きょうのことば 宗教改革記念説教
先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の講壇をお伝えします。
國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、45年の間、岩手で主のご奉仕をしておられます。
10月27(日)宗教改革記念礼拝説教『福音の原点』(説教:國光勝美牧師)
聖書引証:ローマ4:1~5
4:1それでは、肉による私たちの父祖アブラハムは、何を見出した、と言えるのでしょうか。4:2もしアブラハムが行ないによって義と認められたのであれば、彼は誇ることができます。しかし、神の御前ではそうではありません。 4:3聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあります。 4:4働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払うべきものとみなされます。 4:5しかし働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。
<説教>
きょうは福音の原点という題で宗教改革記念礼拝を持たせていただきたく導かれております。
先週が教団創立記念礼拝の聖日でございました。そして、10月31日が宗教改革記念日でありますが、それに近い日曜日を記念礼拝と多くの教会がしておりますのに倣いまして、私たちも今日を今年の宗教改革記念礼拝と位置付けております。また来週の日曜日は、昇天者記念礼拝でございまして、次つぎと続きますけれども、どうぞ、今日は宗教改革記念日を格別に心に留めていただきたいと存じます。
教団創立の記念とも密接に関わっておりますことでございますが、復習を兼ねてといったらいいのか、或いは、すでに今日のメッセージと捉えていただいてもよろしいかと思います。
先週は教団創立のインマヌエルの歴史を思いました。そして、「幻とともに歩む群れ」というテーマでお話をさせていただきました。
日本語で幻といいますと、実際にはないものがあるように見えること、またそういうもの。またその存在の確認が難しいもの。こういった理解が日本語では幻という意味でありまして、もう一つ、たちまちのうちにはかなく消えてしまうものが幻であると。同じこの幻という字ではありますけれども、これが一たびビジョンという言葉に置き換えられますと、将来あるべき姿を描いたもの、将来の見通し、構想、未来図、未来像。ビジョンというのはそれを見る力、アイデア、そして夢と同じような経験、想像力と知力を働かせた将来の計画となります。
神様は群れにビジョンを与えてくださいました。このところからお話をさせていただきました。そして、神様はその時代にひとりの油注がれた器、この教団の創設者蔦田二雄をお用いであり、私たちはそれを大きな祝福と思っておりますが、どうかくれぐれも、これが偶像視されてはいけないし、そのように私たちは決して捉えてはおりません。ただ幻、ビジョンを具現化していくうえで用いられた器として記録、記憶しているわけでございます。
彼は神様からビジョンを与えられ、聖潔と宣教というこの二つの実現に突き進んでいった人物でございました。彼がいう潔(きよ)めというのは、聖書に基づく福音理解であって、第一ペテロの1章16節「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と書いてあるからです。この神様のおことばである聖書に、このビジョンがはっきりと示されている。このビジョンに向かって、彼はその具現のために進み行きました。
そしてもう一つ、彼が神様から与えられたビジョンは、マタイ28章の「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け」とあるように、世界に出て行って福音を伝える、そういうビジョンを彼は与えられて行きました。このビジョンがどこから出てきたのか、それは御子の十字架の血潮という、もう何にも代えがたいこの神の御子の贖いの愛、十字架の愛に示されたもの、ここからです。これが本当の意味で理解できたのならば、きよめ、宣教というこの二つが、このビジョンにあらわされないはずはない。これはあまりに親しみなれている言葉ではありますけれども、神の御子が十字架で血潮を流してくださったというその事実を知れば知るほど、このビジョンがはっきりしてまいります。
旧約聖書のレビ記には、神に仕える祭司たちが生贄を捧げる方法、手段が事細かく記されています。このことについて正直申しますと、なんで直接私たちに関係のないような牛が屠られ羊が屠られ、そして血が注ぎだされるのか、それがまたしてもまたしてもと書かれております。実際にその血が流されている場面を、はたと、イエス様がまことの神の仔羊がその私たちの神に近づくための道を開いてくださるために、神の御子の肉体から流れ出る血潮、神はそれほどにわたしたちを罪から救ってくださろうと実際になさったのだという、この福音の理解が深まれば深まるほど、このビジョンはいよいよ鮮明になってまいります。
そして、前回はあまり十分に開く機会がなかったのですけれども、創世記の12章の方をお開きください。創世記の12章の1~4節のところですが、
「1主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。2そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。3わたしは、あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
ここにアブラムとありますが、後にアブラハムと神様によって変えられています。その変えられる前の同一人物の名前であります。ここに神様の声を聞いて、何処に行くのかも知らず分からないまま、しかし神様がそこに出で行きなさいというので、彼は聞いた神の声に従っていきました。4節を見ると
4アブラムは主が告げられたとおりに出ていった。
1~3節までは主が語られたことばです。それを彼は聞きました。そして、彼はその出で行くところを知らずして出ていきました。神の声に従って行ったのであります。
これをきょうの宗教改革記念日のとき、マルチン・ルターという人物にも当てはめることができるのではないか。まさに彼が直面している周囲の状況、しかし彼は敢然と勇気をもって神の声に聞き従っていった人物でありました。
宗教改革というとマルチン・ルターというこの人物がすぐに私たちに思い起こされることであります。 彼は神の声を聞いた人であり、神の声に従った人でありました。よくルターのその一つの経験を、「塔の体験」という言葉、或いは今までどこかで耳にされたか、というこれも一つのルター派の方々にとってはもう自明のことであります。ちょうど私たちがジョン・ウェスレーの改心の時のできごとが自明のこととしてしばしば語られるように、このルターの「塔の体験」といわれるものがありました。
彼はヴィッテンベルク大学というところで教鞭を執っていた人物であります。しかし彼はまじめに神様の前に真実に生きようとし、神の前に正しいものと認められたいという真実な願いをもっておりましたけれども、真面目であればあるほどに自分の心の中にあるそうでないものにいよいよ気がつき、彼は袋小路に追い詰められてしまう。でもそのことは、私たちにもよくわかる。自分で一生懸命に正しいと思う在り方をし、神の前に義と認められたいと思えば思うほど、真面目であればあるほど追い詰められてしまう経験を私たちはよく理解することができます。そのとき彼はヴィッテンベルク大学の図書室、そこが塔なのですが、そこの図書室で経験したという事で、ルターは「塔の体験」というのですけれども、実はこのローマ人への手紙を彼はずっと学び続けておりました。そのときに、ちょうど今日お読みいただきましたローマ人への手紙の4章3節
4:3聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあります。
信仰によって義と認められると書かれてある。これが、正しい行いに励んで真面目である事に汲々としていた彼には、本当に大きな視点の転換となりました。今まで自分が真面目に神様の前に励むことによって、律法を行う事によって義と認められたいと思っていたのがそうではない、自分に絶望し、だけれども、じゃ聖書には何と言っているのか、神を信じる、神を信じることで、それが彼の義となる。神の声を聞き神の声に従っていったあのアブラハムのあの神様に対する真実な態度、それは神を信じたからこそ神の声を聞き神の声に従って行ったということになるわけですから、ああ、そうか。彼ははっと気がついた。これは恐らく間違いなくクリスチャンたち全員が自分の経験とし、ある意味追体験できるそのものを見る思いであります。
そしてもう一つ、ここに神の声を聞き、神の声に従って行った人物があります。この像はもしかして実際にご覧になる機会がおありだったかと思うのですが、これ青山学院大学の正面入り口に入ってすぐ右側の方にあるジョン・ウェスレーの像です。青山学院はインマヌエルの年会の会場として、九段会館の後に、青山学院大学の方で日程を調節してもらい、会場としてしばらく使わせていただいておりましたが。
ジョン・ウェスレーはメソジスト教会の始祖。私たちの群れの源流であり、遡ればこのところにたどり着くのであります。このウェスレーという人物は、イギリスの国教会といういわゆるイギリスの国王を首長とする宗教なのですが、カトリックではなく、そしてまた純粋な意味でのプロテスタントでもなく、ちょうどその中間にあるようなイギリス国教会と呼ばれる流れがあります。そのところを私たちが遡っていくのならば、そして、またその流れを俯瞰してみますと、これはプロテスタントの立場に分類しても当然良いだろうということであります。教会史的なことは今日はあまり深く触れません。
このウェスレーという人の体験を確認したいと思うのです。彼はルターがそうであったように、非常に几帳面で真面目な人物でありました。そして神に仕えようという真実な思いをもって、当時のイギリスにとっては新世界アメリカですね。当時の。そのアメリカにこの福音を携えて彼は宣教師として船に乗って出かけていく。その同じ船に乗船していた人たちの中に、モラービアンと呼ばれる一つの群れがありました。それは、信仰の自由を求めてアメリカに渡っていく一つの群れでありました。ウェスレーからすれば、学問的なことには程遠いそういう彼らと同じ船の中にあった。やがて大嵐に遭遇し、さあどうしようというさ中に、このモラービアンの人たちは、いつもと変わらずに賛美歌を歌い、神様に祈りを捧げている。その姿を見て、自分はこんなにも恐れているのに、この人たちは平然としている。自分とは何かが違う。違うものを持っている。彼はモラービアンの持っているものに惹かれたわけなんです。舟は新大陸に着き、彼はそこで一生懸命宣教活動に励むんですけれども、彼の超真面目さ、几帳面さ、というようなものも含めて、受け入れられなかった。彼は失意のうちに帰っていきました。
ウェスレーの心の中には、ずっとモラービアンの人たちのことがありました。イギリスに戻った彼は、これがそのアルダ-スゲートの経験と私たちは呼んでいますけれども、彼は日記に「あまり気乗りがしないときであったけれども、モラービアンの人たちの集会がアルダースゲートというところである」と記しています。小さな集まりだったのでしょう。彼はその集会に行ってみた。そこで指導していた人が、ルターのローマ人への手紙の序文、ロマ書序文とその本をテキストにして、信仰による救いと義認、「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」という所謂このところが語られていたのでした。ロマ書序文の中でウェスレーは聞いて、これだ! これだ! 神を信ずる、これが神様の前に義と認められるという事なんだ。まるでルターの「塔の体験」です。神の声を聞き、神の声に従ったように、ウェスレーは、自分の新生、新しく生まれるという福音による経験をこの時に持ったわけです。
その資料をちょっとご紹介いたします。ある文書を引用いたします。
「伝道の情熱に燃えて大陸アメリカにウェスレーはその仲間と共に出かけたが、彼は内心、自らの救いの確証を実は求めていた。その航海でドイツからのモラービアンの移民に出あい、突然の嵐の中で、彼らが平然として讃美し、祈りを合わせている光景に心を打たれた。自分たちが今にも死にそうだと怖じ惑っている時に、彼らを支える信仰はどこから来るのかと、その根拠を追い求めた。そのような信仰的な苦闘の中で、彼は福音的改心をついに経験した。1738年5月24日の夕べ、気の進まぬままアルダースゲート内のモラービアン派の集会に出席し、司会者の読んでいたマルチン・ルターのロマ書講開の序文を聞いているうちに心が不思議に燃えるのを覚えたと日記に記している。ローマ書に人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく信仰によるのである。これは、「信仰により義人は生きる」と書いてある通りである。この改心の経験により、彼は、悔い改めてキリストの十字架の恵によってのみ救われ、キリストは救い主であり、自分の罪をすべて赦してくださることを心から信じることができるようになった。これがウェスレーのアルダースゲートの劇的な改心の体験であり、メソジスト運動の原点となりました。私たちがしばしば聞いているこのところでありますが、この福音の原点に。
お話を締めくくらせていただきますが、さて、きょう、宗教改革記念日という時に、あなたと私の宗教改革はどんなものでありましたでしょうか。福音の原点は、アブラハムがそうであったように、神様が語ってくださった神のことばによって彼は出ていきましたけれども、その神の語られたという事は、神ご自身が権威そのものですから、この神、究極の権威である神様が語られたことば、このことばに私たちはしっかりと土台を置いて、このことばによってスタートしていく。私たちは本当の意味のこの宗教改革、私にとっての宗教改革をしているでしょうか。
イエス言ひ給ふ『われ汝に、もし信ぜば神の榮光を見んと言ひしにあらずや』「我汝に言いしにあらずや」
この「汝に」ということば。聖書のことばが一般的に真理を語っているというのではなくして、ルターにそうであったように、ウェスレーにそうであったように、神様は、神様の権威あることばを私に語ってくださる。神様は語ってくださる。私に語ってくださる。
『われ汝に、もし信ぜば神の榮光を見んと言ひしにあらずや』
この文語訳聖書の方が私にはスキッと心の中に落ち着くものですから、この表現をいたしましたが、これはヨハネの11章の40節にあるおことばです。
「イエスは彼女に言われた。信じるなら神の栄光を見る」とあなたに言ったではないか。
ヨハネの11章の40節でありますが。神様は個人的に語ってくださいます。そして、言ったではないかと、私たちの信仰にチャレンジなさいます。私はあなたに言ったよね。語ったよね。
「もし信ぜば神の榮光を見んと言ひしにあらずや」
どうですか。私たち一人ひとり神様のおことばを、いにしえああだったこうだった、あの人はこうだったというよりも、私にとってそれはご聖霊が、聖霊なる神様が、今の私たちに必要な、神様が語りたく願っておられる聖霊がそのおことばを私たちに与えてくださるのです。神さまは語りたく願っておられる。神様は私たちに語りたく願っておられる。導きたく願っておられる。それをちゃんとアブラハムのごとくに聞いて
「アブラハム神を信ず。神これを彼の義と認めたまえり」
神を信じ、私たちの本当の意味の宗教改革をきょう心に確認させていただき前進させていただきたく願うことであります。
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