きょうのことば
インマヌエル盛岡キリスト教会2020年1月19日(日)の礼拝メッセージをおつたえいたします。
説教題『主の御手の中に』(國光勝美牧師)
國光勝美牧師・ひろ子牧師は、46年の間、盛岡で主のご奉仕をしておられます。
聖書 第二サムエル24章10~14節
10ダビデは、民を数えた後で、良心のとがめを感じた。ダビデは主に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ。今、このしもべの咎を取り去ってください。私は本当に愚かなことをしました。」11朝ダビデが起きると、主のことばがダビデの先見者である預言者ガドにあった。12「行ってダビデに告げよ。『主はこう言われる。わたしはあなたに三つのことを負わせる。そのうちの一つを選べ。わたしはあなたに対してそれを行う。』」13ガドはダビデのもとに行き、彼に告げた。「七年間の飢饉が、あなたの国に来るのがよいか。三か月間、あなたが敵の前を逃げ、敵があなたを追うのがよいか。三日間、あなたの国に疫病があるのがよいか。今、よく考えて、私を遣わされた方に何と答えたらよいかを決めなさい。」14ダビデはガドに言った。「それは私には非常に辛いことです。主の手に陥らせてください。主のあわれみは深いからです。私が人の手には陥らないようにしてください。」
<説教>
T姉からご連絡をいただきましたときに、サムエル記24章10節からが心に留まりました。
この背景を簡単に申しますと、ダビデは羊飼いでありましたが、神様に選ばれ油注がれてサウル王様の後を継ぎ、イスラエルの第二代の王となります。サウルが初代ですが、実質的に王朝を確立したのはダビデでした。ダビデはいろいろな困難に遭います。ご存知のようにバテシバ事件から生じた家庭内の罅(ひび)、息子アブシャロムの反逆、そして息子の反逆で王座を追われるという人間としてほんとうに辛い経験をいたしました。しかし憐れみ深い神様の御恵の中に、ダビデは晩年、周囲の敵との戦いに大勝利し王国が確立します。これで次世代に託せるとほっとした時、そういう時にこそ課題がやってきます。第二サムエル24章1節をご覧いただきますと、
「1さて、再び主の怒りがイスラエルに対して燃え上がり、ダビデをそそのかして、彼らに向かわせた。「さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ」と。
事の起こりは人口調査が発端でした。今ですと国勢調査といったところでしょう。ただこの場合の国勢調査は、ダビデの慢心からで、ついに我が王国はこれほどの領土、領民、富、軍隊を持つ国になったのだ、自分もよくやったものだと自分の為したわざを誇らしげに数える、そういった動機からでした。それを暗示するのが10節です。国勢調査をしたとき、10節「ダビデは、民を数えた後で、良心のとがめを感じた。ダビデは主に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ、今、このしもべの咎を取り去ってください。私は本当に愚かなことをしました。」
ダビデのすばらしさは、示された罪に対して、すぐさま従順に、ああ、しまった、私は主の前に大きな罪を犯してしまった、と悔い改める。私は、これがそんなに大きな罪だろうかと読みながらびっくりしたのですが、これは神に対する傲慢であったのです。それに対して神様は厳しい裁きを与えられるお方でありました。
神様は預言者ガドを通じ、ダビデに次のように告げさせました。
主はこのように言っている。そして13節神様はダビデに三つの選択を迫りました。12節12節「行ってダビデに告げよ。『主はこう言われる。わたしがあなたに三つのことを負わせる。そのうちの一つを選べ。わたしはあなたに対してそれを行う。』」13節「ガドはダビデのもとに行き、彼に告げた。「七年間の飢饉が、あなたの国に来るのがよいか。三か月間、あなたが敵の前を逃げ、敵があなたを追うのがよいか。三日間、あなたの国に疫病があるのがよいか。今、よく考えて、私を遣わされた方に、何と答えたらよいかを決めなさい。」
ダビデに迫られたのは、7年間の飢饉か、或いは3か月の敵前逃亡生活、或いは国中に三日間の疫病が流行る、この三つの中一つを選ぶことでした。
いま第二サムエル24章が開かれておりますが、実は同じことが歴代誌第一21章のところにあります。背景は同じでありますが、歴代誌第一21章がまた興味深い。
歴代誌第一21章1節「さて、サタンがイスラエルに向かって立ちあがり、イスラエルの人口を数えるようにダビデをそそのかした。」とあります。サタンがイスラエルに向かって立ち上がってダビデをそそのかした。先ほどの第二サムエル24章1節の同じところを見ますと、「さて再び主の怒りがイスラエルに対して燃え上がり、ダビデをそそのかして彼らに向かわせた」。
これらのことを立体的にとらえますと、ダビデのようなすばらしい信仰者であったとしても、サタンが隙を狙って私たちを滅ぼそうとすることをここからも教えられます。そして歴代誌第一21章を見ますと同じことが書かれています。
歴代誌第一21章13節、「ダビデはガドに言った。「それは私には非常に辛いことです。私を主の手に陥らせてください。主のあわれみは深いからです。私が人の手には陥らないようにしてください。」。」こう書いてあります。そして第二サムエルの24章14節にも同じことばが記してあります。どちらもまったく同じことばです。「それは私には非常に辛いことです。」。ただ敢えて翻訳の違いだろうなと思うのですが、サムエルの方の2行目では「主の手に陥らせてください」とある。これは翻訳の問題ですが、違うのはここに「私を」がついているかいないかです。
つまりここでダビデが言ったのは、「私を憐れみ深い主の手に陥らせてください」ということです。人生にはどちらの選択をしても、悲しい、辛いことがある。どっちに行ったとしても腸が千切られるような思いをすることがあります。ダビデもそうでした。どの選択がいいか悪いかなどと言えない。T姉もそうでした。どちらだって辛い決断です。しかしそれをしなければならない時が来る。これが現実です。その現実をどのように受け止めるべきか。
ダビデも少年の時から波乱万丈でした。友達の裏切り、子どもの謀反、彼自身の大きな過ち、それらのものをぜんぶ神様の前に経験してきた、それこそ酸いも甘いもぜんぶ知っていたダビデが究極の選択を迫られたのです。そこで彼は、「それは私には非常に辛いことです。私を主の手に陥らせてください。」、こう選択しました。私は、このダビデの言葉を深く思い巡らしました。「私をあなたの御手の中に」。イエス様の御手には十字架の傷跡がある。私のために、こんな罪びとの私のために、贖いの最後の血の一滴までも流されたその十字架の御手の中に飛び込んでいく、陥らせていただく。さらに、イザヤ書の49章16節「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」。あの十字架の贖い、私たちを愛して赦してくださったあなたの御手の中に、同じその十字架の傷跡の中に主が私の名前を刻んで覚えていてくださる。このお方の御手の中に、飛び込むこと。ダビデはこれまでの自分の生涯を振り返り、そしていよいよ最後に彼が決断したのは、「あなたの腕の中に、御手の中に陥らせてください」。
もう一つ詩篇の138篇8節「主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。主よあなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざをやめないでください。」。
「あなたの御手のわざをやめないでください。」。「私のためにすべてを成し遂げてください。」
数日前に私のメールにクリスチャン新聞の電子版がありまして、訃報というタイトルで、ピアニスト工藤真史さんが昇天されたというニュースがありました。お父さんは工藤弘雄先生と仰って、岡山の香登教会の牧師をしておられます。インマヌエルの東北聖会にいちど講師としてお招きしたいと打診したところなかなか返事が返ってこない。一か月経ち2か月経っても返信がありませんでした。しかし後になって、先生の方から丁重なお便りが届きました。実は私のリクエストの手紙が届いた日にちょうど心筋梗塞で数か月間入院をしてしまい返事を書くことができませんでしたと。工藤先生とそんな第一報でやり取りが始まり、それから、ひろ子先生の弟が岡山の倉敷のほうに住んでおりまして、近いとは言えませんが、何回か香登教会に行きお世話になっているということ、それからインマヌエルの牧師たちの研修会には念願かなって工藤弘雄先生を講師としてお招きできたことがあり、とても近しさを覚えていた方でありました。その方のお嬢さんが工藤真史さんでした。私がこの方を知りましたのは、2016年9月に神戸を会場とした日本伝道会議が開かれました。夜は幾つかの自由な行動をとることが出来るコースが用意されておりました。一つはディナーコースで神戸の夜景を船で見ながら今回の講師の先生と一緒にディナーを楽しむ。それからもう一つの方は工藤真史さんのピアノコンサートでした。大震災から復興を遂げた大きな喫茶店でコンサートもできるようになっている会場でのピアノコンサートです。私はひろ子先生と一緒にピアノコンサートを選びました。工藤真史さんはそのとき直腸がんを患っておられ、全身に転移していくというさ中にあったのです。病にありながらも、 「コンパッション COMPASSION ~生かされて~」というCDを出されていました。闘病生活で教えられた神様の数々の恵をコンサートで証しをされました。こちらを選んでよかったと思いました。その真史さんが、ことしの1月3日についに癌でお亡くなりになったというメールがクリスチャン新聞でありました。
私が直に真史さんのピアノを聴いたのは2016年でしたが、「工藤真史」と検索をかけますと、ユーチューブで2018年の紀尾井ホールでのコンサート動画が出てきます。太平洋放送局協会の「世の光」が提供した番組としてアップされております。皆さん方もご覧になってみてください。自分にとって信仰はどういうものなのかということなどすばらしい演奏と証しです。
これを見ながら、神戸市垂水区の塩屋町にある神学校の責任をもっておられた工藤先生、そしてその聖歌隊の中で育まれた信仰、祈りがほんとうに多く多く捧げられていた中に2018年にこれだけのコンサートを開いた方が、2020年1月3日に天に帰られるというこの現実。教会をあげて祈っていたでしょう。これをいったいどのように私たちはとらえたらいいのか。ここで教えられた幾つかの事は、人は皆この世に命のある限り死を迎えます。ならば工藤先生方をはじめ香登教会をあげての祈りは空しいのでしょうか。どう私たちはこれを位置付けますか。
藤本満先生、ついこの前まではインマヌエルの代表をしておられた先生、英語が堪能でいらっしゃいますが、先生の著作に、非常に興味ある内容が紹介されておりました。
アメリカでは聖書に学問的にも優れているフラー神学校の教授の経験した話です。その教授夫妻には子どもがなかった。何とか子どもが欲しい。海外にまで行って治療を試みようやく赤ちゃんが生まれた。その喜びもつかの間、赤ちゃんが深刻な病を負ってしまった。主治医が言うに残念ながら今晩が山です。しかし何とか危機を超えて命が助かり大いに感謝していたところ、間もなく、そのお子さんが突然天に召されてしまった。その時のフラーの神学校の先生をしていた彼の証し。「私は神を恨んだ。そして、私はこれらのことを通して神を赦した」。藤本先生は言うのです。「神学的にそんな表現が正しいはずがない。誰よりもそんなことを知っている教授が、これらの一連の自分の経験したところを通って、それは簡単なことではなかった。しかし様々なプロセスを通って神を許した」。先生はこれで何を言おうとしているのでしょう。それは受け入れなければならない現実というものをしっかりと捉えて主の御手の中に解決を見出した。恵み深い主の御手の中にこれらの一連のどうしてですかとわからないような右か左か選ぶのに困難極まるどちらも辛いというようなところを、すべて神様の御手の中に落とし込んで、そして、主の前に神様を許すという表現を使えるほど、彼の信仰は高められていった。そう私は理解するのです。
どうでしょうか、主の御手の中に落ち込む幸い、ダビデはそれを知っていました。私たちも人生でほんとうに分からない、分からないことがあるけれども、幸いなことは神様の御手の中に落ち込むこと。私はこれを積極的委託、期待と信仰、希望をもって神様の御手の中に、その御手には私の名前が刻まれている、十字架の傷跡の中に。「私はあなたを掌に刻んだ」と聖書にあります。名前を刻んだとあるその神様の御手の中に落ち込むほど幸いなことはありません。
ダビデは言います。「人の手に陥らせないようにしてください。あなたの御手のうちに陥らせてください」
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