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2020年3月

20/3/31クラシック倶楽部を聴く

キャロリン・サンプソン ソプラノ・リサイタル「花に寄せて」
銀座・王子ホールで収録

🎵聞き間違いでなければ、たしかこれは2017年の収録。何回か聴いているが、それでも新たな発見がある。クラシック倶楽部のページがリニューアル、かなり簡素化され、伴奏者や曲名は書かれていないが、きれいな画面に奏者の写真とわずかな紹介で惹きつける。
今回のピアノ伴奏はジョセフ・ミドルトン。
ありとあらゆる花のオンパレード。リヒャルト・シュトラウス作曲の歌曲集「乙女の花」けしの花ときづたが対照的な詞の内容で、対照的に歌われる。「赤い血かよう健やかさ」、ほかを押しのけ己を強く輝かせるけしに対するは「他のいのちに愛を与えつつひっそりと咲いている」きづたなのだが。いずれこの花のシリーズ、シューベルトの「花言葉」「森で」、シューマンの「献身の花」、これはすこし趣が変わっていて、「僕は庭に咲く花」という歌詞。多くは乙女に、女性にたとえられる花なのだが、花にたとえられる男性の登場なのだ。「僕は庭に咲く花、君がどんなふうに僕のところに来るかを待っている」というのだ。シューマンの「まつゆき草」では「雪の鈴が鳴る」というフレーズに心魅かれた。広瀬大介さんの訳。プーランクの「花」。「余談から一歩抜け出した花」友達段階から恋人段階へなのか。ユゴー作詞、フォーレ作曲の「ちょうと花」、これは成立した男女を花にたとえ、片方の花はさらに花を求めてとび、片方の花は地に涙する。ドビュッシーの「花」は、傷つける花。アイリスは相応しいらしい。「日差しよ性悪の花々の味方よ」「苦痛の狭間の緑へと流れ落ちていく」といった怨念とも受け取れるフレーズ。「去年咲いていたリラの花は」、これはプラーンジェ。「ありったけの花」これはロスタ詞、シャブリエ曲。ありったけ、ヤグルマギク、ヒルガオ、リラ、バラ、シクラメン、ジャスミン、エニシダ、よくぞエニシダを入れてくれたもの、アイリス、スズランもまだ23あった気がするが。出るも出たりこれだけの花をありとあらゆる愛の機微にたとえ託して精緻にていねいに歌い分け楽しませてくれたキャロリン・サンプソンのソプラノ。アンコールは北原白秋、山田耕筰の「からたちの花」を日本語で。改めて何と清楚で花そのものを生かし愛でて詩にのこしてくれた白秋という詩人が思われた。2曲目のアンコールは「野ばら」。いうまでもなくゲーテ&シューベルト。いつかここに出て来た「ありったけを」の庭を歩きながらこの歌曲を聴いてみたいもの。

🎧名曲アルバム「クロイツェル・ソナタ」ベートーベン作曲
(バイオリン)小林美恵,(ピアノ)清水和音 ~オーストリア・ウィーン~

🎵小林さん、清水さんのクロイツェルよかった! それでも名曲アルバムの購入は10年後かな。買ってしまうとたぶん今のようにすこしでも学ぼうという意欲は減退するだろうから。

⛳3月もとうとう聴いてしまったクラシック倶楽部。この時間を聖書研究か創作に打ち込んだ方がいいのではないかと逡巡しつつ、5時からはクラシック倶楽部になっている。さて来月はどうしたものか。
コロナで明けコロナで終わりそうな3月。新型コロナ以外のコロナには何がある? などとほとんどどうでもよいことをググってみたところ、延々と延々と新型コロナばかりが。ちょっと抜け出して、新聞にちょっと出ていたコロナストーブ。太陽のコロナ。あとは、あとは思い浮かばず。6時55分更新。

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20/3/30クラシック倶楽部を聴く

ドミートリ・コルチャック テノール・リサイタル
(ピアノ)浅野菜生子
2018
315日東京オペラシティ・コンサートホール

 

☆「私は嘆く」レールモントフ:作詞、ダルゴムイシスキー:作曲
☆「歌劇「ラファエロ」から 舞台裏からの歌手の歌「情熱と喜びに心は震え」」アレンスキー:作曲
☆「歌劇「エフゲーニ・オネーギン」から 青春の日は遠く過ぎ去り」チャイコフスキー:作曲
☆「歌うな、美しい人よ 作品44」プーシキン:作詞、ラフマニノフ:作曲
☆「「音楽の夜会」から第1曲 約束」メタスタジオ:作詞、ロッシーニ:作曲
☆「「音楽の夜会」から第8曲 踊り」ペポリ:作詞、ロッシーニ:作曲
☆「歌劇「オテロ」から ああ、どうして分かってくれないのですか」ロッシーニ:作曲
☆「歌劇「愛の妙薬」から 抜粋」ドニゼッティ:作曲
☆「歌劇「愛の妙薬」から 人知れぬ涙」ドニゼッティ:作曲
☆「歌劇「ロメオとジュリエット」から 目覚めよ、きみ」グノー:作曲
☆「歌劇「ウェルテル」から オシアンの歌「春風よ、なぜ私を目ざますのか」」マスネ:作曲

🎵けさのテノール、「目覚めよ、きみ」の詞の中にある「純粋にして魅惑の天体」のような透過されていくような声質。体内に何と素晴らしい楽器を生まれ持ったものと思う。またそれがここまで技術的に磨き上げられるものかとも。ドミートリ・コルチャックのコメントから、リサイタルをピアノ伴奏でというのは技術的に難しいものであるようだ。また年齢によっても質が異なってくるのだと。アルマヴィーヴ伯爵を20歳で歌うのと50歳で歌うのとは違うと。
一連の曲はロマンス系。その中でもロッシーニの「踊り」、息も継がせずに技術を完璧にこなす、これは、専門用語では何というか、この難しさを安定的に聴かせてくれた。おもしろく元気をくれる歌唱だった。

🎧名曲アルバム「四季  春」ヴィヴァルディ
【バイオリン】漆原朝子,【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団,【指揮】飯森範親

🎵ヴィヴァルディ、生涯に300もの協奏曲を作曲。かくも有名な「四季」が日の目をみたのは20世紀に入ってからという信じがたいはなし。

⛳5時におきるは起きたもののあれこれ多忙。8時43分更新。

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きょうのことば

 インマヌエル盛岡キリスト教会2020年3月22()の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は46年にわたって岩手で主のご奉仕をしておられます。

 

説教題 『限りなきキリストの愛』(國光勝美牧師)
聖書個所 新約聖書 エペソ人への手紙 第3章1421

3:14こういうわけで、私は膝をかがめて、 3:15天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。 3:16どうか御父が、その栄光の豊かさに従って、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。 3:17信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、 3:18すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、 3:19人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。3:20どうか私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、 3:21教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。

<説教>

 きょうは、エペソ人への手紙317
3:17信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、 3:18すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり」

このところを土台として、エペソ人への手紙の連講を進めていきたいと思っております。

メッセージを取りつぐ者として、キリストが内に住まっているという自覚をどれだけこの1週間、私は持つことができているか。自分自身の名前を絶えず意識しているわけではありません。よく病院では個人情報を配慮し、患者を名前では呼ばず番号で呼ぶことがあります。ところが何度も番号で呼んでも応答がない場合がある。看護師さんが、それではお名前で呼ばせていただきますと、名前で呼ぶとすぐに応答が帰って来るという場合があります。だいたいお年を召した方であったりしますが。数字を覚えるのが苦手でも、自分はどこの誰それだと意識するしないに関わらず、そのお齢を召した方にとっては当然の自覚であって、キリストを住まわせるということはそのことと似ているような気がします。いつもいつも私だぞと自覚しているというよりも、イエス様を救い主として信じているのは当たり前であり、はいと言えるような者、それが心の内にキリストを住まわせるということなんですけれども、それが実際にどういうような在り方になるのか。

317心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、 3:18すべての聖徒たちとともに、

自分の持っている信仰というものが一体何なのか。「我活(い)くれば汝らも活くべければなり」。ああそうか、内にいますお方がよみがえって永遠のいのちをお持ちのそのお方が、今活(い)きて我がうちにお住まいになってくださる。だからあなた方も、つまり私たちも生きるのだ。人は皆例外なしに死ぬけれども、内にいたもうお方が、「我活くれば汝らも活くべければなり」こう言っておられる。今生きるか死ぬかに直面している人も、そうでない人も、いつかは死ぬ。そのときに、永遠のいのち、キリストのいのちが、心の中にあるときに、アーメン、「我活(い)くれば汝らも活くべければなり」。

それで生きられる、永遠に生きられるこのいのちが与えられているのなら、この福音の恵を宣べ伝える者であらせていただきたい。証しするものであらせていただきたい、そのお証しをもって前回は締めくくらせていただいたように思います。

 

 317愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが

17節には、「愛に根差し、このイエス様の愛に基礎を置いている」とありますが、わたしたちの内にいますキリストの愛は、どんな愛何なのでしょう。

聖書の中にある「キリストの愛」ということばを幾つか拾い出してみました。そのうちの一つがコリント第二の手紙514節であります。これを3通りの訳で見てみましょう。

20200327-103904

新改訳2017では、キリストの愛が私たちを捕えているから。私たちの内にお住まいになっているキリスト、そしてこのキリストの愛が私たちを捕えている。その訳は、新共同訳では、事実キリストの愛が私たちを捕えて放さないのです。ああそうか。うちにいたもうお方が、捕えて放さない。それともう一つ口語訳聖書キリストの愛は私たちに強く迫っているからである。という訳があります。これは超一流の聖書学者たちが精魂込めて訳している言葉ですから、これぞれに深い意味があるわけです。特にこの文語訳に親しんでおられる方は、キリストの愛我に迫れりという訳で覚えていらっしゃる。キリストの愛我に迫れり、そして、そのときに、じゃ本来の言葉の持っている意味は何かというと、その辺のところは聖書学者たちの独壇場でありまして、その解説を見ると、キリストの愛が私を脅迫するというのが本来の意味だそうです。キリストの愛が私を脅迫する。脅迫にはあまりよい気持ちはしません。キリストの愛、ナイフのようなものを突きつけられ、どうするんだと迫ってくるのか、そうではないでしょう。このキリストの愛にあなたはどうするのかと、自分自身のあり方が問われる。これらのものをぜんぶ捕えて、それらのことをぜんぶ分かっておられる。日本語に訳した人が、キリストの愛が私を捕えて放さないという実感がある。イエス様の十字架の愛に、これだけ捕まっている。私はあなたを贖ったんだよ、さあどうするのだね、と迫られている。このような愛にクリスチャンたちは根差し、基礎を置いているということなのです。

 

もう一つ、このキリストの愛が出てくるところは、ローマ839節です。

8:39高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

20200327-103929

 キリストの愛が私たちをぐっと捕まえて、脅迫的に捕まえているときに、そのキリストの愛から、どんなものもその私たちから引き離すことができない。そうです。卑近な例でいうなら、病がある。或いは今私たちが置かれている立場。営み。それぞれ人の置かれているところは違いますけれど、高いところも低いところも、これはただに目に見えるだけではなく、霊の世界のことも含めてのことです。どんな被造物といっても、例えば驚かれるかもしれませんが、悪魔も造られたものですから、というのは、神様は本来はご自分に仕える者として天使を造られたのでした。ところが、自由意思を与えられている天使が、神を礼拝し従うよりも私は私の道を行きたいと神に従う事を良しとせず、堕落してしまった。その天使がサタンであり、悪霊たちです。ですからそういう面からいえば悪霊も天使が造られたものであるように造られた。悪魔は何とかキリストの愛から私たちを引き離そう、手を変え品を変え、私たちがこの地上に生きているあいだは、強力な力でキリストの愛から私たちを引き離そうとします。しかし、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛が私たちを捕まえて放しません。私たちを引き離すことはできない。

8:39高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

 これほど私たちは十字架の贖いのキリストの愛に、しっかりと迫られ、脅迫されている。イエス様は、さああなたを贖った、いったい誰があなたを私から引き離すことができるのか。剣か槍か、こう言われます。どんなものもこのキリストの愛から私たちを引き離すことはできません。

旧約聖書のイザヤ書431

だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。2あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」

 その証拠のように3節に
わたしはあなたの神、主。イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。
 
神様はひとりの御子イエス・キリストを私たちの贖いとして犠牲としても惜しくはなかった。
4わたしの目には、あなたは高価で貴い。わたしはあなたを愛している。
誰がこのキリストの愛から私たちを引き離すことができるのか。キリストの愛が私を脅迫して捕まえて離さないというのは、これに裏打ちされている事実なのです。

 

エペソの方に戻りましょう
3章の17節を前提に
3:18すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、 3:19人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
こうパウロは祈っていてくれています。

 皆さん方、聖書の中で、キリストの愛をいうときに忘れてはならないのは、第一コリントの13章です。これは愛の章と呼ばれています。パウロは言っています。
13:1たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。 13:2たとい私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。 13:3たとい私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人のした悪を心に留めず、 13:6不正を喜ばずに真理を喜びます。 13:7すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。 13:8愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。 13:9私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、 13:10完全なものが現われたら、部分的なものはすたれるのです。 13:11私は幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことをやめました。 13:12今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。 13:13こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。

 愛がなによりも最高のものだと1313節にあります。これをしみじみと教えられるすばらしい箇所であるのです。

 蔦田二雄先生がこの愛の章に言及したことがあります。私は第一コリント13章をまだ公開説教するだけのものを持っていないと言われたのです。蔦田先生がもってないなどというならいったい誰ができるんだろうと、私は会衆席にいて思わず考えてしまったのですが。蔦田先生は、これをほんとうに説教することができる者になりたいとさらっと仰って本題に入っていかれたのですが。そのとき、このコリント13章はそう簡単なものではない。それだけの意味があるものなんだなと思いました。
 またこんなエピソードもあります。どこの教団の先生でらっしゃったか、13章の説教をなさった。愛は寛容であり愛は親切です。また人を妬みません。自慢しません。高慢になりませんと。会衆は恵まれて聞いていたでしょう。ところが説教が終ったあと、「ねえねえうちのお父さんがねえ、チェックしたら、これもダメこれもダメこれもダメだったよ」とお子さんが言ったそうです。先生が、講壇でこの愛の章はとてもできない、もしサラッとでも説教するとしたら子どもが会衆席にいないときにしようと思ったと。

 

 説教をするにしても、「私の愛」でしようとするなら、とてもできないでしょう。私の愛はとてもこんな説教できるようなところまでではないと言いたくなる。たしかにそうなんですけれども、ここに更に光をあてて、「愛」の文字の前に「キリスト」と入れるなら、イエス様に入っていただくならばどうでしょう。すると「キリストの愛は寛容でありキリストの愛は親切です。またキリストの愛は人をねたみません。キリストの愛は自慢しません。キリストの愛は高慢になりません」。みな頷ける。アーメンです。そうです。これは私ができるとかできないとか人の前で証しできないというのではなく、キリストの愛というのはこういうものです。キリストの愛は永遠にのこるものなのです。これを下敷きに読んだときに、このエペソの3章の17節から

3:17信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、(キリストの)愛に根ざし、(キリストの)愛に基礎を置いているあなたがたが、 3:18すべての聖徒たちとともに、(キリストの愛の)その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、 3:19人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。

 それぞれの()内に「キリストの」と入れてみました。そうでないと、これに生きていませんと、たとえば高慢になりません礼儀に反することをしませんなどとありますけれども、みなさん、ヤコブ書35節には

3:5同じように、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って自慢します。見なさい。あのように小さな火が、あのような大きな森を燃やします。3:6 舌は火です。不義の世界です。舌は私たちの諸器官の中にあってからだ全体を汚し、人生の車輪を燃やして、ゲヘナの火によって焼かれます。3:8 しかし、舌を制することができる人は、だれもいません。舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています。

 こうありますように、つまり人間の発する言葉、人間の言葉は多かれ少なかれ好ましくない問題や事態を引き起こすことがある。しかし、もし私たちがキリストの愛というものにコントロールされていなかったならば、どれだけ舌、言葉というものが人を傷つけるだろうか。仕事の関係でも深く傷つけられることがある。ほんとうに人はナイフで殺すことはないけれども、言葉で人を殺すことがいくらでもある。キリストの愛に根差していないとそういうことは起こりうるのです。是非イエス様に言葉をコントロールしていただきたい、切にそう願うことです。傷つけようという意図から傷つければそれは悪意ですけれども、そうではなく何気なく言ってしまった言葉が、相手を深く傷つけてしまっていることがあり得る。言葉には気を付けねばならないと思うことです。

 これからエペソ3章、4章と進んでまいりますけれども、キリストの愛にしっかりと根差して第一コリントの13章、キリストの愛が満ち溢れるような信仰生活を共に送らせていただきたいと、このことが私の今日のメッセージであります。

 

※説教は日曜礼拝でICレコーダーに録り、筆者が起こしています。画像は教会からお借りしています。牧師先生方の写真は筆者が任意で載せておりましたが、今回、ブログ操作の不具合でか、載せたいのですが、技術が届かないために載せかねております。

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J-MEROを聴く

🎵モンキーマジックの再放送。
結成20周年の感慨を述べる中で、自分たちは「日本の文化を織りなす糸の一本」といえるカナダ人兄弟メイナードとブレイズ。20年続けてこられたのは、彼らの言外に、兄弟で日本にいられたという側面も大きいかなと。至極まともな4ピースハイブリッドロック・バンド。3・11に「体をつかって」の復興支援。前回も今回もシャベルでの泥さらいにはぐっと。これが好感度につながっている。日常の当たり前を大切に詠い歌う。「清く正しく美しく」、いまならこの後に「なんて」と続きそうだが、しかし何の違和感なく自然に曲にこのことばを使えるところにむしろすごさが。

May J.の笑顔がフレッシュ! 柑橘のかおりが。

 

⛳「僕らが描き出した明日」、モンキーマジックの曲の歌詞。新型コロナ、環境、破綻しそうな経済と、若者たちが描き出せる明日があるのか。せめて音楽の世界の中だけでも、と言いながら、いやすこしでも良くする努力はと思い、また何と無力な自分だろうかとも。ある方は、へりくだってこの新型コロナの世界的な窮状のために祈るとメールをくださった。照らされた。6時36分更新。

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20327クラシック倶楽部を聴く

(ソプラノ)小林沙羅&(テノール)山本耕平 デユオ・リサイタル
(ピアノ)河原忠之
2020125日福島県棚倉町文化センター倉美館 公開収録~

☆「この道」。北原白秋:作詞、山田耕筰:作曲
(ソプラノ)小林沙羅、(ピアノ)河原忠之
☆「くちなし」。高野喜久雄:作詞、高田三郎:作曲
(テノール)山本耕平、(ピアノ)河原忠之
☆「或る夜のこころ」。高村光太郎:作詞、中村裕美:作曲
(ソプラノ)小林沙羅、(ピアノ)河原忠之
☆「四行詩」。中原中也:作詞、泉谷閑示:作曲
(テノール)山本耕平、(ピアノ)河原忠之
☆「小さな空」。武満徹:作詞、武満徹:作曲
(ソプラノ)小林沙羅、(テノール)山本耕平、(ピアノ)河原忠之
☆「喜歌劇「ほほえみの国」から「きみはわが心のすべて」」。レハール:作曲
(テノール)山本耕平、(ピアノ)河原忠之
☆「喜歌劇「チャールダーシュ姫」から「ハイヤ!山こそわが故郷」」。カールマーン:作曲
(ソプラノ)小林沙羅、(ピアノ)河原忠之
☆「歌劇「椿姫」山本耕平から「燃える心を」」。ヴェルディ:作曲
(テノール)山本耕平、(ピアノ)河原忠之
☆「歌劇「椿姫」から「さようなら 過ぎ去った日よ」」。ヴェルディ:作曲
(ソプラノ)小林沙羅、(ピアノ)山本耕平
☆「歌劇「椿姫」から「パリを離れて」」。ヴェルディ:作曲
(ソプラノ)小林沙羅、(テノール)山本耕平、(ピアノ)河原忠之
☆「歌劇「椿姫」から乾杯の歌「友よ さあ飲みあかそう」」。ヴェルディ:作曲
(ソプラノ)小林沙羅、(テノール)山本耕平、(ピアノ)河原忠之
☆「Con Te Partiro Time to say goodbye)」。クアラントット:作詞、サルトール:作曲
(ソプラノ)小林沙羅、(テノール)山本耕平、(ピアノ)河原忠之

🎵聴き終えて、この時間でほんとうにこれだけたくさんの曲を聴いたのかなと曲目をたどってみると、聴いている、聴いている、たしかに聴いている。それだけ聴く側がねばっこい時間をまったく意識させない演奏だった。小林沙羅が有名な曲、あまり有名ではない曲との取り合わせプログラムといった紹介があったが、確かに。山本耕平が「四行詩」について、なかなか演奏されない曲であり、放送されるのは初めてでは、と。日本の歌はすくない言葉でも行間を膨らませてくれる力があるとのことだったが、いつしかそれを忘れており、そういった味わい方を忘れていた。河原忠之が、日本語の美しさが伝わればと語っていた。
興味津々の「四行詩」、

おまえはもう静かな部屋に帰るがよい。
煥発(かんぱつ)する都会の夜々の燈火(ともしび)を後(あと)に、
おまえはもう、郊外の道を辿(たど)るがよい。
そして心の呟(つぶや)きを、ゆっくりと聴くがよい。

曲がやや平板という感じもするのだが、中也の詩が廃れない限りは生き続けるのだろう。野口雨情が、詩が生き続けるには、良い旋律で、人に受け入れられるメロディーで歌われ、歌い継がれることだと、とにかく流行作曲家に作曲を依頼したが、曲によって生き残る詩もあれば、詩によって生き残る曲も。
福島入りのお三人、やはり震災のことにも触れ、頑張れという心でピアノを弾きたいと山本耕平さん。と、どうしてか、ここで「さん付け」になってしまった。訳は分からない。
歌曲のデュエットは楽しかった。小林沙羅、ダンスもなかなか。手の指先の動きも。とにかく華がある。熟年に達するまでに、多くのファンタスティックな、コミカルな、時にはおどろおどろしげな、グロテスクな役柄をたくさん歌ってほしい。山本耕平のソプラノとの響き合い、とにかく後半は圧巻だった。

 

🎧名曲アルバム 「ノクターンロ短調」ショパン作曲
ピアノ、小山実稚恵

🎵パリの南300キロにあるノアン、ジョルジュサンドの別荘。ノアンで作曲された最後のノクターンを、小山さんが懐かしさと一抹の淋しさをのせて弾いてくれている。

⛳一旦PCがフリーズ。まあこういうときもある。で、朝食、後片付けを終えて一息のところでパソを回復させ、気軽な更新。855分。

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20326クラシック倶楽部を聴く

紀尾井ホール室内管弦楽団 ウィーン・フィルのメンバーを迎えて
~紀尾井ホール~2020/1/17

 

☆「交響曲「大地の歌」(室内オーケストラ版)から 第1楽章、第2楽章、第3楽章、第6楽章」。マーラー:作曲、シェーンベルク/リーン:編曲
(室内オーケストラ)紀尾井ホール室内管弦楽団、(メゾ・ソプラノ)ミヒャエラ・ゼーリンガー、(テノール)アダム・フランスン

 

第1楽章、現世の愁いをうたう酒歌  
第2楽章「秋に寂しき人」
第3楽章「青春について」
第6楽章「告別」

 

🎵ライナー・ホーネックが、今回のウィーン・フィルのメンバーはずば抜けた奏者たちであるといっているが、そのずば抜けた奏者たちが紀尾井のメンバーに感心した、最初のリハからわかり合えたというのだから嬉しくなる。ソリストの声を聴くのはやはりあまり大きくないホールがいいと思うのだが。今回はオケのフォローはないとしても、声楽家たちにとっては幾分リラックスして、しかし手を抜かずに歌うことができる空間だったのでは。
マーラーというと私には憂鬱、悩みという先入観でできあがっている。今回も管の支配的な寂莫感、孤独感が甲高く入って来たけれども、それがあって弦の慰めや美しさに癒されもするのだと。ミヒャエル・ゼーリンガーのメゾ・ソプラノ、「この世で幸福は私にはほほ笑まなかった」「どこへ行くのかと? 私は山をさ迷い歩く 孤独な心に安らぎを求めて」「私は故郷に居場所を探す」「決して遠くまでさすらうのではない」「心は安らぎ その時を待ち望む」「愛しき大地は春になれば花が咲き新緑になる」「どこまでも永遠に 彼方は明るく青くなる」そして「永遠に」が何度も繰り返され、繰り返され、最後は彼方に消えゆくようにふつりと消えるというよりは、この幾分憂いを帯びたメゾ・ソプラノが小さく小さくなってゆきついに永遠に溶け込んでしまい永遠の果てに見えなくなるのだ。そこに一縷の望みがたくさ託されているようにも聞こえる。

 

🎧名曲アルバム 「パシフィック231」オネゲル作曲
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団,【指揮】円光寺雅彦

 

🎵蒸気機関で動くケーブルカーの音を聴きながら育ったというオネゲル、連なる幾両もの車両、満載車の牽引、がんがんと時代をも運ぶ蒸気機関になりきっての作曲であろうか。

⛳どうなる新型コロナ。イタリアの死者は6820人。7時1分

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20/3/25クラシック倶楽部を聴く

ディートリヒ・ヘンシェル バリトン・リサイタル
(ピアノ)岡原慎也
トッパンホール

 

☆「月にさまよう人 D.870ザイドル:作詞
☆「春の信仰 D.686」ウーラント:作詞、シューベルト:作曲
☆「野ばら D.257」ゲーテ:作詞、シューベルト:作曲
☆「孤独な男 D.800」ラッペ:作詞、シューベルト:作曲
☆「ガニメード D.544」ゲーテ:作詞、シューベルト:作曲
☆「魔王 D.328」ゲーテ:作詞、シューベルト:作曲
☆「リーダークライス 作品39アイヒェンドルフ:作詞、シューマン:作曲
☆「ます D.550」、シューバルト:作詞、シューベルト:作曲
☆「音楽に D.547ショーバー:作詞、シューベルト:作曲

🎵詞の訳は喜多尾道冬という方。ザイドルの詞「東のゆりかごを出て西の墓場に入るまで」と、太陽は「諸国の巡礼の旅をしている」と。日頃見ている日出、日没、そして終日の動きをこのように詠んでいる。表現の格段の違い。
「幸せな人とはどこへ行ってもそこが故郷と思える人のこと」、「あわれな心よ、いまにすべてがすべてがよくなるから」「心の底までしみこんでくるさびしさ」、その他、その他、人の奥底の想いを直截に詠う歌詞を聴いたあとに、日本の歌の歌詞が過った。滝廉太郎とか山田耕筰の曲のそれだけれども。「野ばら」の一般的な訳も元には遠い。
人生の甘さ辛さ苦さを見つめ見据えそれらをすべて包み込んで歌にこめるディートリヒ・ヘンシェルのバリトンの詞との響きあいを面白く聴いた。

 

🎧名曲アルバム 「大学祝典序曲」ブラームス作曲
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団,【指揮】田中良和

🎵英からの博士号の喜びが、素朴な学生歌を斯くも明るく生き生きと喜びに溢れた「祝典序曲」に。

 

⛳音楽がなぜか樹木に。きょうの巨樹の感動は、川棚の楠の森。樹齢1000年だろうか。枝張り58メートル。これが枯れた枝張りと。3年前たちまち葉が真っ赤になってたった1か月でぜんぶばらばらと葉が散ってしまったのだという。原因は公園整備のための埋め立て。それに竹筒100本をたてて空気孔を作ったところ、まるで息を吹き返したように幹の緑の芽が。この巨木の生命力に驚嘆。枯れた、もう駄目だと思われた幹から鮮やかな芽が、強い生命力を無言で。感動だった。こうして何度も危機を脱し1000年を生き抜いてきたのだ! 木が言っている、頑張れみんな、頑張れ、何があっても頑張れ!  7時10分更新

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20324クラシック倶楽部を聴く

アラカルト アンコール

 

☆「ロマンス」、ヨルゲンセン:作曲
(トロンボーン)ファブリス・ミリシェー、(ピアノ)中川賢一
☆「練習曲 変イ長調 作品25 1「牧童」」、ショパン:作曲
(ピアノ)小菅 優
☆「愛の悲しみ」、クライスラー:作曲
(バイオリン)エマニュエル・チェクナヴォリアン、(ピアノ)マリオ・ヘリング
☆「3つのロマンス 作品94から 第2曲」、シューマン:作曲
(フルート)マテュー・デュフォー、(ピアノ)浦壁信二
☆「愛の小径」、プーランク:作曲
(チェロ)ジャン・ギアン・ケラス、(ピアノ)アレクサンドル・タロー
☆「アヴェ・マリア」、シューベルト:作曲、吉松隆 田部京子:編曲
(ピアノ)田部京子
☆「シチリア舞曲」、伝パラディス:作曲、ドゥシュキン:編曲
(バイオリン)コリヤ・ブラッハー、(ピアノ)オズガー・アイディン
☆「混声合唱のための「うた」から「さくら」」、日本古謡:作曲、武満徹:編曲
(合唱)スウェーデン放送合唱団、(指揮)ペーター・ダイクストラ~20191126
☆「即興曲 変ト長調 作品90 3」、シューベルト:作曲
(ピアノ)アレクセイ・リュビモフ
☆「即興曲 変イ長調 作品90 4」、シューベルト:作曲
(ピアノ)アレクセイ・リュビモフ

🎵
2019
年の収録からアンコールだけの編集版。演奏会で一連のプログラムを終えた奏者、そして満足感をもって更なる一曲を待ち望む聴衆へのサービス曲、どこか緊張から放たれて奏し、また聴く側もリラックスしてしかし耳だけはしっかりと傾け聴き取るアンコール曲。たまにマリオ・ヘリングのように「みなさん、こんばんは」と日本語でのサービス、ジャン・ギアン・ケラスも「つぎは愛の小径」ですと日本語で。こんなちょっとしたところでも親しみが倍加。通常プログラムのときとはちょっと変化した空気での、それぞれの人柄も垣間見えるアンコールの数々。けさは創立1925年というスウェーデン放送合唱団、武満徹の編曲による「さくら」、古謡という側面に迫ったペーター・ダイクストラ、澄明なときには霞さえも思わせる透き通って美しくはかなげな「さくら」が心にのこった。

🎧
名曲アルバム「青春はすでに過ぎ去り」スウェーリンク作曲
【オルガン】今井奈緒子

⛳日本一の山形の「東根の大ケヤキ」などなど見るうちに時間切れ。71分更新

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20/3/23クラシック倶楽部を聴く

アラカルト 第88回 日本音楽コンクール
(管弦楽)東京フィルハーモニー交響楽団
指揮:角田 鋼亮、現田 茂夫、山下 一史、渡邊 一正
20191023日 東京オペラシティ コンサートホール

 

☆「フルート協奏曲 から 第2楽章」ニルセン:作曲
(フルート)瀧本 実里
☆「オーボエ・ソナタ ト短調 Wq.135」カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ:作曲
(オーボエ)山本 楓、(ピアノ)宇根美沙惠
☆「歌劇「連隊の娘」から「マリーのそばにいることは」」ドニゼッティ:作曲
(テノール)小堀 勇介
☆「歌劇「シンデレラ」から「きっとさがし出してみせる」」ロッシーニ:作曲
(テノール)小堀 勇介
☆「ピアノ協奏曲 第5番 ヘ長調 作品103 2楽章の途中から、第3楽章」サン・サーンス:作曲
(ピアノ)亀井 聖矢、
☆「バイオリン協奏曲 ニ長調 作品77 2楽章の途中から、第3楽章」ブラームス:作曲
(バイオリン)東 亮汰、

🎵当日に会場に行かなくとも、こうしてハイライトを提供してもらえる有難さ。テノールの小堀さん以外は20代。これからの音楽家たち。コンクールといえば、これまではこの時点が到達点のように見ていたが、いまは、こんどは誰の下で学ぶだろうか、どこのオケと共演するだろうか、音楽祭に招かれるようになって欲しい、何々劇場でリサイタルをするまでになって欲しいなどと、今からの先々の夢を託すようになっている。ただ、有名になるほどになのか卓越するほどになのか、日本にはいなくなる。
 テノール、楽曲の世界を心込めて味わい深く伝えてくれた。ピアノ、「一位は僕です」と表情に。弾き始めから強い自信が窺われた。それがまた面白く、それだけにまた演奏技術が際立っていた。間近に暁、オレンジ色が藍色がかった雲の縁を染めていく東の空を眺めながら聴いていたが、一生懸命な俊才たちのひたすらな響き新鮮だった。いつもは名曲アルバムでよくお名前を拝見する4人の指揮者の方々を、この番組時間帯の中でであるが、一堂に会したかの感覚で拝見できた。後進を世界に羽ばたかせる夢を載せてのタクトであったか。

 

🎧名曲アルバム  「歌劇 ウェルテルから 前奏曲」マスネ作曲
【テノール】福井敬,【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団,【指揮】現田茂夫

 

🎵岩手県水沢市出身の福井敬のウェルテルの悩み。1772年に法学を修めるためにゲーテはヴェッツラーへ。そして舞踏会でシャルロッテ・ブフに出あう。彼女には婚約者がおり、失恋の果てフランクフルトへ舞い戻る。
「春風よなぜ…」が書かれたゲーテの書斎の壁紙は落ち着いたグリーンだが、当時もそうだったのか。まさか貼りかえられてはいないと思うものの。はたまた、あれは漆喰の塗装か、布張りだったかなと。

 

⛳もう7時。イタリア、どうなっているか、ついに死亡された方昨日で4800人を超えて。音楽に緊密なこの地で、いま棺が次つぎに。なんということだろう。
クラシック倶楽部の後の番組、「樹木百景」をついつい見てしまい、今時間に。佐賀の川古の大楠、秋田のあがりこ大王、人々には疎まれた領家のモミジが、実に素晴らしかった。大樹の空を覆うばかりの葉叢は! ブナの木の切られても切られてもそこにこぶを作り自らを癒し、何度切られてもそこから新たな芽を出す。感動だった。これは秋田の鳥海山にあるあがりこ大王のこと。もう3分経過、で更新。

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きょうのことば

  インマヌエル盛岡キリスト教会2020年3月15()の礼拝メッセージをお伝えいたします。
國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は46年にわたって岩手で主のご奉仕をしておられます。

 

説教題 『心に住まわれるお方』(國光勝美牧師)
新約聖書 エペソ人への手紙 第3章1421

3:14こういうわけで、私は膝をかがめて、 3:15天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。 3:16どうか御父が、その栄光の豊かさに従って、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。 3:17信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、 3:18すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、 3:19人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。3:20どうか私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、 3:21教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。

 

<説教>

 エペソの連続公開、きょうはエペソ人への手紙314節からになりますけれども、その前に、パウロが与えられた奥義というものが何であるのか、パウロに啓示された奥義は何なのか、キリストの奥義は何なのかということを、今ひとたび心に留めたいと思うのであります。
 3章の6節をご覧いただきますと、
3:6それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人となり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。」

この福音の奥義は、私たちクリスチャンには当たり前のことです。しかし、この時代、ユダヤの人たち、アブラハムの裔、選民としての自覚を持っているユダヤ人たちにとって、キリスト・イエスによる救いが異邦人にまで提供されるなど、凡そ考えられなかった。救いは我らの誇りであるアブラハムの子孫にのみ約束されている、頑としてそう信じ切っているところに、パウロは、そうじゃない、異邦人だけではない。この救いは信じるすべての者に提供されているのだ。我らの父は異邦人の父でもある。我らも異邦人も同じ父なる神に連なる家族である。そのことを、パウロはエペソの手紙を通して、或いはそれと重複する内容のピリピ書、コロサイ書を通しても断言している。格別に言わなければならないほどに、当時のユダヤ人にはキリストの救いが異邦人に与えられることは特異なことであった。

 ここで、かつては徹底したユダヤ教徒であったパウロは言います。
3:8すべての聖徒たちのうちで最も小さな私に、この恵みが与えられたのは、キリストの測り知れない富を、福音として異邦人に宣べ伝えるためでした。
 キリストの証人ステパノを殉教に至らしめ、キリスト教という異端を滅ぼすことこそ神に正しく仕えることであると思いこんでいたパウロは、いよいよ殺害の意気に燃えてダマスコの途上にあったときに、天からの光が与えられて、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と神の声を聞きます。「なぜわたしを迫害するのか」ということばを耳にしたとき、パウロは、自分が迫害している教会は、実はキリストのからだであるのだと気付くわけであります。迫害の急先鋒であったパウロは回心しキリスト教徒として、異邦人に福音を伝える使者と変えられました。「私は使徒の中で最も小さい者である。神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。」と第一コリントの15章にあります。パウロは、赦された恵みを知れば知るほど、決して過去の自分の犯してしまった過ちを忘れることなく、むしろ一層、ああこんな者を神様の証人としてくださった。教会の迫害者がキリストの使徒と変えられている。これは、パウロの心からあふれ出る感謝の思いであります。その感謝の思いをもって、どうか私をみてください。こう言っているわけであります。


 簡単に前回のお話しをしましたが、いま3章が開かれておりますので、今日の事も含めて9節から読んでいきます。
3:9
また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現がどのようなものなのか、それを私は真理を啓示された者、受け取る者として伝えます。
それは何かというと
3:10これは、今、天上にある支配と権威に、教会を通して神のきわめて豊かな知恵がしらされるためであり、 3:11私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた、永遠のご計画によるものです。
 世々隠されていて、いよいよこのときに現わされたそれは何かというと、異邦人も一緒にこの恵みに与る者になった。こういうことなのです。
3:13ですから、私があなたがたのために苦難にあっていることで、落胆することのないようお願いします。私が受けている苦難は、あなたがたの栄光なのです。
 パウロは、異邦人も神の恵みに与ることができるなどと讒言を言い神を穢しているとユダヤ人に訴えられます。ところがパウロはローマ市民権を持っていたのでローマ皇帝に直訴することができた。それでローマで囚われの身となっていた。
 牢屋にありながらも、パウロは、ローマ兵たちに、どうしてこのような素晴らしい人物が酷い扱いを受けているのかと疑問を抱かせる。この男が伝えている福音とはいったい何なのだろう。実は初代のキリスト教が広まっていくときに、このとき警備に当たっていたローマの兵隊たちがパウロのすがた、伝えていることにはっとし、ああ、あのときの、ああそうかと納得し、千人隊長、百人隊長、その他のローマの兵隊が福音を証しするようになっていたわけであります。 

 そして、いよいよきょうの14
3:14こういうわけで、私は膝をかがめて、 3:15天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。
 もうこれは、ギリシャ語のことば、欄外の15節。パトリヤとかパテラというようなことばと非常に関わっていることが指摘されておりますけれども、つまり、天の父なる神様というお方は、ただユダヤ人たち、選民の父アブラハムの父だけではなく、他の異邦人の者たちにも家族という呼び名ができるそのようなものなのだ、だからその天と地にあるすべての家族の家族という名のもとである御父を前に祈ります。
そして16
3:16どうか御父が、その栄光の豊かさに従って、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。 3:17信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、 3:18すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、 3:19人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。3:20どうか私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、 3:21教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。
 パウロの大きな祈りがここにあります。圧倒されます。私は今日大切なポイントとして1617、特に17節を中心に私たちが今持っている福音の恵、このパウロの祈りが、どうか私たちのうちにも適用されますように。この礼拝において、このパウロの祈りがアーメンと私たち一人ひとりに受け止められることができたとすれば、この礼拝は何よりも大きな祝福になるだろうと、こう思っております。


3:16どうか御父が、その栄光の豊かさに従って、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
 
この内なる人というのは、人間は体を持っておりますけれども、その肉体が器の中にある。内なるひと。つまり、神ご自身とつながることのできる働きをもっている人間の霊、それが私たちの内なる人です。この内なる人が、強められますように。御霊によって、私たちの内なる人がどうか強められますように。

 どうでしょうか。私たちの内なる人が、社会人の一人としてこの世の中にある1週間、きっと様々なところを、事柄においても、また対人のことにおいてもそうですけれども、私たちは、この世と敵対する勢力の中にある。その7日の戦いを終えて今この日曜礼拝で、しばし神様の前に翼を垂れているのは、内なる人が強くされるためであります。私たちはほんとうに弱く、傷つきやすく脆い者でありますけれども、しかしパウロは、そんな私を神様は使徒として憐れみの見本としてくださっているというのです。神様はこんな私を受け入れてくださっていると。パウロは、こんな失敗はあなたがたはしたことがないでしょう、イエス様を信じている者たちを引きずり出して、その命の血で手を汚した人はあなた方の中にいますか。いや、いないでしょ。私はそれをやったのです。私はそんな罪びとだったのです。けれども、こんな失敗だらけの足りない者にも、神様は私を憐れみの恵の見本としてくださっている。どうかこの私を見て、どうかあなた方も、内なる人が強くされるように。換言すれば、パウロは今日の私たちに、16節で、この礼拝に集っている、またこの教会に関わる人たちに、どうか内なる人が強くされますようにと祈っているのです。

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そして、3:17信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。
 同じ家族、異邦人も同じ家族の中ある。以前のパウロたちにとって異邦人を受け入れるということは、信じられないぐらい相容れぬことであった。けれども神様の恵によってその先入観が砕かれて、実は同じ私たちの父の家族なんですよと言います。
 そして、
3:17信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせ。
 私たちは、内にいるキリストが栄光の望みであることを知っています。で、恐らくこのことを聞いて、うんうんと、多くの方々は、私も含めてですけれども、うなずいてくださるはずです。たしかに罪の赦しのある十字架を信じる者が新しく生まれ変わるというその経験を持った時にキリストのいのちが私の内に与えられている。確かに信仰によって心の内にキリストが住まわれている。この内住のキリストを、果たして私たちはどれだけ自覚しているだろうか。実は、きょうは、そこをポイントとしてお話をしたいと思っております。

 信仰によってキリストに心の内に住んでいただく。皆さんが納得して肯いておられるはずのことですが、これをさらに豊かに知ることができるように、キリストの愛がさらに満ちみちるようにとパウロは祈り、最後はもう頌栄、祝祷のような祈りになっています。どうかこのことがあなた方によくわかるようにとパウロは祈っています。

 この祈りということを、きょう残るとき、証しをさせていただきたいと思うのです。
 この教会が毎年出しております証し集「葡萄の樹」発刊の時期となりました。
私にとって、去年のできごと、そして今年はまだ年が明けて数か月。3月になったばかりですが、これまでの1年を振り返るときに、非常に教えられることの多かった年でありました。
 内住のキリストが心に住まっていてくださるということが、ただ頭だけの理解ではなく、現実問題に直面したときに、どういう意味を持っているのかを教えられました。記録に留めておくべきと思いました。

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 キリストが内に住んでくださることをいちばん深く感じたのは、ある手術に立ちあった8時間でありました。試されたのは、いったい私の信仰って何なのだろう。そこに怖れがある。怖れがなにかというと、もうどうしようもないという感覚でした。ただそれは手術を数分後に控えた方の、或いは未知なるものへの、或いは、そこにいて待つもののつぶれそうな孤独とも違ったものでした。しているうちに、はたとその方の直面している死をきちんと受け入れよう、そして主にすべてを委ねて死というものを真っ向から受け容れたときに、それまであった怖れから解放されておりました。「我生くれば汝らも生くべければなり」、文語訳になりますけれども、この聖言がストンと心に落ちました。「我生くれば汝らも生くべければなり」、これに集約されております。これが大きな支えになりました。

 3:17信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせる。
 「「我生くれば汝らも生くべければなり」
 これです。「内住のキリスト、栄光の望み」。これこそをパウロが伝えたく願っている。
3:18すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、 3:19人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
 これがパウロの祈りです。

 心のうちに与えられている信仰の実質が何であるのか、どうかそのことを確かめて、そして握りしめていただきたい。聖霊がキリストが信仰によって心に宿っているということはこういうことなのだと納得していただくために、今日のメッセージが皆さまの参考に、励ましになればと願うことであります。

 

※説教は筆者がICレコーダーから起こし、できるだけ内容に忠実に書かせていただいております。画像は教会からお借りしております。

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更新8時16分

J-MERO

番組予告を見ないでいたが、きょうのゲストはBALLISTIK BOYZ from EXILE TRIBE、家入レオ、SKE48。前にも書いている。
見直してみて、レオはやはり才能があるなと。作曲、人の意見も容れてたくさんのパワー―を使ったものの方が多くに受け入れられるという。これは前にも書いたことだが。聴いていて、曲も歌詞もうまいな! と思う。「これから持ち続けていくのはきれいなもの、そこに行きつくまでは憎んだり…」と。BALLISTIK BOYZ from EXILE TRIBEの「正解なんてない、でも間違いじゃない」「教科書にない答えは、この手この足でさがしに行こう」、悪くない。

 

⛳番組、観ることは観たが、ブログ更新をすっかり忘れていた。朝食を済ませ、ニュースを観、「おしん」を観、後片付けをしてからやっと思い出し更新。ただいま8時16分。

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20320クラシック倶楽部を聴く

音楽は翼に乗って 宮田大(チェロ)×大萩康司(ギター)
2020210日 所沢航空発祥記念館

 

☆「映画「ロシュフォールの恋人たち」から「キャラバンの到着」」ミシェル・ルグラン:作曲、角田 隆太:編曲
☆「マルコとジーナのテーマ」久石 譲:作曲、角田 隆太:編曲
☆「翼」武満 徹:作曲、福田 進一:編曲
(ギターのみ)
☆「ギターとチェロのためのソナタ」ハダメス・ニャタリ:作曲
☆「ブエノスアイレスの秋」アストル・ピアソラ:作曲、角田 隆太:編曲
☆「ブエノスアイレスの冬」アストル・ピアソラ:作曲、角田 隆太:編曲
☆「天の三羽の美しい鳥」モーリス・ラヴェル:作曲、大萩 康司:編曲
☆「鳥の歌」カタルーニャ民謡:作曲、パブロ・カザルス:編曲
(チェロのみ)
☆「オブリヴィオン」アストル・ピアソラ:作曲、つのだ たかし:編曲

🎵所沢航空発祥記念館での収録。新型コロナで記念館が3月いっぱい休館にはいるまえの2月に収録したようだ。航空機とギター&チェロ、その狙いは。
これまで古民家との、富士山とのコラボを見せてもらっているが、どちらも記憶に鮮やか。先ずは日本初のアンリ・フォルマンの展示を背景に「キャラバンの到着」、到着したキャラバンの期待の興奮とざわめき。これが飛び立つ直前のそれに通じるものがあるのか。大萩は飛行機の動きを想像しての事か、その前に静止して演奏する不思議な感覚を語り、宮田は小学校まではパイロットになりたかったと。「マルコとジーナ」でゆうゆうと空を飛ぶ。このお二人、演奏中に顔を合わせることはないが、音と雰囲気で互いを確認し合っているのだなとコメントから類推。武満も空となれば翼で心を解放。物思いも載せて楽曲ヒコーキ。白い機体にオレンジの尾翼、胴体にはびしっと横線もようの856を背景にハダメス・ニャタリ。タンゴのエッセンス詰まる「ブエノスアイレスの秋・冬」この背景もアンリ・フォルマン。いつになく心に沁みる「鳥の歌」。「オブリヴィオン」とは「忘却」を意味するとか。
 音楽家が教会や宮廷に招かれるとそれ相応に能力を、創造意欲をかきたてられるものらしいけれども、こういった設定もまた凡人には及ばない何等かを演奏に付加するものかもしれない。航空機発達の時間空間をギターとチェロの響きで悠々と飛びかけた感じが。

 

🎧名曲アルバム 「ボレロ」ラヴェル作曲
【指揮】渡邊一正,【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団

⛳6時に番組を見終えて、茶も淹れ、片手間に食事したくもしながら、残り時間でパソを開け、ボレロも書きたいけれども、リンクも繋ぎたいけれどもやりのこし、やや競技感覚で6時55分更新。

 

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20319クラシック倶楽部を聴く

カルテット・アマービレ 演奏会
ハクジュホール

☆弦楽四重奏のための緩徐楽章」ウェーベルン:作曲
(演奏)カルテット・アマービレ
☆「弦楽六重奏曲 第1番 変ロ長調 作品18」ブラームス:作曲
(演奏)カルテット・アマービレ、(ビオラ)磯村和英、(チェロ)堤剛

🎵
ヴェーベルン、あまりというより、これまで聴いたことがなかったが、前衛音楽に強い影響を与えた作曲家なようだ。このヴェーベルンの曲は1905年に作曲されたにもかかわらず生前には出版されず、やっと研究者によって見出され公開され出版され、1962年になってからやっと初演されたという。ブラームスの六重奏の第2楽章、有無をいわさずに入ってくる。恩師の磯村、堤と全員20代のアマービレの演奏のすがた、音楽を伝えてくれた方々と、伝えられた方々が同じステージを踏むという姿に。国際コンクールへのサジェスチョンは磯村であったようだ。

 

🎧名曲アルバム 「アダージェット」マーラー作曲
【管弦楽】NHK交響楽団,【指揮】広上淳一

🎵退廃色も濃かった時代のベネチア、しかし、さまざまな芸術家たちが訪れ、創作のインスピレーションを。

⛳6時44分急ぎ更新

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20/3/18クラシック倶楽部を聴く

アロド弦楽四重奏団 演奏会
20171214日 王子ホール

ジョルダン・ヴィクトリア(ヴァイオリン)
アレクサンドル・ヴ(ヴァイオリン)
コランタン・アパレイー(ヴィオラ)
サミー・ラシド(チェロ)

☆「弦楽四重奏曲 ニ短調 K.421 から 第1楽章 第4楽章」モーツァルト:作曲
☆「弦楽四重奏曲 第2番 イ短調 作品13」メンデルスゾーン:作曲

🎵ヴィオラがふつうよりちょっと大きめに見えたが、アパレイー、ヴィオラは音に膨らみを持たせる変幻自在のカメレオンだと。チェロのラシドが、弦楽四重奏は作曲家にとっても非常に難しい、哲学的でメッセージが複雑で難解なので避けられがちであるが、最後には何と美しい音楽!と感動を与えるのだと。
2016年にミュンヘン国際音楽コンクールで優勝しているから、この年はその翌年でもあり、意欲的であり、覇気があり、気概に満ちた響きがある。メンデルスゾーンの方、第4楽章、冒頭の緊張感でぎゅっと聴く者を牽引し、最後に潮曳くごとくに鳴りを遠ざからせ、その景観をさえも視界から消しその余韻を音の消えた後に無言で追想。ただ一つ残念なのは観客の拍手が、これでは足りない! もっと彼らの演奏を祝福し、先々に期待してエールの拍手を送るべき!演奏家にやる気を起こさせる大きな要素の一つが聴衆の拍手喝采であろう。

🎧名曲アルバム 「悲しみのゴンドラ」リスト作曲
【ピアノ】近藤嘉宏

あの偉大なワーグナー、ベネチアで没し、ゴンドラで鉄道駅まで運ばれている。その時間は果たして何時ごろであったろう。夕映えがワーグナーの棺を照らし包み送ってくれたかどうか。たぶんその後の故郷までの道のりを考えると、ゴンドラに乗せられたのは朝のうちであったのかもなどと勝手な想像を。

⛳けさも屋根屋根には雪。すぐにはかなく解けるものを。
クラシック倶楽部を聴いていると、室内楽しか聴かないかと思われるかもしれないけれども、実は日中は交響曲しか聴かない。室内楽を良く知らないので室内楽を聴くようになり、いまではむしろこの番組から多くを教わることになっている。
6時35分更新。

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20/3/17クラシック倶楽部を聴く

チョン・キョンファ バイオリン・リサイタル Ⅱ
(ピアノ)ケヴィン・ケナー
東京オペラシティ コンサートホール(201865日)

 

☆「バイオリン・ソナタ 第1番 イ長調 作品13」フォーレ:作曲
☆「バイオリン・ソナタ 第3番 ニ短調 作品108」ブラームス:作曲
☆「美しい夕暮れ」ドビュッシー:作曲、ハイフェッツ:編曲

🎵ケナーと組んで8年というキョンファ。フォーレは音楽で自由に対話ができる曲として選ばれている。「この自由を得た今こそ私たちの音楽の始まりね」とキョンファ。事実、第一楽章で、これはこうでしょ、ああそうだね、とバイオリンとピアノの語らいが。そこに「音の対話ができるようこの曲に集中しようと取組んだ」といった解説が。この番組では、これはなぜかと思っていると、疑問に対する答えをすっと流してくれる。また、たぶんこうだろうと思っているところにそれを得心できる事柄をタイムリーに出してくれる。それが一つの楽しみでもあるのだが。2楽章の“揺れ”の旋律に、キョンファはケナーの弾くショパンの「舟歌」に心魅かれており、この曲の揺れがそれを思わせることで選曲したのだと。3楽章ではキョンファがよってもって立っているこの音楽、バイオリンの響き、彼女の内なるものに筆者なりの思いが到ったところで、ぐっとくるものがあり涙が出た。それに4楽章、というよりすべてを通じて、70歳節目の演奏であるという若くエネルギッシュなキョンファの独自な境地は羨望だ。
 キョンファは「楽器には命が宿っている」、特に「ガルネリ」は人間に近いという
ブラームスの第3番、キョンファがこれを初めて弾いたのは16歳のとき。今はこの曲にハンガリー舞曲の影響を見、今はハンガリーらしさを全面に押し出しているというが、何と、この曲の自分の演奏に「昨晩納得した」というのだ。それは201664日ということになるのだが、キョンファにとって新しい発見のあったたぶん最も新しい曲ということに。
 キョンファを聴きながら、演奏者というものは、弾き込んでいくうちについには作曲者の魂に接近し、作曲者の魂に接触して、作曲者の魂に共振するといったものかもしれない。ここでは楽器同士の対話を超えて、曲そのもの、作曲者との語らいの方を強く感じさせられた。

🎧名曲アルバム 「“音楽のささげもの”から6声のリチェルカーレ」バッハ
【フラウト・トラヴェルソ】有田正広,【バロック・バイオリン】パウル・エレラ,【バロック・ビオラ】戸田薫,【ヴィオラ・ダ・ガンバ】中野哲也,【チェンバロ】有田千代子

🎵古楽の響き。バッハ62歳でポツダムの宮廷へ招かれる。フリードリヒ2世はフルートを弾いたそう。この王に捧げられたバッハの集大成である6声のリチェルカーレ、この王の主題以外は王の理解を超えていたと。この曲には謎が多いとはどんな謎であるのかが気になるけれども。

⛳チンダル現象、雲への、天への階段を望みながら6時51分更新。

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20/3/15クラシック倶楽部を聴く

チョン・キョンファ バイオリン・リサイタル Ⅰ
(ピアノ)ケヴィン・ケナー
東京オペラシティ コンサートホール(201865日)

 

☆「ヴォカリーズ」ラフマニノフ:作曲
☆「シャコンヌ」バッハ:作曲
☆「バイオリン・ソナタ イ長調」フランク:作曲

🎵もう体力はなく昔のような演奏はできないというキョンファ。2005年には人差し指が故障。しかしやはりキョンファはキョンファ。このようなときにキョンファの心をとらえたのが他の曲ではなくバッハの「シャコンヌ」、沈思黙考の末に生まれ出たシャコンヌはすばらしい。頭だけで和声をとらえ頭だけで流れをつくったという。音の高低、強弱、緩急の間合いを彩る響きには、もの思いを含んだ空気の集合体が感じられ、闇を照らし切り開き、人を、気配を、それこそ彼女が壁をも聴衆だと思って練習したことがあるというその壁をさえも呼び覚ます力が宿っている。

キョンファは、「無」の境地など馬鹿馬鹿しいと思っていた時期があるという。しかし今は「無」の境地になることにこそ自由がある、自由になれるのだと語っているが、フランクの「バイオリン・ソナタ」、キョンファがこれぞ人生という第14楽章、その旋律は力強く、きょうの元気をくれた。

 

🎧名曲アルバム 「ディヴェルティメント K137」モーツァルト
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団,【指揮】大友直人

🎵モーツァルトの旅、この映像では2頭立ての二人乗りの馬車。マルティーニ神父に見出され音楽アカデミーに合格。判定の「良」は「可」もなく「不可」もなしというレベルだったとどこぞのネットで見た気が。

⛳けさは一転雪景色。すぐ解けるのだろうけれども、きのうの陽気は鳴りを潜めて。6時50分更新。

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きょうのことば

インマヌエル盛岡キリスト教会2020年3月8日()の礼拝メッセージをお伝えいたします。
國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は46年にわたって岩手で主のご奉仕をしておられます。

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説教題 『最も小さな私に』(國光勝美牧師)
新約聖書 エペソ人への手紙 第3章1~7節

3:8すべての聖徒たちのうちで最も小さな私に、この恵みが与えられたのは、キリストの測り知れない富を、福音として異邦人に宣べ伝えるためであり、 3:9また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現がどのようなものなのかをすべての人に明らかにするためです。 3:10これは、今、天上にある支配と権威に、教会を通して神のきわめて豊かな知恵がしらされるためであり、 3:11私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた、永遠のご計画によるものです。 3:12私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができるます。 3:13ですから、私があなたがたのために苦難にあっていることで、落胆することのないようお願いします。私が受けている苦難は、あなたがたの栄光なのです。

 

<説教>

 きょうお話しするエペソ人への手紙38節に関わるところですけれども、エペソ人への手紙33節には「奥義が啓示によって私に知らされました」とあります。この3節と8節とは大切な関連があります。「啓示」とは「世々にわたって隠されていた神の霊的真理が人々に現わされ聖霊の力によって明らかにされる神の行為」であります。神様が覆いを取り除いてくださるそれは何かというと十字架の福音、キリストの「奥義」であります。これが私に啓示されたのだとパウロは3節で言っているわけです。そしてまたこれはパウロだけではありません。福音とは何か、それはエペソ人への手紙だけではなく、ヨハネも神様から奥義が啓示されています。それは、「神が愛である」という事実。特に第一ヨハネ49節「4:9神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。」

 私たちが当然のこととして受けている、これは奥義であって、他の生まれ変わりの経験のない人たちには何のことかわからない。日本語として理解はできているかもしれませんけれども、何をいっているのかが全然わからない。また別の表現をするならば、生まれ変わりの経験をしていない人がよくわかるような話は福音ではないとも言えるという類のものなのです。生まれ変わりの経験をした人ならば、うんうんとすぐにわかる。それを経験していない人にとっては、キリストの十字架、それは愚かな事、分からない事、復活の話しもまったく理解できない、けれども生まれ変わっている私たちにはアーメンと心から肯ける、それが救われている私たちの、霊の現れている者の特質であります。

ローマ人への手紙5章68
実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

 私たちは聖霊によって覚醒し、自分が罪びとであるという認罪をし、このままではいけないということを知って悔い改め、そしてイエス様を信じ救われることができます。

 ルカの福音書15章にあるあの放蕩息子のたとえばなしを思い出してください。
 お父さんのもと、つまり神様の家から離れてしまったあの放蕩息子が、落ちるところまで落ちてしまいます。そうなってやっと、この息子は、私の父の家には食べ物があり余っているし使用人がいっぱいいると父の家がどんなに良かったかに気づく。なのに自分勝手にお父さんのところから出てきてしまった。お父さんの愛をみとめようともせずに自分勝手に家を出てきてしまった。もう息子と呼ばれる価値はない。使用人の一人としてもらおう。そして彼はお父さんのもとに帰ってきます。そのときお父さんが走り寄って、彼を迎え入れてくださった、あの放蕩息子、私にたいする神の愛、これはまさに自分自身の経験そのものであります。そしていよいよ8節、今日のポイントに入っていきたいと思います。

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第一コリント159節をご覧ください。

15:9私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。

 エペソ38節に、「すべての聖徒たちのうちで最も小さな私に」とパウロは言います。自分は最も小さい者なのだ、なぜそう自覚しているのか。第一コリント159節にあるように、自分は神の教会を迫害した者なのだという悔いがある。私はこのパウロの回心を見るとき、自分がどんな大きな罪を犯してしまった者であるのか。しかし、神様はこんな私を赦して使徒として任命してくださったことを一層覚えます。何という恵みでしょうか。

第一コリントの15章、

15:9私は使徒の中では最も小さい者である。神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。15:10ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。

 私たちが、かつてはこのような者であったと知らされるとき、非常に危ない経験をします。何かというと、悪魔がやってきて、お前はかつてこんなことをやっただろう、俺は全部知っている、何を隠そうとしたって俺は知ってるよと悪魔は言ってくる。そして悪魔がやってくるのは、知っているよ、お前は滅びなければならない。クリスチャンはまじめな人が多いですから、ああやっぱり私はダメな者なんだと卑下してしまう。それがまた悪魔の手段になって、そうだろ、どんなに良いことしたってあなたはダメなんだ。神様の赦しがあると聖書では知っている私たちですけれども、ダメだ、私はもうこんな罪を犯してしまっているからとそう思い込んでしまう。真理を伝えようとする時に、悪魔にあれこれを握られてしまうときに、私たちはもう滅びるほかはないと思い込んでしまう、そういう危機に陥る。

しかし、同じく私たちの本質をさらし出すとしても、光の中にあってそれを握って下さるお方が聖霊なる神様であるときには、「そう、あなたは確かにそうだ、だけれどもそのあなたを赦して救ってくださるのが神様の恵である」と、神様の恵の方にぐっと心を向けさせてくださいます。 

エペソ3章に入りましょう。

3:8すべての聖徒たちのうちで最も小さな私に、この恵みが与えられた

 測り知れない神様の恵の福音、赦しの福音、私はこれを経験している。私は赦された罪びとなのだ。パウロはこれをキリストによって神の奥義が示され、こんな者が赦されたのだと言うのです。ここに彼のすべてが集約されているといって過言ではありません。このことは皆さま方もよくご存んじでしょう。

せっかくここを学んでおりますので、じゃ、パウロという人がどうしてこのように変えられたのかを、おことばから見てきょうの御用を締めくくらせていただきたいと思います。

使徒の働き758

7:58そして彼を町の外に追い出して、石を投げつけた。証人たちは、自分たちの上着をサウロという青年の足もとに置いた。

 さらっと書いてありますが、これがどういう場面なのか。ステパノという人がイエスこそまことの救い主である、私たちが待ち望んでいたメシアであるということを実に的確に論証していきました。

使徒の働きの754

7:54人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりしていた。 7:55しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、 7:56「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」と言った。

 ステパノにはほんとうに啓示、そして奥義が現わされていたのです。

7:57人々は大声で叫びながら、耳をおおい、一斉にステパノに向かって殺到した。

 当時の記録、死刑の方法を見ますと、石打の刑は、私の読んだ資料の中では、有罪とする証人は少なくとも二人以上はいなければならない、或いは3人。ほんとうに神を穢すことを言っていると証しする者がいるなら、それは神を冒涜する者として、石で殺さなければならなかった。石打の刑にされる者を23メートルある崖の下に拘束して、まず最初に証人たちがひと抱えもある石を投げつける。それに続いて他の者たちも思い思いに石を投げて殺す。これが石打ちの刑といわれるものでした。証人たちは自分たちの上着をサウロという青年の足元に置いた。サウロはまさにステパノを打ち殺すその側にいてそれをよしとした人物でした。

 使徒の働き8章にあります。
8:1サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。 8:2敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のためにたいへん悲しんだ。 8:3サウロは家から家に押し入って、教会を荒らし、家々にはいって、男も女も引きずり出して、牢に入れた。

 新改訳2017の訳を見ながら、今までもここは何回も読んでいる場所ではあるのですけれども考えさせられました。家から家へ押し入って教会を荒らし、この教会というのは十字架がついている今の会堂のイメージではなく、イエス様を信じている者たちが集まっている家のことであり、ここでやっている、ここでよからぬことをやっている、と男も女も引きずり出して牢に入れた。サウロは、その時点では、ほんとうに自分が正しいことをやっているのだ、あのガリラヤの漁師たち、十分に学んだこともないような連中が、イエスキリストがよみがえったなどと言って人々を惑わしている。殊にもステパノの説教を聞いたパウロは、もう絶対に放置してはおけないという使命感から、次つぎに迫害をしていたわけなのです。使徒の働き9章にあるとおりです。

9:1さて、サウロは、なおも主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻き、大祭司のところに行って、 9:2ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道の者であれば男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。

 パウロのこのような事実が聖書に記されております。これを読んだだけでもパウロという人物がどれほどの大きな過ちを犯したかがわかるでしょう。
 私は知らなかった。知らなかったけれども私が犯してしまったことはなんという大きな過ちだったであろうか。

 

第一テモテ1:13
1:13私は以前は、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。 1:14私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、満ちあふれました。 1:15「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた。」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

 パウロは、自分が知らないで行ったことはもう神に赦されたから、もうそれは過去のことだといって、それを忘れ去ってしまったでしょうか。そうではない。彼は折りあるごとに、私はかつてこういうことをしたと、過去にしたことをしっかりと受け留めたうえで、このような者に神様がどんなに憐れみ深くしてくださったのかを証しする者になったのです。まさに、パウロは、恵みの見本、恵みのサンプルが私なのだと、このように述べているところであります。

エペソ389にパウロのことばが記されております。
3:8すべての聖徒たちのうちで最も小さな私に、この恵みが与えられたのは、キリストの測り知れない富を福音として異邦人に宣べ伝えるためであり、 3:9また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現がどのようなものなのかを、すべての人に明らかにするためです。

 

※この説教は、ICレコーダーに記録したものを筆者が起こし、若干編集させていただいております。
画像は教会からお借りしています。

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雑感

J-MERO

ゲスト:大森靖子&flumpool

こういった曲が支持される社会背景に思いが至った。幾とおりもの若者像。こんなんだけど共感して! 誰か見てちょうだい! そうだけど蹴散らさないでよ! 頑張る、+1めざしてがんばる、だから目を注いで! ぎりぎりの線で辛うじて息をつく若者、今を乗り越えよう一歩でも今を、そんな都会の片隅に、路上に、人ごみに、けっこう厳しい状況に生きる若者像が浮かんだ。  
あら、きょうはMay J、でないのかな、インフル? とちょっと心配になったところに、笑顔が。

⛳主人がいつもやっているラジオ英会話もきょうはなし。食事を早めに出さないと。6時28分更新 

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20/2/13クラシック倶楽部を聴く

小糸 恵 バッハ・オルガン作品演奏会
2020222日 いずみホール

☆「前奏曲とフーガ ハ長調 BWV545
☆「「心よりわれは求めん」BWV727
☆「前奏曲とフーガ ト短調 BWV535
☆「「おお人よ,おまえの罪に泣け」BWV622
☆「前奏曲 ハ短調 BWV546-1
☆「バイオリン・ソナタ 第3 BWV1016から第1楽章」
☆「「バビロン川のほとりで」BWV653
☆「トッカータとフーガ ニ短調 BWV538「ドリア調」」
☆「カンタータ 第106番「神の時」からソナチネ」

 

🎵すばらしかった!
小糸というこの素晴らしいバッハ研究家、演奏家が存在することを知らなかった。おおよその経歴はネット上にもあるけれども、コメント、小糸自身の声で聴くところの断片は、1985からバッハ世界にのめり込む。小糸の演奏は独創的なイマジネーションがある、それが小糸の研究の数ある成果のうちの一つでもあるのだろう。オルガンを調べているうちに、バッハをめぐる楽器ということだと思うが、イタリア、フランス、スペイン、ドイツを研究のためにあるく。このためにオルガン製作者と旅したこともあるようだ。どういう他の楽器の曲を創っていたかも研究対象。いまはオーボエダモーレやビオラダガンバを勉強しているという。ググってみたがオーボエダモーレが出てこない。何れこの楽器の学びが演奏に反映されればと願ってのことのよう。
「オランダ、古典的作品をレパートリーの柱とし、歴史的資料の研究に基づいた楽器の選択および演奏法で独自の演奏活動を展開しています。」とネットにあったが、今回使用の大阪いずみホールの使用が小糸の選択であったかどうかは分からない。
いつも思うのだが、パイプオルガンは一つの緻密な建造物であり、まるで澄明な息を吸い込んで神の思惑や人の喜怒哀楽、感情のすべての音の表現を息となす巨大な、音の世界の巨大な生き物であると。今回の映像、パイルオルガンのその壮大さ、質感に迫るすばらしさ、小糸の間近からの表情、指使い、足使い、譜面の書き込み、小糸の頭上に聳えるかに連なるパイプ、観客席とオルガンとの一体感、オルガンの壮麗さ、一場面一場面に味わい深さがあった。
低音のモチーフ、フーガの重なり、727の心静まる響き、ブクステフーデの影響旋律。622のコラール旋律由来のフレーズ、小糸編曲による1016第一楽章、653の平安、特に538の緊張感ある典雅な響きと、アンコール「神の時」、すべてが興味深かった!ずっとカメラで撮らなかったが、TV画面ではあるけれども、カメラを取り出し写真に。このブログの写真容量が直ぐに満杯になるのでアップはしないが、自分の楽しみとして保存。

 

🎧名曲アルバム 「別れの曲」ショパン
【ピアノ】小山実稚恵

 

🎵けさは小山さん。ショパンはミサが終わっても即興が溢れ続け、神父に止められたことも。ポーランドの地に生まれた者は世界のどこかで名を馳せるという。

⛳けさは、というよりも20年2月22日のいずみホールのパイプオルガンがどんなに喜んだことか! 6時50分。ようよう明るい朝の日差しが。

 

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20/3/12クラシック倶楽部を聴く

津田裕也 ピアノ・リサイタル
2017
1117日 ハクジュホール

メンデルスゾーン

☆「「無言歌」から 甘い思い出 作品19 1
☆「「無言歌」から 後悔 作品19 2
☆「「無言歌」から 狩りの歌 作品19 3
☆「「無言歌」から ないしょ話 作品19 4
☆「「無言歌」から ベネチアの舟歌 作品19 6
☆「「無言歌」から 慰め 作品30 3
☆「「無言歌」から ベネチアの舟歌 作品30 6
☆「「無言歌」から 失われた幸福 作品38 2
☆「「無言歌」から 情熱 作品38 5
☆「「無言歌」から デュエット 作品38 6
☆「「無言歌」から 浜辺で 作品53 1
☆「「無言歌」から 胸さわぎ 作品53 3
☆「「無言歌」から 五月のそよかぜ 作品62 1
☆「「無言歌」から ベネチアの舟歌 作品62 5
☆「「無言歌」から 春の歌 作品62 6
☆「「無言歌」から 失われた幻影 作品67 2
☆「「無言歌」から 紡ぎ歌 作品67 4

🎵後半の視聴。今週の番組は何回目かの放送。最初から聴きたかったけれども。一曲一曲に教えられながら。

🎧名曲アルバム
「トロルハウゲンの婚礼の日」グリーグ作曲
【ピアノ】田部京子

🎵グリーグ、銀婚式に友人たちから送られたピアノでよくこの曲を好んで弾いたのだとか。

⛳6時21分更新

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東日本大震災の日、20/3/11にクラシック倶楽部を聴く

アンリ・バルダ ピアノ・リサイタル
2017
118日 東京文化会館 小ホール 

バッハの曲
☆「平均律クラヴィーア曲集第1巻から 第1番 ハ長調 BWV846
☆「平均律クラヴィーア曲集第1巻から 第8番 変ホ短調 BWV853
☆「平均律クラヴィーア曲集第1巻から 第4番 嬰ハ短調 BWV849
☆「平均律クラヴィーア曲集第1巻から 第19番 イ長調 BWV864
☆「平均律クラヴィーア曲集第1巻から 第20番 イ短調 BWV865
シューベルトの曲
☆「4つの即興曲 作品142から 第1曲 ヘ短調」
☆「4つの即興曲 作品142から 第2曲 変イ長調」
☆「4つの即興曲 作品142から 第3曲 変ロ長調」
☆「4つの即興曲 作品142から 第4曲 ヘ短調」

🎵音楽を聴くときに、ここから何か一つを発見しよう、そう多くなくてもよい一つをと曲を探検するように聴いているところがあるが、それはほんとうに音楽に接する態度ではないなと、バルダは気づかせてくれた。彼の「平均律クラヴィーア曲集第1巻から」の5曲、「深く多彩な感情表現」との解説に得心しつつ、流麗さをも。シューベルト、「4つの即興曲」からの4曲、虚心に音の世界に遊び寛げる演奏。素直な心持にさせてくれる。加齢のためかいよいよ意固地にもなりつつあるが解放されたときを持つことができた。 

🎧名曲アルバム
「悲しみのゴンドラ」リスト作曲
【ピアノ】近藤嘉宏 

🎵ヴェネチアにはリストとワーグナーが最晩年に滞在している。リストはワーグナーの死を予感していただろうと。フェニーチェ劇場がワーグナー最後のステージと。このフェニーチェ劇場は世界で一番優雅で美しい劇場といわれたようだが、19961月に突然火災の為に消失。出火原因は電気系統の事故と発表されたが、放火された疑いもあるとか。
リストのワーグナーへの死の予感のみならず自らの死をも重ねているかの旋律の重たさ。

⛳きょうは雨かくもり予報。灰色の雲がいつもの日の出のところに寡黙に陣を張っている。けれどそれが暗くは感じられないのは、ピアノの力か神の恩寵か。震災からはや9年。6時30分更新。
 

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20/3/10クラシック倶楽部を聴く

ピアニスト 賀集裕子の世界
20171113日 自由学園 明日館(豊島区 西池袋)


☆「オルフェオのメヌエット」グルック:作曲、サン・サーンス:編曲
☆「マズルカ」ドビュッシー:作曲
☆「アラベスク ハ長調」シューマン:作曲
☆「トッカータ ホ短調 BWV914」バッハ:作曲
☆「詩曲 作品321」スクリャービン:作曲
☆「即興曲 第2番」フォーレ:作曲
☆「ノクターン 第6番 作品63」フォーレ:作曲
☆「月の光」ドビュッシー:作曲

🎵昨朝はメナヘム・プレスラーの「月の光」を聴き、きょうは 賀集裕子の「月の光」。それぞれの個性が際立った。賀集の演奏を、数か所回ったネットの頁である方が、「内なる声と対話しながらの演奏」とあったが、同感。賀集は193511日生まれ。昭和10年生まれだ。天野愛子、パウル・ショルツ、井口基成、井口愛子の諸氏に師事。みな懐かしい名前。経歴から、戦後の日本をピアノで、歌でメディアを通して明るくしてくれた音楽家であるのだ。励まされた方々は多いだろう。51年、第20回日本音楽コンクール第1位入賞。 56年、エリザベート王妃国際音楽コンクール入賞。その後の活躍は名だたるオケとの共演。労音にもと。賀集のこのような経歴を重ねてピアノを聴くと、その値が一層わかってくると思われた。この撮影はなかなか凝っている。暗がりと光、光を美しくまとう賀集とピアノの一体感。

 

🎧名曲アルバム

「パシフィック231」オネゲル
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団,【指揮】円光寺雅彦

 

🎵「パシフィック231」は、蒸気機関車車軸配置の名称。「パシフィック」はアメリカ式、「231」はフランス式でそれぞれ先輪2軸・動輪3軸・従輪1軸のもの(日本国鉄式では2C1)を表す。

前回、「パシフィック231」は機関車の名称と書いて、違ってはいないかと今回気になりwikipedia.で確かめてみると、以上のようであった。ただこの名曲アルバムの中で、これが説明されており、自分が何か考え事をしていたかで見落としてしまったようなのだ。よくあること。

⛳けさは何を考えていたか。さまざまとあるが、イワシ。鰯。左に魚、右に弱。イワシは弱いか。イワシは魚たちの基本の食物。イワシが激減したらどうなる…。あだやおろそかにはできぬイワシ。昔はイワシが嫌いだった。ところが今、新鮮なイワシがとてもおいしい。出ていないかなと思う。青くピカピカのイワシを魚コーナーで探している。誰ぞが立派に焼き上げた大きめの漆器に、大葉を、これも大きめの大葉をしいて、焼き上げたばかりのイワシをどうだとばかりに置いて、その脇には大根おろしをピラミッド状にと添えてみる。どうですイワシ様、お気に召しましたでしょうか、と言ってみたい気が。ここでレモンも付け足して。どうして音楽がイワシになるのか。音楽がイワシになったわけではなく、この欄を書こうとしたところで、昨朝のおかずだったイワシを思い出し、こうなっている。それでもカテゴリーは音楽。で、6時52分更新。

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20/3/9クラシック倶楽部を聴く

メナヘム・プレスラー ピアノ・リサイタル
20171016日 サントリーホール

 

☆「シャコンヌ」ヘンデル:作曲
☆「前奏曲集 第1巻から「デルフィの舞い姫たち」「帆」「亜麻色の髪の乙女」「沈める寺」「ミンストレル」」ドビュッシー:作曲
☆「マズルカ ロ短調 作品33 4」ショパン:作曲
☆「マズルカ 嬰ヘ短調 作品59 3」ショパン:作曲
☆「バラード第3番 変イ長調」ショパン:作曲
☆「月の光」ドビュッシー:作曲

🎵アンコールの「月の光」、彼の弾くドビュッシーはみなそうだけれども、透明度が増していき、それこそ月明かりが水の表面に静かにゆらめくばかりでなく、そこまでを静かにライトが底を無意識に探るように照らし出していく。「マズルカ」、音をそっと棚に置くかのその間合いにくっと来るのだ。ものがたり世界に引き入れてくれる繊細な響き。壮年のある意味のあざとさやダイナミズムからは遠く、彼の行きついたところの楽響が心地よい。サントリーホール満場のスタンディングオーベンション、プレスラー、温かな心からの祝福に包まれて左袖に。

 

🎧名曲アルバム
「ボレロ」ラヴェル
【指揮】渡邊一正,【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団

 

🎵熱狂へと駆り立て衝き動かすこの斬新なリズム。むしろ静かな目線で自らの底にある情念を追っているという感じが。ラヴェルは静かな環境を好み、モンフォール・ラモリに人生の後半を過ごしたというけれども、あのピアノ、ラヴェルが使ったというピアノのあの譜面台の高さが気になったけれども、あのピアノで紡がれる音は周りの風景と対局にあったのかどうか。


⛳7時には食事準備。きょうはチャウダーがある。焼いておいたイワシ3尾。ほうれんそうの煮びたしも。で、気楽に朝焼けを眺めている。植え替えたエニシダ、ベルケア、ヘリオプシス プリーディングハーツ、植え替えようにも根がびっしりでどうしてもフラワーポットから抜けない水色のアガバンサス。どうか順調に育って欲しいというよりも、手に余るほどに大きくはならず、元気で存在感を示してほしいと願いつつ、ブログは6時41分更新。

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きょうのことば

インマヌエル盛岡キリスト教会2020年3月1日()の礼拝メッセージをお伝えいたし

ます。

國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は46年にわたって岩手で主のご奉仕をしておられます。

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説教題 『キリストの奥義』(國光勝美牧師)
新約聖書 エペソ人への手紙 第3章1~7節

3:1こういうわけで、あなたがた異邦人のために、私パウロはキリスト・イエスの囚人となっています。 3:2あなたがたのために私に与えられた神の恵みの務めについては、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。 3:3先に短く書いたとおり、奥義が啓示によって私に知らされました。 3:4それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよく分かるはずです。 3:5この奥義は、前の時代には、今のように人の子らに知らされていませんでしたが、今は御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されています。 3:6それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。 3:7私は、神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、この福音に仕える者になりました。

 

<説教>

 先ずエペソ人への手紙が聖書中のどこにあるかを見ましょう。本棚に新約聖書と旧約聖書を並べております。大きく聖書は旧約聖書と新約聖書に分かれます。

 エペソ人への手紙は、新約聖書の本棚をご覧ください。

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 エペソ人への手紙は、獄中にあったパウロによってBC60年頃に書かれました。同じ時期に書かれたものに、ピレモンへの手紙があります。エペソ人への手紙は教会に宛てていますが、ピレモンへの手紙は個人宛です。
  本棚の下から3段目には、四福音書、使徒の働きといった歴史的なものがあり、またそれに対して特にパウロによって書かれたこの教会への手紙、それからテモテ、テトス、ピレモンというような個人へのお手紙があります。このエペソ人への手紙は教会への手紙、パウロによるお手紙です。新約聖書にはその他にヘブル人への手紙や最後に黙示録がありますが、このパウロ書簡の中にエペソ人への手紙があります。これがいつ頃書かれたかというと紀元後60年ぐらい。どこで書かれたかというと、パウロがローマの獄中にあって書いた。獄中書簡、或いは、捕えられているという意味で幽囚書簡とも呼ばれております。このときにパウロは、これまで自分が宣べ伝えている福音というものがどういうものであるのかを落ち着いて思い巡らし、それを書簡にするよい機会を得たわけであります。
 それから同じ時期に書かれたのがピレモン書、これは個人宛、そしてエペソ人への手紙などの教会宛。それぞれの地域にある教会の間で回覧板を回すように回して読んでもらいたいと書かれています。現代では聖書がいくらでも手に入りますが、昔は貴重なものとして回し読みをしておりました。
 エペソ、ピリピ、コロサイとありますが、コロサイと背景的には同じですけれども、福音というものを一層深く扱っているものがエペソ人への手紙です。エペソにはアルテミスの神殿などがあり偶像礼拝が盛んであり、特にパウロが気にかけていた地でありました。 

 きょうは特にエペソ人への手紙334、5節をしっかりと理解できたのなら、大切なところを捉えそこなうことはないと考えております。

 3:3先に短く書いたとおり、奥義が啓示によって私に知らされました。

 奥義が啓示によって私に知らされた。パウロは、それを伝えているわけです。「奥義」、「啓示」を正しく捉えることがたいせつになります。

 「啓示」とは、これが聖書事典によりますと「世々にわたって隠されていた神の霊的な真理が人々にあらわされ、聖霊の力によって明らかにされる神の行為である」とあります。執筆は朝比奈寛です。「隠されていた神の霊的な真理があらわされる」、ここに私は、隠されているその覆いをイメージしておりました。これがはっきりと私たちに明らかにされた霊的な真理、それを十字架の福音ということもできますし、或いはキリストの奥義であるともいうことができる。

3:4それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよく分かるはずです。

「奥義「が聖書の中でどのように使われているのか。聖書の奥義、キリストの奥義、敬虔の奥義などなど、色々な奥義が使われている。調べているうちにはっと気づかされたことがあります。この「奥義」というのは、つまるところ、「愛の奥義」と表現することができる。つまり世々にわたって隠されていたそれが私たちにあらわされたのは、「神は愛だから、愛のない者は神を知らない」。まさに覆われているわけです。そして覆われていたのがあらわになったものは何かというと、第一ヨハネ4章8、9節にあります。

48愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。49神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。

 キリストの奥義というのはまさしく神の愛である。その神の愛は何であるかというと、ひとり子を、イエス様を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださった。それによって私たちに神の愛が示されたというこのことであります。

 「啓示」された。なぜに。このことを思います時、何という恵みを神様からいただいたことでしょう! 多くの人たちには、このキリストの十字架の愛、神の愛というものが、まったく隠されてわからなくなっているのに、私たちの心の霊の覆いが神様の恵によってはずされてキリストの十字架の愛、神の愛、そしてそれはキリストの復活に希望がはっきりとあらわされている。この恵みに私たちは今浴している。

 それはたとえばペテロがイエス様を裏切ったときに、そのあとのイエス様のペテロに対する対応にもあらわれています。ペテロの裏切りはイスカリオテのユダの裏切りとは違っています。ペテロはその後悔い改めて、キリストの証人と変えられていくのですけれども、人々の裏切りにあって尚ペテロを愛し、そして十字架につけられている。その時、イエス様の十字架の右と左にも罪人が十字架につけられていました。このふたりは十字架刑が当然の報いだとしても、何も悪いことをしていなかったイエス様が黙ってもだす仔羊のように十字架に辱めを受けています。「父よ彼らをゆるしてください。彼らは自分が何をしているのかわからなおのです」。心からそのような執成しをする。十字架につけろ! 十字架につけろと、ユダヤの人たちは、自分たちが待ち望んでいたメシヤがまさしくこのお方であるのにもかかわらず、このお方をののしり蔑み、拒絶して十字架につけろ! と叫んだ。木につけられた者は神に呪われた者だ、それを彼らは十分に知っていた。ローマの人たちが最も残虐な刑として十字架を選んだのは当然です。イエス様は呪われた者として十字架におつきになった。イザヤにも預言されている。律法による裁きをいえす・キリストが全部引き受けてくださったのです。私たちは律法の呪いの中にあったのです。その律法を一つも犯すことのなかったただひとりのお方が、私たちに代って律法の裁きをご自分がぜんぶ引き受けてくださってくださった。これらのことがキリストの奥義なのです。他の人たちには決してわからない。イエス様が本当に死んだかどうかローマ兵が槍で突き刺します。水と血があふれ出た。これはゼカリヤ書13章に預言されております。

ゼカリヤ13章1節その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉がが開かれる。

 十字架で槍で刺されたお方のそこから流れ出た血こそその罪をきよめる泉であります。これらの聖書の福音の奥義が、私たち何によってわかったのか。ローマ人への手紙58節をお開きください。

しかし、私たちがまだ罪びとあった時、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

 神に背いていた罪人であったときに、神に背いていた私たちのために死なれたことによって、神が私たちへの愛を明らかにしておられる。ここに十字架に示された神の愛、キリストの奥義を見ることができます。

 

 お話しを締めくくりたいと思います。私に対する愛。いままでキリストわれらのために、しかし、いちばんたいせつなことは、私に対する神の愛があらわれたということです。

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 ある時、ご聖霊様が私たちに、ほんとうにこのままでいいのか、あなたのほんとうのすがたはどうだと問いかけられます。

 きょうは31日、私の誕生日でもありますので、ちょっと個人的なあかしで締めくくらせていただきます。
クリスチャンになりたてだった頃、伝道しようと思って友人のところに行き、その友人に「そうか、まあ一杯飲め」と勧められ、断り切れずに飲んでしまい、担がれて彼の下宿に運ばれたことがあります。翌日、お茶の水キリスト教会館に出向いて悔い改めたという苦い経験がありますが、それをも神様の赦されて、それから伝道者として歩んでまいりました。きのうその友人からの誕生日祝いのメールにそのことが書いてございました。

 何れ、悔い改めた時点があって、こうして神の愛を体験しており、いまだその中にあります。信仰を持った時点があり、神の国を見ることが出来るのです。もういちどエペソ人への手紙にベースを置きながら歩んで行きたく願っております。

 

※画像は教会からお借りしたものです。

 

 

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J-MEROをちょっと

J-MERO
ゲスト:MONKEY MAJIK

🎵インタビューと紹介された3曲を聴いて、ボランティア、人々との交流という裏打ちのある作詞、作曲。「確かなことなど誰にも分らないから…どんなことが起こるだろう…やがて僕らが描き出したあすへと」。そしてタイトル「Golden Road」では「正直にただ馬鹿正直に」、いまや死語とさえ思っていたこのことばがやけに光って。ふつうであることの尊さがこの歌で輝きはじめる。3・11以降立て続く災害、新型コロナ、原発処理問題など、加えていまは経済の低迷、危機にさらされる弱小企業、サービス業は、まさしく彼らいう「驚いて怯えて身動きができない鹿のよう」な状況にある。「もっとも苦しいとき、どん底にいるときでも、力を合わせれば立ち上がって歩ける」、この歌のやさしさに癒される。モンキーマジック、18年に石巻に桜を植えていた。間もなく咲く桜。筆者の友人も新型コロナに比較的近い地点で暮らしているのだが、「私は桜が咲くのを楽しみにします」と。植えられた桜は避難の目印のためといっていたが、間もなく咲いてくれるだろう。日常をていねいに積み重ねること、それがゴールデン・ロードであるのだ。慰め、癒し、後押しの曲を聴いた気分。May J・ こんどのヘアスタイルもフレッシュ、よくお似合いです!

⛳いましがた眩い朝の光が。すばらしい一日の到来。6時44分更新。

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20/3/6クラシック倶楽部を聴く

クラシック倶楽部 藤倉大 個展
2018
1020日 ハクジュホール 

作曲・オール藤倉大

☆「NEO(音緒)~三味線のための~」
(三味線)本條 秀慈郎
☆「きいて~ソプラノのための~」
(ソプラノ)小林 紗羅
☆「GO~ピアノと管楽のための~ から 第5楽章」
(クラリネット)吉田 誠
「ゆらゆら~ホルンと弦楽四重奏のための~」
(ホルン)福川 伸陽、(弦楽四重奏)カルテット・アマービレ
☆「Osm(オズム)~チェロのための~」
(チェロ)新倉 瞳
☆「チャンス・モンスーン~ギターのための~」
(ギター)村治 奏一
☆「はらはら~ホルンのための~」
(ホルン)福川 伸陽

🎵リスナーのその時々の心境によって曲の価値は変わらないながら受け止め方には違いがある場合も。意外性に富んでいる。凡そこの音から曲想が湧くとは思われない音から旋律が連なり出ていたり、時としては狐につままれた気分に迷いこませられもする。前にはただただその独創性に驚かされた。そして今回聴いてみて、斬新さを肯かせられるものの、またこの曲を聴きたいと思うかといえば、自分には特異すぎて理解が届かない、消化しきれないという思いが。

藤倉にはこの18年時点でこどもが7歳。作曲はこの7歳の子どもが遊んでいるのと同じなのだという。すらすらと容易く出てくるようだ。いわゆる通勤ということもなく、自宅での“仕事”が許されており、学生たちは学びたいときには家にやってくる。待たせてもそれが藤倉流。芸術家に相応しく自由の利く身分保障が与えられている。
今回は、「Osm(オズム)~チェロのための~」、これはジャン・ギアン・ケラスが東京で初演。異次元を縦横斜めにと冒険し時としては逸脱するかにも感じられ、けっこうな重量感も。じっくりと面白く聴いた。映画では「蜜蜂と遠雷」を手掛けている。藤倉の仕事を聴くために映画を見たくなったけれども。

 

🎧名曲アルバム
「歌劇 ウェルテル  春風よなぜわたしを」マスネ作曲
【テノール】福井敬,【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団,【指揮】現田茂夫

🎵ゲーテの若き日の恋の街ヴェッツラーの街並みを岩手県出身のテノール歌手福井敬の歌声とともに。

⛳7時更新

 

 

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20/3/5クラシック倶楽部を聴く

イ・ムジチ合奏団 演奏会
2019
102日 サントリーホール 大ホール

☆「ディヴェルティメント ニ長調 K.136」モーツァルト:作曲
☆「歌劇「ジュリアス・シーザー」から「つらい運命に涙は流れ」」ヘンデル:作曲
(ソプラノ)天羽 明惠
☆「歌劇「クセルクセス」から ラルゴ「なつかしい木陰」」ヘンデル:作曲
(ソプラノ)天羽 明惠
☆「ディヴェルティメント 第2番 変ロ長調 TWV50:23テレマン:作曲
☆「モテット「踊れ、喜べ、幸いな魂よ」K.165」モーツァルト:作曲
(ソプラノ)天羽 明惠

🎵イ・ムジチ、懐かしい! で、何歳? 1952年の結成。ウィキからの転載で「イ・ムジチ合奏団演奏による『四季』は1995年時点の日本において、6種の録音の合計で280万枚を売り上げている[1]。特に3回目の録音は日本で初めて(レコードとしては今も唯一)の、クラシック音楽でのミリオンセラーを記録した。」とこんなに浸透しつくしている。当年68歳。去年の10月のサントリーホールも後ろまではよく見えなかったけれども満席。観客席で居眠りの方1名映っていたけれども。天羽明惠との共演。ソプラノを引き立てる自在さ、並び立つ柔軟さも。演奏はどこまでも心地よい。
ヘンデル、多田茂史・訳の抜粋「草木がつくりだすかけがえのなく愛おしいこれほどの陰は存在しない」、ついそちこちにある保存樹木を思い出していた。神社仏閣にあるそれらにあまり感じたことはないが、森の中にある草木にはそんな包容力が。
「モテット」のコロラトゥーラ、天高くに引き連れられた。
テレマンの「ディヴェルティメント」、1767年、彼の最晩年の作曲らしい。テレマンはアマチュアの音楽団体も組織していたというから、宮廷、教会ばかりではなく市民にも音楽の楽しみを提供していたようだ。

 

🎧名曲アルバム
「わが青春はすでに過ぎ去り」スウェーリンク作曲
【オルガン】今井奈緒子

🎵スェーリンク、17世紀オランダが世界に隆盛を極めていた頃の作曲家。彼も父も息子も教会のオルガニスト。「わが青春はすでに過ぎ去り」、これはドイツの流行歌をもとに作曲したという。
アムステルダム音楽院が古楽教育の拠点であるとか。

 

⛳今朝はイ・ムジチに明けた穏やかな朝。リンクの失敗もなく6時50分更新。

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20/3/4クラシック倶楽部を聴く

青森県弘前市公開収録 石田組演奏会
(バイオリン)石田 泰尚、(バイオリン)廣岡 克隆、(バイオリン)丹羽 洋輔、(バイオリン)塩田 脩、(ビオラ)冨田 大輔、(ビオラ)萩谷 金太郎、(チェロ)門脇 大樹、(チェロ)玉川 克
2018
71日 弘前文化センター

 

☆「アイネ・クライネ・ナハトムジーク K.525」モーツァルト:作曲
☆「アディオス・ノニーノ変奏曲」アントニオ・アグリ:作曲
(バイオリン)石田 泰尚
☆「映画「荒野の七人」のテーマ」エルマー・バーンスタイン:作曲、近藤和明:編曲
☆「映画「ニュー・シネマ・パラダイス」」エンニオ・モリコーネ&アンドレア・モリコーネ:作曲、近藤和明:編曲
「紫の炎」ディープ・パープル:作曲、近藤和明:編曲
☆「津軽海峡・冬景色」三木たかし:作曲、松岡あさひ:編曲

🎵前にも同じことを書いているかもしれないけれども。
「紫の炎」、イギリスのロックバンドが後世に影響を残した曲、石田組の公演には欠かせない、ボーカル・ギターをバイオリン一つでこなす石田のわざが光る、との解説。平穏、マンネリズムを抉るシャープさに共感。石田はじけるこの曲がやはり石田の真骨頂。アンコールの「津軽海峡・冬景色」、バイオリンがむせび泣く切ない旅情。むせび泣く弦を久しぶりに聴いた気が。

 

🎧名曲アルバム
「大学祝典序曲」ブラームス
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団,【指揮】田中良和

⛳きのうは眼精疲労で全休。けさはどうしようかとちょっと迷ったが、習慣で聴くばかりも聴かねば。ただそちこちのリンクが3度も失敗。やり直しで失敗、やり直しでまた失敗。こんな日もある、そんな日もある。6時47分更新。




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20/3/ 20/3/3クラシック倶楽部を聴く

紀尾井ホール~室内管弦楽団メンバーによる木管五重奏演奏会
(フルート)難波 薫、(オーボエ)池田 昭子、(ホルン)日橋 辰朗、(ファゴット)岩佐 雅美、(クラリネット)勝山 大舗
ピアノ)鈴木 慎崇(すずきよしたか)
2019
129日 紀尾井ホール 

☆「喜歌劇「こうもり」序曲」ヨハン・シュトラウス:作曲、トム・ケネディー:編曲
☆「カルメン組曲」ビゼー:作曲、ダヴィッド・ワルター:編曲
☆「喜遊曲 作品6」ルーセル:作曲
「組曲「マ・メール・ロワ」」ラヴェル:作曲、ダヴィッド・ワルター:編曲
☆「恋人たちの黄昏から 第3楽章(アンコール)」フランセ:作曲

🎵各メンバーの短いけれどひと言で、この楽団の色彩がアップ。難波さん、なにかきょうも敬称が出てくる。いつも敬称をつけないことに、いったい自分は何様? どこも何も偉くないでしょ?と問うてしまうのだが、たとえば佐渡裕をいうときに、いちいち佐渡さん、佐渡先生とは呼ばないな~。ということでやはり敬称なしに。難波薫と池田昭子は当初からこの楽団を支えてきているおふたり。新たに加わったのが日橋、岩佐、勝山。有名なメロディーに各楽器が巧みに振り分けられているとのコメントでメリハリをもってそれぞれの楽器が際立った旋律を楽しむことができた。ラヴェルの組曲「マ・メール・ロワ」。難波がピッコロに持ち替えたり、池田も2台の楽器をと、ハーモニーに豊かさを。それにしてもラヴェルの音の説得力、さりげないフレーズでも、第4曲にはサティの影響もあるらしいが、締めくくりのピアノにも音の説得力というか、何れストンと納得させてしまうところがすごい。編曲の力によるところも大きいかもしれない。

 

🎧名曲アルバム
「パシフィック231オネゲル作曲
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団,【指揮】円光寺雅彦

🎵「パシフィック231」はフランスの鉄道の主力だった蒸気機関車の型式。130キロまで出たらしい。1923年で130キロ、ほんとかな、自分が見間違えてはいないかとも思うのだが。当時の仏の産業を牽引した機関車なのだろう。「人が馬や女を愛するようにわたしは蒸気機関車を愛している」とはオネゲルのことば。女と馬が並記されるところに抵抗はあるが、子どもの時分から蒸気機関車の音を聞きながら育ったというオネゲル。ルアーブルからパリまで200キロの道を音楽院に通ったというのも、これもほんとうだろうか。距離的に言うと盛岡市、地方を中心、岩手を中心として言ってしまうのだが、岩手の沿岸の宮古市盛岡間が100キロ。あり得る。ほんとうだろう。

⛳この番組で新型コロナから一時解き放たれて、6時45分更新。

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20/3/2クラシック倶楽部を聴く

ファブリス・ミリシェー トロンボーン・リサイタル
(トロンボーン)ファブリス・ミリシェー、(ピアノ)中川賢一
武蔵野市民文化会館 小ホール 

☆「トロンボーン・ソナタ「大天使ガブリエルの嘆き」」シュレック:作曲
☆「室内カプリッチョ 作品35」クロール:作曲
☆「トロンボーンとピアノのためのバラード」マルタン:作曲
☆「交響的小品 作品88」ギルマン:作曲
☆「ゴールデン・スランバー」レノン&マッカートニー:作曲、武満徹:編曲
(ピアノ)中川賢一
☆「6つの演奏会用小品「ホフマニアーダ」から」グラドキフ:作曲

🎵けさは、あまりくだくだしく考えずリラックスして耳を傾ける。ジャズがやりたくなり、チェロ+トロンボーンとなったらしい。グラドキフの「6つの演奏会用小品」を傾聴。


ミリシェーが、オンライン・マスタークラスについて語っているが、放送とはまた別にちょっと転載してみる。日本にいながら彼の講義を受けられるかもしれない。
「長い間、いつかは始めたいと思っていましたが、はじめは良い方法が見つかりませんでした。リアルタイムのオンライン動画通信でレッスンをしている人もいましたが、それが上手くいくとは思えませんでした。
一つ目の問題は時差です。例えば日本とは8時間の時差があります。生徒が10時にレッスンを受けたいとしたら、フランスにいる私は夜中の2時です。時差のせいでレッスン時間を決めるのがとても難しいのです。二つ目は音のクオリティです。インターネットの状況に左右され音がよく聞き取れない場合があります。三つ目は言葉の問題です。私は英語、フランス語、ドイツ語でレッスンをすることができますが、誰もがこれらの言語に堪能なわけではありません。
こうして、私は「生徒が自分の動画を送り、私がコメントをつけて送り返す」という方法を選びました。
まず生徒が自分の演奏をビデオに撮って私に送ります。例えば、今ギルマンを練習しているとします。彼は自分のビデオカメラでギルマンを演奏しているところを撮影します。それは、一人でもピアニストと一緒でもどちらでも構いません。
その後、受けとったビデオを見ながら私がレッスンをします。本人の演奏動画を流しながら、直すべきこと、もっとこうすべきだと思う箇所で一時停止をし、私がアドバイスをしているところを撮影します。
オンライン・マスタークラスならば、リアルタイムのオンライン動画通信による先ほど述べた3つの問題点は解決できます。また、一時停止もできますので、生徒は理解できるまで何度も聴くことができます。外国語が苦手な学生には特に重要ですね。」

🎧
名曲アルバム
「ノクターン ロ長調」ショパン
【ピアノ】小山実稚恵

🎵誰もが日本での一定の学びを終えると、それ海外留学となるのだが、小山さん、なぜここで敬称をつけてしまうのか、親しいわけでもないのに、なのだが、小山さんは純国産というところがいい。小山さんのピアノ、特にショパンの繊細な表現には脳内が溶けだすというかくっとくる。岩手で暮らした方という事で“身びいき”がないではないけれども、被災地にも来てくれる。わたしの中での好感度は高い。
番組映像、ジョルジュ・サンド邸にあるサンドのふたりの息子の誕生の記念樹を興味深く見る。すでに樹齢百数十年。

⛳さてきょうは月曜日、全休としたいところだけれども、そうもいかない。新型コロナできょうも明け。1億2601万人、総マスクとなるか。赤ちゃん用、幼児用はあるのだろうか、赤ちゃんはおとなしくマスクをするだろうか。道を歩く方々全員マスク、官公庁、企業、学校、団体みなマスク、顔が見えない。目だしではあるけれども、ほんとうの顔がない。いつか詠んだ私の川柳  「つけ替える仮面の奥の顔ひとつ」。マスクが仮面にも見えて来る不気味さ。
7時ジャスト更新

 

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きょうのことば

インマヌエル盛岡キリスト教会2020223()の礼拝メッセージをお伝えいたします。

國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は46年にわたって岩手で主のご奉仕をしておられます。

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説教題 『望郷の福音』(國光勝美牧師)
新約聖書 ピリピ人への手紙 第3章1721節

3:17兄弟たち。私を倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。 3:18というのは、私はたびたびあなたがたに言って来たし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。 3:19その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。 3:20しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。 3:21キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。

 

<説教>

 この一か月、死というものを現実的に捉えさせていただきました。特に牧師としてお葬儀にも関わらせていただきました。私たちの寄って立っている福音がどういう意味をもっているのか、これは理屈ではなく、現実を通して捉え直す、そういうとても貴重なときでございました。

 福音と死。死を直視する。では福音とは何なのか。ピリピ人への手紙第3章20節「私たちの国籍は天にあります。」というおことばが心に留まっております。説教題を「望郷の福音」といたしました。ふるさとを思う心はどんなものでしょうか。
 盛岡では、中津川に鮭が帰ってきたことが必ずニュースで取り上げられます。たしか県庁所在地で鮭の回帰が見られるのは盛岡市だけだと聞いたことがあります。鮭は北上川に、中津川に、市役所近くを遡上します。ふ化した川に本能的に帰ってくる。これは、私たち一人ひとり、神様によっていのちが与えられております。鮭ではありませんが、われらの本当の故郷に帰りたい。私たち人間には神のもとに帰りたいという本能的な性質が備わっているに違いないのです。「世界中どこに行っても人は神を呼んでいる」。こういう言葉をきいたことがあります。そうだろうと思います。世界中、またどの時代でもと言ってもいいでしょう。どこに行っても人は神を呼んでいます。古から神を意識した儀式や祭りが行われていました。今の時代をパーンと平面的に切って、そこに神を意識しない人がいるでしょうか。どこに行っても人は神を呼んでいる。間違いありません。中には、いいや私は神なんか呼ばない、私は無神論者だという人がいたとしても、それはそれだけ神様を意識しているから言うのです。もしそういう概念がなかったなら、無神論という言葉は成り立たないのです。そういう言葉があるほど、人である限りは神様のもとに帰りたい。あたりまえのことです。ただほんとうの生まれ故郷、生まれた場所であるほんとうの神様のもとに帰り着くか、或いは様々な偶像の神々に行ってしまうのか、偶像への道は幾通りも考えられます。

 望郷の思いとして、私には、もう一つ忘れられないことがあります。

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 イラストをご覧になって、今ニュースで取り上げられているクルーズ船かと思われるかもしれませんが、そうではありません。

 幼い頃に両親から聞いたはなしです。戦前、両親は満州に渡りました。敗戦となり、とにかく祖国に帰りたかった。やっと引き揚げ船に乗ることができ、本土が現れ、佐世保が間近に迫ってきたそうです。引き揚げてくるときにいちばん辛かったのは何だったか。それはほんとうに意外なことでした。いざ佐世保に上陸できるかと思った時に、船内で発疹チフスかコレラの患者が出てしまったそうです。そのために2週間も船に留め置かれてしまった。夢にまで見た内地が、山が見えるというのに船から降りて本土の土を踏むことが出来ない。これはほんとうに辛かったそうです。
 インマヌエル大阪伝法教会の朝比奈寛先生もシベリアに抑留になったことがあります。日本に帰りたいという切ないほどの思い。ほんとうに帰れるだろうか。それがある日やっと、まもなく日本に帰れるそうだというニュースが収容所に流れました。ただ俺たちはシベリアから船が出る港まで歩かなくちゃならんそうだ。ほんとうに帰れるだろうか、だけど帰れないかもしれない、複雑な思いになる。そんな噂がたっていたとき、ある仲間のひとりが、銃をどこから手に入れたものか、あれほど帰りたがっていたにも拘らず、銃口を口に当てて、足の親指に引き金を当てて発砲し自殺してしまったそうです。帰れるかもしれないというのに。彼は「歩いて」と聞いて自殺した。彼は片方の足の親指を戦争で失っていた。この足で歩くのは無理だと悲観、絶望したのでした。どれほど帰りたかったか。帰れないとわかったときの絶望感の深さがわかります。

 それほど私たちは帰りたい。生まれたところに故郷に帰りたいという切なる願いを持っているのです。その帰り着く道、どの道を通って行ったらいいのか、確かな道、間違いのない道が福音にあるのです。

ヨハネの福音書14章6節
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

 ほんとうの魂のふるさと、私たちの生まれ故郷には、「わたし」という、この「イエス・キリスト」というお方を通して以外に行くことはできません。 

 世の中には正しい道案内がいつもあるとは限りません。間違った道案内に惑わされることがいくらでもあります。
私は本格的な登山はあまりやったことがありません。里山歩きが好きで、よく鞍掛山に行っています。周辺にはそこから見える山々がいっぱいあります。度々行っているとその山の名前が気になる。山の名前を知りたくなる。山の名前がわかるアプリがあります。現在地、画面に現れる方向、間違いのないのは前に見える岩手山。その岩手山がアプリに見えるところの岩手山の方向に合わせれば、それで方向がきっちり決まるので、あと、じゃこちらの山はどうかなとわかる。こんな便利なものがあります。しかしそれを正しく使えないと間違った山を認識してしまう。これは何という山かを確かめるぐらいのことならいいのですが、人生の一大事の指針、行き先をたずねようとするとき、それしか頼りにならないというもので見間違えたり読み間違えたりしたら大変なことになります。 

 忘れられない場面があります。ドリフターズの番組ですが。いかりや長介さんたちが登山で道を見失ってしまう。「隊長どうしたらいいのでしょうか、我々はどこにいるのでしょうか」「大丈夫だ、地図がある。決して迷ってはいない。この地図を見ると、いいか、あの前に見える山、地図で言うとこの山だ。いま我々がいるのはあの山の上だ」。これには大笑いしました。今でも覚えています。これは長介さんがやるから面白いのですが。でもこれホントじゃないですか。あそこに行きたい、ほんとうの天国に行きたい、帰るべきところに行きたいと思う。いやちゃんと俺は持ってる。ここにガイドが、地図があるんだ。それが実は正しいかどうかわからない。さっきのアプリもありますけれども、便利ですが、意外と使ってみて、岩手山とはっきり自分が分かっているところがあれば合わせられます。そうじゃない別な山の所にアプリを持って行った時に、ほんとにこれ合っているのかなと不安になることがあります。そのとき、どうですか、ほんとうに自分の存在のすべてをそこに任せて進んで行けるでしょうか。

 世の中には、これです、こっちです、大丈夫ですよ、というものに満ちています。しかし、人生のほんとうに大切な、自分のいのちを賭けたふるさとへの道はどれかというときに、

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。

 こう言い切ってくださるお方、真理について解説してくれる人ではなく、「私が道である。この道を通っていけば必ず天国に行ける。」こう断言できるのはイエス・キリストというお方だけであります。まことにこの聖書の言っている通りに、この世に人としてお生まれ下さって、そして聖書の言っている通りに私たちの罪の身代わりとなって十字架で血を流し命を捨ててくださった。そのお方が聖書の言っている通りに復活してくださった。よみがえってくださった。そしていまこのお方は天のお父様にわたしたちのために執成しをしていてくださる。イエス様への信仰を持って亡くなられた方々はみなこの道を通って、この福音によって救われております。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」

 このイエス様にすべてを委ねお任せし、信じて進んでいくことこそが福音なのです。私たちはこの確かな道を持っている。その思いをいよいよ深くさせていただいたことであります。

 

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