きょうのことば
インマヌエル盛岡キリスト教会の先週の日曜礼拝メッセージをお届けいたします。
説教者は國光勝美牧師です。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師はこの岩手で45年の間、教会の牧会と伝道に携わっておられます。
2019年11月24日(日)
説教題『神に喜ばれる者』
引照聖句 ヘブル11章1~6節
11:1さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。 11:2昔の人たちは、この信仰によって称賛されました。 11:3信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。 11:4信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証しされました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だと証ししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって今もなお語っています。 11:5信仰によって、エノクは死を見ることがないように移されました。神が彼を移されたので、いなくなりました。彼が神に喜ばれていたことは、移される前から証しされていたのです。 11:6信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。
<メッセージ>
年頭に与えられました聖言(みことば)はヘブル11章6節「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」を握りしめ、皆さんと共に歩んでまいりました。
私はいま思わぬ試練の中にありますが、このことを通し、またこのことを通してでなければならない神様の恵と祝福がもたらされたことに深く感謝をしております。皆様方のお祈りに感謝しながらクリスマス前の歩みを締めくくり、来週からのアドベント、クリスマスを待ち望む講壇にシフトチェンジいたしますが、ここでこの今年のおことばヘブル11章6節をここでしっかりと捉え直すように導かれております。
このところヨブ記を思い巡らしております。ヨブ記の意味の深さを考え教えられ、また扱われるという経験をしております。ヨブ記から聖書を開くことは滅多にありませんが、しかし、ヨブという人物については、皆様方も及ぶところは多くおありだろうと思います。
彼は、地上には彼ほど優れた信仰を持っている者はいないと聖書に記されているほどの人物であります。そんな彼を、サタンは何とか信仰から引きずり落とそうとします。「人は得することでもない限り神を信じたりするものか、神を畏れているといったって祝福や守りが取り去られたなら、彼は信仰を簡単に捨ててしまうに決まってるのさ」
ヨブ記は聖書の中ではいちばん古い書物であると言ってよろしいかと思います。ヨブ記には人間の歴史と共にある神様と人間、そして信仰のあり方が、悪魔の言葉を通して記されております。人はご利益があるから神さまを信じてるんだ、そうでなければ誰が信じるものかという悪魔の挑戦に、神様はその悪魔の挑戦をしっかりと受け留め、ではやってみるがいいと挑ませる。そして恐ろしいまでの悲惨な試練がヨブに展開していくのであります。それがヨブ記の大きな主題であります。
子どもが亡くなり、財産も次つぎに奪われていきます。それでも屈しないヨブにこんどは全身を腫瘍のようなもので苦しめます。
ヨブのあまりに悲惨な状態にヨブの妻が「あなたはこうまでなってもまだ神様を信じているの、神を呪ったらどうか」と口走る。サタンの言わしめるところです。さらりと子どもの童話のように書くこともできますが、これは現実的な大きな試練であります。
神学院でヨブについて学んだときでしたでしょうか、信仰の世界でいう三大悪妻のひとりはヨブの妻だと聞いたことがあります。今一人は意外や意外ジョン・ウェスレーの妻だと。それはそれとして、ヨブの妻は決して悪い人間ではない。ヨブの試練を身近にし思わず堪え難い呻きがそのような言葉を投げかけさせる。「神を呪ったらいい」、これは悪魔のもっともらしい誘惑です。
「11:6信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」
ほんとうに幸いなことに、ひろ子先生も私自身も憐れみのゆえにこのヨブの妻のような誘惑を心の中に来たらせることは微塵もありません。ほんとうに心の中を神様に覗いていただいて、どこを探していただいてもありません。「聖潔(きよめ)ってこれなんだな」と思いました。これがきよめの恵なんだなと。もし心の中にきよめの恵が届いていなかったなら、おそらく、信仰って何なんだという思いに引っ掛かり、引っ繰り返されてしまうこともあるでしょう。皆さん方に祈っていただきたい。サタンの誘惑は激しい、だからこそ一層神様の憐れみを請いながら歩ませていただこうと思っております。
ヨブにはエリファズ、ビルダデ、ツォファルという3人の友達がいるわけですね。ヨブが大変な試練にあっていることを知り慰めようとはるばるやってきます。そして、そこで苦難についての議論が始まる。これもまた一つのテーマでありまして、人はなぜ試練に遭うのか、その理由は何なのか。是非もういちど読み直したいところであります。
励ましとしてイザヤの53章、53章全体がイエス様を預言しているのですが、2~4節をご覧ください。
「2彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。3彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
イエス様はほんとうにこの苦しみ痛み辛さをことごとく味わって私たちの病を身に負い、4節を見ると私たちの痛みを担った。」
神の御子が人になってくださった。私たちはまもなくクリスマスを迎えますけれども、来週からアドベントとなりますけれども、イエス様はこのことのために人としてお生まれくださったのであります。神の御子が、人の悲しみを思い、涙を流し、はらわたがよじれるほどに悲しまれて世においでくださったというこのことを、私は家内の病という試練、現実を目にするまで、このお方が人となって悲しみを担われたということを私は知らなかった。このことを通してほんの僅かでも知ることができました。それを思うとイエス様の、それを知れば知るほどに私というものが何と足りない欠けの多い者であろうか、人の辛さ、人のいたみをどれだけ私は担う事ができている牧師だろうかということをつくづく申し訳ないなと。そのために主はおいでくださった。
話しの締めくくりに入っていきますが、これは有名なローマ人への手紙の8章28節
「8:28神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
このおことばは、皆さん方も事柄は別として、人生の中で思わしくない、こうあってもらいたくないような出来事に折々直面するときに杖としてこられたでしょう。「神の御計画に従って召された人々のためには」、そうだ、私たちは神を愛している人。すべての事が共に働いて益となることを私たちは知っている。そうだ、神を愛する人、ヨブがそうだったじゃないか、それは「即ち」、「イコール」で結ばれている。「神の御計画によって召された人」
じゃないか。であるからには神様がすべての事を共に働いて益としてくださる。そうだ、どれだけこのみことばの杖によって助けられ支えられてきたことか。
しかし私はそれとともに自らのことを探りながら、「すべてのこと相働きて益となる」という表現に照らしたときに「神様によって召されたものだから神様はすべての事を働かせて益としてくださるんだ、だからもう神様にぜんぶ委ねよう。現実的にどうあがいても神様がすべての事を相働かせて益としてくださるんだから全てを主の御手にゆだねよう。私はそれが微妙に心に、自分の心を探るときに、それは消極的な委託であると思われました。これは信仰的には見えます。でもそれをよく突き詰めると信仰的な不信仰じゃないかという気がするのです。神様に委ねているから信仰的ではあるのですが、そうでしょうか。私は積極的な神様への委託、これは神様に期待する信仰と敢えて言いたいのです。神に期待する信仰、それがみことばの杖。
どれだけ今回さきほどのロマ書のおことばもそうですし、「アブラハム神を信ず。神これを彼の義と認め給えり」。それからマタイ伝にもマルコ伝にも色々な癒しの記事があります。「汝の信仰の如く汝になれ」といった杖が次つぎに出てきますけれども、詩篇23篇のすばらしさ、響きが違って聴こえてくるくらいです。聖言の杖によって一層神様に積極的に期待します。そして皆さん方のお祈りに支えられている、ほんとうに祈られている、祈っている、祈られている。思い出しますが、蔦田二雄先生でしたが、ほんとうに祈ってもらいたいという大きなできごとがあった、そこにたまたま歩いてきた犬にも、おい祈ってくれと言いたくなるもんなんだよ、そういうものなんだといっておられました。ほんとうにそうだ、祈ってくださる方々がおられる。私たちはほんとうに恵まれている。一本だと折れてしまいますが、それが二本、3本と束ねられていく祈りの杖というものが。これをもって神様に期待するんだ、そして神を愛する者、これこそ神に喜んで、信仰なくしては神に喜ばれること能わず。神に期待する。神を信ずるものには報いたもうことを必ず信ずべければなり。信仰的に見える不信仰なんじゃなくてほんとうに一つ一つの課題にみことばの杖、そしてそれも皆さん方のお祈りに期待して神に喜ばれるものとして歩んでいる。いいおことばが年頭に与えられていたんだ。それを心に留めて来週から、イエス様の降誕を待ち望むアドベントになります。聖餐式が行われます。こんどの聖餐式に共に与りたいと願っています。皆さん方のお祈りを心から期待し感謝いたします。
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