きょうのことば
インマヌエル盛岡キリスト教会2020年5月24(日)のメッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は47年の間、岩手で主のご奉仕をしておられます。
説教題 『その方が来ると』―ペンテコステ準備講壇― (國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 ヨハネによる福音書16章7~11節
16:7しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。 16:8その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。 16:9罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。 16:10義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。 16:11さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。
<説教>
けさはペンテコステ準備講壇ということで、いつもとは角度を変えて想いを致したく願っております。
ヨハネの福音書14章16節をお開き下さい。きょうの聖書個所とずいぶん違うと思われるかもしれませんが、これは一連の一つのお話しでありまして、まったく同じようにイエス様がご聖霊様についてお語りになったところでございます。
ヨハネ14:16そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。
16章8節には「その方が来ると」とございます。「その方が来る」、つまり別のところにおられたお方が、遣わされてこのところにおいでくださる。ですから、いなかったものが突然に存在を開始したということではなく、そのお方はもともと父なる神、子なるキリスト、聖霊という三位一体の神としてもともとおられたお方なのです。ちょうどイエス様がクリスマスのときに受肉してこの世に来られたように、このお方も来られる。勿論、聖霊様は、それまでに何回かこの地上に来られているのですが、あのペンテコステのときのような格別な画期的な意味で来られるというのはまた別の意味をもっておりました。それは何かというと、イエス様が十字架の贖いを完全に成し遂げて、葬られて、復活をされて、そしてそのあとイエス様は父なる神様の御もとに無事に成し遂げましたといって、お帰りになられた、その無事に帰られた証しとして、父なる神様が、それではあなたは今、先ほどまで地上にあって肉体をもって弟子たちと共にいたわけだけれども、これからは、もうひとりの助け主を遣わすとおいでくださったのがご聖霊様で、「もうひとりの助け主が来た」、こういう表現になっているわけです。ヨハネ14:16を、みなさんで読んでみましょう。
ヨハネ14:16そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。
「ともにいてくださる」、「助け主」であるご聖霊様です。
こんどは
ヨハネ14:17この方は、真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。
ご聖霊様は、私たちの内に住んでくださるお方。敢えていえば、イエス様が地上に肉体としておいでくださるときには、確かに眼に見えて近くにおられたけれども、しかし、ご聖霊様は、信じる私たちの心の内にいてくださる。このお方は、イエス様と同じではないけれども、イエス様との内住をさせてくださる。微妙な言い方ですが、イエス様と同じではないけれども、しかし、もうひとりのイエス様ご自身といって一向に差支えが無い、このお方が私たちの内に住んでくださる。
こんどは、
ヨハネ14:26しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
ご聖霊様は、イエス様のみことばを、ああ、そうだった、とはっきりと思い起こさせてくださるお方です。
そして
ヨハネ15:26わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。
ご聖霊様は、イエス様が確かに贖いを成し遂げ、よみがえられていまも私の内にいきておられることを分からせてくださる。
コロサイ1:27この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。
と、このことをそのように私たちに納得させ証しをさせてくださるお方が聖霊ご自身なのです。
ヨハネ16:8その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。
「聖霊に感じなければ、誰もイエスを主という事能わず」とおことばにありますが、ご聖霊様の働きによって、ああ、私は何という罪びとだろうか、こんな者が、こんな私が罪赦されたのだ。ほんとうに罪というものを私たちに教え、そしてその罪からの救い、すばらしさに気づかせてくださった。こういうことをしてくださるお方が聖霊ご自身なのです。
そして
ヨハネ16:13しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。
私たちを真理に導くお方について、その他にもいくつか、このお方について聖書は示しておりますが、きょうのお話し、メッセージに関わるところとしては、以上の数か所をピックアップさせていただきました。
そして、もうひとりの助け主といいましたが、この「助け主」のギリシャ語の持つ意味は「弁護士」だそうです。弁護士。しばしば賛美歌で、内にいます慰め主たたえん、と歌いますが、この「慰め主」ということばも、厳密にいうと、弁護士の弁護のゆえに、こんな者が罪赦された、神に受け入れられたということであります。徹底的に私の側に立って極みまで、私の側に立って弁護して下さるお方。これが「助け主」の持っている意味です。世の中には辣腕弁護士といわれる方々がいます。どんな不利な状況でも無罪を勝ち取ってくれる。私たちクリスチャンにも比類のない辣腕弁護士がついている。それが「助け主」です。「弁護者はギリシャ語では「パラクレイトス」、即ち「呼ばれて傍らにいる者」であります。このご聖霊様は、私たちの心の中に大きく大きく深く深くこのお方を拡大してくださるお方であり、もうひとりのイエス様と言ってすこしも差し支えない。このお方は、あのイエス様のすばらしさを贖いの恵みを私たちの心の中に最大限に拡大してくださるお方。ですので、このご聖霊様の働きによって私たちは初めて救いの喜び、慰め、励ましを心の中に深く知ることができるのです。
イザヤ46:3、4をご覧ください。
6:3 ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。46:4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。
この場合、「わたし」というのは父なる神様でありますけれども。これを聖霊によって新約時代の私たちが読むときに、ここにイエス様と私たちとの関係を味わうことができます。恵みをいただけるのは素晴らしい特権です。イエス様がこのように私をしてくださった。わたしは背負う。わたしはそうしてきた。そうか、イエス様に背負われていま居るのだ。背負って救い出す。ここにイエス様の恵みが、ご聖霊様の慰めがあります。慰め主といわれる意味がわかります。
これと同じようなことばが、イザヤ63:9です。
63:9 彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の臨在の御使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった。
ここにイエス様と私たちの関係があります。これはあなたの神の言葉なのだよと示し、そして、これによって力と慰め励ましを与えてくださる。それが聖霊なる神、内にいますキリスト、栄光の望みなのです。「いつも主も苦しみ、主の臨在の御使いが彼らを救った」とありますが、この「主の臨在」の注釈を見ますと、「彼の顔」、即ち「神様の御顔」とあります。「主の臨在の御顔が彼らを救った」とこうなります。
そして、
出エジプト33:14主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」
「わたしの臨在」の直訳は「わたしの顔」。神様の御顔が一緒にモーセとともに行く。そしてあなた方に平安を与えてくださる。「神様の臨在」、それは「神様の御顔」。神の御顔から来る救い。わたしの臨在があなたとともに行き、あなたを休ませる」。私たちの聖霊様は分からせてくださいます。神様の御顔がここにあるのだ。私はこのお方に背負われ、いまここのところを通っているけれども、神様の臨在は神様の御顔の光、イエス様のご臨在が私たちに力を与え、励ましを与え、慰めを与えてくださる。
もう一つ、
創世記28:15見よ。わたしはあなたとともにいてあなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。
神様は、ヤコブという人物にこう言われました。ヤコブという人物は、イサクの子です。アブラハム、イサク、ヤコブと続く神の祝福の系図の中にあります。ヤコブはシャープな頭脳の持ち主ではありますが、ずる賢い人物でもあった。人を出し抜き、だまし、そしてとうとう兄から命を狙われるという羽目になります。彼は家から逃げ出さざるを得ませんでした。その時のヤコブは不安と怖れ、いつ野獣に襲われるかもしれないという恐怖。その時神はこの創世記28:15のおことばをヤコブに告げたのです。そして16節で
ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」
神様のご臨在があるにもかかわらず、ヤコブはそれに気が付かなかった。しかし、人生のピンチに立った時に、ほら、ここにいるよと気づかせてくださる。私は背負ってたんだよと気づかせてくださる。いつも一緒にいてくださるお方なのに、私たちはついついその意識が薄れてしまって、あのことこのこと、自分の知恵で動き回る。何とか解決しようとあがいてしまう。そのときに、わたしの臨在、わたしの顔がいつもあなたを見ているよ、こういって存在に気づかせてくださる。ヤコブはそこを出ていいます。「ああ私は知らなかった。いま気がついた。ここは神の家だ。ここが天に通じる門なのだ」。
どうかこのベテルの経験を覚えましょう。ご聖霊様は、私たちをさまざまな場所にお導きになって、ほら、わたしだよといってご臨在の恵みを現わしてくださいます。どうぞこの方の御顔を見、このお方と語り、このお方に祈り、このお方に慰められながら、次のペンテコステ聖日には共に聖餐のテーブルに与りたいと願うことであります。
※画像は教会からお借りしています。
⏰きょうの真新しい太陽が山際に輝きはじめた4時38分更新。
最近のコメント