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きょうのことば

  インマヌエル盛岡キリスト教会2020年3月15()の礼拝メッセージをお伝えいたします。
國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は46年にわたって岩手で主のご奉仕をしておられます。

 

説教題 『心に住まわれるお方』(國光勝美牧師)
新約聖書 エペソ人への手紙 第3章1421

3:14こういうわけで、私は膝をかがめて、 3:15天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。 3:16どうか御父が、その栄光の豊かさに従って、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。 3:17信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、 3:18すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、 3:19人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。3:20どうか私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、 3:21教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。

 

<説教>

 エペソの連続公開、きょうはエペソ人への手紙314節からになりますけれども、その前に、パウロが与えられた奥義というものが何であるのか、パウロに啓示された奥義は何なのか、キリストの奥義は何なのかということを、今ひとたび心に留めたいと思うのであります。
 3章の6節をご覧いただきますと、
3:6それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人となり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。」

この福音の奥義は、私たちクリスチャンには当たり前のことです。しかし、この時代、ユダヤの人たち、アブラハムの裔、選民としての自覚を持っているユダヤ人たちにとって、キリスト・イエスによる救いが異邦人にまで提供されるなど、凡そ考えられなかった。救いは我らの誇りであるアブラハムの子孫にのみ約束されている、頑としてそう信じ切っているところに、パウロは、そうじゃない、異邦人だけではない。この救いは信じるすべての者に提供されているのだ。我らの父は異邦人の父でもある。我らも異邦人も同じ父なる神に連なる家族である。そのことを、パウロはエペソの手紙を通して、或いはそれと重複する内容のピリピ書、コロサイ書を通しても断言している。格別に言わなければならないほどに、当時のユダヤ人にはキリストの救いが異邦人に与えられることは特異なことであった。

 ここで、かつては徹底したユダヤ教徒であったパウロは言います。
3:8すべての聖徒たちのうちで最も小さな私に、この恵みが与えられたのは、キリストの測り知れない富を、福音として異邦人に宣べ伝えるためでした。
 キリストの証人ステパノを殉教に至らしめ、キリスト教という異端を滅ぼすことこそ神に正しく仕えることであると思いこんでいたパウロは、いよいよ殺害の意気に燃えてダマスコの途上にあったときに、天からの光が与えられて、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と神の声を聞きます。「なぜわたしを迫害するのか」ということばを耳にしたとき、パウロは、自分が迫害している教会は、実はキリストのからだであるのだと気付くわけであります。迫害の急先鋒であったパウロは回心しキリスト教徒として、異邦人に福音を伝える使者と変えられました。「私は使徒の中で最も小さい者である。神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。」と第一コリントの15章にあります。パウロは、赦された恵みを知れば知るほど、決して過去の自分の犯してしまった過ちを忘れることなく、むしろ一層、ああこんな者を神様の証人としてくださった。教会の迫害者がキリストの使徒と変えられている。これは、パウロの心からあふれ出る感謝の思いであります。その感謝の思いをもって、どうか私をみてください。こう言っているわけであります。


 簡単に前回のお話しをしましたが、いま3章が開かれておりますので、今日の事も含めて9節から読んでいきます。
3:9
また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現がどのようなものなのか、それを私は真理を啓示された者、受け取る者として伝えます。
それは何かというと
3:10これは、今、天上にある支配と権威に、教会を通して神のきわめて豊かな知恵がしらされるためであり、 3:11私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた、永遠のご計画によるものです。
 世々隠されていて、いよいよこのときに現わされたそれは何かというと、異邦人も一緒にこの恵みに与る者になった。こういうことなのです。
3:13ですから、私があなたがたのために苦難にあっていることで、落胆することのないようお願いします。私が受けている苦難は、あなたがたの栄光なのです。
 パウロは、異邦人も神の恵みに与ることができるなどと讒言を言い神を穢しているとユダヤ人に訴えられます。ところがパウロはローマ市民権を持っていたのでローマ皇帝に直訴することができた。それでローマで囚われの身となっていた。
 牢屋にありながらも、パウロは、ローマ兵たちに、どうしてこのような素晴らしい人物が酷い扱いを受けているのかと疑問を抱かせる。この男が伝えている福音とはいったい何なのだろう。実は初代のキリスト教が広まっていくときに、このとき警備に当たっていたローマの兵隊たちがパウロのすがた、伝えていることにはっとし、ああ、あのときの、ああそうかと納得し、千人隊長、百人隊長、その他のローマの兵隊が福音を証しするようになっていたわけであります。 

 そして、いよいよきょうの14
3:14こういうわけで、私は膝をかがめて、 3:15天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。
 もうこれは、ギリシャ語のことば、欄外の15節。パトリヤとかパテラというようなことばと非常に関わっていることが指摘されておりますけれども、つまり、天の父なる神様というお方は、ただユダヤ人たち、選民の父アブラハムの父だけではなく、他の異邦人の者たちにも家族という呼び名ができるそのようなものなのだ、だからその天と地にあるすべての家族の家族という名のもとである御父を前に祈ります。
そして16
3:16どうか御父が、その栄光の豊かさに従って、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。 3:17信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、 3:18すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、 3:19人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。3:20どうか私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、 3:21教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。
 パウロの大きな祈りがここにあります。圧倒されます。私は今日大切なポイントとして1617、特に17節を中心に私たちが今持っている福音の恵、このパウロの祈りが、どうか私たちのうちにも適用されますように。この礼拝において、このパウロの祈りがアーメンと私たち一人ひとりに受け止められることができたとすれば、この礼拝は何よりも大きな祝福になるだろうと、こう思っております。


3:16どうか御父が、その栄光の豊かさに従って、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
 
この内なる人というのは、人間は体を持っておりますけれども、その肉体が器の中にある。内なるひと。つまり、神ご自身とつながることのできる働きをもっている人間の霊、それが私たちの内なる人です。この内なる人が、強められますように。御霊によって、私たちの内なる人がどうか強められますように。

 どうでしょうか。私たちの内なる人が、社会人の一人としてこの世の中にある1週間、きっと様々なところを、事柄においても、また対人のことにおいてもそうですけれども、私たちは、この世と敵対する勢力の中にある。その7日の戦いを終えて今この日曜礼拝で、しばし神様の前に翼を垂れているのは、内なる人が強くされるためであります。私たちはほんとうに弱く、傷つきやすく脆い者でありますけれども、しかしパウロは、そんな私を神様は使徒として憐れみの見本としてくださっているというのです。神様はこんな私を受け入れてくださっていると。パウロは、こんな失敗はあなたがたはしたことがないでしょう、イエス様を信じている者たちを引きずり出して、その命の血で手を汚した人はあなた方の中にいますか。いや、いないでしょ。私はそれをやったのです。私はそんな罪びとだったのです。けれども、こんな失敗だらけの足りない者にも、神様は私を憐れみの恵の見本としてくださっている。どうかこの私を見て、どうかあなた方も、内なる人が強くされるように。換言すれば、パウロは今日の私たちに、16節で、この礼拝に集っている、またこの教会に関わる人たちに、どうか内なる人が強くされますようにと祈っているのです。

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そして、3:17信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。
 同じ家族、異邦人も同じ家族の中ある。以前のパウロたちにとって異邦人を受け入れるということは、信じられないぐらい相容れぬことであった。けれども神様の恵によってその先入観が砕かれて、実は同じ私たちの父の家族なんですよと言います。
 そして、
3:17信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせ。
 私たちは、内にいるキリストが栄光の望みであることを知っています。で、恐らくこのことを聞いて、うんうんと、多くの方々は、私も含めてですけれども、うなずいてくださるはずです。たしかに罪の赦しのある十字架を信じる者が新しく生まれ変わるというその経験を持った時にキリストのいのちが私の内に与えられている。確かに信仰によって心の内にキリストが住まわれている。この内住のキリストを、果たして私たちはどれだけ自覚しているだろうか。実は、きょうは、そこをポイントとしてお話をしたいと思っております。

 信仰によってキリストに心の内に住んでいただく。皆さんが納得して肯いておられるはずのことですが、これをさらに豊かに知ることができるように、キリストの愛がさらに満ちみちるようにとパウロは祈り、最後はもう頌栄、祝祷のような祈りになっています。どうかこのことがあなた方によくわかるようにとパウロは祈っています。

 この祈りということを、きょう残るとき、証しをさせていただきたいと思うのです。
 この教会が毎年出しております証し集「葡萄の樹」発刊の時期となりました。
私にとって、去年のできごと、そして今年はまだ年が明けて数か月。3月になったばかりですが、これまでの1年を振り返るときに、非常に教えられることの多かった年でありました。
 内住のキリストが心に住まっていてくださるということが、ただ頭だけの理解ではなく、現実問題に直面したときに、どういう意味を持っているのかを教えられました。記録に留めておくべきと思いました。

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 キリストが内に住んでくださることをいちばん深く感じたのは、ある手術に立ちあった8時間でありました。試されたのは、いったい私の信仰って何なのだろう。そこに怖れがある。怖れがなにかというと、もうどうしようもないという感覚でした。ただそれは手術を数分後に控えた方の、或いは未知なるものへの、或いは、そこにいて待つもののつぶれそうな孤独とも違ったものでした。しているうちに、はたとその方の直面している死をきちんと受け入れよう、そして主にすべてを委ねて死というものを真っ向から受け容れたときに、それまであった怖れから解放されておりました。「我生くれば汝らも生くべければなり」、文語訳になりますけれども、この聖言がストンと心に落ちました。「我生くれば汝らも生くべければなり」、これに集約されております。これが大きな支えになりました。

 3:17信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせる。
 「「我生くれば汝らも生くべければなり」
 これです。「内住のキリスト、栄光の望み」。これこそをパウロが伝えたく願っている。
3:18すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、 3:19人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
 これがパウロの祈りです。

 心のうちに与えられている信仰の実質が何であるのか、どうかそのことを確かめて、そして握りしめていただきたい。聖霊がキリストが信仰によって心に宿っているということはこういうことなのだと納得していただくために、今日のメッセージが皆さまの参考に、励ましになればと願うことであります。

 

※説教は筆者がICレコーダーから起こし、できるだけ内容に忠実に書かせていただいております。画像は教会からお借りしております。

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