きょうのことば
きょうは第二アドベントですが、ここでは、インマヌエル盛岡キリスト教会の先週の日曜礼拝、第一アドベントのメッセージをお届けいたします。
説教者は國光勝美牧師です。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師はこの岩手で45年の間、教会の牧会と伝道に携わっておられます。
2019年12月1日(日)
説教題『人となられた神』アドベント講壇1
聖書引証 ヘブル2章10~18節
2:10多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。 2:11聖とする方も、聖とされる者たちも、みな一人の方から出ています。それゆえ、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせずに、こう言われます。2:12「わたしは、あなたの御名を兄弟たちに語り告げ、会衆の中であなたを讃美しよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」
2:13また、
「わたしはこの方に信頼を置く」
と言い、さらに、
「見よ。わたしと、神がわたしに下さった子たち」
と言われます。 2:14そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、 2:15死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。 2:16当然ながら、イエスは御使いたちを助け出すのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けだしてくださるのです。 2:17したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪のなだめがなされたのです。 2:18イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。
<メッセージ>
第一アドベントを迎えております。私たちの弱さ辛さ、それらのすべてをことごとく味わってくださるために神様が人となって地上に降りてくださったできごとがクリスマスです。この計り知れない恵みを、さまざまな人生経験のある中に、去年と同じく、そしてまたことしはことしで新たな響きでこの恵みを共感したいものです。この地上にある限り、一層深くこの恵みを知り続けるお互いでありたく願いながら、きょうのメッセージへと導かれております。
ことしこの教会に与えられております聖言(みことば)は、ヘブル11章6節「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」。信仰がなければ神に喜ばれることはできない。平穏無事なときには、信仰の船は順風満帆しかし、一旦大きな嵐、試練に立たされたときにはどうでしょうか。肝心なのはこのときです。それで、前回(先々週)、格別に聖書中のヨブという人物を思い巡らし、私がいま神様から与えられております課題の証しとさせていただきました。立てつづく課題に立ち向かい勝利した人物がいますよと、神様はヨブという一人の人物を私たちに紹介して下さっています。サタンはいうのです。「人というものは何か得することがなければ信仰などしないものだ。神様を礼拝するのは何か見返りがあるからするので、そうでもなければ信仰など誰も持つわけがない」。このサタンの挑戦に対して神様はヨブを提示します。ヨブを見なさい。ヨブはさまざまな困難に現実的に直面しましたけれども、その中でほんとうに神を畏れる信仰、見返りがあるからではなく、人は神が神であるから神を敬い信じ愛することを自らのヨブ記の思い巡らしから紹介させていただきました。
ヨブはすばらしい信仰の勇者であると思われる方がいらっしゃるかもしれません。しかしヨブ記をご覧いただきますと、ヨブはうち続く試練の辛さに、もうほんとうに生まれてこない方が良かったとさえ独白しています。ヨブは試練に遭いながら、おそらく自分の未熟さ、乏しさを深く思い巡らしたでしょう。試練はそういう機会でもあった。そしてそのときに教えられたこと、それは消極的委託と積極的委託というこのことでありました。お互いクリスチャンですから神様が最善の事をしてくださる、そのことを信じております。しかしその最善のことをしてくださる神様を信じる中に、どうせなるようにしかならないという思いがあるとすれば、それは消極的な委託である。信仰的に見える不信仰です。クリスチャンはこの消極的委託という罠に往々にして陥りやすい。神様が良くしてくださる、神様に委ねるんだからといいながら、そこに実はほんとうの信仰が働いていないということがあり得る。しかし積極的な委託では、だからこそ神様に思いっきり期待をする。だからこそ全能の神様に大いに期待をする信仰、この姿勢を取り続けなければならないのだと。これが今回の試練で自分の心の中を深く探られながら教えられた恵みでありました。
積極的な委託をすることです。神様から聖言が与えられる。聖言が一つ、二つ、三つと与えられ、受け留める。それがしっかりとした支えになっています。またそれとともにお祈りをしていただく。これはこういう立場の者の特権中の特権であると深く感謝をしております。皆様方のお祈りにどれだけ支えられておりますことか。て、積極的な委託を神様に期待する信仰を励まされております。神を愛する、いかなる時にも神を愛する、それこそ神に喜ばれる者なのであります。
きょうは第一アドベントです。
ヘブル2章14節をご覧ください。
2:14そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、2:15死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。2:17したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪のなだめがなされたのです。
イエス様というお方が天と地をつなぐ役目、つまり大祭司として地上に来られました。そして、主自らが人となってくださり、人としての悲しみ苦しみを自らが実感されご存知になられたからこそ、今私たちをまもりそして私たちのことごとくを知って力づけてくださるお方であります。
イエス様は天と地をつなぐ鎖でありますが、私が神学生として初めてクリスマスを迎えたとき、神学院のチャペルでバルカー宣教師が手作りで、アルファベットの「o」を縦につなげて天と地を結ぶチェーンに見立てたおことばを書いてくださったものが心に残っています。
ヨハネ3章16節、聖書中の聖書と呼ばれている聖句です。
John3:16
"For God
so loved
the world
that he gave his Only begotten Son,
that who so On him
believeth On him
should not perish
but have eternal life.”
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
まことの大祭司であられる神様が、まことの人間になってくださった。そして、まことの人として神様にいつもとりなしていてくださる。イエス様はまさに神と人とをとりなしていて下さるお方、大祭司なるお方です。
2章の17節
2:17したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。
家族に友人知人に、重い病を抱えておられる方々、いらっしゃるでしょう。酷い症状や苦しみを目の当たりにしなければならないこともある。思わず胸がしめつけられ、はらわたがよじれる。しかし、そこに、ここに、人として苦しみも悲しみも自分の問題として担ってくださる大祭司がおられる。天より遣わされた大祭司、人となられた神に思いを深くいたします。
☆
このあと、賛美歌を歌いながら、みなさまとともに聖餐式に与りました。
☆ ☆ ☆
教会では以下のようにクリスマスの集いをもちます。お出かけください。
※このフライングペーパーは國光夫妻のご息女A姉がボランティアで製作してくださいました。
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