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2020年元旦礼拝メッセージ

インマヌエル盛岡キリスト教会2020年元旦礼拝メッセージをお伝えいたします。

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説教題『わたしの霊によって』(國光勝美牧師)
聖書 ゼカリヤ書4章1~14

「七つの燭台」の画像検索結果

1私と話していた御使いが戻って来て、私を呼び起こした。私は眠りから覚まされた人のようであった。
2彼は私に言った。「あなたは何を見ているのか。」私は答えた。「私が見ると、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があります。この上部にあるともしび皿には、それぞれ七本の管が付いています。
3また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はその鉢の右に、もう一本は左にあります。」
4私は、私と話していた御使いに言った。「主よ、これらは何ですか。」
5私と話していた御使いが答えて言った。「あなたは、これらが何であるかを知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」
6彼は私にこう答えた。
「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。
『権力によらず、能力によらず、
わたしの霊によって』
と万軍の主は言われる。
7大いなる山よ。おまえは何者か。
おまえはゼルバベルの前で平らにされる。
彼がかしら石を運び出せば、
『恵みあれ。これに恵みあれ。』と叫び声があがる。」
8また私に次のような主のことばがあった。
9「『ゼルバベルの手がこの宮の礎を据えた。
彼の手がそれを完成させる。』
そのときあなたは、万軍の主が
私をあなたがたに遣わされたことを知る。
10だれが、その日を小さな事として蔑むのか。
人々はゼルバベルの手にある重り縄を見て喜ぶ。
これら七つは、全地を行き巡る主の目である。」
11私は彼に尋ねた。「燭台の左右にある、この二本のオリーブの木は何ですか。」
12そして再び尋ねた。「二本の金の管によって金の油を注ぎ出す、このオリーブの二本の枝は何ですか。」
13すると彼は私にこう言った。「あなたは、これらが何であるかを知らないのか。」私は言った。「主よ、知りません。」
14彼は言った。「これらは、全地の主のそばに立つ、二人の油注がれた者だ。」

<説教>

6これは、ゼルバベルへの主のことばだ。
『権力によらず、能力によらず、
わたしの霊によって』
と万軍の主は言われる。
7大いなる山よ。おまえは何者か。
おまえはゼルバベルの前で平らにされる。

 新しい2020年を兄弟姉妹方とこのように始めることが許され、心からの感謝を覚えております。
先ずこの2020年の元旦に、ゼルバベル467節が神様から示されておりますことをご紹介させていただきます。
 ゼカリヤ書が全体で何を位置付けているのか、その中で何を言おうとしているのか、この背景に簡単にではありますが触れ、そして追々ゼカリヤ書からおことばが与えられた意味を確認しながら、1月の最終日曜日にございます教会総会へと導かれているところであります。

 ゼカリヤ書の67節に集中しますが、さて、ゼルバベルとはいったい何者なのでしょうか。エズラ書をご覧ください。旧約聖書はいろいろな文書が必ずしも年代順に並んでいるのではありません。ゼカリヤ書とエズラ書は離れて編集されているのですが、実は同じ人物、同じ背景が扱われております。

  エズラ1章をご覧いただきますと、ペルシャの王キュロス、クロスともいいますが、そのキュロス王の第一年にエレミヤによって告げられた主のことばが成就するために、主はペルシャの王キュロスの霊を奮いたたせ、王国中に通達を出させました。これがキュロス王の解放令であります。これはまた後ほど詳しく扱う事になりますが。イスラエルの民はバビロン捕囚という民族的、国家的な悲劇を経験いたしました。彼らイスラエルの民が誇りとしていた王国、神殿、それらのものがバビロンによって破壊され、イスラエルの人々は移住させられてしまいます。これが当時の世界最大の強国であったバビロンによる仕業でありました。しかしやがて世界の覇権はバビロンからペルシャに移っていきます。そのペルシャのキュロス王が、バビロンによって囚われていたあのイスラエルの民が、どうもこれはエレミヤという預言者が見ると、彼らは神に選ばれた民であるという。彼らは自分たちの国を持つ権利があり、そういう神様のご計画の中にある民なのだということで、キュロス王は、バビロンの時代に囚われていたイスラエルの民を自分の母国に帰るようにしました。帰りたいと願うものは帰りなさいと。国家プロジェクトとして財源を保証し、バビロンの囚われから70年経っていたイスラエルの人々を、エレミヤの預言の通り、キュロス王の解放令を出しました。そこで人々は、自分たちの国を再建するのだというビジョンと使命感を持って帰国の途に就きます。

  こんどはエズラの2章をご覧ください。バビロンの王ネブカデネザルがバビロンに引いていった捕囚の民が、その捕囚の身を解かれエルサレムとユダにのぼり、それぞれ自分の街に帰ったこの種の人々は次のとおりであるとある。つまり、バビロンによって囚われた人たちがペルシャのキュロス王の法令によって、さあ、われらの国を再建しようと言って真っ先に名前が出たのはゼルバベル、ヨシュアであります。彼らは政治的な、行政的な手腕を与えられていた指導者であります。この指導者を中心にして、沢山の人たちがこの指導者に率いられて再建へと向かっていった。成り行きは割愛しますが、何れ、このビジョン、神殿の再建計画は必ずしも順調に進んだわけではありません。ペルシャが国家プロジェクトとして開放を行ったことは大きな助けとはなりました。神殿を再建しよう、何よりもあの破壊されてしまった我らのシンボル、我らの誇りであるソロモンの神殿を再建するのだというビジョンは、自分たちの生活よりも優先されて取り組まれた。ところが70年以上も留守になっていた土地には住み着いている人たちがいた。急にどいてくれ、ここは本来我々のところなのだからと言われてみたところで心外でしょう。帰ってきた人々から、何を言うのか、われらはペルシャ王の勅令のもとにこれをやっている、と出られると、ひれ伏さざるを得ない。しかし納得しきれるものではなく、再建は思わしくいかない。最初は意気に燃えていても、ゼルバベル、ヨシュアという指導者たちの長引き、なかなか進捗がないことに疲れを覚え、そして人間の一時的なその感動、決断も現状に落胆してしまう。そのような困難さ。それに直面していた時に、幻の預言者であるゼカリヤが現れてきたわけです。これがゼカリヤ書であります。

 きょうはそのゼカリヤ書の4章を開いたところでありますが、ゼカリヤ書の背景は、人々が願いながらもなかなか順調に進まない事態に、或いは意気消沈してしまった人たちに幻の預言者ゼカリヤをお遣わしになった。それによって人々はまた励まされるわけです。幻というのは空想ではない。

 14節を見ると「二人の油注がれたもの」とありますが、これはゼルバベルとヨシュアであり人々が力づけられる人物でした。背景としてお分かりいただけると思います。
 きょうは6節、7節が与えられた背景はこうですよというところを先ず知っていただきました。

ここで67節をしっかりと受け止めたいと思います。お読みいたします

彼は私にこう答えた。
これは、ゼルバベルへの主のことばだ。
これをしようとしている、いやいましている。困難があるだろうけれども、ゼルバベルよいまあなたがしようとしているそれは
『権力によらず、能力によらず、
わたしの霊によって

ということなのだよ、と万軍の主はいわれる。ゼルバベルよ、あなたが全部背負って、ああできない、大変だ、苦しい、というのではなく、いいかい、これは権力によらず、これは世の中的な権力のことですね。ペルシャの王様の、或いは、この紋所がというような、それによってできるものじゃない。それから「能力によらず」、あなたの力によってでもない。自分の力のみで行うと優越感に浸ったり、或いは絶望感、劣等感にさいなまれたりすることにもなる。あなたの出来る、出来ないといった能力によるのでもない。あなたが携わっている仕事は「わたしの霊によって」はじめて成就するものなのだよ、いいかい、と神様は言われるのです。

そして、7
大いなる山よ。おまえは何者か。
おまえはゼルバベルの前で平らにされる

 もうご理解いただけるでしょう。それはゼルバベルたちの前に立ちふさがる大きな山、到底これを崩すことができない。非常に大きな障害、困難、それに意気消沈しているゼルバベルやショシュアに、ゼカリヤは神様を幻とし、神様を心として大いなる山よ、お前は何者か、お前はゼルバベルのまえで平らにされる。彼がかしら石を運び出せば、「恵みあれ。これに恵みあれ」という叫び声があがる、ゼルバベルは神様のわざをこのようにする、その大山は平らかにされるというのです。

 私は教会の牧師としての立場を、今年もこのおことばによって大いに励まされるわけです。皆さんお一人お一人にこれを当てはめてみてください。皆さんのまえにある困難、意気消沈させてしまうような環境、それらに直面するとき、これはゼルバベルのまえにある大きな山ですけれども、どうか皆さん各個人のお名前をそのゼルバベルのところに入れて、いま私はこのような課題に直面している、しかし、これは主のわざであり「わたしの霊によって」成し遂げられるのである。あなたができるとかできないとかいうようなことではない。ゼカリヤは、こういって民を励まし、民に大きな希望と確信を与えております。

そして9節『ゼルバベルの手がこの宮の礎を据えた』。だから「彼の手がそれを完成させる」。そう、だいじょうぶだ。非常に力強い神様の励ましのことばがゼカリヤを通して与えられております。このように聖書のおことばを見ますとき、これは私にのみ与えられたおことばというよりも、皆さん方お一人お一人が置かれていらっしゃるところで同じこの励ましの言葉、神様のみことばの語りかけがある。それを私たちがどう受け止めるかにかかっています。

この67節の文語訳に私は最初に触れたものですから、こちらがよく記憶に残っております。

4章6節「彼また答へて我に言けるはゼルバベルにヱホバの告たまふ言は是のごとし萬軍のヱホバ宣ふ是は權勢に由らず能力に由らず我靈に由るなり」7節「ゼルバベルの前にあたれる大山よ汝は何者ぞ汝は平地とならん彼は恩惠あれ之に恩惠あれと呼はる聲をたてて頭石を曳いださん」
 この文語訳も新改訳と共に、またそれ以外の訳があればそれも参考にしながら、神様がことし私たちに語ってくださるこのおことばを力として進もうと願っております。

 個人的には、皆さんにほんとうに多くのお祈りを頂戴しましたひろ子先生の病の治療はこの先が大きな山であると思われます。しかし、「ゼルバベルの前にあたれる大山よ汝は何者ぞ汝は平地とならん」というこのおことばをしっかりと受け止めさせていただきたい。繰り返すようですが皆様方のそれぞれの大山、そのときに私は大きな、これは知っていた言葉なんですけども格別に心に深く示されたのは、「ゼルバベルのまえにあたれる」ということ。もしゼルバベルという人の存在が、どんな人かわからないような、ただ、「あなたの前に当たれる山よ汝は何者ぞ汝は平地とならん」というのではなく、大きな使命を持ち、そしてペルシャにのこっていたのならばその地位が保証され優遇されているはずのそれをかなぐり捨てて、彼らと一緒に苦難の道と分かっていながらも、栄光あるその神殿、祖国再建に前進している。しかし、そこに反対勢力があり、そこに失意があり、敵の裏切りがありとさまざまなことどもの中にあるとき、ゼルバベルよ、ゼルバベルよ、と神様の語りかけを受ける、そのような者でありたく願っております。

 これをさらに思い巡らしたときに、私には、もう一つの大きな神様からの語りかけがありました。6節の「これはゼルバベルへの主のことばだ」。8節「またわたしに次のような主のことばがあった」。ここに神の言葉が響いている。この67節のおことば、この元旦礼拝に相応しい神のもう一つの語りかけは何か、それは、「主はいわれる」。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ」と「万軍の主はいわれる」。8節「次のような主のことばがあった

 以前に共鳴箱の話しをいたしました。ゼルバベルの神様のことばは響いているのです。鳴っているのです。鳴っているけれども、もしゼルバベルがゼルバベルでないような生き方をしていたならば、ゼルバベルへのことばは聞き取れない。響かなくなってしまう。神様のことばが私たちの心に共鳴する、鳴り響くというのは、神様の周波数と私の周波数が合致しているということです。それはとりもなおさず、私たちその名を信じた者が明確にイエス・キリストの十字架の贖いというものをいただいて、罪の赦しをいただいてそしてこのお方のおことばを聴く。「わたしの羊は私の声を聞く」というように、私たちがほんとうにもう一度、あの十字架の救いの経験、これをもって新しく生まれるということ、「心やすかれ、汝の罪ゆるされたり」と、神様からのおことばを聞いた、「御子イエスの血、すべての罪よりわれらをきよむ」と、「されどこれを受けし者即ちその名を信ぜし者には神の子となる権を与え給えり」。ああそうだ、この新生経験、神の赦しをいただいている。十字架が私の罪の身代わりであるというこの十字架経験というものが確認されていけばいくほど、実は、この響きが、小さい声であったとしても心の中に響いてくることを経験いたします。新生経験とともに、これまで、私たちが信仰生活をたどってきたその過程の中でもし成長させていただいたということばがよろしいのならば、信仰生活を続けているうちに、神様のおことばが響いてくる。それまでも同じようなことばは聞いていたけれども、それはそれで尊いことだけれども、新生したときに格別に響いてくる、それが微かな語りかけであったとしても、それが心の中に鳴っている。

 どうかことし、特に年の始まり、この神様の語りかけ、ゼルバベルのことばが皆さん方へのことばとしてそれぞれに相応しく、この67節のおことばを、いま皆さんが直面しておられる、或いはことし必要としている中に、聖書の通読の中かもしれない、或いはさまざまなできごとの中でふっと神様が励ましのように与えてくださるおことばであるかもしれない、ほんとうに神様と周波数が合っているときに、おことばというものが響いてくる、私はそれを期待していいと思う。それは私たちが真実に求める心があるからです。ゼルバベルが意気消沈していたけれども彼は決してああいやだとそこから退きたいということはなかった。励ましを必要としていました。そして彼はたえず神様を求める気持ちをもっていた。それとともに砕かれた心、それがあると私たち喜んで従おうとする心、神様のおことばを求めたとき、それがどんなことばであったとしても神様の前に砕かれて遜って、そしてあなたのおっしゃる通りにしたいと思いますと喜んで従おうとする心であることができます。

詩篇5117節を読んでお話を締めくくらせていただきます。

神へのいけにえは、砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません。

20200102-143933

※礼拝では数枚の画像が用いられましたが、そのなかの1枚を教会からお借りし掲載しています。牧師ご夫妻の写真は筆者が撮ったものを任意で載せております。

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