きょうのことば
きょうはインマヌエル盛岡キリスト教会2020年4月19日(日)のメッセージをおつたえいたします。
國光勝美牧師、國光ひろ子牧師の岩手での主のご奉仕は47年目となっております。
説教題 『私の主、私の神よ』 (國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 ヨハネの福音書20章19~29節
20:19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」 20:20こう言ってイエスは手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。 20:21イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」 20:22こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 20:23あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
20:24十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 20:25そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
20:26八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵が掛けられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。 20:27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 20:28トマスはイエスに答えた。「私の主。私の神よ。」 20:29イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
<説教>
きょう私たちはトマスという人物に心を向けていきたいと思っています。
私たちは、トマスというと十二弟子のひとりであることを知っております。そしてもう一つ、トマスという人物にある先入観を持っております。
きょう歌いました2曲の賛美歌の中にもトマスという名が出てきました。手元にある資料で「トマス」と見ますと、どれも疑い深いトマスが書かれています。賛美歌の2曲ともそういった歌詞です。それ以外のトマスの人物像を歌ったものは無いのです。そのような使徒トマスでありますけれども、実はこのトマスこそ私たちの信仰の大きな励ましになる。つまり、このトマスのように、「私の主、私の神よ」と告白したときに、今日のような大きな恵みと祝福になることを心に捕えて、お話を進めたいと存じます。
イエス様には十二人のお弟子さんがおりました。この十二使徒の名前を簡単に覚えられる教会学校の賛美歌があります。
♪ペテロとアンデレ
ヤコブとヨハネ
ピリポとトマスとマタイたち
ヤコブとタダイ
シモンとユダ
バルトロマイが12弟子。
弟子たちは
イエスさまのおてつだいをしたのです
ぼくたちもイエスさまのお手つだいをいたしましょう
教会学校で歌ったことを懐かしく思い出されるでしょう。聖書の名前を覚えるための歌もありますが、ここでは割愛いたします。
この歌の中に「ピリポとトマスとマタイたち」とあるこのトマス。トマスという人物を調べるとやはり次の聖画に出てくるようなトマスです。
ヨハネの手紙20章、このトマスは、19節「その日すなわち週の初めの日の夕方」、つまり復活の日の夕方、弟子たちがいたへやの戸には鍵がかけられていました。弟子たちはユダヤ人に恐れおののいていた。ところが、イエス様がいつの間にか彼らの真ん中に立っておられた。そして言われました。
「平安があなたがたにあるように」。
イエス様はこう言って、(釘を打たれた)手と(槍で刺された)脇腹を彼らに示されると、弟子たちは主を見て喜びました。
これがイースターの日のできごとです。これを見る限り、よみがえられたイエス様のお体には、十字架の傷跡がある。大変考えさせられます。よみがえって、イエス様は、これはあなたのために受けたあのゴルゴダの丘の十字架で受けた傷なんだよと言われる。私たちが、そのお方とお会いするとき、それは何とすばらしい恵みのときとなることでしょうか。ところが、理由はわからないのですが、トマスはその時、ここにいなかった。24節にあります。
十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスはイエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこでほかの弟子たちは、私たちは主を見たといった。しかしトマスは、私はその手に釘の跡を見て釘の跡に指を入れて、その脇腹に手を入れてみなければ決して信じません。
ここに疑い深いトマスといわれる所以があると思います。
それから1週間後、次の日曜日、
26節、弟子たちは再び家の中にいました。このときはトマスも一緒にいました。やはりこんども鍵が掛けられていました。しかし、イエス様は、その彼らの真ん中にお立ちになって、平安があなた方にあるようにといわれた。それからトマスに、さあ「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」20:28トマスはイエスに答えた。「私の主。私の神よ。」 20:29イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
このところを何回も読み直して、果たしてトマスはここでイエス様にさわったんだろうか。皆さん方はどう思われますか。私の読み方が充分であるかどうかわからない。これを見ますと、トマスはイエス様の傷に、イエス様は触りなさいとおっしゃったけれども、触ったとは書いてない。1週間前には、触ってみなければ信じないと彼は言いました。けれども1週間経って後のこと、イエス様はトマスの言うところに耳を傾けられて、さあ、わたしだよ、指をここにあててわたしの手をご覧。手を伸ばして脇腹に入れてごらん。信じない者でなく信じる者になりなさいといわれたとき、トマスは実際にさわったのでしょうか。どちらにも解釈できると思うのです。実際、手元にある参考になる注解をみると「さわったトマスは」というような表現をしているところもある。それで信じたと理解するのもいいでしょう。しかし、さわったんだろうか。私はそう見るのでなくして、さああなたが願っていることをやってごらん、ほら傷跡だよ。脇腹の傷だよと主が示されたときに、トマスは「主よもう十分です。わかりました」、こんな心境になったのではないでしょうか。トマスが、ああほんとうだといって、傷をさわったかどうか。そうではなく、私は、トマスはよみがえられたイエスさまのお姿を見たとき、自分よりも1週間はやく復活の主にお会いしたほかのお弟子たちと同じように「私の主、私の神」と告白したと思います。
クリスチャン信仰告白
私の主、私の神よ
主はともにおられる
立っておられる
わたしはこのときのトマスの気持ちを自分なりに解釈してみました。このときトマスは、1週間前には、そんなことはあり得ないと信じないよと言ったけれども、ほんとうの心の想いは、信じたいけれども信じられない。しかし、信じたい。信じてはいたのです。だってほんとうにイエス様のことを信じていなかったのならば、1週間後にほかの弟子たちと一緒にそこにいるはずがないんです。一週間も前から弟子たちと一緒に行動しているはずがない。だからトマスは、ほんとうは誰よりも、と敢えて言いますけれども、イエス様を信じたいんです。おそらく1週間前にそこにいたのならば、トマスはいちばんに喜んだひとりだろうと思うのです。でもそのとき、自分はそこにいなかった、でも弟子たちは見た見たという。おそらくそうだろう、でもさわってみなければ信じられないんだ。ここに人間の普遍的に持っている弱さ、それをトマスは見事に代弁していると思うのです。
このトマスの気持ちは今の時代の今の私たちの気持ちを素直に表している。
さわるまで信じられない。この怖れと不安と悲しみの中にあるもの、それはマリアもそうでありましたし、そしてこの弟子たちもそうでした。そしてこのトマス。不安と悲しみの中にあるときに、イエス様はもういちどその人の彼らの心の中にご自分をあらわしてくださいます。
20:28トマスはイエスに答えた。「私の主。私の神よ。」
みなさんはこのトマスのことばをどんなふうにお考えになりますか。主、神、どう違うのでしょう。なぜ「私の主、私の神」とトマスは言ったのでしょう。
そして私は、このヨハネの福音書の構成を見ますとき、このことばこそ、大きなカギを持っていると確信いたします。この後に30節があります。
20:30イエスは弟子たちの前でほかに多くのしるしを行われた。それは、この書には書かれてはいない。これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが、信じるためであり、また信じてイエスの名によって命を得るためである。
実はヨハネの福音書は、ここで終わっていてよかった。そのつもりでヨハネは書いたのです。これでヨハネ伝は締めくくられていい。だから、ヨハネ伝の締めくくりは、このトマスに代表されるまさに私たち、まだイエス様を直に見たこともないよみがえりのイエス様に会ったこともない、けれども、その私たちの代表のようにトマスが言ってくれ、そしてそのトマスの疑問に対してイエス様がねんごろに、ほら、わたしだよ、さわってごらん、さあ見ないで信じる者は幸いだよ。これがイエス様のヨハネの福音書を読んでる私たちへのラストメッセージなのです。さあ、よみがえったよ。いいね。21世紀のあなたたちは見たことがないけれども、見ないで信じる者は幸いだよ。
ではこの21章はどうしてあるの? この21章は、あ、そうそう、という感じで付け足されています。いわば付録という形で付け足されている。ヨハネ書の本来の目的はこの20章であり、ここまででおしまいだったのです。
この当時、ローマの全盛期、「主」というべき存在はローマ皇帝以外あってはならなかった。またギリシャ神話の背景でいうと、ほかの神々といえば、ゼウス、アポロン、ポセイドンなどなどギリシャ神話の神々が当時はあったでしょう。それからエピソノスという崇拝されている偶像アルテミスもあったでしょう。いろいろありましたけれど、このとき、トマスが「私の主」といったとき、これは大げさではなくいのちをかけた告白と同じです。もし、日本が戦争中、宗教弾圧を受けていた時、天皇陛下が現人神とされていたその時にイエス様だけがほんとうの主です。私はこのお方に仕えますということは、それは天皇陛下を否定することになり、それはある意味命をかけての告白になるのです。イエス様に「私の主。私の神よ。」。世の中にはさまざまなギリシヤ神話とかあるけれどもまたローマ皇帝が神であるというその中で、私はあなただけが主です。私はあなただけが神です。こういってトマスが告白をいたします。
手元の資料からですが、この「主」ということばには、ギリシャ語のΚύριος(ラテン文字: Kyrios)、「キュリオス」ということばが使われているそうです。そして「主」と訳す以外にも、主人、或いは、閣下、或いは先生、あるときにはお父さんというような訳がされるそうです。一般的には、奴隷や物の持ち主、所有者という意味ですけれども、そこから派生して神様、支配者、皇帝などを指すことばであるキュリオスが新約聖書で使われている。これは最高の称号であります。主、キュリオス。そしてキュリオスには神様、とともに、主権という二つの概念がはいっております。トマスはこのときはじめて「私の主、私の神」、と告白をしました。これを見ながらイエス様はいつでも私たちと共におられる。そして、イエス様は、私たちと共に立っておられる、このことを確認させていただき締めくくらせていただきたい。イエス様はトマスにも、いつでもそのような弱い魂にちゃんとご自分を現してくださいます。私たちは弱い者です。トマスと同じように弱い者ですけれども、イエス様はそんな弱いトマスをしっかりとご覧になられて、共におられるお方であることを、この朝に心に留めさせていただきたいと存じます。
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