きょうのことば
インマヌエル盛岡キリスト教会2020年1月5日(日)の礼拝メッセージをおつたえいたします。
説教題『わたしの霊によって』(國光勝美牧師)
聖書 ゼカリヤ書4章6、7節
6彼は私にこう答えた。
「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。
『権力によらず、能力によらず、
わたしの霊によって』
と万軍の主は言われる。
7大いなる山よ。おまえは何者か。
おまえはゼルバベルの前で平らにされる。
彼がかしら石を運び出せば、
『恵みあれ。これに恵みあれ。』と叫び声があがる。」
<説教>
きょう2020年の第一回の聖日礼拝をこのように皆様方と共に守ることができ御前に深く感謝を覚えることでございます。
元旦礼拝でも触れましたゼカリヤ書4章でございますが、元旦礼拝に願いつつも来ることができなかった方々のために、もう一度、ゼカリヤ書の背景と4章6,7節に心を留め学びながら、今月最後の日曜にございます教会総会へ向かうべく導かれております。
ことしはこのゼカリヤ書4章6,7節を拠り所に皆さんと一緒に進んでいきたい、このように思っております。
旧約聖書は必ずしも年代順に書かれているのではありません。ただゼカリヤ書がイスラエルの民の歴史の中でどの辺にあるのかは知っておかねばなりません。
大まかには、イスラエル民族を歴史上に捉えられるのは、出エジプトであるかと思います。当時はエジプトが覇権を握っておりました。その頃がイスラエルのはじめです。
イスラエルの人々はエジプトという超大国の下にありました。これは我らイスラエルのあるべき姿ではない。我らはまことの神様に従うものであるとの無念さ。神はここにモーセという指導者を登場させます。モーセはイスラエルが国として成り立つために大きく貢献しました。神様はモーセを通して人々に十戒という掟を授けました。そして神様を礼拝するとはどういうことなのかを目に見える形で作るように命じられましたが、それが幕屋であります。
モーセのもとでイスラエルの民たちは、しだいに国家としての形を成り立たせていくわけであります。しかし彼らにはまだ自分たちに与えられた領土がない。本来あったはずが、領土がないのです。その領土はカナンの地と呼ばれてところでありました。いまのイスラエルという国のあるところとオーバーラップするのですけれども。その神様の約束して下さったカナンの地へ、我らのゆずりの地へとイスラエルの民たちはモーセに率いられてエジプトを脱出し、幾多の苦難を乗り越えながら、とうとうそこに定住するようになりました。
すでにそこには先住民族もいたのですが、戦いによって勝利し、土地はイスラエルの12部族に分け与えられました。群雄割拠しているそれぞれの部族の中で、やがてひとりのサウルという神様から油注がれた王様が与えられます。要するにイスラエルの民族がひとつの王国として漸く誕生したわけであります。しかしサウルよりもむしろその次、第二代であるダビデという王様、彼は羊飼いでありましたが油注がれ選ばれ、サウルの後を継いで、イスラエルの王国の基礎を築いた名君であり優れた信仰の器であります。彼が詠んださまざまな詩は聖書の詩篇に記されております。
旧約聖書の多くの歴史的な部分は、出エジプトから始まって、士師記、ルツ記、サムエル記、或いは列王、歴代といったところです。歴史書に登場するダビデ、そしてダビデの後を継いだ子どものソロモン。このダビデ、ソロモンは、イスラエル民族の大きな誇りでありました。特にも民族的な誇りとしては栄華を極めたソロモンの神殿です。それまでのモーセの幕屋はポータブルなものでありました。しかしソロモンの神殿が建ちまして、それは当時、世界的な視点からも一目置かれる壮麗なものでありました。
しかし、そのソロモンが晩年を迎えたとき、残念ながらソロモンは信仰の道から離れてしまいます。人間の弱さというもの、ダビデもそうですけれども、名君ダビデ、そして繁栄を極めたソロモンの失敗や欠点も、聖書はそのまま私たちに示しております。
ソロモンが神様の祝福から離れてしまってから国は分裂してしまいました。ソロモンの血筋から見る正統性を主張する南の方と、それからクーデターによって権力を奪取した北の王国に分かれます。どちらが正統か。血筋に正当性を置けば、勿論南の方になるのですけれども、南王朝、北王朝という二つの国に分かれたときから、イスラエルの国は衰退してまいります。
そのような中に、当時の地中海世界の絶対的な覇権を握ったのがバビロンという国でありました。このバビロンからすれば、南王朝、北王朝は衰退期に入っており、北の方はアッシリアという国によって滅ぼされます。命脈をわずかに保った南の方は、バビロンという国に滅ぼされます。そして民族的な誇りであった神殿は灰燼に帰してしまったわけであります。
しかし彼らはもう一つモーセによって与えられた十戒、それから派生しております律法、これは神様に仕えるための神様から与えられた規範でありますが、この我らは神から与えられた規範があるのだということがイスラエル民族の誇りであったわけです。
イスラエル民族の誇りは、我らには神殿がある、我らにはモーセの律法がある、この二つであり、我らはイスラエル民族であるというアイデンティティを持つに重要なものであったわけであります。しかし今申しました通り、バビロンという国によってイスラエル民族は囚われてしまい、失われてしまった。彼らがバビロンによって移住させられ囚われの身となってしまう。バビロン捕囚という場合もございます。イスラエル民族は失われたという思いと、しかし我らには神殿があった、あれを再建するのが民族的国家的なプロジェクトなのだという意識がある。そしてもう一つは、われらにはモーセの律法があるという誇り。それはどこで学ぶかというと、キリスト教の原型というともしかしたら近いのかもしれませんが、シナゴグで学んでいました。このときは神殿がありませんから、シナゴグに集まって、自分たちはユダヤ人である、イスラエル人であると結束するために、イスラエルのユダヤの人たちは土曜日が安息日ですので、シナゴグに集まってモーセの十戒、律法を聞くわけです。教えられるわけです。
私たちが聖書といって即思い浮かぶのは印刷されたものですが、印刷はずっと後のグーテンベルクの時代であって、当時はパピルス紙に書かれており、貴重な大切な写本として、一言一句誤りのないように書き写されたものでした。ですから聖書からの写本、写本、写本であり、聖書から書き写したそれらのものが、どれだけ大切であったか、彼らはそれをシナゴグで教えられることを民族的なアイデンティティとし、辛うじて保ち誇りとしていたのでありました。
そしてバビロンもやがてペルシャに覇権を奪われてしまうのであります。簡単なこのような背景を是非知っておいていただきたい。バビロンに代わって世界の覇権を握ったのはペルシャでした。このペルシャの政治方針、統治方針は、バビロンとはすこし違っていたようであります。ペルシャのキュロス王は、イスラエルがまだ滅ぼされる前に、当時の預言者イザヤによって、或いはエレミヤによって、やがて我らを解放してくれるキュロスという名の王が現れると預言されていた王でありました。キュロス王自身がこの預言を知ることとなったのです。そして、キュロスは、もしバビロンにいるユダヤの人たちが帰って祖国を復興したいと望むならば、帰りたいという思いがあるのならば財政援助を惜しまない、どうか自分たちの国に帰って国を復興しなさいという勅令を出しました。
預言者ゼカリヤと預言者ハガイは、いままでここに住んである程度の生活基盤は確立していたのですが、この勅令に、志を同じくする人々と共に安定した生活を捨て、故国に帰り民族的な使命を果たそうと心を奮い立たせました。
このハガイ書の1章12節、
「12そこで、シャルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアと、民の残りの者すべては、彼らの神、主が預言者ハガイを遣わされたとき、彼らの神主の御声とハガイのことばとに聞き従った。民は主の前で恐れた。13主の使者ハガイは、主の使命を受けて、民にこう言った。「わたしは、あなたがたとともにいる。――主のことば。――」14主は、シャルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの霊と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの霊と、民の残りの者すべての霊を奮い立たせたので、彼らは自分たちの神、万軍の主の宮に行き、仕事に取りかかった。」
このようにありますが、この背景を覚えていただきながら、ゼルバベル、ヨシュアという人たちが、われらの神殿を回復しよう、かつてのダビデ、ソロモンの宮を建設しようとの使命感から国に帰っていったことがわかります。
しかし、そこにはすでに先住民族がおりました。留守の間に住み着いた先住民族たちと摩擦を生じるわけです。新しいところに帰ってきて自分たちの生活を再興するとともに、また並行的に神殿を建てるという、ある意味自分たちの生活とは直接関係のない神殿建築に多くの労力と財力を投じなければなりません。我らの国を再建しようという燃える思いを持って故国に帰ってきた人たち。それがその人たちにして、長きに亘る戦いで大きな困難に直面します。これがゼカリヤ書の4章の背景になっているところであります。
神殿の再建のために彼らは頑張ったのです。しかし敵の攻撃がある、或いは内輪もめが出てくるなどの難題に直面し、ゼルバベル或いはヨシュアのこのふたりの政治的な指導者たちはたじろいでしまった。
私たちの信仰生活においてもそうではないのかということを元日礼拝の時にも申し上げました。クリスチャン信仰生活も、それが世の中の圧倒的な力、妨害、試練というものが打ち続くときに、いつのまにか最初の燃えるような思いが蔭ってしまう。これは人間として無理からぬことです。霊に燃えて主に仕えたいという思いを持っていながら、しかし困難さが続きますと、霊に燃えるというその燃え方、かつては燃えていたのにいつの間にか滞ってしまう。誰にでもあることです。ゼルバベルでさえそうでした。ヨシュアがそうでした。その時こそ、神さまは幻を示してくださる。
ゼカリヤという預言者は幻の預言者といわれます。エゼキエルとよく似ているところがあります。民が失望落胆しているときに、わたしはこういう幻を見た、神様は必ずやこういうことをしてくださる、その幻をしっかりと人々に提供している。それがたとえば
4章11節「私はまた、彼に尋ねて言った。「燭台の右左にある、この二本のオリーブの木は何ですか。」
これがゼカリヤが神様から与えられた幻であります。私はこれを見たと意気消沈しているゼルバベルに告げ、彼を励まし人々を再び奮い立たせます。
こんどは6節7節に集中しましょう。
今年の聖言として掲げるに、私は新改訳もいいのですが文語訳の方がぴしっと心に納まります。すこし落ち込んでいるゼルバベルに、神様がゼカリヤを通していったことばです。
6 彼また答へて我に言けるはゼルバベルにヱホバの告たまふ言は是のごとし萬軍のヱホバ宣ふ是は權勢(いきおい)に由らず能力(ちから)に由らず我靈に由るなり7ゼルバベルの前にあたれる大山よ汝は何者ぞ汝は平地とならん彼は恩惠あれ之に恩惠あれと呼はる聲をたてて頭石を曳いださん
ゼルバベルよ、あなたがいま困難だと思っているそれを、あなたの何によって克服し成就しようとしているのか、あなたが直面している課題は「權勢に由らず能力に由らず」なのだよ、これはペルシャのお墨付きのこの皇帝の命を受けて神殿建築をしているのだという世の中的な権威でやるんじゃない、世の中の大勢がひれ伏すような能力や力でもない。そんなものを当てにするんじゃない、そうじゃない。あなたは自分の力で、自分の才能、才覚といった賜物でそれをしようとしているのか、そんなことでできる仕事じゃない。あなたがいま取り掛かろうとしているのは、神様の霊によって成し遂げるものなんだ、「我靈に由るなり」。「是は權勢に由らず能力に由らず我靈に由るなり」。ゼルバベルの前に当たれる大きな山、困難、いったいそれは何者だ。お前はゼルバベルの前で平地となる。「我靈に由る」なら、大きな山であったとしても、それは平地となるのだよ。これはゼルバベルにとって大きな励ましとなりました。
元旦礼拝でお話ししましたが、それを「萬軍のヱホバ宣ふ」。「万軍の主はいわれる」。私たちが一年をスタートするとき、神様からどういうことばをいただき、どういう言葉をしっかり握りしめて歩んだらいいのか。
何度か音叉の話しもしました。私はこの音叉はある真理を伝えてくれていると思います。同じ周波数のもう一つ別の物を近くに置き、一方をポーンと鳴らしますと、もう一つの方にもポーンと振動が伝わるのです。周波数が違うとダメですね。どんなに形が同じでも周波数が違うと響きません。同じ周波数をもっていると、一つをポーンとたたくと、別な方がたたきもしないのにポーンとなります。これは何を意味するか。神様と周波数を合っていることが肝心です。周波数を合わせられるには新生経験が必要です。イエス・キリストの十字架を信じ、その意味がほんとうに分かって、ああ、そうだ、イエス様の救いは、福音はこういうものなのだとほんとうに分かっているときに、私たちは神様と周波数が合うのです。
皆さんが手にしておられる聖書、私も手にしておりますけれども、この聖書を読みますとき、世の中の他の人も本屋さんで聖書を買って読むことができます。ああ、新約聖書とはこうか、旧約聖書はこうか。或いはもっと勉強が好きな人はヘブル語でギリシャ語でこれを読むことが出来る。しかし、聖書をどのような言葉で読んだとしても、周波数が同じかどうかによって、まったく意味が違うのです。私たちは生まれ変わって神様の十字架の愛を、そして復活を主イエス様の恵みを知っているなら、聖書のことばを読んでおりますと響いてくるのです。響いてくるってどういうことですか、主観主義じゃないですか、危険じゃないですか、という方が或いはそういう危惧を持たれるかもしれません。しかしそうではない。主観主義とか熱狂主義とは違います。心に響くという経験をどう説明したらいいのか。それは事実ほんとうに心に響くのです。私たちが、主よどうぞ導いてくださいと真実に求める心を持ち、それから砕かれた心をもって聖書を読み祈り求めるときに、聖言は心に響いてきます。
砕かれるということはなかなか難しいことです。教えられやすい心ともいえるでしょう。人に教えられるということは、こちらがへりくだっていないと教えられるという事にはなかなかなりません。
ちょっとした例話があります。私どもと同じような教えの救世軍という団体があります。そこでの話です。イギリスでエリートコースを歩んできた青年がキリストの救いに与り救世軍の働きに入りました。ここでは青年がどれほどの大学を出て、成績がどれほど優れていたかなどは一切公表しません。彼は寮に入りました。自分よりはるかに社会的にも能力的に劣っている上級生たちの靴を磨かなければなりません。彼には大きな葛藤、煩悶があったでしょう。彼は「主よこの傲慢な私を砕いてください」と祈りました。その祈りに同席して和して祈ってくれた兄弟が、お祈りが終わったとき「ほんとうにねえ、あなたほんとうに傲慢だもんね」と彼に言ってしまった。青年はこれにはカチンときたというのです。まだほんとうには砕かれていない。自分の心の中を探っていくとこういうことがあるのです。ほんとうに求める心、砕かれる心、そしてそのみことばに喜んで従おうとする心は、これは聖潔(きよめ)にかかっている。周波数が合うのは、新生経験によると申しました。そして、この新生経験で、周波数は合うようになるのですが、その音叉の中に何か不純物が入っていると、せっかく響いているのにまったくは響かなくなってしまう。ほんのわずかな不純物が響かなくしてしまう。これに気付いたときに、「御子イエスの血全ての罪よりわれらをきよむ」このおことばを信じて「このありさまを本当に砕いてください」と祈りましょう。砕かれて出てゆくとき。私たちは聖書のことば、しかも僅かな音でも共鳴箱に響くことを経験します。聖潔の中に神様のおことばををどうぞお聞きください。
ネヘミヤ記8章1節
1 その時民は皆ひとりのようになって水の門の前の広場に集まり、主がイスラエルに与えられたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに言った。
そして3節を見ると
3 水の門の前にある広場で、夜明けから真昼まで、男女および理解できる人々の前でこれを朗読した。民はみな律法の書に耳を傾けた。
そして8節
8 彼らが神のみ教えの書を読み、その意味を明快に示したので、民は読まれたことを理解した。
皆さん、この当時彼らは神様の聖言を耳で聞いていたんです。神のことばを読んで理解するというのは、あの印刷技術が世の中に普及した後のことです。その前まで人々はみな耳で聴いていたのです。これはとても2意味のあることだなと思います。私たちは神のことばをいつも読む聖書として理解いたしますけれども、聞く聖書というのがございます。もうすでにご存知という方もいらっしゃるとおもいますけれども、「聴くドラマ聖書」というのがあります。これは無料で手に入るものです。スマホでしたなら、どの機種でも無料で、私たちがもっている聖書と1字1句違わないものが提供されておりますので、是非ご活用ください。
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