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2020年4月

20430 クラシック倶楽部を聴く  シルク・ドゥラ・シンフォニー

サーカスとオーケストラの夢の共演!オリンピックやシルク・ドゥ・ソレイユで活躍した世界一流のパフォーマーがクラシックの名曲に乗せて驚がくのパフォーマンスを披露!(番組紹介から)


🎵けさのクラシック倶楽部は、オケとサーカスの共演。以前にこの番組で見たのはいつだったろう。サーカス、パフォーマンスに集中してしまい、聴く方はおろそかになっていたことを思い出す。今回はウクライナ国立フィルハーモニー管弦楽団の響き、ロシアの楽団の響きの方に意識を注いだ。1995年創設。キエフを根拠地に活動。
 総合芸術監督はアレクサンダー・ストレルソフ。ロシアではサーカスと交響楽団との共演は珍しくはないが、アメリカで、またさまざまな舞台で行うのにはけっこうな困難があったらしい。ステージの広さ、オケも置くことができ且つパフォーマンスを繰り広げるスペースがあり、空中をとぶことができ、安全が確保できる劇場となると、なかなか。このコラボ、サーカスを行う側では、共演することで生演奏からエネルギーをもらい魔法のかかったような瞬間を体験することがあるという。たしかに楽団から発散されるパワーが周りのうごきの一助となるというよりも、なにものかを衝き動かす力、現実的な動力として作用することがあるかもしれないとふと思った。ハチャトウリヤンの「レズギンカ舞曲」、いまこの曲を聴きながら書いているのだけれども、この曲でパフォーマンスしたヴィタリー・ブーザが「クラシックがいかに私たちの感情を掻き立ててくれるかを知る。技のみならず情熱をもって演じることが大切で、その情熱こそが観客につたわるのだ」と話していた。

ショスターコーヴィッチの「祝典序曲」、リムスキー・コルサコフの歌劇「雪姫」、サン・サーンスの「死の舞踏」に合わせたクリスティン・ヴァン・ローの天井から垂れている一本の綱をさまざまに応用しての空中演技には息をのんで、彼女は空中にいるときに幸せを感じるといっていたが、ビゼーの「カルメン」、ハチャトウリヤンの組曲「仮面舞踏会」、ヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」、ワーグナーの「ワルチューレの騎行」。久方ぶりにロシアの曲を数多く聴いた。やはりロシアの作曲家による作品の演奏に説得力があった。

それにしても「ピエロ」という存在、自らを滑稽に作り上げ、掛け合いを演じる相手を輝かせる。沈んでいる、悲しんでいる者に笑いを、笑いをプレゼントして元気を出させようとする。懸命に笑わせよう、元気を出させよう、この一瞬だけでも幸せにしてあげたいと精一杯の演技をする。何とすばらしい存在だろうか。
 

🎧名曲アルバム「ゴンドラをこぐ女」(リスト)
ベネチアの風景、そういえばベネチアの特集か夜10時からの番組があったのだけれども、夜10時ともなると眠い。見ようと待っていたところが番組が始まった途端に眠ってしまっていた。

⛳近頃は朝食が6時代になることもしばしば。それと6時番組終了でも体力的にちょっときつい感じが。まあまあ無理をせずに、ということで、8時49分更新。

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20429クラシック倶楽部を聴く   ウェールズ弦楽四重奏団

桐朋学園の学生により2006年に結成されたカルテット、ウェールズ弦楽四重奏団。三人のゲストとともに演奏した「変容(弦楽七重奏版)」を中心にお送りする。(番組紹介より)

 

🎵
再放送なので番組紹介は少なめ。2019315日収録分。いまは新型コロナで、収録がというよりもコンサート自体が。オケの楽器たちが盛んにブーブー、ブンブン、ドコドコと不協和音をたてているような。
 ウェールズ弦楽四重奏団、追及する姿勢が高く評価されているという。彼らが良く知るベートーベン、全曲演奏もリリースに漕ぎつけた彼らの今回のベートーベンの「弦楽四重奏曲イ長調」の選曲は、やはり「変容」を念頭に選ばれている。ヴァイオリン﨑谷直人、三原久遠 、 ヴィオラ横溝耕一、チェロ富岡廉太郎 。三原さんの意見が牽引している楽団なのかな。けれどもそれぞれの方々がそれぞれの意見を提示し、否定されることがあってもそれこそ変容を遂げつつ邁進中かと。ベートーベンの弦楽四重奏曲イ長調」は、ここでは第34楽章。4+コントラバス池松宏、佐々木亮、横坂源の弦楽7重奏はリヒャルト・シュトラウスの「変容」。これが何と81歳での作曲。ほんとかな? ぐぐってみるとほんとうだった。第二次世界大戦の末期に作曲されている。悲しみと怒りの変容。人間の感情というもの、喜怒哀楽をこれまで当然のように見聞きし体験してきているけれども、この芸術に昇華していく、いける人の表現しよう、表現したいと、絵筆を取ったり、楽器を取ったりする、そして楽譜や画布に、或いは彫刻にとその枠の中に表出を修めることの技術というか、能力というか、想いというか、これらが不思議に思われてならない。苛酷さ、悲哀、もこのように変容させて、なぜ変容させる段階、或いは変容させ、形と成した段階にもたらされるカタルシス。万物のエッセンスが集められ人によって濾過され凝縮せられたかのこの芸術の不思議さ。動物と人間は違うのだ、こんなことを思わせられた。

 

🎧名曲アルバム。オッフェンバックの「ホフマンの舟歌」森谷さんのソプラノ、鹿ノ戸さんのメゾであったか、素晴らしかった。
⛳けさは新型コロナの相談の対応に全力をあげている姉妹へのメールを優先。やっと12時9分更新。


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20428クラシック倶楽部を聴く エルデーディ弦楽四重奏団

「東京芸術大学出身者によって1989年に結成された弦楽四重奏団。ロンドンでアマデウス弦楽四重奏団のメンバーなどに師事。結成30年の円熟の演奏をご紹介します。 2020年に結成30年を迎えたエルデーディ弦楽四重奏団。円熟のアンサンブルをご紹介します。【出演】エルデーディ弦楽四重奏団 蒲生克郷(バイオリン) 花崎淳生(バイオリン) 桐山建志(ビオラ) 花崎薫(チェロ)【曲目】1.弦楽四重奏曲 第3番 イ短調 作品33(ドホナーニ作曲) 2.弦楽四重奏曲 へ短調 作品95「厳粛」(ベートーベン作曲)【収録】2020年2月2日 東京・第一生命ホールで収録」(番組紹介より)

 

🎵ドホナーニって聴いたことないけど? そこにエルデーディ4人の方々の一言ずつに、曲が始まるまでにはワクワク。これまであまり演奏されることが無かったとか。「第3番」、はじめの旋律を聴かせられて「誰の曲?」と問われたなら、筆者は「ブラームスでしょう」と答えているかも。それがブラームスの作曲技術に学んで1926年に作曲されている。1926、日本では大正15年、昭和元年というとき。49歳での作曲。ドホナーニを「結局新しいものは何も生み出せなかった」と言う方もいるようだけれども、「おもしろくて、充実していて」と花崎さんが仰る通りであるかと。しめやかさを感じさせるところも。第2楽章をおもしろく聴いた。

 いつも聴き終えてすぐ、7時前までに感想なりを自らのトレーニングと課してきたけれども、この時間帯に書き損ねてしまうと、なかなか取り掛かるのが難儀になる。優れたリスナーの方々は多くいらっしゃるわけで、その一つをリンクさせていただく。愛聴盤まで紹介されていますからどうぞ。

 

🎧名曲アルバムはけさもドビュッシー、「牧神の午後への前奏曲」
再びモネの庭と館。それにしても飾られていた浮世絵が12点あったけれども、どんなルートで手に入れたものなのか。【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団,【指揮】梅田俊明

 

⛳それにしてもこれまで何人の音楽家の方々を書いてきたことか。ただそれぞれに踏み込んで連絡を取ろうとか何かを教えていただこうなどと、相手にとってはた迷惑なことを考えたことはただの一度も無く、手前勝手に書き綴ってきただけのこと。演奏することは諦めているけれども、どんなに小さくてもいい、いつか、一つでも何か曲を創ってみたいもの。
片付けるべきことのみ多く、やっと14時20分更新。

 

 

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20427クラシック倶楽部を聴く 関西交響楽団

「クラシック倶楽部 奈良県奈良市公開収録~関西弦楽四重奏団演奏会~

関西を拠点に活躍する4人により2012年に結成された気鋭の弦楽四重奏団。シュルホフによる1920年代の先鋭的な作品と、ラヴェルの傑作を組み合わせた意欲的なプログラムで、カルテットの多彩な響きをお届けします。関西ゆかりのメロディーによるアンコール曲も。」(番組紹介より)

 

🎵4人とも東京芸大卒。バイオリンの林 七奈、田村 安祐美は共に大阪響のコンマス歴任。ビオラの小峰小峰 航一だけが埼玉出身で、あとの3人は大阪出身だとか。現在チェロの上森 祥平以外の3人は京都交響楽団。必然、練習の場では関西弁が飛び交い「関西(弁だったかな)で行こうよ」となるらしい。ついつい「関西人以外の人には理解しにくい関西弁ランキング1位から10位」などというページに跳んで無駄な時間を食ってしまったが。はっきりものいう覇気ある練習風景が想像せられる。上森 祥平は日本音楽コンクール1位の後渡独。今回は2018年5月26日 奈良県文化会館国際ホールでの収録分。いつか見たっけ、聴いたっけ。今回また聴いてみて、「うまいな! 上手い、巧い、旨い!」

 シュルホフの「5つの小品」。民俗舞曲にデフォルメした曲。サスペンスか冒険のシーン、なかなか見えぬ、どこまでも見えぬ何者かを追っているかのような心境に。天に向かってぬけていくような感じはなく、ミステリアス。4のタンゴも切れの良さはなく、どこまでも流れ流れ浮遊する感じも。5タランテラ、よく聴くけれども、とにかく先が見えようが見えまいが鋭い触覚をたてて、休みなく突き進む。独断と偏見でこのように。ラヴェルの唯一の「弦楽四重奏曲」、シュルホフと通じるものがあるような。譜面の第十何小節のここが、といえないところが歯がゆい。アンコールで福富秀夫の「関西ラプソディー」、「収録当日もアンコールで大受けだったこの曲。まるたけえびす、琵琶湖周航の歌など、関西ゆかりのメロディーの数々」を楽しく繋げて寛げる一曲に。
 世界の中心地イーハトーブ岩手県のモリーオ(盛岡市)に住みながら、盛岡弁もよく知らず、関西の方々のように、これぞ我々の原語と声高く思いっきりしやべりきりたい衝動はあるものの、すっかり標準語に毒されてしまった盛岡弁しか知らない筆者には何とも歯がゆい。関西弁飛び交う楽団に盛岡弁で感想をぶつけたいところだが、このへんで「どんと晴れ」。

 

 

🎧名曲アルバム「ルーマニア民俗舞曲」バルトーク作曲
【ピアノ】清水和音

 

🎵バルトークがこの地方の民謡採取を。いま東北にこれだけの民謡がのこっているのは、その道の研究家武田忠一郎の採譜があったから。
トランシルバニア地方、素朴な農耕に生きている方々。教会へは民俗衣装を着けての正装。トランシルバニア地方、森のかなたの国。

⛳5時半ごろに俄かに鮮やかに眩い光を拡散させてくれた太陽はつかの間に雲になりを潜め、いまは空全体が気圏のむこうの光を感じさせる雲に覆われている。去年の桜の移ろいははやかった。咲いた!散った!あらら葉桜。けれどもことしは、低温の日があったせいか、よく花が持っている。先週も咲いてたよね、水曜日も、きょうもすごい、きれいだね。これはもしかして忍耐にある人々への自然からのエールかな。

 

⛳9時47分更新

 

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けさは

 さすがに眼を覚まして思うのは新型コロナによる危機的状況。日頃は頭脳集団に支配される側にいる筆者も、頭脳集団のため、というよりもワクチンを、薬を、或いは食い止める方策を開発できる方々、最前線で戦う医療従事者、また為政者のために祈るべき時と思わせられる。音楽視聴はその後かと。殊にも弱小国にまん延した場合に、先進国を自称してきた国々には、もはやサポートする体力が枯渇しつつある。また? また? 壊滅的な打撃を被るのは常に弱者、今回は強者もその渦にあるけれども、手を洗う水もない人たちはどうなるの?かつては先進国に搾取され、いまもそうなのだが、利用しつくされての、またかい? なのだ。
 これが大自然の流れの中で一つの摂理的な現象、この現象とか必然などという言い方が適切であるかどうかは別として、そういった運命的な、或いは、人類の罪業の結果であるのか、そこのところの解釈は各界さまざまかと。

いずれ、音楽視聴はそのあとかと思うけさ。

⛳6時23分

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きょうのことば

きょうはインマヌエル盛岡キリスト教会2020年4月19日()のメッセージをおつたえいたします。


國光勝美牧師、國光ひろ子牧師の岩手での主のご奉仕は47年目となっております。

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説教題 『私の主、私の神よ』 (國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 ヨハネの福音書201929

20:19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」 20:20こう言ってイエスは手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。 20:21イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」 20:22こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 20:23あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
20:24
十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 20:25そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
20:26
八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵が掛けられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。 20:27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 20:28トマスはイエスに答えた。「私の主。私の神よ。」 20:29イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」

 

<説教>

 きょう私たちはトマスという人物に心を向けていきたいと思っています。

私たちは、トマスというと十二弟子のひとりであることを知っております。そしてもう一つ、トマスという人物にある先入観を持っております。
 きょう歌いました2曲の賛美歌の中にもトマスという名が出てきました。手元にある資料で「トマス」と見ますと、どれも疑い深いトマスが書かれています。賛美歌の2曲ともそういった歌詞です。それ以外のトマスの人物像を歌ったものは無いのです。そのような使徒トマスでありますけれども、実はこのトマスこそ私たちの信仰の大きな励ましになる。つまり、このトマスのように、「私の主、私の神よ」と告白したときに、今日のような大きな恵みと祝福になることを心に捕えて、お話を進めたいと存じます。

 イエス様には十二人のお弟子さんがおりました。この十二使徒の名前を簡単に覚えられる教会学校の賛美歌があります。

♪ペテロとアンデレ
 ヤコブとヨハネ
 ピリポとトマスとマタイたち
 ヤコブとタダイ
 シモンとユダ
 バルトロマイが12弟子。
 弟子たちは
 イエスさまのおてつだいをしたのです
 ぼくたちもイエスさまのお手つだいをいたしましょう

教会学校で歌ったことを懐かしく思い出されるでしょう。聖書の名前を覚えるための歌もありますが、ここでは割愛いたします。
この歌の中に「ピリポとトマスとマタイたち」とあるこのトマス。トマスという人物を調べるとやはり次の聖画に出てくるようなトマスです。

聖トマスの不信》ジョルジョ・ヴァザーリ|MUSEY[ミュージー]

 ヨハネの手紙20章、このトマスは、19節「その日すなわち週の初めの日の夕方」、つまり復活の日の夕方、弟子たちがいたへやの戸には鍵がかけられていました。弟子たちはユダヤ人に恐れおののいていた。ところが、イエス様がいつの間にか彼らの真ん中に立っておられた。そして言われました。
 「平安があなたがたにあるように」。
イエス様はこう言って、(釘を打たれた)手と(槍で刺された)脇腹を彼らに示されると、弟子たちは主を見て喜びました。
 これがイースターの日のできごとです。これを見る限り、よみがえられたイエス様のお体には、十字架の傷跡がある。大変考えさせられます。よみがえって、イエス様は、これはあなたのために受けたあのゴルゴダの丘の十字架で受けた傷なんだよと言われる。私たちが、そのお方とお会いするとき、それは何とすばらしい恵みのときとなることでしょうか。ところが、理由はわからないのですが、トマスはその時、ここにいなかった。24節にあります。
十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスはイエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこでほかの弟子たちは、私たちは主を見たといった。しかしトマスは、私はその手に釘の跡を見て釘の跡に指を入れて、その脇腹に手を入れてみなければ決して信じません。
 ここに疑い深いトマスといわれる所以があると思います。

 それから1週間後、次の日曜日、
26
節、弟子たちは再び家の中にいました。このときはトマスも一緒にいました。やはりこんども鍵が掛けられていました。しかし、イエス様は、その彼らの真ん中にお立ちになって、平安があなた方にあるようにといわれた。それからトマスに、さあ「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」20:28トマスはイエスに答えた。「私の主。私の神よ。」 20:29イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」

 このところを何回も読み直して、果たしてトマスはここでイエス様にさわったんだろうか。皆さん方はどう思われますか。私の読み方が充分であるかどうかわからない。これを見ますと、トマスはイエス様の傷に、イエス様は触りなさいとおっしゃったけれども、触ったとは書いてない。1週間前には、触ってみなければ信じないと彼は言いました。けれども1週間経って後のこと、イエス様はトマスの言うところに耳を傾けられて、さあ、わたしだよ、指をここにあててわたしの手をご覧。手を伸ばして脇腹に入れてごらん。信じない者でなく信じる者になりなさいといわれたとき、トマスは実際にさわったのでしょうか。どちらにも解釈できると思うのです。実際、手元にある参考になる注解をみると「さわったトマスは」というような表現をしているところもある。それで信じたと理解するのもいいでしょう。しかし、さわったんだろうか。私はそう見るのでなくして、さああなたが願っていることをやってごらん、ほら傷跡だよ。脇腹の傷だよと主が示されたときに、トマスは「主よもう十分です。わかりました」、こんな心境になったのではないでしょうか。トマスが、ああほんとうだといって、傷をさわったかどうか。そうではなく、私は、トマスはよみがえられたイエスさまのお姿を見たとき、自分よりも1週間はやく復活の主にお会いしたほかのお弟子たちと同じように「私の主、私の神」と告白したと思います。

クリスチャン信仰告白
私の主、私の神よ
主はともにおられる
立っておられる

 わたしはこのときのトマスの気持ちを自分なりに解釈してみました。このときトマスは、1週間前には、そんなことはあり得ないと信じないよと言ったけれども、ほんとうの心の想いは、信じたいけれども信じられない。しかし、信じたい。信じてはいたのです。だってほんとうにイエス様のことを信じていなかったのならば、1週間後にほかの弟子たちと一緒にそこにいるはずがないんです。一週間も前から弟子たちと一緒に行動しているはずがない。だからトマスは、ほんとうは誰よりも、と敢えて言いますけれども、イエス様を信じたいんです。おそらく1週間前にそこにいたのならば、トマスはいちばんに喜んだひとりだろうと思うのです。でもそのとき、自分はそこにいなかった、でも弟子たちは見た見たという。おそらくそうだろう、でもさわってみなければ信じられないんだ。ここに人間の普遍的に持っている弱さ、それをトマスは見事に代弁していると思うのです。

 このトマスの気持ちは今の時代の今の私たちの気持ちを素直に表している。
さわるまで信じられない。この怖れと不安と悲しみの中にあるもの、それはマリアもそうでありましたし、そしてこの弟子たちもそうでした。そしてこのトマス。不安と悲しみの中にあるときに、イエス様はもういちどその人の彼らの心の中にご自分をあらわしてくださいます。

20:28トマスはイエスに答えた。「私の主。私の神よ。」

 みなさんはこのトマスのことばをどんなふうにお考えになりますか。主、神、どう違うのでしょう。なぜ「私の主、私の神」とトマスは言ったのでしょう。
 そして私は、このヨハネの福音書の構成を見ますとき、このことばこそ、大きなカギを持っていると確信いたします。この後に30節があります。

2030イエスは弟子たちの前でほかに多くのしるしを行われた。それは、この書には書かれてはいない。これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが、信じるためであり、また信じてイエスの名によって命を得るためである。

実はヨハネの福音書は、ここで終わっていてよかった。そのつもりでヨハネは書いたのです。これでヨハネ伝は締めくくられていい。だから、ヨハネ伝の締めくくりは、このトマスに代表されるまさに私たち、まだイエス様を直に見たこともないよみがえりのイエス様に会ったこともない、けれども、その私たちの代表のようにトマスが言ってくれ、そしてそのトマスの疑問に対してイエス様がねんごろに、ほら、わたしだよ、さわってごらん、さあ見ないで信じる者は幸いだよ。これがイエス様のヨハネの福音書を読んでる私たちへのラストメッセージなのです。さあ、よみがえったよ。いいね。21世紀のあなたたちは見たことがないけれども、見ないで信じる者は幸いだよ。

ではこの21章はどうしてあるの? この21章は、あ、そうそう、という感じで付け足されています。いわば付録という形で付け足されている。ヨハネ書の本来の目的はこの20章であり、ここまででおしまいだったのです。

 この当時、ローマの全盛期、「主」というべき存在はローマ皇帝以外あってはならなかった。またギリシャ神話の背景でいうと、ほかの神々といえば、ゼウス、アポロン、ポセイドンなどなどギリシャ神話の神々が当時はあったでしょう。それからエピソノスという崇拝されている偶像アルテミスもあったでしょう。いろいろありましたけれど、このとき、トマスが「私の主」といったとき、これは大げさではなくいのちをかけた告白と同じです。もし、日本が戦争中、宗教弾圧を受けていた時、天皇陛下が現人神とされていたその時にイエス様だけがほんとうの主です。私はこのお方に仕えますということは、それは天皇陛下を否定することになり、それはある意味命をかけての告白になるのです。イエス様に「私の主。私の神よ。」。世の中にはさまざまなギリシヤ神話とかあるけれどもまたローマ皇帝が神であるというその中で、私はあなただけが主です。私はあなただけが神です。こういってトマスが告白をいたします。

 手元の資料からですが、この「主」ということばには、ギリシャ語のΚύριος(ラテン文字: Kyrios)、「キュリオス」ということばが使われているそうです。そして「主」と訳す以外にも、主人、或いは、閣下、或いは先生、あるときにはお父さんというような訳がされるそうです。一般的には、奴隷や物の持ち主、所有者という意味ですけれども、そこから派生して神様、支配者、皇帝などを指すことばであるキュリオスが新約聖書で使われている。これは最高の称号であります。主、キュリオス。そしてキュリオスには神様、とともに、主権という二つの概念がはいっております。トマスはこのときはじめて「私の主、私の神」、と告白をしました。これを見ながらイエス様はいつでも私たちと共におられる。そして、イエス様は、私たちと共に立っておられる、このことを確認させていただき締めくくらせていただきたい。イエス様はトマスにも、いつでもそのような弱い魂にちゃんとご自分を現してくださいます。私たちは弱い者です。トマスと同じように弱い者ですけれども、イエス様はそんな弱いトマスをしっかりとご覧になられて、共におられるお方であることを、この朝に心に留めさせていただきたいと存じます。

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J-MEROをちょっと

けさのJ-MEROのゲストは平原綾香&森崎ウィン 、これは再放送。

 平原綾香がホルストの曲を歌ったと聴き、俄然注目度アップ。曲作りではチャレンジし過ぎるほどだという。追及していきすぎるほどに、なかなか音が広がっていかなくなる。そんなときに彼女はチャリティーに。周りを幸せにしようと思うと自分も幸せになれたと。そんなプロセスに森崎ウィンとの仕事の出会いがあったようだ。森崎ウィンはミャンマーのヤンゴン出身。1990年生まれ。夢はアジアツァーとオスカー賞にノミネートされること。平原綾香の新曲「もしも」がミャンマーでブレークしているらしい。

 実は平原、森崎が関わっているチャリティーの部分をネットで追ってみたのだが、時間がかかりそうで、ストップ。何れ、チャリテーに関わってくれる方々は有難い。売名だろなどとうがった見方をする人々もいるけれども、売名でも何でもいい、理由は何でもいい、待っている人たちのためにやって欲しい、そんなふうに思っている。

 

 今日出演の評論家さん、アニソンの三つの転換期についてのはなし。

 

⛳なぜかけさは頭がボワーン。聴き終えてPCの前に座っても、かたかたと頭がうごかない。こんなときには、別なことをするに限ると家事に切り替える。いまは昼食用のかれーを作りながら書いている。
しているうちに、TVでは、新日本フィルの新型コロナによる苦境を映し出している。文化活動に関わる人々への救援はいまのところ準備されていないという。ヨーロッパの文化意識の高いところでは2,30万という手厚い支援がなされているようだ。こんなときに文化人に対しての扱いで為政者の文化に対する意識が見えてくる。9時47分更新。

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20424くらしっくくらぶをきく

カナディアン・ブラス 演奏会

50年にわたり金管五重奏の音楽をけん引し、世界中の聴衆をとりこにしてきたカナディアン・ブラス。確かな技術と豊かな音楽性で紡ぎ出されるスーパーサウンドをご紹介。2020年2月1日武蔵野市民文化会館 大ホール収録。(番組紹介から)


カナディアン・ブラス
メンバー:ブランドン・ライデナワー(トランペット)、ケイレブ・ハドソン(トランペット)、      ジェフ・ネルセン(ホルン)、アキレス・リアルマコプーロス(トロンボーン)、チャック・デーレンバック(テューバ)

🎵カナディアン・ブラス、伝統をまもり、未来をめざし、ブランドンいうに「今のこの瞬間がいちばん大切」と。もともとは子どもたちのために演奏していたのが、やがてはカーネギーホールに、世界にと。バッハからビートルズ、ソプラノからバスまでをそれぞれの個性をアンサンブルに反映させての演奏。
 5人が黒のパンツスーツにオレンジ色のネクタイ、スニーカーで、黒人霊歌「ジャスト・ア・クローサー・ウォーク」を演奏しながら観客席に登場。客席のあいだを縫ってステージに。この曲を演奏しながら登場するのがこの楽団の定番であるという。続く「戦いのガイヤルド」。何と、ここまでがアンコール曲。時々時間の関係でできないこともあるので先にアンコールを演奏。これからがプログラムにある演奏です」とユーモアたっぷりの日本語挨拶。
 そしてバッハの「トッカータとフーガ」。軽さ、光の軽さとでもいおうか、そんな明るい響きを巧みに響かせながらも荘重さも感じさせる。「ビートルズ・オン・ブラス」ではビートルズナンバーから3曲を。トランペットで「イエスタディ」。トロンボーンで「ブラック・バード」、これは黒人女性を傷つきながらも飛びたつ黒い鳥にたとえた応援歌。あれはコルネットだろうか、「ケニ・レイン」。「リベル・タンゴ」。「ロンドンデリーの歌」。
 それにしても、このブラス使用の金管の美しさは! 譜面台や天井に並ぶライト、演奏する指のうごきなどが輝く金色のラッパの曲面に映りこみ繊細にうごき流れている。どこかの頁でアメリカのどこぞで製作されたものと出ていたけれども、華麗、流麗という感じが。
 ディキシー・ランドジャズ、ニューヨークからと聞え、あらら、発祥はニュー・オリンズだったような、ちょっと調べてみなければというところで、更新時間が遅れたのだけれども。

1917年にニューオリンズに登場し、ニューヨーク、シカゴに移動して広まったのが1910年とwikipedia.にあった。よく聞き落すので、聞き落しだったようだ。1917年というと大正6年。明治に日本にジャズが入っていたような気がして、一応「日本にいつジャズが入ってきたの?」とググると、菊池清麿の頁にいきついた。その「日本のジャズの夜明け」に詳しい。この菊池清麿という方、いま朝ドラ「エール」になっている古関裕而の評伝を出しており、むしろこちらの方に詳しくヒロインのことが書かれている。
 話しは逸れたが、五重奏のディキシーランドジャズ「ハイ・ソサィエティ」、「ブラック・ボトム・スクンプ」、「テューバ・タイガー・ラグ」、チャックのチューバに振り回されルパフォーマンス、また3人の奏者が歌声を聴かせてくれた。ちょっと異色な実力派金管五重奏、朝の空気を清々しく震わせてくれました。
 ディキシーランド100年をけさの番組とともに祝いながら。

🎧🎵名曲アルバム「ゴンドラをこぐ女」リスト作曲。

 

⛳朝食を終え、洗濯も終え、ジャズをググりまくり、いまどき、10時26分更新。

 

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20/4/23クラシック倶楽部を聴く

動物たちの楽団ズーラシアンブラスが金管五重奏で北海道、浦河町に登場!クラシックの名曲から、世界の民謡、日本の歌までバラエティーに富んだプログラムを熱演!(番組紹介から) 

🎵人口13千の浦河町は日高昆布、サラブレットの馬産ばかりでなく、夏いちごも作られているようだ。この浦河町で201771日収録。見るたびに聴くたびに楽しく愉快なズーラシアン。
浦河町ではどうであったか、チケットは35004000円程度。2歳以下のお子様の膝上での鑑賞は無料となっている。

曲は「ウィリアム・テル序曲」、「おんまはみんな」、石川亮太・作曲「トランペットラブレター」、これがロマの音楽の影響があるか「アルプス一万尺」、「剣の舞」、浪花節だよ人生はのメロディー的「モーツァルトだよ人生は」にアイネクライネ・ナハトムジーク、フィガロの結婚が聞えて、そして石川亮太・作曲「金管大相撲」呼び出しから金管で相撲の“管劇”、「襟裳岬」何とサキソフォンが森進一特有の地声の響きを、「お江戸日本橋」日本の歌の風景を交えたハイスピード、アンコール「こげよマイケル」。会場メチャ明るい! 惹き付けられる子どもたちの輝く瞳。童心に返る笑顔の大人たち。身近な曲とノリノリの編曲、動物たちが眠りこけたり、急かされ駆けたりと愉快なパフォーマンス。

 

製作スタッフはやはり錚々たる方々、滅多に顔出ししない方々の中の顔をTVが映し出してくれましたが。
指揮:伊能 貴央、東京音楽大学卒業 パリ国立高等音楽院(CNR)卒業。作曲も。

石川 亮太、東京音楽大学卒業 ズーラシアンブラス専属作曲家。「トランペットラブレター」、よかたですね~。あとは時間の関係で製作スタッフの頁でどうぞ。

 

🎧🎵名曲アルバム「交響詩 魔法使いの弟子」デュカス。指揮は円光寺雅彦、東京フィル。ドビュッシーとはパリ音楽院の作曲クラスで同窓。60歳でパリ音楽院に就任してからは、教育と音楽批評活動に。メシアン、ロドリーゴを輩出。

 

⛳新型コロナで多くの企画が中止、延期となっているが、文化の先細りも懸念されている。「どんな状況下でも創作をやめてはいけない」と語っている方が。コロナで音楽はどうか、と思ってもいたが、これはこれでわるくはないのだろうと。7時更新。

 

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20/4/22クラシック倶楽部を聴く

1987結成のサクソフォーン四重奏団、トルヴェール・クヮルテットの30周年記念公演。

 

須川展也(ss)、彦坂眞一郎(as)、新井靖志(ts)、田中靖人(brs)という4人によって結成された、サックスのソリスト集団。1987年に始動した。東京国際音楽コンクール、本吹奏楽アカデミー賞などで好成績を残し、クラシック界のみならず一般層からも注目を浴びる。クラシックの名曲を独創的なアレンジで聴かせ、中でも98年にリリースした『ヴィヴァルディ:四季/ピアソラ:ブエノスアイレスの四季』は、特に高い評価を得た。(タワーレコードより)

 

🎵今回はこのメンバーに小柳美奈子がピアノを担当。小柳は、支え役のサックスが一台入ったようなつもりでピアノでみなを支えみなが自由に演奏できるように心がけているという。神保は2016年からの参加。参加してみてテンションの高さを感じ、シリアスなところもあるはあるが、リラックスして先にある音楽を求め進んでいるなどと話している。バッハの「G線上のアリア」、ラヴェルの「弦楽四重奏」、そして長生淳の「ディプシー・チューン」、みなが待ちかねた「ディプシー・チューン」なのだ。チゴイネルワイゼンを主題? に名曲を登場させ、これを4台のサックスジョークとパフォーマンスでいなす。定番の名曲のありきたりの定番化、マンネリズムに活!活!活! それにしてもササックスが弦楽曲を! さまざまな奏法を駆使し聴かせてくれた。 

 

🎧🎵
名曲アルバムはビュータンの「バイオリン協奏曲第4番」。今回はビュータンが使った子ども用のバイオリン、それ以上にバイオリンケースが目が留まった。特注品かと。ドイツ辺りではバイオリンケースだけを製作している工房があると思ったが。ビュータンはベルギーのバイオリニストであり作曲家。

ビュータンの生地ベルビエから活躍の場ブリュッセルを映像で旅しながら聴く演奏、明るく爽やか。

 

⛳7時更新
14時再更新

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2/0/421クラシック倶楽部を聴く

「恋するトランペット フランス生まれのトランペットの新星、ルシエンヌ登場。クラシックや映画音楽などの名曲をお届けする。曲目:白鳥(サン・サーンス)、オブリヴィオン(ピアソラ)他」(番組紹介から)

🎵ルシエンヌ、裸足の妖精。初めて裸足でステージに出てきたのを見たときには、戸惑うほどの違和感があった。しかし今回は、クラシック界ではめずらしいけれども、近年ではダンス、サーカスとクラシック音楽とのコラボもある。こうしてみるとなかなかに魅力的、と納得。ルシエンヌはこれをも自分の個性、モチベーションとしてセットし、自分造りに成功したのだ。緑の環境でのインタビュー。パク・キュヒのときも思ったが、やはり乙女には緑がよく似合う。このルシエンヌに、どうもトランペットの方から会いに来たらしい。彼女はトランペットに気に入られたのだ。クラシック界のアイドルといった感じも。

曲目は、「亡き王女のためのパヴァーヌ」(ラヴェル)、「スペインの7つの民謡」(ファリャ)、「白鳥」(サン・サーンス)、「ロシアの踊り」(オスカー・ベーメ)、「オブリヴィオン」(ピアソラ)、「ウィーン風行進曲」(クライスラー)、「愛の悲しみ」(クライスラー)、「スカルラッティの主題による変奏曲」(ビッチ)、「ウォーキング・イン・ジ・エアー」(ブレイク)、「虹の彼方に」(アーレン)

「白鳥」は「動物の謝肉祭」の白眉との解説。「白眉」、白鳥が一層際立ち輝いた一言。当時一世を風靡した「古きよきウィーンを感じさせる一曲」などのクライスラー、レハールの曲を興味深く聴く。「スカルラッティの主題による変奏曲」でトランペットと沢木良子さんのピアノの掛け合い。ルシエンヌのトランペットの歌うような響きが心の移ろいに囁きかける。
秩父ミューズパーク収録。

 

🎧🎵名曲アルバム。「ほほえみの国」からアリア「君はわがこ心のすべて」。これもレハール作曲。吉田浩之のテノール、現田茂夫の指揮、東京フィル。
レハールは名テナー、リヒャルト・タウバーのために多くの曲をのこしたらしい。レハールのオペレッタに決定的な役割をはたしたというのだが、そのタウバーのユーチューブにある声をつないでみた。タウバーもいいけれども、吉田さんのテノール、朗々たる広がり、説得力がある。レハールはタウバーが亡くなった9か月後(ここは自信が無いが聞き間違っていなければ)、何れ、間もなく亡くなっている。

 

⛳とりあえず649分更新.

9時44分再更新

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20/4/20クラシック倶楽部を聴く

「マーラー室内管弦楽団の首席オーボエ奏者 吉井瑞穂が秋田県大仙市に登場。大指揮者アバドも惚れ込んだ美しい音色と卓越した技巧で、モーツァルトなどの名曲をお送りする。」

🎵番組紹介で「えっ」と惹きつけられるのは、「マーラー室内管弦楽団の首席」「アバドも惚れ込んだ」この2か所。この番組に登場する方々はみな「美しい音色と卓越した技巧」であるに違いないのだ。5年以上は毎回聴いている。国際コンクールの優勝者か入賞者、或いは国内コンクールでの優勝者たち。けれどもやはり「美しい」、「卓越した技巧」やその類似語は不可欠で、どれぐらい美しいか、どれぐらい卓越しているかと聴いてみたくなるという性質を持つ幸せな語彙たちなのだ。というわけで。2019年6月24日大曲市民会館での収録分を。

吉井さん、大曲にある「花火伝統文化継承資料館 はなび・アム」を見学されたようで、2秒3秒の瞬間芸術のために努力を惜しまない花火に、録音技術はあるけれどもやはり音楽も演奏した端から消えてゆく瞬間芸術であり通じるところがあるとおっしゃっていた。地方に温かいことばをもらうと、聴こうという気持ちにもなるわけで、素直に耳を傾け、と思いながら聴くうちに、こちらが素直であるというよりは、吉井さんのオーボエの音色が素直にさせてくれていることに気づいた。モーツァルトの「オーボエ四重奏曲へ長調」、好きなフォーレの「シチリア舞曲」、ボロディンの「ダッタン人の踊り」、大島ミチルの「風笛」。次が、何と映画「ミッション」からの「ガブリエルのオーボエ」、作曲はモリコーネ。しみじみとした響きに潤され、あわや涙が。そして次がパヴェル・ハースの「オーボエとピアノのための組曲」、これはしっかりと聴かねば。作曲年代は1939~1941。収容所送致となる以前、第二次世界大戦が始まってからユダヤ人迫害が激しくなっていく時期に書かれている。あすはわが身か、次はわが身かと底知れぬ不安を募らせながらの、しかし、作曲のあいだだけはささやかな小康を得ながら書かれたものかと推測。

パヴェル・ハース1941年にテレージエンシュタット強制収容所に送致され、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で処刑された。《交響曲》は長らく未完成のまま放置されたが、1994年にズデニェク・ゾウハルにより、ハースの作曲様式を踏まえてオーケストレーションを施された。ハースの作品は、ボヘミアモラヴィア民俗音楽に根差しており、時折りユダヤ人の民謡にも似た趣きがある。テレージエンシュタット時代の作品は僅かに8作が遺されたにすぎない。(Wikipediaより)

この選曲について、吉井さんは、すこし濃く重いテーマ、平和と音楽について、何が芸術で何が世の中の役に立つのかといった視点から選んでみたと。
 第2曲目に入って、何と何と、5時39分に震度4の地震。震度4にもとうとう慣らされた感じで、そう慌てることはないけれども、この新型コロナに万が一南海トラフでも重なったならどうなるの? 誰しもが思っているだろうことが。どうもこうも路上に放り出されたとしても頑張って生きていくほかはないなどなど、思ううちに第3曲。
 第3曲に収容所が解放されたときの人々のありさまが一気に思い出され、何とも。もういちど穏やかな気持ちであるときに聴いてみようと思う。

🎧🎵名曲アルバムは「序曲1812」。高関健の指揮。N響。ボロジノの闘いから7日目のナポレオンのモスクワ侵攻。敗退。その後70年後にチャイコフスキーがこの曲を作曲。元気を出したいときの一曲に入れておきたい。

 

 

⛳7時5分更新。

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きょうのことば

きょうはインマヌエル盛岡キリスト教会2020年4月12()のイースター講壇のメッセージをおつたえいたします。この日は、新型コロナに配慮しての聖餐式も持たれました。またひろ子先生が労されたたくさんのイースターエッグが皆様に配られました。

國光勝美牧師、國光ひろ子牧師の岩手での主のご奉仕は47年目に入ります。
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説教題 『われ活くれば汝らも』―イースター講壇―(國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 ヨハネの福音書1419

14:19あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。

 

<説教>

説教題にあります「われ活くれば汝らも活くべければなり」(ヨハネ1419節)、これは文語訳でございます。一応、これが語られました背景を心に留めておきましょう。イエス様は、十字架におつきになられる前の夜、弟子たちと過ぎ越しの食事をなさいました。これが最後の晩餐です。このときに語られたおことばであります。

ここでマタイ262030節をご覧くださいその場面が書かれています。

26:20夕方になって、イエスは十二人といっしょに食卓に着かれた。 26:21皆が食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」 26:22弟子たちはたいへん悲しんで、一人ひとりイエスに「主よ、まさか私ではないでしょう」と言い始めた。 26:23イエスは答えられた。「わたしと一緒に手を鉢に浸した者がわたしを裏切ります。 26:24人の子は、自分について書いているとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」 26:25すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが「先生、まさか私ではないでしょう」と言った。イエスは彼に「いや、そうだ」と言われた。26:26また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」 26:27また杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。 26:28これは、多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。 26:29わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物で造った物を飲むことは決してありません。」26:30そして、彼らは賛美の歌を歌ってからオリーブ山へ出かけた。

2628節にありますように、私たちもきょう、この礼拝後にパンと葡萄液をいただく聖餐式を持たせていただきますが、最後の晩餐にはこのような大切な意味がこめられております。

そして、マタイ262930を見ますと、
26:29わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物をで造った物を飲むことは決してありません。」26:30そして、彼らは賛美の歌を歌ってからオリーブ山へ出かけた。

このオリーブ山がゲッセマネの園といわれるところであるかと。聖書学者たちはそこに行くあいだに、葡萄畑を通られたって行かれたのではないかとしています。それを下敷きにしてヨハネの13章を見ていただきますと、
13:1さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので
とあり、晩餐に集う弟子たちの足を洗われるという印象的なできごとがあり、そして過越の食事が為される。イエス様が「わたしがパン切れを浸して与える者」が自分を裏切るといって、それをイスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになります。

いつものイエス様のご様子からいうと、これはもうふつうではありません。お弟子さんたちは、尋常ならざる時が近づいていると直感したでしょう。ヨハネ1419節でイエス様がいわれる「14:19いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです」にも、尋常ならざる事態を弟子たちは感じ取ります。14章のいちばん最後31節を見ますと「14:31しかしそのことは、わたしが父を愛しており、父の命じられたとおりに行なっていることを世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここから行くのです。それは私が父を愛して、父が命じられたとおりになっているのを世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここからいくのです」。最後の晩餐を終えられたイエス様はこういって外に出られ、たぶん葡萄畑の横を通っていかれた。
その時にイエス様は15章にある15:1わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。 15:2わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。 15:3あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もう刈り込みが済むんだのです。 15:4わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。 15:5わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」と。「我は葡萄の樹、汝らは枝なり」とこのおことばを弟子たちに話されたのでしょう。

一連のおことばの中で、ヨハネ14章の19節、「14:19いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです」
弟子たちがどれほどその深い霊的な意味を悟ることができたかは別として、このおことば一つとっても弟子たちはもう気が気ではなかったでしょう。
14章の1節で、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と、イエス様は不安におののくお弟子さんたちを落ち着かせようとしておられます。
ヨハネ1419節の前半で、「あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。」と言われ、そしてその後で「わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。」と。だから安心しなさい。心を騒がしてはいけない、大丈夫だよと弟子たちを励まされている。

「わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです」というこのおことばに心が留まります。聖書には幾とおりかの訳があります。ヨハネ1419節の後半の幾つかの訳を見てみましょう。

新改訳2017「わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです」
新改訳第3版「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです」
口語訳「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである」
新共同訳「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」
文語訳「われ活くれば汝らも活くべければなり」
明治元訳「われ生(いく)れば爾曹(なんじら)も生(いき)ん」

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「わたしが生き、あなたがたも生きる」、これは並列的です。「わたしが生きるので、あなたがたも生きる」、こちらには因果関係がある。ギリシャ語の原語を辿ると、翻訳者の見識、見解に依っており、どちらが正しくどちらが間違っているというものではないけれども、訳の違いがおもしろい。共同訳のように「ので」を入れる訳もあります。

 文語訳は「我活くれば汝らも活くべければなり」、これは「われ活く汝らも活く」といった並列ではなく、「われ活く汝ら活くべければなり」というような訳がほとんどですね。新改訳の2017の方が「わたしが生き、あなた方も生きる」と並列的であり、意識的にちょっとニュアンスを違えて訳しているなと、たぶんその意図があるなと。で、明治元訳ですと、「われ生(いく)れば爾曹(なんじら)も生(いき)ん」ですが、生(いく)れば」とあるのでやはり、これも文語訳の系統ですね。

もう一つ、比べついでに、詳訳聖書というのがあります。これは明らかに「わたしが生きるので、あなたたちもまた生きる」と、いままでの「ので」はいうまでもない前提としての訳です。

こうしてみると、ああ、私たちが永遠のいのちを持つということは、イエス様の復活、イエス様の(死んだ後も)生きる、というそのまさに復活があるからこそ、あなたたちも生きるという大切さがあります。リビングバイブルを見ますと、はっきりと「わたしはよみがえり、あなたがたもいのちを受けるからです」とあります。「われ活くれば」という「生きる」というところを、「わたしはよみがえり」とストレートにわかりやすく書いてある。それぞれが味わい深いおことばです。ヨハネ1419節をできるだけ皆様に印象深く捕えて頂けばと様々な訳を挙げました。 

イエス様が、「わたしがよみがえるので」と言われたこの部分ですが、訳のニュアンスの違いはあれ、このところのイエス様の復活は、すべて受動態で書かれてございます。イエス様のよみがえりをいうとき、自然な日本語では「よみがえった」というのが正解でしょうけれども、しかし、受動態であることを意識して訳すと、「主はよみがえらせられた」となります。「よみがえらせられた」という受身形は実は日本語とすれば不自然です。しかしイエス様の復活とは、父なる神様が、主を墓の中からよみがえらせてくださることなのです。 

私はきょう、復活は受動態だということを意識してメッセージを準備していたときに、新改訳2017の訳「わたしが生きあなたがたが生きる」のこの並列的に訳してある意図にはたと気づきました。ああ、私たちは、イエス様はすばらしい欠点のない神の御子だから、そのお方がよみがえられるのは当然なのだと思っていましたが、そこで、ちょっと立ち止まって、

イエス様だからよみがえったのではなく、イエス様でさえも父なる神様によってよみがえらせられた、だからあなたがたのよみがえりもそれと同じですよ。イエス様だからよみがえられたというのではなく、あなたがたもイエス様がよみがえらせられたように、あなたも神様の御力によってよみがえるんですよ。こう理解したときに、なにか光がさした思いでした。詩篇119130節には「みことばの戸が開くと、光が差し、浅はかな者に悟りを与えます」とあります。

 これまで幾とおりもの訳を熟知しているはずの新改訳2017年の訳者たちが、なぜ敢えて「私が生きあなた方も生きる」というような並列的な訳を採択されたか。そのことに想い到りましたとき、とても恵まれました。つまりイエス様は神様であって確かに特別な存在ではあるのだが、だからよみがえられたのではない。イエス様をよみがえらされた神様の力は同じ並列的に書かれている。あなたがたもそのよみがえりのいのちにあるんですよといっている。こうしてみると、たとえばわたしたちがこの地上における日々の歩みにおいて、これまで想像もできなかったような困難や試練を十分にわきまえたうえで、イエス様の復活に関わることをもういちど考え思い巡らして頂きたいのです。あの十字架上での苦しみと辱めと疲労困憊の中でついに絶命し、アリマタヤのヨセフが引き取りヨセフが自分のために準備しておいた墓に葬られました。そしてローマによって封印された墓から、イエス様だからよみがえったという以上に、イエス様はよみがえらされた。父なる神様によってよみがえらされた。「わたしが生きる、だからあなたがたも同じように生きる」のであります。復活のときに力を表してくださった同じ神様が、イエス様の復活と並列的に、今苦難や問題困難に直面する私たちを、イエス様をよみがえらせてくださったあの神様が、私たちを同じようによみがえらせてくださいます。私が頑張って頑張って一生懸命やってダメだダメだこんなつらい試練からはもう起き上がれない、そんなさ中にも、「私が生きる、そうだろう、私は復活しているだろう」と言っておられる。自分と同じくなってくださる神様が、わたしは特別じゃない、あなたも同じように生かされるのだ」。

このようにみことばを整理しましたところ、いま多くを抱える私自身の気持ちの整理がつきました。困難、たとえそれが死であったとしても、それを真正面から受け留めたときに、「われ活くれば汝らも活くべければなり」というおことばがふっと心の中に入ってきたのでした。私どもはイエス様のいのちにあります。困難や死から逃げずに真正面から引き受け、イエス様の復活の事実に信仰の焦点がくっと合ったときに、自分自身の心の中に勝利が与えられた経験をしております。イエス様の復活を信仰を持ってアーメンと肯くときに、同じ神様の恵と力はすでにある。そこで私は立ち上がっているわけです。イエス様の復活がわかったときに解決済みとなっている。「われ活くれば汝らも活くべければなり」。皆様方の日々の生活の問題、あのことそのことはあるでしょう。しかしイエス様の復活に信仰の焦点が合っているなら、もうその問題は解決しているのです。

そうだ、アーメン、このようなイースタ、「われいくればなんじらもいくべければなり」というこれを皆さん方と一緒に気共有できたらいいなあと私はこうおもっているんです。そうです受動態なんです。イエス様だから、ああいうすばらしい特別なかただからじゃない。同じよみがえらされた今の私の所にも働いて、キリストを死からよみがえらせられたたもうたお方、などかこれに添えて、ですよね。御子を「お与えtくださった神がなどかこれに添えてなのですが、よみがえらせてくださった父なる神様に焦点があったならそれだけで、焦点が合った瞬間に、もうその人は立ち上がっている。そのようにそのような経験をすこしさせていただいたし、皆様方もそれと同じ経験をこれからもなさるだろう、そのように思っております。

※画像は教会からお借りしています。
國光勝美牧師の説教をレコーダーから起こしています。
牧師夫妻の写真は筆者が任意で載せています。

 

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J-MEROを聴く J-MERO

J-MERO
ゲストAK-69, coba

 

J-MEROはクラシックを聴くうえでの参考にとのつもりで見るようになったのだが、どうしてどうしてこのジャンル決して侮るなかれと思うようになった。侮るなかれという以前に、人気ではすでに社会的に凌駕し時としては社会を後ろ手に回す存在である場合もしばしば。なかなか肯定しにくい存在、なるほどと目を見開かされる存在、わけわかんないよといった存在とありとあらゆるパターン。

 

AK-69、闘うものを奮い立たせる。アスリートとの交流があるようだ。このテンションの高さ、強さ、速さがアスリートに、過激に闘う人々に合っているのだろう。ヒップ・ホップまっしぐら。大きい事務所に入りたかったが入れず、その悔しさをバネに自らの闘いを楽曲に刻む。こう書こうああ書こうと思って曲を書いてはいない、自分の人生そのままを、と。ただ降ってきた曲もあり、それが「ハレルヤ -The Final Season 「ハレルヤ・ザ・ファイナルシーズン」。
 負けてなるか挫けてなるか、のプリズムが闘志を煽る。野望はドームのライブ、やはりドームだ。

 

Coba、ひと昔まえは、ちょっとダサく見えてもいたアコーディオンという楽器を世界中にカッコよく輝かせたご仁。どんなジャンルにも親和できる可能性を内蔵、しかし没個性とは決してならずCobaのアコーディオンはきらめきを放つ。すでにクラシックでも。一回聴いたひとたちが口ずさんで会場から帰ってゆく、そんな曲作りを目指す。夢はプラハの音楽祭、ホントなの? 大暴れしてきたいと言っている。

 

音楽評論家さんも登場。柴 那典 。ググってみると、興味ありそうな著書も結構出しているようだ。AKB48のわかりやすいキャッチコピー系、またいま会えるアイドル系、テクノ・ミュージック系、メタル+ダンス系などと分析。筆者では、もうこれ以上は踏み込めない。

成り行きのノリでキャッチコピーをググる。もはや際限もない。というわけで書き足そうと思ってまたこのページを開け、ネットでけっこうおもしろく遊べたという結果に。

  

 

⛳7時2分更新。
早朝の短時間仕事にはまずい点が多々と思いつつ11時16分再更新。
May J.けさも爽やかでした。

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20417クラシック倶楽部を聴く

🎵

けさは古楽器。モダンのような華麗さにはちょっと距離を置くけれども、遠い時代の空気感、絹の手触りの音色で安らぎをくれる古楽器。

番組紹介には「ナヴァラ、アーノンクールに学んだ古楽の雄、クリストフ・コワンの演奏で「アルぺジョーネ・ソナタ」をお送りする。「アルペジョーネ」とは19世紀に生まれ、すぐに廃れてしまった楽器。ギターとチェロを合わせたような構造で、シューベルトのソナタにかろうじてその名を残している。今回はコワンが所有するオリジナル楽器での演奏で、世界に二十挺ほどしか残っていないという現存するアルペジョーネの音色を聴く貴重な機会。」とある。

シューベルトは1824年、27歳で、開発されたばかりのアルペジョーネのために「アルぺジョーネ・ソナタ」を作曲したが、28年に初演されたときには、もうアルペジョーネが廃れており、バイオリンで演奏されたというのだから、アルペジョーネの短命さがわかる。廃れた理由は、コワンの解説にあったが「音程を変えたりビブラートをかけることができない」などの事情がありそう。音を聴いたところでは、幾分軽みのある分、明るさ、懐かしさを感じさせるのだが、この楽器に底深く力強い響きを望もうとすれば限界がありそう。しかし、アコカ言うに「哀愁を帯び神秘的」でもある。この楽器、シューベルトが作曲名に「アルペジョーネ」の名を冠してくれたお蔭で生き残ったものか。いま世界に20挺あるうちの1挺、たぶん1挺をコワンが所有。20世紀になってからミュンヘンで製作されたもの。

コワン&フォルテピアノの金子陽子の「アルぺジョーネ・ソナタ」、そしてジェローム・アコカ&金子の「バイオリン・ソナタ イ長調」の抜粋。このジェロームのバイオリンも古楽器。彼の解説「弦はガット弦。弓も時代に合ったもの。また金子弾くピアノは、金属製のフレームを持たない古いピアノ。古楽器は照明が当たるだけでも音程が不安定になる」と。温度、湿度の変化に敏感な楽器、長時間の演奏は冷や汗ものなのかも。2018419日武蔵野文化会館での収録分。

心穏やかに聴き入った朝のひと時に感謝!

 

 

🎧名曲アルバム「パガニーニの主題による狂詩曲」ラフマニノフ作曲
江口玲のピアノ、現田の指揮。東京フィル。 

🎵
1918
アメリカ亡命後ニューヨーク拠点にピアニスト・ラフマニノフの全米、ヨーローッパの大ホールでの成功の数々。江口玲のピアノで聴くアメリカ移住後の傑作「「パガニーニの主題による狂詩曲」。

⛳桜が咲いている。7時ジャスト更新

 

 

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20/4/16クラシック倶楽部を聴く

🎵けさは4時きっかりに、すっきりと起きだし、5時にはスイッチオン。ギル・シャハム江口玲。このふたりの会話が実に互いを輝かせるというリップサービスなしの爽やかさ。まことの友人とはこんなものであろうと思わせられる。断片とはなるが、ギル・シャハムが「バッハを弾くのは怖い」というこれが意外だった。長い間バッハを弾かなかったらしい。そこに江口が「シャハムはバッハのすべてを引き出してくれる」と。シャハムいう「玲のような共犯者と悪だくみ」しながら30年の共演であると。音楽の悪だくみ、信頼ある愉快なことばだ。すでに完成かと聴いたギル・シャハムがいう「バイオリンはスマートホンのようなもの。使いこなせない。少しずつこのマシンのすばらしさを発見しつつあるところ」。この関係は確かに演奏に反映されており、互いが互いの個性を引き出し互いが存分に自らの演奏を充実させ次の可能性を期待させてくれていた。

 クライスラーの「プニャーニの様式による前奏曲とアレグロ」に、精緻な音の輝きが。バッハの「無伴奏バイオリンパルティータ第3番」、これはすばらしかった。どんなふうに、とにかく風通しがいい。たとえは適切かどうか自信はないけれども、超能力を備えたハウスキーパーが、へやにあるものを次つぎに、一点の曇りもなく見る見る間に磨き上げていく。床、ガラス、天井、照明、ドアノブ、手すり、スイッチ、壺、日常に使う食器の数々。つまりこのへやが筆者の内面なのだが。マイナスの感情を痛みもなく切り落として、すっきりとそのもの本来のありようを取り戻してくれるのだ。ギル・シャハムもいっている「バッハがいてよかった」と。ロンドン風ガボットではもう喜びが満ち溢れている。玲が言ったとおり「シャハムの演奏は、目の覚めるようなクレイトーン、天国にいるような響き」であり、バッハは、シャハムが言うとおり、彼に言わせれば演奏した後はということなのだろうが、聴いたあとには「良い人になった」かの思いにさせてくれるのだ。
 フランクの「バイオリン・ソナタ」。フランクは人生の大半を教会のオルガン奏者として過ごしたようだ。この曲はフランク64歳の作曲。フランクの人生のドラマ展開をシャハムの小気味よい見事な演奏展開で聴かせてくれた。収録は2018年6月24日 紀尾井ホール。湧き上がるブラボー。でしょう、そうでしょうとも。音楽的にだけでなく、シャハムの人柄からもつたわってくる冴えと人間味を兼ね合わせたすばらしい演奏だった。

 

🎧名曲アルバム「クロイツェル・ソナタ」ベートーベン作曲
バイオリン小林美恵、ピアノ清水和音

🎵トルストイを衝き動かしたクロイツェル。悩み深く扇情的なところもあるクロイツェル・ソナタだが、トルストイは禁欲的な愛を勧めているというが。重たい荷を引きずる精神的な苦悩も感じられるクロイツェル。小林のバイオリン、清水のピアノの相乗効果。

⛳一次更新7時10分。二次更新9時13分
音楽とは関係ないが、けさのウルトラ重機、42メートルの大型トレーラーに掘削用巨大ドリル。これら大型重機は、実は自然破壊の“大立者”であるという側面も。現地に入っての撮影、どんなものだろうか。とにかくすごい!

 けさ、この住まいには太陽が二つ昇った。向かいにある10数階建てのビルの左横からが一つ、その奥にほぼ重なる近距離にある右隣のビルの窓ガラスが映し出した太陽、これが眩さで建物の外観が消えているために、事実その建物の地点に太陽が昇ったように見えるのだが、これが一つ。けさは二つの太陽が同等に強烈な光を放ってこの室を照らし出してくれた。




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20/4/15クラシック倶楽部を聴く

 🎵けさのチェリスト、マット・ハイモヴィッツ1970年イスラエル生まれ。パリを拠点に世界的に活躍。1996年にはハーバードで学士号を得ている。共演のピアノの児玉麻里とは家族ぐるみの付き合いがあるようだ。麻里の違う視点に学ばせられるという。201868日トッパンホールでの収録分。
 演奏は3曲。ベートーヴェンの「マカベウスのユダの主題による変奏曲」、ドビュッシーの「チェロ・ソナタニ短調」、プーランクの「チェロ・ソナタ」
 けさは筆者の受信装置に若干の疲弊があったために、演奏をすっきりと受信できず、玩味できなかったというのが正直なところ。これは全くの視聴者側の個人的な問題で、客観的には確かにすばらしい演奏、個性的な演奏であったと思う。数小節かでぐっと掴まれて最後まで聴きおおすというパターンではなく、要所要所の演奏テクニックの面白さに注意力を喚起されながら聴き終えた。プーランクのチェロ・ソナタについて、どこかで納得がいくような解説を書きおいてはくれないかとググってみたが、なかなか。やっと一件、「管楽器に名曲が多いプーランクが残した、唯一のチェロ・ソナタ。プーランクは世代的にドビュッシーの後継者としてもいいと思うが(他に後継者が見当たらないし)、抒情的なメロディへのこだわりが強く、あまり前衛的な感じはしない。第2楽章で、ピアノが静かで美しいフレーズで始まり、概してピアノに透明感があっていいメロディが振り分けられている気がする。第3楽章のわくわくするような生命感、チャーミングなフレーズが魅力的な曲だが、ちょっとチェロが引っ込み気味な録音のせいでパンチが効いてないのが惜しい。」(nadegata papaの音楽視聴記)。書いていても何かしら原因不明のこの乗りの悪さ。もうここまでにした方がと内なる声が。しかしあの異次元にはじけそうなハイモヴィッツのチェロは印象的。

 

🎧名曲アルバム、「四季」の春。ヴィヴァルディ。ヴァイオリン・漆原朝子、指揮・飯森範親、東京フィル。
🎵またまたのベネツィア。ヴィヴァルディの生家、活動の地を補足的に
何をどうたどれば何がもっとわかるのか、その糸口をくれるクラシック倶楽部と名曲アルバムはやはりありがたい。

 

⛳16時13分更新。
そういえば、けさ名曲アルバムが終わったあとに、巨大重機を放送していた。これまでも巨大重機による樹木の伐採、オーストラリアであったか広大なブドウ園のぶどうの収穫、よく果樹を傷つけないように改良されたものと感嘆。また巨大除雪車。そしてきょうは100トンを一挙に掬うことができる巨大バケット付きの総重量8000トンのウォーキングドラゴンという名の巨大ショベルカー。これで大地をはがす。実はここで眠気がいっぺんに吹き飛んだのだが。これほどの重機を開発できるものが、分野をまったく異にするけれども、新型コロナの実態を目前にしながら、この一般の者の目に見えないウィルスには手も足も出ないとは。はやく薬ができるといい。

 不謹慎かもしれないけれども、累々と埋葬されていく遺体を見たとき、口蹄疫の牛が土中深くに埋められていく場面を思い出した。鳥もやられ、牛もやられ、こんどは人間も。災害の時のみならずまたもや自然の猛威の前にかがみこまざるを得ない、そして戦わざるを得ないすがた。その次は言わぬことに。自分の無力、非力、大して人様の役にもたっていない、申し訳ないという実感が。

 

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20/4/14クラシック倶楽部を聴く

🎵ビオラが特に重要な役割をつとめる室内楽曲を、ビオラの名手ニルス・メンケマイヤーと、クラリネットのコハーン・イシュトバーン、バイオリンの山根一仁、ピアノの島田彩乃で演奏。聴きどころは番組解説にもあった「ビオラは天国と地上の間にある楽器です。光り輝くバイオリンに対し、ビオラは影と憂いの楽器。暗く陰影を帯びたビロードのような音色が、心に奥深いところに訴えかけてきます。(メンケマイヤーのコメント)」。またメンケマイヤー、「ビオラは陰(蔭かな)と憂い(愁いかな?)の楽器」「秋の色(彩かな?)」でもあると。
 オケの場合でもセロに注意力を向けることはあっても、ビオラに特に耳を傾けるということはそうない。しかしこういった室内楽で、ビオラ用の曲を聴いてみると、その役割、滋味というものを教えられる。明るい色彩にさーと淡彩で陰影を施された絵画を見ているような味わいなのだ。クラリネットには音の性質的な共通点が感じられる。何れもブラームス的な翳りを弾き出してくれる。メンケマイヤーのいう「ビロードのような」。美しい重音となった時に殊にもそう感じられる。ビローがビオラとすれば、絹の楽器は? ホームスパン、羊毛の風合いの楽器はなどと連想。
 モーツァルトの「バイオリンとビオラのための二重奏曲」これがハイドン的と聴いていたところ、解説に「病にあったミヒャエル・ハイドンの窮地を救うためにモーツァルトが代作した」と。ハイドンの曲が1音符もらざず、はずすことなくきっちりと脳内に明記されているモーツァルトが、瞬く間に、かどうか、そう時間をかけずにハイドン風に書き上げたところ恐れ入ります!

モーツァルトの「ビオラのための三重奏曲」、これはケーゲルン場、いまでいうボーリングのような遊びであるらしいが、そこで遊びながら作ったという。「この曲は、この時期まだまだ新発明の楽器だったクラリネットを使い、ヴァイオリンより低い音域のヴィオラを交え、ピアノとの三重奏曲として書かれた世界最初の曲」であるようだ。当時クラリネットはまだ発明されたばかりで音程も安定していなかったらしい。モーツァルトの友人であるクラリネットの名手アントン・シュタッドラーのために書かれたか。モーツァルト自身がビオラを担当したようだ。

ブラームスの「ビオラソナタ変ホ長調」、音楽を聴いてばかりもいられず、家事をしながら聴いていたのだが。ブラームス作品のほうによりビオラの持つ音の「こく」を味わうことができた。奏者がどう弾くかよりも楽曲への興味から聴いたけさの視聴、このように時間を経過すると、記憶から剥落してしまったところも多いのだが、心の何らかの滋養とはなっているだろう。 

 

🎧名曲アルバム「ゴンドラをこぐ女」リスト作曲
ピアノ 阪田知樹 ロケ地 ベネチア(イタリア)

🎵このところ、様々な角度からベネチアを見せて聴かせてもらっているが、今回は、「富の橋」に象徴されるベネチア共和国の繁栄に思いを馳せた。もっともリストがこの地を訪れたのはベネチア共和国崩壊の後ではあったようだが。

⛳5時起きで聴くは聴くが、書けるかどうかはそのときの成り行き次第。ブログに時間を投じることがいいのかどうか。内心首をかしげながらではあるが、朝に書きかね、15時32分更新。

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20/4/13クラシック倶楽部を聴く

🎵けさはマキシミリアン・ホルヌング&河村尚子 デュオ・リサイタル。2017年10月12日、京都コンサートホール アンサンブルホールムラタでの収録。このホールもやはり日本の文化を意識した造りであるようだ。当日の後半の2曲を編集しての放送。

15分遅れで聴いたマーラーの「さすらう若者の歌」、これはホルヌングの編曲。遅れをとったこの15分に奏者のコメントが入ったかもしれない。
 番組とは関係ないが、そちこちググっているうちに去年の11月にマリス・ヤンソンスがサンクトペテルブルクの自宅で死去した記事に出くわしショック。

またクラシック倶楽部に戻り、「チェロ・ソナタ第2番 へ長調 作品99」、ブラームス53歳の作曲。不安をあおる空気と抑制力のせめぎ合い、拮抗が綿々と続くかに。

 

 

🎧🎵名曲アルバムの方はオッフェンバックの「ホフマンの舟歌」。森谷真理のソプラノ、加納悦子のアルト。東京フィルハーモニー交響楽団で指揮は渡邊一正。このロケは、恋を歌いながらも午後8時の静まるベネチアの風景を。バロック・ダンス、映画などでは時代のゆったり感と見ていたが、なるほど。

イタリア、コロナ被害をまともに浴びる“最前線”、美しい景色にも悲壮感。これがこんどはアメリカが。せっかくよい音楽を耳にした後、このひと時だけはセラのときとして有難く受け取っておくだけでよいのかもしれないが。

これは聖書のことばだが、「光よあれ、すると光があった」。地の創造のはじめは光だった。「光は闇に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」。この光がイエス・キリスト。魂の勝利を祈りつつ。ウィルスとの死に物狂いの戦いに勝利を祈りつつ。

 

⛳7時jジャスト更新。

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きょうのことば

イースター、おめでとうございます!
イエス・キリストは、リアルタイムで、こう発信しておられます。

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11:25~27)

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

イースター講壇は来週にお伝えいたします。
きょうはインマヌエル盛岡キリスト教会2020年4月5日()の礼拝メッセージです。
國光勝美牧師、國光ひろ子牧師の岩手での主のご奉仕は47年目に入ります。

 

説教題 『十字架ってなに?』―受難週講壇―(國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 コリント人への手紙第一 第1章1825

1:18十字架のことばは、滅びに至る者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。 1:19それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りのある者の悟りを消し去る」と書いてあるからです。1:20知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。 1:21神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。 1:22ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。 1:23しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、 1:24ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。 1:25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです

 

<説教>

さて、きょう(先週の日曜)はパームサンデー、棕櫚の聖日といわれております。今週は受難週で来週の日曜聖日がイースターでございます。

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 受難週は棕櫚の聖日からになります。イエス様がロバにお乗りになって、人々は棕櫚の葉をふりながら「王様万歳、ホサナ、ホサナ、主いま救いたまえ」とエルサレムに入っていかれるイエス様を歓迎します。これがエルサレム入城のパームサンデーと呼ばれております。
 月曜日は、宮きよめの月曜日といわれております。エルサレムに入られる日曜日の意味は、さあ、いよいよ自分の使命を果たすべき自分の時がきたという意識をもって、人々の歓呼を受けて、そしてこの大切な贖いの時が迫っていると行くわけです。ところが、エルサレムに入城したイエス様が、自分の父の家、つまり目に見える形では神殿ですけれども、そこがまさに強盗の巣窟のように人々が神殿で商売をし、その利益を祭司たちが享けている。しかもアコギなやり方で。私利私欲のために神殿の営みを穢している。これには、あの温厚なイエス様が烈火のごとく怒られ、ムチを振るい、両替商の机を蹴飛ばし、引っ繰り返し、わたしの父の家を巣窟にするのかとお怒りになったのがこの月曜日。
 そして論争の火曜日。イエス様に敵対する人たちは、イエス様の言葉尻を捕えてはイエス様を亡きものにしよう、こんな動機からイエス様に様々な議論を仕掛けていきます。イエス様は知恵ある応答をなさった。人の及ばぬ頓智を効かせて受け答えをしている、そんなところです。火曜日は論争の火曜日です。
 さあ、水曜日は何でしょうかか。水曜日について、聖書は何も記していません。イエス様が何をなさったのか書かれていない、しかし、沈黙ほど雄弁なことはないという見方も当然あるわけです。恐らくこのときイエス様は、弟子たちとともに、いよいよこれから大切な十字架をめざしているときに、イエス様はひとり静かにお祈りをされたであろうと、このように沈黙されていればいるほど、沈黙がまた雄弁に私たちに想像させます。
 そして、次の木曜日には、最後の晩餐が持たれました。最後の晩餐のあと、ゲッセマネの園に生えた葡萄の園のある道を通っていかれたのでしょう。それを見ながらイエス様は、「私は葡萄の樹あなた方は枝です」、そんなお話をされ、そしていよいよ、ゲッセマネに移動されたのが木曜日であります。血の汗を流して主は祈られました。その時に、暗闇の方に松明掲げた一団の人群れがやってきます。暗いゲッセマネの園、裏切ったユダに導かれたローマの兵隊たちが、イエス様を捕縛しようとやってきました。木曜日はゲッセマネの祈りのときでもあり、捕縛された日でもあり、そして、大祭司、或いはピラトのもとへと、イエス様が引きずり回されるような中にこの金曜日の夜、過ごされるのであります。そしてとうとう、ピラトのもとに行きました時、一応ユダヤのサンヒドリンという会議、所謂いまの国会に相当する議会がありました。当時のユダヤの人たちは、ローマの属国になっておりますので、人を死刑にする権限はもっていない。ユダヤの人たちにとっては腹立たしい限りではありますけれども、この者は我らユダヤの者たちが信じている神を冒涜している涜神罪と訴える。ピラトは、そんなことは自分には関りがないおまえたちのことだと言うのですけれども、ユダヤ人がこの機会に何とか主イエス様を亡き者にしようとする。暴動にまで発展しそうなのを見て、ピラトはしぶしぶ、「あなた方が祝っている過ぎ越しの祭りには特赦令がある。あなたたちが希望する者を赦すことが出来る」というと、ユダヤの人たちは「バラバを赦せ、イエスを処刑しろ」と叫びます。ピラトは自分の統治しているそのところで、反乱、謀反、騒乱がおきると大切なキャリアがぐらつく。とうとうピラトは「わかった。好きなようにしなさい」。手を洗って、「この人の血の責任は私にはない」というと、ユダヤ人たちは「その人の血の責は我らと我らの子孫にかかってもいい、この男を十字架につけろ」と叫びました。とうとうピラトはイエス様を十字架につけることにしました。そして、金曜日の朝9時、イエス様は十字架につけられなさったのであります。息絶えなさったのは午後3時過ぎでしょう。十字架の金曜日。イエス様の十字架の贖い救いが成就したという意味で、まさにぐっどフライデーと呼ばれているよき金曜日であります。受難週の日、月、火、水、木、金、今週の  です。ユダヤの人たちは、土曜日が安息日です。時間の概念、区切り方がおもしろいですね。日本だと一日の始まりは朝日とともに、おはよう。今日も宜しく、というのですが、夜中の12時が

創世記ですと夕あり、朝あり、これ一日なり。そういう表記がありますけれども、ユダヤの人たちの概念は、夜の6時から新しい一日が始まる。私たちはそれから寝るとかなんですけれども、ユダヤの人たちは、土曜日の安息日。ユダヤの人たちの時間の感覚から言うと、土曜日の安息日が始まる。しかし私たちの感覚で言うと金曜日の午後3時二息絶えなさった、それをそのまま木に吊るしたのは、であるということはユダヤの人たちの考え、とても耐えられないことにになります。で、ニコデモやアリマタヤのヨセフやとにかくイエス様の亡骸を安息日  もらいにとにかくお墓に葬ろうということで、引き取ってアリマタヤのヨセフの墓になされた。金曜日の夕刻から、三日目によみがえるというと、でもその一日の始まりが安息日の直前というところから見るとⅠ,23、というこのような理解になるのでしょう。イエス様がその三日後に人の子はよみがえるという預言が、生きておられる存命中に知られたのであります。土曜日が墓の中。すこし時間がどういうように、イエス様着自身が黄泉にくだって、そこで働きをしておられたと伝統的には考えられているといっていいでしょう。じゃイエス様は黄泉にくだってどういうことをなさったのだろう、神学者たち

十字架の贖いをそこで為し終えた。主よ御手にゆだぬといって、そこがまさに勝利のはじまりだった。人々のめから見れば十字架で息絶えなさったのは、世の中から見れば敗北、座エンド。イエス様はまさにそこでコンクリート完成した。勝利の凱歌をイエス様は土曜日、よみに下り、イエス様は贖いを成し遂げた、死に勝利したのだという、勝利の凱旋をなさったのが、この黄泉にくだりという中にあった。これも考えさせられる。そしていよいよ今度の日曜日、いよいy復活をお祝いする。このことがあったからこそ、福音、キリスト教という福音という、この事実からなりたっている、このことを思います

コリント人への手紙第一1:23しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、 1:24ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。 1:25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
 ここで、ご自分のふくいんりかいというものを確かにしていただきたいと思います。

 私たちは、そもそも十字架と無関係でした。或いは、十字架に敵対している者でした。しかし、十字架に接近し、そして十字架と、ある日対峙するときを持ったわけです。何年か前にご紹介した「ジーザス」、イエス様が十字架につけられたその後、一人ひとりが、人生においてイエス様と対峙する、その時を私たちは持ちました。百人隊長、イエス様の両隣の十字架につけられた強盗たちもみんなイエス様に対峙した。ふたりの強盗のひとりは、ほんとうにこの人はまことに神の子だ、我らは為したことの報いを受けているから当然だ、しかしこの方は何も悪いことはしていないと実感から証言しました。百人隊長たちも、まことに神の子であったと。一人ひとりが十字架に向き合っている。もう一人の強盗は最後までそれをしませんでした。ユダヤ人たちにとっては、木につけられたイエス様はつまずきである。或いは家つくりが捨てたこんな者は何にもならないといった。しかしこの捨てられた石こそ、実は隅の親石となった。このようにあります。異邦人、ギリシャ人には十字架は敗北の象徴であり、愚か者の象徴である。力が正義、知識が宝という異邦人にとっては愚かである。しかし、信じる私たちには、そして十字架の奥義に目が開かれている者にとっては、まさに神の力、神の知恵である。イエス様の十字架は完全に成し遂げられました。私たちに、罪の赦し、罪のきよめ、神の御子のすべてを与えてくださいました。

 

※概略となりました。詳細を割愛したところがあります。画像は教会からお借りしています。

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J-MEROの再放送に先送り

 昨朝の555分からの名曲アルバム、これが音楽というよりは絵画の紹介のようだった。音楽における印象派の先駆けはドビュッシーだが、映像は印象派の画家モネの館と庭の紹介。収蔵品には日本の浮世絵も並んでおり、浮世絵が影響を与えたことは知っていても、実際にモネの部屋に浮世絵が並んでいるのを見るのはまた格別だった。当日に書かなかったけれども、いま思い出している。これがなにか夢の中のように思い出されており、夢ではなかろうかと。どこか境界線が曖昧。

 

🎵 けさのJ-MERO

早朝から気ぜわしく、仕事をしながらの垣間見であったが、ゲストは平原綾香、森崎ウィン。忙しくスルーしようかとおもったところに、音楽評論家の登場、アニソンの変遷を語っていた。1990代、200年代、2010年代とその節目、節目に登場した大黒摩季、銀魂らが紹介されていたが、また再放送があるはずと強いて執着もせず。

最後だけは、あら、May J.の声がと画面に戻ると爽やかなレモン系なのか柔らかな春らしい色合いのワンピースかツーピースかまでは気をつけなかったけれど、きょうはそんなドレスに身を包んで笑顔を見せてくれていました。

 

⛳早朝以外の日中はほとんどTVは見ないのだが、夕刻の近代史の映像に巨大なドラマをリアルに。ショスタコーヴィッチ「レニングラード交響曲」聴いてみようか、映画「ソンムの戦い」観てみたい。両方とも探せば収蔵があるかも。20時49分更新

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クラシック倶楽部を聴く

🎵 番組紹介によると、ピアニスト、ニコライ・ルガンスキーは「ロシア・ピアニズム」の正統派。今回は2018年2月17日東京・紀尾井ホールでの収録分。

 シューマンの「子どもの情景」、この解説としてはやはり番組紹介では「内面に向けられた深々とした共感、そして圧倒的で輝かしいテクニック」なのだが、13曲のそれぞれのタイトルに素直にさせられ、忘れていた自らの子どもの情景、風景を思い出させられる。いまだに大人になり切れない自分がある。ルガンスキー自身、10歳で弾いたこの曲を45歳になって弾いて子どもに戻ったようだと。また子どものための作曲か大人のための作曲かが不思議、大人と子どもが組み合わされたような作品であるとも語っている。ショパンの晩年の作品「舟歌」、これをルガンスキーは哲学的な面が映し出されるという。そして「世界はすばらしく、感動をもたらすものだ」というメッセージがある。番組提供の解説では「憂愁が全体をおおっている」であったが、これに共感。ショパンの「バラード4番」についてルガンスキーは「ショパンの作品の中でも特に美しく、悲劇の色が濃く、そして私がもっとも好きな作品のひとつ」と語っていると。アンコールはラフマニノフの「リラの花21-5」。白、ピンク、青のライラックの花のグラデーションの感じか。もう一曲はショパンの「エチュード10-8」、最後部分、アンコールはもうこれで終わりよ、と聴こえもしたが、この日のアンコール曲は実は4曲。その後先はわからない。

⛳このところは朝からけっこう忙しく、なかなか。午前には久方ぶりに主人の妹、午後には主人のいとこが主人の依頼で来訪。やっと今時間の更新。みれば16時10分。

 

 

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20/4/9クラシック倶楽部は?

🎵けさのクラシック倶楽部、朝から取り込みがあり、ブログを書くどころではなかったが、やっと夕食を終えた今、PCの前にすわったものの、聴いてから13時間もたってしまうと、どこがどうであったかがほとんど失われている有様でもある。収録は2018523日トッパンホール。ピアノはアレクサンドル・トラーゼ。協賛は竹中工務店だと知り企業イメージがアップ。ハイドンの「ピアノ・ソナタ第49番 変ホ長調 Hob.XVI-49」は、トラーゼが10代から演奏し、ともに歩んできた曲であるという。プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第2番 ト短調 Op.16より 第1楽章 カデンツァ」、フォルテを三つ使ってさらに強くとプロコフィエフが命じている部分があるが、これが癒しがたい懊悩と悲哀を感じさせる。どうも最愛の友の自殺を悲しみ悼んでの作曲であったとか。ピアノ協奏曲第3番 ハ長調 Op.26 第3楽章」、これはキム・シウォンのピアノとの連弾。

13時間たった今は、ハイドンの美しく軽快な演奏とプロコフィエフのカデンツァばかりが思い出される。

 

🎧名曲アルバム「ルーマニア民俗舞曲」バルトーク作曲【ピアノ】清水和音

🎵日曜日、民俗衣装に身に着けて教会へ行く人々が印象的。

⛳きょうは5時から聴くことは聴きましたという内容。主婦は忙しい。朝から主人の順番獲得のために駆けつけて7番。ラッキーセブン。ラッキーなことには大事に至ることなくこの日もおわりそう。こんな日もある。そんな日もある。
コロナ147万人感染、亡くなられた方8万8千人。コロナの収束後がまた怖い。どこかから微かに聞こえる犬の遠慮がちな声。キーを打つ音。鉢植えのアガバンサスには蕾がやっと二つ。20時19分更新。

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20/4/ 20/4/8クラシック倶楽部を聴く

🎵エリーザベト・レオンスカヤのピアノ。シューベルトの「ピアノ・ソナタ変ロ長調D.960 」の演奏。エリーザベト・レオンスカヤ、1945年生まれ。74歳。巨匠の域。ソ連時代のジョージア・トビリシに生まれ。気難しかったのか人嫌いであったのかわからないが、そんなリヒテルに評価され、連弾も。何れリヒテルの薫陶を大きく受けている。現在はウィーンを拠点に活動。「2015年に行った32年ぶりの日本公演、そして2018年東京の六夜にわたるシューベルト・チクルスは大きな話題となった。番組では、レオンスカヤが長年にわたって深い愛情を注いできたシューベルトの、最後のピアノ・ソナタをお送りする。」と番組紹介に。
  拝見するに、謙虚でお優しいお人柄が感じられる。1819にかけてシューベルトの全曲完結盤をリリース。
 ステージで演奏しているというよりも、レオンスカヤひとりが自室にこもって演奏しているかの印象。シューベルト生涯最後のピアノ・ソナタであるこの曲、レオンスカヤの独白のように味わい深く聴いた。
 アンコールはやはりシューベルトの「4つの即興曲D.899 」から「即興曲 変ト長調」。

🎧名曲アルバム「交響曲 第4番」シューマン作曲
「交響曲 第4番」(管弦楽)東京フィルハーモニー交響楽団,(指揮)飯守泰次郎 ~ドイツ・デュッセルドルフ~

🎵とにかく明るさがいい。この明るい曲の作曲中、実は病気であったシューマン。これもまたシューマン最後の交響曲。この頃だろうかブラームスと親交を持っている。

⛳けさは5時半から家事を優先。家事をしながら聴く。朝食を終え、一区切りついてからの書き込み。ずっとレオンスカヤの影が筆者の中で尾を曳いていた。彼女がどこをどう弾いたかということよりも、彼女のすがたに理屈のない共感を覚えてのこと。
いつもの時間を外すと何か書きにくさがある。9時1分更新。

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2047 2047クラシック倶楽部を聴く

🎵ジャン・ロンドーのチェンバロ・リサイタル。2017410東京文化会館小ホール。バッハの「ゴールトベルク変奏曲BWV988」から。最近バッハを聴くときに思っていたことを、ロンンドーが言ってくれた。「うまく歌わせるためには繊細さが必要」「音のない一瞬が音楽をつくる」。ゴールトベルクには滴る水滴の一瞬一瞬のきらめきから陽光にうたう感じ、遊び心に多岐に屈折する光、光にさざめきながら下りゆく流れ、穏やかな岸辺の逍遥、見えぬ地中を見通すかの透過性、内なるものが受け取ろうとする感覚から、逆に外界が内なるものから引き出そうとしている感覚、さざ波がさまざまな見えぬ力によって立つところを移ろわせる、書けばきりもないが千変万化の繊細さのあり様を緩急、強弱を伴い提示してくれる。放送分は編集されたものなのだが、それでも十分にそのような感覚を玩味できる。

編集も決して悪くはない。時としては、不評だった部分を割愛してくれてもいる。勿論、ロンドーにそれがあったとは思わないが。

放送の最後の15分はやはり音楽に浸ってばかりはいられない仕事もあり、中途欠けたけれども、あとはCDでということで。

 

🎧🎵名曲アルバム、デュカスの交響詩から「魔法使いの弟子」。独学で作曲を始め、16歳でパリ音楽院へ。ドビュッシーと親交を結ぶ。60過ぎてパリ音楽院に迎えられ、メシアンやロドリーゴを輩出。この曲はゲーテの詩に作曲。1897にデュカス自らの指揮で初演。常に完璧を期すあまり、作曲数は20曲ほどとか。一曲に費やした時間、労力を想像すると、何か具合が悪くなりそうな、筆者が生涯凡人でありそうな理由は、才能の有無もあるけれども、こういった集中力、忍耐、しつこさ、粘っこさに欠けるところに、一にも二にも理由がありそう。

 

⛳この状況下、コンサートなども中止、延期。来る日も来る日も中止、延期。それでもディスクと放送でけっこう楽しくけさも更新、6時51分。

 

 

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20/4/6クラシック倶楽部を聴く

🎵
クラシック倶楽部、けさは原田英代。ロシアピアニズムの継承者。201733日ハクジュホールでの収録分だ。いまもドイツを拠点に活躍中だろう。このコンサートでは「さすらい」がテーマ。前回聴いたときよりも曲に近づけた。原田は、目的地までどういう道をたどるかはわからないが人生はずっとさすらいであるという。そしてシューベルトは喜びに満ちてさすらう作曲家であるとも。
 シューベルト作曲の幻想曲「さすらい人」。第一楽章、何とおどろおどろしく聴こえたところ、今で言うならガンガンとクルマを飛ばすような粗さ、これは粗末な演奏という意味ではなく、あくまでさすらいの一つの形態の表現なのだが、そんな気分が伝わってきた。これは聴く側の心境も多分に影響しているかもしれないのだが。第2楽章、内面から引き出される懐かしさ、ノスタルジックな心情になる。第3楽章、鍵盤上をさすらううちに、作曲者が納得のゆく境地に自らを見出し、それが希となって昇華され今を活きている。

 ラフマニノフの「コレッリの主題による変奏曲」。原田は、自分は毎日変わる、くだらないことをも含めて毎日毎日何かを考えている、それが変奏なのだという。筆者のくだらない考え、内なる変奏が一向に芸術作品となりそうにはないことが無念でもあるのだが、なるほどと。コレッリの「ラ・フォリア」が主題なのだが、この主題が、作曲者の着想、原田の10指によって展開があるごとに変貌を遂げてゆくのだ。はじめは打ち身を受けているのではないかと思われるほどの痛みを伴う繊細さで奏でられ、また時として鍵盤上に叫び、屈託のない響きとなり、ついには悲し気な響きが失せてあそびある躍動感と変貌。そして人生の集約を垣間見させて静かに主題の追想を浮かび上がらせて終わる。

 アンコールの一曲目はラフマニノフの「前奏曲ト短調」。筆者がふと窓外を見やると、何と雪がふっている。街並みの間に抜きんでる杉の木の凹凸にこれは解けながら積もり、すこしばかり積もっては重みに枝の間から滑る落ち、次つぎに落下しているにちがいなにのだが、それでも屋根屋根はつかの間白く塗り替えられている。はかなく解けることを知っている雪。こんな景色を見ながらのラフマニノフも悪くない。というよりもよく似合う。
 アンコールの2曲目はチャイコフスキーの四季から「6月 舟歌」。

 

🎧🎵名曲アルバムは米元響子のヴァイオリンで、ヴュータンの「ヴァイオリン協奏曲 第4番」。指揮者は見落とし。ヴュータンのノートにパガニーニやメンデルスゾーンのサインと賛辞があるところを見るとかなりの才能だったのだろう。最後はブリュッセル音楽院で教鞭を。門下にはイザイがいるとか。

⛳どうか一日もはやく新型コロナが収束に向かい終息しますように! 6時59分更新

 

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きょうのことば

 インマヌエル盛岡キリスト教会2020年3月29()の礼拝メッセージをお伝えいたします。
國光勝美牧師、國光ひろ子牧師の岩手での主のご奉仕は47年目に入ります。

 

説教題 『パウロの祈りの世界』(國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 エペソ人への手紙 第3章1421

3:14こういうわけで、私は膝をかがめて、 3:15天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。 3:16どうか御父が、その栄光の豊かさに従って、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。 3:17信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、 3:18すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、 3:19人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。3:20どうか私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、 3:21教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。

 

<説教>

 (最初に牧師夫妻が、盛岡に47年目の任命があったこと、前置き、先週の復習などのお話しがありました。以下はその続きです。)

 先週の説教の中で取り上げました聖書箇所、第一コリント13章をもう一度ご覧ください。

13:1たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。 13:2たとい私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。 13:3たとい私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人のした悪を心に留めず、 13:6不正を喜ばずに真理を喜びます。 13:7すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。 13:8愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。 13:9私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、 13:10完全なものが現われたら、部分的なものはすたれるのです。 13:11私は幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことをやめました。 13:12今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。 13:13こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。

 これはパウロがコリントの教会に宛てて書いた手紙です。パウロはなぜコリントの教会にこのような手紙を書いたのでしょうか。それは、コリントの教会の人々は、これとは逆の人たちだった。愛がなく、自慢はする、高慢であり、争いにもなる。そういった人たちに罪、過ちを教え諭すために、このコリント人への手紙は書かれたのでした。

 使徒の働き9章をご覧ください。使徒の働きはパウロ書簡ではありませんが、911節には、自らを罪びとの最たる者であるというパウロがどのように変えられたかが記されています。

9:11すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』と呼ばれる通りに行き、ユダの家にいるサウロという名のタルソ人を尋ねなさい。彼はそこで祈っています
 パウロは何を祈っていたでしょう。

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 サウロはダマスコにいるクリスチャンたちを捕縛し、殺そうとしてダマスコの地に行くところだった。そのときに、934節にありますが、
9:3ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。 9:4彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。
 つまり、ここでパウロはよみがえりの主イエス様と出会ったわけです。
9:5彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。9:6立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
 パウロはそこで言われた町に導かれていったわけです。そしてユダの家で祈っていた。そこに、もうサウロが変えられたことを主から知らされたアナニヤが訪れる。これがパウロの回心のできごとであったわけです。

 私は911節の「彼はそこで祈っています」、私はこのことばに大きな意義があるように感じました。

 パウロがキリストと出会う前に祈っていた内容は、ユダヤ教の祈りでした。アブラハムの神に対する祈りで、我らに十戒を与えてくださって主よ感謝します、我らが他の異邦人のごときことを祈るようなものでなきことを感謝します、そして、いま私はあなたに歯向かうナザレ派と呼ばれる連中(後にクリスチャンと呼ばれる)を私はあなたの御名のゆえにこれまでも迫害してきましたがこれからも誠心誠意迫害しますといった内容だったでしょう。これがそれまでのパウロの祈りだったのです。
 しかしそこで何が起きたか。ダマスコの途上で復活のイエス様に出会ってしまった。そして気づかされたのです。ああ、私は間違っていた。大きな過ちを犯していた。悔い改めの祈り、回心です。知らなかったこととはいえ、私はこの手であのイエス・キリストを信じる者の血を流したのだ。彼はそこで生まれて初めて悔い改めの祈りを捧げたのではないでしょうか。それがパウロの祈りでした。初めて主イエスを知ったパウロの祈り、ああ、イエス様というお方はこんな私を赦してくださるのみならず、こんな私を選んで大切な使命を与えてくださったのだという感謝。
 911節にあるように、ここまで自分を変えられたイエス様というお方をパウロはよく知っていた。

 

ここでエペソのところに戻りましょう。

だから彼は言うのです。祈るのです。
3:17信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、 3:18すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、 3:19人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
 パウロは祈ります。この私を、こんな罪びとの頭である私を赦して、このような使徒の働きをさせてくださる。どうか私の内に為してくださった同じ御霊様が、あなた方に、あなた方の人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができるようにしてください。
 パウロ自身が経験したからこそ、彼はこのようにお祈りをしています。

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そして、締めくくりに20節、22
3:20どうか私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、 3:21教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。
 「
教会において」とありますが、ここでいう教会とは、「欠けだらけの私たちが集まっている教会」という意味ですが、パウロは自分自身が経験したこのキリストの愛で皆さん方一人ひとりがどうか満ち足りますように、こう祈っています。

 私は、このところの原語を思い巡らしながら、ああ、パウロは私のために祈っていると。どうか、キリストの愛の長さ深さ広さがどれほどのものであるかを理解することができ、人知をはるかに超えたキリストの愛を知って、そしてキリストが満ち満ちたようになるように、これは神学で何かというようなことではない、個人的にもっと聖書の味わい方恵まれ方を深めてといったらいいのか、ほんとうに今、イエス様、こんな欠けている私、ここにいらっしゃる皆さん方お一人おひとりが、このパウロの祈りは自分のためにあると気付き、どうかあなた方の心にキリストが満ち満ちたものとなるように。私を変えてくださったお方に、どうかあなた方も変えていただいて、そのようになってください、こういってパウロはこの3章を締めくくっております。

 思うところをはるかに超えて行うことができるお方。教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が世々限りなくとこしえにありますように。どうか皆さん方、私のためにも祈って下さい。そして、わたしも皆さん方のためにも祈ります。皆さん方の心の中に、このキリストの愛が理論ではなく知識を超えてほんとうにキリストの愛が皆さん方の心の中に満ち溢れるようにとパウロは祈ってくれています。何よりもイエス様はそのことを私たちのために執成していてくださる。キリストの愛、満ち満ちたキリストの愛に満たされて、きょうのこれからの1週間を歩ませていただこうではありませんか。

 

※本文は筆者がICレコーダーから起こし筆記しています。
イラストは教会からお借りしています。

 

 

 

 

 

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J-MEROを聴く

ゲスト:大森靖子、flumpool

 

大森靖子 海外に発信してどんな反響があるだろうか。若者がむき出しのすがたで生き、それゆえに浮き傷つくすがたを肯定する。雄たけびそのままの発声、歌唱。「マジックミラー」、好きなように生きてもなにか寂しい満たされない認められない、受け入れられない切なさ。「きみが蹴散らしたぼろぼろのライフをかき集めて大きな鏡をつくること」、これが「マジックミラー」。ぐにゃぐにゃ、流れたり、とけそうだったり、一部どでかく、一部小っちゃく細く、そんな若者の生態なのか。

 

Flumpool
山村隆太 日本のボーカリストギタリストシンガーソングライター作詞家俳優。ウィキにあるプロフィール。発声障害に見舞われ、声が出なくなったというが、ググってみるとポリープだったらしい。活動休止。しかし、この期間がより心に響く作曲をもたらしたのではないか。+1点に向かって踏み出した「ネバーマインド」。(向き不向きは論外)(結果至上主義の社会)という現実を傍らにまざまざと認識しながらも「できない理由を探すならだれにでもできるさ」「できない理由に埋もれてる微かな可能性」「いまあすへと弾め」と坂井一生、尼川元気、小倉誠司と共に。スタート地点は路上ライブだったようだ。

 

May J.のさわやか笑顔、テレビの窓に。

⛳青く連なる山々のグラデーションの際に煙が立ち上っている。天気はよくなりそう。6時38分更新。


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2043クラシック倶楽部を聴く

福井県福井市公開収録 パイプオルガンとバロックの調べ

🎵収録は2017年5月14日ですが、2019年8月8日にも放送されており、そのときに筆者には結構時間があったらしくプロフィーやコメンントを書いておきましたので、上記のタイトルにリンクしておきます。

 藤木大地、山本真希、前田りり子各氏の醸す柔らかな響きのバロックを今朝は後半からになりましたが楽しみました。ラルゴ「なつかしい木陰」、これは多田茂史さんの訳でしたが、聴くたびに心癒されます。


 歌詞にもありましたが、「うたおう また一日生き長らえた恵みをたたえて ハレルヤ」
生き長らえていい音楽を聴き、さまざまを知ることができればと願うことです。

 

🎧名曲アルバム「ほほえみの国 君はわが心のすべて」

レハールがこのようなオペレッタを作曲していたとは。内容はともかく曲はすばらしい。君はわが心のすべては第2幕でスー・チョンによって歌われる。名曲アルバム中の解説はWIKIにはない。リヒャルト・タウバーにはよく曲を書いたらしい。作曲で籠るときに閉じられるレハールの「拒絶の扉」。レハールはタウバーが亡くなった9か月後にこの世を去っている。レハールの一断面、興味深かった。
このアルバムではテノール吉田浩之さん、指揮は現田さん。

⛳6時59分更新。恐ろしいコロナ報道が待っている。

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20/4/2クラシック倶楽部を聴く

🎵さて書き出しでもう16分は経過しているのだが。果たして7時前に書き終えることができるかどうか。


 けさのクラシック倶楽部はソプラノの砂川涼子とテノールの与儀巧栗原正和がピアノ伴奏を。
砂川も与儀もともに沖縄出身。東京の音楽大学を経て、ともにイタリアに留学。いまのイタリアに心を痛めておられるはず。イタリア人と沖縄の人々には共通項目が。共に「明るく陽気」と砂川。与儀は「愛して歌って食べてみな幸せに暮らしている」。このイタリアの艱難、今は目を耳を覆うばかりの現状と。
 南城市文化センターシュガーホール。南城市は人口4万3千。シュガーホールもさとうきび畑を風景としている。
 ガスタルドン作曲の「禁じられた歌」で始まり、宮古島の民謡「ばんがむり」を砂川。普久原恒勇作曲「芭蕉布」を与儀。「芭蕉布」をハワイで歌ったことがあるが人々が一緒に口ずさみ大変喜んでくれたらしい。沖縄の子守歌には、秀でた者におなり、偉くなりなさいといった内容の歌詞が多いのかもしれない。佐原一哉作曲「童神」、これも慈しみ育てる内容と将来への期待がこめられる。アンコールで歌った「てぃんさぐぬ歌」の歌詞には、天の星は数えることはできるが親の教えは数えることはできない、とか、親はわたしを頼りにしている、など韓国の方の影響が多分にあると思われた。
 あとは歌劇のアリアが続く。泡盛片手にドニゼッティの「愛の妙薬」。プッチーニの「わたしの父さん」、ヴェルディの「穏やかな夜には」、与儀が愛の裏切りを歌って真に迫った。チレーアの「私は神のいやしいしもべです」を歌う砂川、「私は神の僕、神の言葉をみなに伝える、人の世のドラマを演じるだけ、創造の神に仕えるはかない道具です、柔和になり残忍にもなれるのは神様に忠実だからです」、これもまた真に迫り聴かせてくれた。チアーレの「フェデリコの嘆き」を与儀が片思いの苦しみを切々と。私の心の中にこのとき「悲しみをまもらないようにしている」となぜか聞えて、こちらは心の対処法の一つかと。最後の「メリ・ウィドウ・ワルツ」はただただ華やか美しく楽しく。わが実家にあったSP版の一枚がこれだったが、レハール「金と銀」とあった。沖縄の海の色のドレスの砂川&与儀が「金と銀」の光とシュガーホールに輝いた。

 

🎧名曲アルバムはチャイコフスキーの「序曲1812」。🎵1812、ナポレオンとの戦いで両軍合わせて10万人が命を落としている。いまのコロナはまさしく戦争、ウィルスとの戦争なのだ。

⛳なぜかログインに時間がかかり、7時2分更新。

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20/4/1クラシック倶楽部を聴く

ラトビア放送合唱団 演奏会 【出演】プトニンシュ指揮 ラトビア放送合唱団 【曲目】徹夜祷から(ラフマニノフ) 2017年5月22日 すみだトリフォニーホール

 

🎵クラシック倶楽部、そろそろ朝の2時間を別なことに充てようと思っていたところが、何と、けさの番組はラフマニノフの「徹夜禱」。ロシアの敬虔な人々が神に祈りをささげるために教会を訪れるすがたが彷彿とし、またこの新型コロナの脅威、きのうの時点で亡くなられた方がイタリアで11,591人、スペインで7,340人、中国で3,305人、アメリカで3,008人、その他という言い方が適切であるかどうか、感染者は世界で753,807人となっている。科学、医学が進んでいる今に、このような事態が起ころうとは、新たなウィルスによって、多くの行動、計画、経済が破綻しようとしているが、誰がこれを予測しえただろうか。ただ、サーズ以降,ウィルスの研究を重ね、発生以来いち早く警告を発していたこれは小さな会社なのだが、あったようではある。日本でまだ罹患者が出ていないのはたったの3県、この3県のうちの岩手に身を置く自分ではある。

 このようなときにでも、この曲ならば耳を傾けながら祈ることもできるだろうと視聴。
ぜんたい神への賛美、讃歌。訳は多くあるようだけれども、この番組では中田朱美という方が務めている。ロシア音楽に見識がおありのようだ。ロシア教会の聖典にはなじみが薄いが、意味するところは新興宗教解釈ではない限り同じかと思う。

指揮はカスパルス・プトニンシュ。コメントでラトビアでは歌は太古の昔から文化の一部で歌のうまい人、精通している人は一目置かれたものらしい。歌を敬う伝統があるのだとか。ラトビア放送合唱団は、ラトビアにある多くの合唱団を牽引する存在。テノールのカールリスも伝統的な音楽との関わりあいの緊密さを語っている。

今回心に留まったのは、というよりも聴きながら、なるほどとその不思議に合点しついその不思議に落涙したのは第6曲にある「汝の腹の実も祝されたり」。いつもは信じていますよ、と単純に通り抜けてきたことであったけれども、処女降誕がまさしく神の霊によるものであることに感動し不思議な感覚になったことだ。キリストは神の御子であるのはほんとうなのだ。これも聖霊という存在の共感であり、やはり自らの内にも聖霊はおられることの証明を得た心境だった。

 

🎧名曲アルバムも、何とラフマニノフ。「パガニーニの主題による狂詩曲」
🎵ラフマニノフは1918革命を逃れアメリカに。1943に彼がアメリカで死に瀕して語ったことは「もうこれで手がだめになる」。いついかなる時、いかなる危機に直面したときにも、ピアノを弾ける手をかばいまもってきたのだろう。ピアノは時代と共に大ホールにも適用されるよう改良を重ねてきたのだとか。クラシック倶楽部ではおなじみの江口玲のピアノ、現田さんの指揮。いつものN響。 

⛳書き落としは多々だが、655分おいう時刻を見、これで終了。

 

 

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