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2020年5月

きょうのことば

  インマヌエル盛岡キリスト教会2020年5月2()のメッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は47年の間、岩手で主のご奉仕をしておられます。

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説教題 『その方が来ると』―ペンテコステ準備講壇― (國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 ヨハネによる福音書167~11

16:7しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。 16:8その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。 16:9罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。 16:10義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。 16:11さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。

 

<説教>

  けさはペンテコステ準備講壇ということで、いつもとは角度を変えて想いを致したく願っております。
  ヨハネの福音書1416節をお開き下さい。きょうの聖書個所とずいぶん違うと思われるかもしれませんが、これは一連の一つのお話しでありまして、まったく同じようにイエス様がご聖霊様についてお語りになったところでございます。

ヨハネ1416そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。

 168節には「その方が来ると」とございます。「その方が来る」、つまり別のところにおられたお方が、遣わされてこのところにおいでくださる。ですから、いなかったものが突然に存在を開始したということではなく、そのお方はもともと父なる神、子なるキリスト、聖霊という三位一体の神としてもともとおられたお方なのです。ちょうどイエス様がクリスマスのときに受肉してこの世に来られたように、このお方も来られる。勿論、聖霊様は、それまでに何回かこの地上に来られているのですが、あのペンテコステのときのような格別な画期的な意味で来られるというのはまた別の意味をもっておりました。それは何かというと、イエス様が十字架の贖いを完全に成し遂げて、葬られて、復活をされて、そしてそのあとイエス様は父なる神様の御もとに無事に成し遂げましたといって、お帰りになられた、その無事に帰られた証しとして、父なる神様が、それではあなたは今、先ほどまで地上にあって肉体をもって弟子たちと共にいたわけだけれども、これからは、もうひとりの助け主を遣わすとおいでくださったのがご聖霊様で、「もうひとりの助け主が来た」、こういう表現になっているわけです。ヨハネ1416を、みなさんで読んでみましょう。

ヨハネ1416そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。

 「ともにいてくださる」、「助け主」であるご聖霊様です。

  こんどは
ヨハネ1417この方は、真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。

 ご聖霊様は、私たちの内に住んでくださるお方。敢えていえば、イエス様が地上に肉体としておいでくださるときには、確かに眼に見えて近くにおられたけれども、しかし、ご聖霊様は、信じる私たちの心の内にいてくださる。このお方は、イエス様と同じではないけれども、イエス様との内住をさせてくださる。微妙な言い方ですが、イエス様と同じではないけれども、しかし、もうひとりのイエス様ご自身といって一向に差支えが無い、このお方が私たちの内に住んでくださる。

  こんどは、
ヨハネ1426しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 ご聖霊様は、イエス様のみことばを、ああ、そうだった、とはっきりと思い起こさせてくださるお方です。

そして
ヨハネ1526わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。

  ご聖霊様は、イエス様が確かに贖いを成し遂げ、よみがえられていまも私の内にいきておられることを分からせてくださる。

コロサイ127この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。

 と、このことをそのように私たちに納得させ証しをさせてくださるお方が聖霊ご自身なのです。

ヨハネ168その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。

「聖霊に感じなければ、誰もイエスを主という事能わず」とおことばにありますが、ご聖霊様の働きによって、ああ、私は何という罪びとだろうか、こんな者が、こんな私が罪赦されたのだ。ほんとうに罪というものを私たちに教え、そしてその罪からの救い、すばらしさに気づかせてくださった。こういうことをしてくださるお方が聖霊ご自身なのです。

 そして
ヨハネ1613しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。

 私たちを真理に導くお方について、その他にもいくつか、このお方について聖書は示しておりますが、きょうのお話し、メッセージに関わるところとしては、以上の数か所をピックアップさせていただきました。

 そして、もうひとりの助け主といいましたが、この「助け主」のギリシャ語の持つ意味は「弁護士」だそうです。弁護士。しばしば賛美歌で、内にいます慰め主たたえん、と歌いますが、この「慰め主」ということばも、厳密にいうと、弁護士の弁護のゆえに、こんな者が罪赦された、神に受け入れられたということであります。徹底的に私の側に立って極みまで、私の側に立って弁護して下さるお方。これが「助け主」の持っている意味です。世の中には辣腕弁護士といわれる方々がいます。どんな不利な状況でも無罪を勝ち取ってくれる。私たちクリスチャンにも比類のない辣腕弁護士がついている。それが「助け主」です。「弁護者はギリシャ語では「パラクレイトス」、即ち「呼ばれて傍らにいる者」であります。このご聖霊様は、私たちの心の中に大きく大きく深く深くこのお方を拡大してくださるお方であり、もうひとりのイエス様と言ってすこしも差し支えない。このお方は、あのイエス様のすばらしさを贖いの恵みを私たちの心の中に最大限に拡大してくださるお方。ですので、このご聖霊様の働きによって私たちは初めて救いの喜び、慰め、励ましを心の中に深く知ることができるのです。

イザヤ46:3、4をご覧ください。
6:3
ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。46:4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。
 
この場合、「わたし」というのは父なる神様でありますけれども。これを聖霊によって新約時代の私たちが読むときに、ここにイエス様と私たちとの関係を味わうことができます。恵みをいただけるのは素晴らしい特権です。イエス様がこのように私をしてくださった。わたしは背負う。わたしはそうしてきた。そうか、イエス様に背負われていま居るのだ。背負って救い出す。ここにイエス様の恵みが、ご聖霊様の慰めがあります。慰め主といわれる意味がわかります。

これと同じようなことばが、イザヤ63:9です。
639 彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の臨在の御使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった。

 ここにイエス様と私たちの関係があります。これはあなたの神の言葉なのだよと示し、そして、これによって力と慰め励ましを与えてくださる。それが聖霊なる神、内にいますキリスト、栄光の望みなのです。「いつも主も苦しみ、主の臨在の御使いが彼らを救った」とありますが、この「主の臨在」の注釈を見ますと、「彼の顔」、即ち「神様の御顔」とあります。「主の臨在の御顔が彼らを救った」とこうなります。
 そして、
出エジプト33:14主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」
「わたしの臨在」の直訳は「わたしの顔」。神様の御顔が一緒にモーセとともに行く。そしてあなた方に平安を与えてくださる。「神様の臨在」、それは「神様の御顔」。神の御顔から来る救い。わたしの臨在があなたとともに行き、あなたを休ませる」。私たちの聖霊様は分からせてくださいます。神様の御顔がここにあるのだ。私はこのお方に背負われ、いまここのところを通っているけれども、神様の臨在は神様の御顔の光、イエス様のご臨在が私たちに力を与え、励ましを与え、慰めを与えてくださる。

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 もう一つ、
創世記28:15見よ。わたしはあなたとともにいてあなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。
 
神様は、ヤコブという人物にこう言われました。ヤコブという人物は、イサクの子です。アブラハム、イサク、ヤコブと続く神の祝福の系図の中にあります。ヤコブはシャープな頭脳の持ち主ではありますが、ずる賢い人物でもあった。人を出し抜き、だまし、そしてとうとう兄から命を狙われるという羽目になります。彼は家から逃げ出さざるを得ませんでした。その時のヤコブは不安と怖れ、いつ野獣に襲われるかもしれないという恐怖。その時神はこの創世記28:15のおことばをヤコブに告げたのです。そして16節で
ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」
 神様のご臨在があるにもかかわらず、ヤコブはそれに気が付かなかった。しかし、人生のピンチに立った時に、ほら、ここにいるよと気づかせてくださる。私は背負ってたんだよと気づかせてくださる。いつも一緒にいてくださるお方なのに、私たちはついついその意識が薄れてしまって、あのことこのこと、自分の知恵で動き回る。何とか解決しようとあがいてしまう。そのときに、わたしの臨在、わたしの顔がいつもあなたを見ているよ、こういって存在に気づかせてくださる。ヤコブはそこを出ていいます。「ああ私は知らなかった。いま気がついた。ここは神の家だ。ここが天に通じる門なのだ」。

どうかこのベテルの経験を覚えましょう。ご聖霊様は、私たちをさまざまな場所にお導きになって、ほら、わたしだよといってご臨在の恵みを現わしてくださいます。どうぞこの方の御顔を見、このお方と語り、このお方に祈り、このお方に慰められながら、次のペンテコステ聖日には共に聖餐のテーブルに与りたいと願うことであります。

※画像は教会からお借りしています。
⏰きょうの真新しい太陽が山際に輝きはじめた4時38分更新。

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雑感

けさいちばんはサラ・ヤング著「わたしは決してあなたをひとりにしない」-主の声に耳を澄ます366日―。この本は筆者が3人目の持ち主。扉の裏には「H25Sさんより」とある。Kさんの文字。Kさんが3回読んでよかったからと筆者に回してくれたのだ。日ごとの読み物となっている。
 530日を開くと

「わたし()とともに過ごす時間を、慌ただしいものにしないこと。急いでいるときのあなたは、目先の仕事とわたしのあいだを気持ちが行ったり来たりして落ち着かない。あなたにのしかかる差し迫った用事を押しのけ、自分のまわりに安心できる空間―わたしとくつろぐことのできる避難所を作り出しなさい。わたしはまた、こんなふうにわたしに注意を集中する時間を求めている。その時間を用いて、あなたに恵みを与え、この日のための備えをさせる。だから、わたしと時間を過ごすことは、賢明な投資なのだ」。付されてあるのが詩篇11927、歴代169

 

  ☆ 

 

J-MEROをちょっと。これが再放送。ゲストはBALLISTIK BOYZ from EXILE TRIBE、家入レオ、SKE48。海外向けの発信は日本に限らず。それは膨大な数だろう。その中での切磋琢磨ともいえる。SKE48のメンバーのみならずとにかくみな負けず嫌い、チャンスを掴んだ負けず嫌いがのし上がっていく世界でもある。BALLISTIK BOYZ from EXILE TRIBEの多国言語を身に着けようとの努力。英語、中国語、ポルトガル語であったか。家入レオの透過性のある繊細さを表現できる声。街を歩く人々の無意識のうちにすっと入りこみそう。空気なんて気にしない、だけど繊細でどこか脆く崩れそう、ヤバイぜそれに嵌らなくちゃ、だけどどかかなにか馴染めない。探そうぜ生きる道、オレを生かす道。売れるか売れないかの業界がらみで日々生み出される曲の数々、しかしそこに見えるさまざまな若者たちのすがた。

 

 

⛳7時ジャスト更新

 

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20529 クラシック倶楽部を聴く レ・ヴァン・フランセ協奏交響曲の夕べ

レ・ヴァン・フランセ協奏交響曲の夕べ

世界のトップ・プレーヤーが結成するアンサンブル、レ・ヴァン・フランセ(フランスの風)。木管楽器のスーパースターたちによる「協奏交響曲の夕べ」をお送りする。―番組紹介よりー

 

エマニュエル・パユ (フルート)
フランソワ・ルルー(オーボエ)
ポール・メイエ(クラリネット)
ラドヴァン・ヴラトコヴィチ (ホルン)
ジルベール・オダン(バソン)

何と豪華なアンサンブル。世界的なオケの首席が務まるクラスの4人が一挙に。この方々と共演できる東京フィルの幸運は! たしか2002年木管アンサンブルとしてポール・メイエが中心となって結成される。ルルーが、このメンバーとオケの共演で多彩なプログラムが実現するのだと。ヴラトコヴィチは、楽器を引き立たせる独奏的な部分があることを強調。これが個人の輝きも見せるというフランスの伝統なのだろう。

 

 

プレイエル「フルート、オーボエ、ホルン、バソンの為の協奏交響曲 第5番 ヘ長調 B. 115」、ドヴィエンヌ「フルート、オーボエ、ホルン、バソンの為の協奏交響曲 第2番 ヘ長調」。この2曲は、気楽に楽器の会話を楽しんだ。パユのセンスある明るく心起きないおしゃべりとメイエのクラリネットの惹き込む演奏技術のすばらしさ、時折話題に黙考し話題の方向転換をはかるかのバソン、オーボエ。そこに同席している気分でゆったりと。この会話に後ろで弾いてくれている東京フィルが「そうです。はい。しごく。ごもっとも」と相槌を打っているような。
モーツァルトの「オーボエ、クラリネット、ホルン、バソンの為の協奏交響曲 変ホ長調 K.297b」、ここにパユがはいっていないのがすこし残念。この曲が偽作かもというのだ。卓越した曲想からモーツァルトの名曲の一つとしてよく演奏されているようだ。モーツァルトともなるともう研究し尽くされているかと思えば、まだまだ曖昧な部分は他にも存在しているのだろう。ここでのクラリネット、ささやき、諭してくれている感じも。ホルンはのびやか、達観している感じも。
これまでの3曲の類似性、凡人筆者には同じように聴こえることもしばしばなのだが、3人ともだいたい同時代で活躍しており、スポーツ選手がライバルを逐一研究しているように、互いの曲想などを知悉していたはずで、無意識にもそれが作曲に反映されていたのかもしれない。
アンコールはイベール「木管五重奏のための3つの小品より第1曲」、フランスのエスプリある演奏。おおらかにさせてくれた一曲。

 

名曲アルバムは、マーラー第6番。飯森範親&N響。
解説に出ていたオットー・ワーグナー、どんな建築家であったか気になるところ。

 

⛳あとで書こうかとも思ったが、何とか7時2分更新

 

 

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20528クラシック倶楽部を聴く  アメリカ海軍軍楽隊

世界最高峰の吹奏楽団のひとつ、アメリカ海兵隊バンドの初来日公演! マーチ王スーザ直伝のサウンドと颯爽としたパフォーマンスをお届けする!―番組紹介よりー 

🎵金沢市石ノ森ホール、2019年の収録。アメリカ海兵隊バンドは1798年創立。大統領直属。マーチ王スーザは第17代隊長。現在の指揮者はジェイソン・フェティッグ。司会はサラ・シェフィールド。 

 両国国歌に始まりスーザの「海を越えた握手」ジェイガーの「エスプリ・ドゥ・コール」、そして東日本大震災と津波の犠牲者のためにウォルツィクが2015年に作曲した「イロァ・イロァ」。脱して明るく「ルイ・アームストロングへのトリビュート」、ルイ・アームストロングの6曲のメドレーでルィブラの編曲。そしてギルバートソンの「ユーソニアン・ドゥエリング」。先ごろ筆者の住まい近くで工事現場を見ながら、これを管楽器で作曲したら時間と空間をギューント貫き裂くような大地を平板を抉るような現代の最先端の響きともいえる曲ができあがるのではないかと思ったが、このギルバートソンの音、楽器の用い方に、まさしく、これ、これだ! と。書くときになるとこれです、まさしくと落ち着き払うのだが、その時は飛び上がった。前にも聴いていたはずだが今回はその特異さを得心したというところ。ギルバートソンは建築家ロイドライトの設計になる建物から着想を得たようだが、むしろ建築途上にある重機の動き、技術、人の動き、危険度すれすれの緊張感を引き寄せて作曲すれば、それこそサンサーンスの3番のオルガン付きぐらいの壮大さ、その現代版になるのではと。誰かこれで世界のオンリー・ワンになれないものか。
  アルディティの「くちづけ」、これはメゾソプラノと思ったが、軍楽隊に咲く一輪の薔薇のよう。バーンスタインの「サム・ホエア」、アンコール「星条旗を永遠なれ」。昨日現在で、新型コロナ感染者数168万、亡くなられた方98千9百。なんということかと。3・11への作曲の感謝を覚えながら何とか早い収束をと胸が痛んだ。

 

🎧🎵名曲アルバム、シベリウスの「バイオリン協奏曲」。91歳で没するまでの妻アイノの献身的な忍耐と働きを類推。

 

⛳きょうは28日、はや28日。はやいもの7時ジャスト更新。

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20527クラシック倶楽部を聴く 中川英二郎トロンボーン・リサイタル

【出演】中川英二郎,宮本貴奈,オッタビアーノ・クリストーフォリ「管弦楽組曲第3番からアリア」バッハ:作曲,(トロンボーン)中川英二郎,(ピアノ)宮本貴奈ほかー番組紹介からー

 

🎵とにかくクラシック倶楽部を聴かねばとスイッチ・オン。それが別チャンネルで、グレートネイチャーの最後部分。モーリシャスの撮影だ。TV放送の一場面にきりりと緊張と恐れに縛られ、冷や汗が出た。この後でチャンネルをクラシック倶楽部に合わせたものの動悸がしている。けさはそんな状態での視聴だった。

 201812月、アイザック小杉文化ホールでの収録。5歳でトロンボーンを始めたという中川英二郎。5歳の子どもが使用できる大きさのトロンボーンがあるのだろう。高校在学中にアメリカで初録音だという。中川にしろ、宮本にしろ、もう体の芯からジャズのリズムが刻み出てくるという感じ。
 トランペットのオッタビアーノ・クリストーフォリと3人のバッハの「アリア」、ヴェルディの「運命の力 序曲」、トゥリアンの「ファンダンゴ」、これはメキシコの吹奏楽団のために作曲されている。ファンダンゴはスペイン発祥の舞踏らしい。こうしてみると何回か聴いていても聴き落し見落としが多々。

次は中川作曲の作品。中川はよく入浴中に着想を得るらしい。いわゆる降ってくるというのだ。きっかけがあると、さーっとエンディングまでが出て来るらしく、それを手でスケッチ風に書く。コンピュターでシュミレーションするのはその後。楽器の演奏は職人的だが、作曲ではひとりの芸術家として自分をさらけ出せると。人間性や人となりが聴こえるはず。

中川の「シークレットゲート」、2007年作曲。扉を開くような曲想からのジャズセッション。トロンボーンというとヘッドライトとテールランプの都会の夜を連想しがちだけれども、この曲、次つぎと新たな扉が開かれ、俺はこう行くよ。各部屋をあるときは確かめ、ある時には興味薄に、ある時にはそこに存在する者に相槌を打ち、そしてまた都会にあり得るありとあらゆる形態を扉の向こうに探すという連続性を勝手に連想してしまった。同じく中川の「トライセンス」、出だしが中世ののどかで幾分雅な感じがして、もしやここからバロック、古典と時代をくだっていくのかと早合点したが、次第に広い景観がつたわってきた。殊にもピアノが民俗色を打ち出したときには、この曲のおもしろさがすこしわかりかけた。わかろうが分かるまいが聴かせてしまう演奏の巧みさ。組曲のような感じも受けて聞き終えた。アンコールはモンテの「チャールダッシュ」。ジャズ感覚がキュキュとこの曲を引き寄せながらのチャールダッシュ、これも爽快。

 

🎧🎵名曲アルバムはワーグナーの「パルシファル」。キリスト教の聖なる騎士を惑わせる愛欲の花なぞという解説もあったが、筆者はノー・コメント。何れヴィラ・ルーフォロの庭の花園は老作曲家に豊かな実りを与えたのだとか。

⛳6時代に幾つかの用事が入ると、聴いた内容をメモっておこうと思ってもタイミング的に書きあぐねてしまう。やっと落ち着いて19時36分の更新。
音楽とは関係ないけれども、夕方スーパーに行くときには雨が降っており傘さして。それが両手に買い物袋を提げて外に出ると雨がからりとやんでいた。思わず「神様ありがとう!」。ありがとう神様、きょうも無事に一日を終えることができます。

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20526クラシック倶楽部を聴く ハインツホリガーと仲間たち

80歳を迎えたホリガーは言う。「時計の針は人生を計るものではない。私は続けられる限り、演奏し、指揮し、作曲する。」信頼する仲間との絶妙なアンサンブルを放送する。-番組紹介より-

🎵ハインツ・ホリガーと仲間たち。2019109日浜離宮朝日ホール収録分。ハインツホリガーは1939年スイス生まれのオーボエ奏者、指揮者、作曲家。バロックから現代まで。ホリガーは音楽がなければ窒息するという。彼の肺呼吸は音楽。ヨーロッパの若者たちは物事への興味を失い老いている。人生は時計、時間では測れないものらしく、年齢はといったか、それは相対的なものであると。以前にも聴いてはいるのだが。何れ音楽がホリガーの人生のエネルギー源となっている。

バッハの「トリオ・ソナタ変ホ長調から」作曲は1730年。そして演奏順は前後するけれどもゼレンカの「ソナタ第5番」、この2曲は明るく朝を呼び覚ますには相応しい。聴いていてすっきりとした心地よさが得られる。バッハ、ゼレンカが亡くなった後は信じられないことだが世に忘れられたふたり。バッハを「マタイ受難曲」で世によみがえらせたのがメンデルスゾーンなら、ゼレンカを世によみがえらせたのはスメタナであったようだ。ゼレンカという作曲家はあまり意識のうちにはなかったが、バッハはゼレンカに興味を持ち、バッハの息子にゼレンカの曲を写譜させたという。「天国でのゼレンカの玉座はバッハのとなり」といわれるところを見ると、その才能はかなりなものとゼレンカを再認識。

細川俊夫の「結び」。こんどはどう感じるだろうと興味津々で。ホリガーが贈り物をするときに布の端と端を結び合わせる、これは風呂敷のことかと思ったが。これがホリガーの80歳の誕生プレゼント曲。オーボエとイングリッシュホルンのデュエット。終始能楽を聴いている気がして、能面がイメージに現われると、それが脳裡から容易には去らず、ついに最後まで舞い続けていた。ところどころに和楽器の鼓が入っても不自然ではないと思われた。笙や篳篥をきいているような気分にも。ただこの和楽器、オーボエとイングリッシュホルンとの性能には格段の差があり、音域や技術的なことはよくわからないが、現代のがっきだからこそこの曲のように緻密で細やかな演奏も可能であり、幽玄ではあるけれども且つ現代的な仕上がりとしても聴かせるものになっているとも思われた。
ホリガーの「Klaus-ur」、たえず炸裂するもの、大きくも小さくも火花を散らすもの、明滅するものの表現か。うめきというよりも見えないもの掴めない空間の呻きに意識の明滅とも。すごい感性の持ち主と。いちど聴いたら忘れない。譜面はいったいどう表記されているのだろうと。通常連なりうる旋律の埒外に見出した音符というには乾いた現代的な衝撃的な音なのだが、何れ平板と平板との間隙から拾い弾き集めたかのよう。最後部分のそれが点のように遠景となり締めくくられる。異形の造形なのだ。

 

🎧🎵名曲アルバム。モーツァルトの「オーボエ四重奏曲」。モーツァルトも異形の造形を聴いたあとではちょっと影が薄れて、というよりも、その曲の印象に耳が支配されてしまっており、ただに字幕を追ってしまうのみになった。音楽家たち芸術家たち憧れのミュンヘン、ヴィッテルスバッハ家。なぜかけさはそれがちょっと物悲しくも。

⛳見える美しい緑のグラデーション。すべての緑の名をあげたくもあるが、時間の関係でここで更新、6時55分。

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20525クラシック倶楽部を聴く  マテゥー・デュフォー  フルート・リサイタル

20歳でトゥールーズ・キャピタル管の首席就任、以降各地の名門オケの首席を歴任。2015年にはベルリン・フィルの首席に。ソロでも活躍するのフルート美音は必聴!―番組紹介よりー 

🎵マテュー・デュフォー、1972年パリ生まれ。いまはベルリン・フィルの首席奏者。デュフォーいうに、器楽は声をイメージして歌うような演奏を心がけると。フルートは声にいちばん近く、息と音での演奏。フルートに歌いかけるように息と戯れながら奏するのだという。また美しい音とは感情が伝わる音のことで、物語を語りメッセージを伝えられる音なのだと。何れ美しいだけの音は厭きられるとも話している。

 プーランクの「フルート・ソナタ」、街の喧騒のなかを逍遥しているような感じもするミヨーの「フルートとピアノのためのソナチネ」。この2曲の作曲家は20世紀後半のフランスの作曲家「6人組」にはいっている。この6人組」がきょうの興味項目。ライネッケの「ウンディーネ」、これは水の精の悲恋を書いたものらしいが、筆者は勝手に巨樹を想像しながら音を楽しんだ。1000年の木の葉をざわつかせるというよりは、1000年の流れの樹下に見てきた人間世界に愁嘆している木の葉のさざめきと思って聴くと、これが存外おもしろく聴こえだしたのだ。伴奏は浦壁信二。1969生まれ、パリ国立高等音楽院に学んだ。20207月武蔵野市民文化会館での収録分。

 

🎧🎵名曲アルバム、何とサン・サーンスの交響曲第3番「オルガン付き」。演奏は新山恵理、指揮は大友直人。1886年にできた彼の最高傑作。この響き、気分を持ち上げたいとき、閉塞感を脱したいときには偉大ともいえる効果を発揮してくれる。満ち足りた気分に持ち上げてくれる一曲。 

⛳後番組「桃源郷」に二胡が登場、この二胡に誘われてついつい麗水を観てしまったが、中国1000年の文化の重み、確固たる存在感にはたじろいでしまった。黒瓦の独特な突起の景観。棚田、秘色といわれる青磁器のほんのりとした薄青み。あれは剣か刀か、家事の合間で見落としてしまったけれども、かなりの逸物。料理も包丁というよりはナタでダンダンと切ってでもいるかに見える豪快さ。盛り付け、生姜、スパイス、ふんだんな紫蘇。結局二胡の演奏はほんの一場面だったのだが、その二胡のお蔭でけさは大変な旅をした気分。麗水はまさに桃源郷。
で、924分更新。

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きょうのことば

きょうはインマヌエル盛岡キリスト教会2020年5月17()のメッセージをおつたえいたします。
國光勝美牧師、國光ひろ子牧師の岩手での主のご奉仕は47年目となっております。

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説教題 『成長するキリストの体』 (國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 エペソ人への手紙 第4章716
4:7しかし、私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました。 4:8そのため、こう言われています。
「彼はいと高き所に上ったとき、
捕虜を連れて行き、
人々に贈物を与えられた。」

4:9「上った」ということは、彼が低い所、つまり地上に降られたということでなくて何でしょうか。 4:10この降られた方ご自身は、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方でもあります。―― 4:11こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、あるたちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。 4:12それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。 4:13私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。 4:14こうして私たちはもはや、子どもではなく、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、 4:15むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。 4:16キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

<説教>

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 けさは11節にもういちど心を向けてみましょう。
4:11こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、あるたちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。
 読みますうちに「キリストご自身がお立てになりました」に光がさしました。そうです。賜物はキリストご自身がそれぞれに賜るのです。それは賜った人によって価値が違うことをふと思いました。
 「恩賜」ということばがあります。天皇陛下からいただいたものを恩賜というのだそうです。昔帝国大学を首席で卒業した人たちには恩賜の銀時計が贈られたそうです。ネットにも出ています。銀時計は商品として買うことはできる。しかし同じ銀時計でも出どころが違う。また私が大学生だったころ、叔父が警視庁に勤めており、いただいた恩賜のたばこを見せてくれました。缶入りのピースでした。「これが恩賜のたばこだよ。三笠宮殿下の警護に当たった者たちに出たものだよ」。叔父さんはけっこう嬉しそうに話してくれましたが、その「恩賜」ということばが記憶にのこっております。キリストご自身が与えてくださった賜物、いわば私たちの賜物はキリストからの恩賜の賜物であります。天皇からいただいたたばこや銀時計とは違いますが、キリスト様からの恩賜という特別なものである。してみるとタラントがいくらであるとか、そんなものではない。それぞれに応じて神様はすばらしいものを与えていてくださる。私たちは神様の恩賜であるタラントを受けているのです。12節をみると、
4:12それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。
 その恩賜をこのように生かさせていただきたい。具体的にキリストの体である教会を建て上げるにはどんな働きがあるのか。身近なところでは受付、司会、奏楽、祈り、献金、生け花、掃除、会堂の整備などなど。これなら自分でもできる、いえ、させていただきたいという表現がいいのでしょうか。できるからやるということではなく、キリストの体である教会が建て上げられるその一部としてさせていただくことです。

 奉仕といえば思い出しますが。インマヌエル綜合伝道団では年会があります。年に一度、全国の120以上の教会が一堂に集まる。ひと頃までは九段会館でした。いまは青山学院の講堂です。私たちも上京し雪谷に泊まって雪谷の人たちと一緒に青山学院の講堂の合同礼拝に行くというパタンーでした。ゆとりをもって出かけ歩いているときに携帯が鳴りました。Y先生でした。「國光先生、すぐ来てください」と。礼拝が始まるまでにはまだまだ時間があります。「プログラムの連絡を忘れてましたので」。とにかく走って行きました。お祈りの係の連絡でした。ご奉仕がある、これはしっかりとさせていただかなければ。走りに走りました。私たち一つ一つ、与えられている恩賜である奉仕を、させていただくという意識をもって為す、これがキリストの体を建て上げるということなのです。

そして15
 4:15むしろ、愛をもって真理を語り/愛のうちに建てられることになります
「愛のうちに」には大きな意味があります。タラントの違いを認めてそれを祈りながら感謝と愛によって精一杯加わらせていただく。こうしてお互い励まさせていただきたいと願うことです。
 この時に大切な事は、「きよめ」です。これこそクリスチャンとして大切な一点であり、これをしっかりと捕えることがキリストの体を建て上げられるそのポイントなのです。救われたクリスチャンになった、罪赦され新生し、新しい神のいのちを与えられているということは、それは実に大きなことです。しかし、そのままでは生まれながらの罪の性質、人を羨んだり妬んだりというような、そんな思い、或いはそれが自分に向けられると自己卑下になってしまったりする。或いは他の人を見る時になぜかその人の特徴や性格的なことが気になる。だいたい自分のいちばん近しい似たような性格を持っている人を気にする。これは経験的にそうなんですが。いったい私たちはいろんな人たちとつき合うこの世の中に生きているのですが、もし気になる人がいると思ったらそれは自分自身の投影をそこに見るからなのです。自分に似ていなければ気にならないのです。しかし、自分とよく似た人が俗にいえば鼻につく。意識してしまう。そういったことも人間の罪の性質としてある。それが自分自身に向かうと自己卑下になり、そしてそれを他の人に見たときにはその人を裁いてしまう。
 これは「きよめ」によって解決されなければなりません。自分の弱さを認め、「そうだ、神様、あなたがいらっしゃらなければ私はほんとうに人を非難したり傷つけたりしてしまう、とてもあの人のようになれない、どうしてあの人を、などと言ってしまうような者です。でも、主よ、こんな私にあなたは恩賜の賜物までくださっています」と悔い改め切り変えてゆくときに、「わが惠汝に足れり」とキリストご自身が心の中に満ちてくださいます。自分はあなた無しには何もできない者ですという意味の謙遜、そして他の人に対するときにも、その人をほんとうに尊敬する、これはきよめられることでなし得ます。これは決してきれいごとを言っているのではなく、自分自身の虚しさを健全に知らされるときに、そこにああイエス様、あなたで十分です。そして他の人にもそのイエス様を見る。

 イエス様のお弟子さんたちの中にもありました。ペテロがいちばん鼻についたのはヨハネでした。福音書をみるときに、ペテロがいちばん鼻に着いたのはヨハネです。いつでも自分がいちばんだと自負しているペテロ。イエスさまにそのように扱われているし、そうに違いないにもかかわらずです。復活のイエス様にお会いしたときにペテロが真っ先に「先生、彼はこれからどのような人生を送るんですか」と訊いたのはヨハネのことなんです。私たちはいちばん近しい主にある兄弟姉妹方をペテロと同じようなそういう弱さをもって見てしまう。そのときに遜って、キリスト無しには何事もならないと悔い改めそれをとおして「きよめ」をいただくことです。そこで互いを自分より優れたものと尊敬しあうことができます。これはきよめを経験していなかったなら、ただに絵に描いただけということになりかねません。これらのことを通して、13節にある「一人の成熟した大人になる」というのはこういうことなのです。こういうところを通っていかないと、建て上げまでいかない。そこに他の人に対するところの赦しがありますし、そして、他の人たちをしっかりと受け入れる。こうして私たちは整えられ、キリストの体を建て上げていくことができる。
13
節「神の御子に対する信仰と知識において一つとなる。一人の成熟した大人となる。キリストの満ち満ちた身丈にまで達する。」
 ここに向かうべく私たちは恩賜の賜物を受けているのです。どうか、私にはこれっぽっちのものなどというような一タラントのしもべの愚かさではなく、それを感謝し、そして用い、キリストの体を建て上げることに用いさせていただきたい。

 一つ加えさせていただきます。
14節をご覧ください。
4:14こうして私たちはもはや、子どもではなく、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、
 これは注意すべきことなのですが、誤った聖書解釈に基づくさまざまな教えが出ております。このネットを必要とする状況に入り込んで、福音のように見せかけた危険な働きをしている団体があります。13節にある「神の御子に対する信仰と知識において一つとなり」、「4:15むしろ、愛をもって真理を語り」、このことを全うしようとする中に混じって、間違った教えで人々を惑わすことがあるので気をつけなければなりません。
 そういった方々の前にあって、自分たちが正しいという思いがあるとつい物言いが高飛車になることがあります。異端の人であっても最初から異端になろうと思っていたわけではない。けれども明らかに違っているというときに、「愛をもって真理を語る」のは大切です。明らかに違っているというときに、愛を持って真理を語るのは大切なことであると思います。気をつけたいのは愛をもって語るということです。

そして16
4:16キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。
 「組み合わされ」が、ここでは、物理的に釘打ちをするというのではなく、細工物のようにきちっと組み合わされる意味の「組み合わされ」が使われています。このようにしてキリストの愛のうちに建てられる、このようなお互い、教会であらせていただきたいと願っております。

※これは説教の全部ではありません。割愛した部分もございます。イラストは教会で当日使用されたもののうち一枚をお借りしました。
説教はICレコーダーに録った主牧のメッセージを筆者が起こし文章化しています。写真は筆者が任意で載せております。


⏰5時39分更新


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古関祐而のこと

目を覚ましたところがまだまだ早すぎ。サラ・ヤングの日々の読み物「わたしは決してあなたをひとりにしない」のきょうの頁を開くと


「今日もわたし(神)に出会いたいという願いを抱いて、一日を始めなさい。
あなたが起きてくる前にわたしは、この日にあなたが通る道の用意をもう進めている。
その道に沿って、隠れた宝が計画的に置かれている。
宝の中には試練もある。地上の束縛からあなたを自由にするために計画されたものだ。」

まだまだ続くのですが、これを1日分読んだあとにはなぜか眠れる。真夜中に目覚めて眠れないなと思った時には開いている。すると必ず静かな眠りに導かれる。

 というわけで実は朝寝坊、5時45分に目が覚めることとなり、J-MEROは15分遅れでスイッチ・オン。
ゲストはBOYS AND MENと鈴木愛理。
BOYS ANDO MEN、タイ公演のとき、多くのファンが日本語発信をタイ語でSNSで拡散してくれたのだとか。若者のこういうノリの速さは凄い。「やったるぜ、見せたるぜ、最強のエナジー」が「ガッタン、ゴットンGO!]、鈴木愛理は横浜アリーナ公演が待っている。「ブレーキのきかないまま走り出すフリーウェイ」。感覚的に最前線をざっと。May J.フレッシュ!

朝ドラの「エール!」、脚本があきないように面白くしてあるのだけれども。ここまでおもしろいと、逆に本当はどうだったのかな?と知りたくもなる。先だって著書を紹介したが、これに更に、そこが知りたい、が追加された著書が出版されていた。著者は岩手県宮古市出身。この方の祖母が廃娼運動に加わったクリスチャンであったはず。古関裕而が「ここは本当とはちょと違う~」と言いたい部分をこれで検証してみてください。ドラマは仮名になってはいますが。
菊池清麿「新版 評伝 古関祐而」、アマゾンにも出てます。画像も載せておきましょうか。

[新版] 評伝 古関裕而 菊池 清麿(著) - 彩流社

⛳7時ジャスト更新

 

 

 

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20522クラシック倶楽部を聴く  深沢亮子ピアノ・リサイタル

🎵深沢亮子ピアノ・リサイタル。2017年5月17日浜離宮朝日ホールでの収録分。深沢はと呼び捨ても気が引けるのだが、大谷を大谷選手といちいち呼ばないのと同じ。深沢は日本の現代音楽作品の紹介に努めてきた方。子ども心がつくときにはもう親戚が集まってホームコンサートを楽しんでいるような環境に育っている。ピアノは何でも話せる友だち、慰められ元気づけられる、選曲も多少はそれらを考えながら選曲しているという。深沢をよく知りもしないで言うのも? なのだが、この方の数ある存在価値の一つは、やはり助川敏弥(1930~2015)という作曲家とその曲の生き証人であること。深沢が31歳の時にピアノのタペストリーを弾いて欲しいと依頼があったとか。作曲者に直接学び得た幸運と、作品を天国から舞い降りてくるような精神的な音楽と語る。

 助川敏弥の「小さな四季」から<そこまで春が>、これは昆虫の暮らしを童話風に。<誰か呼んでる どこからなの><秋の谷川>、母親のひざもとでおはなしを聞いているような。<暮れる谷川 石がなる>、しずかな水の透明な揺らめきの底に見えるもの、小石、ザリガニ、おたまじゃくし、水草など懐かしい記憶をよみがえらせてくれる。「華の舞」、三連符の連続と転調、流麗。「松雪草」、2010年の作曲で深川亮子初演。これが80歳かでの作曲。清新で瑞々しい感性に驚く。次の「山水図」、もうこれはピアノ曲であるけれども、内容的には交響曲ほどの質感、内容を感じさせられた。秘境への案内、そして音のガイド付きなのだ。悠々とした時の流れ、澄明な広い空間も感じさせる。黙す自然の営みにある深み。かと思えば鍾乳洞に誘われた感覚。そして突如現れる瀑布の響き。実に素晴らしかった。あとはもうきょうはモーツァルトもメンデルスゾーンもいいやと感じさせた一瞬。
ただせっかく弾いてくださるのでそれはそれとしてモーツァルト「ピアノ・ソナタハ長調K330」、メンデルスゾーン「厳格な変奏曲ニ短調作品54」を何かけさは助川の「山水図」を曳きながら聴いた感じ。
 ブラボーに応え、まあ、まあ、ありがとう!と左袖に引き上げていった深沢亮子の自然体。そうそうアンコール曲は「無言歌」から「春の歌」。あの連弾の方はもしや愛弟子。

 

🎧🎵名曲アルバム。これが二つもやってきた!ショパンの「マズルカ」と「革命のエチュード」の編集版。これが何ともドラマテック。「マズルカ」にショパンの愛国心、人々への愛。そしてこの愛する国の侵略への悲哀と怒りの爆発。「神がポーランド人を作ったのは誤りだ」、そりゃないでしょ。義憤の火にいよいよ油を注ぐこの台詞! これに優る屈辱はあるか! 「革命エチュード」の響きがいよいよ鮮烈。

⛳7時ジャスト更新

 

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20521クラシック倶楽部を聴く  アレクセイ・リュビモフ ピアノ・リサイタル

古典から現代まで幅広いレパートリーを持つアレクセイ・リュビモフ。今回の来日は自身にとって特別な作曲家というモーツァルトだけで組まれた。即興性にとんだ変幻自在な演奏を放送する―番組紹介からー

 

🎵1944年旧ソビエト生まれ。ヘーンベルク、ブーレーズの初演者として知られているようだ。30歳から古楽器の世界に。2018年から第一回ピリオド楽器ののためのショパンコンクールの審査員を務める。

リュビモフいうに、ふつう演奏者はモーツァルトを演奏しようとすればその曲の様式からはいる。同時代の作曲家においてはみな様式から入ろうとする。しかしリュビモフは、モーツァルトというその人物を紐解きその多彩、多面性を表現する。内面性を大切にする。研究書などからモーツァルトはなかなか複雑な人物。どの旋律にもそれが現われていると語る。

「幻想曲ニ短調」未完の曲で、最後部分を誰かが補筆しているという。悲哀にみちた前半、明るい響きの後半なのだが。情緒に流されないところ、とつとつと淡泊にも聴こえる。意識的な叙情の削ぎ落しかとも思ったけれども、それでモーツァルトの性格的な部分が聴こえる感じもする。「ピアノ・ソナタ ハ長調」、初心者のための小さなピアノソナタ。やはり淡々と飄々と、子どもが屈託なく転げまわり遊んでいるような。楽曲はあふれ出るとも、こんな子どもっぽい面白い一面もあったかと。「幻想曲 ハ短調」、後にシュッタドラーが補筆しているとか。大天才に筆を入れる気分とはどんなものだろう。「ピアノ・ソナタ ハ短調」、モーツァルトとはこのような人物であるという信念のモーツァルトを聴いた気が。756歳という高齢であるけれども、弛まない研究においての新たな発見がそのたびにピアノに向かう力となっているのかもしれない。

ピリオド楽器のコンクール、どんなようすかが「ぶらあぼ」に出ている。

 

🎧🎵名曲アルバム。シューマンの「ピアノ協奏曲」。ピアノ清水和音、指揮外山雄三、N響。
ライプチヒの雪景色を和音のピアノがエスコート。けさはクララの肖像画になぜか胸が打たれた。
世界有数の楽譜出版社、探せば持ち込まれた無名の作家の楽譜や出版されかねた数々の楽譜が眠っていそう。

⛳6時51分更新

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20520クラシック倶楽部を聴く  ジャン・チャクムル ピアノ・リサイタル  

97年トルコ生まれのピアニスト、ジャン・チャクムルのステージ。2018年浜松国際ピアノコンクールで第1位を受賞。瑞々しい音楽と冴え渡るテクニックを兼ね備える逸材-番組紹介からー

 

🎵

2019
8月、すみだトリフォニーホール収録。ひところまでは、2017年収録というとやけに旧いものを聴かされているという感じももったのだが、これまで聴いてきて、年代がどうであろうといいものはいい。2016であれ2013であれと気にならなくなっている。

チャクムル、1997年トルコのアンカラ生まれ。パリのスコラカントルムで学ぶ。トルコ・イギリス・オランダ・日本で演奏。第10回浜松国際コンクールで優勝。手が小さかったために好きなギターからピアノに転向。コンクールではさまざまな想いを共有できるということなのだろう仲間意識が芽生えたという。

チャクムル使用のピアノ、前回も気になったがそのままにしたSHIGERU KAWAI

チャクムルは迷わず曲を決めるのは「フレーズの開始、アクセントの位置、和音の解決」で「正しい文法をまもりさえすれば音楽は自ずと立ちあがる」「ひらめきや思いつきで弾くのではない」と言い切ったところが新鮮。

メンデルスゾーンの幻想曲作品28「スコットランド・ソナタ」、シューベルトの「ピアノソナタD568」。そしてバルトークの組曲「野外で」、ここでまだ半分眠りこけていた頭がばっと目覚めた。冒険するときの期待と興奮、一種野卑な感じも宥められ含まれているのだが、そこに捕まれたという感じなのだ。不安、慄きを底に未知の世界に分け入っていくような気分。「夜の音楽」では押し黙った地の底から動植物の気配を探知してゆくような。「狩り」、でこれぞ民俗的、ダイレクトに土俗的な動きが伝わってくる。優雅で流麗なメロディーラインには遠い感覚があざとく聴く者の心を惹きつける。

 

 

🎧🎵名曲アルバム。けさはヴィヴァルディの四季から「夏」。渡邊一正指揮、服部百音のバイオリンがベネチアの映像をめぐる。ヴィヴァルディが伴奏楽器に留まっていたバイオリンを主役楽器に押し上げたという。

 

⛳駆け足で644分更新。きょうも曇り空。

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20519クラシック倶楽部を聴く 牛牛(にゅうにゅう)ピアノ・リサイタル

🎵20196月に神奈川県立音楽堂での収録分。牛牛(にゅうにゅう)のピアノ・リサイタル。1997年福建省生まれ。クラシック倶楽部の後番組に福建省が出ており興味はあったが割愛、これを書いている。11歳でCDデビュー。ジュリアード音楽院に進む。ジュリアードには舞踏、バレエの科も。この学生たちとの交遊で影響を受ける。今回はこの影響に気を付けて観た。「即興曲第2番」で演奏途中に左手がひらりと宙を舞う。昨日の反田恭平の演奏に、指のうごきを見ながら、これはダンスだと思ったが、これは巧まざるダンス。牛牛の方は意識的に舞踏をピアノ演奏に生かしている。演奏が果てたときの両手のパフォーマンス、ショパンに何かを問うている感じもある。これには賛否両論あるかもしれない。観客席のどの位置で見るかによっても印象は異なるかと思う。近影だと、ダンス、しかし遠目になるとなかなか空間に美しさを描くのでは。こんどはどう動作するのかと期待感で演奏展開を聴き見守った。

牛牛が、ダンサーが激しく踊るときでも心は平静さを保っている、ピアノ演奏も激しい演奏にあっても心はクリアに平静にと語っている。

意外な展開をひろげる「即興曲第3番」。そして有名な「ピアノ・ソナタ第2番」、従来のソナタ形式を打破しようとしているという。第3楽章の「葬送」、重々しさの中に、悲しみが昇華されたかの明るいフレーズの挿入は、天国への希望なのか。「スケルツォ第3番」、鍵盤全体を使ってのオーケストラ効果。対位法、コラールを用いるなどバッハの影響があるとか。

浮かぶのは断崖に打ち寄せる波、海原にたぎり煮えたち放たれる光、素早く湖面をわたりゆく微細な音、光の羅列。樹下の歩みに分岐しふり注ぐ日差し。ふだんは有名な部分だけを耳にすることが多いが、こうしてショパンの一連、とはいえこれもショパンの一部でしかないのかもしれない一連の演奏を聴きながら、ショパンもやはり大樹の一本である、しかも朽ちることなく枯れることもない大樹である、そんな気がした。次はリストの「ウィーンの夜会第6番」、シューベルトの多数のワルツの組み合わせであるとか。

ロック、ポップス、歌謡曲の世界ではどんな突飛なことも驚くにはあたらないと思うのだが、クラシック界では、変わった一つの動作、改革も大変な型破りと思ってしまうのは、やはり筆者の頭もかなり固いのだろう。何しろ石が好き、石を書いた詩が二つある。石を書いたものは秀作とうぬぼれている。

 

🎧🎵名曲アルバム。ドビュッシー「月の光」。筆者、ずいぶんと月の写真を撮っている。冴え冴えとした月を見るとなぜかカメラを持ち出す。これが秀作であったためしはないのだが厭きもせずに。ドビュッシーの月はヴェルレーヌからの霊感の賜物、ヴェルレーヌ、短調で歌わず長調で歌ったならもうすこしは幸せを信じられたかどうか。

⛳焦り焦り7時ジャスト更新。
けさは間近に見える山脈にかかった雲が上空に吸い上げられるように消えていった。6時半ごろに消えた雲。それがいまはまた小雨。

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20518クラシック倶楽部を聴く  反田恭平ピアノ・リサイタル

反田恭平 オール・ショパン・プログラム情熱的な演奏で注目を集める若手ピアニストによるスペシャルコンサートポーランドが生んだ天才ショパンの傑作を演奏―番組紹介よりー 

🎵反田恭平、78歳からショパンを弾きはじめる。2012年、高校在学中に日本音楽コンクール第一位。いまはワルシャワにあるショパン音楽大学に在籍中だとか。華々しい足跡がある中で、演奏上の正解といったところを学びたくポーランドに。徐々に自分のものになっているのかなと話している。それにしてもファツィオリのネームが際立って美しく見えたのは、彼の演奏の為せるわざだろうか。「アンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズ」、さえざえとした音の瑞々しさを10指が汲めども尽きず呼びこむといった感じ。「マズルカ 作品563」にあたってのコメントでは、音楽の学びも研究的な視野で様々な角度からの磨き上げがあるよう。ショパン博物館にはショパンの実譜、漢字がこれでいいのか後で確かめなくてはならないけれども。自筆譜ということか、それやら、使用されなかったアイデアが遺されているらしい。ショパンは何と50曲以上のマズルカを作曲しているという。当時マズルカを聴いた人たちの感想もあるらしいが、拍子にこだわりがあったと。ルバートの理解だが、ちょっとググってみると、イタリア語で、「テンポを自由に加減(速くしたり、遅くしたり)して、自由な速さで」、テンポ・ルバートは「あるフレーズ内のテンポを自由に加減しながら奏すること。 機械的な正確さでなく、感情を自由に自然に表現できることが特徴で、ショパンにより有名になった」とある。反田さんは「ゆしてゆらして、大木の枝先にある木の葉だけがうごいているような感じがルバート」であると。勝手に自在にざわざわと葉叢を自在にゆらしてみるとこれがなかなかおもしろい。「3はファンタジーに近い」と反田さんがいう内容をwikipediaで言い換えてみると「第35番、ハ短調。全マズルカ中でも1,2を争う規模の大きな作品であり、バラードのように次から次に転調や新しい楽想が盛り込まれ、幻想曲ともとれる、長大な構成である」ということだった。音楽もたどれば奥が深い。ついていけないほどのもの、そこがまた魅力とも。「ソナタ第3番」、晩年に近い作品。バッハの対位法が忠実に再現されていると。「3回目の主題が迫るとあー、きたきたとざわざわする、」こんな生なコメントにざわざわ。この曲にはショパンの生涯がこめられているらしい。しかし絶えず現在進行形の学びのある方々の演奏はやはり常に新鮮。すばらしかった。

🎧🎵名曲アルバム。「フィンガルの洞窟」メンデルスゾーン。指揮・尾高忠明


⛳10時48分更新
そういえば「樹上ざわざわ」で思い出したが、昨夜の「ダーウィンが来た」、筆者には間違ってもダーウィンは来るはずがないのだが、それが間違って来てしまったか。これが屋久島の杉の巨樹の調査のこと。ランクされていた4本の杉の“格付け”が変更になってしまった。いつの収録かは見ないでしまったがたぶん2017年か。トップに躍り出たのは「天空杉」。高さ45メートル。幹回りは12,43m。まだまだ知られざる屋久杉は存在するようだ。1000年以上もの時空を超えて樹上をざわざわと。おもうだけで気が遠くなる。意外なことに巨樹は肥料分が少ないところに生きつづけるらしい。

 

 

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きょうのことば

きょうはインマヌエル盛岡キリスト教会2020年5月10()のメッセージをおつたえいたします。
國光勝美牧師、國光ひろ子牧師の岩手での主のご奉仕は47年目となっております。

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説教題 『多様性の中で』 (國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 エペソ人への手紙 第4章716

4:7しかし、私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました。 4:8そのため、こう言われています。
「彼はいと高き所に上ったとき、
捕虜を連れて行き、人々に贈物を与えられた。」

4:9「上った」ということは、彼が低い所、つまり地上に降られたということでなくて何でしょうか。 4:10この降られた方ご自身は、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方でもあります。―― 4:11こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、あるたちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。 4:12それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。 4:13私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。 4:14こうして私たちはもはや、子どもではなく、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、 4:15むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。 4:16キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

 

<説教>

 いま私たちはエペソ人への手紙4章を学んでいるところです。きょうは7、8節のところから学んでいきます。特に7節に目を留めさせていただきましょう。
4:7しかし、私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました。
これとよく似たおことば、これが第一ペテロ410節にあります。
4:10それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。
 この並列的な二つを合わせてみると、教えられるところが多くあります。注目していただきたいのは、エペソ4章の方には「与えられました」とあります。
「私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました」
 これに留意して第一ペテロの410節を見ますと、
「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みのよい管理者としてその賜物を用いて互いに仕え合いなさい」
 ここで聖書がいっていることは、私たち一人ひとり神様から賜物が与えらえられている事実を認めなければなりません。えっ、私が神様からそんな賜物を受けているんですか?そうです。受けているのです。受けているのですけれども、それをどれだけ自覚して、良い管理者としてそれを用いていくことができるのか、そこが問題です。

 タラントということばがあります。新約聖書マタイの福音書25章にでてきます。イエス様のたとえばなしです。何をいわんとしているのでしょう。14節からですが、
25:14天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。
 ご主人が尊い財産を預けて旅立った。いいえもらってません。私に賜物なんかあるでしょうかと思った方おられるでしょうか。いいえ、私たちは神様からそれぞれ賜物をいただいているのです。財産を預けられているんです。そして、
25:15彼はそれぞれの能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。
 イエス様はご自分が帰っていらっしゃるまで、さあこの賜物を用いて働きなさい、恵みの良い管理者でありなさいといってるのです。それぞれの能力に応じたタラントを預けます。不公平だと思われますか。いいえ、神様はそれぞれ異なった能力に応じてお与えになる。能力が異なっていていいのです。誤解を招かない表現をしなければなりませんが、神様はある意味思いっきり不公平な方なのです。だって私たちはこのように日本に生まれていますけれども、たとえばアフリカの内戦状態のところに生まれて、そこで生活している人たちもある。これほど不公平なことはない。だけれども神様は私たち一人ひとりに、その状況に置かれた能力に応じてちゃんとタラントを与えて預けていてくださる。

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 因みに一タラントは、今の価格で約6000万円。二タラントは12000万です。これだけあなたに元手を預けるから、さあ、しっかりやってごらんと言われる。五タラントなら3億。どうでしょう。私はそんなに預かっていない。すばらしいタラントを与えられているにも関わらず、それを自覚できなかった人はどうしたでしょう。たとえば一タラント預かったしもべは、この元手を失くしてしまったら、ご主人様にこっぴどく叱られるかもしれない、失くさないように土を掘って埋めておこう、そしてご主人様が帰ってきたら、あなたから預かった一タラントはここにちゃんとありますといってお返しすればいいだろう。
25:16五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。 25:17同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。 25:18一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。
 ここに五タラント預かった者は出て行ってさらに五タラントもうける。6億です。すごいですね。二タラント預かった者はほかにまた二タラントをもうけた。一方、一タラントを預かった者は出て行って、地面に穴を掘り主人の金を隠しておいた。
25:19さて、かなり時がたってから、しもべたちの主人が帰って来て彼らと清算をした。 25:20すると、五タラント預かった者が進み出て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、私はほかに五タラントをもうけました。』 25:21主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
 ご主人様にとって、この五タラントは僅かなものなのです。預けられた者は感謝して、このご主人様のために増やしておいたわけです。
25:22二タラントの者も進み出て言った。『ご主人さま。私は二タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、ほかに二タラントをもうけました。』 25:23主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
 この二タラントをしっかり自覚してそして増やした。
25:24一タラント預かっていた者も進み出て言った。『ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからから集める、厳しい方だと分かっていました。
 これはご主人様に対する偏見です。自分がひねくれているからひねくれて見えてしまうのでしょう。或いは、どうしてあいつには二タラントで自分にはたった一タラントなんだという妬みであったかもしれません。
25:25それで私は怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください、これがあなた様の物です。』 25:26しかし、主人は彼に答えた。『悪い、怠け者のしもべだ。』
 
こうしてひとり叱責を受けている。

さてエペソに返りましょう。エペソ47節、
4:7しかし、私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました。
 私たちのキャパシティー、能力はみな一人ひとり違っている。違っていていい、違っているそのあなたに、違っているわたしに、違っているあの人にこの人に、神様はちゃんとすばらしい賜物を与えていてくださる。それをどうか与えられていないなどと言わずに感謝して主の御用のために精一杯よい恵みの管理者としてその賜物を用いて、何のために用いるかというと、
4:12それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。 4:13私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。
 私たちはキリストの体を建てあげるための体を一人ひとりが主から与えられている。悪い怠け者のしもべは、私にはそんなところはない、あの人のように私にはできませんと斜にものを見て自分を過小評価してしまっている。でもそうじゃない、6000万円をこんな私に預けてくださる。自分のはあの人と比べて少ない、この人と比べて少ないということではないのです。こんな足りない者に主は預けてくださったことに心から感謝して、自分に与えられた賜物を精一杯、キリストの体である教会の建て上げのために用いることができたらどんなにか幸いでしょうか。

エペソ48節、9節、これは字義通り読んだだけでは背景がわかりません。その意味するところが分からない。難解なところです。このところでパウロが頭に描いているのは、凱旋将軍が捕虜を沢山引き連れ、戦利品として沢山の宝物をもって自分の国に凱旋してくる、そういったイメージです。大戦利品をもって帰って来た。凱旋将軍は主イエス様です。主イエス様はサタンと戦い、見事に今までサタンの支配下にあった者たちを解放し、つまりサタンの虜になっていた私たちを主は解放し戦利品として、悪魔と戦った勝利の戦利品として、ほら、私はサタンの手からこれほど多くのものを取り戻しましたと知らしめている。そしてその素晴らしい賜物を凱旋将軍が、一人ひとりに与えていく。それを背景としてイエス様がいと高いところにのぼられた。勝利をしてイエス様は天に帰っていかれたのです。ならば降って行ったというのはどういうことなのか、イエス様は十字架でサタンを打ち砕いて黄泉にまで降って行った。そして凱旋将軍として黄泉から復活してくださり、勝利の主として天に帰っていかれた。そのときにイエス様は私たちに素晴らしい賜物、タラントを与えてくださった、そのように解釈していただいてよろしいかと思います。
4:10この降られた方ご自身は、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方でもあります。4:11こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、あるたちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。
 この11節を簡単に解説いたしますと、「使徒」と最初にあります。使徒と弟子とある意味重複しているのですが、聖書で使徒というのはイエス・キリストの教えを直接、間接にではなく直接受けて福音を伝える教会を指導する者たち。使徒というのはイエス・キリストの生き証人、復活の証人、これが使徒です。ですので使徒は当然キリストの弟子でもあるのですが、「使徒」という場合には、キリストの生き証人といいますか、直接イエス様と面会をし、だからペテロは十二使徒と呼ばずに使徒なのです。ところがパウロの場合には果たして使徒といえるのか。他の人たちは、パウロがどんなに偉いといってもあのイエス様と3年半寝食をともにしたペテロさん、ヤコブさん、ヨハネさんたちの足元にも及ばないじゃないかと悪口を言われる立場でもあった。しかしパウロはいっています。「私は使徒です。よみがえりのイエス様から直接私はあのとき選ばれた器として任命をいただいた、私は列記とした使徒です」。つまり使徒というのは直接イエス様とお会いし、福音を伝える教会を指導する。それから預言者は神のことばを人々に伝える説教者です。決してノスタラダムスの予言といったような意味での予言ではなく、神様のことばを人々に宣べ伝える立場にある者のことで、その賜物をもっている、与えられている人を預言者といいます。それから伝道者、これは教会の外で巡回して未信者に福音を宣べ伝えること。それから牧師、そこに形造られた神様の群れを餌を与え水を飲ませ、というように、神の群れをケアーする、そういう役割を持っている人が牧師です。12節をこのように味わうこともできます。

 ではこの賜物というのは。エペソ4章には、イエス様が復活してこの賜物を戦利品として賜物として分け与え、11節にあるように
「ある人たちを使徒、あるたちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。」
 ここにはある意味教会の土台となるような代表的な立場の者たちがあげられていますけれども、しかしこの他に、
例えばローマ人への手紙の126
12:6私たちは、与えられた恵みに従って、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、12:7奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、 12:8勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれを行いなさい。
 ここでの賜物ですが、教会にはこのような色々な賜物を持った人たちがいるとありますし、
もう一つ第一コリント128~11
12:8ある人には御霊を通して知恵のことばが、ある人には同じ御霊によって知識のことばが与えられています。 12:9ある人には同じ御霊によって信仰、ある人には同一の御霊によって癒しの賜物。12:10ある人には奇跡を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。 12:11同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。

そしてこれらはみなエペソ4章の1213
4:12それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。
神様はキリストの体をたてあげるために賜物をくださっています。

20200513-84400

 私たちは1タラント、6000万円を与えられているにも関わらず、おお、こんな恐ろしい主人だからと土の中に隠してしまうような者なのか、それとも自分のようなものがこんなにも与えられていると認め感謝してキリストの教会の建て上げのために私はこれができる、これをさせていただくと恵みの良い管理者となり、教会生活ができたなら、ほんとうに主に喜ばれる者になるのです。

 

※イラストは教会からお借りしています。

 🏠6時59分更新

 

 

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雑感

J-MERO
ゲスト:刀剣男士 formation of 三百年、SHISHAMO

刀剣男士、名刀になりきっての和製「剣の舞」、フランスでも随分と受けたようだ。ハチャトゥリアンの「剣の舞」は丹力がすわっており地鳴りも凄みもある。和製の方はアニメ的軽みが。またそれがなければ受けはどうだったのか。ジャンルの違いか。何しろ遠く過ぎ去った時代の目で見、聴いている。SHISHAMO、歌詞「そんなやつのことばに律義に傷ついてあげることはない」になるほど。「夏の恋人」、これがごくふつうにありそうな若者の生態、そのふつうをかき乱さず説教がましくなく肯定、温存っぽくうたうところが何とも。年代の剥離を感じつつある近頃。

 ☆

 もう9時6分。休養日にしたい気分もしながら、朝食を優先。コーヒーをいただき、朝ドラをふたつ、「はね駒」、明治大正のクリスチャンはすばらしかった、何は無くても輝いていた。あなたはどう? と自問して、「ええ、そうですね、教会に行き続けたのでいまぐらいに収まっていますが。もし行っていなければどうだったでしょう」、これに関して言うなら、神から離れると自堕落になり、神を見上げている時には何か目の前のその時その時を虚しくなく歩めているのは確か。「エール」、山田耕作をどう演じるか楽しみ。古賀政男がどうかかわっていくか、昭和6年でした古関が早稲田の応援歌を作曲したのは。古関のこの作り上げ、墓の中で苦笑いしているのでは。「そうですね、ちょっと遺憾なところもありますが大衆に楽しく見ていただくには少しは妥協せんといかんですかな」といっているかどうか。藤山一郎はすばらしかった、それをどこまで、等など興味尽きずに。そうだ南瓜とカリフラワーを煮ておこう、そういえばけさのTVでいっていた鰹のカルパッチョ、作り方はどうだったろう、そうむずかしくないはず。冷凍鶏肉を出しておかなければ。あとは何考えてたっけ、そうそうきのうのクラシック倶楽部のこと、エリュアールの詞、詩人の思想は相いれないとしても、目に映る意識にあるもののすべてに「書きつける」を思い出し、いま目の前にある一つ一つに次ぐぎに視線をあてていたけれども、これがたいへんな数であることを発見。たぶん人様の家に比べて物はぐんと少ないはずだが、ただ人様の家より多いものとしてはCD,DVDの類。これは息子が置き所に事欠いて実家を倉庫代わりにしているため。それはともかく。これらぜんぶに書き記すとしたら何をいちいち書き込むのかなどなど、こうしている間に9時半

⛳今向かいで工事中の釘を打つ音を聞きながら9時33分更新


 

 

 

 

 

 

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20515クラシック倶楽部を聴く  東京混声合唱団

1956年の設立以来、250回を超える定期演奏会、200曲を超える新曲委嘱を行ってきた東京混声合唱団。設立以来、日本の合唱界をけん引してきた円熟のアンサンブルをご紹介します。【出演】東京混声合唱団(合唱)、山田和樹(指揮)、福間洸太朗(ピアノM3のみ)【曲目】1.コンダリラ(スティーブン・リーク作曲)、2.カンタータ「人間の顔」(プーランク作曲)、3.混声合唱とピアノのための「鉄道組曲」(信長貴富作曲) 【収録】2020年2月8日 東京文化会館 小ホールで収録―番組紹介よりー

🎵東混の桂冠指揮者は田中 信昭。この合唱団が創立当時に掲げた目標は三項目。
一、楽しい雰囲気の演奏会を行う。
一、職業合唱団として成立させる。
一、日本の合唱曲を創る。
この三つめがやはりすごいところ。200を超える新曲委嘱作品を誕生させたわけだ。現在の指揮者はブザンソン指揮者コンで優勝の山田和樹だ。

「コンダリラ」、あっと驚く演奏技術。「カンタータ 人間の顔」、「鉄道組曲」と、この合唱団だからこそ演奏しきれるといった感じが。「鉄道組曲」は委嘱作品で勿論初演。作曲家・信長貴富、巧まざるというよりも巧んで巧んで仕掛ける作曲家なのではないか。意外の次に来るのはまた意外。1~5曲までの総体的な透徹した連関というか、凡人筆者はこの曲をこの時間帯でただ一度聴いただけでは、それを見とおせずに戸惑っている。よく聴いてみなければならないというべきなのだろうが、よく聴いた先がどうであるのか。
 山田和樹が「今回は自然があり、人が生まれ、音楽が生まれた」といったストーリー性を持たせた選曲と。やはり委嘱初演が真骨頂、東混の技量の高さを語っている。
「コンダリラ」がいちばん自然に近く自然と人とのかかわりの親密さ、民俗色もあるという点でわかりやすかった。ジャングルに忍び入る陽光の明滅と感じられた旋律が印象的。「人間の顔」はプーランクがナチス占領下のパリで作曲した。ポール・エリュアール、ダダイズムとシュールレアリズムの具現、型破り、既存の破壊。凡人筆者からすれば精神分裂的。「人間の顔」、ここでは高橋秀雄・訳。メモりかねたのでちょっと別訳を一部個人的な参考のために

VIII. 自由
学習ノートに/机に 木々に/砂に 雪に/ぼくは書きつける
読み終えたページに/真っ白な紙に/石 血 紙 又は灰に/ぼくは書きつける
黄金の像に/兵士の武器に/王冠に/ぼくは書きつける
ジャングルに/砂漠に/巣に 藪に/子供の頃のこだまに/ぼくは書きつける
すてきな夜に/白いパンに/婚約した季節に/ぼくは書きつける
青いぼろきれに/沼に カビの生えた太陽に/湖に 明るい月に/ぼくは書きつける
野原に 地平線に/鳥の翼に/風車の影に/ぼくは書きつける
オーロラのきらめきに/海に 船に/悠々たる山に/ぼくは書きつける
あわのような雲に/嵐のような汗に/霏霏たる雨に/ぼくは書きつける
きらめく形に/色鮮やかな時計に/物質の真実に/ぼくは書きつける
上り坂に/広い道に/はみ出た場所に/ぼくは書きつける
燃えるランプに/消えたランプに/建て直した家に/ぼくは書きつける
鏡の中の 部屋の中の/おいしそうな果物に/ベッドに 貝殻に/ぼくは書きつける
食いしん坊のかわいい犬に/ピンとたった犬の耳に/不器用そうな犬の足に/ぼくは書きつける
玄関のステップに/見慣れたオブジェに/聖火の列に/ぼくは書きつける
調和した肉体に/友達の額に/差し出された手に/ぼくは書きつける
驚きのガラスに/きりりと黙って/引き締まった唇に/ぼくは書きつける
廃墟の隠れ家に/崩れた灯台に/倦怠の壁に/ぼくは書きつける
欲望の不在に/裸の孤独に/葬式の行進に/ぼくは書きつける
回復した健康に/なくなった危険に/過去のない希望にぼくは書きつける
言葉の力を借りて/ぼくは人生をやり直す/その言葉がぼくを勇気付ける/それは自由という言葉だ

あとでよく読んでみなければならないが、何れエリュアールも今回は東混の演奏のすばらしさの証明に貢献してくれた。

 

🎧名曲アルバム。「バレエ音楽マ・メール・ロアから妖精の園」(管弦楽)東京フィルハーモニー交響楽団,(指揮)北原幸男 ~パリ・フランス~
当初はピアノの連弾用として書かれたらしい。

⛳7時1分更新を書き忘れ、8時4分に書き入れ。

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20414クラシック倶楽部を聴く  イ・ムジチ&天羽明惠(あもうあきえ)

 

 

「イ・ムジチ」。イタリア語で「音楽家たち」という意味の名を持つ合奏団は、聖チェチーリア音楽院の卒業生を中心として1952年にデビュー。以来、長年にわたりさまざまな音楽家との共演を重ねてきた。今回の共演者は、日本を代表するオペラ歌手の一人、ソプラノの天羽明惠。華やかなコロラトゥーラとリリックな声が、国内外で高く評価されている。イ・ムジチの生き生きとした演奏と天羽の歌声が奏でるハーモニーをお届けする。(番組紹介より)

🎵「イ・ムジチ」、当年68歳か、楽員の入れ替りはあったと思うけれども今もってこの響きは身近。今回は天羽明惠(あもうあきえ)との共演。サントリーホールだ。イ・ムジチがこの国に定着させた「四季」はもしかすれば編集上割愛であったか、モーツァルトの「ディヴェルティメント」から。そしてヘンデルのジュリアス・シーザーから「辛い運命に涙はあふれ」、命ある限り運命を嘆き、あの世に行ってもこの暴君に悪霊になって夜も昼もつきまとって苦しめるのだという内容。小畑恒夫・訳は切々と。あもうあきえのコロラトゥーラとリリックが嘆きだけではやはりおさまらず、ヘンデルのラルゴ「懐かしの木陰」―これほどの陰は存在しなかっただろう/草木が作り上げた中で/かけがえなく愛おしい/ほんとうに心地よい/これほどの陰は存在しなかっただろう-多田茂夫・訳。聴くたびに深々とした包容力と安息に包まれる。これは庇護者をたとえているのかも。この木の樹齢は何年で樹種はなんだろうかとふと思った。銀杏ではないだろう、針葉樹でもない、やはり楠の木だろうか。樹齢は1000年という感じではない、100年近く。或いは200年などと想像してみたが……。(あとでユーチューブで聴き直したところ、プラタナスと出ていましたが)。そしてテレマンの「ディヴェルティメント第2番」。テレマンは多くの宮廷、教会に仕えたほか、市民のためにも音楽をもたらすことに尽力した人物と自分の中では位置付けられている。これは1767年テレマン最晩年の作品らしい。なかなかすばらしい。モーツァルトの「モテット」から「踊れ、喜べ、幸いな魂よ」。神に祝福された幸いな魂が踊り喜び歌う歌には天も共に歌う。童貞者はわれらに平安と慰めを与えたもうという内容。あもうあきえが喜びに満ちて、この曲を歌い、続いて「ハレルヤ」ではコロラトゥーラは天にも響きその頂点に。

🎧🎵名曲アルバム「ハンガリー舞曲第5番、第6番」ブラームス。(管弦楽)東京フィル,(指揮)田中良和 
ハンガリーの独特なお国柄紹介。どこに行っても情熱的で即興にあふれる生演奏が迎えてくれそう。今回はブダペストの街。

 

⛳後番組「中国」と聞えて、コロナ収束後の経済地図かと聞いていると、四川省西昌のロケだった。コロナ終わればぼちぼちと中国企業支配が始まるかと懸念。
 西昌の少数民族イ族といったろうか、独特ないでたちがまだ廃れないでいることに何かほっと。
7時1分更新。

 

 

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20513クラシック倶楽部を聴く  モイツァ・エルトマンのソプラノ

「声は神様から授かった贈り物」と語るドイツのソプラノ、モイツァ・エルトマンのリサイタル。メンデルスゾーンとモーツァルトのみで構成された意欲的な演奏会から。
メンデルスゾーンとモーツァルトのみで構成された意欲的な演奏会から、世紀を分かつ二人の作曲家の声楽曲をお送りする。【出演】モイツァ・エルトマン(ソプラノ)、ゲッツ・ペイヤー(ピアノ)【曲目】歌の翼に(メンデルスゾーン作曲)、春へのあこがれ(モーツァルト作曲)ほか【収録】2018年7月3日 紀尾井ホール  ー番組紹介からー

 

メンデルスゾーン
新しい恋. 19a-4
ライカ Op. 34-4
Op. 86-5
歌の翼に Op. 34-2

モーツァルト
満足 KV349
すみれ KV476 
寂しい森の中で KV308
魔法使い KV472
ルイーゼが不実な恋人の手紙を焼いたとき KV520
こころよい静けさが KV152
歓喜に寄す KV53
春へのあこがれ KV596
ラウラに寄せる夕べの思い KV523
アリア「我が美しき恋人よ、さらば」 KV528
アンコール メンデルスゾーン:夜の歌Op.71-6

🎵妖精のような白いドレスのエルトマン。澄明な歌声でリリカルに聴かせてくれたのはメンデルスゾーン。彼女が歌うと、メンデルスゾーンの音符にはみな小さなきららかな水晶の羽がついているかのよう。エルトマンが言うに「モーツァルトの歌曲には無駄がない。大げさな表現で余計なことをするとすべてが崩れてしまう」「逃げも隠れもできない」。モーツァルトがどの程度、頻度で推敲をしていたものかはわからないが、巧まざるして出来上がった楽曲とはこうしたものであろうか。「我が美しき恋人よ、さらば」、これは圧巻だった。エルトマンが抒情歌手としてもすばらしいが、その範疇を超えた瞬間。バイロイトの華たりうる所以を聴いた気が。平岡さんであったか「劇的な詞と歌が剥離することが無い」とネットに出ている。
 それぞれの詞も興味深い。「満足」は小さな幸せに満足し感謝する心情を歌う。これには2通りの詞があるようだが、今回はウルムの牧師で民謡風の歌を作詞していたミラーの詞であった。神様から健康を授かってさえいれば心朗らかに感謝の気持ちを持って暮らせるという内容。「すみれ」のはじめは、いかにもああエルトマンが歌うに相応しいと思いきや、突如すみれが起きあがりすみれの本音を呟いたか、がらりと詩の雰囲気が変わる。踏みつぶされたすみれが、どこかの頁で「あの子に踏み潰されるのなら死んでもいい、と口にするのだから。明るさの影に見え隠れする生の儚さを示唆する箇所であるが、その細やかな歌い分けも万全だ」と感想か解説かを述べていたけれども。日本のリートにこんな詩があったかどうか。

 

🎧名曲アルバム。「交響曲第6番」マーラー。ロケ地オーストリア、ウィーン。飯森範親、N響。
🎵マーラーはユダヤ人であったこと、強引で頑固であったことから敵が多く、孤立を深めて10年でウィーンを去ったという。このことからさまざまに思い巡らすことがあった。ただマーラーのような大作曲家ではなく、凡人我に関する思い巡らしなのだが。

⛳5時起きで、というよりも4時起きで「わたしは決してあなたをひとりにしない」(サラ・ヤング著)を読みさまざま思いめぐらし、それから5時にクラシック倶楽部をとTVオン。なかなかに透明度も高く、アリアではどこからこんな闘志といえなくもない力が湧くのか、声にパワーが漲るのかと驚き聴いたものの、この時間の更新。この時間までには感動をぼちぼちと落としてしまった感じが無きにしも。21時18分更新。


 

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20512クラシック倶楽部を聴く 小山由美 メゾ・ソプラノ

クラシック倶楽部 小山由美 メゾ・ソプラノ リサイタル20世紀の作曲家たちの知られざる名曲を集めた演奏会から。【出演】メゾ・ソプラノ/小山由美、ピアノ/佐藤正浩【曲目】シュテファン・ゲオルゲの詩による「架空庭園の書」から(シェーンベルク作曲)、メーテルリンクの詩による歌曲から(ツェムリンスキー作曲)、待雪草(コルンゴルト作曲)、子守歌(ショスタコーヴィチ作曲)ほか【収録】2018年9月22日 ハクジュホール(東京都渋谷区)―番組紹介からー 

「架空庭園の書から」ゲオルグ詞、シェーンベルク曲
「眠り、眠り、眠りだけ」ヘッベル詞、ベルク曲
「メーテルリンクの詞による歌曲」、メーテルリンク詞、ツェムリンスキー曲
「歌曲集作品18から」モルゲンシュテルン詞、ヒンデミット曲
「待雪草」アイフェンドルフ詞、コンゴルト曲
「祝詞」テニメル詞、コンゴルト曲
「博物誌 こおろぎ」ルナール詞、ラヴェル曲
「永遠の謎」ヘブライの歌、ラヴェル曲
「バイオリン」ヴィルモラン詞、プーランク曲
「シラブル」、メシアン曲。歌曲集「ハラウィ」の中の8番。緑の鳩が再び現れ、オノマトペが多用される。これは猿の声の擬声語であり、猿の声の警告によって危機を脱したインカの王子を記念する「猿の踊り」を模したもの。
           以上10曲は多田茂史・訳

「子守唄」ショスタコーヴィッチ曲
「歌うな美しい人よ」プーシキン詞、ラフマニノフ曲
「私はすべてを奪われた」チュッチェフ詞、ラフマニノフ曲
           以上は伊東一郎・訳

 

 🎵以前にも聴いているはずなのだけれども、いったい何をどう聴いていたやら、今回聴いてみると、これが近年聴いたリートの中では記憶にのこるものとなった。当初、知られざる名曲と聞いて、きっと厭きるだろうと聞き始めたところが、次は? つぎは? と55分があっという間に。この歌詞はネットではおいそれと出てはこないのではないかと今そちこちをググっている。詳しく年代別に並べてみたい気もしたのだが。
 小山由美、失礼なようだけれども、敬称略で、小山由美がいうに、20世紀前半、第一次世界大戦、第二次世界大戦前後激動の時代を生きた作曲家たちがどんな曲を書いているのか、ことばを通してどんなことをいっているのか、つたえようとしているのか、いわば近代のリートの流れを理論はもっとあるのだろうけれども実際に楽曲に託してつたえてくれたのだ。一般受けしないと仰っていたが、一般受けしない曲がこんなにおもしろいとは! 実にわかりやすくリートをお話くださった。完璧に拾うことはできないが、リートを歌うことは、美術館にある一枚一枚違う絵画を客観的に見せていくこと。技術的にはその曲に合った彩あい、これが歌曲の中では、というより、その絵画土壌にもドイツ、フランス、ロシア、スペインとそれこそ限りなくあるはずだが、その国の原語ドイツ語、フランス語などなど、けさちょっとゲール語の話しが後番組に出ていたが。ちょっと逸れたけれども、言語も音楽のうち、そしてここが大切なのだろう愛情のこめ方だという。そして次が歌い手にとって険しくも厳しいところなのかと思うが、「パーソナリティを聴かれている」というのだ。これは怖い。次に出てくる言葉は「真価」といった予感に怖くなるのだが。「日本人なら日本語に対する思い入れ、自分にとっての思い入れをもっとこうだとはっきり主張するべきだ」と。「たとえ反発があっても自分のやりたいことを出すこと」であると。
 どこが良かったか、「どれもそれぞれに」、どれも捨てがたいということなのだが、歌詞の内容、それに密着し引き出してメゾ・ソプラノの幅のある奥行のある豊かさで「ぐんと惹きつけられたという点では、「架空庭園の書から」、「メーテルリンク」「祝詞」、メシアンの「シラブル」、ショスタコーヴィッチの「子守唄」これを聴きながら、ソ連時代の収容所列島なども思い出し、子守唄というよりはソ連、ロシアの多くの婦人たちのやりきれない癒しがたい思いがつたわってきた。そして
「私はすべてを奪われた」―私はすべてを厳格な神に奪われた/健康も 力も 意志も 呼吸も 眠りも/神が私に残されたもの/それはお前だけ/神へと 私はまだ祈りを捧げることができるようにとーこれがどなたの訳かは不明。ネットから

 

🎧名曲アルバム「バイオリン協奏曲」シベリウス。バイオリン加藤知子、指揮現田茂夫、東京フィル?

🎵加藤知子のバイオリンが映し出す、そんな感じで映像を観ていたのだけれども。ここでも聴覚、心を病む夫の癒しのために山荘に生きる決意をする妻のすがたが。ヤルヴェンパーの森の光と影。

⛳書き始めが何時であったか、何れ11時更新。

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20511クラシック倶楽部を聴く  戸山俊樹バス・リサイタル

 クラシック倶楽部の後番組、素顔のローマ、と聴いて、ついそちらに神経が行ってしまった。クラシック倶楽部は7時までに書いてしまおうというパターンが近頃崩れかけている。イタリアのみならず、これはヨーロッパに関していえることなのだろうが、修理をしようとしても足場を組めない教会や遺跡が多く、それを岩登りの達人が遺跡修復しているのだという。もっとも修復場面はあまりなかったが。それでついついまた朝食後にこれを書くことに。

 

けさのクラシック倶楽部は
「長年ドイツ歌曲に取り組んできたバスの戸山俊樹が満を持してのぞむブラームス鈴木謙一郎(ピアノ)「永遠の愛 作品43第1」「野の寂しさ 作品86第2」ほか(番組紹介より)」

🎵
55
分編集の中で14曲を次つぎに歌ってくれた。オールブラームス。歌う方々は、曲が変わるごとによくもこのようにその曲に入り込み、歌い上げるものと感心していたが、戸山俊樹が仰っていたが、これはオペラの経験があり集中力も備わっていてできることであると。オペラでは状況にすぐに入っていける訓練を積むのだそう。オペラは登場して最後まで一つのキャラクターを演じ歌う。いうなれば一つのドラマにのっとって歌えるということなのだろう。ところが歌曲は一曲一曲ステーションを変える。オペラでは状況にすぐに入っていける訓練もするようで、それで一曲一曲の感情移入が訓練によって可能になっているのだろう。

ブラームス。コメントでは、ブラームスは寂しがりや、内向的、人づきあいが下手、まだあったような気がするが、孤独でもある。付き合うのは難しいタイプの人である。ブラームスの歌曲は派手ではないがロマンティックな孤独な世界を大切にした作曲家であると。

「おまえの蒼い瞳よ」(グロート詞)、「帰り道はどこ」(グロート詞)、「ごきげんいかが私の女王様」、「墓地で」(リーリエンクローン詞)、「湖で」(シムロック詞)、「われらはさまよい歩いた」(ダウマー詞)、「5月の夜」(ヘルティ詞)、「永遠の愛」(ヴェンツィヒ詞)。次からは「49のドイツ民謡集」からで、「一本の菩提樹が立っている」、「谷の底では」「しずかな夜に」。アンコール曲は「「愛の歌」(ヘルティ詞)、「たより」(ダウマー詞)、「野の寂しさ」(アルメルス詞)
このうち今回はドイツ民謡集の歌詞がどんなものかを集中的に聴く。喪失、嘆きのうたであるのだが、ブラームスが共感した歌詞が選ばれ作曲されたということなのかとも。民謡集の歌詞がすべてこうであるかどうかはわからない。
それにしても、メランコリックな内容を曲によって歌い分け表現がなされていることに唸る。「墓地で」の<嵐が止み 棺は安らぎ 墓石のすべてに露が降りる「復活」と>のフレーズに、葬儀崩壊に陥った状況が思い起こされ、墓石のすべてに、故人のすべての方々に、あり様はどうであれお一方お一方に露が降りふさわしく神のお取り扱いがあるであろうことを信じたことであった。

もうすこし時間が経てば、筆者にもダウマーのように「想ったことはすべて美しかった、天国のように明るかった、頭の中で思ったことが、金色の鈴のように鳴り響いた」と思われる日が訪れるだろうか。

 

🎧名曲アルバム。ワーグナーの「パルシファル」
カメオ細工工房が立ち並ぶ街。工房を興味深く。

⛳朝食を先に終え、用事の二つ三つを足しながらの更新。けさもいい天気。連なる山々は緑うるうる、翠は光に相和して活き活きとしかし理性の効いた彩を放っている。5月は夜ではなく昼に見るに限る。この眩しさと輝きはいまが一年で最もすばらしい!
8時54分更新

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きょうのことば

きょうはインマヌエル盛岡キリスト教会2020年5月3日()のメッセージをおつたえいたします。
國光勝美牧師、國光ひろ子牧師の岩手での主のご奉仕は47年目となっております。

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説教題 『一致の土台』 (國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 エペソ人への手紙 第4章16

4:1さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなた方は、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。 4:2謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、 4:3平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。 4:4からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。 4:5主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。 4:6すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神はただひとりです。

 

<説教>
(先週の復習は割愛します)

きょうはエペソ人への手紙44節からです。エペソ4:4~6に書かれてある一つとは何かを整理してみましょう。「一つの望み」「一つのからだ」「御霊は一つ」「主はひとり」「信仰は一つ」「バプテスマは一つ」「父なる神はただひとり」。私たちはこれらのすべての「一つ」と一つです。

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 このことを可能にするのは謙遜です。「きよめの証し」「一致の体験」を可能ならしめるのは「謙遜」です。神のからだに属する個々は一つといっても、人はみなタイプが違います。一致というものが頭でわかっていても、実際に協調し共に歩むことを可能にするのは「きよめの恵み」です。罪がすべて十字架の血潮によってきよめられ、除去され、聖霊をいただく、満たされるという恵みに与るときにこの一致ができます。「きよめ」は言い換えれば「謙遜」です。それはイエス様に見られるものであり、お互いを尊敬し、相手を自分よりも優るものと位置付ける。クリスチャンの場合は、間違いを犯して一致が崩れるということはあまりありません。だいたいは良かれと思う目的のために不一致を生じることがある。目的をめぐる方法では自らの信仰が非常に試されることがあります。

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 あるエピソードがあります。竿代先生が板橋教会にいらしたころでした。ある兄弟が交通事故を起こし、竿代師に相談したそうです。警察で面会し話しを聞いたときのこと。この兄弟が或いは興奮していたのでしょう「私は悪くない! 相手が悪い!」と言い放った。それは彼の確信であり、嘘は言っていない。しかし先生はこう言われた「あなたの言い分は、主張はよくわかりました。しかしあなたのこの言い方が違っています」。たしかに自分は正しいのかもしれない、しかしどのようなあり様でそれを相手に伝えるかです。このようにきよめが試されるときというものがあります。

 ここでパウロとバルナバのことが思い出されます。パウロは謙遜な器として聖書に書かれています。このパウロにして、こういう間違いはあるのです。あのマルコ伝を書いたマルコがまだ若かったとき、パウロと伝道旅行をしたことがあります。このときマルコは旅の辛さに耐えかねて帰ってしまった。パウロが次の伝道旅行に出かけるとき、懐深いバルナバが、反省し次のチャンスを待っているマルコを連れていこうとしたところ、パウロはあのときでマルコの本質がわかったからだめだと拒否してしまう。このとき、パウロとバルナバの間には激しい反目がありました。バルナバはパウロの才能を見つけ出し世に送り出したいわばパウロの恩師であります。しかしパウロはバルナバの提案を拒否したのです。それでバルナバはマルコを連れて別な伝道旅行に出かけます。結果的にパウロがヨーロッパに福音を伝える旅にバルナバとマルコの名前は出てきません。


 パウロに拒絶されたマルコですが、彼は後になってバルナバによって見事に再生しマルコの福音書を書いております。パウロが殉教するときには、パウロはマルコに全面的な信頼を置いて助けられております。あのとき、パウロは自分が正しいと思っていったわけでしたが、その方法、言い方はどうだったのでしょうか。バルナバはマルコを何とか育てたいと進言したに違いありません。ところがパウロとバルナバは激しく反目する羽目になった。
 しかしパウロはこの後で、神様から気づきを与えられ、くだかれ、築き上げられていったでしょう。パウロは決して欠点のないひとではない。このようなことをきっかけに磨き上げられていった人物だったでしょう。

 職場、近隣にあっても、同じようなことがあるでしょう。爆発し、けんか腰に言い争うこともある。そのようなときには、お詫びして神様の前に出ましょう。そこで忍耐を学ぶでしょう。「4:2謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、」とあるとおりです。
 インカ帝国の遺跡マチュピチュの石垣をご存じかと思います。剃刀の刃一枚通さぬ強固な石垣です。石を長い時間をかけて削り調整し積み重ねていった。どうか謙遜に神の前に出て悔い改め神様に扱っていただき、調整され磨き上げられるお互いでありたいと願うことです。

4:2謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、
4:3平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。

 

 

※画像は教会からお借りしています。説教は筆者が書いたものではなく、教会で録ったレコーダーから牧師の説教を起こし筆記しています。簡略にしたところもございます。牧師夫妻の写真は筆者が任意で載せています。

⏰5時5分更新

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J-MEROをちょっと 

J-MERO

ゲスト:MIYAVI、夏川りみ、BEYOOOOONDS、野島樺乃(SKE48)

 

🎵
MIYAVI
、筆者年代では度肝を抜かれるタトゥーのボディーにその都度ブレザーやらTシャツ、ジャケットを着けている。これがまた半端ではない世界ツァーを展開。米でのライブではありとあらゆる人種の人々がはいるのだが、これが理想、この人種を超えて一つになることが理想だという。「同じ空の下で」、「どんなに離れていても同じ空の下で生きている」一緒にいきていこうというメッセージなのか。数多くのツァーだが、難民のためにもステージに立っているところに注目。新型コロナの陰に多くのニュースが隠れてしまっているけれども、難民の方々はいまどうなっているのだろう。筆者のささやかな“国際貢献”はテヌウェック病院に送るための包帯づくり、それも所属している教会が行っているので、そのわずかな一端を担っているのみ、そして寄金というにもほんとうに僅かな僅かな寄付のみ。こういう方々がさまざまな状況に置かれている方々のために動いてくれることが如何に力強いことであるか。

「涙(なだ)そうそう」の夏川りみ、夢は沖縄の島うただけのアルバムを出すこと。歌い継ぐ方あってのみ曲は見出され生き続ける。風土から生まれた歌が風化されぬうちにと。
BEYOOOOONDS
、「日本人のDNA」、「スマホ図書館」、スマホは使わない化石的暮らしだが耳痛し。
野島樺乃、SKE48の中で歌唱力いちばんの方。あこがれのMay J.とのデュエットは「はなみずき」、この歌詞、「はてない波がちゃんととまりますように」、波は際限なくうごきつづけるもの、それが「ちゃんととまりますように」やっといますこし分かったような。

⛳6時35分ごろに地震が。あ、いま一瞬ゆれたな、と。6時42分更新

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2058クラシック倶楽部を聴く  ラファエル・アギーレ(ギター)

【出演】ラファエル・アギーレ(ギター):2007年のタレガ国際ギターコンクールをはじめ、世界の名だたる13のコンクールで優勝を収めたスペインのギタリスト。賞賛を受け続ける華麗な演奏をご紹介します。【曲目】スペイン組曲 第1集からアストゥーリアス(アルベニス作曲)、月に映えて(パコ・デ・ルシア作曲)、歌劇「はかない人生」からスペイン舞曲第1番(ファリャ作曲)、サルスエラ「ルイス・アロンソの結婚式」から 間奏曲(ヒメネス作曲)、カヴァティーナ(マイヤーズ作曲)、アランブラ宮殿の思い出(タレガ作曲)ほか【収録】2020年2月4日 浜離宮朝日ホールで収録(以上は番組紹介から)

 

🎵この収録、あとひと月ずれていたならどうなっていたやら。

ラファエル・アギーレがいうに、ギターとういう楽器は演奏技術を知らないと自然な流れを作るのが難しい、ギターは特殊なところがあって響きにくい調性があったり派手に聴こえるアルペジオやコードの組み合わせがありそれを熟知していないといけない、その点スペインのギタリストの作品にはベースとなる深い知識があるのだと。使用のギターについて話していたが、たぶんネットのどこかに書いてあるだろうとよく読まなかったところ、すこし探したばかりでは出てはこなかった。たしか2016年に父がマラガで作ったと。材を聞き落し、ググってみるとここに

 アルベニスから「アストゥーリアス」「セビリャーナス」、サビーカス「オレー・ミ・カディス」、パコ・デ・ルシア「月に映えて」、ファリャ「はかない人生」、マラッツ「スペイン風セレナーデ」、ヒメネス「ルイス・アロンソの結婚式」から間奏曲、アンコールはマイヤーズ「カヴァティーナ」とタレガ「アランブラ宮殿の思い出」

ギターの場合、たとえば「はかない人生」で民族主義と印象主義との融合と解説があっても即座にそれを聴き分けられなかったり、小曲が並んだ場合、超有名な曲しか印象にのこらず、あとは並列的に聴こえたりなのだが、これも回を重ねるうちには、じわじわと心に落ち込んでくるものかと。それにしても、間合いの絶妙さ、これは完全に曲を掌握し奏者の感性が融合を果たし、魂そのものとなったときに、聴く者の魂に届いてくるものと思われる。奏者ならずともアレーギいうとおりリスナーもまた「完璧を求めず楽しむこと」かもしれない。アルベニス、スペインの風土にこもる熱に触れた感じが。

🎧🎵名曲アルバム、シューマンの「ピアノ協奏曲」。ピアノは清水和音。指揮は外山雄三。
 今回は、クララという女性、というよりも19世紀の優れたピアニストのひとりであったというクララに想いが到った。この曲は結婚の翌年にクララのために作曲しており、クララが受けて弾いたときには8か月の身重だったという。
クララの才能のほどはと見ると、wikipediaには
クララの演奏を聞いたショパンは「僕の練習曲集を弾ける唯一のドイツ人女性」と絶賛し、その演奏のことをショパンから聞いたリストはライプツィヒの出版業者フリードリッヒ・ホフマイスターの手紙の中で、「力強く、知性的に、正確に」弾くこの若い女性の演奏を今すぐにでも聴きたい、そのようなピアニストがいることは「どの国でもきわめて稀な現象」であると書いた」
 これほどの才能を持てば、ふつうは夫よりも自分の才能の方を生かそうとするのではないか。それが夫が作曲できるようにはからうことを優先させたのではないかという気がした。作曲の才能もあったが37歳で性差別もあり断念。
彼女の作品を聴いたリストは「クララ・シューマンの作品は本当に驚くべきものです。特に女性としては。それらの中には、タールベルク(リストのライバル)の過去と現在のすべての幻想曲と比べてみても、100倍もの独創性と真の感受性があります」と絶賛。もしクララが存分に作曲を行うことができたならシューマンやシューベルトに匹敵する曲を書いていただろうか。不倫説はあるようだが、何もなくともとかく人はこの手の噂をしたがるもの。8人の子どもを見ながら演奏に駆けずり回るなど体力、気力にも恵まれていたのだろう。クララ、なにか今回心に掛かり、ざっとさらってみた。当然シューマンとともに書かれた伝記はあるだろうけれども、クララを中心に、クララを書いた伝記を読んでみたい。

⛳いま17時58分。昼前にいちど更新している。こうなるともう7時前の急げや急げマラソンはおしまいとなるかも。かも。



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2057クラシック倶楽部を聴く  ピエール・アンタイ&スキップ・センペ チェンバロ デュオ

現代屈指のチェンバロ奏者、ピエール・アンタイとスキップ・センペ。17世紀から18世紀にかけ、西洋で生まれたバロック音楽を長年演奏してきた。2017年冬彼らの舞台となったのは東京・目黒雅叙園。バロック音楽が栄えた時期、江戸時代の日本で生まれた美意識を今に伝える場所である。2台チェンバロで奏されるバロックを代表する作曲家・ラモーの名曲の数々日本と西洋、時同じくして花開いた文化の、世紀を越えた共演。(番組紹介から)

 

🎵 けさのあの響き、はらり、はらりとこぼれるようなチェンバロの音色ではない。湧き出で、沸きあがり、止めどなく流れる、チェンバロ2台ともなれば途切れようもないのだが、その繊細さ流麗さは! お二方のコメントを聞くと、まだ録音技術もなかった当時の人々がいかに歌劇を楽しみとし次つぎに掛かる演目を楽しみに劇場に駆けつけていたかがわかる。いま筆者があの響きをにれはみながら、また聴きたいと思いつつこれを書いているように、初演を聴いた人々が劇場から帰ってから、また数々の歌を家でも弾いて音楽的な気分を味わいたかったには違いない。その願いから歌劇の楽譜をチェンバロ用に編曲することが熱心に為されたのだ。ピエール・アンタイとスキップ・センペもこの編曲の楽しさにすっかり嵌ってしまい、あれから30年の音楽家たち。この放送、けさが再放送であったか、ともかく55分用に編集されてあるので、収録当日はもっと多くが演奏されたはず。それがこの時間内のプログラムだけでも、その道の造詣の深さ、広さ、多彩さが想像せられる。江戸時代の豪華絢爛な文化、天井の極彩色の彫刻や美人画、凝った建具など、昭和6年に料亭であった目黒雅叙園でチェンバロを二台並べての演奏。たいへんな速さで消えていく今となっては譜面でしかない音楽を作曲者に忠実に現代によみがえらせ、その曲が「今を生きる」ようにするのだというふたり。「伝統を今に生かすことに貢献したい」とも。「メトロノームがリズムを殺した」とも語る。なるほど、一連の演奏は息も継がせずに鳴り響き、「生かす」「生きる」「生かす」「生きる」と世紀にわたって連綿と響いているようでもある。

 

ラモー(1683~1764)作曲の歌劇「優雅なインドの国々」、どんなインドの優雅さが秘められているかと思いきや、ちょっとネットをわたってみると、当時はヨーロッパの国々以外はインドの国であったらしい。ラモーはバロックの作曲家。アメリカも中国も日本も、インドの国と一括り。植民地的な視点が感じられなくもない。この歌劇の内容が序曲、ロンド式のミュゼット、メヌエット、ポーランド人のエール、異邦人、シャコンヌ、など。歌劇「プラテー」、歌劇「ダルタニュス」、歌劇「ピグマリオン」、歌劇「イポリットとアリシー」、クラブサン曲集から「挑発的な女」、これら絶え間なく休むことのない永遠のダンス。どうやらメトロノームはついぞ捨て置かれたままのよう。

 

🎧🎵 名曲アルバム、モーツアァルト「オーボエ四重奏曲」
オーボエの名手フリードリヒ・ラムのために書かれた。優れた演奏家は作曲意欲を引き出すという例。

⛳6時に聴き終えて、すこし一息を入れたいこの頃。アンダンテも疲れ気味。レントで10時25分更新。
それにしてもあのルソーが、当初は音楽楽として出発、それがラモーと音楽理論上で対立することとなり、結果的に音楽からは退いていたというのだから。

 

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2056クラシック倶楽部を聴く  高橋アキのピアノ&つるの剛士

「現代音楽の演奏家として活躍するピアニスト高橋アキが、つるの剛士と初のコラボレーション! 曲目「ぞうのババール」(プーランク)ほか」(番組紹介から)北九州市響ホール 収録。

 

北九州市、人口90万、旧門司税関、旧大阪商船、羊群原、千仏鍾乳洞、360度のパノラマをもち、日本三大夜景に入る皿盆山のふもとにあるのが響ホール

🎵 高橋アキは現代音楽のスペシャリスト。前にも聴いたコメントではあるけれども、ピアノは弾いた途端に音が減衰。これをいかに感じさせずにメロディーラインを作るか、そこからいかにイメージを出すかが大切な技術といったように仰っている。つるの剛士は音楽活動のほか、読み聞かせや、「将棋・釣り・楽器、サーフィン・野菜作りなど趣味も幅広く、好きになったらとことんやらなければ気が済まない多彩な才能の持ち主。二男三女の父親」(オフィシャルサイトから)。音楽ヒットはいわずもがな、野菜作りというところに筆者は共感を示す。中学校の時は音楽部の、吹奏楽部であったか、何れホルンを担当し部長でもあったとか。

 

 サティの「ジムノペディ第1番」、ジムノペデイの曲名は「古代ギリシアのアポロンやバッカスなどの神々を全裸で踊り讃える祭典に由来している」という。1888年、サティがパリ音楽院在学中に作曲。同じくサティの「グノシェンヌ第5番」、5番には全7曲あり、東洋的な色合いであると。ゆったりとした雲の移ろいを庭の椅子からでも見上げあじわっているような。コーヒーがあればゆっくりと。ビートルズが好きだった武満の編曲。「ハイパー。ビートルズ  ゴールデン・スランバー」「ハイパービートルズ レット・イット・ビー~アジア旅行~」、三輪眞弘編曲、この方はコンピューター音楽で知られる方。

 

🎵
プーランクが
1945年に作曲したピアノと語り手のための音楽物語が「像のババール」。フランス人絵本作家ジャン・ド・ブリュノフ作。彼はプーランクと親交があったとか。翻訳が矢川澄子。お母さんと楽しく散歩していた象がお母さんを撃たれ失くして、くたくたになって街へ。そこで何でも買ってくれるお金持ちのおばあさんとの出会いからババールの人生はがらりと変わる。デパートのエレベーターが気に入る。この場面には、高橋が相応しい曲をプーランクの曲の中から見つけだしたのだとか。ここにエレベーターボーイのババールを叱る台詞が北九州弁だと思うが方言で入るところが面白い。服も新調しおばあさんの家で暮らす。大学の教授が教育まで受けさせにやってくる。満ち足りた頃の森でのいとこやサルたちとの楽しい暮らしを思い出す。そこで森に帰っていくと思いきや、ババールはそこで一緒に帰るかと思いきや、こんどはおばあさんが二匹にも服を買ってやり、喫茶店でケーキをごちそう。二匹のお母さんが迎えに来たところで、やっと帰郷の荷造りとなり車で帰還。その日象の王様が毒きのこにあたって急死。ババールをコルネリウスが王に推薦。ババールは教養も修め立派になっていたので相応しいとおもったのだろう。結婚式と戴冠式が同時にもたれパーティーではオーケストラとダンス。ババールはセレストを王妃にし王となる。ここで筆者の脳裏に「勝ちます」という声がなぜか聞え、ババールの声に重なった。どこかにもう一人の、いやもう一匹のババールがいて凱歌をあげたような。ババールとセレストは幸せいっぱい。この日の思い出はみんなの胸に楽しく残るだろう。ピアノの響きと共にと付け加えておこう。

🎧🎵名曲アルバム、これが筆者よく聴くサン・サーンスの「交響曲第3番 オルガン付き」。生涯もドラマティック。オルガンは新山恵理、指揮大友直人。

 

⛳9時38分更新

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2055 クラシック倶楽部を聴く 

🎵きょうはズーラシアンだったかな、あのメンバーの写真をTV画像からでもいいから録っておこうかとスイッチオンしたところが、それがどうも勘違いだったよう。けれどこれなら大歓迎のビバ・アンコール。2018年の収録分のアンコールだけの特集。これがなかなか楽しい。いま新型コロナでなかなか収録が難しくなっているお蔭でこれぞの番組を繰り返し楽しめるのかも。

 ギルシャハム&江口玲、このあうんの呼吸が何とも気分がいいサラサーテの「カルメン幻想曲」。シャハムがちょっと肩の力を抜きしかしここぞというところは鮮やかにバイオリンを弾きこなす。小山由美&佐藤正浩、ワイルの「スピーク・ロウ」。60歳をこえるミシェル・ダルベルトは風格あるリスト「超絶技巧練習曲第10番」。近頃は兄のカリムとの共演が多いというナビル・シェハタはクウェート生まれ、フリーバの「古風な様式による組曲」、もしベートーベンが盛んなときのシェハタのコントラバスを聴くことがあったとしたなら、その後のコントラバス奏者はかなり、もっと苦労することになったのでは。パンジャマン、あのチェンバロの響きを聴かせてくれたパンジャマンのアンコールはやはりバッハの「幻想曲BWV571」、あの一連の典雅な演奏もよみがえる。ビオラのニルス・メンケマイヤー&島田彩乃でシュマンの「おとぎの絵本」。越知晴子の伴奏でメゾソプラノ清水華澄の「ママも知るとおり」、これが良かった。バイオリンの青木尚佳&チェロのウェン・シン・セン、彼、スイス生まれ、クラークの「ララバイ」。ピアノのイノン・バルナタン、この方イスラエルのテルアビブ生まれ、彼弾く「展覧会の絵」を思いだしながらメンデルスゾーンの「ロンド・カプリチオーソ」。そして最後はベルリンRIAS室内合唱団のジャスティン・ドイル指揮、編曲の「朧月夜」を日本語で。

その都度の番組を聴きながら、今回はアンコールがいちばんよかったと思うことしばしば。通常のプログラムの“しばり”から解き放たれて、奏者が気分的に自在に演奏できるひととき。しかしそこはプロ、聴かせどころはしっかり。アンコールとはいえ、一曲一曲が濃い。アンコールのみを取り出しての編集という着想がおもしろい。

 

🎧🎵名曲アルバム。ショパンの「マズルカ」「革命」この2曲によるショパンドラマ映像。この「革命」、激情のすべてをピアノにぶつけるといったショパン、これはシュテファン大聖堂でショパンの物思いと無関係ではないと思われるのだが。 

その後の番組も綿々とみてしまい、あのナポリ、ひとりの音楽家が気になり。ステージに立ち前の身づくろいも大変なもの。
プルチネッラの仮面をつけた人形が印象深かった。

⛳明け方から聞こえていたウグイスの声が静まって、朝食、後片付けも終え、845分更新。

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2054クラシック倶楽部を聴く  三浦一馬カルテット

若手実力派バンドネオン奏者・三浦一馬がスペシャルユニットを組み登場!巨匠ピアソラの作品「ブエノスアイレスの四季」全曲演奏プソディー・イン・ブルー(ガーシュウィン)ほかバンドネオン三浦一馬・バイオリン西江辰郎・チェロ向井航・ピアノ松本和将2017年6月11日香川県三豊市文化会館マリンウェーブ・マーガレットホール公開収録(番組紹介より)

 

バンドネオン、アコーディオンの仲間でしょ、カビが生えて片隅に転がされそうな楽器といった先入観があったこの楽器。

それが今回で目が覚めた。クラシックとジャズの融合「ラプソディ・イン・ブルー」、ブルース調の子守歌「サマータイム」これがバイオリンのアレンジが何とも切なく哀調がある。ロック&ジャズの「リベルタンゴ」ここまで聴いてはたと気づいた。半端じゃないこのアレンジの才能がこの絶滅危惧種であると書きながらこの楽器を愛する人々がいる国では叱られるだろうと思いつつ、それでもこのレトロな楽器を生き残らせるのはこういったアレンジの才能にもよるのだろうと。「ブエノスアイレスの冬」ではピアノになかなかの奥行、けっこう奥が深いのだ。ときとして何とも言えない枯渇した感じや星がまたたく空をみあげたような感じもあって。「ブエノスアイレスの夏」仲間の音をにれはむように楽しみ鳴らすバンドネオンが、カメラ目線もありにわかに美しく見えてきた瞬間。パイプオルガンと同じように息をする生き物であるバンドネオン。星形と竪琴の螺鈿だろうか模様が入り、ジャバラの角を、あれは何の金属でできているのか、開くごとに閉じるごとに曲線が伸び縮み。ボタンの素材は何だろう、落ち着いたこれも螺鈿のようには見えたけれども。音の出る美術品にも見えてくる。ピアノの激しさは夏のドラマか。「ブエノスアイレスの秋」チェロが影を曳いていく、そこにカメラがほんとうにチェロの影を映し出してくれたタイムリー。三浦一馬の膝の上に手元に輝くバンドネオン。編曲、各楽器の奏でる旋律は、必要あって求められた意匠に発せられている。「ブエノスアイレスの春」ヴァイオリンのコマの内側を鳴らす特殊奏法がただ単に新しさを引きずり出すというのではなく、バンドネオンの響きと独特な重音を果たしている。バンドネオン、各曲の新境地を聴かせてくれた。

 

あとはもし時間があったら書きこめるだろうか。

⛳6時59分更新

 

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きょうのことば

きょうはインマヌエル盛岡キリスト教会2020年4月26()のメッセージをおつたえいたします。
國光勝美牧師、國光ひろ子牧師の岩手での主のご奉仕は47年目となっております。

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説教題 『御霊による一致』 (國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 エペソ人への手紙 第4章16

4:1さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなた方は、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。 4:2謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、 4:3平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。 4:4からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。 4:5主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。 4:6すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神はただひとりです。

 

<説教>

 ことしはエペソ人への手紙をベースとしていることを思い起こしていただきましょう。新約聖書には、パウロが教会宛に書いた手紙があります。その中でエペソ中の、エペソ人への手紙を学んでおります。パウロはローマの獄中で書きました。ローマ、エペソは地図にあるとおりです。

 

 エペソ人への手紙は大きく前半と後半とに分かれます。前半は123章、そしてきょう4章に入りました。後半は456章です。内容もここで線を引きたい。後半の5章と6章のあいだに、明確な線が引かれるのではなく、むしろ6章は10節ぐらいまで5章の連続だというように見ていいでしょう。何れ、エペソ書を大きくとらえるなら、456章と後半が分かれることを覚えましょう。

ある素晴らしい信仰の器が、エペソ書を次のように語っております。

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「坐す」、これはどういうことなのでしょう。いったいクリスチャンである私たちは、どういう立場の者であり、何者なのか。坐して、いったい私たちはどういうところから救われた者であるのかを思い返し、救われた感謝をよく咀嚼する。これが坐すということばの意味であります。321節に「21教会においてまたキリスト・イエスにあって、栄光が世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。」とあります。坐して、私たちは神の救いに与っているすばらしい存在である。ならば、この世における私たちはどういう生き方をするのか、その実践的な部分が45章にあります。

パウロは「4:1さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなた方は、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。」といいます。神の恵みを実践しましょう。悪魔の策略に対しては神の武具をもって立ち上がりなさい、立ちなさいとパウロはいっております。

そして、この41節の冒頭にある「さて」ということばに注目をしたい。どういう意味なのか。この「さて」、ちょっと視点を変えてといった用い方が訳として悪いわけではない。しかしこれを「だから」という因果関係を強調する接続に置き換えてもいい、そのようにも訳せることばだと指摘している人たちもいます。そう捕えるならば次のように順次いうことができます。

1節「召されたその召しにふさわしく歩みなさい」
2節「謙遜と柔和の限りを尽くし」
2節「寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び」
3節「平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい」

 

さて、2節「謙遜と柔和の限りを尽くし」、これは強い表現ですね。「限りを尽くす」。イエス様だったらどうなさったのか。いつもそこに心が定まる。よく方位を定める磁石、コンパスがあります。揺れを静止させますとちゃんと北と南がぴたりと定まる。謙遜の限りを尽くすって、じゃいったいどの程度なんですか。私たち、謙遜の限りを尽くしているでしょうか。愛と寛容と忍耐を持っているでしょうか。イエス様は罪を犯されませんでしたが犯罪者のように十字架に架けられました。ふつうならこの不条理に怒り全身で無罪を訴えるところです。しかしイザヤ書53章には、このときのイエス様はどうであったかが預言されております。

7 彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
 いちばん大きな十字架のできごとを、あたかもその場にいたかのようにイザヤはイエス様を預言しています。

ここまで耐え忍ばれたイエス様のように私たちは互いに耐え忍んでいるでしょうか。エペソ書に「坐して」とありますが、罪の滅びの中にあり神の怒りの内にあった私たちが、キリストの十字架によって救われたのです。今はキリストにあって神のいのちを持っている。ハレルヤ! 神様に感謝しましょう。

今週もまたいろいろな人と関わりを持つでしょう。そのとき、このお方の謙遜と柔和と  に倣ってしっかりと歩んでいきたい、心からそう思います。

「耐え忍び」。忍耐を持ちましょうという意味です。ただこれを自分の人間的な力で耐えようとすると、冷や汗となり、堪え切れなくなってしまう。これでは疲れ果ててしまうでしょう。神様が聖書が私たちに「4:2謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、 4:3平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい」と命じています。その力がない者にこうのように命じるのは暴君です。しかし、神様が必ずそれを可能にしてくださる。神様の保証があるからこそ命じておられる。どうすれば? それはイエス様に担っていただくことです。祈り委ねることです。「互いに忍びあう」ということも、ひとは個性、考え方、方法論もみな違います。そこでイエス様に担っていただく。「自分はダメ、できない」を「自分はダメ、だけどイエス様にはできる」と切り替えてください。必死に頑張り脂汗をかかなくとも、イエス様がしてくださる。

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私にはなにもない。しかし、実体であるイエス様というお方、あのお方が、議論的なことでもない哲学上のことでもなく、不当な十字架を耐え忍んでなお愛を示された、すべてを成し遂げた子羊なるお方、そのお方がおられます。イエス様を1という実質とし、自らは0であるところからの出発は、自らは0というその虚しさを知りイエス様を知れば、自分が10になり、さらに自らの虚しさを知れば100にも。そして更に知るごとに千にも1万にもなる。これが信仰です。自分が何かできる、自分は何者かであるではなく、イエス様に信頼を置いて、ほんとうに「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容と愛をもって互いに忍びあい」、このように生きることです。

 そして「4:3平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。」

この「熱心に保ちなさい」。最初の方は「力を尽くして」というような表現がありました。これは放っておいたのならば、すぐに壊れてしまう。だから熱心に保ちなさい。全力を尽くしてこれらの事に立ち向かいなさい。

3節の「平和の絆」ですが、これは、神様との平和がきちっとできているかどうか。神様との関係、人との関係。もし誰かを赦すことが出来ないとすれば、それは人との平和が保たれていないということです。あの人だけは赦せないといったしこりがあるなら、それはほんとうの平和ではないですね。それからもう一つは自分自身との平和と言ったらいいでしょう。

ここで謙遜と自己卑下を区別しておきましょう。クリスチャンは自分は空しい者できない者と思い込むあまりに、自己卑下に陥ってしまうことがあります。これは似ているようで謙遜とは全く違う。自分のようなものは何をしてもダメなんだ、そんな自己卑下に陥らせるのは悪魔です。クリスチャンは常に悪魔に対峙している。ですから気を付けましょう。そんなとき、しかしこんなものを神様は極みまで愛して下さっているという、自分自身がキリストにある尊さを再確認しましょう。これを知るときに自分との平和が確立します。

神との平和、人との平和、自分との平和。「4:3平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい」。

“Make every effort to keep the unity of the Spirit”

 

※画像は教会からお借りしています。

 

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J-MEROなどなど

けさのJ-MERO、再放送なのだが。AK69Flying B、これがyoutubeにもあり、もう9時過ぎたいまイヤホーンを耳に挟んでこれを書いているけれども。たとえば「いってぇ誰が一緒に走ってくれるのか」、凡そほかでは聴かれないこんな歌詞がすんなりとボディを泳がせるのもラップのリズム、テンポの為せるわざか。連続性あるのみ、途切れることが予測できないかの連続性に浮沈の繰り返し。まえはこのところは聴いていなかったような。
 アコーディオンのcoba、「僕に人生をくれたアコーディオンよありがとう」。自分に合った仕事に限らず趣味を持つことが出来た人の幸いは!

前回聴き逃した音楽評論家、そしてもうお一方放送作家の井上氏。これ系の話しはやはり本を読まねば。

 

 

音楽とは離れるけれども、けさは家事をしながらTV番組あれこれを観ていたところ、「グレートトラバース」のカメラマンが出ていた。田中陽希さんを追いながら、この番組のカメラはどんなに大変だろうかと、田中が動くたびに見えてはいないカメラの動きを追っていた。ここはドローンで撮ったのかな、ここで機材を抱え追いながら歩くのは転落につながりかねないなとか。この方がけさ画面に登場、山岳カメラマンの平賀淳氏であったのだ。

 

それと「美の壺」、興味があるときしか見ないのだが、きょうは何と「巨樹」。手に取って骨董品を回し見るか、或いは壁や天井の造りか、庭か家屋の造作かといったパターンと思いきや、これが「巨樹」。自分の中では「壮大な美しさ」に分類されている。行ってみることができるかなと見たのが青森、深浦の銀杏。そしてこれが凄い蒲生の大楠。幹まわり24.2m、樹齢1500年。しかも樹木の中には8畳ほど、高さ16mの空洞が。どんなに荒ぶる心もあの樹下に入ったなら癒され心静かに神妙に愉快になって、笑いがこみあげてくるのではないかと。まだまだこの世の中には素晴らしいものがありそうだ。

 

⛳葉桜になりつつも、まだ桜がそちこちに花を留めている。
いつも教会にご一緒している姉妹が車中でこんな句を聴かせてくれた。

散る桜 残る桜も 散る桜 (良寛和尚)

桜の俳句とググってみるとざっと100が。それらをぼちぼちと読みながら、そういえば夜桜を観たことがないことに気づかされた。

9時59分更新


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2051クラシック倶楽部を聴く  シルク・ドゥラ・シンフォニー

サーカスとオーケストラの夢の共演!オリンピックやシルク・ドゥ・ソレイユで活躍した世界一流のパフォーマーが、「カルメン」や「白鳥の湖」など、クラシックの名曲に乗せて驚がくのパフォーマンスを披露。世界中を魅了した夢の舞台がついに日本上陸!管弦楽:ウクライナ国立フィルハーモニー交響楽団、指揮:ニコライ・ジャジューラ2018年1月17日Bunkamuraオーチャードホール(番組紹介より)

 

🎵「白鳥の湖」、指揮者ウラディミール・ツァルコフもマジックに。いつの間にか自分の上着を他の人物が着用、結局また元通りに。こうしてみるとツァルコフ自身もなかなかのショーマン。スメタナの「売られた花嫁」、グリンカの「ルスランとリュドミーラ」、パフォーマーたちが到達した高みが音楽によって認証されていると感じられたひとコマ。ハチャトウリアンの「剣の舞」、ヨハン・シュトラウス「雷鳴と電光」、ビゼー「カルメン」、チャイコフスキー「白鳥の湖」、ヴィタリーとクリスティン・ヴァン・ローが観客の頭上をとぶエアリアル・デュオ。これがストレルソフいう情熱が観客につたわりフィードバックされ、化学反応が起きる瞬間かと。オッフェンバック「天国と地獄」、シベリウスの「フィンランディア」のバランシング・アクト、アニメとは違う、バーチャル世界ではない現実の人間の集中力、筋力、体力、忍耐、まだあるかもしれないが、ぎりぎりまで可能性を極めた人体による表現。そしてそれを支える音楽。2回目ではあるけれどもしばしば息をのむ55分。

 

🎧🎵
そして名曲アルバムはラヴェルのマ・メール・ロア「妖精の国」。ラヴェルは生涯独身であったようだが、こんな子どもたちのバレエのための作曲も。
パリ・オペラ座にロシアのバレエ団による「火の鳥」が掛かったときには、その斬新さに人々が驚いたのだとか。

⛳6時に見終えて、神子田の朝市に発送用の山菜を見に。出入り口にはアルコール消毒液2本が置かれ、「マスクを着用していない方は入場できません」と。近所の方々が遊びがてら来ているのでは。駐車場はがら空き。山菜は入った時に電話をくださいと出店の方にお願いし、野菜などを買い込んで帰宅。午前はグリーク関連、鉄道のばんぐみだけれども、グリークの作曲小屋、コンサートが映しだsらえたのにつられついついTV漬け。12時8分更新。

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