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2020年1月

歩けや歩け もりおか街さんぽ 

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20/1/31kurasikkukurabuwo 20/1/31クラシック倶楽部を聴く

クラシックアラカルト タリス+ホリガー

 

(合唱)タリス・スコラーズ、(指揮)ピーター・フィリップス
~東京オペラシティ コンサートホール(201964日)~

☆「聖所にて 賛美せよ」バード:作曲
☆「めでたし いと聖なるおとめ」ゲレーロ:作曲
☆「主よ 認めたまえ」バード:作曲
☆「クルチフィクスス(十字架につけられ)」ロッティ:作曲

~浜離宮朝日ホール(2019105日)~
☆「2つのオーボエ ファゴットと通奏低音のためのソナタ 第1番」ゼレンカ:作曲
(オーボエ)ハインツ・ホリガー、(オーボエ)マリー・リーゼ・シュプバッハ、(ファゴット)ディエゴ・ケンナ、(コントラバス)エディクソン・ルイス、(チェンバロ)桒形亜樹子
☆「コントラバス独奏のための前奏曲とフーガから フーガ」ホリガー:作曲
(コントラバス)エディクソン・ルイス

🎵「クルチフィクスス」の歌詞「ポンテオピラトのもとにて苦しみを受け葬られ給えり」。これは主日礼拝のときに必ず唱える使徒信条の中にある。聖書の言わんとする趣旨が凝縮されている。

使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、
死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、
天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の
わり、罪のゆるし、
からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。
アーメン

ホリガー作曲のコントラバス、エディクソン・ルイス、従来のコントラバスの弓使いを脱却しようとの革新的な作意が感じられた。これが引くべき弦の位置かと思われる弦の最下位まで下りる弓。けっこうこれが独特な響となる。大きな弓をここまで切れよく素早く使うテクニックは並大抵ではないのでは。

🎧名曲アルバム「春の海」宮城道雄
【バイオリン】篠崎史紀,【箏】砂崎知子

🎵近代で日本独自、独特な特徴を備えた世界に通じる作曲家は宮城道雄ただひとりといった音楽評論家がいた。見えない彼がこれだけの広がり、開けた景観を達観しているともおもわれる穏やかさ美しさ繊細さでなぜ表現できるのかが不思議。

⛳宗教曲もすこし学んだところで良さがわかるように。しかし賛美歌は学ばなくとも良さがわかる、いまそんな感じがして時刻を見ると6時50分。


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20/1/30クラシック倶楽部を聴く?

クラシックアラカルト デュフォー+アマリリス


☆「「しぼんだ花」の主題による序奏と変奏曲 D.802」シューベルト:作曲
(フルート)マテュー・デュフォー、(ピアノ)浦壁信二
~武蔵野市民文化会館 小ホール~
「弦楽四重奏曲 ハ長調 K.465「不協和音」から」モーツァルト:作曲
(弦楽四重奏)アマリリス四重奏団
~2019年9月28日第一生命ホール~

🎵けさは後半の弦楽、しかも後半の後半、第4楽章。結局、ネット漫遊で自習。アマリリスは去年の11月に放送になっているから、もしかすれば、この時に割愛した曲を入れてくれたかも。

🎧名曲アルバム
「皇帝円舞曲」ヨハン・シュトラウス作曲
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団,【指揮】円光寺雅彦

ハプスブルク家

⛳真夜中2時に目が覚め、ミルク一杯温めいただいてまた就寝。気が付けば5時40分。目覚ましを使う習慣はない。久方ぶりに夢を見ていた。人と話している夢。何人かと話していた。で、音楽はネット漫遊となり、次の番組オランウータンの学校、3歳のベニくんのダイエットなどをついつい見てしまい、それから6時55分の更新。

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20129クラシック倶楽部を聴く

スティーヴ・ライヒ 80th Anniversary
~東京オペラシティコンサートホール~


☆「クラッピング・ミュージック」スティーヴ・ライヒ:作曲
(クラッピング)スティーヴ・ライヒ、(クラッピング)コリン・カリー
☆「カルテット」スティーヴ・ライヒ:作曲
(器楽アンサンブル)コリン・カリー・グループ
☆「テヒリーム」聖書 新共同訳:作詞、スティーヴ・ライヒ:作曲
(指揮)コリン・カリー、(器楽アンサンブル)コリン・カリー・グループ、(女声コーラス)シナジー・ヴォーカルズ

🎵80歳記念コンサート。「クラッピング・ミュージック」、作曲というけれど、どんな楽譜になっていたのか。「オリジナルは、ひとりが同じパターンのリズムを繰り返して打ち、もうひとりがそのパターンを8分音符一つずつずらして打っていくという作品」。誰でも出来そうでライヒ独特のオリジナル。ライヒの作曲前にどこかで誰かが鳴らしていそうな。「カルテット」、ピアノ2台とヴィブラフォン2台。コリン・カリー、「パーカッション・サウンドのシンプルな組み合わせで、あのように壮大な構造を作り上げる手法は、彼独自の音楽的な言語」と。球体が未知の空間を際限なく無理なく浮遊、変転するさまが。「テヒリーム」、ユダヤ人としての自らを意識したとか。神への賛歌、祈りが天に通って,透っているような。その世界では誰でもが知っているライヒ、それがまったく知らなかった者がここにいる。この筆者、もはや骨董品。

 

🎧名曲アルバム
「新世界 第2楽章」ドボルザーク作曲
【管弦楽】NHK交響楽団,【指揮】円光寺雅彦

⛳6時54分更新

 

 

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20128クラシック倶楽部を聴く

ドーリック弦楽四重奏団
20191031日 紀尾井ホール~

 

 「弦楽四重奏曲 変ロ長調 作品130(大フーガ 作品133つき)」
ベートーベン:作曲
(演奏)ドーリック弦楽四重奏団、(第1バイオリン)アレックス・レディントン、(第2バイオリン)イン・シュー、(ビオラ)エレーネ・クレマン、(チェロ)ジョン・マイヤースコウ

 

🎵高貴なロマン、レーザーのような鮮明さとも評されているドーリック。名前は古代ギリシャのあの特徴的な柱ドーリックから。しっかりとした聞き取りもしかねたが、この弦楽四重奏は素早い演じ分けが必要であると。体力を使わせるけれども、これもベートーベンの要求なのだとのコメントに奏者の実感が。ベートーベンは晩年フーガに夢中だったという。飽くなき音のグレートトラバースだ。大フーガ、実は不協和音かだみ声を聴かせられたという感じがしないでもなかった。これは演奏技術のことではなく、ベートーベンの曲自体について感じたことなのだけれども。しかし聴いているうちに、この奏者を振り回しそうな、奏者を中心軸から振り落としそうな音、音、音が、実は嵌るべきところにストンと嵌っており、独特な刺激的な味わいとなっている。このフーガだけをまた聴いてみようと思い音源を探し出した自分に、これは嵌っちゃったかなと。



🎧名曲アルバム
「ニュルンベルクのマイスタージンガー 前奏曲」
【指揮】広上淳一,【管弦楽】NHK交響楽

⛳けさも「聖母被昇天」の大写しをワグナーの楽曲と共に。すばらしい。この絵画、写真だけでも手に入れられないかな。
次の番組のオランウータンの学校をわき見しながら、6時38分更新。

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20127クラシック倶楽部を聴く

フィルハーモニック・ファイヴ×ベートーベン×デジタルアート
2019118日 チームラボプラネッツ~

☆「ルートヴィヒのラグ」ベートーベン:作曲、コヴァーチ:編曲
(ピアノ五重奏)フィルハーモニック・ファイヴ
☆「ピアノ四重奏曲 作品16から 第2楽章」ベートーベン:作曲
(ピアノ四重奏)フィルハーモニック・ファイヴ
☆「テレーゼの夢(シューマン「ベートーベンの主題による変奏形式の練習曲」による)」コヴァーチ:作曲
(ピアノ五重奏)フィルハーモニック・ファイヴ
☆「セレナード 作品25 から」ベートーベン:作曲
(弦楽三重奏)フィルハーモニック・ファイヴ
☆「シネマ風アレグレット」ベートーベン:作曲、ヴェルツォヴァ:編曲
(ピアノ五重奏)フィルハーモニック・ファイヴ
☆「ロンドとアレグレット」ベートーベン&アブレウ:作曲、コヴァーチ:編曲
(ピアノ五重奏)フィルハーモニック・ファイヴ
☆「カリビアン・テンペスト」ベートーベン&カミロ:作曲、コヴァーチ:編曲
(ピアノ五重奏)フィルハーモニック・ファイヴ


🎵コヴァーチのコメントは、ベートーベンはジャズの預言者であると。ジャズが生まれる100年以上も前に着想があったこと。当時には受けなくとも自分のアイデアと音楽を疑わずに信じ続けたこと。そして、このデジタル・アート・ミュージアムでのコラボでは美のルネサンスが起きており、叡智と力強さ、美の調和を生み出されているといったことなどだった。
「ルートヴィヒのラグ」、ピアノ・ソナタ32番にあらわれるスィング・ジャズ風。この32番がジャズの預言にはよく引き出される。ジャズの良さを教えられたのは、このクラシック倶楽部でだった。ベートーベンの先見的感性とでもいうべきか。デジタル・アートとのコラボは、時という久遠の流れの宇宙に漂いながら演奏しているかの趣がある。こうしたある意味の錯視、音だけは錯聴ではないのだが、それらもこのデジタル世界とのコラボがもたらしてくれるものかと。ベートーベン交響曲第7番の登場に、室内楽版ではベートーベンの艶消しになるのではと思いきや、荘重さがデジタルの光の断片を吸収し、重力から放たれた精緻で玄妙な表現を聴かせてくれた。ピアノ協奏曲第一番では難なく響いたティコティコ。ベートーベンが時代の最先端に削がれず損なわずに如何なるものとも対峙し、並び、調和し、そしてその中で他を確かに凌駕しているところに、ベートーベンのすごさをまたしても。

 

🎧名曲アルバム
「交響曲 イタリア」メンデルスゾーン作曲
【指揮】円光寺雅彦,【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団

⛳ブレイクを入れながら、いま6時52分。けさもベネチアの隆々たる芸術建造物を映像に見、曲の美しさに心酔。日々取り込めば、何かにはなってるでしょとおもいながら更新。

 

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きょうのことば

インマヌエル盛岡キリスト教会2020119日()の礼拝メッセージをおつたえいたします。

説教題『主の御手の中に』(國光勝美牧師)

 國光勝美牧師・ひろ子牧師は、46年の間、盛岡で主のご奉仕をしておられます。

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聖書 第二サムエル24章10~14節

10ダビデは、民を数えた後で、良心のとがめを感じた。ダビデは主に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ。今、このしもべの咎を取り去ってください。私は本当に愚かなことをしました。」11朝ダビデが起きると、主のことばがダビデの先見者である預言者ガドにあった。12「行ってダビデに告げよ。『主はこう言われる。わたしはあなたに三つのことを負わせる。そのうちの一つを選べ。わたしはあなたに対してそれを行う。』」13ガドはダビデのもとに行き、彼に告げた。「七年間の飢饉が、あなたの国に来るのがよいか。三か月間、あなたが敵の前を逃げ、敵があなたを追うのがよいか。三日間、あなたの国に疫病があるのがよいか。今、よく考えて、私を遣わされた方に何と答えたらよいかを決めなさい。」14ダビデはガドに言った。「それは私には非常に辛いことです。主の手に陥らせてください。主のあわれみは深いからです。私が人の手には陥らないようにしてください。」

<説教> 

 T姉からご連絡をいただきましたときに、サムエル記2410節からが心に留まりました。

 この背景を簡単に申しますと、ダビデは羊飼いでありましたが、神様に選ばれ油注がれてサウル王様の後を継ぎ、イスラエルの第二代の王となります。サウルが初代ですが、実質的に王朝を確立したのはダビデでした。ダビデはいろいろな困難に遭います。ご存知のようにバテシバ事件から生じた家庭内の罅(ひび)、息子アブシャロムの反逆、そして息子の反逆で王座を追われるという人間としてほんとうに辛い経験をいたしました。しかし憐れみ深い神様の御恵の中に、ダビデは晩年、周囲の敵との戦いに大勝利し王国が確立します。これで次世代に託せるとほっとした時、そういう時にこそ課題がやってきます。第二サムエル241節をご覧いただきますと、

1さて、再び主の怒りがイスラエルに対して燃え上がり、ダビデをそそのかして、彼らに向かわせた。「さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ」と。

事の起こりは人口調査が発端でした。今ですと国勢調査といったところでしょう。ただこの場合の国勢調査は、ダビデの慢心からで、ついに我が王国はこれほどの領土、領民、富、軍隊を持つ国になったのだ、自分もよくやったものだと自分の為したわざを誇らしげに数える、そういった動機からでした。それを暗示するのが10節です。国勢調査をしたとき、10節「ダビデは、民を数えた後で、良心のとがめを感じた。ダビデは主に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ、今、このしもべの咎を取り去ってください。私は本当に愚かなことをしました。」

ダビデのすばらしさは、示された罪に対して、すぐさま従順に、ああ、しまった、私は主の前に大きな罪を犯してしまった、と悔い改める。私は、これがそんなに大きな罪だろうかと読みながらびっくりしたのですが、これは神に対する傲慢であったのです。それに対して神様は厳しい裁きを与えられるお方でありました。

神様は預言者ガドを通じ、ダビデに次のように告げさせました。

主はこのように言っている。そして13節神様はダビデに三つの選択を迫りました。1212節「行ってダビデに告げよ。『主はこう言われる。わたしがあなたに三つのことを負わせる。そのうちの一つを選べ。わたしはあなたに対してそれを行う。』」13節「ガドはダビデのもとに行き、彼に告げた。「七年間の飢饉が、あなたの国に来るのがよいか。三か月間、あなたが敵の前を逃げ、敵があなたを追うのがよいか。三日間、あなたの国に疫病があるのがよいか。今、よく考えて、私を遣わされた方に、何と答えたらよいかを決めなさい。」

ダビデに迫られたのは、7年間の飢饉か、或いは3か月の敵前逃亡生活、或いは国中に三日間の疫病が流行る、この三つの中一つを選ぶことでした。

いま第二サムエル24章が開かれておりますが、実は同じことが歴代誌第一21章のところにあります。背景は同じでありますが、歴代誌第一21章がまた興味深い。

歴代誌第一211節「さて、サタンがイスラエルに向かって立ちあがり、イスラエルの人口を数えるようにダビデをそそのかした。」とあります。サタンがイスラエルに向かって立ち上がってダビデをそそのかした。先ほどの第二サムエル241節の同じところを見ますと、「さて再び主の怒りがイスラエルに対して燃え上がり、ダビデをそそのかして彼らに向かわせた」。

これらのことを立体的にとらえますと、ダビデのようなすばらしい信仰者であったとしても、サタンが隙を狙って私たちを滅ぼそうとすることをここからも教えられます。そして歴代誌第一21章を見ますと同じことが書かれています。

歴代誌第一2113節、「ダビデはガドに言った。「それは私には非常に辛いことです。私を主の手に陥らせてください。主のあわれみは深いからです。私が人の手には陥らないようにしてください。」。」こう書いてあります。そして第二サムエルの2414節にも同じことばが記してあります。どちらもまったく同じことばです。「それは私には非常に辛いことです。」。ただ敢えて翻訳の違いだろうなと思うのですが、サムエルの方の2行目では「主の手に陥らせてください」とある。これは翻訳の問題ですが、違うのはここに「私を」がついているかいないかです。

つまりここでダビデが言ったのは、「私を憐れみ深い主の手に陥らせてください」ということです。人生にはどちらの選択をしても、悲しい、辛いことがある。どっちに行ったとしても腸が千切られるような思いをすることがあります。ダビデもそうでした。どの選択がいいか悪いかなどと言えない。T姉もそうでした。どちらだって辛い決断です。しかしそれをしなければならない時が来る。これが現実です。その現実をどのように受け止めるべきか。

ダビデも少年の時から波乱万丈でした。友達の裏切り、子どもの謀反、彼自身の大きな過ち、それらのものをぜんぶ神様の前に経験してきた、それこそ酸いも甘いもぜんぶ知っていたダビデが究極の選択を迫られたのです。そこで彼は、「それは私には非常に辛いことです。私を主の手に陥らせてください。」、こう選択しました。私は、このダビデの言葉を深く思い巡らしました。「私をあなたの御手の中に」。イエス様の御手には十字架の傷跡がある。私のために、こんな罪びとの私のために、贖いの最後の血の一滴までも流されたその十字架の御手の中に飛び込んでいく、陥らせていただく。さらに、イザヤ書の4916節「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」。あの十字架の贖い、私たちを愛して赦してくださったあなたの御手の中に、同じその十字架の傷跡の中に主が私の名前を刻んで覚えていてくださる。このお方の御手の中に、飛び込むこと。ダビデはこれまでの自分の生涯を振り返り、そしていよいよ最後に彼が決断したのは、「あなたの腕の中に、御手の中に陥らせてください」。

もう一つ詩篇の1388節「主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。主よあなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざをやめないでください。」。

「あなたの御手のわざをやめないでください。」。「私のためにすべてを成し遂げてください。」

数日前に私のメールにクリスチャン新聞の電子版がありまして、訃報というタイトルで、ピアニスト工藤真史さんが昇天されたというニュースがありました。お父さんは工藤弘雄先生と仰って、岡山の香登教会の牧師をしておられます。インマヌエルの東北聖会にいちど講師としてお招きしたいと打診したところなかなか返事が返ってこない。一か月経ち2か月経っても返信がありませんでした。しかし後になって、先生の方から丁重なお便りが届きました。実は私のリクエストの手紙が届いた日にちょうど心筋梗塞で数か月間入院をしてしまい返事を書くことができませんでしたと。工藤先生とそんな第一報でやり取りが始まり、それから、ひろ子先生の弟が岡山の倉敷のほうに住んでおりまして、近いとは言えませんが、何回か香登教会に行きお世話になっているということ、それからインマヌエルの牧師たちの研修会には念願かなって工藤弘雄先生を講師としてお招きできたことがあり、とても近しさを覚えていた方でありました。その方のお嬢さんが工藤真史さんでした。私がこの方を知りましたのは、20169月に神戸を会場とした日本伝道会議が開かれました。夜は幾つかの自由な行動をとることが出来るコースが用意されておりました。一つはディナーコースで神戸の夜景を船で見ながら今回の講師の先生と一緒にディナーを楽しむ。それからもう一つの方は工藤真史さんのピアノコンサートでした。大震災から復興を遂げた大きな喫茶店でコンサートもできるようになっている会場でのピアノコンサートです。私はひろ子先生と一緒にピアノコンサートを選びました。工藤真史さんはそのとき直腸がんを患っておられ、全身に転移していくというさ中にあったのです。病にありながらも、 「コンパッション COMPASSION ~生かされて~」というCDを出されていました。闘病生活で教えられた神様の数々の恵をコンサートで証しをされました。こちらを選んでよかったと思いました。その真史さんが、ことしの13日についに癌でお亡くなりになったというメールがクリスチャン新聞でありました。

 私が直に真史さんのピアノを聴いたのは2016年でしたが、「工藤真史」と検索をかけますと、ユーチューブで2018年の紀尾井ホールでのコンサート動画が出てきます。太平洋放送局協会の「世の光」が提供した番組としてアップされております。皆さん方もご覧になってみてください。自分にとって信仰はどういうものなのかということなどすばらしい演奏と証しです。

これを見ながら、神戸市垂水区の塩屋町にある神学校の責任をもっておられた工藤先生、そしてその聖歌隊の中で育まれた信仰、祈りがほんとうに多く多く捧げられていた中に2018年にこれだけのコンサートを開いた方が、202013日に天に帰られるというこの現実。教会をあげて祈っていたでしょう。これをいったいどのように私たちはとらえたらいいのか。ここで教えられた幾つかの事は、人は皆この世に命のある限り死を迎えます。ならば工藤先生方をはじめ香登教会をあげての祈りは空しいのでしょうか。どう私たちはこれを位置付けますか。

藤本満先生、ついこの前まではインマヌエルの代表をしておられた先生、英語が堪能でいらっしゃいますが、先生の著作に、非常に興味ある内容が紹介されておりました。

アメリカでは聖書に学問的にも優れているフラー神学校の教授の経験した話です。その教授夫妻には子どもがなかった。何とか子どもが欲しい。海外にまで行って治療を試みようやく赤ちゃんが生まれた。その喜びもつかの間、赤ちゃんが深刻な病を負ってしまった。主治医が言うに残念ながら今晩が山です。しかし何とか危機を超えて命が助かり大いに感謝していたところ、間もなく、そのお子さんが突然天に召されてしまった。その時のフラーの神学校の先生をしていた彼の証し。「私は神を恨んだ。そして、私はこれらのことを通して神を赦した」。藤本先生は言うのです。「神学的にそんな表現が正しいはずがない。誰よりもそんなことを知っている教授が、これらの一連の自分の経験したところを通って、それは簡単なことではなかった。しかし様々なプロセスを通って神を許した」。先生はこれで何を言おうとしているのでしょう。それは受け入れなければならない現実というものをしっかりと捉えて主の御手の中に解決を見出した。恵み深い主の御手の中にこれらの一連のどうしてですかとわからないような右か左か選ぶのに困難極まるどちらも辛いというようなところを、すべて神様の御手の中に落とし込んで、そして、主の前に神様を許すという表現を使えるほど、彼の信仰は高められていった。そう私は理解するのです。

 どうでしょうか、主の御手の中に落ち込む幸い、ダビデはそれを知っていました。私たちも人生でほんとうに分からない、分からないことがあるけれども、幸いなことは神様の御手の中に落ち込むこと。私はこれを積極的委託、期待と信仰、希望をもって神様の御手の中に、その御手には私の名前が刻まれている、十字架の傷跡の中に。「私はあなたを掌に刻んだ」と聖書にあります。名前を刻んだとあるその神様の御手の中に落ち込むほど幸いなことはありません。

ダビデは言います。「人の手に陥らせないようにしてください。あなたの御手のうちに陥らせてください」

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雑感

J-MERO
ゲスト  BOYS AND MEN、鈴木愛理

🎵今回、May.Jのインタビューなし。ゲスト同士が互いにインタビュー。J.ポップはアニメ劇場版主題歌が強そう。BOYS AND MENはタイ公演、鈴木愛理はフランス公演を。鈴木、フランスでは「かわいい」がフランス語に。聞き間違いか、ほんとうか? 15年間はグループでアイドルだった鈴木、単独になって、持久力のあるボイストレーニングが必要になったのだとか。ちょっぴりベリーダンスを感じさせるパフォーマンスに現実に目覚めた歌詞内容、「半端な言葉は要らない」「ぬるい夢なんか見せないで」「ブレーキのきかないフリーウェイ」。片や、BOYS AND MEN、「駆け抜けろどこまでも」「全速力ででっかい夢掴もうぜ」「不器用だっていい、どでかい夢叶えようぜ」のスピード感。双方、若い世代を席巻。

 

⛳さてきょうはこれを聴いて何がわかるかしらん、といぶかりつつも。ライブでノリノリ、耳にさしてノリノリの若者たちのすがたが。6時31分更新。

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20124クラシック倶楽部を聴く

河村尚子ピアノ・リサイタル
20191113日 紀尾井ホール~

オール・ベートーベン
☆「ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110
「ピアノ・ソナタ 第32番 ハ短調 作品111
☆アンコール「ピアノ・ソナタ 第30番 ホ長調 作品109 3楽章から」 

🎵この演奏がピアノ・ソナタプロジェクトvol.4の最終日だったようだ。アンコール曲にはいるまえにサポーターたちへの感無量の挨拶があった。
 ベートーベン後期のピアノ・ソナタ。とにかく熱い作曲家ベートーベン、繰り返ししつこいほど。躍動感、リズミカル、愛情と尽きない。とびぬけ時代を超えたアイデアを古い形式から新しい世代へどうつなぐか、渡すか、探求力、想像力が最後の最後まで。形式をまもる部分、弾ける部分とありそのギャップがおもしろい。人生そのものを音楽にした人間。ざっとであるが、このようなコメントを。
  近頃は理屈より何より作曲家の音を通して旋律に現われている感情を共有できればそれでいいと思っていたけれども、やはり、こうした奏者からの解説、コメントでより注意深く耳を傾けることが。特に32番は最後のピアノ・ソナタ作品と同じ1822年の完成。未知な音楽を探求して未来を切り開こうとした作品というだけあり、えっ、これがベートーベン、と意外なフレーズが。本来持ついわば“定番”、作曲者の特質、資質からすれば、こういこうとしたところを、そこに、くっと制御を働かせて別方向に探りを入れ、手繰り寄せ、楽曲というに足るよう連ねていくといった感じが。大変興味深く聴かせていただいた。 

🎧名曲アルバム
「美しく青きドナウ」ヨハン・シュトラウス
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団,【指揮】沼尻竜典

 🎵当時のヨーロッパを、いまは世界を、世々永劫を席巻するこの曲。社交界デビューに胸をときめかせ踊る乙女ら、11か国の景観を流しながらめぐる青き、ほんとうに今も水は青いだろうかとふと不安は過るけれども、しかしどこまでも青きドナウの美しさ明るさなどなどを容れて響きくる楽の音。

⛳一旦立ち消えた記事を回復させ、なぜここまでして、と思いつつ、まあまあ今まで書いて来たのだから続けましょ、で、6時54分更新。東の空が漸う朱色にと書き足して1分経過。

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20123クラシック倶楽部を聴く

シプリアン・カツァリス広瀬悦子 ピアノ・デュオリサイタル
2016121日 かつしかシンフォニーヒルズ モーツァルトホール~ 

☆「バレエ組曲「火の鳥」」ストラヴィンスキー:作曲、アキレス・ワストル:編曲
☆「交響曲 第9番 ニ短調 作品125 から 第4楽章」ベートーベン:作曲、リスト:編曲
「スラブ舞曲 ホ短調 作品722」ドボルザーク:作曲

🎵まえに聴いたときと同じことになるけれども、声楽曲となると聴いていて物足りなさがつきまとう。カツァリスが編曲する場合、弦楽器のボーイングをイメージするというのも、そういう点を踏まえてのことかと。ピアノ専門の方には、広瀬が「ピアニステックで華やかなアレンジ」というそれを得心できるのだろう。交響曲をいったいどんなふうにピアノ曲にという興味をつないでくれた。「火の鳥」の初演をおもしろく聴いた。

🎧名曲アルバム
「交響詩 フィンランディア」シベリウス

【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団,【指揮】円光寺雅彦

叙事詩「カレワラ」

⛳コンサート会場の空席は誰の責任? 6時半更新。

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20122クラシック倶楽部を聴く

デニス・マツーエフ ピアノ・リサイタル
2017129日 武蔵野市民文化会館 小ホール~

☆「ピアノ・ソナタ 第17番 ニ短調 作品31第2」ベートーベン:作曲
☆「ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110」ベートーベン:作曲
☆「即興」デニス・マツーエフ:作曲

 

🎵デニス・マツーエフ、日本の聴衆への好感を縷々と。「集中力がある」と言ってくれたところで、これはリップサービスではないなと。いま最もロマンティックな演奏ができる年齢にあるという彼は1975年生まれ、この当時で44歳。ロシアピアニズムについては、演奏や解釈はロシアだドイツだなどという民族などにはよらず、あくまでも音楽家個人によるのだと。それでもロシアピアニズムの特徴は楽器で「歌う」ことにあるとし、顕著な例にラフマニノフをあげる。先ずは作曲家が求めるものをまっすぐに正直に解釈の歪みなしに弾くべきであり、そこから個人の解釈が生まれるのだそう。17番の第3楽章はもはや月並みな言い方だけれども美しい。とにかく美しい。この美しさを語ることばを手繰り寄せたいのだが、やはり語彙のストックが貧しいのだ。
「即興」彼はここでこそ「私は自分を管理しない」を発揮。ジャズだ。作曲家に従うというある意味の縛り一気に引きちぎって自分を解放、縦横無尽にハンマーを叩きまわりものすごいスピード感で腱を駆け抜けた。スタンディングオーベーションが彼を袖に見送った。

 

🎧名曲アルバム
「熱情」ベートーベン
【ピアノ】横山幸雄 

🎵筆者のただ1冊の著書、中ぶんな著「光炎に響く」(新風舎刊)、この中に書きたかった、書いてみたかった曲はやはり「熱情」だった。別な曲の説明で一か所まずかった点もありますが、丹念な調べ、これまでの定説に斬りこんだ部分もいくつかあり、おもしろいです。

⛳すでにポテトサラダはできあがり、いま炊き込みご飯の炊飯の音がしている。その後の音楽タイム。きょうも心地よい一日のスタート。6時42分更新。



 

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20/1/21クラシック倶楽部を聴く

クリスティアン・ベザイデンホウト フォルテピアノ・リサイタル
2018319日 東京文化会館小ホール~

☆「ピアノ・ソナタ ヘ長調 K.332」モーツァルト:作曲
☆「ピアノ・ソナタ 変ロ長調 K.281 から 第2楽章、第3楽章」モーツァルト:作曲
☆「ピアノ・ソナタ ハ短調 K.457」モーツァルト:作曲

🎵ベザイデンホウトを放送で聴くのは3回目。彼のコメントがモーツァルトに持っている印象をだいぶ塗り替えてくれた、というよりも、さらによりモーツァルトの曲の初めに近づけてくれたというべきか。今回はコメントにあった強烈に蠢くエネルギー、歌舞伎で熟練の役者のわざである見得が感じられるという部分を意識的に聴いてみた。自分の中ではモーツァルトのピアノ・ソナタは内田光子だったが、また異なった解釈、分析の音を聴くことができた。 

 

🎧名曲アルバム
「弦楽四重奏曲 ひばり」ハイドン
【演奏】古典四重奏団

⛳5時半ごろに三日月の下にまた降った雪に白く塗り変えられた屋根屋根屋根の間の区画の路に点る街灯。こんな景色もいいとカメラを持ち出したときには月は雲隠れ。7時近くのいま灰色とも青ともつかない空と起きだした窓の明かりを点在させたやはり灰とも青ともつかない街並みが明けようとしている。6時48分更新。

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20120クラシック倶楽部を聴く

スティーヴン・オズボーン
2019111日 トッパンホール で収録~

 

☆「ピアノ・ソナタ 第30番 ホ長調 作品109」ベートーベン:作曲
「ピアノ・ソナタ 第32番 ハ短調 作品111」ベートーベン:作曲

🎵ディスクを取り出してまではあまり聴くことのないこの2曲。この番組で取り上げているから聴いてみたというところ。作品111、このあとにはもうピアノ・ソナタは作曲されていない。興味はオズボーンのコメントにあったジャズ的な旋律、これがどのように入れられているかに。現代が愉快に顔を現した、そんな感じがした。明るみに細かな氷片がふるようなところなど、オズボンがていねいに磨きこんだ音の誠実さが感じられた。左の中指にテーピング。演奏家の方々が何の故障もなく一生の演奏活動ができたなら、これは奇跡ではないかと勝手に思っているが、勝手に思うばかりではと一応検索を入れてみると、「ピアノ演奏による体の故障」という頁が。

🎧名曲アルバム
「グノシエンヌ」サティー作曲【ピアノ】広瀬悦子

🎵サティの楽譜の指示、「自分自身をたのみとして」「舌の上にのせて」を意識して聴いてみる。

 

⛳いま放送されている内藤大介の冒険番組、このオープニングの音楽もなかなかわくわくする。誰であったか気を付けてみよう。6時42分更新

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きょうのことば

インマヌエル盛岡キリスト教会2020112()の礼拝メッセージをおつたえいたします。

説教題『神による激励』(國光勝美牧師)

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 國光勝美牧師・ひろ子牧師は、46年の間、盛岡で主のご奉仕をしておられます。

聖書 ハガイ書1:12~15

12そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアと、民の残りの者すべては、彼らの神、主が預言者ハガイを遣わされたとき、彼らの神、主の御声と、ハガイのことばに聞き従った。民は主の前で恐れた。

13主の使者ハガイは主の使命を受けて、民にこう言った。「わたしは、あなたがたとともにいる――主のことば。」
14主が、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの霊と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの霊と、民の残りの者すべての霊を奮い立たせたので、彼らは自分たちの神、万軍の主の宮に行き、仕事に取りかかった。
15それは第六の月の二十四日のことであった。

 

<説教>

  この朝は、『神による激励』というメッセージを御前に覚えております。ことしゼカリヤ書4章のおことばによって始まったことですが、このゼカリヤ書のすぐ前がハガイ書であります。ハガイ書の11節に「ダレイオス王の第二年、第六の月の一日に、預言者ハガイを通して、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアに、主のことばがあった。」と記してございます。またきょうの12節からを見ますと、ハガイ書は、ゼカリヤ書と背景を同じくして語られていることを知っていただけると思います。これを理解するために、ゼカリヤ書のことしのおことばを心に留めるためにも、ハガイ書の学びをと主の前に導かれております。

  ゼカリヤ書、ハガイ書、或いはエズラ記、ネヘミヤ記は同時代に書かれております。これはみなイスラエル民族が捕囚の地から解放され帰って来て、祖国を回復するという一連の出来事の中に展開しているものであります。この回復とは、捕囚の地から帰ってきたイスラエル、ユダヤの人たちの回復のことです。これをどう分かりやすく整理したらよいかを考えておりましたところ、手元にある本の中に、「回復は1,2,3、でそろい踏み」と覚えるのがいいと面白い解説がありました。なるほどと。「回復は1,2,3、でそろい踏み」。一連の回復には三つの主題、三つの出来事が関わっております。

  その第一番目は神殿の回復です。帰還したそこにはかつて栄華を極めたソロモンのあの民族的な誇りであった神殿、壮麗な黄金に輝く神殿があったのです。結局バビロンによって破壊されてしまったのですが、これを再建しようというのが、いま私たちが扱おうとしている歴史的背景の一番目であります。

「ソロモンの神殿の画像」の画像検索結果

 バビロンに捕囚となり、そこから帰還してもうほぼ70年も経っています。預言通りに祖国に帰ってきたわけですが、70年前の記憶というとどうでしょう。私は間もなく73歳になります。盛岡の警察署から免許書の更新が近づいています。つきましては法令によって、高齢者講習を受けることが義務付けられております、というお知らせが来ました。すぐ近くに自動車学校があるので気楽に構えていました。ところがすでに満杯になっており、別な自動車学校を紹介されました。もうそのような年齢になっております。はなしが逸れましたが、70年前というと3歳。さすがに3歳の記憶はちょっと厳しいかなと。3歳から4歳になる時期にちょうど家を引っ越したことがあり、生活の場所が移ったのが3歳の半ばで、それははっきり覚えております。このような自分の経験から見て、さてバビロン捕囚に遭った人々の70年前、まだ幼児であった人は、お父さんお母さんに連れられてソロモンの神殿に行ったことでしょう。壮麗さが記憶にものこっている。何よりもあのソロモンの神殿を再建せねばならない。これが第一陣として帰還した人々の第一番目の目標だった。ペルシアのキュロス王の解放令が出たときに、我らにはついに神様のお約束を成就するときがきたと喜び勇んで帰還した人々であります。彼らは政治的な指導者、所謂総督であるゼルバベルと宗教上の指導者である大祭司ヨシュアに率いられての帰還でした。これはハガイの1章14節にございます。この2人がしっかりとタックルを組んで、さあ、あの神殿を回復しようと乗り出したわけであります。

 さて、旧約聖書のエズラ記をみてください。この背景が、いまお話したところ同じ時期であることはすぐお分かりいただけるでしょう。
このエズラ記の1章1節「ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤによって告げられた主のことばが成就するために、主はペルシアの王キュロスの霊を奮い立たせた。2節「ペルシヤの王キュロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私にお与えくださった。この方が、ユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てるよう私を任命された。3節あなたがた、だれでも主の民に属する者には、その神がともにいてくださるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。』」
 心を奮い立たされる者たちよ、あなた方の神殿を建てるためにさあ行きなさい。志のある者は行け。キュロスがこういうのです。

 エズラ記22節にゼルバベルと一緒に帰って来た人々はヨシュア、ネヘミヤ、セラヤ、レエラヤ、モルデカイ、ビルシャン、ミスパル、ビグワイ、レフム、バアナと記され、続いて民の人数が記されております。

 エズラ記3章の最後の部分にございますが、結局ゼルバベル、ヨシュアを筆頭にいろいろな困難はありましたけれども、ついに彼らはこの神殿を回復すべく礎を据えたのです。
 エズラ310節に、「建築する者たちが主の神殿の礎を据えたとき、イスラエルの王ダビデの規定によって主を賛美するために、祭服を着た祭司たちはラッパを持ち、アサフの子らのレビ人たちはシンバルを持って出て来た。」11節「そして彼らは主を賛美し、感謝しながら「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌い交わした。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな主を賛美して大声で叫んだ。」そして12節「しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、以前の宮を見たことのある多くの老人たちは、目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。」13節「そのため、喜びの叫び声と民の泣き声をだれも区別できなかった。民が大声をあげて叫んだので、その声は遠いところまで聞こえた。」
 この神殿の回復のようすを私たちはすこし垣間見るわけであります。70年前の3歳の記憶を下敷きとするなら、幼いころに見た壮麗な神殿を知っていた人たちは、或いは、これがあの神殿の回復なのかと悲嘆にくれてしまった人もあったでしょう。しかし多くの人たちは、さあ神の家がようやくできるのだ、我らは我らのベストを尽くして神殿を造り上げるのだという喜びの声をあげたでありましょう。

 さてもう一つ、「123、でそろい踏み」と申しました。
 帰還の2番目はエズラです。このエズラは、帰還してきたイスラエルの民たちが、どのような規律で社会的な一体感、アイデンティティを保つか、それをモーセの律法をもって行いました。エズラは社会規範を律法で人々の間に回復させました。律法の回復です。

 エズラ書のすぐ後にネヘミヤ記があります。ネヘミヤ記8章によると、ようやく神殿が回復し、そしてネヘミヤによって城壁も回復したときですが、律法が民に解き明かされている場面があります。
 89「総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に解き明かすレビ人たちは、民全体に向かって言った。「今日は、あなたがたの神、主にとって聖なる日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。」

 我らユダヤ人、イスラエル人は律法によって国を回復するのだと、彼らはエズラによって律法を再確認する。エズラは社会規範を回復するためにやってきた人物であります。これがBC468年のことです。

123、でそろい踏み」。いまネヘミヤ記を開いたところですが、順番でいうと、ネヘミヤは3番目、城壁の回復ということになるわけであります。城壁の重要性、これは私たちの社会の感覚とは違います。分かりづらいかもしれませんが、一つの生活の場所が城壁で囲まれていないということは、それはまだ未完成な状態である。一つの居住しているところが、城壁によってきちんと囲まれ防御されている、その中に居住生活がある、城壁があってほんとうのエルサレムの回復ということになるのです。そのためにやってきたのがネヘミヤという人物でありました。ネヘミヤが城壁が崩れているのを見たときに、ほんとうに嘆き悲しみました。城壁のない街の再建はあり得ないと言ってついに彼らを立ち上がらせ労し完成させたのがネヘミヤであります。

 

123でそろい踏み」。
 第一番目の回復がゼルバベル、ヨシュアの神殿建築でした。ことし、「7ゼルバベルの前にあたれる大山よ汝は何者ぞ汝は平地とならん。ゼルバベルが神殿を回復しようとしたときに、民の神殿よりも自分たちの生活の方が先だというような困難がつきまとうなど、色々な問題があったときに、ゼルバベルとヨシュアが大丈夫だよ、神様がこう言っておられるからとそれらを克服していきました。

 きょうの主題は神殿の回復で、ハガイ書にあります。
 旧約聖書の1608頁、或いは1609頁、神殿の回復のために、総督ゼルバベル、大祭司ヨシュアが活躍しました。この二人を励ますために実は神様が預言者を遣わされます。一人はハガイ、そして一人がゼカリヤであります。ゼルバベルとヨシュアを困難な仕事に就かせるときに、神様は、ハガイとゼカリヤを遣わして、ゼルバベルとヨシュアを励ましたのであります。そして、きょうはそのハガイ書のところです。

 ハガイ15節に「今、万軍の主はこう言われる。『あなたがたの歩みをよく考えよ。』」7節に「万軍の主はこう言われる。『あなたがたの歩みをよく考えよ。』」とあります。あなた方は神の宮を建てるという当初の目的を忘れて自分たちの必要を第一に考えてやっているのではないか。つまりハガイは、先ず私たちの信仰生活のあり方がこんな状態でいいのかと問う。そして13「「わたしは、あなたがたとともにいる。――主のことば。――」。

 神様は大きな課題に当たろうとしているゼルバベル、ヨシュアを励ますために、人々にいまの信仰生活のあり方をもういちどよく考えてごらんと悔い改めを促しています。そしてその後、神様は13節に「「わたしは、あなたがたとともにいる。――主のことば。――」。

 人は何がいちばん大きな力になるのか、ゼルバベル、ヨシュアたちよ、何がいちばん力になるのか、「わたしは、あなたがたとともにいる。」。先ほども一緒に皆さんとお祈りさせていただいた姉妹のことですが、大変困難なさ中にあるときに、それに対して返事をどのような形で書いて差し上げたらいいのか。頑張りましょうね。私にも、ひろ子先生にもその言葉が相応しくないという事はすぐわかります。頑張りましょうねといって頑張れる類のものではないのです。皆さん方お一人お一人がほんとうに試練に直面するときに、頑張りましょうねで解決できる問題はない。じゃ何がいちばんの励ましになるのか。実はこのハガイも、預言者の世界でもそうですけれども、人々を励ます預言者として、ふたりは油注がれて預言者として立っているのです。ハガイにとって、「我汝と共にあり」、これほど大きな励まし、力はありません。私もこのことをずっときょうの大切なメッセージの柱として思い巡らしておりました。ですから、ひろ子先生も私も姉妹にどのようにメールのお返事を書いたらいいのか。「我汝と共にあり」。一緒にいてくださる神様。「我汝と共にあり」、これです。

ダビデも詩篇23篇、「汝われと共にいませばなり」。励ましを必要としているのです。

 私はイエス様ご自身のことを考えました。イエス様ご自身の大きな試練。人々から拒絶されてついに十字架にまで追いやられる、その大きな試練の中に、イエス様は「私は悲しみのあまり」と言い、そして「私のためにどうか祈ってくれ」とも言われました。イエス様でさえも励ましを必要としていたのです。はたと気づかされます。人はほんとうの励ましが必要なのです。そしてその励ましは何かといえば、「我汝と共にあり」。イエス様というお方が一緒におられる。わたしの悲しみ辛さもぜんぶ知ってくださるお方。エネルギーとか、奇蹟的な力だとかいうようなものではない、私のことをぜんぶ知っておられるお方がおられる。果たして私はどれだけそのお方を認めまつる営みをしているだろうか。日常生活の中で、主が共にいてくださる、そのことに気づかずにいることほど残念なことはありません。どうぞ、このお方が私たちと一緒にいてくださる。

 そしてことしのおことばであるゼカリヤ書の4章を開いてください。6節「萬軍のヱホバ宣ふ是は權勢(いきおい)に由らず能力(ちから)に由らず我靈に由るなり」。これはゼルバベルへの主のことばです。「是は權勢に由らず能力に由らず我靈に由るなり」。この「我靈」、「わたしの霊」というのは聖霊のことです。そして私たちは新約聖書の光を、この時代の人たちよりもよく知ってます。その聖霊なる神様は慰め主なのです。私たちをほんとうの意味で励ましてくださるお方が聖霊なのです。ほんとうに私たちは聖霊との深い関りにあって慰めをいただく。恵みの光。我靈に由るなり」、「わたしの霊による」のです。ゼルバベルよ、わたしの霊によるのだよ、ゼルバベルよ、わたしが為すのだからね。そして7節を見ると、「ゼルバベルの前にあたれる大山よ汝は何者ぞ汝は平地とならん」。大いなる山よ、お前は何者か、お前は平らにされる。これが大きな大きな励ましではないでしょうか。「私はあなたと共にいる」。これをしっかりと捉え、そして聖霊の励ましを神様のおことばと共に握りしめて、神様に励まされて、この年、歩ませていただきたい。このように願っていることであります。

 

 

 

 

 

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雑感

J-MEROをざっと。
「お気に召しましたか」とどこからか声が聞えたような。
それとこれとはまったく質が違うと思いつつ

けさはSCANDALとフレデリックを通しての神戸にあるライブハウスを紹介。神戸に実家のある友人がいつもこのブログをみてくれているが、最近里帰りしてきた彼女。

ライブハウスのコンセプトをオーナーにインタビュー。神戸にはおもしろいバンドが多い、ものまねではないオリジナリティーあるバンドを育てたいと。助言もする。神戸のライブハウスをぐぐってみると50か所以上も。キャパ12席から2000クラスまであるようだ。毎晩かどうか、神戸の各所にこんなライブが繰り広げられているらしい。

歌詞の抜粋
「毎日の人生ゲーム目を逸らしても逃げられない」「上手くいかない今日を見捨てないで」「負けるな」に恋を絡めてなのだが。若者たちの心境にストンと。アクティブスペースに髪を振り乱し弾ける女の子たち。

⛳予報ほどには冷えなかったけさ。今からまた起こした説教の推敲じゃ。6時41分更新。

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20/1/17クラシック倶楽部を聴く

パク・キュヒ ラテンの風 古民家に響くギターの調べ
201811月 横浜市 みその公園 横溝屋敷~

☆「ソナタ ト長調 K.391」スカルラッティ:作曲
☆「フリア・フロリダ(舟歌)」バリオス:作曲
☆「ワルツ 作品8 3」バリオス:作曲
☆「ワルツ 作品8 4」バリオス:作曲
☆「ソナタ 作品47」ヒナステラ:作曲
☆「カタルーニャ奇想曲」アルベニス:作曲
☆「練習曲 ホ短調 作品6 11」ソル:作曲
☆「旅人のソナタ」ブローウェル:作曲
☆「愛のロマンス」作者不詳:作曲

🎵
1896
年建造の横浜にある横溝屋敷、古民家での収録。放送されたときに、演奏には直接関係ないが、庭に咲いている花が、何かなとずっと気になっていたが、今回の放送でシモツケではないかと。ただシモツケの花の時期は5~8月。ちょっと花期がずれているようにも。何れ障子の組子など、当時の豪農ぶりが窺われる質実で戸の開けたてにも遠近美観のある屋敷、そこにパク・キュヒを建物に自然に溶け込むように“置いて”の収録。初めて聴いたときはヒナステラの「ソナタ」に駆使されている特殊奏法を集中的に聴いたのだが、今回はそよ風のように流れるソルの「練習曲」にリラックス。緑の妖精奏でるギターの調べ。

🎧名曲アルバム
「フォリア」コレッリ作曲
【バイオリン】寺神戸亮,【チェンバロ】曽根麻矢子

🎵寺神戸亮のバイオリンにバロックの響きを玩味。

San Luigi dei Francesi - Facade.jpg

コレッリが22歳でバイオリン奏者の地位に就いたローマのサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会

⛳はや17日、ちょっと焦りを覚えながら6時49分更新

 

 

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20/1/16クラシック倶楽部を聴く

三村奈々恵  マリンバ・リサイタル
2018412日 ハクジュホール~

☆「「フロム・マイ・リトル・アイランド」から「賛美歌」「ダンス・オブ・パッション」「フォークソング」」ロバート・アルドリッジ:作曲、ナンシー・ゼルツマン:編曲
☆「バードスケイプ 作品20」吉松隆:作曲
☆「ブエノスアイレスの春」ピアソラ:作曲、三村奈々恵:編曲
☆「トッカータ」アンナ・イグナトヴィチ・グリンスカ:作曲
☆「シャコンヌ」バッハ:作曲、三村奈々恵:編曲
☆「変奏曲「謎」作品36から「ニムロッド」」エルガー:作曲、三村奈々恵:編曲

🎵バッハがきっかけで音楽の道にはいったという三村。演奏ぜんたいにそれが感じられる。シャコンヌの編曲は三村が原点に立ち返っての仕事であるようだ。打楽器でこんなに深く聴かせられるものかと驚く、と書いてみて、驚くは適切ではないなと。目が見開かれると言った方が適切であるようだ。マリンバのために曲が書かれるようになったのは1950年以降で、多くが編曲を要する。楽器の性格上もそうなるのだろう。演奏でこういう音が欲しいなと模索する中で新しい奏法が産み出されるのだという。ゴム、布、毛糸などの様々な素材のマレットを数百本所有しているようだが、一つのコンサートで使うのは3050本を曲に合わせて選んでいる。冒頭の「フロム・マイ・リトル・アイランド」、これは1988にできたマリンバのための作品で、「賛美歌」の静謐な中に奥行きのある響きに魅せられた。「ダンス・オブ・パッション」、水滴が幾とおりもの色彩を帯びてダンスさながら滴り落ちる様が浮かんだ。吉松隆の「バードスケイプ 作品20」、マリンバのための作品だが、長く知られずにいたのを2016年に三村が着目し光を当てる。森の生き物たちの息遣い、鳥が飛び立ったあとの木の葉の微妙な揺れ、陰影までが聴こえる。「トッカータ」の高音域はピアノのようでもあり、低音域に移ってまた馥郁とした響きがひろがっていく。マリンバの可能性を知らされた。 

🎧名曲アルバム
「ニュルンベルクのマイスタージンガー 前奏曲」
【指揮】広上淳一,【管弦楽】NHK交響楽団 

🎵
300
年の時を超えてワーグナーを「マイスタージンガー」の完成へと衝き動かしたティツィアーノの「聖母被昇天」。多くの芸術家たちにインスピレーションをもたらしたベネチア芸術のすごさ。

http://www.salvastyle.net/images/collect/tiziano_assunta01.jpg

⛳東の空には雲。屋根屋根にはうっすらと積もる雪。新しい一日のはじまりに、きょうも朝から楽しんで得たことが幾つか。感謝、感謝。6時55分更新。




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20/1/15クラシック倶楽部を聴く

イリヤ・グリンゴルツ バイオリン無伴奏リサイタル

2017919日 浜離宮朝日ホール~

 

☆「24の奇想曲 から 第1番 ホ長調」パガニーニ:作曲
☆「24の奇想曲 から 第2番 ロ短調」パガニーニ:作曲
「6つの奇想曲 から 第1番」シャリーノ:作曲
24の奇想曲 から 第5番 イ短調」パガニーニ:作曲
6つの奇想曲 から 第3番」シャリーノ:作曲
6つの奇想曲 から 第2番」シャリーノ:作曲
24の奇想曲 から 第6番 ト短調」パガニーニ:作曲
24の奇想曲 から 第10番 ト短調」パガニーニ:作曲
24の奇想曲 から 第11番 ハ長調」パガニーニ:作曲
24の奇想曲 から 第13番 変ロ長調」パガニーニ:作曲
6つの奇想曲 から 第5番」シャリーノ:作曲
24の奇想曲 から 第14番 変ホ長調」パガニーニ:作曲
24の奇想曲 から 第17番 変ホ長調」パガニーニ:作曲
24の奇想曲 から 第18番 ハ長調」パガニーニ:作曲
24の奇想曲 から 第23番 変ホ長調」パガニーニ:作曲
6つの奇想曲 から 第6番」シャリーノ:作曲
24の奇想曲 から 第24番 イ短調」パガニーニ:作曲

 

🎵イリヤ・グリンゴルツ、パガニーニ国際コンクールに最年少の16歳で優勝。演奏会ではパガニーニとシャリーノの作品が並べられ演奏されたのを、放送ではこの抜粋。両者の作品を並べたのは基本的な音が似ており、また双方がバイオリンの未開の地を切り開いた規範となる新しいジャンルであり凝縮した万華鏡のよう、とグリンゴルツ。共通点が認められ、響きが似ているとも。パガニーニが特に好んだのがハーモニスク奏法であるという。今回これに集中的に聴き入ってみた。
現代音楽の典型的な音とも感じられるシャリーノ。この作品をパガニーニと並べて遜色ないことに驚き、今もってパガニーニがバイオリン技巧の最先端にいることを再確認させられた。

 

🎧名曲アルバム
「イタリア」メンデルスゾーン
【指揮】円光寺雅彦,【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団

🎵メンデルスゾーンが衝撃を受けたというベネチア。小さなガラス片を張り合わせ表された聖書世界が印象的。むこうの文化の桁違いをまたしても。

⛳シャリーノ、人の手の届かぬ樹上を包む空間に奔放に駆け巡る鳥のようだと聞いている時には感じていたが、今になって、ストイックな感じも。
内藤のカナダの命がけの冒険番組が聴こえている。いまの時間帯は良い番組が多いなと思いつつ。6時36分更新。けさは起きるのは止そうと思いつつも、無伴奏か、無伴奏は聴かなくちゃ、でやはり起きだしてしまった。しているうちに1分が経過。

 

 

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20/1/14クラシック倶楽部を聴く

ガブリエル・ビアンコ  ギターリサイタル
2017828日 武蔵野市民文化会館小ホール

☆「セビリャーナ」トゥリーナ:作曲
☆「世紀を渡る変奏曲」カステルヌオーヴォ・テデスコ:作曲
☆「アンダルーサ」グラナードス:作曲
☆「アストゥーリアス」アルベニス:作曲
☆「アラビア風奇想曲」タレガ:作曲
☆「オートゥイユの夜会」コスト:作曲
☆「マドローニョス」トローバ:作曲
☆「アランブラ宮殿の思い出」タレガ:作曲

🎵クラシック倶楽部が始まる直前に関東で地震があった震度4。速報に一瞬緊張。
 ビアンコは、父にあこがれ5歳でギターを。14歳でプロヘとの決意。母がくれたラヴェルのCD,これはオケとの共演のギター演奏で、以来クラシックの虜に。ビアンコ、演奏には必ず人気のある曲を数曲入れ、知られていないものを入れているのだとか。テデスコの曲などはそうらしい。
 ビアンコのあたたかい人柄、曲への愛情が弦にまるですでに漬け込まれていたかのような繊細で慈愛深さ、優雅さが感じられた。

 

🎧名曲アルバム
「美しく青きドナウ」
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団,【指揮】沼尻竜典

🎵はじめは男声合唱付きのワルツとして作曲されている。これでワルツのリズムに安定感の付加なのか。

⛳中途で頭痛がし、侮れないと我慢せずに休息。30分後回復。朝食を摂り、後片付けをし、そして今時間9時40分の更新。思えば12月から今日にいたるまでカゼひとつにひかず稼働できたのには驚き。

 

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20/1/13クラシック倶楽部を聴く

武満徹の映画音楽
20161221日 オーチャードホール~ 

オール武満徹・作曲

☆「フォリオス から 第1曲」
(ギター)鈴木大介
☆「不良少年」
鈴木大介:編曲
(ギター)渡辺香津美、(アコーディオン)coba、(ギター)鈴木大介、(パーカッション)ヤヒロトモヒロ
☆「伊豆の踊子」
渡辺香津美:編曲
(ギター)渡辺香津美、(アコーディオン)coba、(ギター)鈴木大介
☆「どですかでん」
coba:
編曲
(ギター)渡辺香津美、(アコーディオン)coba、(ギター)鈴木大介、(パーカッション)ヤヒロトモヒロ「日本の青春」
武満徹:作曲
coba:
編曲
(ギター)渡辺香津美、(アコーディオン)coba、(ギター)鈴木大介、(パーカッション)ヤヒロトモヒロ
☆「太平洋ひとりぼっち」
鈴木大介:編曲
(ギター)渡辺香津美、(アコーディオン)coba、(ギター)鈴木大介、(パーカッション)ヤヒロトモヒロ
☆「他人の顔」
coba:
編曲
(ギター)渡辺香津美、(アコーディオン)coba、(ギター)鈴木大介、(パーカッション)ヤヒロトモヒロ
☆「写楽」
渡辺香津美:編曲
(ギター)渡辺香津美、(アコーディオン)coba、(ギター)鈴木大介、(パーカッション)ヤヒロトモヒロ

 

🎵2016年オーチャードホールでの収録、当時で武満の没20年。武満は映画音楽には100本以上に関わっていたようだ。彼の息のかかった演奏家たちが勝手な編曲を許されての演奏。映画音楽にはよくギターを使った武満。タイトルに関わらず、全体、建物に孤独な人の陰が移ろいゆくような部分が感じられた。「伊豆の踊子」、もともとは京琴、オーボエ、弦楽器などで演奏されたようで、琴という楽器にもさまざまあるらしい。Cobaが武満の音楽に出会ったのは本屋で立ち読みしていた時にFMから流れてきて、リコーダーの無垢な音色、天使のようなメロディーに思わず本を床に落としてしまったらしい。そのピュアな武満が「他人の顔」では頽廃的な音作りも模索、これを短調で表現したところは意外でありおもしろい。この曲では、ヤヒロトモヒロのパーカッションが無機的なしかし込められた輻湊した思いを表現してくれており、心の隙間が埋められた感じがした。

 

🎧名曲アルバム
「新世界 第二楽章」ドボルザーク
【管弦楽】NHK交響楽団,【指揮】円光寺雅彦

 

🎵ドボルザークは1892年に渡米、ニューヨーク入り。巨大建造物、大陸横断鉄道、黒人霊歌、ネイティブ・アメリカン音楽に刺激されたという。渡米して1年経たないうちに「新世界」を完成させ、1893年カーネギーホールで初演。熱狂的に受け入れられる。2年半の米滞在だった。ボヘミアン的な「ゴーイング・ホーム」はのどかですばらしい。今回は第2楽章のみ。これが第4楽章となったらどんな解説がつくものかをいつか聞いてみたいもの。

 

⛳けさ一番に、北海道にいる小学生の少女から送られてきた詩を読んでいたが、才能が感じられ、この原稿を何とかできないものかと思い巡らすうちにクラシック倶楽部の時間に。世に取り上げられていない才能がまだまだ多くありそう。6時47分更新

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きょうのことば

インマヌエル盛岡キリスト教会202015()の礼拝メッセージをおつたえいたします。

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説教題『わたしの霊によって』(國光勝美牧師)
聖書 ゼカリヤ書467

6彼は私にこう答えた。
「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。
『権力によらず、能力によらず、
わたしの霊によって』
と万軍の主は言われる。
7大いなる山よ。おまえは何者か。
おまえはゼルバベルの前で平らにされる。
彼がかしら石を運び出せば、
『恵みあれ。これに恵みあれ。』と叫び声があがる。」

<説教>

きょう2020年の第一回の聖日礼拝をこのように皆様方と共に守ることができ御前に深く感謝を覚えることでございます。
 元旦礼拝でも触れましたゼカリヤ書4章でございますが、元旦礼拝に願いつつも来ることができなかった方々のために、もう一度、ゼカリヤ書の背景と467節に心を留め学びながら、今月最後の日曜にございます教会総会へ向かうべく導かれております。
 ことしはこのゼカリヤ書467節を拠り所に皆さんと一緒に進んでいきたい、このように思っております。 

 旧約聖書は必ずしも年代順に書かれているのではありません。ただゼカリヤ書がイスラエルの民の歴史の中でどの辺にあるのかは知っておかねばなりません。
 大まかには、イスラエル民族を歴史上に捉えられるのは、出エジプトであるかと思います。当時はエジプトが覇権を握っておりました。その頃がイスラエルのはじめです。

 イスラエルの人々はエジプトという超大国の下にありました。これは我らイスラエルのあるべき姿ではない。我らはまことの神様に従うものであるとの無念さ。神はここにモーセという指導者を登場させます。モーセはイスラエルが国として成り立つために大きく貢献しました。神様はモーセを通して人々に十戒という掟を授けました。そして神様を礼拝するとはどういうことなのかを目に見える形で作るように命じられましたが、それが幕屋であります。

 モーセのもとでイスラエルの民たちは、しだいに国家としての形を成り立たせていくわけであります。しかし彼らにはまだ自分たちに与えられた領土がない。本来あったはずが、領土がないのです。その領土はカナンの地と呼ばれてところでありました。いまのイスラエルという国のあるところとオーバーラップするのですけれども。その神様の約束して下さったカナンの地へ、我らのゆずりの地へとイスラエルの民たちはモーセに率いられてエジプトを脱出し、幾多の苦難を乗り越えながら、とうとうそこに定住するようになりました。

 すでにそこには先住民族もいたのですが、戦いによって勝利し、土地はイスラエルの12部族に分け与えられました。群雄割拠しているそれぞれの部族の中で、やがてひとりのサウルという神様から油注がれた王様が与えられます。要するにイスラエルの民族がひとつの王国として漸く誕生したわけであります。しかしサウルよりもむしろその次、第二代であるダビデという王様、彼は羊飼いでありましたが油注がれ選ばれ、サウルの後を継いで、イスラエルの王国の基礎を築いた名君であり優れた信仰の器であります。彼が詠んださまざまな詩は聖書の詩篇に記されております。


 旧約聖書の多くの歴史的な部分は、出エジプトから始まって、士師記、ルツ記、サムエル記、或いは列王、歴代といったところです。歴史書に登場するダビデ、そしてダビデの後を継いだ子どものソロモン。このダビデ、ソロモンは、イスラエル民族の大きな誇りでありました。特にも民族的な誇りとしては栄華を極めたソロモンの神殿です。それまでのモーセの幕屋はポータブルなものでありました。しかしソロモンの神殿が建ちまして、それは当時、世界的な視点からも一目置かれる壮麗なものでありました。

 しかし、そのソロモンが晩年を迎えたとき、残念ながらソロモンは信仰の道から離れてしまいます。人間の弱さというもの、ダビデもそうですけれども、名君ダビデ、そして繁栄を極めたソロモンの失敗や欠点も、聖書はそのまま私たちに示しております。
 ソロモンが神様の祝福から離れてしまってから国は分裂してしまいました。ソロモンの血筋から見る正統性を主張する南の方と、それからクーデターによって権力を奪取した北の王国に分かれます。どちらが正統か。血筋に正当性を置けば、勿論南の方になるのですけれども、南王朝、北王朝という二つの国に分かれたときから、イスラエルの国は衰退してまいります。

 そのような中に、当時の地中海世界の絶対的な覇権を握ったのがバビロンという国でありました。このバビロンからすれば、南王朝、北王朝は衰退期に入っており、北の方はアッシリアという国によって滅ぼされます。命脈をわずかに保った南の方は、バビロンという国に滅ぼされます。そして民族的な誇りであった神殿は灰燼に帰してしまったわけであります。

 しかし彼らはもう一つモーセによって与えられた十戒、それから派生しております律法、これは神様に仕えるための神様から与えられた規範でありますが、この我らは神から与えられた規範があるのだということがイスラエル民族の誇りであったわけです。

 イスラエル民族の誇りは、我らには神殿がある、我らにはモーセの律法がある、この二つであり、我らはイスラエル民族であるというアイデンティティを持つに重要なものであったわけであります。しかし今申しました通り、バビロンという国によってイスラエル民族は囚われてしまい、失われてしまった。彼らがバビロンによって移住させられ囚われの身となってしまう。バビロン捕囚という場合もございます。イスラエル民族は失われたという思いと、しかし我らには神殿があった、あれを再建するのが民族的国家的なプロジェクトなのだという意識がある。そしてもう一つは、われらにはモーセの律法があるという誇り。それはどこで学ぶかというと、キリスト教の原型というともしかしたら近いのかもしれませんが、シナゴグで学んでいました。このときは神殿がありませんから、シナゴグに集まって、自分たちはユダヤ人である、イスラエル人であると結束するために、イスラエルのユダヤの人たちは土曜日が安息日ですので、シナゴグに集まってモーセの十戒、律法を聞くわけです。教えられるわけです。

 私たちが聖書といって即思い浮かぶのは印刷されたものですが、印刷はずっと後のグーテンベルクの時代であって、当時はパピルス紙に書かれており、貴重な大切な写本として、一言一句誤りのないように書き写されたものでした。ですから聖書からの写本、写本、写本であり、聖書から書き写したそれらのものが、どれだけ大切であったか、彼らはそれをシナゴグで教えられることを民族的なアイデンティティとし、辛うじて保ち誇りとしていたのでありました。

 そしてバビロンもやがてペルシャに覇権を奪われてしまうのであります。簡単なこのような背景を是非知っておいていただきたい。バビロンに代わって世界の覇権を握ったのはペルシャでした。このペルシャの政治方針、統治方針は、バビロンとはすこし違っていたようであります。ペルシャのキュロス王は、イスラエルがまだ滅ぼされる前に、当時の預言者イザヤによって、或いはエレミヤによって、やがて我らを解放してくれるキュロスという名の王が現れると預言されていた王でありました。キュロス王自身がこの預言を知ることとなったのです。そして、キュロスは、もしバビロンにいるユダヤの人たちが帰って祖国を復興したいと望むならば、帰りたいという思いがあるのならば財政援助を惜しまない、どうか自分たちの国に帰って国を復興しなさいという勅令を出しました。

 預言者ゼカリヤと預言者ハガイは、いままでここに住んである程度の生活基盤は確立していたのですが、この勅令に、志を同じくする人々と共に安定した生活を捨て、故国に帰り民族的な使命を果たそうと心を奮い立たせました。

このハガイ書の112節、
「12そこで、シャルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアと、民の残りの者すべては、彼らの神、主が預言者ハガイを遣わされたとき、彼らの神主の御声とハガイのことばとに聞き従った。民は主の前で恐れた。13主の使者ハガイは、主の使命を受けて、民にこう言った。「わたしは、あなたがたとともにいる。――主のことば。――」14主は、シャルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの霊と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの霊と、民の残りの者すべての霊を奮い立たせたので、彼らは自分たちの神、万軍の主の宮に行き、仕事に取りかかった。」
 このようにありますが、この背景を覚えていただきながら、ゼルバベル、ヨシュアという人たちが、われらの神殿を回復しよう、かつてのダビデ、ソロモンの宮を建設しようとの使命感から国に帰っていったことがわかります。 

 しかし、そこにはすでに先住民族がおりました。留守の間に住み着いた先住民族たちと摩擦を生じるわけです。新しいところに帰ってきて自分たちの生活を再興するとともに、また並行的に神殿を建てるという、ある意味自分たちの生活とは直接関係のない神殿建築に多くの労力と財力を投じなければなりません。我らの国を再建しようという燃える思いを持って故国に帰ってきた人たち。それがその人たちにして、長きに亘る戦いで大きな困難に直面します。これがゼカリヤ書の4章の背景になっているところであります。

神殿の再建のために彼らは頑張ったのです。しかし敵の攻撃がある、或いは内輪もめが出てくるなどの難題に直面し、ゼルバベル或いはヨシュアのこのふたりの政治的な指導者たちはたじろいでしまった。

私たちの信仰生活においてもそうではないのかということを元日礼拝の時にも申し上げました。クリスチャン信仰生活も、それが世の中の圧倒的な力、妨害、試練というものが打ち続くときに、いつのまにか最初の燃えるような思いが蔭ってしまう。これは人間として無理からぬことです。霊に燃えて主に仕えたいという思いを持っていながら、しかし困難さが続きますと、霊に燃えるというその燃え方、かつては燃えていたのにいつの間にか滞ってしまう。誰にでもあることです。ゼルバベルでさえそうでした。ヨシュアがそうでした。その時こそ、神さまは幻を示してくださる。

 ゼカリヤという預言者は幻の預言者といわれます。エゼキエルとよく似ているところがあります。民が失望落胆しているときに、わたしはこういう幻を見た、神様は必ずやこういうことをしてくださる、その幻をしっかりと人々に提供している。それがたとえば

411節「私はまた、彼に尋ねて言った。「燭台の右左にある、この二本のオリーブの木は何ですか。」

「七つの燭台」の画像検索結果

 これがゼカリヤが神様から与えられた幻であります。私はこれを見たと意気消沈しているゼルバベルに告げ、彼を励まし人々を再び奮い立たせます。

 

 こんどは67節に集中しましょう。

今年の聖言として掲げるに、私は新改訳もいいのですが文語訳の方がぴしっと心に納まります。すこし落ち込んでいるゼルバベルに、神様がゼカリヤを通していったことばです。

6 彼また答へて我に言けるはゼルバベルにヱホバの告たまふ言は是のごとし萬軍のヱホバ宣ふ是は權勢(いきおい)に由らず能力(ちから)に由らず我靈に由るなり7ゼルバベルの前にあたれる大山よ汝は何者ぞ汝は平地とならん彼は恩惠あれ之に恩惠あれと呼はる聲をたてて頭石を曳いださん

ゼルバベルよ、あなたがいま困難だと思っているそれを、あなたの何によって克服し成就しようとしているのか、あなたが直面している課題は「權勢に由らず能力に由らず」なのだよ、これはペルシャのお墨付きのこの皇帝の命を受けて神殿建築をしているのだという世の中的な権威でやるんじゃない、世の中の大勢がひれ伏すような能力や力でもない。そんなものを当てにするんじゃない、そうじゃない。あなたは自分の力で、自分の才能、才覚といった賜物でそれをしようとしているのか、そんなことでできる仕事じゃない。あなたがいま取り掛かろうとしているのは、神様の霊によって成し遂げるものなんだ、「我靈に由るなり」。「是は權勢に由らず能力に由らず我靈に由るなり」。ゼルバベルの前に当たれる大きな山、困難、いったいそれは何者だ。お前はゼルバベルの前で平地となる。「我靈に由る」なら、大きな山であったとしても、それは平地となるのだよ。これはゼルバベルにとって大きな励ましとなりました。

元旦礼拝でお話ししましたが、それを「萬軍のヱホバ宣ふ」。「万軍の主はいわれる」。私たちが一年をスタートするとき、神様からどういうことばをいただき、どういう言葉をしっかり握りしめて歩んだらいいのか。 

 何度か音叉の話しもしました。私はこの音叉はある真理を伝えてくれていると思います。同じ周波数のもう一つ別の物を近くに置き、一方をポーンと鳴らしますと、もう一つの方にもポーンと振動が伝わるのです。周波数が違うとダメですね。どんなに形が同じでも周波数が違うと響きません。同じ周波数をもっていると、一つをポーンとたたくと、別な方がたたきもしないのにポーンとなります。これは何を意味するか。神様と周波数を合っていることが肝心です。周波数を合わせられるには新生経験が必要です。イエス・キリストの十字架を信じ、その意味がほんとうに分かって、ああ、そうだ、イエス様の救いは、福音はこういうものなのだとほんとうに分かっているときに、私たちは神様と周波数が合うのです。

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皆さんが手にしておられる聖書、私も手にしておりますけれども、この聖書を読みますとき、世の中の他の人も本屋さんで聖書を買って読むことができます。ああ、新約聖書とはこうか、旧約聖書はこうか。或いはもっと勉強が好きな人はヘブル語でギリシャ語でこれを読むことが出来る。しかし、聖書をどのような言葉で読んだとしても、周波数が同じかどうかによって、まったく意味が違うのです。私たちは生まれ変わって神様の十字架の愛を、そして復活を主イエス様の恵みを知っているなら、聖書のことばを読んでおりますと響いてくるのです。響いてくるってどういうことですか、主観主義じゃないですか、危険じゃないですか、という方が或いはそういう危惧を持たれるかもしれません。しかしそうではない。主観主義とか熱狂主義とは違います。心に響くという経験をどう説明したらいいのか。それは事実ほんとうに心に響くのです。私たちが、主よどうぞ導いてくださいと真実に求める心を持ち、それから砕かれた心をもって聖書を読み祈り求めるときに、聖言は心に響いてきます。

砕かれるということはなかなか難しいことです。教えられやすい心ともいえるでしょう。人に教えられるということは、こちらがへりくだっていないと教えられるという事にはなかなかなりません。

ちょっとした例話があります。私どもと同じような教えの救世軍という団体があります。そこでの話です。イギリスでエリートコースを歩んできた青年がキリストの救いに与り救世軍の働きに入りました。ここでは青年がどれほどの大学を出て、成績がどれほど優れていたかなどは一切公表しません。彼は寮に入りました。自分よりはるかに社会的にも能力的に劣っている上級生たちの靴を磨かなければなりません。彼には大きな葛藤、煩悶があったでしょう。彼は「主よこの傲慢な私を砕いてください」と祈りました。その祈りに同席して和して祈ってくれた兄弟が、お祈りが終わったとき「ほんとうにねえ、あなたほんとうに傲慢だもんね」と彼に言ってしまった。青年はこれにはカチンときたというのです。まだほんとうには砕かれていない。自分の心の中を探っていくとこういうことがあるのです。ほんとうに求める心、砕かれる心、そしてそのみことばに喜んで従おうとする心は、これは聖潔(きよめ)にかかっている。周波数が合うのは、新生経験によると申しました。そして、この新生経験で、周波数は合うようになるのですが、その音叉の中に何か不純物が入っていると、せっかく響いているのにまったくは響かなくなってしまう。ほんのわずかな不純物が響かなくしてしまう。これに気付いたときに、「御子イエスの血全ての罪よりわれらをきよむ」このおことばを信じて「このありさまを本当に砕いてください」と祈りましょう。砕かれて出てゆくとき。私たちは聖書のことば、しかも僅かな音でも共鳴箱に響くことを経験します。聖潔の中に神様のおことばををどうぞお聞きください。

 

ネヘミヤ記81

1 その時民は皆ひとりのようになって水の門の前の広場に集まり、主がイスラエルに与えられたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに言った。

そして3節を見ると
3
水の門の前にある広場で、夜明けから真昼まで、男女および理解できる人々の前でこれを朗読した。民はみな律法の書に耳を傾けた。

そして8

8 彼らが神のみ教えの書を読み、その意味を明快に示したので、民は読まれたことを理解した。

皆さん、この当時彼らは神様の聖言を耳で聞いていたんです。神のことばを読んで理解するというのは、あの印刷技術が世の中に普及した後のことです。その前まで人々はみな耳で聴いていたのです。これはとても2意味のあることだなと思います。私たちは神のことばをいつも読む聖書として理解いたしますけれども、聞く聖書というのがございます。もうすでにご存知という方もいらっしゃるとおもいますけれども、「聴くドラマ聖書」というのがあります。これは無料で手に入るものです。スマホでしたなら、どの機種でも無料で、私たちがもっている聖書と1字1句違わないものが提供されておりますので、是非ご活用ください。

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20/1/10クラシック倶楽部を聴く

原田幸一郎 室内楽演奏会
2017714日 紀尾井ホール~ 

☆「弦楽四重奏曲 K.421から 第2楽章、第3楽章」モーツァルト:作曲
(バイオリン)原田幸一郎、(バイオリン)神谷美千子、(ビオラ)磯村和英、(チェロ)毛利伯郎
☆「ピアノ五重奏曲 ヘ短調」フランク:作曲
(バイオリン)原田幸一郎、(バイオリン)神尾真由子、(ピオラ)磯村和英、(チェロ)毛利伯郎、(ピアノ)ミロスラフ・クルティシェフ


🎵原田幸一郎のコメントで、弦楽四重奏にはソリスティックな面白さもある、特にフランクはそれが多い、と。このコメントで、「ピアノ五重奏曲ヘ短調」の持つ玄妙さとピアノの面白さをより楽しむことができた。教育の面では、原田は、個性を邪魔しないように、あまり細かく言わないようにしているという。またクラッシク音楽で奇抜なことをして世に出ようとする音楽家がいるけれども、あまりクラシックという道から外れた演奏はしないで欲しいと語っていた。
 ゲーム音楽、アニメ音楽で育っているいまに、クラシックの良さをいったいどうやってわかってもらったらいいのかと思い巡らすうちに、小学校のときにある音楽の先生が授業で何を教えるというよりも、毎回、先ずハチャトウィリアンの「剣の舞」を聴かせてくださったことを思いだした。大人になってからも、無性に聴きたくなることがあった。その先生が好きな曲だったのかもしれない。或いは音楽は理屈よりも先ず聞かせることであると思っておられたのか。何れ、この曲は自分の中でいまだに生きていて、ふっとしたときに聴きたくなる。


🎧名曲アルバム
「皇帝円舞曲」ヨハン・シュトラウス
東京フィルハーモニー交響楽団,【指揮】円光寺雅彦

🎵「ワルツ王」のはじめはダンスホールの指揮者からであったようだ。映像、ニューイヤーコンサートなどとはまた別格な壮観さ。

⛳夜明けまでにはまだ40分以上。まだ見ぬ太陽はいまあの辺かを動いているだろう。

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20/1/9クラシック倶楽部を聴く

アキロン・クァルテット 演奏会

(バイオリン)エムリン・コンセ、(バイオリン)エリーズ・ドゥ・ベンドゥラック、(ビオラ)ルイーズ・デジャルダン、(チェロ)ルーシー・メアカット
201764日 第一生命ホール~ 

☆「弦楽四重奏曲第5番 ヘ長調 K.158」モーツァルト:作曲
☆「弦楽四重奏曲 ト短調 作品10」ドビュッシー:作曲
☆「弦楽四重奏曲 ヘ長調 から 第2楽章」ラヴェル:作曲

🎵自然体のアキロン。この日の服装も学生時代の雰囲気そのまま。黒のパンツスーツにお揃いの黒のパンプス。国際コンクールでの優勝は同じ曲を何か月もかけて練習した結果と語る。皆さんの感情や経験と共に演奏を聴いてほしいと。特にドビュッシーの独特な和声、旋法が深く鳴らし回されているという印象。

🎧名曲アルバム
「春の海」宮城道雄・作曲
【バイオリン】篠崎史紀,【箏】砂崎知子 

🎵幼くして失明した宮城道雄。祖父母が語る鞆の浦の光景が心に刻まれていたというけれども、瀬戸内を旅したときにこの「春の海」を作曲。鞆の浦の原風景と瀬戸内の海での体感がもたらした曲想だったのか。バイオリンのルネ・シュメーとの共演で世界に広まっていったとか。田辺尚雄は熱心な庇護者のひとりだったけれども。

 

⛳何かひとつでも自分が学んだかなというところで6時46分更新

 

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20/1/8クラシック倶楽部を聴く

ジェームズ・エーネス バイオリンの世界
(ピアノ)江口玲

☆「無伴奏バイオリン・パルティータ 第3番」バッハ:作曲
☆「バイオリン・ソナタ ト短調 「悪魔のトリル」」タルティーニ:作曲、クライスラー:編曲
☆「24のカプリースから 第24番」パガニーニ:作曲

🎵よい意味での知的な支配も感じられるエーネスの演奏、スタジオ録音再び。パルティータ、祝祭の彩り。「仕事をなし得たあとのデザートのよう」とエーネス。「悪魔のトリル」は初めて弾いたときから気に入っていたようだ。この曲には当時なかった技術革新があると。クライスラー編曲のカデンツァが聴きどころ。タルティーニが夢で見た悪魔にインスピレーションを受けて作曲したというのはほんとうだろうか。これまでそのまま信じてはきたのだけれども。パガニーニの曲から何か一曲選ぶように言われたら、エーネスはこの24のカプリースだという。200年前の曲が、いまでも常に超絶技巧の最先端にいるのだと。バイオリンの名器も最高峰はもう1700年代に出来上がっている。エーネスの愛器マルシックは1715年製だ。最先端の技術、科学も追いつけないバイオリン世界の不思議さ。

🎧名曲アルバム
「椿姫 ブロヴァンスの海と陸」ヴェルディ作曲
【バリトン】小森輝彦,【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団,【指揮】北原幸男 

🎵プロバンスのルネ王は、プロヴァンスを音楽の(音楽教育のであったか)拠点にしようと教会にオルガンを寄贈したのだとか。

⛳炊飯完了の音がピーピーピーピーと4回。プリモプエルの「おはよう」、7時だ。

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クラシック倶楽部を聴く

 29日に帰省した息子が「さあ、ネットを開設しましょう」と家に入ってきた。拙宅はコミュニティの“支配下”にあるのだが、それを通さない方法を模索していた主人が、やはり通す以外には策がないと申請書をだし接続したばかり。その後を息子が無線ランやセキュリティを確認、筆者のネットも無事開設の運びとなった。

  ☆  ☆  ☆

🎵ことしのクラシック倶楽部、2日は聴かないでしまった。3日の中村恵理のソプラノ、ドニゼッティの歌劇「ドン・パスクァーレ」からの歌詞、日本人感覚からはちょっと遠い内容をコミカルにコケテッィシュに歌いまわす面白さ。6日のヨハネス・モーザーのチェロ、やはりバッハの無伴奏を深く聴かせられた。コメントで、独奏は無防備な状態でステージに立つ。独奏にはオーケストラの助けがないと。宇宙空間にただ一人弓を引くといった奏者がおもわれた。プロコフィエフのチェロソナタ、モーザーがチェロとロシアの音楽は相性がいいと。やはりバッハの方が印象にのこった。きょう7日のジャン・ギアン・ケラスのチェロ、ピアノ伴奏はアレクサンドル・タローだったが、この2人、互いが互いの芸術からエッセンスを汲み取り、互いに次はどう出るかを期待し合い、触発し合うすばらしいコンビ。名演奏だった。



  ☆  ☆  ☆

⛳5時近くには目が覚める。習慣づいている。クラシック倶楽部と続く名曲アルバム。一日のスタートにちょっとした心の栄養、ビタミンを心に投げ込んでくれる。



おしゃべり人形プリモプエルがいま「おはよう」とあいさつ。もう10年以上も「おやすみ」と「おはよう」を繰り返してくれている。

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2020年元旦礼拝メッセージ

インマヌエル盛岡キリスト教会2020年元旦礼拝メッセージをお伝えいたします。

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説教題『わたしの霊によって』(國光勝美牧師)
聖書 ゼカリヤ書4章1~14

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1私と話していた御使いが戻って来て、私を呼び起こした。私は眠りから覚まされた人のようであった。
2彼は私に言った。「あなたは何を見ているのか。」私は答えた。「私が見ると、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があります。この上部にあるともしび皿には、それぞれ七本の管が付いています。
3また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はその鉢の右に、もう一本は左にあります。」
4私は、私と話していた御使いに言った。「主よ、これらは何ですか。」
5私と話していた御使いが答えて言った。「あなたは、これらが何であるかを知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」
6彼は私にこう答えた。
「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。
『権力によらず、能力によらず、
わたしの霊によって』
と万軍の主は言われる。
7大いなる山よ。おまえは何者か。
おまえはゼルバベルの前で平らにされる。
彼がかしら石を運び出せば、
『恵みあれ。これに恵みあれ。』と叫び声があがる。」
8また私に次のような主のことばがあった。
9「『ゼルバベルの手がこの宮の礎を据えた。
彼の手がそれを完成させる。』
そのときあなたは、万軍の主が
私をあなたがたに遣わされたことを知る。
10だれが、その日を小さな事として蔑むのか。
人々はゼルバベルの手にある重り縄を見て喜ぶ。
これら七つは、全地を行き巡る主の目である。」
11私は彼に尋ねた。「燭台の左右にある、この二本のオリーブの木は何ですか。」
12そして再び尋ねた。「二本の金の管によって金の油を注ぎ出す、このオリーブの二本の枝は何ですか。」
13すると彼は私にこう言った。「あなたは、これらが何であるかを知らないのか。」私は言った。「主よ、知りません。」
14彼は言った。「これらは、全地の主のそばに立つ、二人の油注がれた者だ。」

<説教>

6これは、ゼルバベルへの主のことばだ。
『権力によらず、能力によらず、
わたしの霊によって』
と万軍の主は言われる。
7大いなる山よ。おまえは何者か。
おまえはゼルバベルの前で平らにされる。

 新しい2020年を兄弟姉妹方とこのように始めることが許され、心からの感謝を覚えております。
先ずこの2020年の元旦に、ゼルバベル467節が神様から示されておりますことをご紹介させていただきます。
 ゼカリヤ書が全体で何を位置付けているのか、その中で何を言おうとしているのか、この背景に簡単にではありますが触れ、そして追々ゼカリヤ書からおことばが与えられた意味を確認しながら、1月の最終日曜日にございます教会総会へと導かれているところであります。

 ゼカリヤ書の67節に集中しますが、さて、ゼルバベルとはいったい何者なのでしょうか。エズラ書をご覧ください。旧約聖書はいろいろな文書が必ずしも年代順に並んでいるのではありません。ゼカリヤ書とエズラ書は離れて編集されているのですが、実は同じ人物、同じ背景が扱われております。

  エズラ1章をご覧いただきますと、ペルシャの王キュロス、クロスともいいますが、そのキュロス王の第一年にエレミヤによって告げられた主のことばが成就するために、主はペルシャの王キュロスの霊を奮いたたせ、王国中に通達を出させました。これがキュロス王の解放令であります。これはまた後ほど詳しく扱う事になりますが。イスラエルの民はバビロン捕囚という民族的、国家的な悲劇を経験いたしました。彼らイスラエルの民が誇りとしていた王国、神殿、それらのものがバビロンによって破壊され、イスラエルの人々は移住させられてしまいます。これが当時の世界最大の強国であったバビロンによる仕業でありました。しかしやがて世界の覇権はバビロンからペルシャに移っていきます。そのペルシャのキュロス王が、バビロンによって囚われていたあのイスラエルの民が、どうもこれはエレミヤという預言者が見ると、彼らは神に選ばれた民であるという。彼らは自分たちの国を持つ権利があり、そういう神様のご計画の中にある民なのだということで、キュロス王は、バビロンの時代に囚われていたイスラエルの民を自分の母国に帰るようにしました。帰りたいと願うものは帰りなさいと。国家プロジェクトとして財源を保証し、バビロンの囚われから70年経っていたイスラエルの人々を、エレミヤの預言の通り、キュロス王の解放令を出しました。そこで人々は、自分たちの国を再建するのだというビジョンと使命感を持って帰国の途に就きます。

  こんどはエズラの2章をご覧ください。バビロンの王ネブカデネザルがバビロンに引いていった捕囚の民が、その捕囚の身を解かれエルサレムとユダにのぼり、それぞれ自分の街に帰ったこの種の人々は次のとおりであるとある。つまり、バビロンによって囚われた人たちがペルシャのキュロス王の法令によって、さあ、われらの国を再建しようと言って真っ先に名前が出たのはゼルバベル、ヨシュアであります。彼らは政治的な、行政的な手腕を与えられていた指導者であります。この指導者を中心にして、沢山の人たちがこの指導者に率いられて再建へと向かっていった。成り行きは割愛しますが、何れ、このビジョン、神殿の再建計画は必ずしも順調に進んだわけではありません。ペルシャが国家プロジェクトとして開放を行ったことは大きな助けとはなりました。神殿を再建しよう、何よりもあの破壊されてしまった我らのシンボル、我らの誇りであるソロモンの神殿を再建するのだというビジョンは、自分たちの生活よりも優先されて取り組まれた。ところが70年以上も留守になっていた土地には住み着いている人たちがいた。急にどいてくれ、ここは本来我々のところなのだからと言われてみたところで心外でしょう。帰ってきた人々から、何を言うのか、われらはペルシャ王の勅令のもとにこれをやっている、と出られると、ひれ伏さざるを得ない。しかし納得しきれるものではなく、再建は思わしくいかない。最初は意気に燃えていても、ゼルバベル、ヨシュアという指導者たちの長引き、なかなか進捗がないことに疲れを覚え、そして人間の一時的なその感動、決断も現状に落胆してしまう。そのような困難さ。それに直面していた時に、幻の預言者であるゼカリヤが現れてきたわけです。これがゼカリヤ書であります。

 きょうはそのゼカリヤ書の4章を開いたところでありますが、ゼカリヤ書の背景は、人々が願いながらもなかなか順調に進まない事態に、或いは意気消沈してしまった人たちに幻の預言者ゼカリヤをお遣わしになった。それによって人々はまた励まされるわけです。幻というのは空想ではない。

 14節を見ると「二人の油注がれたもの」とありますが、これはゼルバベルとヨシュアであり人々が力づけられる人物でした。背景としてお分かりいただけると思います。
 きょうは6節、7節が与えられた背景はこうですよというところを先ず知っていただきました。

ここで67節をしっかりと受け止めたいと思います。お読みいたします

彼は私にこう答えた。
これは、ゼルバベルへの主のことばだ。
これをしようとしている、いやいましている。困難があるだろうけれども、ゼルバベルよいまあなたがしようとしているそれは
『権力によらず、能力によらず、
わたしの霊によって

ということなのだよ、と万軍の主はいわれる。ゼルバベルよ、あなたが全部背負って、ああできない、大変だ、苦しい、というのではなく、いいかい、これは権力によらず、これは世の中的な権力のことですね。ペルシャの王様の、或いは、この紋所がというような、それによってできるものじゃない。それから「能力によらず」、あなたの力によってでもない。自分の力のみで行うと優越感に浸ったり、或いは絶望感、劣等感にさいなまれたりすることにもなる。あなたの出来る、出来ないといった能力によるのでもない。あなたが携わっている仕事は「わたしの霊によって」はじめて成就するものなのだよ、いいかい、と神様は言われるのです。

そして、7
大いなる山よ。おまえは何者か。
おまえはゼルバベルの前で平らにされる

 もうご理解いただけるでしょう。それはゼルバベルたちの前に立ちふさがる大きな山、到底これを崩すことができない。非常に大きな障害、困難、それに意気消沈しているゼルバベルやショシュアに、ゼカリヤは神様を幻とし、神様を心として大いなる山よ、お前は何者か、お前はゼルバベルのまえで平らにされる。彼がかしら石を運び出せば、「恵みあれ。これに恵みあれ」という叫び声があがる、ゼルバベルは神様のわざをこのようにする、その大山は平らかにされるというのです。

 私は教会の牧師としての立場を、今年もこのおことばによって大いに励まされるわけです。皆さんお一人お一人にこれを当てはめてみてください。皆さんのまえにある困難、意気消沈させてしまうような環境、それらに直面するとき、これはゼルバベルのまえにある大きな山ですけれども、どうか皆さん各個人のお名前をそのゼルバベルのところに入れて、いま私はこのような課題に直面している、しかし、これは主のわざであり「わたしの霊によって」成し遂げられるのである。あなたができるとかできないとかいうようなことではない。ゼカリヤは、こういって民を励まし、民に大きな希望と確信を与えております。

そして9節『ゼルバベルの手がこの宮の礎を据えた』。だから「彼の手がそれを完成させる」。そう、だいじょうぶだ。非常に力強い神様の励ましのことばがゼカリヤを通して与えられております。このように聖書のおことばを見ますとき、これは私にのみ与えられたおことばというよりも、皆さん方お一人お一人が置かれていらっしゃるところで同じこの励ましの言葉、神様のみことばの語りかけがある。それを私たちがどう受け止めるかにかかっています。

この67節の文語訳に私は最初に触れたものですから、こちらがよく記憶に残っております。

4章6節「彼また答へて我に言けるはゼルバベルにヱホバの告たまふ言は是のごとし萬軍のヱホバ宣ふ是は權勢に由らず能力に由らず我靈に由るなり」7節「ゼルバベルの前にあたれる大山よ汝は何者ぞ汝は平地とならん彼は恩惠あれ之に恩惠あれと呼はる聲をたてて頭石を曳いださん」
 この文語訳も新改訳と共に、またそれ以外の訳があればそれも参考にしながら、神様がことし私たちに語ってくださるこのおことばを力として進もうと願っております。

 個人的には、皆さんにほんとうに多くのお祈りを頂戴しましたひろ子先生の病の治療はこの先が大きな山であると思われます。しかし、「ゼルバベルの前にあたれる大山よ汝は何者ぞ汝は平地とならん」というこのおことばをしっかりと受け止めさせていただきたい。繰り返すようですが皆様方のそれぞれの大山、そのときに私は大きな、これは知っていた言葉なんですけども格別に心に深く示されたのは、「ゼルバベルのまえにあたれる」ということ。もしゼルバベルという人の存在が、どんな人かわからないような、ただ、「あなたの前に当たれる山よ汝は何者ぞ汝は平地とならん」というのではなく、大きな使命を持ち、そしてペルシャにのこっていたのならばその地位が保証され優遇されているはずのそれをかなぐり捨てて、彼らと一緒に苦難の道と分かっていながらも、栄光あるその神殿、祖国再建に前進している。しかし、そこに反対勢力があり、そこに失意があり、敵の裏切りがありとさまざまなことどもの中にあるとき、ゼルバベルよ、ゼルバベルよ、と神様の語りかけを受ける、そのような者でありたく願っております。

 これをさらに思い巡らしたときに、私には、もう一つの大きな神様からの語りかけがありました。6節の「これはゼルバベルへの主のことばだ」。8節「またわたしに次のような主のことばがあった」。ここに神の言葉が響いている。この67節のおことば、この元旦礼拝に相応しい神のもう一つの語りかけは何か、それは、「主はいわれる」。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ」と「万軍の主はいわれる」。8節「次のような主のことばがあった

 以前に共鳴箱の話しをいたしました。ゼルバベルの神様のことばは響いているのです。鳴っているのです。鳴っているけれども、もしゼルバベルがゼルバベルでないような生き方をしていたならば、ゼルバベルへのことばは聞き取れない。響かなくなってしまう。神様のことばが私たちの心に共鳴する、鳴り響くというのは、神様の周波数と私の周波数が合致しているということです。それはとりもなおさず、私たちその名を信じた者が明確にイエス・キリストの十字架の贖いというものをいただいて、罪の赦しをいただいてそしてこのお方のおことばを聴く。「わたしの羊は私の声を聞く」というように、私たちがほんとうにもう一度、あの十字架の救いの経験、これをもって新しく生まれるということ、「心やすかれ、汝の罪ゆるされたり」と、神様からのおことばを聞いた、「御子イエスの血、すべての罪よりわれらをきよむ」と、「されどこれを受けし者即ちその名を信ぜし者には神の子となる権を与え給えり」。ああそうだ、この新生経験、神の赦しをいただいている。十字架が私の罪の身代わりであるというこの十字架経験というものが確認されていけばいくほど、実は、この響きが、小さい声であったとしても心の中に響いてくることを経験いたします。新生経験とともに、これまで、私たちが信仰生活をたどってきたその過程の中でもし成長させていただいたということばがよろしいのならば、信仰生活を続けているうちに、神様のおことばが響いてくる。それまでも同じようなことばは聞いていたけれども、それはそれで尊いことだけれども、新生したときに格別に響いてくる、それが微かな語りかけであったとしても、それが心の中に鳴っている。

 どうかことし、特に年の始まり、この神様の語りかけ、ゼルバベルのことばが皆さん方へのことばとしてそれぞれに相応しく、この67節のおことばを、いま皆さんが直面しておられる、或いはことし必要としている中に、聖書の通読の中かもしれない、或いはさまざまなできごとの中でふっと神様が励ましのように与えてくださるおことばであるかもしれない、ほんとうに神様と周波数が合っているときに、おことばというものが響いてくる、私はそれを期待していいと思う。それは私たちが真実に求める心があるからです。ゼルバベルが意気消沈していたけれども彼は決してああいやだとそこから退きたいということはなかった。励ましを必要としていました。そして彼はたえず神様を求める気持ちをもっていた。それとともに砕かれた心、それがあると私たち喜んで従おうとする心、神様のおことばを求めたとき、それがどんなことばであったとしても神様の前に砕かれて遜って、そしてあなたのおっしゃる通りにしたいと思いますと喜んで従おうとする心であることができます。

詩篇5117節を読んでお話を締めくくらせていただきます。

神へのいけにえは、砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません。

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※礼拝では数枚の画像が用いられましたが、そのなかの1枚を教会からお借りし掲載しています。牧師ご夫妻の写真は筆者が撮ったものを任意で載せております。

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明けましておめでとうございます。

光は闇の中に輝いている
闇はこれに打ち勝たなかった。

ヨハネの福音書1章5節

2020年元旦

ことしも宜しくお願い申し上げます。

Dsc03863

けさ7時ごろの盛岡市

ブログ更新中の8時28分、雲の上から眩い光が!

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