとしても葬儀でもよくお開きすることがあります。

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1:8あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びにおどっています。 1:9あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。

 

※ 画像は教会からお借りしています。
6時12分更新

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あれこれ

「時代遅れのB級評論家」とは誰々じゃ、などと問うのもナンセンス。音楽の記録媒体ができたのは1877年、それがSPとなりLPとなり……、あれから143年。地球上を飛び交う膨大な数の質の音楽配信。などなど思いながら一通り聴いたJ-MERO。テクノポップ・ユニット、OK。アイドルとメタルの融合、OK。奇抜ファッション、まずまず。記録媒体の変化に伴い強烈に産業化した音楽。

聴き終えたところで知ったまたまた九州の水害。目頭の涙をこらえての朝食。

ここでちょっと産業化された音楽と一線を画した音楽が思い出された。岩渕まことさん。

 

⛳13時26分更新

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20/7/3クラシック倶楽部を聴く  ナタリー・シュトゥッツマン&オルフェ55

コントラルト、そして指揮者のふたつのキャリアで活躍するナタリー・シュトゥッツマン、そして彼女自身が創設した室内オーケストラ、オルフェオ55の演奏でバロック期の声楽曲・器楽曲をお送りする。声楽を学ぶ学生が必ず勉強する「イタリア歌曲集」の曲目をオリジナル編成で演奏した公演で、深みのある豊かな歌唱、そして集中度の高いアンサンブルが注目を集めた。2018年5月、紀尾井ホールで行われた演奏会の後半から。ー番組紹介よりー

 

🎵ナタリー・シュトゥッツマンのコントラルト、いちど聴いたなら忘れる人はないだろう。この放送はかつて2回聴いており、このブログにメモってある。いちどは2019130日、この日の朝は氷点下9度、それでも起きだして聴いている。いちどは201975日。

いずれも20185月の収録分。201975日を読んでみたが、きょう聴いて感じたところと少しの違いもない。

ナタリー・シュトゥッツマンのコメントの一部
歌と指揮を同時におこなうことについては、私の脳が二つのパーツで構成されているのかもしれません。私にとって「声」はずっとメインの楽器でした。ピアノやチェロなども学びましたが、声がもっとも自分を表現しやすかった。だから「二つのことを同時にしている」という感覚はありません。自分もアンサンブルの一部といった感じです。歌のパートは徹底した準備が必要です。本番では歌で体を使うので、オーケストラに細かい指示を出せません。ですからリハーサルではオーケストラの準備を入念に行います。もちろん負担は大きいです。でも作品全体を自分で表現できる至福を味わうことができます。最高ですよ。最近は指揮活動の方が増えました。指揮者になることは夢でしたので嬉しいです。偉大な指揮者たちに支えられて多くのすばらしい機会に恵まれています。でも歌手を辞めたわけではありません。指揮の割合が増えてきたということです。いまはノルウェーのオーケストラの音楽監督とアイルランド放送交響楽団の首席客演指揮者も務めています。オペラの指揮もします。このあいだワーグナーの「タンホイザー」の指揮をしましたが大変でした。でも私自身は何も変わっていません。音楽家であるということは「生き方」だと思うのです。指揮者であろうと歌手であろうと音楽家であることに変わりはありません。私は音楽ができれば幸せなのです。

「協奏曲 第1番 ヘ短調から ポコ・アンダンテ」ドゥランテ:作曲
「歌劇「ポンペオ」から 私を傷つけないで」アレッサンドロ・スカルラッティ:作曲
「歌劇「ジュスティーノ」から この喜びをもって会おう」ヴィヴァルディ:作曲
「歌劇「アルミード」から パッサカリア」リュリ:作曲
「歌劇「救われたアンドロメダ」から 太陽はしばしば」ヴィヴァルディ:作曲
「オラトリオ「敵の将軍ホロフェルネスに勝って帰るユーディット」から 気まぐれの風にもてあそばれ」ヴィヴァルディ:作曲
「歌劇「みやびなインドの国々」から 未開人の踊り」ラモー:作曲
「パッサカリア」ファルコニエーリ:作曲「踊れ、優しい乙女よ」ドゥランテ:作曲
「愛の喜び」マルティーニ:作曲
「歌劇「オリンピアーデ」から 私は苦しみながらも震えている」ヴィヴァルディ:作曲

🎵シュトゥッツマンのコントラルト、嘆き、憂い、怒り、苦悩、忍耐を浄化しうたいあげる。その奥に底光りを放つ黒い、青い宝石のよう。実に魅力的だ。そしてまるで空中の酸素のかわりに優しさと雅さ、繊細さで呼吸、息をしているようなオルフェオ55。シュトゥッツマンの響きに寄り添うオルフェオ55の柔らかな響き。まえにも聴いているけれども、今回より深く身近に心に落ちた。シュトゥッツマンの歌う歌詞の内容を包み、強弱の別はあれ、そこはかとない包容力に満ちて流れるこの絶妙さ。去年の5月に来日し手堅く篤く厚く熱い支持を得ているところから、またの来日が期待できそう。上京してでも聴きたいところだ。
シュトゥッツマンには女性ながら胆力も感じられ、決して尻ごみしない精神力がやはり彼女を指揮者に駆り立てるのか。

以前は以上のように感想を綴っていたのだが、しかし、2019427日の「月刊音楽祭」で報じられたところでは、オルフェ5524日に活動停止を発表。政府の支援が減ったことに原因が。同じ現実が出てきそうな様相に暗たん。好きな楽団がなくなったことには気落ちしたが、しかし、あの響きはいまもこちらに。

翻訳の方々は広塚洋子、岡本和子の各氏

 

🎧🎵名曲アルバム

「ラ・マルセイエーズ」(バリトン)直野資,(合唱)二期会合唱団,東京少年少女合唱隊,(管弦楽)東京フィルハーモニー交響楽団,(指揮)矢崎彦太郎
ディートリッヒ市長からの委嘱にこたえて作曲者リールは、一晩で一気に書き上げたという。歌いながらの義勇軍の突撃のものすごい場面はさておき、場合によっては狂気にも駆り立てられそうな、とにかく元気の出る曲。

 

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20/7/2クラシック倶楽部を聴く ベルリンRIAS室内合唱団

ドイツを代表する室内合唱団、ベルリンRIAS室内合唱団。ジャスティン・ドイルの指揮でバッハやブルックナーといった宗教合唱曲の精髄をお送りする。【曲目】「神よ なぜわたしを見捨てられたのか」(メンデルスゾーン作曲)「キリストはわれらのために」「エサイの枝は芽を出し」(ブルックナー作曲)「イエスはわが喜び」(バッハ作曲) ほか【収録】2018年11月2日 東京オペラシティ コンサートホールー番組紹介よりー

 

🎵バッハ「歌え主の御前に新しい歌を」、メンデルスゾーン「神よどうして私を見捨てられたのか」、ブルックナー「キリストはわれらのために」、「エサイの枝は目を出し」、バッハ「イエスはわが喜び」のうち、メンデルスゾーンの「神よ なぜわたしを見捨てられたのか」の歌詞が、虐げられた人々の悲惨、心情が語りつくされており、切々と胸に迫ってきた。ベルリンRIAS室内合唱団はドイツを代表する合唱団、その水準が保たれる要因の一つには、やはりオペラやオラトリオでソリストを務めるほどの人材がこの合唱団に流れてきていることにあるようだ。しっかりと歌える存在が合唱団の中に一人いるだけでもその存在の影響力の大きさが察せられるが、おそらくそのような方々が何人も。ジャスティン・ドイルの就任は2017年、つい最近。彼がこの合唱団をいうに「35人が一つの生き物のように動く」「繊細なしなやかさを持つ」「カメレオンのような」これは変幻自在、であったか、何れ表現のいかなる要求にもこたえ得る力を持つのだなと。

 宗教曲を聴くようになったのは、この地方都市にあって異色ともいえる国際的な活躍もしているバッハ・カンタータ・フェライン盛岡の影響が大きいのだが、たしか、このほどドイツのバッハ音楽祭にも招聘されているはず。このコロナ禍で先行きどういうことになっているか。

 聞いてきて心休まるというところにたどり着いてはいるものの、これはどんな優れた合唱団を問わず、宗教曲は、まだまだ多くの人々の頭上高くに、君臨と言えばいいすぎだけれども、下界をはるかに下して鳴り響いているなという実感を否めない。キリストこそ本質的には庶民の宗教、それがなぜかいつまでもどこまでも遠いと人に思わせるところが。かといって崇高さを貶めることはこれはできることではない。これはほんとうに難しい課題であると思われる。
 あれこれ考えているうちにはや7時。クリスチャンや宗教音楽関係者だけが歌い聴いて満足しているにはもったいないと思うが故の思い巡らしなのだけれども。ただこれには伝道を使命とする教会と宗教音楽を研究し歌い検証する使命を持つ合唱団とを混同している誤りから来る疑問であるのかもしれない。

 

🎧🎵名曲アルバム。「ピアノ協奏曲イ短調」グリーグ作曲。【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団,【ピアノ】横山幸雄,【指揮】矢崎彦太郎 ~ノルウェー・ソグネフィヨルド~
 フィヨルドの険しく荒く、そしてそこに容れられ静まる海面の美しさ神々しさ。それを思い出させるグリーグ。

⛳7時8分更新

 

 

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20/7/1クラシック倶楽部を聴く ウィーン少年合唱団

クラシック界のアイドル的存在として、長年、日本のファンを楽しませてきたウィーン少年合唱団が登場。ヨハン・シュトラウスに加え日本の歌やドイツの合唱曲などを歌う。【出演】ウィーン少年合唱団(合唱)マノロ・カニン(ピアノ・指揮)【曲目】ポルカ「雷鳴と電光」、ワルツ「美しく青きドナウ」(ヨハン・シュトラウス作曲)、「ふるさと」(岡野貞一作曲)【収録】2019年5月29日 東京芸術劇場大ホールー番組紹介よりー

 

🎵梅雨独特の靄に覆われた7月はじめのこの朝に、明るく清新な歌声で心楽しいひと時をくれたクラシック倶楽部、ウィーン少年合唱団。神聖ローマ帝国の世から500年、脈々と流れつづけていまに。1014歳の24人を引き連れるマノロ・カニン。この来日では30公演以上をこなしている。
ヴィアダーナ「喜べ正しい人たちよ」。ケント君が日本語で紹介してくれたハイドンの「天地創造」から「天は神の創造を語り」、天は神の創造を語り、大空は御手の栄光を告げ知らせる。ブラームスの「詩篇13編 主よいつまで私をお忘れになるのですか」。井形ちづる訳ではないけれども、聖書の新改訳で挙げると

指揮者のために、ダビデの賛歌
1
主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。
2
いつまで私は自分のたましいのうちで思い計らなければならないのでしょう。私の心には、一日中、悲しみがあります。いつまで敵が私の上に、勝ちおごるのでしょう。
3
私に目を注ぎ、私に答えてください。私の神、主よ。私の目を輝かせてください。私が死の眠りにつかないように。
4
また私の敵が、「おれは彼に勝った」と言わないように。私がよろめいた、と言って私の仇が喜ばないように。
5
私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあたの救いを喜びます。
6
私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。

 

バンキェーリ「3声のためのカプリーヌ 動物たちの対位法」を紹介してくれたのはマリス君。猫や犬といった動物たちの楽しくにぎやかな掛け合い。

ピアソラの「リベルタンゴ」。そしてティモ君紹介する「サウンド・ミュージック」から「ひとりぼっちの羊飼い」。次はダヴィット君の紹介で美智子上皇后作詞、山本正美作曲の「ねむの木の子守歌」。続いて100年歌い継がれている岡野貞一作曲「ふるさと」。そしてヤコブ君、世界平和を願ってヴィルトの「内なる平和」。これはインドの宗教改革者カビールの詩をタゴールが翻訳しているとか。この詩もちょっと挙げてみたい気がしたが、時間の関係で番組から拾ったひとこと「あなたの身体の中にこそ花咲く庭がある……そこで無限の美を見つめなさい」。瞑想的な奥深い曲に惹きこまれた。一転、ヨハン・シュトラウスの愉快な「雷鳴と電光」。お別れの曲は「美しき青きドナウ」。この歌詞に、この曲がただにニューイヤーコンサート定番の優雅なワルツではないことがわかる。1867年に作曲されているが戦争から受けた人々の傷跡、これを慰め励まそうと作られたようだ。「困難な時にも団結して明るく勇ましく」「どんなときにも私たちを守ってくれるのは誠実さと団結」。その歌詞に曲のすばらしさをいよいよ納得。これも井形ちづるさんの訳。アンコールは菅野よう子の「花は咲く」。コロナ禍にも水仙もチューリップもポピーもマーガレットもクロッカスも躑躅もユリノキもニセアカシアもユリもアガバンサスもリモン・チュッロも次々に次々に咲いている。次つぎに。

それにしてもあの素晴らしい装飾のベーゼンドルファーは国内にあるものか、持ち込まれたものか……。

 

🎧🎵名曲アルバムはホルストの「木星」映像の最後は三日月。(管弦楽)東京フィルハーモニー交響楽団,(指揮)飯森範親 ~イギリス・チェルトナム~

 

⛳7時ジャスト更新

 

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