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きょうのことば

インマヌエル盛岡キリスト教会2020年6月21()のメッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『聖霊の証印』(國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 エペソ人への手紙4章25~32

4:25ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。 4:26怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。 4:27悪魔に機会を与えないようにしなさい。 4:28盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。 4:29悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。 4:30神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。 4:31無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。 4:32互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。

<説教>

 (前置き、前回の復習は割愛いたします)

きょはエペソ人への手紙第4章25~32節のおことばになります。ここにどういう内容が扱われているか、きょうはこれを一つひとつ確認をするところから始めようと思います。

 

25節ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。

ここでは偽りと真実、この対比が扱われています。つい自分をまもろうとする動機が働いて嘘をついてしまう。しかし、あなた方はその偽りを捨て、自分をよく見てもらいたいという、人間としてありがちなことではあるけれども、その弱さを脱ぎ真実であるように。これはまさに具体的な問題なのだな、そう思います。

26274:26怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。 4:27悪魔に機会を与えないようにしなさい。

ここには怒りと和解、この問題があります。色々な注解書には、怒りというものは必要なものであって、あの柔和なイエス様も神殿で商売をし金儲けする人々に怒り、ムチを振るって商売の台を引っくり返している。不正に対する怒りは人として当然あっていい。ここで肝心なのは怒っても罪を犯してはならない。聖なるものが邪悪なものによってこぼたれるときに、怒るのは当然です。でも怒っても罪を犯してはならない。私たちは怒りというものをそのまま持ち続けると、弱いものですから、その対象に対して憎しみを抱いてしまう。そういう弱さを私たちは持っています。これは極めて現実的な問題です。そして、憤ったままで日が暮れるようであってはいけない。怒りの中に、或いは赦せないという思いの中に、自分自身と神様との関係、自分は赦された罪びとであることを確認できたとき、聖書のいうところにアーメンと肯ける。私はこんなに多くのことを神様から赦されているのに、どうして他人を赦すことができないのかと自分自身を深くさぐり、そのゆえに一層イエス様の十字架の贖いの血潮を仰ぐ。このように神様が私たちを扱ってくださる。怒っても罪をおかしてはならない、憤ったままで日が暮れるようであってはいけない。これをしっかりと受けとめる、これは神様と自分との関係です。

27節「悪魔に機会を与えてはいけない」

人を赦せない。怒ったままの憎しみを抱え続けているとそれはしこりになり、悪魔に機会を与えることになる。パウロは実に現実的な諭しを記しています。

28節盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。

クリスチャンの心得から話しは逸れますが、つい先ごろ、山形で、農家の方たちが手塩にかけたさくらんぼが盗まれるという事件がありました。朝行ってみたらなくなっていた。毎年、さくらんぼが、りんごがという残念なニュースがあります。何ということでしょう。

「盗んではいけません」、このエペソ人への手紙は、クリスチャンに向かって書かれている手紙なのです。思わず読み返します。これは人として、クリスチャンだからもうこういう誘惑がないということではない。ほんとうに世の中の人と同じように、そういう誘惑、危険はあります。「もう盗んではいけません」。「むしろ困っている人に分け与えなさい」。

この盗むという感覚についてですが。私、ひろ子先生と家庭を築かせていただいて今日があるのですが、ひろ子先生はクリスチャンホームに育っています。私は一般の家庭でした。このひろ子先生に教えられることがあります。ひろ子先生は子どもの時から、お小遣いの十分の一は献金、そうするのがあたり前という中で育っています。ちょうど国から10万円おりてきました。ひろ子先生はすぐに「この十分の一をどういう献金にしようかしら」、即座に十分の一は神様のためにという意識が自ずと働いている。

収入の十分の一のことばかりでなく、いまクリスチャンのミュージシャンたちは大変なところを通っているかもしれない。そういう関係に寄付する方法もある。百万人の福音を見ると、さまざまな義援の口座が開かれております。

有り余っている人たちがそれをするということではなく、そうでなくとも自分の生活の中で与えられた一部でそれをする。十分の一は神様のもの。それを私的に使うのは盗みに通じる。私はひろ子先生からそれで教えられることがあるわけなんです。28節「盗みをしているものはもう盗まないようにしなさい」。自分は盗みをしているという意識はなくとも、しかし、聖書に光を与えられたときにそうなのです。これは世の中の人にたいしてではなく、クリスチャンで盗みをしている者はもう盗んではいけない、その都度に光を与えられてやっていかなければと教えられます。そして、勤労しなさい。この25節からの事はほんとうに一つ一つ、今日の私たちが生きるうえでの事柄の中でとても意味のあるお勧めだと思います。

29節悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。

私たちが言葉を発するときに、徳を建てる、他人の成長に役立つことばを語りなさいとある。しかし、気をつけませんと、私たちは、必ずしもそうではない。ヤコブの書でしたか、舌はほんとうに小さな肉体の器官だけれども火と毒があり大きな影響を与える。舌を制御できる人はいないともあります。「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません」。傷つける言葉、悲しませる言葉、そうではなく、むしろ人の成長に役立つ徳を建てるような、そういったことばを語るように。私自身、神様、私はこの講壇に立って、このことをお伝えする器でしょうかとほんとうにさぐられます。もしこれが連続講開でなければ、ちょっとここはスキップして別のところを扱わせていただきたいと思うほどですが。しかし、こうして扱わせていただけるのは、連続講開のいいところです。ほんとうにぜんぶ、ここはどうか、ここは、と神様のおことばを語る。

言葉は難しい。つい、言葉が感情的になり、つい言葉が或いは鋭利なナイフよりも、となる場合も無きにしも非ず。SNSに書き込みに死んでしまった方も。あれも言葉の害です。人を傷つける。匿名で書いたりする。どうかほんとうに人を生かす言葉、人の徳を建てる言葉を語る者であらせてくださいと切に祈り願うものです。

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30神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

聖霊の悲しみ、聖霊の喜び。こうしてみると、何々をしていいとか何々をしちゃいけないとか、一方的な事で私たちの日常の生活が窮屈だとかクリスチャンだからというような、そういうことで、制約されるというのではなく、心の中にお住まい下さるご聖霊を悲しませることはしたくない。ご聖霊の喜ばれるような選択をしたいし、言葉を発したい。神の聖霊を悲しませてはいけないのです。そしてあなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押される、あなたはキリストのものだという証印、これは焼き印ですよね。世の中で言えばタトゥーというのでしょうか、「汝は我がものなり」という証印を与えられている、そのあなたじゃないですか。救われているあなたじゃないですか。だからどうか聖霊が悲しまれることはやめましょう。聖霊がお喜びになることをしよう、これがすべてじゃないのでしょうか。聖霊によって証印を押されている私たちです。

31節無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。32節互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。

ここに悪意、そして親切、このような対比を見ることができます。
この贖いの恵み、自分がどういうところから救われた者であるか、それがわかったときに、改めて見るとこのようにまとめることができます。

きよめの信仰に立つ。前回もお話ししました。また話します。私たちは、先ほど話しましたことのぜんぶができたからきよめられているというのではないのです。このよきこと、それを自分の新しい人として歩んでいきたい、是非そうありたい、聖霊を喜ばせたい、聖霊と共に歩みたいというその信仰に立つ、ここがポイントです。これがきよめです。

もしきよめの信仰に立っていないクリスチャンがいたとすれば、ああ俺はもうこんなもんいやだ、そんなことこの世にあってできるはずないじゃないかといってこの世と歩調を合わせて、そして滅びの道、広い道を行くなら、堕落した道を歩んでいくことになってしまう。心の内にキリストの十字架の贖いを知って、これらのことがぜんぶできているわけではないけれども、そうありたい、新しい人を着たい、私はそのスタンスに立っているなら主は扱ってくださる。段々成長しながら円満な人格にしてくださる。怒りというものが突出していたけれども、しかし成長する中にそれがだんだんと抑えられていくなど、きよめの信仰に立っているなら、さまざまな事を主が扱ってくださる。世の中的な価値観で経済を行っていたのも、神様の喜ばれる財の使い方、用い方に。そうしたいんだというきよめの信仰に立っているなら、一つひとつ成長していくということではないでしょうか。

 

私はきょうこの25節から一連の歩みに真剣に自らをあてはめようとするときに、ああ、これがきよめの信仰なんだと思います。きよめの信仰に立っている人が一つひとつ自分に当てはめてアーメン、主よこのところは私はまだ欠けています。この点にきょう光があたえられましたといって砕かれて進むこと。ところがきよめの信仰に立っていないと、自分が砕かれませんと、そこで怒ったりしてしまう。とてもそんなことできない。しかし、きよめの信仰に立っていればできる。だからこそそこにイエス様どうか私を変えてください。すえつくりなる主よお願いしますと、できない崩れた器を一層主の御手の中に、委ねることはできる。主のろくろの台の上に乗せることができる。もう乗るのはいやだというなら、それはもうきよめの信仰に立っていない、やがて堕落してしまう生き方です。できている、できていないのではない、そのろくろの上に主よおうぞお願いしますといって進み出る。もし失敗したのならば、主よ私はそんなものです、どうか主の御手の憐れみの内に宜しくお願いしますと、ろくろの上にもういちど乗るのです。そうすればもういちど主は扱ってくださる。そして扱われることが嬉しくなってくる。そして主よ有り難うございます。きよめの信仰にたっていなかったならば25節からは絶対に受け入れることできない、そう思いました。

お話を締めくくらせていただきます。

これと同じような内容が

テサロニケの第一の手紙第5章15だれも、悪に対して悪を返さないように気を付け、互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うように努めなさい。

パウロのお手紙の中でいちばんはやく書かれたのがテサロニケ第一の手紙です。たまたま私たちはコリントとかガラテヤとか、あとにテサロニケが入っていますけれども、書かれた年代から見ますと、パウロが書いたお手紙でいちばんはやいのが、第一テサロニケなのです。

たとえば14兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠惰な者を諭し、小心な者を励まし、弱い者の世話をし、すべての人に対して寛容でありなさい。

そしてその次に15だれも、悪に対して悪を返さないように気を付け、互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うように努めなさい。

そうそう、新しい人を着る、そういうことだなのだと思いますけれども。

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そしてその後に、私たちの大好きなことば、みんなこのように歩みたいと思うのです。

16節いつも喜んでいなさい。

17絶えず祈りなさい。

18すべてのことについて感謝しなさい。

これさきほどのエペソ4章のところと同じ内容です。

18すべてのことについて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなた方に望んでおられることです。

そう、こういう生き方を神様は望んでおられる。そして、

19節御霊を消してはいけません。

さっきは何とあったでしょう。

悲しませてはいけない。

こちらは「御霊を消してはいけない。」、心の中に宿っておられる神様の光。神様、聖霊の語りかけを私たちが消してはいけない。そして、

23節、これをご一緒に

テサロニケ第一523平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、、からだのすべてが、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。

平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。私たちが完全であるからそうなのではないと言いました。ただ、エペソの4章から見ますと、神様のすえ造りのろくろの上に信仰を持って乗ること。失敗しても神様ごめんなさいと何度でも乗り続ける。乗ることができる信仰がきよめの信仰です。何かが完全にできているからきよめられているのではなく、主よお願いしますとそうしていくのならば、平和の神ご自身が、あなた方を完全に聖なる者としてくださる。

エペソの4章の具体的な一つひとつを当てはめながら、主よどうぞきよめ惠み、信仰に私を立たせてください。形造ってください、成長させてくださいと祈りましょう。

ローマ人への手紙122この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。

 

※画像は教会からお借りしています。牧師夫妻の写真はこのブログ管理者が任意で載せております。説教はICレコーダーから起こし若干編集させていただきました。
5時54分更新

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