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2020年6月

去り行く6月

6月が去ろうとしている。眼下に鮮やかだった躑躅の花はこの梅雨空に霧散したかに失せ、雨を仰ぎ受けとめる緑はそれでも内に生気を養い、やがて来る猛暑に備えでもしているらしい。

マルタ・アルゲリッチのベートーベン、ピアノ協奏曲第一番、慈雨のように存分に総身に取り込み、ため込んで、この6月を見送る。

コロナウィルス、世界のいたるところに潜み、息を殺しているのか。人の仕業に乗じて、あらゆる機会をとらえ、住処を見つけては居座ろうと機を狙っている。感染者数1000万人、死者50万人、この事実と隣り合わせに、7月は淡々と。長期的な戦いに倦まず対峙できるよう、事態の好転を切に祈りつつ1頁を加える。

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20630 クラシック倶楽部を聴く ぺトラ・ラングの歌曲リサイタル

バイロイトやルツェルンなどの音楽祭の常連で特にワーグナーのオペラで存在感を放つぺトラ・ラングの歌曲リサイタル。「声楽の勉強を始めた頃からずっと歌曲を歌い続けてきました。オペラでは特定の人物を演じなくてはなりませんが、歌曲では自分の個性をより多く表現に盛り込むことができるのです」と語るラングのドイツ・リートをお送りする。共演はラングが全幅の信頼を寄せるピアニスト、アドリアン・バイアヌ。―番組紹介よりー

 

2018323日東京文化会館での収録分。ペトラ・ラング、もともとはメゾソプラノでのデビュー、それが2012年からソプラノで活躍。バイアヌとの共演は2007年からとか。リートはオペラより自分の個性をより表現できると。自分はオルトルートでもなければタンドリも自分ではないと語る。ブラームスは「セレナード」、「ふたりはさまよい歩き」、「愛のまこと」、「傷ついた心」「永遠の愛」。マーラーから「リュッケルトの詩による五つの歌」、この中で「菩提樹」に興味が。リヒャルト・シュトラウスからは「悲しみの賛歌」、「心安らかに」、「なつかしいおもかげ」、「ふたりの恋をなぜかくすのか」。

 

名曲アルバムはショパンの「前奏曲 雨だれ」ピアノはイリーナ・メジューエワ

 

⛳とりあえず6時54分更新

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20629クラシック倶楽部を聴く  ヴァンサン・ル・テクシエ、野島今日子によるデュオ・リサイタル

ヴァンサン・ル・テクシエ、野島今日子によるデュオ・リサイタル。メシアンゆかりの曲目を集めた公演で、バリトンの歌唱、そしてピアノ・ソロによるプログラムから。-番組紹介からー

🎵番組紹介を昨日のうちに見てしまい、夕食以降は専らネットでメシアンの追っかけになってしまった。この放送分については2019111日の筆者のブログに簡単にメモってある。 

☆バッハのマタイ受難曲から「清めよわが心」
☆メシアンの鳥のカタログから「キガシラコウライウグイス」、これは音楽と言葉を巧みに掛け合わせて見事に融合させているという。
☆ドビュッシー作曲、ヴェルレーヌ作詞「はなやかな宴 第2集」
☆ラヴェル作曲、ルナール作詞「博物誌」
☆三木露風作詞、山田耕筰作曲「あかとんぼ」

 

ヴァンサン・ル・テクシエを野島が公正で偏見のなく、隔てなく接してくれるそんな彼そのままの音楽をやってくれると紹介しているが、その通りの印象。こんなふたりの人柄にも惹かれての視聴。「清めよわが心 私はこの手でイエスを埋葬したい」と歌うに相応しい方かと。野島の「キガシラコウライウグイス」も面白く聴いた。それにしてもメシアン、77種類もの鳥の鳴き声を音に変換するとは!鳥のカタログは全7巻13曲にわたる。ラヴェルの「博物誌」、ルナールの詞も驚くべきもの。たとえば「クジャク」はというと、番組の訳とは違うかもしれないが次のよう。

今日こそ間違いなく婚礼の式のはずだ
それは昨日のはずだった。着飾って、彼は準備していたのだ
彼は花嫁だけを待っていた。彼女は来なかった。遅れるはずがないのに。
意気揚々と、彼はインドの王子のような足取りで歩き回り 
豪華な贈り物を身に着けて持ち運ぶ。
愛する心がその色彩のまばゆさを高め 頭の毛は竪琴のように震えている。
花嫁はやってこない。
彼は屋根のてっぺんに登り 太陽の方を見つめる。
彼は悪魔の叫びを投げつける。
レオン! レオン!
こんな風に彼は花嫁を呼ぶのだ。だが誰もやってこないし誰も返事をしない。
家禽たちも慣れっこになって頭を上げようとすらしない。
彼らも感嘆するのに飽き飽きしているのだ。
彼は庭へと降りてくる、自分が美しいと確信しているので腹を立てることすらしないのだ。
彼の婚礼は明日に延びるだろう。
そこで今日の残りをどのように過ごすか分からずに、彼は玄関の方へと歩いてゆく。
そして階段を上ってゆくのだ、まるで神殿の階段のように、正式なステップで。
彼は婚礼衣装を持ち上げる その裾はもはや取れなくなった目玉でとても重くなっている
彼はそのセレモニーをもう一回繰り返す。

この番組とは関係ないけれども、というより関係ないわけではない、メシアンのはなし、
メシアンの「トゥーランガリラ交響曲」の第5楽章[星たちの喜び]、これを聴いているうちに大曲の花火を思い出した。あの花火が、この曲の中に大輪、中輪、小輪とバチバチと爆ぜている感じさえするのだ。誰か花火師の方がこの曲のイメージで花火をこしらえてはくれないものか。

 

🎧🎵名曲アルバム。ムソルグスキー「展覧会の絵」
【指揮】渡邊一正,【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団
貧困の果てに急逝したロシアの画家、ガルトマン。彼の友人だったムソルグスキーは、遺作展を訪れ、魂を揺さぶられる。二人の魂が共鳴し、傑作「展覧会の絵」は誕生した。ー番組紹介からー

はじめて「展覧会の絵」を聴いたとき、筆者はルーブルに、エルミタージュに展示されてあるような錚々たる巨匠の絵画を想像して聴いていたのだ。それがムソルグスキーにインスピレーションを与えたのは無名の画家ガルトマンの魂だった。ガルトマンの無念、そしてムソルグスキーの無償の行為に感銘したガルトマンの魂の喜びからのインスピレーション!

⛳10時53分 更新

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きょうのことば

インマヌエル盛岡キリスト教会2020年6月21()のメッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『聖霊の証印』(國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 エペソ人への手紙4章25~32

4:25ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。 4:26怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。 4:27悪魔に機会を与えないようにしなさい。 4:28盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。 4:29悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。 4:30神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。 4:31無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。 4:32互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。

<説教>

 (前置き、前回の復習は割愛いたします)

きょはエペソ人への手紙第4章25~32節のおことばになります。ここにどういう内容が扱われているか、きょうはこれを一つひとつ確認をするところから始めようと思います。

 

25節ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。

ここでは偽りと真実、この対比が扱われています。つい自分をまもろうとする動機が働いて嘘をついてしまう。しかし、あなた方はその偽りを捨て、自分をよく見てもらいたいという、人間としてありがちなことではあるけれども、その弱さを脱ぎ真実であるように。これはまさに具体的な問題なのだな、そう思います。

26274:26怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。 4:27悪魔に機会を与えないようにしなさい。

ここには怒りと和解、この問題があります。色々な注解書には、怒りというものは必要なものであって、あの柔和なイエス様も神殿で商売をし金儲けする人々に怒り、ムチを振るって商売の台を引っくり返している。不正に対する怒りは人として当然あっていい。ここで肝心なのは怒っても罪を犯してはならない。聖なるものが邪悪なものによってこぼたれるときに、怒るのは当然です。でも怒っても罪を犯してはならない。私たちは怒りというものをそのまま持ち続けると、弱いものですから、その対象に対して憎しみを抱いてしまう。そういう弱さを私たちは持っています。これは極めて現実的な問題です。そして、憤ったままで日が暮れるようであってはいけない。怒りの中に、或いは赦せないという思いの中に、自分自身と神様との関係、自分は赦された罪びとであることを確認できたとき、聖書のいうところにアーメンと肯ける。私はこんなに多くのことを神様から赦されているのに、どうして他人を赦すことができないのかと自分自身を深くさぐり、そのゆえに一層イエス様の十字架の贖いの血潮を仰ぐ。このように神様が私たちを扱ってくださる。怒っても罪をおかしてはならない、憤ったままで日が暮れるようであってはいけない。これをしっかりと受けとめる、これは神様と自分との関係です。

27節「悪魔に機会を与えてはいけない」

人を赦せない。怒ったままの憎しみを抱え続けているとそれはしこりになり、悪魔に機会を与えることになる。パウロは実に現実的な諭しを記しています。

28節盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。

クリスチャンの心得から話しは逸れますが、つい先ごろ、山形で、農家の方たちが手塩にかけたさくらんぼが盗まれるという事件がありました。朝行ってみたらなくなっていた。毎年、さくらんぼが、りんごがという残念なニュースがあります。何ということでしょう。

「盗んではいけません」、このエペソ人への手紙は、クリスチャンに向かって書かれている手紙なのです。思わず読み返します。これは人として、クリスチャンだからもうこういう誘惑がないということではない。ほんとうに世の中の人と同じように、そういう誘惑、危険はあります。「もう盗んではいけません」。「むしろ困っている人に分け与えなさい」。

この盗むという感覚についてですが。私、ひろ子先生と家庭を築かせていただいて今日があるのですが、ひろ子先生はクリスチャンホームに育っています。私は一般の家庭でした。このひろ子先生に教えられることがあります。ひろ子先生は子どもの時から、お小遣いの十分の一は献金、そうするのがあたり前という中で育っています。ちょうど国から10万円おりてきました。ひろ子先生はすぐに「この十分の一をどういう献金にしようかしら」、即座に十分の一は神様のためにという意識が自ずと働いている。

収入の十分の一のことばかりでなく、いまクリスチャンのミュージシャンたちは大変なところを通っているかもしれない。そういう関係に寄付する方法もある。百万人の福音を見ると、さまざまな義援の口座が開かれております。

有り余っている人たちがそれをするということではなく、そうでなくとも自分の生活の中で与えられた一部でそれをする。十分の一は神様のもの。それを私的に使うのは盗みに通じる。私はひろ子先生からそれで教えられることがあるわけなんです。28節「盗みをしているものはもう盗まないようにしなさい」。自分は盗みをしているという意識はなくとも、しかし、聖書に光を与えられたときにそうなのです。これは世の中の人にたいしてではなく、クリスチャンで盗みをしている者はもう盗んではいけない、その都度に光を与えられてやっていかなければと教えられます。そして、勤労しなさい。この25節からの事はほんとうに一つ一つ、今日の私たちが生きるうえでの事柄の中でとても意味のあるお勧めだと思います。

29節悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。

私たちが言葉を発するときに、徳を建てる、他人の成長に役立つことばを語りなさいとある。しかし、気をつけませんと、私たちは、必ずしもそうではない。ヤコブの書でしたか、舌はほんとうに小さな肉体の器官だけれども火と毒があり大きな影響を与える。舌を制御できる人はいないともあります。「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません」。傷つける言葉、悲しませる言葉、そうではなく、むしろ人の成長に役立つ徳を建てるような、そういったことばを語るように。私自身、神様、私はこの講壇に立って、このことをお伝えする器でしょうかとほんとうにさぐられます。もしこれが連続講開でなければ、ちょっとここはスキップして別のところを扱わせていただきたいと思うほどですが。しかし、こうして扱わせていただけるのは、連続講開のいいところです。ほんとうにぜんぶ、ここはどうか、ここは、と神様のおことばを語る。

言葉は難しい。つい、言葉が感情的になり、つい言葉が或いは鋭利なナイフよりも、となる場合も無きにしも非ず。SNSに書き込みに死んでしまった方も。あれも言葉の害です。人を傷つける。匿名で書いたりする。どうかほんとうに人を生かす言葉、人の徳を建てる言葉を語る者であらせてくださいと切に祈り願うものです。

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30神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

聖霊の悲しみ、聖霊の喜び。こうしてみると、何々をしていいとか何々をしちゃいけないとか、一方的な事で私たちの日常の生活が窮屈だとかクリスチャンだからというような、そういうことで、制約されるというのではなく、心の中にお住まい下さるご聖霊を悲しませることはしたくない。ご聖霊の喜ばれるような選択をしたいし、言葉を発したい。神の聖霊を悲しませてはいけないのです。そしてあなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押される、あなたはキリストのものだという証印、これは焼き印ですよね。世の中で言えばタトゥーというのでしょうか、「汝は我がものなり」という証印を与えられている、そのあなたじゃないですか。救われているあなたじゃないですか。だからどうか聖霊が悲しまれることはやめましょう。聖霊がお喜びになることをしよう、これがすべてじゃないのでしょうか。聖霊によって証印を押されている私たちです。

31節無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。32節互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。

ここに悪意、そして親切、このような対比を見ることができます。
この贖いの恵み、自分がどういうところから救われた者であるか、それがわかったときに、改めて見るとこのようにまとめることができます。

きよめの信仰に立つ。前回もお話ししました。また話します。私たちは、先ほど話しましたことのぜんぶができたからきよめられているというのではないのです。このよきこと、それを自分の新しい人として歩んでいきたい、是非そうありたい、聖霊を喜ばせたい、聖霊と共に歩みたいというその信仰に立つ、ここがポイントです。これがきよめです。

もしきよめの信仰に立っていないクリスチャンがいたとすれば、ああ俺はもうこんなもんいやだ、そんなことこの世にあってできるはずないじゃないかといってこの世と歩調を合わせて、そして滅びの道、広い道を行くなら、堕落した道を歩んでいくことになってしまう。心の内にキリストの十字架の贖いを知って、これらのことがぜんぶできているわけではないけれども、そうありたい、新しい人を着たい、私はそのスタンスに立っているなら主は扱ってくださる。段々成長しながら円満な人格にしてくださる。怒りというものが突出していたけれども、しかし成長する中にそれがだんだんと抑えられていくなど、きよめの信仰に立っているなら、さまざまな事を主が扱ってくださる。世の中的な価値観で経済を行っていたのも、神様の喜ばれる財の使い方、用い方に。そうしたいんだというきよめの信仰に立っているなら、一つひとつ成長していくということではないでしょうか。

 

私はきょうこの25節から一連の歩みに真剣に自らをあてはめようとするときに、ああ、これがきよめの信仰なんだと思います。きよめの信仰に立っている人が一つひとつ自分に当てはめてアーメン、主よこのところは私はまだ欠けています。この点にきょう光があたえられましたといって砕かれて進むこと。ところがきよめの信仰に立っていないと、自分が砕かれませんと、そこで怒ったりしてしまう。とてもそんなことできない。しかし、きよめの信仰に立っていればできる。だからこそそこにイエス様どうか私を変えてください。すえつくりなる主よお願いしますと、できない崩れた器を一層主の御手の中に、委ねることはできる。主のろくろの台の上に乗せることができる。もう乗るのはいやだというなら、それはもうきよめの信仰に立っていない、やがて堕落してしまう生き方です。できている、できていないのではない、そのろくろの上に主よおうぞお願いしますといって進み出る。もし失敗したのならば、主よ私はそんなものです、どうか主の御手の憐れみの内に宜しくお願いしますと、ろくろの上にもういちど乗るのです。そうすればもういちど主は扱ってくださる。そして扱われることが嬉しくなってくる。そして主よ有り難うございます。きよめの信仰にたっていなかったならば25節からは絶対に受け入れることできない、そう思いました。

お話を締めくくらせていただきます。

これと同じような内容が

テサロニケの第一の手紙第5章15だれも、悪に対して悪を返さないように気を付け、互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うように努めなさい。

パウロのお手紙の中でいちばんはやく書かれたのがテサロニケ第一の手紙です。たまたま私たちはコリントとかガラテヤとか、あとにテサロニケが入っていますけれども、書かれた年代から見ますと、パウロが書いたお手紙でいちばんはやいのが、第一テサロニケなのです。

たとえば14兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠惰な者を諭し、小心な者を励まし、弱い者の世話をし、すべての人に対して寛容でありなさい。

そしてその次に15だれも、悪に対して悪を返さないように気を付け、互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うように努めなさい。

そうそう、新しい人を着る、そういうことだなのだと思いますけれども。

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そしてその後に、私たちの大好きなことば、みんなこのように歩みたいと思うのです。

16節いつも喜んでいなさい。

17絶えず祈りなさい。

18すべてのことについて感謝しなさい。

これさきほどのエペソ4章のところと同じ内容です。

18すべてのことについて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなた方に望んでおられることです。

そう、こういう生き方を神様は望んでおられる。そして、

19節御霊を消してはいけません。

さっきは何とあったでしょう。

悲しませてはいけない。

こちらは「御霊を消してはいけない。」、心の中に宿っておられる神様の光。神様、聖霊の語りかけを私たちが消してはいけない。そして、

23節、これをご一緒に

テサロニケ第一523平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、、からだのすべてが、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。

平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。私たちが完全であるからそうなのではないと言いました。ただ、エペソの4章から見ますと、神様のすえ造りのろくろの上に信仰を持って乗ること。失敗しても神様ごめんなさいと何度でも乗り続ける。乗ることができる信仰がきよめの信仰です。何かが完全にできているからきよめられているのではなく、主よお願いしますとそうしていくのならば、平和の神ご自身が、あなた方を完全に聖なる者としてくださる。

エペソの4章の具体的な一つひとつを当てはめながら、主よどうぞきよめ惠み、信仰に私を立たせてください。形造ってください、成長させてくださいと祈りましょう。

ローマ人への手紙122この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。

 

※画像は教会からお借りしています。牧師夫妻の写真はこのブログ管理者が任意で載せております。説教はICレコーダーから起こし若干編集させていただきました。
5時54分更新

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雑感

日々の読み物、サラ・ヤングの6月27日きょうのことばからの抜粋

わたし(神さま)と一緒にしばらく休みなさい。
あなたはここ何日か、険しい悪路を旅してきた。
前方の道は、不確かさに覆い隠されている。
あなたの背後にも、前方にも目をこらさないようにしなさい。
それよりも、あなたのずっと変わらぬ道連れであるわたしに注意を集中しなさい。
わたしが、あなたの旅に何が待ち受けていても十分な備えをすることを信じて……。

⛳5時12分更新

 

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20626クラシック倶楽部を聴く  河村尚子ピアノ・リサイタル

川村尚子は1986年に渡独。欧州の数々のコンクールで優勝・入賞を重ね2006年にはクララ・ハスキル・コンで優勝。2年に渡ったべ-トーベンプロジェクトの最終回を放送するー番組紹介よりー

 

🎵川村尚子が「とにかく熱い作曲家」「躍動感に満たされ、情熱的、リズミカル、愛情に満たされたり」「とびぬけた時代を超えたアイデア」「形式に縛られず新しい世界へ」「止まらない探求心」「形式ををまもる部分と弾ける部分、そのギャップが、ギャップがあっていい」「人生そのものを音楽にした」と熱く語るベートーベン。このベートーベンプロジェクトでいよいよベートーベンとの親密さを得た川村が、ベートーベンの後期ピアノ・ソナタをベーゼンドルファーで親密に聴かせてくれた。31番、32番ともにベートーベン51歳の完成。1822年だ。2年間にわたるプロジェクトの最後がこの3132のプログラム。これにアンコールの30番をプラス。それにしても異次元から湧いてくるかのあの細やかなピュアな響き! 32番最後の音をどう弾くかが極めて難しい表現を求められるところかとも思った。32番の不思議さ。いよいよ興味が尽きない。この番組収録は2018年。

 

🎧名曲アルバム。ウェルナーの「野ばら」。【編曲・ピアノ】上柴はじめ 【合唱】栗友会、東京少年少女合唱隊【指揮】大井剛史【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団 【ロケ地】ドイツ・キルヒオームフェルトほかー番組紹介からー

 🎵キルヒウォームの村、この村の名をググったがすぐには出てこない。で、ウェルナーはドイツの小さな村の音楽教師の息子と。彼自身も音楽教師に。やさしい野ばら。聖トーマス教会の威厳もいいけれど、このような村に生まれた野ばら。村の風景も、野ばらを愛し歌い継ぐ村の人々もあたたかい。

⛳山々の稜線を穿ちベートーベンの32番は響きとおり。7時ジャスト更新

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20/6/25クラシック倶楽部を聴く  スティーヴン・オズボーン 20625クラシック倶楽部を聴く 20625クラシック倶楽部を聴く スティーヴン・オズボーン

スティーヴン・オズボーン。スコットランド生まれ。ナウムブルク国際コン、クララ・ハスキル国際コンで優勝。緻密・精緻な分析に裏付けられた音楽性と確かな技術でベートーベン最晩年のソナタを描くー番組紹介よりー

 

🎵けさはベートーヴェンのピアノ・ソナタ2曲。30番と32番だが、聴きどころは何といっても32番の第2楽章。静謐なな中にまるで色彩の光が白光に溶け込んでその彩を失くするように消えゆく最後の音がまだのこっている。この32番をベートーヴェンが作曲したことがいまだ信じられない、というよりも、こういう境地に達した心境とはどんなものだったのか。宇宙にするりと抜けて浮遊するかのようなゆったりとした空間と時間。懊悩、葛藤、攻撃から解き放たれたかのような緻密な穏やかさから、一転まさしくジャズ、何もアメリカのジャズの発祥を待たずとも、明らかにジャズのリズムが現われる。鼻歌で刻むような軽さはない。その後の洞窟の奥深く、もれくる光に鍾乳石のライトアップで繊細でピュアな透過された光の移ろい。ほんとうに不思議な世界をスティーヴン・オズボーンが奏でてくれた。

オズボーンの左手中指のテーピング、終生指に故障を来さなかったピアニストは果たしてどれぐらいいるのだろう。

 

🎧🎵名曲アルバム。エルガー「変奏曲なぞ
(管弦楽)東京フィルハーモニー交響楽団,(指揮)大友直人 ~イギリス・ウースター

エルガーは科学にも興味を持っていたようだが、何の科学実験をやっていたものか。暗号に凝るなど、エルガーのおもしろい人物像が。

⛳新聞を取りに行き、資源ごみを出し、みそ汁となす焼きを作りながらのクラシック倶楽部の更新は7時ジャスト。そういえば5時50分ごろに千葉の旭市に震度5弱の地震。一瞬ヒヤリ。

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20624クラシック倶楽部を聴く  イーヴォ・ポゴレリチ ピアノ・リサイタル

ピアノ界の鬼才イーヴォ・ポゴレリチ、約30年ぶりとなる映像作品。奈良の古刹、正暦寺福寿院客殿で収録した貴重な記録である。苦難を乗り越えてきた音楽人生を語る。―番組紹介よりー

 

🎵第10回ショパン国際コンクールで、イーヴォ・ポゴレリチを本選に進出させなかった審査にアルゲリッチが抗議、「彼は天才なのだ」と審査員を辞退したというこの話題性に惹き付けられる。これがポゴレリチ21歳、1980年のことだった。ただし彼はその後グラモフォンと契約している。あれから40年。どこかで聞いたような、あれから40年。ただこの番組収録は23年前。番組を見終えて、ショパンコンクール以降の彼の20歳代の鮮烈であるという演奏を聴いてみたくなった。その面白みがより一層分かるだろうか。

この番組でのホスト役は台湾出身の元溥(チャオ・ユアンプー) 1978年、台北生まれ。国立台湾大学卒。 大英図書館特別研究員としてキングス・カレッジで音楽を専攻した方。音楽研究家、音楽ジャーナリスト。14人の世界的なピアニストにインタビューし「ピアニストが語る」に著わしている。

焦が引き出してくれたポゴレリチのコメントの中でも、「同じ作曲者の曲でも初めて弾いてみると語法が違う場合がある」には戸惑ってしまった。音楽世界に語法とは。「聴き手が理解できるように作曲家のことばを学ぶ必要がある」というのだった。またショパンを「自分に厳しく誇張した表現をしない」「簡潔に表現する方法を常に探求」した作曲家であると。筆者がこの番組以外では聴いたことのないショパン「ポロネーズ第4番ハ短調作品402」、「どこまでが踊りでどこまでが回想なのか、それともポロネーズから切り離されたものか、謎めいた作品」であると。今回は寺の雰囲気や静けさに合ったものを選曲したという。ラフマニノフの「楽興の時 第5番変ニ長調」、焦が「聴いた途端に優しい世界に胸をうたれるがなぜそのような演奏ができるのか」と。ポゴレリチはこの曲について「親密であたたかく迎えてくれる」「東洋的な優雅さ」「蜃気楼のような実体のないもの」「初期の作品ながらラフマニノフらしい魔法のような響き」と語る。シベリウスの「悲しいワルツ」。シベリウスに関しては「色彩がありながら音色が濁らない」とかなり簡略だがこのように。自らの演奏をさまざまな角度から聴き返しているようだ。これはすべての演奏家がそうだろうけれども次のことがら「縦や横の響き」そして「3次元」とのことばにはびっくり。響きの構造に耳を傾けること。それでも独特の和声は完璧にはできないのだと。緻密で洗練された聴き方が求められるという。聴き分けられる耳を持っていることが肝要なようだ。ショパン、ラフマニノフ、シベリウスを先に言ってしまったけれども、第一曲目はハイドンの「ピアノ・ソナタHob.XVI-37」、第2曲目はショパンの「ソナチネ」。

 正暦寺福寿院客殿に流れる穏やかな美しさ、これはそのときのポゴレリチの心境でもあるかと聴き分けるに危ういこの耳を傾けた。

 

🎧🎵名曲アルバムはグリーグの「ソルヴェイグの歌」。天羽さんの声の美しさは!

 

⛳メモルだけはメモって、あれこれ一段落した11時9分更新。

 

 

 

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20623クラシック倶楽部を聴く   オリ・ムストネンのピアノリサイタル

作曲家、ピアニスト、指揮者として多角的に活躍する音楽家、オリ・ムストネンのピアノ・リサイタルから。マルチな才能を発揮した独特の語り口による演奏をお送りする。ー番組紹介からー

 

🎵プロといえども興がのりにくい、或いは、普段通りの感覚になかなかなりにくいことがあるかもしれない。最初の曲で心を掴むことはやはり、原稿の出だしの数行でその本を読む気にさせるかどうかほどに重要なことであると思われた。シューマンの「こどもの情景」の出だしで、幾分気持ちが離れてしまったために、清涼な風を感じる美しいフレーズに出あうまで、聴くためのノリが今一となった。ただこれはある方がいう彼独特の「即興性と刺激」の理解に欠けているからであるかもしれない。よく知られたメロディーを楽しく懐かしく聴いた。プロコフィエフの「ピアノ・ソナタ第8番変ロ長調」、戦争ソナタ、やはりムストネンの本領はこちらにあると思われた。まんじりともしない焦燥に抱き合わせたような抒情の第3楽章を興味深く。あとで数回聴きなおしてみた。

 

🎧名曲アルバム、ビゼーのカルメンから「闘牛士の歌」。

 

⛳4回目の戦争ソナタを聴きながら11時46分更新。和声の複雑さ。樹木たちが樹上を揺らし語っている。

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20622クラシック倶楽部を聴く  アンジェラ・ヒューイット ピアノ・リサイタル

アンジェラ・ヒューイット ピアノ・リサイタル 【曲目】バッハ:インヴェンションとシンフォニア(全曲)【収録】2017年5月29日 紀尾井ホールー番組紹介よりー

 

🎵アンジェラ・ヒューイット、トロント国際バッハ・ピアノ・コンクールに入賞など輝かしい受賞の数々、「当代一のバッハ弾き」と。使用のファツィオリが、紀尾井ホールにあるものかと思いそちこち見てみると、彼女のファツィオリへの思い入れは尋常ならざるレベル。活動拠点数か所でファツィオリを所有するのみならず、ツアーに運んで使用。この理由となると、ファツィオリ創設者パオロ・ファツィオリに遡る。従来のピアノには自分の求める音がないとイタリアらしい透明な音を求めて研究開発に着手。1890年、ついに「クリアで軽やかな音」を持つピアノを作り出すことに成功。
 「ファツィオリは安心して弾けますね。音色が非常に多彩なんです。他にも美しく響くピアノはあるけれど、ファツィオリのほうが音色が豊富だと思います。可能性が拡がる。パワーもあるけれど繊細さも持ち合わせているし、響きもたっぷりとして活きがいい。しっかりコントロールする術を知らなければなりませんけど、とてもクリエイティブに奏でられる楽器です」とはトッパンホールに出ていたアンジェラのことば。

 2016年からの「バッハ・オデッセイ」、4年間にわたるバッハの鍵盤音楽の全てを、ロンドン、ニューヨーク、オタワ、東京、フィレンツェの各都市で、各々12回公演で完奏する。今回の放送、2017年のことになるが、これはその初回からの抜粋。2020年半ばには「フーガの技法」で完奏するはずが、立ちはだかるこのコロナウィルス。アンジェラの「フーガの技法」完走は如何に。

バッハが息子のために作曲した「2声のインベンション」「3声のシンフォニア」。鍵盤楽器目指す学生たちが、人々がこの楽譜を用いてバッハの息子に延々と続く。この流れが何ともすばらしい。一曲、一曲が別性格仕立て。アンジェラがいう「美しさ、リズム、喜びが原点にある曲は誰でもが楽しめる」。その恩恵に浴することができる有難さ! 改めて民俗舞踊のリズム、これが始原的に人の血の中に宿っており揺るがせにできないことを知らされる。

 

🎧🎵名曲アルバムはベートーベンの「運命」、聴こうとせずともしっかりと響く。ハイリゲンシュタット記念日、106日を自らのうちに銘記しようか。

⛳梅雨特有の曇天。しかしバッハは、ベートーベンはやはり偉大。この曇天などはものともしない。6時50分更新。

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きょうのことば

インマヌエル盛岡キリスト教会2020年6月14()のメッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『霊的な衣替え』(國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 エペソ人への手紙4章17~24

4:17ですから私は言います。主にあって厳かに勧めます。あなたがたはもはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。 4:18彼らは知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、頑なな心のゆえに、神のいのちから遠く離れています。 4:19無感覚になった彼らは、好色に身を任せて、あらゆる不潔な行ないを貪るようになっています。 4:20しかしあなたがたは、キリストをそのように学んだのではありません。 4:21ただし、ほんとうにあなたがたがキリストについて聞き、キリストにあって教えられているとすれば、です。真理はイエスにあるのですから。 4:22その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、 4:23また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、 4:24真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。

<説教>

 それでは、簡単に前回の復習をしてから、きょうのところへと進みゆきたく願っております。

私たちは主イエス様を心の中にお迎えして新生経験をしクリスチャンになる、神のいのちに与るという大きな転機を持っている者たちでございます。これが第一の転機。人生にあって最も劇的で偉大なところでございます。そして、こんどは迎えた主イエス様を、私たちの心の王座にお迎えする。その信仰に立つことを第二の転機、聖霊の満たしという表現もしますが、内にお住まいくださったお方に全ての主導権をお渡しし、心の王座についていただく。これを第二の転機と申します。

 この第二の転機で、私たちがすぐに円い円熟した性格になるということではありません。私たちを形づくっているものには、生まれながらの持前、性格があります。その人がどういう家庭環境に育ってきたのかも大きな土台です。またその人が生まれ持った能力にも違いがあります。これらのものがバランスよく成熟していくことを私たちは願うわけでございます。そしてそれが私たちの家庭において社会において思わぬ試練があったときに、どういう感情を持つのか、どういう誘惑があるのか、突発的な事情にどう対応するのかなどに違いがでるでしょう。その時々で、私たちがどういう在り方をするのか。人格の円満さが大切であることを踏まえながら、自分ならどうだろうか。それぞれの人生を歩まれ、そこにどんな感情が、またそこにどんな誘惑があるのか。これらのことを自分に当てはめながら、主の御前に憐れみと導きを請い願うところです。

 私はきょう、霊的な心構えをポイントとしてお話をさせていただきたい。それは異邦人であったときの旧い衣、旧い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着ることについてです。エペソ人への手紙4章17節に目を留めてみましょう。

 パウロは言いました。

4:17ですから私は言います。主にあって厳かに勧めます。あなたがたはもはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。

 パウロが急に居住まいを正して、「主にあって厳かに勧めます」。これはよほど大切なことを言いたいのです。ちょうどイエス様が大切なことをおはなしされるときに、「まことにまことにあなたがたに告げます」という表現をなさいますが、ある意味それに匹敵するように、パウロが「主にあって厳かに勧めます」。これはよほど心して聞かねばならないことなのです。

ここで、「厳かに」がどのようなところに使われているか確認しましょう。

テサロニケ第一の手紙212
ご自身の御国と栄光にあずかるようにと召してくださる神にふさわしく歩むよう、勧め、励まし、厳かに命じました。
エペソ人への手紙4章17節
ですから私は言います。主にあって厳かに勧めます。あなたがたはもはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。
「ふさわしく歩むように」、これをパウロが実に厳かに命じているのです。
テモテへの第一の手紙521節これはパウロの実際的な勧めが書かれているところなのですが、
私は、神とキリスト・イエスと選ばれた御使いたちの前で、あなたに厳かに命じます。これらのことを先入観なしに守り、何事もえこひいきせずに行ないなさい。
若いテモテに対して大切な教えをパウロは居住まいを正して、「厳かに」と。
パウロのもう一つテモテ第二の手紙214
これらのことを人々に思い起こさせなさい。そして、何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼすことになる、ことばについての論争などをしないように、神の御前で厳かに命じなさい。
福音の真理をきちっと語って、無用な議論に巻き込まれることが無いようにと厳かに命じています。

パウロが「厳かに」といっている部分を抽出していますが、これらに書かれていることは、聞き流してしまっていいようなパウロの勧めではないということが意識的に強調されている。それどういうことかというと、エペソ418節から
彼らは知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、頑なな心のゆえに、神のいのちから遠く離れています。 4:19無感覚になった彼らは、好色に身を任せて、あらゆる不潔な行ないを貪るようになっています。

 異邦人が虚しい心で歩んでいるような歩みというのは何なのか、それは18節にあるように知性に於いて、自分が何者かであるような知性を持っている人であったとしても、ほんとうの意味の神を知る知性にまったく届いていない。「暗くなり、彼らのうちにある無知と、頑なな心」それゆえに「神のいのちから遠く離れている」。そしてその人たち「無感覚になった彼らは、好色に身を任せて、あらゆる不潔な行ないを貪るようになっています」。これが神を知らざる異邦人たちが虚しい心のままで歩んでいる実態です。あなた方は、決して彼らと同じような歩みをしてはなりませんよ。わたしは厳かに言いますよ。居住まいを正して言っている。いいですか、異邦人がしているこのようなことを、あなた方はしちゃいけませんよ。そして20節から読んでいくと、
4:20しかしあなたがたは、キリストをそのように学んだのではありません。 4:21ただし、ほんとうにあなたがたがキリストについて聞き、キリストにあって教えられているとすれば、です。真理はイエスにあるのですから。まことに我らがクリスチャンになっているのならば、いいですね、とパウロは膝を詰めて、居住まいを正して、私たちに問いただしているのです。4:22その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、4:23また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、 4:24真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。

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「脱ぎ捨てる」、「脱いで」、「着る」。衣替え、ほんとうの意味の衣替えです。いいですか、新しい人を着るのですよ。「真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着る」のです。

 

私は、きょうこのメッセージの準備をしながら、皆さん方の歩みに心から敢闘賞を差し上げたいなと、ほんとうにそう思いました。それ何かというと、牧師は、世の中の人たちと接する機会が皆さんより少ない。けれども皆さん方は、教会を出て一旦外の生活の圏内に入ったなら、まさに今の価値観の人々の中に身を置かざるを得ない。その点は牧師は楽だなあと思うのです。ほんとうに楽だと言っていいかどうかわかりませんけれども、とにかくそういう機会に接することがあまりありません。しかし、皆様方が社会に出てそこで生きていかねばならない。

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 コリント書にありますが、当時ギリシアの人たちは、偶像の神に一旦捧げられたものを市場で売るという慣例がありました。しかし私たちクリスチャンが偶像に捧げた肉は食べられないといったら、私たちは世間から出ていかなければならない。いわんとするところは、私たちが偶像を神とする人たちの中で、異教徒の中で暮らしているわけです。たとえば、夏になるとビールの広告があふれ、ビールを飲んで宴会はあたりまえ。そういう価値観の世の中です。
 では、私たちはどうしたらいいのでしょう。

4:17ですから私は言います。主にあって厳かに勧めます。あなたがたはもはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。
 あなた方がほんとうに新しく生まれ変わって真理に歩んでいるなら、いいですね、以前のようなものではなく、あなたがたのそれを脱ぎ去って、あなた方が霊的に新しくされたそれで、その衣を着て生きるんですよ、そうパウロは勧めています。

 若い方々向けの福音伝道集会があります。若者たちの率直な話し合いがあります。そのときに、真実なクリスチャンの方が、「先生、いまどき、ほんとうにお酒も飲まないなんて、聖書にどう書いてあるんですか」との質問があったようです。ほんとうに時代が変わってきている。そして真実に神様に仕えようとする若者たちが、仲間に伝道し、証ししようとするときに、真剣に考え、聖書からもういちど捕え直していく必要がある。純潔ということに関しても、いまの価値観と私たちのクリスチャンの持っているそれとどのような折り合いをつけて行ったらいいのかについても、真面目に生きようとする聖徒たちは一層そこを大切なポイントとして話し合っているわけです。きっと皆さん方もそのところを通っているでしょう。

 私がそのときに思ったのは、私たちは心の中に主イエス様を迎え入れている。そしてそのイエス様が心の王座にあって、クリスチャンだからたとえばお酒を飲む、その時に私が思うのは、イエス様がパリサイ人と言われる人たちに憎まれたのはなぜか。自分たちは律法をきちんと守っている、パリサイ人たちはそれを誇りとしていました。彼らはイエス様が売春婦たちと一緒にいるじゃないかと責めます。罪びとたちと一緒に食事さえしているじゃないか。これは当時のパリサイ人にとって非常な為すべからざることとして意識されていることでした。しかし、イエス様は、彼らと一緒に食事をされた。そのことを正しく捕えねばなりません。いかなる人々とも一緒に生きている私たち、どのようにこれに対処したらいいのかという時、心の内におられるイエス様が悲しむようなことはしたくない。しちゃいけないのではなく、したくない。これが新しく生まれ変わった者たちの思いです。

 みんなが和気あいあいと友達、一般の方々とよき社交の中にあるとき、私たちはどうあればいいのか。イエス様はパリサイ人から批判されるような場面にもおられましたが、それは人々にご自分を証しするため、キリストを証しするためにそのようなことをなさったと考えられます。

 私事ですが、信仰を持ち救われたのは東京の学生時代、4年のときで卒業間際でした。田舎に帰っていた時に、父親の親戚付き合いがあり、父親が仕事で行けないものですから、「俺の名代で行って来てくれ」と代理出席しました。行きますと久しぶりですから皆が声をかけてくれます。「勝の名代で来たか、まあ飲め」。クリスチャンになったことはまだ誰もしりません。「いま僕、お酒飲まないので」。昼といっても酒の接待ですから、飲まないとなるともてなす方が接待に困るわけです。
 世の中ではよくこういう場面に直面するでしょう。皆さん方に敢闘賞を差し上げたいというのはこういうところなのです。よく頑張っておられる。ほんとに頭がさがります。牧師の立場ですと、こういう誘惑はありませんから、その面では守られているなと思います。なかなか難しいところがあるでしょう。
 酒、放蕩はそのうちにありとも申します。ですからクリスチャンである自分には厳しく、そして他の人たちには最大限ゆるく広く、このことはとても意味のあることです。

 私たちはコロナの影響はほとんどありません。しかし全国では教会に集いたくても集えない。そういう状況下にあるさまざまな教会があります。そんなとき、行けないのか、行かないのか、そこである意味、信仰の本質が分かってくる。教会に集まってはいけないという状況、集まれない、集まっちゃいけない状況下で、ああそうかと集会から離れて、インターネットにもあるからいいや。それから教会に行けば献金がある。行かないなら献金できなくたって仕方ない。しかしそれは試みです。一心に主に仕えている人たちは、そのような中にあっても真心こめて主に礼拝を捧げ、それもきちんと果たしていくものです。

 それが、往々にして、クリスチャンなのに、教会役員なのにこうじゃないか、ああじゃないかと、適切でないあり様が取りざたされたり騒ぎになったりする場合がある。これはサタンの働きによるものです。信仰の本質が問われます。その人その人で神様に扱っていただく必要があります。ひとから言われてああする、こうするということではない。内におられるお方が喜ばれるようにAさんはAさんで、BさんはBさんのあり様で扱っていただく。あなたの尺度でひとを測ってはいけません。

 きょうの締めくくりです。クリスチャンである皆さんお一人おひとりの心の中にいなさるお方、イエス様が喜ばれる生き方にベストを尽くしましょう。それがあなたにとっての最善なのです。他の人が云々することではない。内なる聖霊なるお方の声に頑なにならず、弱い自分、失敗してしまう自分を責めることなく、絶えず与えられている光に砕かれて、そして、神様に目を向け続けていく、そういう心の営みが為されておりますと、エペソ人への手紙417~24節までの意味が私たちに生かされてくる。主は、皆さん方が真実に歩もうとすればするほど、懸命な戦いがあることをご存知です。またそれをわからない牧師であってはならないと自戒します。

この世との関りの中で、内なるお方の声にベストを尽くして聞き従わせていただきたい、こう切に願っております。

 

※画像は教会からお借りしました。
⏰5時8分更新

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雑感

けさのJ-MERO、SCANDALとフレデリックの登場。IN神戸。再放送。

まえに見たときには、神戸のライブハウスがどれぐらいあるものかをググってみた記憶がある。ざっと60数件といった数だった。キャパシティは2,30~700人規模まで。神戸国際会館となると2000人を超える。番組に出てきた「太陽と虎」は250人。ニュースなどでライブハウスの対応を見ていて苦しくなった。三密を避けたライブは若者たちにとってライブではないのでは。しかしそれを怠れば深刻な事態に。それにしても対応策を取ったとしても、それらの枠はいともたやすく崩れそうな気も。

参考に一通り聴くは聴くJ-MERO。歌詞の中で「ほんとうの敵は弱気な自分」とか「点線」であったか「破線」であったか、そんな言葉がおもしろい。線のスタイルは「線なし」「実線」「点線」「二点鎖線」「一点鎖線」「破線」「斜破線」「2本線」の8種類。 太さは「細線(最も細い罫線)」「極細」「普通」「太線(最も太い罫線)」の4種類。 この線を使って自分の人生のデッサンしたなら、果たしてどんな素描になるだろうかなどと想像。

⛳けさはゆっくりすごしたく、今時分の更新で13時42分。

 

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20619クラシック倶楽部を聴く 宮崎国際音楽祭2017 マイスキーとウィーンの仲間たち「華麗なる重奏」

宮崎国際音楽祭2017 マイスキーとウィーンの仲間たち「華麗なる重奏」世界的チェリスト・マイスキーとウィーン・フィルの元コンサートマスター・キュッヒルらによる室内楽演奏会【曲目】メンデルスゾーン:弦楽八重奏曲 変ホ長調 作品20 ほか 【収録】2017年5月6日 メディキット県民文化センター 演劇ホール(宮崎市)

【出演】ライナー・キュッヒル,ダニエル・フロシャウアー,漆原啓子,川田知子,ハインリヒ・コル,川崎雅夫,ミーシャ・マイスキー,古川展生(番組紹介より)

 

🎵311のときによく「いま応援に来ているよ」と耳にしたウィーン・フィル。ライナー・キュッヒル氏は親日で奥様も日本人。元ウィーン・フィルのコンサート・マスター。20174月からはN響のゲスト・コンサートマスターとなっている。311によくウィーン・フィルメンバーが来て下さったのも、もしやこの方の人脈によるところもあるかと。
キュッヒル&ハインリヒ・コルのモーツァルト「バイオリンとビオラのための二重奏K.423」、この方もまた同団のヴィオラの首席。

いよいよの八重奏はメンデルスゾーンの「弦楽八重奏曲」。常に「これが最後かもしれない」という心構えで演奏にあたるというミーシャ・マイスキー。熱のこもるキュッヒルの隣ではじめのうちは淡々と冷静なフロシャウアー、彼はジュリアードで川崎雅夫に師事していたようだ。背面、脇と黒の地に前中央にピンク、そして水色の流れのドレスの漆原啓子、上は落ち着いたレースを配したドレスの川田知子。ハインリヒ・コルは良心の人といわれているようだが、その内容はと思えど、この短時間でのネット歩きではなかなか掴めそうもない。古川展生、「古武道」という厳めしいコンサートの履歴も。この豪華メンバーの演奏。弦楽八重奏の第二楽章からは、ハーモニーこぞり天の領域をかけくだり、かけのぼるかのすばらしさ。しかしこれだけの陣容が当たり前のようにやってくる宮崎というところは不思議だ。

 

🎧🎵名曲アルバム。メンデルスゾーン「夏の夜の夢―序曲と結婚行進曲」。東京フィル。梅田俊明・指揮。シェークスピアの故郷ストラッドフォード、シェークスピア眠る教会にいまに鳴り響く「結婚行進曲」、思えばこれも無くては不都合、未来永劫朽ちることのない一曲。メンデルスゾーンは世界のいたるところで現役。

 

⛳クラシック倶楽部を聴き終え、カッコウの声を聞いたのが6時。そしてスズメのさえずりを聞いたのは6時半だった。さてはて書こうかと思いきやPCが思うように動かない。たまにあること。パットモアさんのようにまずは料理に取り掛かる。ただしメニューは庶民向け。
PC
不調でも、仮に何も書けなかったとしても、これはこれで、天が何かを私に気づかせ、教えようとしていることがけさ得心せられた。焦ることも慌てることもないのだ。いま周りに聴こえているのはビル建築現場の音、ドリルの音。どこぞのアパートの屋根の修理の音。今時間、生き物の声は聞こえない。

1052分更新。

 




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20/6/18クラシック倶楽部を聴く 諏訪内晶子&マリオ・ブルネロ&ボリス・ベレゾフスキー 演奏会

諏訪内晶子&マリオ・ブルネロ&ボリス・ベレゾフスキー 演奏会三人のチャイコフスキー国際コンクール覇者による「偉大な芸術家の思い出」 【出演】諏訪内晶子(バイオリン)、マリオ・ブルネロ(チェロ)、ボリス・ベレゾフスキー(ピアノ) 【曲目】ピアノ三重奏曲イ短調 作品50「偉大な芸術家の思い出」(チャイコフスキー)【収録】2017年5月31日 紀尾井ホール

 

🎵2017年の収録。旧友ニコライ・ルビンシテインへの追悼音楽。この演奏、今なお新鮮。この三人の演奏は一口でいえば、聴いた芸術家はこの演奏からインスピレーションを得、また新たな芸術作品を生むのではないかと。じゃ、あなたは? と問われると、凡人筆者は、と口ごもる羽目となるのだが。すばらしかった。諏訪内の泣くような輝く音色はもうその通りで、今回はベレゾフスキーのピアノとブルネロのチェロを意識的に、というよりどの音も自然に耳に入ってくる、耳の奥でキャッチしようと待ち構えさせる。ベレゾフスキー、コメントでは「途切れない会話を応援しているようなもの」と控えめ。その控えめが決して差し出がましくなく、単調に聴こえるときこそ実はバイオリンとチェロをしっかりと生かしているという具合。且つその中に個性を内包。人柄がしのばれた。ブルネロが「このアンサンブルのための新しい音」と語った意味が聴くほどに納得された。チェロ、そこにある泉からワックワックと湧き出るような低音の響きも魅力的。諏訪内、ベレゾフスキーあってのこの響かと。融合しながらも自分は自分、個性が個性として息しあい、佳境には互いが互いの響きを祝し合うというすばらしさだ! 
ルビンシテインの演奏、あとで振り返ってみよう。

 

🎧名曲アルバムはウェーバーの「魔弾の射手」。(合唱)新国立劇場合唱団,東京フィルハーモニー交響楽団,(指揮)渡邊一正 映像はドイツ・ドレスデン
🎵ザクセンの森の8月の音楽祭、ことしはどうなっているやら。ドレスデン市内の楽器工房、天井にはホルンとあれはチューバだろうか、もっと小型だったようにも。製作された楽器が掛けられていた。木型、工具、これは先代のマイスターに許された者だけが継いでいるらしい。管楽器は工場生産かとおもっていたが、こうして。

 

⛳けさの緑はわくわくと歌うたい。634分更新。

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20617クラシック倶楽部を聴く  エドガー・モロー チェロ・リサイタル

エドガー・モロー チェロ・リサイタルパリ出身・若き俊英モローによるチェロ・リサイタル 【出演】エドガー・モロー(チェロ)、ピエール・イヴ・オディク(ピアノ) 【曲目】パガニーニ:モーゼ幻想曲 ほか 【収録】2017年6月1日 王子ホールー番組紹介よりー

 

🎵以下は20191024日放送のときのメモ書き。このころは結構しっかり筆記していたのだが、聴くことにかけては、今の方がより楽しんでいる。こうしてメモっておくと、演奏家や曲に対する自らのうちの変化がわかっておもしろい。聴くごとにすばらしさを発見。思えば毎朝5時起きでよくも聴きとおしたもの。バイオリン弦もチェロ弦も名称が同じであったか、たぶんE線、この一本だけで弾く「モーゼ幻想曲」、いまのところ、重音だったんじゃないと思われるほど巧みな演奏。弾きおおすというよりも、終始チェロとの一体感をもって弾きまわすモローのすごさは!

エドガー・モローは、11歳の時にトリノ・レージョ歌劇場管弦楽団との共演でコンチェルト・デビュー。その後パリ国立高等音楽院、ドイツ・クロンベルク・アカデミーで研鑽を積む。2011年、17歳の時にチャイコフスキー国際音楽コンクールチェロ部門で2位、及び現代作品最優秀演奏者賞を受賞。以後世界各国のオーケストラとの共演やエディンバラ国際音楽祭、ラポールジュルネ音楽祭などの音楽祭に出演、世界を舞台に活躍するいま注目の若手奏者。
ピエール・イヴ・オディクはソルボンヌ大学で音楽学を学んだ後、パリ国立高等音楽院でピアノ、室内楽、声楽伴奏を学ぶ。2011年のチャイコフスキー国際音楽コンクールではエドガー・モローの伴奏を務め、最優秀伴奏者賞を受賞。エドガー・モローのリサイタル・パートナーとして数々の音楽祭に共演を重ねている。

 

エドガー・モローのコメント
チェロとの出あいは?
私が幼いころ、父が骨董商をしていました。ある日、父と骨董商が並ぶパリのドルオー通りを散歩していました。ある骨董商店に入ると、小さな女の子がチェロを弾いていたのです。それを見た途端、チェロに一目惚れしました。言い知れない魅力を感じたのです。骨董商の父は偶然にも投資目的でこのチェロを入手していました。しかし私がチェロの道を歩み始め、この楽器を貸してもらうようになりました。今は家族から買い取って私のものです。この楽器と出会えてほんとうにラッキーでした。自分のものとして一生共にいられるのです。
チェロの魅力は?
チェロは人の声にいちばん近い楽器だといわれています。音域が広く低音から高音までよくなります。また官能的でもあります。肉体的というか体の一部として体を補充してくれるのです。左手や弓で音を探る動作は、肉体と融合するような感覚があります。そうやって前身で演奏するというところにとても魅力を感じますね。

 

「エレジー 作品24フォーレ:作曲
フォーレが結婚した年に作曲。チェロとピアノのために初めて書いた作品。哀愁を帯びた旋律で名曲として親しまれている。
「チェロ・ソナタ 第1番 ホ短調 作品38ブラームス:作曲
ブラームスが32歳の時にクララ・シューマンの別荘のあるドイツの避暑地リヒテンタールで書き上げたといわれている。三つの楽章すべてが短調で書かれた北方的な哀調に満ちた作品。
「歌劇「サムソンとデリラ」から「あなたの声に心は開く」」サン・サーンス:作曲
2幕でデリラがサムソンの力の秘密を探るために、彼を誘惑しようと歌う優美で官能的なアリア。チェロ編曲版もサン・サーンス存命中から出版されていた。
「モーゼ幻想曲」パガニーニ:作曲
「チャールダーシュ」モンティ:作曲

 

🎧🎵けさの名曲アルバムは、「なき王女のためのパヴァーヌ」(ラヴェル)東京フィルハーモニー交響楽団,(指揮)飯守泰次郎

スペイン国境近く、サン・ジャン・ド・リュズにあるラヴェルの生家を確認。遠い存在マリア・テレサ、美しさは届かぬ方が増幅され或いは美しい芸術を生むものかも。

⛳家事しながらの7時9分更新。

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20/6/16クラシック倶楽部を聴く  堤剛 萩原麻未 デュオ・リサイタル

日本チェロ界をけん引する重鎮・堤剛と感性光る若手実力派ピアニスト・萩原麻未によるデュオ・リサイタル母と子のための音楽(三善晃)、チェロ・ソナタ ヘ長調 作品6(リヒャルト・シュトラウス)ほか音楽家として新たな自分を開拓し続ける堤、きらめく感性と経験に裏打ちされた演奏で活躍する萩原が満を持して共演2017年7月8日ハクジュホール(番組紹介から)

 

🎵このステージに感じられた師弟愛。これは会場に詰め掛けた人々の熱い応援からも。伴奏する萩原麻未が、堤は蝋燭にぽっと灯りがともったときのしあわせな瞬間をくれると師を礼賛。堤は萩原の音楽から自らの内に新しい発見を見ると。

三善晃の「母と子のための音楽」。闘病する親と子のために作られた曲。部屋の中にいて寄り添ってくれるような響きがあたたい。-お話しー幻想―では創造の翼が動き出したような。リヒャルト・シュトラウスの「チェロ・ソナタ」。たしか10代後半で作曲されたとか。10代の作曲家を70代のチェリストが演奏するおもしろさ。若人はその持っている可能性と共にどんどん外に出て行って欲しい」と語る塘の以前にも聴いたことばが旋律に重なった。アンコールの一曲目はカサドの「愛の言葉」。この演奏がいちばんよかった。演奏者の喜び意気込みが通っていた。たぶん観客席は堤の息のかかった、或いは師弟として恩ある方々、塘の演奏を慕う方々で満席だったかと思うが、その熱いエールに動かされ、応えた演奏だったように思う。アンコール2曲目ラフマニノフの「ヴォカリーズ」。

ググってみると、いま堤は数々の役職にあるようだが、サントリーホールとの関係も深いようだ。

 

🎧🎵名曲アルバム。プーランク「クラリネット・ソナタ」古部賢一、ピアノは不覚にも見落とし。この朝の空気に新鮮だった。生涯独身でワインを愛し作曲に専念。生粋のパリジャンだが、作曲するときには田舎であるノワゼーに通っていたという。薬品会社を営む父は作曲家になることを反対。独学で作曲を学ぶ。この曲は死の直前に書かれ、早逝した初恋のリノシェに捧げられているとか。これがオネゲルの墓にも供えられたとネットにあったが、たぶん捧げたのは少女にか。もしかプーランクの死の間際に魂が逢いにきたのかしらんなどと勝手な想像を。

⛳6時51分更新

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20615クラシック倶楽部を聴く  郷古廉、加藤洋之 ベートーベンのバイオリン・ソナタ

郷古廉&加藤洋之 ベートーベン バイオリン・ソナタ全曲演奏会【出演】郷古廉(バイオリン)、加藤洋之(ピアノ) 【曲目】バイオリン・ソナタ第1番、バイオリン・ソナタ第5番「春」(ベートーベン) ほか 【収録】2017年4月13日 東京文化会館小ホール(番組紹介より)

 🎵郷古廉が作品について、表現しようとしたものと表現したものとが噛み合わないと言っていたが、これまでバイオリンソナタを聴くときになにか釈然としなかったのはこれだったかと気づかされた。ベートーベンのさらに何か何かをと模索、そして楽曲と成したベートーベンの精神力の強さを語っていた。加藤洋之が、ベートーベンは作曲家としては不器用なのだと。書きたいものと書いたものが融合を見ていない。その間にある軋みから曲がマグマのようにできあがっていると。おもしろい。

「バイオリン・ソナタ第1番」、親しまれている「バイオリン・ソナタ第5番 春」、これがソナタ形式を発展させるために4楽章で構成されているのだと。コメントを参考に聴くことでまたベートーベンの作曲のありようが身近になった。研ぎ澄まされた弦の響きを楽しむ。アンコールはシューベルトで「ソナチネ第3番第2楽章」。 

🎧名曲アルバム。音楽の父・バッハ最晩年の傑作「フーガの技法」が生まれた街、ライプチヒ。ゆかりのトーマス教会の音楽監督やオルガ二ストは次代へ、愛するバッハの音楽をつないでいる。(番組紹介より)

🎵映像と共に聴く「フーガの技法」。バッハ最晩年の傑作。この楽譜には楽器の指定がないらしい。誰のために何の目的で作曲されたのかはわからない。謎めいた曲とも。おそらく65年間の人生の神への感謝の捧げものではないかと。バッハは友人あての書簡に「悩みながらも生きていかねばならない」と書き綴っている。子供たちに合唱の指導も。意外なのは、バッハはカフェでも音楽を披露していたようだ。
それにしても「フーガの技法」の冒頭が聴こえたときには感激。映像と共にライプツィヒを聖トーマス教会を散歩。メンデルスゾーン、シューマン、ワーグナーも歩いた街だ。オルガンは冨田一樹。たった5分が5分とは思えない。この自らの単純さにあきれるが、こうなると単純さも悪くない。

 

⛳6時39分更新

 

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きょうのことば

インマヌエル盛岡キリスト教会2020年6月7()のメッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『キリストに倣う』(國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 エペソ人への手紙4章1~6

4:13私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するのです。 4:14こうして、私たちがもはや子どもではなくて、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、 4:15むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。 4:16キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

<説教>

 先週(31)にペンテコステの礼拝を超えさせていただきました。内住してくださるご聖霊様を、私たちはこの一週間、どれだけ意識しながら歩んでいたか、そんなことを思いながら、今朝の講壇を共に守らせていただこうと思っております。

 前回は、ガラテヤ人への手紙、これが御霊と肉との問題。其々に結ぶ実の違い、そしてどういう行動をとるかの違いなどをお話ししました。そして何より、聖霊と私たちとの関係ということで、先行的恩寵、私たちは信仰を持つ以前にも、メディアや様々な事物、人を通して、「わたしはここにいるよ、さあ、戸を開けてご覧」という御声を聞いていること。そしてイエス様との新たな関係として新生、内住、聖潔(きよめ)ということを語らせていただきました。特に新生経験は最も基本となるところです。イエス様の十字架の贖いを信仰によって、聖霊の恵みによって主の十字架がわたしのためであることを自覚させていただき、新生経験をもって心の中にこのお方を心に迎え入れたことはとても大きなできごとである。これはいままで犯していた罪の赦しの問題として新生経験が理解される。しかしここで私たちが意識したいのは、罪の赦しは新生経験の時にありますが、依然として私たちは罪の性質というものを持っている。新生経験では罪の赦しをいただくのですが、もう一つ通らなければならないのが第二の転機、心の中に入ってきたお方を心の王座にお迎えする、これが第二の転機です。これを聖潔、きよめられるということばでリバイブしているわけであります。それを全ききよめ、或いは、聖霊に赦された、聖霊の満たしという角度からいうことができます。また聖霊の全人格的支配というように理解することができます。大切なことは心の王座にこのお方を、どうぞ主よお願いしますと迎え入れたときに、罪の赦しではなく、罪のきよめがなされます。これが神様の恵みの第二の転機となります。

ガラテヤ書から「信仰によって」ということを学ばせていただきました。
16節5:16私は言います。御霊によって歩みなさい。
18節5:18御霊によって導かれましょう
25節御霊によって生きよう
25節御霊によって進もう

 私たちがきよめの信仰に立って生きるというとき、「御霊によって歩み、御霊に導かれ、御霊に生き、そして御霊によってすすもう」、これが前回の大切なポイントでありました。

 そして私への問いかけ「あなたはいま聖霊に満たされていますか」と尋かれたとき、皆様方はどう応答なさるでしょうか。参考として、一人の宣教師のお話しをさせていただきました。聖宣神学院がまだ浦和にあったときです。恵みと力にあふれたひとりの宣教師が、神学院の講壇に招かれました。メッセージを取次がれた後、集っている会衆に、「この中で御霊に満たされたいという人は前に出てきなさい」、こう招かれた。

 聖会ではよく「恵みの座」が持たれます。こんどのズームでの聖会でも持たれることになっていますが。それぞれの教会にお委ねしようと検討していますが、「恵みの座」というのは、もういちど新たな恵みをいただきたいときに、前に出ることは非常に意味のあることであります。自分の信仰の壇を築くうえで、それはさせていただきたいと願っております。
 招かれて出て行った神学生たちを、当時の蔦田先生がご覧になって、あとで神学院の聖徒たちだけになったとき、「君たちの聖霊理解の未熟なことにがっかりした」と仰いました。國光幾代子先生が「院長は神学生たちの聖霊理解の未熟さにがっかりした。そのときの神学生たちは、自分が当時ビリー・グラハムのような聖霊に満たされた器、あのグラハムのような。あの先生のような力が欲しい。あの先生のような聖霊による救霊の力が欲しい、或いはメッセージをする力、そういうものにみたされること、あの先生のようになることが、聖霊に満たされることと理解していた」と遺しておられますが、それに対して蔦田先生はがっかりしたと言われたわけです。
 聖霊に満たされるとはそういうことではなく、主を心の中心に崇めて受け入れているなら、イエス様が心の中心、心の王座におられるなら、あなたはいま御霊に満たされている状態である。それがきよめである。それをあの人のように、あの賜物が自分の力となるようになどと混乱してしまって整理されていないから、きよめという問題が混乱してしまうと蔦田先生はいわれました。
 そしてこのきよめのあとの成長は、イエス様が心の真中心、王座にいていただくとき、この聖霊と共に歩み、聖霊を与えてくださる光の中を歩むことができる。そしてその光で照らされたとき、罪が意識されたのならすぐに主よとお詫びをする、そしていつでも主を見上げる。その砕かれやすい心。これがきよめによる成長なのです。前回はこのところでメッセージを置いたように思います。

 

 ここで私たちにはそれぞれに個性がある。自分の性格、育った家庭環境、自分が生まれながらに与えられている賜物、能力は、みな違います。

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 個性の異なる人たちがそれぞれに十字架を受け入れて新生し、そしてイエス様に王座についていただき、信仰の成長をさせていただくのです。それぞれ個性があれば、信仰生活も同じような形のまるというわけにはいきません。これをきちんと理解しなければならない。これも以前お話ししたかもしれませんが、蔦田先生の「きよめとは人格の円満さだ」、これにはちょっと肩透かしされたような気がしました。もっと神学的な表現をされるのかと思っていたのですが。当時を振り返ると、なるほどなと、思えるのです。たとえば結婚して家庭を持っていて、或いは自分と社会との関わりに於いて、様々な試練、様々な誘惑、そして、それにどういう感情を持つかということ、これらのことが、ゆがみのある自分の人格の中で、だんだんとまさにエモーナルな状態になってくる。

 それでは円満な状態にならないときよめられていないのかとなるとそれは違う。きよめというのは、さきほどの神学生の話しではありませんが、みんなが世紀の大説教者ビリー・グラハムのようになることではない。名説教者、救霊者になるということが、きよめられることではない。生まれつきの家庭環境からくるひずみや歪みがある場合には、きよめがないのか、それも違う。きよめというのはその人の真ん中にイエス様をしっかりと受け入れていること、これがきよめです。成長の中で人格がだんだん円満にされていきます。

 皆さん方は、アドベンチャーレーサーの田中陽希をご存知でしょうか。いま日本の300名山を歩いて踏破するというシリーズになっていますが、こういう人ですから体力も、セルフコントロールも鍛えられている。すごい。そういう意味で人格的にも陶冶されている。ある姫神山ほどの標高の山でしたが、予期せぬ雪に遇ってしまい、スノーシューが足を取られ、体が思うようについていかない。あの忍耐強い田中にして苛立ちにワーッと叫ぶのです。頭に描いたプランと食い違い、現実には雪続き。動くこともできない。焦ります。そして彼は、ワーッと叫んでしまう。予定通りに進まない苛立ち。私たちはこのようなとき、特に感情のセルフコントロールがなかなか難しい。200名山のときに、東北地方のある夏山で、彼はもう熱中症になっていた。もうすぐ頂上というその時に、頂上から降りて来る人がいて田中に言いました。「陽希さんですね、みんな頂上で遅いと言ってますよ」。彼それ聴いたときも、ワーッといったんです。番組スタッフが「どうしたんですか?」と尋くと、「僕だってね、行きたいんだよ、でも疲れてるんだ」。そうなんです。そのところなんです。自分の思うようにいかない。誰も待っていてくれと頼んだわけではないんです。勝手に待っているんです。それが「来るのが遅い」とみんな言っている。励ますつもりかもしれないけれども、思わず苛立ってわーっと叫びたくもなる。

 誰しも人間関係などで、仕事で思うようにいかないとき、思わず叫びたくなる。それを思い巡らしながら、私は、聖書のダビデの詩篇31節「主よ、何と私の敵が多くなり私に向かい立つ者が多くいることでしょう」、37節「あなたは私のすべての敵の頬を打ち悪しき者の歯を砕いてくださいます」、このおことばに思い当たりました。詩篇には自分に仇するものを呪う詩篇もあります。

 聖書には「神は愛なり」「主は私の羊飼い。わたしには乏しいことがありません」とも書いてあるけれども、それがいったいダビデのあの詩とどうつながるのか。しかし、私がこのメッセージの準備をしていて、これは田中陽希さんの心境じゃないか思える。ダビデが信頼している者に裏切られ、自分の子どもに王座を奪われるような羽目になり、信頼していたあいつまでが謀反の側についている。ぎりぎり追い詰められているときに、ワーッと叫びたくなる。もし私が注解書を書くとすれば、あのところはまさにわーっと叫ぶところなのだと。ご自分の信仰生活の中で、どうしてこうなんだという局面にぶつかる。そのときには叫んだっていいと思うのです。それは詩編にあることなのです。私たちの思いのそのままがあの叫びの中にある。そのとき、あなたの信仰って何なんだ、などという者がいたなら言わせておけばいい。ほんとうにわーっと言いたくなるときがある。なぜだと思う。でもそれらのことを通し、また通った中で、彼は昇華される。それらを通らなければわからないような試練の中を通り、ワーッと叫びながら通った経験がある人でなければわからないような世界に人格は円満さを増してくるのです。これらのこともあっての私たち一人ひとりの信仰生活がきよめの信仰生活です。

 でもこのときに、このことがわかっていなければ、わーっと叫ぶときに信仰まで落としてしまう。クリスチャン信仰を進めることができなくなってしまうだろうと思うのです。いびつでもまだ未熟でも、とにかくこのきよめの信仰にしっかり立っているのならば、叫びだしたいようなところを通るけれども、これは人格が広がってくると言ったらいいのか、或いは円満さが増してくる。そういうところを通ったダビデがそうでした。

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 そして、きょうもう一つ、人格の円満さについて参考になるのはヨナです。旧約聖書のあのヨナ。彼は神様からニネベに行けと命じられる。しかしニネベは自分の祖国にいつも敵対しており、滅んでしまえばいいとヨナは思っていた。そこに神様はヨナに、敵であるけれどもニネベに行って悔い改めを伝えるようと命じられたのに、ヨナは行きたくないと逆方向にあるタルシシに船出します。大嵐になり、神に逆らっている者がこの船に乗っているからだとヨナは海に放り込まれ、魚に飲み込まれてしまうという聖書箇所があります。ここからヨナの感情の起伏の激しさがわかります。預言者であるにもかかわらず神のお召しにいやだと逃げていく。ヨナはこうなってから魚の中で祈り、結局はニネベに行き説教する。するとニネベの人たちはそれを聞き断食までして悔い改めます。ヨナは自分が悔い改めの説教をしていながら、敵であった彼らが悔い改めるのは面白くないと言ってだだこねる。とうごまの日陰に入って大喜びし、とうごまが虫で枯れると、もういやだ殺してくれという。それでもなぜか人格的に未熟なヨナが、預言として神に用いられているのです。

 神様はここで教えようとしておられる。未熟な私たちが、真ん中に主イエス様を迎え入れて、きよめの信仰をもっているならば、神様は用いてくださる。悔い改めていてわーっと叫ぶのは、きよめから落ちているのではないのです。それもきよめの中を歩んでいる一環であり、人格の円満さの中で昇華されていくのではないでしょうか。

キリストに倣う者、そのすがたがイザヤ書の53章にございます。

7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

このように、イエス様ご自身も人の子として円満さを学ばれたのです。どうかこの主の扱いの中にきよめの成長をさせていただきたいと存じます。

 

⏰イラストは教会からお借りしています。けさもすばらしい朝。朝日に照らされ生気を帯びる樹木、街並み。
5時26分の更新です。

 

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J-MEROを聴く

再放送ではあるけれど、1995年1月17日の阪神・淡路大震災に遭った神戸で生まれた2曲の紹介。

中川敬の「満月の夕」。1月17日は満月であった。満月になると何かが起きるのではないかという不安を持つ方々はいまだにいらっしゃるようだ。初演はその翌月2月10日、1000人の被災者のまえでだった。「日記書かんから曲書かなあかん」、「頑張れとかいうことばじゃなく、見た光景をそのまま曲にした」という。また「喜怒哀楽の感情を解き放てるのが音楽の力」とも。

臼井真「しあわせ運べるように」。三宮の惨状を目の当たりにし神戸が失われたことで悲しみのどん底にあったときに生まれたという。「神聖な子どもたちの歌声に希望を託した」と。

今回災害の映像を見、歌声を聴きながら、もしかすれば時間の流れを意識し、過去、現在、未来と分けて意識しているのは人間の側だけで、神にとってはすべての一コマ一コマが逐一現在なのではないか、理屈もなくなぜか、ふとそんな気がした。

 

⛳こんなことがあって神などいるものか、そういう考えがあるかもしれない。ただ今この瞬間にも神はすべてを見ておられる。たとえばこの街にも戸建て、アパート、マンションとあり、それぞれが他者からは見えない空間で暮らしていると思っているのだが、神の目から見れば、そのすべての天井はことごとくみな開いていて、どこで人間が何を考え何をしているのか、全てを一望することができる。極端にいえば、避難所にいることを余儀なくされた方々にとってプライバシーが保たれることはなかなか難しい。住宅が準備され其々の住居に落ち着く。外部の目からは遮断される。大方の場合は人にはそれが必要なのだ。神もそれはご存知だ。ただ、方策が変わろうとも、場所を移そうとも、何らかの遮蔽物をもうけたとしても神の目はどんなことも見逃すことはないと思われる。

懲りもせず今朝も6時51分更新。

 

 

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20/6/12クラシック倶楽部を聴く ギター 荘村清志、福田進一、ホセ・アントニオ・エスコバル、レオナルド・ブラーボ

12回を数えるHakujuギターフェスタから「魅惑のラテンアメリカ」と題されたコンサートをおおくりする。名実ともに日本を代表するギタリスト福田進一の熟練のソロでポンセ、バリオスらの作品、そして荘村清志、福田進一、ホセ・アントニオ・エスコバル、レオナルド・ブラーボのアンサンブルでピアソラの作品ほかを放送。多様で豊かなラテンアメリカのギター音楽の魅力をお伝えする。(番組紹介より)

 

🎵福田進一が語っているが、ギター人気はおおむねスペイン音楽によっているのだが、ブラジル・チリ、アルゼンチン、ウルグァイ、ボリビア、コロンビアなどの国々は各々違った特色を持っている。色々な音楽のリズムの深さが違う。色彩感、それにものすごく色々な和声を使っている。スペインの男性的なものとは違って、女性的なエレガントさもあると。

福田であったか、細かいことを考えずにこの場を楽しむ、成り行きで出て来た音を楽しむといったような演奏はギターにしかリアライズできないとも。ギターの弦は6本で、即音が出るので、ギターの数が多くなるほど演奏が難しくなるという。

福田のソロでバリオスの「大聖堂」。第3楽章の突き詰めていくようなリズム、旋律の深さは。同じく福田奏するバリオスの「ワルツ作品8第4」。福田がバリオスを2曲続けたところで、バリオスへの興味が。続くレオナルド・ブラーボの演奏でアジャーラ作曲の「南米組曲」から「前奏曲」「タキラリ」「ガトとマランボ」、南米諸国の民俗形式、リズムが描き出されているという。
福田&ホセ・アントニオ・エスコバルの演奏でボローウェルの「ミクロピエサス ダリウス・ミヨー賛歌」第1,2,3,5,4曲の順で演奏。続いて荘村清志&レオナルド・ブラーボでピアソラの「タンゴ組曲」、奥ゆかしさが感じられたところも。
次には4人での演奏、この豪華さ。ピアソラ/ブラ--ボの「トロイロの組曲 ウィスキー」、これはバンドネオン奏者トロイロの死を悼んで作曲された。
あとはこの4人で何をやってくれるのかな、それがピアソラ/ブラーボの「ブエノスアイレス午前零時」、名曲だと思う。そしてまたピアソラ/ブラーボの「トロイロの組曲 シータ」。シータはトロイロの妻で、夫亡きあと夫のバンドネオンをピアソラに贈っている。この曲がなかなか熱い。バンドネオンの熱さが聴こえた気が。

 

🎧🎵名曲アルバム。ショパン「雨だれ」
スペイン、マヨルカ島。
ピアノはイリーナ・メジューエワ

死の恐怖からもピアノが救い、名曲が。

⛳奏者のすがたを思い浮かべながら何でもいいからとにかくキーを打つことが楽しい。6時55分更新

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20/6/11クラシック倶楽部を聴く   リナ・トゥール・ボネ&ムジカ・アルケミカ

スペインのバロック・バイオリン奏者リナ・トゥール・ボネの演奏で、バロック期の作曲家ビーバーの大作「ロザリオのソナタ集」からお送りする。聖母マリアの秘跡を題材にしたこのソナタ集は第一曲と終曲を除くすべてがそれぞれ異なるスコルダトゥーラ(変則調弦)で書かれ、当時のバイオリン技術の集大成と言われた難曲。ボネ自身が創設したアンサンブル「ムジカ・アルケミカ」との共演で、二夜にわたる全曲演奏会の第1日を。(番組紹介より)

 

🎵ビーバーの「ロザリオのソナタ」からの抜粋。けさは、と言ってもこれが201849日武蔵野市民文化ホール収録分なのだが、たとえ収録が何年であろうとよいものは朽ちない。
けさの興味はスコルダトゥーラ。ボネいうに「敢えて調子をはずして調弦する。一つの曲が終わるごとに調弦」と。ステージ上でこの微妙な調弦を幾度も意図するにたがわず変えられるところも離れ業と見える。
第1番 受胎告知、第3番 降誕、第4番 拝謁、第6番 オリーブ山での苦しみ、第7番  鞭打ち、第8番 荊の冠

  ボネが後部観客席からの登場、ステージへ。ボネのバイオリンに寄り添い奏でるテオルボ奏者トーマス・ボイゼン、ヴィオラ・ダ・ガンパ奏者バトヒ・モンテーロ、チェンバロ奏者アンヌ・マリー・ドラゴザッヴ、オルガン奏者ユージン・ミケランジェリ。スコルダトゥーラが「降誕」のところでは、一通りではない響きの変化の妙味もあるが一種のわりきれなさ霧のように弦の奥から湧きでてくる感じもある。「拝謁」では聖画のように薄闇に光に静まりあるものへの愛情と厳粛さ、怖れもあり、むしろこちら側の聖なるものへの態度のありようが問われる。「オリーブ山での苦しみ」、血の汗が弦に滴る。「鞭打ち」、この周りのざわめきと感じられる響きのうちに人々のあざけりの笑いが。「鞭打ち」、ここで、ああ、これは神に捧げられている演奏なのだと。「荊の冠」とでこれはシスターのバイオリン、弦をもっての献身であると感じられた。

 

🎧🎵名曲アルバム、ラヴェル編曲版ムソルグスキーの「展覧会の絵」。
不遇のうちに画家をめざし無名で39歳で没した画家ヴィクトル・ガルトマン。その境涯に相通じるものを覚え、ムソルグスキーは没後にこの画家の遺作展を。遺作展での感動から「展覧会の絵」を作曲。ガルトマンの魂がムソルグスキーの魂を揺さぶる、そこに創造が。魂と魂。もしやガルトマンのムソルグスキーへの深い感謝の思いが「展覧会の絵」を彼に描かせたものか。

 

⛳書き足りなさを覚えつつ、7時ジャスト更新。

 

 

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20610クラシック倶楽部を聴く アテア木管五重奏団

2009年に結成され、イギリスを拠点に活躍するアテア木管五重奏団の演奏会から。クラリネットの橋本杏奈、フルートのアレーナ・ルゴヴキナ、オーボエのフィリップ・ハワース、ファゴットのアシュリー・マイヤル、ホルンのクリストファー・ビーグルス、五人の若き名手たちによる色とりどりの木管楽器のアンサンブルをお送りする。(番組紹介より)

 

🎵この楽団、ああ、「生演奏を聴きなさい、未来のクラシック音楽界のためにも」というアレーナがいる五重奏団ね。こう思い出す。耳が痛かったからだ。出不精となり、日常的な所用以外は滅多に出かけなくなっている。いまはコロナで逆に出かけようにも……なのだが。思えばファゴットは木管五重奏で聴く機会はあったはずが、記憶の片隅に寄せられてしまっていた。フルートやホルンが終演にも耳の奥で誇らしく高らかに鳴っている。今回は先ごろのファゴット・ソナタが功を奏し、比較的聞き取れたかと。
 ニルセンの「木管五重奏曲」。ここぞとそれぞれの楽器が自らを主張する部分があり、またそれが合意が成立したかに相和する。ボザの「夜の音楽のための3つの小品」、軽快で細やかな音遣い。タファネルの「木管五重奏曲」。この曲がそうであるかどうかは分からないが、ボザの作品は「管楽器向けの作品の多くはパリ音楽院の入試・または卒業試験のための課題曲であり、そのため現在でも各種コンクールや音楽大学入試のための課題曲としてボザの作品は頻繁に取り上げられる(wikipedia)」「作風としては、現代に属する作家ながら特殊な技法や奏法は用いず(管楽器のためのエチュード図形楽譜」は例外)、一般的な奏法の中で創作している。楽器の能力の限界まで挑戦した演奏技術が要求される一方、20世紀のフランス室内楽の特徴である表現豊かで美しい旋律をもつ形式は失われていない。またレスピーギプーランクラヴェルドビュッシーなどボザ自身が影響を受けた他の作曲家の引用を多く用いている(wikipedia)」。

タファネルの「木管五重奏曲」。タファネルは「フルートのフランス楽派の創始者であり、20世紀におけるフルートの演奏指導において主流となる教本を上梓した。 また、指揮者としても活躍した」「タファネルは遺作となる『17のメカニズム日課大練習』を残し、死後に2人の弟子、ルイ・フルーリフィリップ・ゴーベールによって完成された。この教本は、今日までフルートの最も有名な教本として世界中で使われている」(wikipedia)。ニルセン、タファネル、ともに管の教則本的な作品がいまも多く演奏されているようだ。
 神経を逆立てずとも、自然に周辺に鳴っていてくれるような安心感。それぞれの音色を楽しんだ。クラリネットの橋本杏奈、ついつい格別に耳を澄まして。

 

🎧🎵名曲アルバムは、これがウェルナーの「野ばら」。ゲーテの詩。ウェルナーの心優しさがつたわってくる。「野ばら」の作曲数は154曲。そのうちの60曲は未発見だという。この未発見とした60曲をどのように“選定”したものかが摩訶不思議。これは番組中の解説ではないけれども。数小節だけのこっているものを辿ってみた、そこにある、ここにあるとの情報を辿ったところがたしかにそれらしかったといった状況だったのか、何れ大変な時間、労力をかけて研究し尽くされているのだろう。
 筆者購入のリモン・チュッロ、彩は黄色だけれども、これが白であれば、この曲の野ばらのイメージに近いかなと。

⛳9時47分更新。きょうも盛岡、いまから暑い。しかし周囲には耐えてみせようと涼し気な山々の稜線がしっかと。これぞ岩手、これぞ盛岡。


 

 

 

 

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2069 2069クラシック倶楽部を聴く  アレッサンドロ・カルボナーレ クラリネット

アレッサンドロ・カルボナーレ クラリネット・リサイタルクラシックからジャズまで、熱狂の名演奏!曲目:小協奏曲(ウェーバー)、ルーマニア民俗舞曲(バルトーク)、歌劇「リゴレット」の旋律による演奏会用幻想曲、カルボナーレの名編曲と客席でのアドリブ演奏による「ガーシュウィン!!」ほかピアノ:黒田亜樹2017年7月26日東京・ハクジュホールで収録―番組紹介よりー

 

🎵カルボナーレ、ああ、あの日本語で「私はおもしろいことをします」とあいさつし、目いっぱい面白くあきさせずに、勿論彼の演奏に厭きるということはないだろうけれども、おもしろいパフォーマンスで、しかも演奏の質を落とさずに楽しませてくれた人ね。こう記憶にある。コロナで新しい番組制作ができない実情が過去に制作されたよい番組を繰り返し聴けるチャンスをくれてもいる。

 アレッサンドロ・カルボナーレは黒田亜樹を、クラシックのみならず映画音楽、エレクトロ音楽にも精通する音楽的に開放的なピアニストと紹介。カルボナーレというとなにかスパゲッティのイメージが重なるので、ここではアレッサンドロと。アレッサンドロはたとえば森の中を逍遥するような抒情的な奏者ではない。それも持ち合わせてはいるけれども。クラリネットは幾分こもっているような音色だが、アレッサンドロはどちらかといえばユーモアセンスにあふれる楽しいリズミカルな明るいセンス、それこそ開放的なところがあり、亜樹とは絶妙なコンビ。
 ウェーバーの「クラリネット小協奏曲」、これは演奏会直前に完成したとか。初演の三日前の完成だったらしいが、クラリネット奏者ベールマンはほとんど練習せずに見事に演奏してのけたらしい。ドビュッシーの「クラリネットのための第1狂詩曲」、これはドビュッシー本人が後に管弦楽曲にしたほどで、やはり難曲なのだろう。管弦楽曲が初演されたのはドビュッシーの死後のこと。バルトークの「ルーマニア民俗舞曲」、バルトークのルーマニアでの民俗音楽採譜による6通りの舞曲の採用。どんな踊りであったのか。ルーマニアの友人であり最も民謡採集に協力した人物であるイオン・ブシツィアに献呈されている。ヴェルディ/バッシの「リゴレットの演奏会用幻想曲」。これも聴きごたえがあった。砕けてかどうか続いてはガーシュウィンメドレー。ガーシュウィンのカルボナーレ版なのだ。ここで渾身の観客サービス。観客席をまわり、空席に腰かけての演奏などなど。彼の両側にかけていた女性の顔が浮かぶけれども、これが映像となったときには、生涯の楽しい思い出としてのこるのではないか。いやのこっているだろう。固唾をのんで見守った場面は、アレッサンドロが最後の音をこれがいったい息がどこまで続くのだろうかと、まさか死ぬまではと思うほどに長く引き伸ばしながら観客席からステージにあがっていったのだが、これを待つ黒田亜樹はアレッサンドロがいつ吹き止めるのかを窺っている。どこでピアノの最後の締めを鳴らすかその間合いの見極めなのだ。これが奇跡的にというか、リハの成果がバッチリと出た瞬間というか、クラリネットとピアノがものの見事に最後の音を弾ききったのだ。そして最後の曲は、待ちに待ったコヴァーチの「ショレム・アレイヘム」。イディシュ語で「あなたに平和を」。アレッサンドロへの興味はその演奏の楽しさもあるが、彼がヘブライ音楽の研究者でもあるというところだ。「ショレム・アレイヘム」、興味深く聴いた。

 

🎧🎵名曲アルバムはエルガーの変奏曲「なぞ」
霧にたたずむウェスターのまち。エルガーの生家。彼は18577人兄弟の4番目に生まれ、楽器商の父の下で楽譜に興味を持ち、独学で作曲。実験にも興味を持ち、また面白いのは暗号にはひとかたならぬ興味を寄せ自分独自の暗号もつくりだしていたらしい。これもまた面白かった。

 

⛳7時ジャスト更新

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2068クラシック倶楽部を聴く  ソフィー・ダルティガロンファゴット・リサイタル 

 ソフィー・ダルティガロング ファゴット・リサイタル【出演】ソフィー・ダルティガロング、沢木良子(ピアノ)【収録】2017年6月4日 武蔵野市民文化会館―番組紹介よりー

 

🎵ファゴットの印象的な作品となるとクラシックではざっと30曲はあるらしいのだが、すぐに浮かぶのは「ピーターと狼」、「白鳥の湖」といった素朴さ。その音色をしっかりとまだ捕えておらず、シンフォニーなどではほとんど聴き分けてはいないというのが正直なところ。ソフィー・ダルティガロングが語るに、ファゴットは、やわらかく甘美な音色が特徴であると。はじめは母親の影響でギターを弾いていたのだが、この音色の虜になり、いまではウィーン・フィルの首席ファゴット奏者。ベルリン・フィルとウィーン・フィルの両方での演奏経験があるようで、いつかも書いたかと思うけれども。ベルリン・フィルの方は主に交響曲、舞台では常に主役で個々も際立っている。一方、ウィーン・フィルの方はオペラが主流、それで伴奏となり、いかに歌手を引き立たせるかになるという。
 ファゴットは音域がチェロに似ていること、また長い旋律を奏するときには、いかに呼吸をコントロールするかであるという。けさはゆったりと聴いたけれども、動物の鳴き声のようでもある。いつか見学した羊小屋にこもる温みもある。とつとつと語りかけて心を落ち着かせる癒し効果も感じられた。

 メンデルスゾーンの「無言歌」、ベートーベンの「チェロ・ソナタ 第2番」、ケックランの「ファゴット・ソナタ」、サン・サーンスの「ファゴット・ソナタ」、この解説に優美、情熱的とあったが、ここでファゴットのまた一味違った色調が。沢木良子のピアノがみずみずしく新鮮だった。

 

 🎧🎵名曲アルバムは、グリーグの「ソルヴィエグの歌」、天羽明恵のソプラノがじわりと心に。

⛳昨日の午後、礼拝を終えてから、教会の方々と蕨採りに八幡平へ。はなしをしながらある方から進言されたことは「音楽もいいけれど、詩を書いたら、あなたの詩はいいから」。私の詩をそう思っていてくれたのだ。ほんとうのところ詩を書き続けていた方がよかったのだと思われる近頃。けさも彼女のいったことが思い返された。凝りもせずに堂々巡り、遠回り、道草をこうも繰り返している。一本化の道は遠い。しかし土日を除くこの番組で多くの詩にであうことができたのは幸運だった。
クラシック倶楽部の後の「桃源紀行」四川省落山、100ねんがかりで彫った71m高さの石仏。牛のあばら骨をまるごと投げ入れ煮込む四川料理の豪快さ、20種類ものあれは漢方か、香辛料かとにかく中国は骨太でどでかいという感じなどを思い出しつつ13時26分更新。

 

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きょうのことば

  インマヌエル盛岡キリスト教会2020年5月31()のメッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は47年の間、岩手で主のご奉仕をしておられます。

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説教題 『聖霊の満たし』―ペンテコステ講壇― (國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 ガラテヤ人への手紙516~26

5:16私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。 5:17肉の望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。 5:18御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。 5:19肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、 5:20偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、 5:21ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。 5:22しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 5:23柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。 5:24キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。25私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。 5:26うぬぼれて互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりしないようにしましょう。

 

<説教>

 きょう(2020年5月31日)はペンテコステを記念する聖日です。聖霊が降され教会が誕生しました。ペンテコステの日は年によって移動しますが、ことしは31日のきょうが世界中のクリスチャンたちと共にペンテコステ聖日をお祝いする日であることを御前に覚えております。けさは「聖霊の満たし」という角度から、ペンテコステの恵みを確認したく願っております。

 前回、この聖霊は私たちに何をしてくださるのか、イエス様ご自身を私たちの心の内に拡大して下さるお方であることを確認いたしました。そしてこのお方が私たちといつもともにいてくださる。
 出エジプト記3314「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」
「わたしの臨在」まさに「神の御顔」、主ご自身が私たちといつも一緒にいてくださる。そのことをヤコブが気づきましたが、これがヤコブのベテルの経験で創世記28章15節を指摘させていただき、きょうのペンテコステに備えさせていただいたのでした。
 

 きょうはガラテヤ人への手紙第5章のところからです。御霊と肉の問題。それからそれぞれが結ぶ実の違い。そして、私たちはどのように行動したらいいのか、これはガラテヤ書の5章16節からにあります。
「御霊」と「肉」、私たちはこのどちらに従って歩む者であるのか。また、「肉」によって歩むとどのような実を結び、また「御霊」によって歩むとどのような実を結ぶのか。ガラテヤ書5章には、「私たちは御霊によって導かれるのなら、御霊によって歩もうではないか」とございます。

 聖霊という神様を私たちはどのように理解しているでしょうか。聖書の中でいう神様とは、父、御子、御霊の三位一体の神様です。父なる神様は比較的イメージしやすい。すべてのものをお造りになったお方です。そして父なる神に対して御子なるキリスト。私たちには一層イメージしやすい。ところが御霊、即ちご聖霊様という三位一体の中では第三位格でおられる聖霊、或いは御霊という神様については、わかっているようでなかなかわかりにくい面があります。しかし、この聖霊という神様はご人格を持っておられる。ヨハネの福音書16章8節に、
「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます」とあります。「その方」とはご聖霊様のことです。聖書ではご聖霊様には人称代名詞が使われている。本来の文法名詞でいうとこれは中性名詞なのだそうです。中性名詞なのですが、しかし敢えてその通常の文法を無視してまでも、人格名詞として、「その方」と表記されている。人格をお持ちのお方です。この聖霊というお方は、私たちとの関わりにおいて、喜びや悲しみを持たれる、そういう人格を持っているお方です。このことは信仰生活を営むにつれて、しだいに深められていくことを経験いたします。
 

ヨハネの福音書14章17節
この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。
 これは頭脳的にではなくして、ああほんとうにそうだと経験的に私たちは知っている。
この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです
 この聖霊に対する理解がクリスチャン生活の大きなカギになっていることを心に留めたく思います。 

 ここで、聖霊と私たちの関係を見てみましょう。

小中学校のイエス・キリストの誕生・・・『聖劇』 そして 『主の御使い ...

ヨハネ黙示録320
見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
 イエス様が十字架につけられ、お弟子さんがローマの人たちを恐れて閉じこもっていたときに、復活のイエス様が戸の外に立って戸をたたいておられるところです。戸をたたいてはおられますが、実は、イエス様は、入ろうと思えばいとも簡単に戸を通り抜けて中にはいることができるお方です。ですから、このお方は、私たちが主よどうぞお入りくださいと私たちが内側から扉を開けるのを待っておられます。 

 先行的恩寵といわれるものがあります。私たちがイエス様を受け入れる以前から、さまざまな人生の出会いやできごとを通して、それは生まれ落ちた環境かもしれない、出会った友達かもしれない、私たちが信仰を持つ以前から、イエス様は私たちに、ほらここに真理があるよと教えてくださる。たまたま家の近くに教会があるということも、これは先行的な恩寵です。私たちが気づく前に、折に触れて私たちは聞くことができる。イエス様が、開けてごらん、ここに真理があるよと教えてくださる。私たちはその声を聞くことができる。
「罪の中に死んでいる」ということばがあります。ほんとうに死んでいるなら声を聞くことはできないはずです。しかし、先行的恩寵のゆえに、死んでいた私たちも、さあ開けてごらんという声を聞く耳を持っている。内側からどうぞお入りくださいと応答する恵みはもっている。これが先行的恩寵といわれております。

 

 さて、聖霊と私たちとの関係ですが、
まず「新生経験」があります。新生経験は十字架を心に迎え入れ、罪の赦しをいただいた経験です。黙示録の320にあるように、「戸の外に立ってたたいている」主イエス様を心の中に迎え入れる。これが新生経験です。これはとても大きなことです。あとでお話しする聖潔(きよめ)を強調するのあまり、新生経験の大切さを決してないがしろに言ってはならない。これは罪の中に死んでいた者がいのちなるお方を心の中に受け入れるというとてつもない恵みに与った、まさに戸を開いて主イエス様を迎えた経験です。もし、これがなかったら、私たちはクリスチャンとはいえません。「人は、新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」とヨハネ3:3にあるとおりです。クリスチャンの第一歩です。新生経験は罪の赦しをいただいた経験である。ここで心したいことは、それから後のことです。クリスチャンとして信仰生活を送っておりますうちに、キリストが心の中に入って来られたときに、私たちの心の中に、キリストをはじきたい思い、或いは、心にいてもらいたくないというような罪の性質がまだあることに例外なしに直面し悩むようになる。罪は赦されたけれども、罪を犯す性質は依然として心の中にあり続ける。クリスチャン信仰生活というのはこの罪の性質と新しくイエス様から与えられた神のいのちによるところの御霊のいのちとのせめぎ合いであり、あるときには御霊が勝つけれども、あるときには罪の力が勝ってしまう。この葛藤の中にあるのがクリスチャン信仰であるとする立場もないではない。つまり、罪の性質というのはずっともうこの世にある限り持ち続けなければならない、別の表現をすると、いかにイエス様の十字架であったとしても、私たちの罪の性質をなくすることはできないという立場であるといっていいでしょう。しかし、ほんとうにそうなのか。真面目に生きようとすればするほど多くの葛藤がある。しかしここに聖書はいうのです。第二の転機がありますよと。

20200603-92625  

「第二の転機」。これは全き聖潔、聖霊の満たし、聖霊の全人格的支配ともいわれます。ガラテヤ人への手紙第220
5:24キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。
「十字架につけたのです」、これはどういうことでしょうか。自分が信仰を持ったばかりのときに読んだ本が思い出されます。その本の著者は、十字架につけられた、その通り。十字架についてずっと生き続けている。死ぬまで十字架につけられ続けて、そして、肉体が死んだときにはじめて天国にきよめられていくことができる。その時はそういう理解もあるのかと思いました。それを指導いただいている先生に尋くと、「その本のいっていることはまちがってる」と仰いました。罪をキリストとともに十字架につけたキリスト様と自分と一体の信仰に立つとき、神様は、私たちが生涯ずっと肉を十字架につけて苦しい苦しいと言い続けることをよしとされるのか、それは違う。十字架上で「こと終わりぬ」、きよめられなければならない罪もキリストとともに十字架ですでに贖ってくださった。第二の転機である聖潔も十字架上で成就されている。聖書はキリストとともに十字架につけられたり、といっている。つけられ続けたとはいっていない。十字架につけられたり、心の真ん中にイエス・キリストをお迎えするならば聖潔という第二の関門も解決される。この経験をしなければほんとうに恵まれたクリスチャン信仰生活を送ることはできない。心の王座にこのお方が崇められ、そして支配をしていただくとき、私たちは第二の転機といわれる聖潔といわれる経験を持つことができる。聖書はそれをいっています。

 これは色々な表現で纏められます。全き聖潔とも。つまり新生のとき罪は赦されたけれども、罪の性質はのこっている。けれども第二の転機をもったときに、全き聖潔、或いは、聖霊の満たしという経験を持つことができる。聖霊の全的支配です。

「第二の転機」のわかりやすい例話があります。
 たとえば私の家に部屋が幾つもあった。それぞれの部屋には鍵がある。イエス様がおいでくださった。イエス様、いまきれいにしますからちょっとお待ちください。実は断捨離もイエス様がしてくださいます。お委ねすればです。イエス様を迎え入れたときに、イエス様は私たちのできなかった掃除、整理も、ほら、わたしがやってあげるよとおっしゃる、そのイエス様に掃除をお委ねするのです。これは信仰の要ることです。勇気の要ることです。イエス様は仰る、さあきれいになりました、ところであなたの部屋はこれでぜんぶですか? あの部屋はどうですか? あなたは言うでしょうか、あの部屋はけっこうです。あそこは自分でやりますから。あそこ以外はぜんぶあなたのものですから。 
 あの部屋とは何でしょう。自分の希望、自分の願望、これだけは譲れないという何か。もしその部屋の鍵を委ねることができなければ、イエス様はあなたの心の王座におつきにはなられない。イエス様はそれでは満足なさらない。というよりも、あなたの全部をイエス様にあけ渡すことができていません。本当の意味でイエス様を心の中心にお迎えしていない。さあすべてを委ねてごらんと主にいわれたとき、そこに全き献身が欠けている。献身というと、神学校に行くとか宣教師になるとかを考えがちですが、そういうことをいっているのではなく、すべて心の中の鍵を部屋をイエス様にお渡しするということを献身といいます。すべてをあなたにお委ねしますといったときに、そう、ようやく信頼してくれたね、ありがとう、このときに与えられる心の平安、これはもう知識とかではない、心の経験なんです。ほんとうにイエス様を信頼して、こんなわたしですけれども、よろしくおねがいします。ここに聖霊の全人格支配があります。これが24節にある「信仰によって十字架につける」ことなのです。「イエス様のあの十字架は、この私の罪のきよめのためでもあります」との信仰告白が「われキリストとともに十字架につけられたり」ということなのです。


ガラテヤ220節をお開き下さい。
もはや私が生きているのではなくキリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。
 そうです。信仰によるのです。もはや私が生きているのではないといっているでしょう。誤解のないように、これは、いのちある自分がなくなってしまうというのではないのです。私自身は依然としてあるのです。しかし、私が生きているというのは、キリストが私の内にあって生きていてくださって旧い私はキリストとともに十字架につけられてしまったということです。
今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰による
 もはや私が生きているのではないということは、罪の性質これがキリストとともに十字架につけられた、これは信仰によることなのです。自分が一生懸命に頑張ってきれいにしようきれいにしようとする自分の頑張りには良い意味で死んで諦めて、自分で自分をきよめることはできませんから、主よ、こんなみすぼらしい私をあなたにお委ねしますのでお願いいたします、きよめてくださいと御前に進み出ることです。

ガラテヤ5:24に戻りましょう。
5:24キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけた
 つけてもまだ生きてますとは書いていません。すでに十字架につけたのです。それを信仰というのです。
16節
5:16私は言います。御霊によって歩みなさい。
18節5:18御霊によって導かれましょう
25節御霊によって生きよう
25節御霊によって進もう
 私たちがきよめの信仰に立って生きるというとき、御霊によって歩み、御霊に導かれ、御霊に生き、そして御霊によって進もうではありませんか。

さて、あなたは今聖霊に満たされていますか? 
イエスですかノーですか。真剣にその問いに対峙してください。

 蔦田先生の聖潔についての集会があったときのことです。ある方が、「わたしはまだきよめの恵みはよくわかりません」と率直にいいましたところ、蔦田先生は「それは非常に恥ずかしいことだ。私はまだ心の中に神に逆らう蝮の毒を持っていると言ってるのと同じことだ」とおっしゃいました。

 ほんとうの謙遜とは何か。キリストの十字架の恵みは私に十分です、ありがとうございますといって聖潔の信仰に立つことこそ、ほんとうの謙遜なクリスチャンの証しなのです。そして私たちはこのキリストを心の中に迎えたとき、信仰の成長とともにこのお方がしだいに大きくなってくる。はじめから大きくなくていい。問題は心の中心にイエス様を置いて、この御霊様とともに歩み光の中を歩みそしていつでも失敗したのならば砕かれやすい心をもって主の前にあるときに、キリストご自身が、この地上にある限り無限の成長を約束してくださいます。御霊によって歩む幸い、祝福、どうぞきょうのポイントを心の中にしっかりと捕えてきよめの恵みにともに歩ませていただきたく願うことです。

⏰これは國光勝美牧師の説教をICレコーダーから起こし筆記したものです。イラストは毎日曜数枚使われますが、ここではそのうちの一枚をお借りしています。牧師夫妻の写真はそのたびに撮ることはしておりません。これは筆者が任意で載せております。
けさの更新は6時3分。穏やかな緑のコントラスト、朝の日を浴びる樹木の輝く側と陰とのドラマ。瑞々しく美しい岩手・盛岡の朝です。

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雑感

 J-MEROを聴き終えて15分たっているが、意識が書くというギアにまだ入らない。すこし疲れ気味。もうきょうはとっくに始まっているよ、差し込む光が、さあさあ元気を出して!
 サラ・ヤングの頁を繰って、6月6日を開けると、1行目に「わたしの顔を尋ね求めて、あなたの深い願望をかなえなさい……わたしはあなたに、わたしの光を注ぎこむことにした。あなたがほかの人たちの光の標識となれるように……。……」読んで、今回書くのはやめておこうと考えてしまった。とてもとてもこの大変な役目はわたしには務まらない。しかし、もしかすれば務まる誰かほかの人に向けて言われているかもしれない。しかしけさ読んだ者のひとりはたしかに自分ではある。天はどんな人々をも実は光の標識にしたく願っておられるのだ。ちょっと見方を変え、ちょっとそのあり様を変えさえすれば、誰もが光の標識と。

ロアール川沿いの古城、ナントの勅令、信仰の自由が発せられた城も見えた前番組に続いて聴いたJ-MERO。モンキーマジック。「ゴールデン・ロード」が眩い。「見つけたんだ、この金色の道を行こう」「怒られたって近道しないで」「正直にただばか正直に」「清く正しく美しく」、いまこんな死語とも思われることばを連ね自然に歌いなせるのはもしかモンキーマジックだけ? むしろ新鮮に蘇ったことばたち。

無為に過ごす一日とならぬよう祈りつつ。⛳6時41分更新。

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20/6/5クラシック倶楽部を聴く  高橋礼恵&ビョルン・レーマン ピアノ連弾

ともにベルリン芸大で学んだ2人が結成するピアノ・デュオ、高橋礼恵&ビョルン・レーマン。クルタークのアレンジによる精緻極まりないバッハのコラールプレリュード、四手連弾で解きほぐされる不協和音と変拍子/「春の祭典(ストラヴィンスキー)」など、鮮烈で華麗なピアノ・デュオの世界をおおくりする。―番組紹介からー

 

🎵高橋礼恵&ビョルン・レーマン、このお二方は実生活のうえでもご夫婦。2009年のデュオ結成。ピアノ連弾にもすばらしい編曲版がたくさんあることを知り始めたとか。打鍵のタイミング、呼吸を揃えるのがたいへんらしい。高橋礼恵は和音の両手のバランス、左手右手4本のバランスをとるのが難しいと仰っていた。レーマンは、共に同じ響きを見つけなければならない、ペダル操作ももう一人が弾いているのを聴いて考えなくてはならない。合わせることが強く求められると。

 管弦楽曲をピアノ曲にした場合、どうしても物足りなさを感じてしまわないかと戸惑っていると、なるほどと頷ける解説がはいった。レーマンがいっているらしい「もともとの管弦楽曲が油絵なら、ピアノ編曲版は素描である」と。この一言で聴こうという積極的な気分が引き出され、最後にはこの連弾を収録した理由がのみ込めた。バッハの「神の時」、「汚れない神の小羊よ」の編曲はクルターグ。ハンガリーの作曲家で、やはり妻と連弾を楽しんでいたようだ。クルターグに関する興味深い心温まるページはこちら

ストラヴィンスキー「春の祭典」第一部、1大地礼賛、2春のきざし 乙女たちの踊り、3誘拐、4春の踊り、5敵の都の人々の戯れ、6賢人の行列、7賢人、8大地の踊り。第2部、1序奏、2乙女たちの神秘なつどい、3生贄の賛美、4祖先の呼びだし、5祖先の儀式、6生贄の踊り。

7の賢人がはてどんなだったかと耳を澄ますと、沈思黙考かと思いきや、何と、音がたったの数音。えっと思うまもなく次の8に。素朴、直截なアニミズム的な表象が展開されていく。素描を念頭に置いてみたところ、おどろおどろしさも含めて始原的な世界を遠望するような味わいもあった。高橋礼恵&ビョルン・レーマン各氏の手が交差したり、レーマン氏の指が黒鍵を震わせるとき、その両側に或いは黒鍵の直ぐ前の白鍵に波立つように動く20指を眺めながら、この連弾の価値を知らされた。アンコールはブラームスの「ハンガリ舞曲第4番」、やさしさに思わず落涙しかけて。

 

🎧🎵名曲アルバム。ビゼー「歌劇カルメン 闘牛士の歌」。(トランペット)古田俊博,(管弦楽)東京フィルハーモニー交響楽団,(指揮)渡邊一正 ~スペイン・セビリアで収録~
映像、アンダルシア地方の広大なひまわり畑が見事。きっかと眸を開き咲き誇るヒマワリが見事。映像のみの感想。

⛳7時2分更新

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2064クラシック倶楽部を聴く  

1877年フランス製のエラール・ピアノで聴くドビュッシーとラヴェル。ジョス・ファン・インマゼールと伊藤綾子の連弾で、作曲家と同じ時代を過ごした楽器の柔らかな音色をお送りする。ー番組紹介よりー

 

🎵ここでの興味はエラール社製ピアノ。エラール製ピアノがたまに登場したことはあるが、詳しく調べたことはなかった。この解説ページがある。筆者は何と番組登場の伊藤綾子氏。ハイドン、ベートーヴェン、リスト、ショパン、メンデルスゾーン、ヴェルディ、ワーグナー、シャブリエ、フォーレ、ラヴェルといった歴代の音楽家がこのピアノで作曲、或いは所有していたようだ。インマゼールと伊藤綾子の各氏はこの元々の演奏を再現すべく企てた連弾。いまコンサートホールではスタインウェイがふつう。エラール製は現代ピアノのような交差弦ではなく、弦が交わらないことにより、各音域がそれぞれの音色をクリアに保持できるのだという。このコンサートで使用された1877年製エラールはいま石橋財団ブリジストン美術館が所蔵。この楽器で演奏することで、さらに作曲者たちの意匠に近づけると伊藤氏。インマゼールは伊藤氏の師。以前聴いたときにはインマゼール氏の側から書いた気がする。
 サティーの「梨の形をした3つの小品」。1、始め方2、同じものの延長3、小品Ⅰ、4小品Ⅱ、5小品Ⅲ、6おまけに、7言い直し。サティにはよく特異な題名や指示に意表を衝かれ、その語彙の印象から曲想を思い巡らすことが多かったが、今回聴きながら、気まぐれ、投げやりと聞えた部分も。これは巧んでいるのか、サティの個性の表出なのか。そんな感じもあるなと。題名には引きずられずに聴きとおした。ドビュッシーの「夜想曲から<><祭り>」元々はオーケストラ曲であると。<祭り>を聴いている最中に、茨城県震度4の地震を知る。心中揺さぶられながらのドビュッシー。次はラヴェルの「ボレロ」。アンコールはブラームスの「ハンガリー舞曲第5番」

 

🎧🎵名曲アルバムはベートーヴェンの「運命」ウィーンの森、ハイリゲンシュタットが格別に胸に迫る。アン・デア・ウイーン劇場で1808に本人指揮で初演。けさは現田茂夫の指揮で東京フィル。

⛳時間的にすこしゆったりとしたところで、10時9分の更新。

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20/6/3クラシック倶楽部を聴く  ニコライ・ルガンスキー ピアノ・リサイタル

「ロシア・ピアニズム」の正統派として高く評価されているピアニスト、ニコライ・ルガンスキーのリサイタルから、ラフマニノフの前奏曲をお送りする。「ラフマニノフのプレリュードには多種多様なコントラストがあり、どの曲もそれぞれ小さなポエムを持っています」と語るルガンスキー。濃密なロマンをたたえた数々の小品を説得力あふれる解釈で解きほぐし、聴衆を魅了した。2018年2月、東京・紀尾井ホールでの公演から。ー番組紹介からー(後日の加筆)

 

🎵ニコライ・ルガンスキー、2019年8月20日の放送分を書いた頁をつないでおいた。今朝見て、共通して感じたところは、弾き終えたルガンスキーの表情。ラフマニノフ世界を展開し終えた満足感が。聴くたびに新たなイメージが湧く。ラフマニノフにはロシアぜんたいを包みこむような音のやわらかさ、この語彙を誤解されてもと他の語彙を探したが、この際煩わしい憶測は措くことに、このやわらかな空気感にも似た流れ、錆びついたところにも、はっきりと心にもといってしまおうか、がさついた間隙にも、一切の無遠慮さを消して優しい波のように押し寄せる。
コメントがない方との記憶があるが、制作側で録らなかったのかどうかは分からない。寡黙であっても演奏が実に雄弁であることがしばしば。「前奏曲 作品23 & 作品32」からの抜粋、アンコールは「前奏曲 嬰ハ短調 作品3 第2」。また分かる領域を広げていただいたような。人生の半ば以上を演奏に費やした方でさえも、「新たな発見」があると仰るが、聴くたびに、ああ、こういうところもあったのかと気づくところは、自分はまだまだほんとうのところをほとんどわかってはいないのだと思わざるを得ない。それでもこのように聴く機会があり聴くことのできる有難さは!

 

🎧🎵名曲アルバム、メンデルスゾーンの「夏の夜の夢」菱沼尚子・編曲。シェークスピア、1564生まれ。日本なら戦国時代、川中島の戦と出てきたけれども、このころ、もう向こうではこんな創造性に富んだ舞台を楽しんでいたのだ。

 

⛳6時58分更新
ルガンスキー、コメントがないと思ったのは見落としであったか、何れぼんやり聴き落したか。これも後日の加筆。

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20/6/2クラシック倶楽部を聴く  アリス・紗良・オット ピアノ・リサイタル

活躍めざましいピアニストが「ナイトフォール(逢魔時/おうまがとき)」をテーマに選んだフランス音楽アリス・紗良・オット「夜のガスパール」(ラヴェル作曲)他 若い頃から世界的な活躍を続けるピアニストが、さらなる飛躍を目指して「ナイトフォール(逢魔時/おうまがとき)」をテーマに選んだフランス音楽の数々アリス・紗良・オット夢(ドビュッシー作曲)グノシエンヌ第1番、ジムノペディ第1番、グノシエンヌ第3番(サティー作曲)「夜のガスパール」(ラヴェル作曲)ほか2018年9月27日 東京オペラシティコンサートホールー番組紹介よりー

🎵まえに聴いたときには、アリス・紗良・オットの世界「逢魔時」を象徴するかのような青いライトの巧みさ、ナイトフォールに溶けこむかの紗良の美しさに惹きつけられ食い入るかに見入ったけれども、今回はむしろ視覚的な部分を伏せて、というよりは早朝の雷に起こされたことで5時を回るころにはまた眠くなり、それでほとんど目を閉じて聴いていたのだけれども。紗良のいう光と闇がぶつかり合う白黒つけがたい、これはいわば葛藤というものでもあるかと。自分の中にある二面性をさぐってもらいたいという紗良。華々しい世界的な活躍をひた走ってきた紗良がたどり着いた今、この収録は2018年だが、彼女が今現在ある胸中がこの世界であるのかと。

ラヴェルの「夜のガスパール」、底に静まっていた沈殿物が、水の面を過るさまざまな生物、動物、物体、などというと曲想からいえば物々しくなってしまうが、いずれ人のさまざまな感情を含んだことばなどで立つさざ波によって、浮遊、これはふだんの自分のありようから思わぬ方向、事態に自分の意思とは時として無関係に引っ張られてしまうような物理的な引力とはまた違った牽引力なのだろうけれども、引かれ浮遊し、自らの存在に安定感を失っている、そんなあり様を想像してしまった。魂の落ち着きどころがなく羅針盤を失った航海でもしているような感じがした。これがあたっているかどうか、けさはそちこちをググることは止めるけれども、いま第3曲の「スカルボ」を聴きなおしながらこれを書いている。アンコール曲はラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」。

 

🎧🎵名曲アルバム、ウェーバーの「狩人の合唱」。すっかり眠気が飛んで元気で爽やかな気分に。それにしても、楽譜が歴代の作曲家によって何度も加筆されているらしい。J-MEROあたりで、「ブラッシュアップされた曲の方がヒットする」と聴いた気がするが、もしかウェーバーのこの曲も。
久方ぶりにドレスデンにある管の楽器工房が紹介されていた。あちらのマイスターの権限はいまも健在、絶大。

⛳6時52分更新
それにしてもあのものすごい雷鳴は! どんな夏が来るのやら。

 

 

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2061クラシック倶楽部を聴く  トン・コープマン オルガン・リサイタル

クラシック倶楽部の後番組、「桃源紀行 海口」中国のいまが続いている。背中に聞きながら、自分でこれだけの中国を知ろうとすれば大変、見ておいたほうがいいかもと思いつつ。62分にあった茨城県震源とする地震、震度4やら何やらを気にしながら633分のいまからトン・コープマン、これが3回目かの視聴なのだが、前に聴いたときよりもまた一つ曲に分け入ることができた点を書き足しておこうかと。ミューザ川崎2018713日の収録分。

 

「フーガ ト短調 BWV578」バッハ:作曲
「前奏曲 二長調 BuxWV139」ブクステフーデ:作曲
「わが愛する神に BuxWV179」ブクステフーデ:作曲
「フーガ ハ長調 BuxWV174」ブクステフーデ:作曲
「前奏曲 変ホ長調 BWV552」バッハ:作曲
「「オルガン小曲集」からおお人よ 汝の罪の大いなるを嘆け”BWV622」バッハ:作曲
「「クラヴィーア練習曲集第3部」から永遠の父なる神よ”BWV669」バッハ:作曲
「「クラヴィーア練習曲集第3部」から世の人すべての慰めなるキリスト” BWV670」バッハ:作曲
「「クラヴィーア練習曲集第3部」から聖霊なる神よ”BWV671」バッハ:作曲
「フーガ 変ホ長調 BWV552」バッハ:作曲
「アンコール 「オルガン小曲集」から主イエス・キリスト われ汝を呼ぶ” BWV639」バッハ:作曲
「アンコール ソナタ ト長調」スカルラッティ:作曲
「アンコール 「ヴォランタリー」から」スタンリー:作曲

 

🎵ブクステフーデの研究者でもあるコープマン。軽々とパイプオルガンに着席。この軽々が今回見ていて、ブクステフーデ、最初の曲はバッハだったが、彼の中ではブクステフーデ感覚が運動系に伝わっていたように思う。事実バッハの「フーガ ト短調 BWV578」はまるでブクステフーデが舞い降りたかと思うほど。もう光あふれる宙、神の恩寵の只中に、あらゆるものが喜びに活き活きと戯れあそび飛び交う感じなのだ。コープマンの神の光、恩寵への向日性だ。続く3曲のブクステフーデ。コープマン解説による自由な音楽性、自由な鍵盤奏法ともいっていたが、バッハにある重厚さ、荘重さ、厳かさとはまた微妙にというより明らかに一味違う自由。ブクステフーデにもバッハに似たそれもあるはあるのだけれども作曲、培養土壌の違いといったらいいのか、ブクステフーデの曲のはじめにはたしか舞曲が出てくるとコープマンがいっていたが、ブクステフーデのうちに作曲以前にしっかりと入っている民族的なリズムがそう感じさせるのではないかと思った。彼に劇場は必要なく、教会が彼の劇場であったよう。
 バッハについてはもっとよく聴き、確かめてみる必要を感じる。たとえば、父、子、聖霊と書き分けられてといっても、とはいえ、その個々の書きわけの重なりで楽曲を成しているのだけれども、その父なる神は2拍子で表されているといったようなことなど。

 

🎧名曲アルバム、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」。指揮は飯森泰次郎。この字がまちがっていないかどうか。何れ一つ一つ精査、間違いを検出してくださっている方もいらっしゃるかもしれない。

 

⛳急げや急げで72分更新

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