きょうのことば
きょうはインマヌエル盛岡キリスト教会2020年5月17(日)のメッセージをおつたえいたします。
國光勝美牧師、國光ひろ子牧師の岩手での主のご奉仕は47年目となっております。
説教題 『成長するキリストの体』 (國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 エペソ人への手紙 第4章7~16節
4:7しかし、私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました。 4:8そのため、こう言われています。
「彼はいと高き所に上ったとき、
捕虜を連れて行き、
人々に贈物を与えられた。」
4:9「上った」ということは、彼が低い所、つまり地上に降られたということでなくて何でしょうか。 4:10この降られた方ご自身は、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方でもあります。―― 4:11こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、あるたちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。 4:12それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。 4:13私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。 4:14こうして私たちはもはや、子どもではなく、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、 4:15むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。 4:16キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。
<説教>
けさは11節にもういちど心を向けてみましょう。
4:11こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、あるたちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。
読みますうちに「キリストご自身がお立てになりました」に光がさしました。そうです。賜物はキリストご自身がそれぞれに賜るのです。それは賜った人によって価値が違うことをふと思いました。
「恩賜」ということばがあります。天皇陛下からいただいたものを恩賜というのだそうです。昔帝国大学を首席で卒業した人たちには恩賜の銀時計が贈られたそうです。ネットにも出ています。銀時計は商品として買うことはできる。しかし同じ銀時計でも出どころが違う。また私が大学生だったころ、叔父が警視庁に勤めており、いただいた恩賜のたばこを見せてくれました。缶入りのピースでした。「これが恩賜のたばこだよ。三笠宮殿下の警護に当たった者たちに出たものだよ」。叔父さんはけっこう嬉しそうに話してくれましたが、その「恩賜」ということばが記憶にのこっております。キリストご自身が与えてくださった賜物、いわば私たちの賜物はキリストからの恩賜の賜物であります。天皇からいただいたたばこや銀時計とは違いますが、キリスト様からの恩賜という特別なものである。してみるとタラントがいくらであるとか、そんなものではない。それぞれに応じて神様はすばらしいものを与えていてくださる。私たちは神様の恩賜であるタラントを受けているのです。12節をみると、
4:12それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。
その恩賜をこのように生かさせていただきたい。具体的にキリストの体である教会を建て上げるにはどんな働きがあるのか。身近なところでは受付、司会、奏楽、祈り、献金、生け花、掃除、会堂の整備などなど。これなら自分でもできる、いえ、させていただきたいという表現がいいのでしょうか。できるからやるということではなく、キリストの体である教会が建て上げられるその一部としてさせていただくことです。
奉仕といえば思い出しますが。インマヌエル綜合伝道団では年会があります。年に一度、全国の120以上の教会が一堂に集まる。ひと頃までは九段会館でした。いまは青山学院の講堂です。私たちも上京し雪谷に泊まって雪谷の人たちと一緒に青山学院の講堂の合同礼拝に行くというパタンーでした。ゆとりをもって出かけ歩いているときに携帯が鳴りました。Y先生でした。「國光先生、すぐ来てください」と。礼拝が始まるまでにはまだまだ時間があります。「プログラムの連絡を忘れてましたので」。とにかく走って行きました。お祈りの係の連絡でした。ご奉仕がある、これはしっかりとさせていただかなければ。走りに走りました。私たち一つ一つ、与えられている恩賜である奉仕を、させていただくという意識をもって為す、これがキリストの体を建て上げるということなのです。
そして15節
4:15むしろ、愛をもって真理を語り/愛のうちに建てられることになります
「愛のうちに」には大きな意味があります。タラントの違いを認めてそれを祈りながら感謝と愛によって精一杯加わらせていただく。こうしてお互い励まさせていただきたいと願うことです。
この時に大切な事は、「きよめ」です。これこそクリスチャンとして大切な一点であり、これをしっかりと捕えることがキリストの体を建て上げられるそのポイントなのです。救われたクリスチャンになった、罪赦され新生し、新しい神のいのちを与えられているということは、それは実に大きなことです。しかし、そのままでは生まれながらの罪の性質、人を羨んだり妬んだりというような、そんな思い、或いはそれが自分に向けられると自己卑下になってしまったりする。或いは他の人を見る時になぜかその人の特徴や性格的なことが気になる。だいたい自分のいちばん近しい似たような性格を持っている人を気にする。これは経験的にそうなんですが。いったい私たちはいろんな人たちとつき合うこの世の中に生きているのですが、もし気になる人がいると思ったらそれは自分自身の投影をそこに見るからなのです。自分に似ていなければ気にならないのです。しかし、自分とよく似た人が俗にいえば鼻につく。意識してしまう。そういったことも人間の罪の性質としてある。それが自分自身に向かうと自己卑下になり、そしてそれを他の人に見たときにはその人を裁いてしまう。
これは「きよめ」によって解決されなければなりません。自分の弱さを認め、「そうだ、神様、あなたがいらっしゃらなければ私はほんとうに人を非難したり傷つけたりしてしまう、とてもあの人のようになれない、どうしてあの人を、などと言ってしまうような者です。でも、主よ、こんな私にあなたは恩賜の賜物までくださっています」と悔い改め切り変えてゆくときに、「わが惠汝に足れり」とキリストご自身が心の中に満ちてくださいます。自分はあなた無しには何もできない者ですという意味の謙遜、そして他の人に対するときにも、その人をほんとうに尊敬する、これはきよめられることでなし得ます。これは決してきれいごとを言っているのではなく、自分自身の虚しさを健全に知らされるときに、そこにああイエス様、あなたで十分です。そして他の人にもそのイエス様を見る。
イエス様のお弟子さんたちの中にもありました。ペテロがいちばん鼻についたのはヨハネでした。福音書をみるときに、ペテロがいちばん鼻に着いたのはヨハネです。いつでも自分がいちばんだと自負しているペテロ。イエスさまにそのように扱われているし、そうに違いないにもかかわらずです。復活のイエス様にお会いしたときにペテロが真っ先に「先生、彼はこれからどのような人生を送るんですか」と訊いたのはヨハネのことなんです。私たちはいちばん近しい主にある兄弟姉妹方をペテロと同じようなそういう弱さをもって見てしまう。そのときに遜って、キリスト無しには何事もならないと悔い改めそれをとおして「きよめ」をいただくことです。そこで互いを自分より優れたものと尊敬しあうことができます。これはきよめを経験していなかったなら、ただに絵に描いただけということになりかねません。これらのことを通して、13節にある「一人の成熟した大人になる」というのはこういうことなのです。こういうところを通っていかないと、建て上げまでいかない。そこに他の人に対するところの赦しがありますし、そして、他の人たちをしっかりと受け入れる。こうして私たちは整えられ、キリストの体を建て上げていくことができる。
13節「神の御子に対する信仰と知識において一つとなる。一人の成熟した大人となる。キリストの満ち満ちた身丈にまで達する。」
ここに向かうべく私たちは恩賜の賜物を受けているのです。どうか、私にはこれっぽっちのものなどというような一タラントのしもべの愚かさではなく、それを感謝し、そして用い、キリストの体を建て上げることに用いさせていただきたい。
一つ加えさせていただきます。
14節をご覧ください。
4:14こうして私たちはもはや、子どもではなく、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、
これは注意すべきことなのですが、誤った聖書解釈に基づくさまざまな教えが出ております。このネットを必要とする状況に入り込んで、福音のように見せかけた危険な働きをしている団体があります。13節にある「神の御子に対する信仰と知識において一つとなり」、「4:15むしろ、愛をもって真理を語り」、このことを全うしようとする中に混じって、間違った教えで人々を惑わすことがあるので気をつけなければなりません。
そういった方々の前にあって、自分たちが正しいという思いがあるとつい物言いが高飛車になることがあります。異端の人であっても最初から異端になろうと思っていたわけではない。けれども明らかに違っているというときに、「愛をもって真理を語る」のは大切です。明らかに違っているというときに、愛を持って真理を語るのは大切なことであると思います。気をつけたいのは愛をもって語るということです。
そして16節
4:16キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。
「組み合わされ」が、ここでは、物理的に釘打ちをするというのではなく、細工物のようにきちっと組み合わされる意味の「組み合わされ」が使われています。このようにしてキリストの愛のうちに建てられる、このようなお互い、教会であらせていただきたいと願っております。
※これは説教の全部ではありません。割愛した部分もございます。イラストは教会で当日使用されたもののうち一枚をお借りしました。
説教はICレコーダーに録った主牧のメッセージを筆者が起こし文章化しています。写真は筆者が任意で載せております。
⏰5時39分更新
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