きょうのことば
きょうはインマヌエル盛岡キリスト教会2020年4月26日(日)のメッセージをおつたえいたします。
國光勝美牧師、國光ひろ子牧師の岩手での主のご奉仕は47年目となっております。
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説教題 『御霊による一致』 (國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 エペソ人への手紙 第4章1~6節
4:1さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなた方は、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。 4:2謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、 4:3平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。 4:4からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。 4:5主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。 4:6すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神はただひとりです。
<説教>
ことしはエペソ人への手紙をベースとしていることを思い起こしていただきましょう。新約聖書には、パウロが教会宛に書いた手紙があります。その中でエペソ中の、エペソ人への手紙を学んでおります。パウロはローマの獄中で書きました。ローマ、エペソは地図にあるとおりです。
エペソ人への手紙は大きく前半と後半とに分かれます。前半は1、2、3章、そしてきょう4章に入りました。後半は4、5、6章です。内容もここで線を引きたい。後半の5章と6章のあいだに、明確な線が引かれるのではなく、むしろ6章は10節ぐらいまで5章の連続だというように見ていいでしょう。何れ、エペソ書を大きくとらえるなら、4、5、6章と後半が分かれることを覚えましょう。
ある素晴らしい信仰の器が、エペソ書を次のように語っております。
「坐す」、これはどういうことなのでしょう。いったいクリスチャンである私たちは、どういう立場の者であり、何者なのか。坐して、いったい私たちはどういうところから救われた者であるのかを思い返し、救われた感謝をよく咀嚼する。これが坐すということばの意味であります。3章21節に「21教会においてまたキリスト・イエスにあって、栄光が世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。」とあります。坐して、私たちは神の救いに与っているすばらしい存在である。ならば、この世における私たちはどういう生き方をするのか、その実践的な部分が4、5章にあります。
パウロは「4:1さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなた方は、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。」といいます。神の恵みを実践しましょう。悪魔の策略に対しては神の武具をもって立ち上がりなさい、立ちなさいとパウロはいっております。
そして、この4章1節の冒頭にある「さて」ということばに注目をしたい。どういう意味なのか。この「さて」、ちょっと視点を変えてといった用い方が訳として悪いわけではない。しかしこれを「だから」という因果関係を強調する接続に置き換えてもいい、そのようにも訳せることばだと指摘している人たちもいます。そう捕えるならば次のように順次いうことができます。
1節「召されたその召しにふさわしく歩みなさい」
2節「謙遜と柔和の限りを尽くし」
2節「寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び」
3節「平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい」
さて、2節「謙遜と柔和の限りを尽くし」、これは強い表現ですね。「限りを尽くす」。イエス様だったらどうなさったのか。いつもそこに心が定まる。よく方位を定める磁石、コンパスがあります。揺れを静止させますとちゃんと北と南がぴたりと定まる。謙遜の限りを尽くすって、じゃいったいどの程度なんですか。私たち、謙遜の限りを尽くしているでしょうか。愛と寛容と忍耐を持っているでしょうか。イエス様は罪を犯されませんでしたが犯罪者のように十字架に架けられました。ふつうならこの不条理に怒り全身で無罪を訴えるところです。しかしイザヤ書53章には、このときのイエス様はどうであったかが預言されております。
7 彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
いちばん大きな十字架のできごとを、あたかもその場にいたかのようにイザヤはイエス様を預言しています。
ここまで耐え忍ばれたイエス様のように私たちは互いに耐え忍んでいるでしょうか。エペソ書に「坐して」とありますが、罪の滅びの中にあり神の怒りの内にあった私たちが、キリストの十字架によって救われたのです。今はキリストにあって神のいのちを持っている。ハレルヤ! 神様に感謝しましょう。
今週もまたいろいろな人と関わりを持つでしょう。そのとき、このお方の謙遜と柔和と に倣ってしっかりと歩んでいきたい、心からそう思います。
「耐え忍び」。忍耐を持ちましょうという意味です。ただこれを自分の人間的な力で耐えようとすると、冷や汗となり、堪え切れなくなってしまう。これでは疲れ果ててしまうでしょう。神様が聖書が私たちに「4:2謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、 4:3平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい」と命じています。その力がない者にこうのように命じるのは暴君です。しかし、神様が必ずそれを可能にしてくださる。神様の保証があるからこそ命じておられる。どうすれば? それはイエス様に担っていただくことです。祈り委ねることです。「互いに忍びあう」ということも、ひとは個性、考え方、方法論もみな違います。そこでイエス様に担っていただく。「自分はダメ、できない」を「自分はダメ、だけどイエス様にはできる」と切り替えてください。必死に頑張り脂汗をかかなくとも、イエス様がしてくださる。
私にはなにもない。しかし、実体であるイエス様というお方、あのお方が、議論的なことでもない哲学上のことでもなく、不当な十字架を耐え忍んでなお愛を示された、すべてを成し遂げた子羊なるお方、そのお方がおられます。イエス様を1という実質とし、自らは0であるところからの出発は、自らは0というその虚しさを知りイエス様を知れば、自分が10になり、さらに自らの虚しさを知れば100にも。そして更に知るごとに千にも1万にもなる。これが信仰です。自分が何かできる、自分は何者かであるではなく、イエス様に信頼を置いて、ほんとうに「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容と愛をもって互いに忍びあい」、このように生きることです。
そして「4:3平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。」
この「熱心に保ちなさい」。最初の方は「力を尽くして」というような表現がありました。これは放っておいたのならば、すぐに壊れてしまう。だから熱心に保ちなさい。全力を尽くしてこれらの事に立ち向かいなさい。
3節の「平和の絆」ですが、これは、神様との平和がきちっとできているかどうか。神様との関係、人との関係。もし誰かを赦すことが出来ないとすれば、それは人との平和が保たれていないということです。あの人だけは赦せないといったしこりがあるなら、それはほんとうの平和ではないですね。それからもう一つは自分自身との平和と言ったらいいでしょう。
ここで謙遜と自己卑下を区別しておきましょう。クリスチャンは自分は空しい者できない者と思い込むあまりに、自己卑下に陥ってしまうことがあります。これは似ているようで謙遜とは全く違う。自分のようなものは何をしてもダメなんだ、そんな自己卑下に陥らせるのは悪魔です。クリスチャンは常に悪魔に対峙している。ですから気を付けましょう。そんなとき、しかしこんなものを神様は極みまで愛して下さっているという、自分自身がキリストにある尊さを再確認しましょう。これを知るときに自分との平和が確立します。
神との平和、人との平和、自分との平和。「4:3平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい」。
“Make every effort to keep the unity of the Spirit”
※画像は教会からお借りしています。
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