インマヌエル盛岡キリスト教会2020年1月26日(日)の礼拝メッセージをおつたえいたします。この日は総会があるために、短めのおはなしでした。
説教題『我が霊に由るなり』(國光勝美牧師)
國光勝美牧師・ひろ子牧師は、46年の間、盛岡で主のご奉仕をしておられます。


聖書 ゼカリヤ書4章1~14節
1私と話していた御使いが戻って来て、私を呼び起こした。私は眠りから覚まされた人のようであった。
2 彼は私に言った。「あなたは何を見ているのか。」私は答えた。「私が見ていると、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があります。この上部にあるともしび皿には、それぞれ七本の管が付いています。
3 また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はその鉢の右に、もう一本は左にあります。」
4 私は、私と話していた御使いに言った。「主よ。これらは何ですか。」
5 私と話していた御使いが言った。「あなたは、これらが何であるかを知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」
6 彼は私にこう答えた。
「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。
『権力によらず、能力によらず、
わたしの霊によって』
と万軍の主は言われる。
7 大いなる山よ、おまえは何者か。
おまえはゼルバベルの前で平らにされる
彼がかしら石を運び出せば、
『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫び声があがる。」
8 また、私に次のような主のことばがあった。
9 「『ゼルバベルの手がこの宮の礎を据えた。
彼の手がそれを完成させる。』
そのときあなたは、万軍の主が
私をあなたがたに遣わされたことを知る。
10 だれが、その日を小さな事として蔑むのか。
人々はゼルバベルの手にある重り縄を見て喜ぶ。
これらの七つは、全地を行き巡る主の目である。」
11 私は彼に尋ねた。「燭台の右左にある、この二本のオリーブの木は何ですか。」
12そして再び尋ねた。「二本の金の管によって金の油を注ぎ出す、このオリーブの二本の枝は何ですか。」
13 すると彼は、私にこう言った。「あなたは、これらが何であるか知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」
14 彼は言った。「これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油注がれた者だ。」
<説教>
きょうは総会を控えておりますので、もういちどこの『我が霊に由るなり』というおことばに心を留めながら総会にふさわしい主の御扱いをいただきたく願っております。

このゼカリヤ書は、政治的な指導者ゼルバベルと宗教上の指導者である大祭司ヨシュアという二人の人物を介し、全イスラエルの人々に向けた励ましのことばであることを私たちは学んでまいりました。ゼルバベルとヨシュアは、それまでバビロンで囚われの身でありましたが、故国帰って先ず礼拝の場所である神殿を再建するという大きな使命を持ち、喜び勇んで彼らは帰ってまいりました。この二人はイスラエル民族の大きな二本の柱です。
ゼカリヤの4章14節を見ていただきますと、二人ながら油注がれた者である。これは神様の働きをするために選ばれた人物ということです。そして、このとき、ゼルバベルとヨシュアを励ますために遣わされた預言者の一人がハガイ、そしてもう一人の預言者がゼカリヤです。

ハガイは、「あなた方の歩みをよく考えなさい」。ほんとうに今のような在り方で神様の恵を受けることができるだろうか、もういちどよく考えてみなさいと悔い改めを奨励し、そして、「だいじょうぶ、わたしはあなた方と共にいる」と主は言われるではないかと民を激励している。これがハガイのメッセージでありました。
どうか私たちも今日、教会総会に臨みますけれども、ハガイを通して語られた「あなた方の歩みをよく考えてみなさい。」を吟味し、「わたしはあなたと共にいる」を励ましとしましょう。
きょうお開きしているのは、預言者ゼカリヤのところです。この神殿再建という大きな仕事、それは『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』成しうる。あなたの権力や能力によって成すものではなく、神であるわたしの霊によって成し遂げられるものである。それを間違えてはいけないと、ゼカリヤは、ゼルバベルとヨシュアに対して言うのです。あなた方が携えている仕事はわたしの霊によるものであると。今から教会総会に臨みますが、これがゼルバベルからの私たちへのメッセージであります。
そして、今私たちの前に置かれている山、ゼルバベルの前で平らにされる山とは。

「大いなる山よ、お前は何者か。」ですが、この盛岡教会の週報のナンバリングをご覧ください。Vol.XLVⅡ-4とあります。これは、第47巻目のその第4回目の礼拝の週報であることを表しています。47、この数字にはさまざまな感慨がございます。
盛岡教会の働きをさせていただいております私自身、大きな問題としてマンネリズムがあります。これだけ長く同じところにいますと、自己弁護するわけではないのですけれども、良きにつけ悪しきにつけマンネリズムは避けられない。私たちの前にあり続けるマンネリズムでもあり、これは良い意味で砕いていかねばならない。何かに取組もうとするとき、特伝やバザーなど、ある程度今までのことが経験としてずっと積み重なっておりますので間的に予測ができる。すると一回一回の特伝、特集をするにしても、そのことに新しいことを期待するという事がなかなかできにくい。まさしくマンネリズム、疲れてしまうということがあります。それからもう一つは47のVol.をつけたとき、高齢化、自分の年齢を考えてしまう。こういうことなのかと改めて思いました。
教会総会に臨もうとするときに、この大いなる山を、もし自分をゼルバベルにたとえさせていただくのなら、これを崩していただきたい、こう思うのです。ゼルバベルの前に平地となる。主は「わたしの霊による」と言っておられます。マンネリズム、或いは、その他の問題に於いても「大いなる山よ、おまえは何者か。おまえはゼルバベルの前で平らにされる」、これを覚えることです。
9節のおことばも心に掛かっております。
「『ゼルバベルの手がこの宮の礎を据えた。
彼の手がそれを完成させる。』
この教会の開拓を恵みのゆえにさせていただいた私たち、どうかこれが「『ゼルバベルの手がこの宮の礎を据えた。彼の手がそれを完成させる。』と委ねるようなご奉仕に与りたいと心から願っているところであります。
前回、お話させていただきました「主の御手の中に」、私のためにすべてを成しておいてくださる主、「どうかあなたの御手のわざを辞めないでください」と主に積極的に期待をし、なるようにしかならないというような消極的な委託ではなく、主よ、あなたの御手に委ねます。どうぞ私の願いを聞き届けてくださいと積極的に神様に期待し、御手の中に陥らせていただきたい、このように願っております。
※この後、小休止を挟んで、教会総会が開かれました。
画像は教会からお借りしています。
最近のコメント