« 雑感 | トップページ | 2068クラシック倶楽部を聴く  ソフィー・ダルティガロンファゴット・リサイタル  »

きょうのことば

  インマヌエル盛岡キリスト教会2020年5月31()のメッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は47年の間、岩手で主のご奉仕をしておられます。

Dsc04537Img_0928toriminngu 

説教題 『聖霊の満たし』―ペンテコステ講壇― (國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 ガラテヤ人への手紙516~26

5:16私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。 5:17肉の望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。 5:18御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。 5:19肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、 5:20偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、 5:21ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。 5:22しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 5:23柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。 5:24キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。25私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。 5:26うぬぼれて互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりしないようにしましょう。

 

<説教>

 きょう(2020年5月31日)はペンテコステを記念する聖日です。聖霊が降され教会が誕生しました。ペンテコステの日は年によって移動しますが、ことしは31日のきょうが世界中のクリスチャンたちと共にペンテコステ聖日をお祝いする日であることを御前に覚えております。けさは「聖霊の満たし」という角度から、ペンテコステの恵みを確認したく願っております。

 前回、この聖霊は私たちに何をしてくださるのか、イエス様ご自身を私たちの心の内に拡大して下さるお方であることを確認いたしました。そしてこのお方が私たちといつもともにいてくださる。
 出エジプト記3314「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」
「わたしの臨在」まさに「神の御顔」、主ご自身が私たちといつも一緒にいてくださる。そのことをヤコブが気づきましたが、これがヤコブのベテルの経験で創世記28章15節を指摘させていただき、きょうのペンテコステに備えさせていただいたのでした。
 

 きょうはガラテヤ人への手紙第5章のところからです。御霊と肉の問題。それからそれぞれが結ぶ実の違い。そして、私たちはどのように行動したらいいのか、これはガラテヤ書の5章16節からにあります。
「御霊」と「肉」、私たちはこのどちらに従って歩む者であるのか。また、「肉」によって歩むとどのような実を結び、また「御霊」によって歩むとどのような実を結ぶのか。ガラテヤ書5章には、「私たちは御霊によって導かれるのなら、御霊によって歩もうではないか」とございます。

 聖霊という神様を私たちはどのように理解しているでしょうか。聖書の中でいう神様とは、父、御子、御霊の三位一体の神様です。父なる神様は比較的イメージしやすい。すべてのものをお造りになったお方です。そして父なる神に対して御子なるキリスト。私たちには一層イメージしやすい。ところが御霊、即ちご聖霊様という三位一体の中では第三位格でおられる聖霊、或いは御霊という神様については、わかっているようでなかなかわかりにくい面があります。しかし、この聖霊という神様はご人格を持っておられる。ヨハネの福音書16章8節に、
「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます」とあります。「その方」とはご聖霊様のことです。聖書ではご聖霊様には人称代名詞が使われている。本来の文法名詞でいうとこれは中性名詞なのだそうです。中性名詞なのですが、しかし敢えてその通常の文法を無視してまでも、人格名詞として、「その方」と表記されている。人格をお持ちのお方です。この聖霊というお方は、私たちとの関わりにおいて、喜びや悲しみを持たれる、そういう人格を持っているお方です。このことは信仰生活を営むにつれて、しだいに深められていくことを経験いたします。
 

ヨハネの福音書14章17節
この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。
 これは頭脳的にではなくして、ああほんとうにそうだと経験的に私たちは知っている。
この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです
 この聖霊に対する理解がクリスチャン生活の大きなカギになっていることを心に留めたく思います。 

 ここで、聖霊と私たちの関係を見てみましょう。

小中学校のイエス・キリストの誕生・・・『聖劇』 そして 『主の御使い ...

ヨハネ黙示録320
見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
 イエス様が十字架につけられ、お弟子さんがローマの人たちを恐れて閉じこもっていたときに、復活のイエス様が戸の外に立って戸をたたいておられるところです。戸をたたいてはおられますが、実は、イエス様は、入ろうと思えばいとも簡単に戸を通り抜けて中にはいることができるお方です。ですから、このお方は、私たちが主よどうぞお入りくださいと私たちが内側から扉を開けるのを待っておられます。 

 先行的恩寵といわれるものがあります。私たちがイエス様を受け入れる以前から、さまざまな人生の出会いやできごとを通して、それは生まれ落ちた環境かもしれない、出会った友達かもしれない、私たちが信仰を持つ以前から、イエス様は私たちに、ほらここに真理があるよと教えてくださる。たまたま家の近くに教会があるということも、これは先行的な恩寵です。私たちが気づく前に、折に触れて私たちは聞くことができる。イエス様が、開けてごらん、ここに真理があるよと教えてくださる。私たちはその声を聞くことができる。
「罪の中に死んでいる」ということばがあります。ほんとうに死んでいるなら声を聞くことはできないはずです。しかし、先行的恩寵のゆえに、死んでいた私たちも、さあ開けてごらんという声を聞く耳を持っている。内側からどうぞお入りくださいと応答する恵みはもっている。これが先行的恩寵といわれております。

 

 さて、聖霊と私たちとの関係ですが、
まず「新生経験」があります。新生経験は十字架を心に迎え入れ、罪の赦しをいただいた経験です。黙示録の320にあるように、「戸の外に立ってたたいている」主イエス様を心の中に迎え入れる。これが新生経験です。これはとても大きなことです。あとでお話しする聖潔(きよめ)を強調するのあまり、新生経験の大切さを決してないがしろに言ってはならない。これは罪の中に死んでいた者がいのちなるお方を心の中に受け入れるというとてつもない恵みに与った、まさに戸を開いて主イエス様を迎えた経験です。もし、これがなかったら、私たちはクリスチャンとはいえません。「人は、新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」とヨハネ3:3にあるとおりです。クリスチャンの第一歩です。新生経験は罪の赦しをいただいた経験である。ここで心したいことは、それから後のことです。クリスチャンとして信仰生活を送っておりますうちに、キリストが心の中に入って来られたときに、私たちの心の中に、キリストをはじきたい思い、或いは、心にいてもらいたくないというような罪の性質がまだあることに例外なしに直面し悩むようになる。罪は赦されたけれども、罪を犯す性質は依然として心の中にあり続ける。クリスチャン信仰生活というのはこの罪の性質と新しくイエス様から与えられた神のいのちによるところの御霊のいのちとのせめぎ合いであり、あるときには御霊が勝つけれども、あるときには罪の力が勝ってしまう。この葛藤の中にあるのがクリスチャン信仰であるとする立場もないではない。つまり、罪の性質というのはずっともうこの世にある限り持ち続けなければならない、別の表現をすると、いかにイエス様の十字架であったとしても、私たちの罪の性質をなくすることはできないという立場であるといっていいでしょう。しかし、ほんとうにそうなのか。真面目に生きようとすればするほど多くの葛藤がある。しかしここに聖書はいうのです。第二の転機がありますよと。

20200603-92625  

「第二の転機」。これは全き聖潔、聖霊の満たし、聖霊の全人格的支配ともいわれます。ガラテヤ人への手紙第220
5:24キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。
「十字架につけたのです」、これはどういうことでしょうか。自分が信仰を持ったばかりのときに読んだ本が思い出されます。その本の著者は、十字架につけられた、その通り。十字架についてずっと生き続けている。死ぬまで十字架につけられ続けて、そして、肉体が死んだときにはじめて天国にきよめられていくことができる。その時はそういう理解もあるのかと思いました。それを指導いただいている先生に尋くと、「その本のいっていることはまちがってる」と仰いました。罪をキリストとともに十字架につけたキリスト様と自分と一体の信仰に立つとき、神様は、私たちが生涯ずっと肉を十字架につけて苦しい苦しいと言い続けることをよしとされるのか、それは違う。十字架上で「こと終わりぬ」、きよめられなければならない罪もキリストとともに十字架ですでに贖ってくださった。第二の転機である聖潔も十字架上で成就されている。聖書はキリストとともに十字架につけられたり、といっている。つけられ続けたとはいっていない。十字架につけられたり、心の真ん中にイエス・キリストをお迎えするならば聖潔という第二の関門も解決される。この経験をしなければほんとうに恵まれたクリスチャン信仰生活を送ることはできない。心の王座にこのお方が崇められ、そして支配をしていただくとき、私たちは第二の転機といわれる聖潔といわれる経験を持つことができる。聖書はそれをいっています。

 これは色々な表現で纏められます。全き聖潔とも。つまり新生のとき罪は赦されたけれども、罪の性質はのこっている。けれども第二の転機をもったときに、全き聖潔、或いは、聖霊の満たしという経験を持つことができる。聖霊の全的支配です。

「第二の転機」のわかりやすい例話があります。
 たとえば私の家に部屋が幾つもあった。それぞれの部屋には鍵がある。イエス様がおいでくださった。イエス様、いまきれいにしますからちょっとお待ちください。実は断捨離もイエス様がしてくださいます。お委ねすればです。イエス様を迎え入れたときに、イエス様は私たちのできなかった掃除、整理も、ほら、わたしがやってあげるよとおっしゃる、そのイエス様に掃除をお委ねするのです。これは信仰の要ることです。勇気の要ることです。イエス様は仰る、さあきれいになりました、ところであなたの部屋はこれでぜんぶですか? あの部屋はどうですか? あなたは言うでしょうか、あの部屋はけっこうです。あそこは自分でやりますから。あそこ以外はぜんぶあなたのものですから。 
 あの部屋とは何でしょう。自分の希望、自分の願望、これだけは譲れないという何か。もしその部屋の鍵を委ねることができなければ、イエス様はあなたの心の王座におつきにはなられない。イエス様はそれでは満足なさらない。というよりも、あなたの全部をイエス様にあけ渡すことができていません。本当の意味でイエス様を心の中心にお迎えしていない。さあすべてを委ねてごらんと主にいわれたとき、そこに全き献身が欠けている。献身というと、神学校に行くとか宣教師になるとかを考えがちですが、そういうことをいっているのではなく、すべて心の中の鍵を部屋をイエス様にお渡しするということを献身といいます。すべてをあなたにお委ねしますといったときに、そう、ようやく信頼してくれたね、ありがとう、このときに与えられる心の平安、これはもう知識とかではない、心の経験なんです。ほんとうにイエス様を信頼して、こんなわたしですけれども、よろしくおねがいします。ここに聖霊の全人格支配があります。これが24節にある「信仰によって十字架につける」ことなのです。「イエス様のあの十字架は、この私の罪のきよめのためでもあります」との信仰告白が「われキリストとともに十字架につけられたり」ということなのです。


ガラテヤ220節をお開き下さい。
もはや私が生きているのではなくキリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。
 そうです。信仰によるのです。もはや私が生きているのではないといっているでしょう。誤解のないように、これは、いのちある自分がなくなってしまうというのではないのです。私自身は依然としてあるのです。しかし、私が生きているというのは、キリストが私の内にあって生きていてくださって旧い私はキリストとともに十字架につけられてしまったということです。
今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰による
 もはや私が生きているのではないということは、罪の性質これがキリストとともに十字架につけられた、これは信仰によることなのです。自分が一生懸命に頑張ってきれいにしようきれいにしようとする自分の頑張りには良い意味で死んで諦めて、自分で自分をきよめることはできませんから、主よ、こんなみすぼらしい私をあなたにお委ねしますのでお願いいたします、きよめてくださいと御前に進み出ることです。

ガラテヤ5:24に戻りましょう。
5:24キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけた
 つけてもまだ生きてますとは書いていません。すでに十字架につけたのです。それを信仰というのです。
16節
5:16私は言います。御霊によって歩みなさい。
18節5:18御霊によって導かれましょう
25節御霊によって生きよう
25節御霊によって進もう
 私たちがきよめの信仰に立って生きるというとき、御霊によって歩み、御霊に導かれ、御霊に生き、そして御霊によって進もうではありませんか。

さて、あなたは今聖霊に満たされていますか? 
イエスですかノーですか。真剣にその問いに対峙してください。

 蔦田先生の聖潔についての集会があったときのことです。ある方が、「わたしはまだきよめの恵みはよくわかりません」と率直にいいましたところ、蔦田先生は「それは非常に恥ずかしいことだ。私はまだ心の中に神に逆らう蝮の毒を持っていると言ってるのと同じことだ」とおっしゃいました。

 ほんとうの謙遜とは何か。キリストの十字架の恵みは私に十分です、ありがとうございますといって聖潔の信仰に立つことこそ、ほんとうの謙遜なクリスチャンの証しなのです。そして私たちはこのキリストを心の中に迎えたとき、信仰の成長とともにこのお方がしだいに大きくなってくる。はじめから大きくなくていい。問題は心の中心にイエス様を置いて、この御霊様とともに歩み光の中を歩みそしていつでも失敗したのならば砕かれやすい心をもって主の前にあるときに、キリストご自身が、この地上にある限り無限の成長を約束してくださいます。御霊によって歩む幸い、祝福、どうぞきょうのポイントを心の中にしっかりと捕えてきよめの恵みにともに歩ませていただきたく願うことです。

⏰これは國光勝美牧師の説教をICレコーダーから起こし筆記したものです。イラストは毎日曜数枚使われますが、ここではそのうちの一枚をお借りしています。牧師夫妻の写真はそのたびに撮ることはしておりません。これは筆者が任意で載せております。
けさの更新は6時3分。穏やかな緑のコントラスト、朝の日を浴びる樹木の輝く側と陰とのドラマ。瑞々しく美しい岩手・盛岡の朝です。

|

« 雑感 | トップページ | 2068クラシック倶楽部を聴く  ソフィー・ダルティガロンファゴット・リサイタル  »

教会」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 雑感 | トップページ | 2068クラシック倶楽部を聴く  ソフィー・ダルティガロンファゴット・リサイタル  »