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きょうのことば

インマヌエル盛岡キリスト教会2020223()の礼拝メッセージをお伝えいたします。

國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は46年にわたって岩手で主のご奉仕をしておられます。

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説教題 『望郷の福音』(國光勝美牧師)
新約聖書 ピリピ人への手紙 第3章1721節

3:17兄弟たち。私を倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。 3:18というのは、私はたびたびあなたがたに言って来たし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。 3:19その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。 3:20しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。 3:21キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。

 

<説教>

 この一か月、死というものを現実的に捉えさせていただきました。特に牧師としてお葬儀にも関わらせていただきました。私たちの寄って立っている福音がどういう意味をもっているのか、これは理屈ではなく、現実を通して捉え直す、そういうとても貴重なときでございました。

 福音と死。死を直視する。では福音とは何なのか。ピリピ人への手紙第3章20節「私たちの国籍は天にあります。」というおことばが心に留まっております。説教題を「望郷の福音」といたしました。ふるさとを思う心はどんなものでしょうか。
 盛岡では、中津川に鮭が帰ってきたことが必ずニュースで取り上げられます。たしか県庁所在地で鮭の回帰が見られるのは盛岡市だけだと聞いたことがあります。鮭は北上川に、中津川に、市役所近くを遡上します。ふ化した川に本能的に帰ってくる。これは、私たち一人ひとり、神様によっていのちが与えられております。鮭ではありませんが、われらの本当の故郷に帰りたい。私たち人間には神のもとに帰りたいという本能的な性質が備わっているに違いないのです。「世界中どこに行っても人は神を呼んでいる」。こういう言葉をきいたことがあります。そうだろうと思います。世界中、またどの時代でもと言ってもいいでしょう。どこに行っても人は神を呼んでいます。古から神を意識した儀式や祭りが行われていました。今の時代をパーンと平面的に切って、そこに神を意識しない人がいるでしょうか。どこに行っても人は神を呼んでいる。間違いありません。中には、いいや私は神なんか呼ばない、私は無神論者だという人がいたとしても、それはそれだけ神様を意識しているから言うのです。もしそういう概念がなかったなら、無神論という言葉は成り立たないのです。そういう言葉があるほど、人である限りは神様のもとに帰りたい。あたりまえのことです。ただほんとうの生まれ故郷、生まれた場所であるほんとうの神様のもとに帰り着くか、或いは様々な偶像の神々に行ってしまうのか、偶像への道は幾通りも考えられます。

 望郷の思いとして、私には、もう一つ忘れられないことがあります。

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 イラストをご覧になって、今ニュースで取り上げられているクルーズ船かと思われるかもしれませんが、そうではありません。

 幼い頃に両親から聞いたはなしです。戦前、両親は満州に渡りました。敗戦となり、とにかく祖国に帰りたかった。やっと引き揚げ船に乗ることができ、本土が現れ、佐世保が間近に迫ってきたそうです。引き揚げてくるときにいちばん辛かったのは何だったか。それはほんとうに意外なことでした。いざ佐世保に上陸できるかと思った時に、船内で発疹チフスかコレラの患者が出てしまったそうです。そのために2週間も船に留め置かれてしまった。夢にまで見た内地が、山が見えるというのに船から降りて本土の土を踏むことが出来ない。これはほんとうに辛かったそうです。
 インマヌエル大阪伝法教会の朝比奈寛先生もシベリアに抑留になったことがあります。日本に帰りたいという切ないほどの思い。ほんとうに帰れるだろうか。それがある日やっと、まもなく日本に帰れるそうだというニュースが収容所に流れました。ただ俺たちはシベリアから船が出る港まで歩かなくちゃならんそうだ。ほんとうに帰れるだろうか、だけど帰れないかもしれない、複雑な思いになる。そんな噂がたっていたとき、ある仲間のひとりが、銃をどこから手に入れたものか、あれほど帰りたがっていたにも拘らず、銃口を口に当てて、足の親指に引き金を当てて発砲し自殺してしまったそうです。帰れるかもしれないというのに。彼は「歩いて」と聞いて自殺した。彼は片方の足の親指を戦争で失っていた。この足で歩くのは無理だと悲観、絶望したのでした。どれほど帰りたかったか。帰れないとわかったときの絶望感の深さがわかります。

 それほど私たちは帰りたい。生まれたところに故郷に帰りたいという切なる願いを持っているのです。その帰り着く道、どの道を通って行ったらいいのか、確かな道、間違いのない道が福音にあるのです。

ヨハネの福音書14章6節
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

 ほんとうの魂のふるさと、私たちの生まれ故郷には、「わたし」という、この「イエス・キリスト」というお方を通して以外に行くことはできません。 

 世の中には正しい道案内がいつもあるとは限りません。間違った道案内に惑わされることがいくらでもあります。
私は本格的な登山はあまりやったことがありません。里山歩きが好きで、よく鞍掛山に行っています。周辺にはそこから見える山々がいっぱいあります。度々行っているとその山の名前が気になる。山の名前を知りたくなる。山の名前がわかるアプリがあります。現在地、画面に現れる方向、間違いのないのは前に見える岩手山。その岩手山がアプリに見えるところの岩手山の方向に合わせれば、それで方向がきっちり決まるので、あと、じゃこちらの山はどうかなとわかる。こんな便利なものがあります。しかしそれを正しく使えないと間違った山を認識してしまう。これは何という山かを確かめるぐらいのことならいいのですが、人生の一大事の指針、行き先をたずねようとするとき、それしか頼りにならないというもので見間違えたり読み間違えたりしたら大変なことになります。 

 忘れられない場面があります。ドリフターズの番組ですが。いかりや長介さんたちが登山で道を見失ってしまう。「隊長どうしたらいいのでしょうか、我々はどこにいるのでしょうか」「大丈夫だ、地図がある。決して迷ってはいない。この地図を見ると、いいか、あの前に見える山、地図で言うとこの山だ。いま我々がいるのはあの山の上だ」。これには大笑いしました。今でも覚えています。これは長介さんがやるから面白いのですが。でもこれホントじゃないですか。あそこに行きたい、ほんとうの天国に行きたい、帰るべきところに行きたいと思う。いやちゃんと俺は持ってる。ここにガイドが、地図があるんだ。それが実は正しいかどうかわからない。さっきのアプリもありますけれども、便利ですが、意外と使ってみて、岩手山とはっきり自分が分かっているところがあれば合わせられます。そうじゃない別な山の所にアプリを持って行った時に、ほんとにこれ合っているのかなと不安になることがあります。そのとき、どうですか、ほんとうに自分の存在のすべてをそこに任せて進んで行けるでしょうか。

 世の中には、これです、こっちです、大丈夫ですよ、というものに満ちています。しかし、人生のほんとうに大切な、自分のいのちを賭けたふるさとへの道はどれかというときに、

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。

 こう言い切ってくださるお方、真理について解説してくれる人ではなく、「私が道である。この道を通っていけば必ず天国に行ける。」こう断言できるのはイエス・キリストというお方だけであります。まことにこの聖書の言っている通りに、この世に人としてお生まれ下さって、そして聖書の言っている通りに私たちの罪の身代わりとなって十字架で血を流し命を捨ててくださった。そのお方が聖書の言っている通りに復活してくださった。よみがえってくださった。そしていまこのお方は天のお父様にわたしたちのために執成しをしていてくださる。イエス様への信仰を持って亡くなられた方々はみなこの道を通って、この福音によって救われております。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」

 このイエス様にすべてを委ねお任せし、信じて進んでいくことこそが福音なのです。私たちはこの確かな道を持っている。その思いをいよいよ深くさせていただいたことであります。

 

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