きょうのことば
インマヌエル盛岡キリスト教会2020年3月22日(日)の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は46年にわたって岩手で主のご奉仕をしておられます。
説教題 『限りなきキリストの愛』(國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 エペソ人への手紙 第3章14~21節
3:14こういうわけで、私は膝をかがめて、 3:15天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。 3:16どうか御父が、その栄光の豊かさに従って、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。 3:17信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、 3:18すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、 3:19人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。3:20どうか私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、 3:21教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。
<説教>
きょうは、エペソ人への手紙3章17節
「3:17信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、 3:18すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり」
このところを土台として、エペソ人への手紙の連講を進めていきたいと思っております。
メッセージを取りつぐ者として、キリストが内に住まっているという自覚をどれだけこの1週間、私は持つことができているか。自分自身の名前を絶えず意識しているわけではありません。よく病院では個人情報を配慮し、患者を名前では呼ばず番号で呼ぶことがあります。ところが何度も番号で呼んでも応答がない場合がある。看護師さんが、それではお名前で呼ばせていただきますと、名前で呼ぶとすぐに応答が帰って来るという場合があります。だいたいお年を召した方であったりしますが。数字を覚えるのが苦手でも、自分はどこの誰それだと意識するしないに関わらず、そのお齢を召した方にとっては当然の自覚であって、キリストを住まわせるということはそのことと似ているような気がします。いつもいつも私だぞと自覚しているというよりも、イエス様を救い主として信じているのは当たり前であり、はいと言えるような者、それが心の内にキリストを住まわせるということなんですけれども、それが実際にどういうような在り方になるのか。
3:17心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、 3:18すべての聖徒たちとともに、
自分の持っている信仰というものが一体何なのか。「我活(い)くれば汝らも活くべければなり」。ああそうか、内にいますお方がよみがえって永遠のいのちをお持ちのそのお方が、今活(い)きて我がうちにお住まいになってくださる。だからあなた方も、つまり私たちも生きるのだ。人は皆例外なしに死ぬけれども、内にいたもうお方が、「我活くれば汝らも活くべければなり」、こう言っておられる。今生きるか死ぬかに直面している人も、そうでない人も、いつかは死ぬ。そのときに、永遠のいのち、キリストのいのちが、心の中にあるときに、アーメン、「我活(い)くれば汝らも活くべければなり」。
それで生きられる、永遠に生きられるこのいのちが与えられているのなら、この福音の恵を宣べ伝える者であらせていただきたい。証しするものであらせていただきたい、そのお証しをもって前回は締めくくらせていただいたように思います。
3:17愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが
17節には、「愛に根差し、このイエス様の愛に基礎を置いている」とありますが、わたしたちの内にいますキリストの愛は、どんな愛何なのでしょう。
聖書の中にある「キリストの愛」ということばを幾つか拾い出してみました。そのうちの一つがコリント第二の手紙5章14節であります。これを3通りの訳で見てみましょう。
新改訳2017では、キリストの愛が私たちを捕えているから。私たちの内にお住まいになっているキリスト、そしてこのキリストの愛が私たちを捕えている。その訳は、新共同訳では、事実キリストの愛が私たちを捕えて放さないのです。ああそうか。うちにいたもうお方が、捕えて放さない。それともう一つ口語訳聖書キリストの愛は私たちに強く迫っているからである。という訳があります。これは超一流の聖書学者たちが精魂込めて訳している言葉ですから、これぞれに深い意味があるわけです。特にこの文語訳に親しんでおられる方は、キリストの愛我に迫れりという訳で覚えていらっしゃる。キリストの愛我に迫れり、そして、そのときに、じゃ本来の言葉の持っている意味は何かというと、その辺のところは聖書学者たちの独壇場でありまして、その解説を見ると、キリストの愛が私を脅迫するというのが本来の意味だそうです。キリストの愛が私を脅迫する。脅迫にはあまりよい気持ちはしません。キリストの愛、ナイフのようなものを突きつけられ、どうするんだと迫ってくるのか、そうではないでしょう。このキリストの愛にあなたはどうするのかと、自分自身のあり方が問われる。これらのものをぜんぶ捕えて、それらのことをぜんぶ分かっておられる。日本語に訳した人が、キリストの愛が私を捕えて放さないという実感がある。イエス様の十字架の愛に、これだけ捕まっている。私はあなたを贖ったんだよ、さあどうするのだね、と迫られている。このような愛にクリスチャンたちは根差し、基礎を置いているということなのです。
もう一つ、このキリストの愛が出てくるところは、ローマ8章39節です。
8:39高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
キリストの愛が私たちをぐっと捕まえて、脅迫的に捕まえているときに、そのキリストの愛から、どんなものもその私たちから引き離すことができない。そうです。卑近な例でいうなら、病がある。或いは今私たちが置かれている立場。営み。それぞれ人の置かれているところは違いますけれど、高いところも低いところも、これはただに目に見えるだけではなく、霊の世界のことも含めてのことです。どんな被造物といっても、例えば驚かれるかもしれませんが、悪魔も造られたものですから、というのは、神様は本来はご自分に仕える者として天使を造られたのでした。ところが、自由意思を与えられている天使が、神を礼拝し従うよりも私は私の道を行きたいと神に従う事を良しとせず、堕落してしまった。その天使がサタンであり、悪霊たちです。ですからそういう面からいえば悪霊も天使が造られたものであるように造られた。悪魔は何とかキリストの愛から私たちを引き離そう、手を変え品を変え、私たちがこの地上に生きているあいだは、強力な力でキリストの愛から私たちを引き離そうとします。しかし、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛が私たちを捕まえて放しません。私たちを引き離すことはできない。
8:39高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
これほど私たちは十字架の贖いのキリストの愛に、しっかりと迫られ、脅迫されている。イエス様は、さああなたを贖った、いったい誰があなたを私から引き離すことができるのか。剣か槍か、こう言われます。どんなものもこのキリストの愛から私たちを引き離すことはできません。
旧約聖書のイザヤ書43章1節
だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。2あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」
その証拠のように3節に
わたしはあなたの神、主。イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。
神様はひとりの御子イエス・キリストを私たちの贖いとして犠牲としても惜しくはなかった。
4わたしの目には、あなたは高価で貴い。わたしはあなたを愛している。
誰がこのキリストの愛から私たちを引き離すことができるのか。キリストの愛が私を脅迫して捕まえて離さないというのは、これに裏打ちされている事実なのです。
エペソの方に戻りましょう
3章の17節を前提に
3:18すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、 3:19人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
こうパウロは祈っていてくれています。
皆さん方、聖書の中で、キリストの愛をいうときに忘れてはならないのは、第一コリントの13章です。これは愛の章と呼ばれています。パウロは言っています。
13:1たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。 13:2たとい私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。 13:3たとい私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人のした悪を心に留めず、 13:6不正を喜ばずに真理を喜びます。 13:7すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。 13:8愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。 13:9私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、 13:10完全なものが現われたら、部分的なものはすたれるのです。 13:11私は幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことをやめました。 13:12今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。 13:13こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。
愛がなによりも最高のものだと13章13節にあります。これをしみじみと教えられるすばらしい箇所であるのです。
蔦田二雄先生がこの愛の章に言及したことがあります。私は第一コリント13章をまだ公開説教するだけのものを持っていないと言われたのです。蔦田先生がもってないなどというならいったい誰ができるんだろうと、私は会衆席にいて思わず考えてしまったのですが。蔦田先生は、これをほんとうに説教することができる者になりたいとさらっと仰って本題に入っていかれたのですが。そのとき、このコリント13章はそう簡単なものではない。それだけの意味があるものなんだなと思いました。
またこんなエピソードもあります。どこの教団の先生でらっしゃったか、13章の説教をなさった。愛は寛容であり愛は親切です。また人を妬みません。自慢しません。高慢になりませんと。会衆は恵まれて聞いていたでしょう。ところが説教が終ったあと、「ねえねえうちのお父さんがねえ、チェックしたら、これもダメこれもダメこれもダメだったよ」とお子さんが言ったそうです。先生が、講壇でこの愛の章はとてもできない、もしサラッとでも説教するとしたら子どもが会衆席にいないときにしようと思ったと。
説教をするにしても、「私の愛」でしようとするなら、とてもできないでしょう。私の愛はとてもこんな説教できるようなところまでではないと言いたくなる。たしかにそうなんですけれども、ここに更に光をあてて、「愛」の文字の前に「キリスト」と入れるなら、イエス様に入っていただくならばどうでしょう。すると「キリストの愛は寛容でありキリストの愛は親切です。またキリストの愛は人をねたみません。キリストの愛は自慢しません。キリストの愛は高慢になりません」。みな頷ける。アーメンです。そうです。これは私ができるとかできないとか人の前で証しできないというのではなく、キリストの愛というのはこういうものです。キリストの愛は永遠にのこるものなのです。これを下敷きに読んだときに、このエペソの3章の17節から
3:17信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、(キリストの)愛に根ざし、(キリストの)愛に基礎を置いているあなたがたが、 3:18すべての聖徒たちとともに、(キリストの愛の)その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、 3:19人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。
それぞれの()内に「キリストの」と入れてみました。そうでないと、これに生きていませんと、たとえば高慢になりません礼儀に反することをしませんなどとありますけれども、みなさん、ヤコブ書3章5節には
3:5同じように、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って自慢します。見なさい。あのように小さな火が、あのような大きな森を燃やします。3:6 舌は火です。不義の世界です。舌は私たちの諸器官の中にあってからだ全体を汚し、人生の車輪を燃やして、ゲヘナの火によって焼かれます。3:8 しかし、舌を制することができる人は、だれもいません。舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています。
こうありますように、つまり人間の発する言葉、人間の言葉は多かれ少なかれ好ましくない問題や事態を引き起こすことがある。しかし、もし私たちがキリストの愛というものにコントロールされていなかったならば、どれだけ舌、言葉というものが人を傷つけるだろうか。仕事の関係でも深く傷つけられることがある。ほんとうに人はナイフで殺すことはないけれども、言葉で人を殺すことがいくらでもある。キリストの愛に根差していないとそういうことは起こりうるのです。是非イエス様に言葉をコントロールしていただきたい、切にそう願うことです。傷つけようという意図から傷つければそれは悪意ですけれども、そうではなく何気なく言ってしまった言葉が、相手を深く傷つけてしまっていることがあり得る。言葉には気を付けねばならないと思うことです。
これからエペソ3章、4章と進んでまいりますけれども、キリストの愛にしっかりと根差して第一コリントの13章、キリストの愛が満ち溢れるような信仰生活を共に送らせていただきたいと、このことが私の今日のメッセージであります。
※説教は日曜礼拝でICレコーダーに録り、筆者が起こしています。画像は教会からお借りしています。牧師先生方の写真は筆者が任意で載せておりましたが、今回、ブログ操作の不具合でか、載せたいのですが、技術が届かないために載せかねております。
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