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きょうのことば

きょうはインマヌエル盛岡キリスト教会2020年4月12()のイースター講壇のメッセージをおつたえいたします。この日は、新型コロナに配慮しての聖餐式も持たれました。またひろ子先生が労されたたくさんのイースターエッグが皆様に配られました。

國光勝美牧師、國光ひろ子牧師の岩手での主のご奉仕は47年目に入ります。
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説教題 『われ活くれば汝らも』―イースター講壇―(國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 ヨハネの福音書1419

14:19あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。

 

<説教>

説教題にあります「われ活くれば汝らも活くべければなり」(ヨハネ1419節)、これは文語訳でございます。一応、これが語られました背景を心に留めておきましょう。イエス様は、十字架におつきになられる前の夜、弟子たちと過ぎ越しの食事をなさいました。これが最後の晩餐です。このときに語られたおことばであります。

ここでマタイ262030節をご覧くださいその場面が書かれています。

26:20夕方になって、イエスは十二人といっしょに食卓に着かれた。 26:21皆が食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」 26:22弟子たちはたいへん悲しんで、一人ひとりイエスに「主よ、まさか私ではないでしょう」と言い始めた。 26:23イエスは答えられた。「わたしと一緒に手を鉢に浸した者がわたしを裏切ります。 26:24人の子は、自分について書いているとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」 26:25すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが「先生、まさか私ではないでしょう」と言った。イエスは彼に「いや、そうだ」と言われた。26:26また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」 26:27また杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。 26:28これは、多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。 26:29わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物で造った物を飲むことは決してありません。」26:30そして、彼らは賛美の歌を歌ってからオリーブ山へ出かけた。

2628節にありますように、私たちもきょう、この礼拝後にパンと葡萄液をいただく聖餐式を持たせていただきますが、最後の晩餐にはこのような大切な意味がこめられております。

そして、マタイ262930を見ますと、
26:29わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物をで造った物を飲むことは決してありません。」26:30そして、彼らは賛美の歌を歌ってからオリーブ山へ出かけた。

このオリーブ山がゲッセマネの園といわれるところであるかと。聖書学者たちはそこに行くあいだに、葡萄畑を通られたって行かれたのではないかとしています。それを下敷きにしてヨハネの13章を見ていただきますと、
13:1さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので
とあり、晩餐に集う弟子たちの足を洗われるという印象的なできごとがあり、そして過越の食事が為される。イエス様が「わたしがパン切れを浸して与える者」が自分を裏切るといって、それをイスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになります。

いつものイエス様のご様子からいうと、これはもうふつうではありません。お弟子さんたちは、尋常ならざる時が近づいていると直感したでしょう。ヨハネ1419節でイエス様がいわれる「14:19いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです」にも、尋常ならざる事態を弟子たちは感じ取ります。14章のいちばん最後31節を見ますと「14:31しかしそのことは、わたしが父を愛しており、父の命じられたとおりに行なっていることを世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここから行くのです。それは私が父を愛して、父が命じられたとおりになっているのを世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここからいくのです」。最後の晩餐を終えられたイエス様はこういって外に出られ、たぶん葡萄畑の横を通っていかれた。
その時にイエス様は15章にある15:1わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。 15:2わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。 15:3あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もう刈り込みが済むんだのです。 15:4わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。 15:5わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」と。「我は葡萄の樹、汝らは枝なり」とこのおことばを弟子たちに話されたのでしょう。

一連のおことばの中で、ヨハネ14章の19節、「14:19いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです」
弟子たちがどれほどその深い霊的な意味を悟ることができたかは別として、このおことば一つとっても弟子たちはもう気が気ではなかったでしょう。
14章の1節で、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と、イエス様は不安におののくお弟子さんたちを落ち着かせようとしておられます。
ヨハネ1419節の前半で、「あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。」と言われ、そしてその後で「わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。」と。だから安心しなさい。心を騒がしてはいけない、大丈夫だよと弟子たちを励まされている。

「わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです」というこのおことばに心が留まります。聖書には幾とおりかの訳があります。ヨハネ1419節の後半の幾つかの訳を見てみましょう。

新改訳2017「わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです」
新改訳第3版「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです」
口語訳「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである」
新共同訳「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」
文語訳「われ活くれば汝らも活くべければなり」
明治元訳「われ生(いく)れば爾曹(なんじら)も生(いき)ん」

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「わたしが生き、あなたがたも生きる」、これは並列的です。「わたしが生きるので、あなたがたも生きる」、こちらには因果関係がある。ギリシャ語の原語を辿ると、翻訳者の見識、見解に依っており、どちらが正しくどちらが間違っているというものではないけれども、訳の違いがおもしろい。共同訳のように「ので」を入れる訳もあります。

 文語訳は「我活くれば汝らも活くべければなり」、これは「われ活く汝らも活く」といった並列ではなく、「われ活く汝ら活くべければなり」というような訳がほとんどですね。新改訳の2017の方が「わたしが生き、あなた方も生きる」と並列的であり、意識的にちょっとニュアンスを違えて訳しているなと、たぶんその意図があるなと。で、明治元訳ですと、「われ生(いく)れば爾曹(なんじら)も生(いき)ん」ですが、生(いく)れば」とあるのでやはり、これも文語訳の系統ですね。

もう一つ、比べついでに、詳訳聖書というのがあります。これは明らかに「わたしが生きるので、あなたたちもまた生きる」と、いままでの「ので」はいうまでもない前提としての訳です。

こうしてみると、ああ、私たちが永遠のいのちを持つということは、イエス様の復活、イエス様の(死んだ後も)生きる、というそのまさに復活があるからこそ、あなたたちも生きるという大切さがあります。リビングバイブルを見ますと、はっきりと「わたしはよみがえり、あなたがたもいのちを受けるからです」とあります。「われ活くれば」という「生きる」というところを、「わたしはよみがえり」とストレートにわかりやすく書いてある。それぞれが味わい深いおことばです。ヨハネ1419節をできるだけ皆様に印象深く捕えて頂けばと様々な訳を挙げました。 

イエス様が、「わたしがよみがえるので」と言われたこの部分ですが、訳のニュアンスの違いはあれ、このところのイエス様の復活は、すべて受動態で書かれてございます。イエス様のよみがえりをいうとき、自然な日本語では「よみがえった」というのが正解でしょうけれども、しかし、受動態であることを意識して訳すと、「主はよみがえらせられた」となります。「よみがえらせられた」という受身形は実は日本語とすれば不自然です。しかしイエス様の復活とは、父なる神様が、主を墓の中からよみがえらせてくださることなのです。 

私はきょう、復活は受動態だということを意識してメッセージを準備していたときに、新改訳2017の訳「わたしが生きあなたがたが生きる」のこの並列的に訳してある意図にはたと気づきました。ああ、私たちは、イエス様はすばらしい欠点のない神の御子だから、そのお方がよみがえられるのは当然なのだと思っていましたが、そこで、ちょっと立ち止まって、

イエス様だからよみがえったのではなく、イエス様でさえも父なる神様によってよみがえらせられた、だからあなたがたのよみがえりもそれと同じですよ。イエス様だからよみがえられたというのではなく、あなたがたもイエス様がよみがえらせられたように、あなたも神様の御力によってよみがえるんですよ。こう理解したときに、なにか光がさした思いでした。詩篇119130節には「みことばの戸が開くと、光が差し、浅はかな者に悟りを与えます」とあります。

 これまで幾とおりもの訳を熟知しているはずの新改訳2017年の訳者たちが、なぜ敢えて「私が生きあなた方も生きる」というような並列的な訳を採択されたか。そのことに想い到りましたとき、とても恵まれました。つまりイエス様は神様であって確かに特別な存在ではあるのだが、だからよみがえられたのではない。イエス様をよみがえらされた神様の力は同じ並列的に書かれている。あなたがたもそのよみがえりのいのちにあるんですよといっている。こうしてみると、たとえばわたしたちがこの地上における日々の歩みにおいて、これまで想像もできなかったような困難や試練を十分にわきまえたうえで、イエス様の復活に関わることをもういちど考え思い巡らして頂きたいのです。あの十字架上での苦しみと辱めと疲労困憊の中でついに絶命し、アリマタヤのヨセフが引き取りヨセフが自分のために準備しておいた墓に葬られました。そしてローマによって封印された墓から、イエス様だからよみがえったという以上に、イエス様はよみがえらされた。父なる神様によってよみがえらされた。「わたしが生きる、だからあなたがたも同じように生きる」のであります。復活のときに力を表してくださった同じ神様が、イエス様の復活と並列的に、今苦難や問題困難に直面する私たちを、イエス様をよみがえらせてくださったあの神様が、私たちを同じようによみがえらせてくださいます。私が頑張って頑張って一生懸命やってダメだダメだこんなつらい試練からはもう起き上がれない、そんなさ中にも、「私が生きる、そうだろう、私は復活しているだろう」と言っておられる。自分と同じくなってくださる神様が、わたしは特別じゃない、あなたも同じように生かされるのだ」。

このようにみことばを整理しましたところ、いま多くを抱える私自身の気持ちの整理がつきました。困難、たとえそれが死であったとしても、それを真正面から受け留めたときに、「われ活くれば汝らも活くべければなり」というおことばがふっと心の中に入ってきたのでした。私どもはイエス様のいのちにあります。困難や死から逃げずに真正面から引き受け、イエス様の復活の事実に信仰の焦点がくっと合ったときに、自分自身の心の中に勝利が与えられた経験をしております。イエス様の復活を信仰を持ってアーメンと肯くときに、同じ神様の恵と力はすでにある。そこで私は立ち上がっているわけです。イエス様の復活がわかったときに解決済みとなっている。「われ活くれば汝らも活くべければなり」。皆様方の日々の生活の問題、あのことそのことはあるでしょう。しかしイエス様の復活に信仰の焦点が合っているなら、もうその問題は解決しているのです。

そうだ、アーメン、このようなイースタ、「われいくればなんじらもいくべければなり」というこれを皆さん方と一緒に気共有できたらいいなあと私はこうおもっているんです。そうです受動態なんです。イエス様だから、ああいうすばらしい特別なかただからじゃない。同じよみがえらされた今の私の所にも働いて、キリストを死からよみがえらせられたたもうたお方、などかこれに添えて、ですよね。御子を「お与えtくださった神がなどかこれに添えてなのですが、よみがえらせてくださった父なる神様に焦点があったならそれだけで、焦点が合った瞬間に、もうその人は立ち上がっている。そのようにそのような経験をすこしさせていただいたし、皆様方もそれと同じ経験をこれからもなさるだろう、そのように思っております。

※画像は教会からお借りしています。
國光勝美牧師の説教をレコーダーから起こしています。
牧師夫妻の写真は筆者が任意で載せています。

 

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