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きょうのことば

先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の講壇をお伝えします。
國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、45年の間、岩手で主のご奉仕をしておられます。

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 1110()ギデオン協力講壇『よき牧者なる主イエス』(説教:國光勝美牧師)
聖書引証:詩篇2316


1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません
2
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます
3
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
6
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

 

<メッセージ>

前回は昇天者記念礼拝でした。「私たちの国籍は天にあります」というおことばから、私たちは天の戸籍簿に記載されている。ただそれが麗しい宗教的な言い回しで戸籍簿に名前が記されているという表現ではなく、ほんとうに私たちの名前が仔羊の命の書に名前が記されているということを確信できること、これほどすばらしいことはないなと思います。教会の墓誌にも名前が刻まれておりますけれども、それに優る神の御子の尊い命の十字架の血潮の贖いによって名前が天の御国に記されている。何という神様の憐れみでしょう。知れば知るほど感謝にあふれることであります。そして私たちの国籍、これをヨハネの福音書から見まして私たちの父の家には住む所がたくさんあります。どこか知らないところではなくお父さんの家、ほんとうの意味の故郷。「あなた方のために場所を用意してくださる」、この場所というのがこの世における場所ではなく、それとは次元を異にしている所です。


 
前回はスクリーンに蟻の世界を映しだしました。そこを這っている蟻さんにもし私が手を伸ばしてつまみあげて取り去ったとしましょう。たぶん蟻さんの世界では、彼が忽然と消えてしまったが、いったいどこへ行ったのかと危ぶむか不思議さに当惑するかもしれない。神様はこの世界のためにひとり子を遣わしてくださった。御子が蟻さんと同じ世界に降りてきて、蟻さんと同じになって、そして蟻さんの罪の贖いを成し遂げるために十字架に架かり救いを成してくださった。それを信じたとき、蟻さんには罪の赦しが与えられ、そしてまさに彼は新しい世界に、父の家に取りあげられていく。
 彼と同じ世界に生きていた者たちが、彼はどこへ行ったんだ、北緯何度だ、東経何度だといった地上のそれとはまったく違った次元の中に彼は入る。たしかに天の世界にとりあげられたとするなら、そのように考えるとき、「私が行って場所を用意した」という意味がわかるのです。迎えてくださる。「わたしがいるところにあなたがたもいる」、これが私たちにとっての天の御国、父の家、私たちの帰るべきところなのであります。

 そして先回は、締めくくりのように「私たちはもはや信仰によって歩まない。見ゆるところを歩む」というインマヌエル賛美歌681番を紹介させていただきました。見えない神様を思いっきりあてにして信頼して、すべてを委ねて歩むというこの信仰は、これここそが神様をお喜ばせするものでありますけれども、天の御国ではこの信仰というものをもはや働かす機会はない。そういう場所であり状態である。なぜならイエス様をそれまでは鏡に映るものをぼんやりと見るように見ていたかもしれないけれども、今や目と目を合わせて、十字架のイエス様の御傷を、ほら、あなたのために受けた傷ですよとイエス様が私たちに手を示してくださる。それを見て、トマスではありませんが、主よ、ほんとうにありがとうございます、ともう目の当たりに主とともに歩むことができるのが私たちの待っている世界です。そこでは、もはや信仰によって歩むということはない。私がこれまでに受けたメッセージの中で、いちばん心に残っているのは「信仰によって生きるということは、今このときにしかできない。天に移されて目と目を合わせてイエス様にお会いするときに、私は信仰によってあなたを見ています、などということはない。今のこの時代、まだイエス様を見たことはないけれども愛しており、且つ言い難く、且つ光栄ある喜びをもって喜ぶ」というその信仰の醍醐味を今のこの世で思いっきり発揮させてください。それこそ神様のお喜びになる信仰なのです。これを前回昇天者記念礼拝のときにお話しをさせていただきました。

 

 さて、きょうは詩篇の23篇。ここに心を集中したく願っております。

主は私の羊飼い。」

23篇には「アドナイ」ということばが幾つか出てきます。

 

アドナイ・イルエ
アドナイ・
ラファ
アドナイ・シャロム
アドナイ・ツィデケヌー
アドナイ・シャマ
アドナイ・ニシ
アドナイ・ロイ

この「アドナイ」は「主」と訳すことができますけれども、このイルエから始まって、ラファ、シャロン、ツィデケヌー、シャマ、ニシ、ロイがみな神様のお名前と結びあわされている。こうある注解書の中に紹介されておりました。

 

アドナイ・イルエは「主の山には備えがある」という意味です。きょうはギデオンの聖日でもありますから、できるだけ聖書をそのまま開いていきたいと思っております。
創世記22章14節「アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「主の山には備えがある」と言われている」
ここにアドナイ・イルエ。神様のお名前にリンク、非常に一体化するようにしてアドナイ・イルエということばが使われております。「主の山には備えがある」。するとどうでしょうか詩篇の23篇はキーになっていますので開いてみてください。
「1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」。まさにアドナイ・イルエの神様がわが羊飼いですよ、ということですね。

 

それからもう一つ、「アドナイ・ラファ」、これはどういうところに使われているのでしょうか。これは「わたしは主、癒すものである」。神様が癒し主であるということが、名前がリンクされておりまして、出エジプト記の15章26節「そして言われた。「もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、私がエジプトでくだしたような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒す者だからである」
私は「主」、「アドナイ」、「あなたを癒す者だからである」。アドナイ・ラファということばで、リンクされている主のお名前です。私たちの主は癒すお方である。これを詩篇の23篇で見ますと3節に「主は私のたましいを生き返らせ」。主はまさしくアドナイ・ラファであるお方なんです。私のたましいを生き返らせてくださるお方。この詩篇の23篇がいかにアドナイ・何々ということばに満ちているのかということを一つひとつ確証するところでありますけれども。

 

次、「アドナイ・シャロム」。「主はわが平安」という意味でありまして、これは開く機会は少ないかもしれません。士師記というところにある。ヨシュアの後の士師記の6章の24節、きょうはギデオンの日なのですがここにギデオンが登場しました。24節「ギデオンはそこに主のために祭壇を築いて、これをアドナイ・シャロムと名付けた。これは今日まで、アビエゼル人のオフラに残っている」
「アドナイ・シャロム」、「主はわが平安」。これは23篇でいうのならば、2節にある「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」というこのおことばと同じです。主はわが平安。アドナイ・シャロム。23篇はこのアドナイ・何々という言葉に満ちていますね。

 

そして「アドナイ・ツィデケヌー」。これは「主は私たちの正義」。エレミヤ記の23章の6節。これも開く機会が少ない。イザヤの後の方をご覧になるとエレミヤというところがあります。エレミヤ記23章6節「彼の時代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。「主は私たちの義」、それが彼の呼ばれる名である」
「「主は私たちの義」、それが彼の呼ばれる名である」
詩篇の23篇を合わせますと、3節に「御名のために、私を義の道に導かれます」。主は私たちの正義であってくださいます。

 

それからもう一つは「アドナイ・シャマ」ということば。「主はここにおられる」。エゼキエル48章35節、欄外のところをご覧いただくと「アドナイ・シャマ」と書かれています。エゼキエル48章35節ご一緒にお読みいたしましょう。「町の周囲は一万八千キュビト。この町の名は、その日から「主はそこにおられる」となる」。そして欄外を見ると「アドナイ・シャマ」とあります。
 詩篇の23篇を比較いたしますと、「4あなたが私とともにおられますから」とあります。「4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから」。

 

それからこれは時々今まで触れたことのある「アドナイ・ニシ」というおことばを思いだされるでしょうか。「主はわが旗」。出エジプト記17章8~16節までの間です。15、16節「モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び、そして言った。「主の御座の上にある手。主は世々にわたりアマレクと戦われる」。15節の欄外のところを見ると、この米印の所、「アドナイ・ニシ」とある。これは、「主はわが旗」。これはもう凱旋ですね。戦いに大勝利を与えてくださる。詩篇の23篇5節「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています」。
 まさに圧倒的な勝利。主はわが旗。このように見て行きますと23篇はアドナイ・何々、アドナイ・何々、ということばに満ちております。

 

そして最後に「アドナイ・ロイ」。これは「私の羊飼い」という意味です。これは「主は私の羊飼い」。欄外には書いておりませんが、このことばが使われております。「主はわたしの羊飼い」。イエス様は「わたしは良い牧者です。よい牧者は羊のために命を捨てます」と仰る。よき牧者なるお方。

きょうはこの23篇を取り上げておりますけれども、みなこのように主がどのようなお方であってくださるのかということが、どんなに幸いなお方であるのかが満ち溢れて記されているのが詩篇23篇であります。

 

その中で私はきょう23篇の一つのことばに注目したい。新改訳聖書、文語訳聖書とで見てみます。注目したいのは「あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」。文語訳では「なんぢの笞(しもと)なんぢの杖われを慰む」というこのおことばに心を向けたいと思います。この詩篇23篇はクリスチャンたちにはよく愛読され覚えられているところです。私たちは新改訳聖書2017を使っているのですけれども、私たちの前の世代の人たちは文語訳聖書に親しんでおりました。私がお読みいたします。「エホバ」と文語訳聖書の方に出ておりますのは「主」、そのことを心に留めて頂ければと思います。

 

ダビデのうた

23:1ヱホバは我が牧者なり われ乏しきことあらじ
23:2ヱホバは我をみどりの野にふさせ いこひの水濱(みぎわ)にともなひたまふ
23:3ヱホバはわが霊魂(たましい)をいかし御名のゆゑをもて我をただしき路(みち)にみちびき給ふ
23:4たとひわれ死のかげの谷をあゆむとも禍害(わざわい)をおそれじ なんぢ我とともに在(いま)せばなり なんぢの笞(しもと)なんぢの杖われを慰む
23:5なんぢわが仇(あた)のまへに我がために筵(えん)をまうけ わが首(こうべ)にあぶらをそそぎたまふ わが酒杯はあふるるなり
23:6わが世にあらん限りはかならず恩惠(めぐみ)と憐憫(あわれみ)とわれにそひきたらん 我はとこしへにヱホバの宮にすまん


このように紹介され訳されておりますが、注目させていただきたいのは、
なんぢの笞(しもと)なんぢの杖われを慰む」というこの部分であります。
羊飼いの杖、よく絵でも見たことがありますが、長い杖の先が湾曲している。これを羊の首にやさしくかけて、こっちだよというように方向を指示し引っ張っていくためです。それから旧約聖書などを見ると、杖は、武器を持たない羊飼いが、夜襲から羊をまもる武器でもあった。ですからこれは敵と戦う武器としてのものもありますし、また優しく羊を導く道具でもある。「あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」ということは、私たちの生涯のさまざまな局面において、ああそうだったなと思い当たるでしょう。神様がよき羊飼いとして私の危うきを守ってくださった、私の迷いを正してくださった。

私はきょう「みことばの杖」というように集中したい。今の私たちにとってこれは「みことばの杖」なのです。このみことばの杖は、私たちがもし誤った道に行こうとするならば、この聖書のお言葉の杖は私たちを優しくこっちじゃないのか、そっちじゃないよ、信仰生活の中で正しい選ぶべき道を教えてくださいます。

またある時は、文語訳では笞(しもと)とあります。「なんぢの笞(しもと)なんぢの杖われを慰む」とありますが、これはまさしくむちですよね。むちっていやですよね。でもあるとき神様は、そっちじゃないよこっちでしょ、鞭をもって叱ってくださる。しかしそのむちが神様の手の中に握られているおことばであるのなら、その神様の叱責の言葉は私たちに取って慰めなんです。私たちが大きな敵、或いは試練、それに直面し、さあ、どうしようかというとき、大丈夫、このおことばで戦いましょう。

「我汝に言いしにあらずや」

神様がおことばを持って折に適うみことばの杖でしっかりと敵と戦ってくださいます。

 

 このまえ教区会が終わって現地解散でありました。この教会の課題も皆さんに祈っていただきたい。個人的に近しい方々にはお話しはしているんですけれども、そういう機会があまりない方もありますと、同じ東北教区で働いている同労の先生でも情報が違ってしまうとまたかえって失礼になったりするものですから、ありのままに話させていただきほんとうによかったなという思いでした。進学校時代にひろ子先生と同期の先生は郡山教会の先生ご夫妻は新幹線でいらっしゃるものですから、ならば教区会が終わって帰るとき一緒に私のクルマに乗って盛岡までと。十和田教会の先生もご一緒下さったんですけれども、そのときに先生がおいでくださいました。ひろ子先生が作って下さったかぼちゃケーキを囲んで1時間ほど。一緒に祈ることができてよかったと思いました。

そのときに久保先生が下さったおことばが詩篇91篇の1516節でありました。

91:15かれ我をよはば我こたへん 我その苦難のときに偕にをりて之をたすけ之をあがめん
91:16われ長寿をもてかれを足はしめ且わが救をしめさん

お祈りをしてお別れのときを持ちました。これは大きな慰めですね。何のものにも代えがたい。その先生が、私はこのお言葉が与えられてきました。読ませてくださいと言ってお読みくださり、そしてみんなで心を合わせて祈るとき、みことばはほんとうに力強く導いてくださる。「よき羊飼い」、どうぞこのみことばの杖をもって、私たちこの詩篇23篇のよき羊飼いなるお方に導かれて歩ませていただきたいと心から願うことであります。

 

この後ギデオン協会の大西博雄先生が登壇され、ピリピ書の「あなたの内に働きかけてその願いを起こさせ、且つ実現に至らせるのは神である」を開き、聖書をホテル、学校、病院など贈呈するための協力へのアッピールがありました。



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