きょうのことば
先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の講壇をお伝えします。
國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、45年の間、岩手で主のご奉仕をしておられます。
9月29(日)の説教題『組み合わされて成長し』(説教:國光勝美牧師)
聖書引証:エペソ人への手紙第2章19~22節
<説教>
2:19こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。 2:20使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。 2:21この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、 2:22このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。2:22あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。
<説教>
それでは簡単に前回の復習をして、きょうのところに入っていきましょう。
まずエペソ人への手紙のいま2章を締めくくりの方へときょうは入るところですけれども、ポイントは一つです。パウロがこのお手紙でいわんとしていることは、神様はイスラエルの民だけをえこひいきして救われたのではなく、つまり、選民、神に選ばれ民という、アブラハムの子孫であるというそれを誇りとしていたイスラエルを神様は選んで救われたのではない。全く関係のない者たち、割礼もなく、またメシヤを待望するというそういう知識もなく、またほんとうの礼拝をすることさえも知らない、ましてモーセの十戒に表されるような神様の掟、それは聖書といってもいいでしょう、それさえも知らなかった、イスララエルの者たちはこれらのものは我らのものだといっているのに対して、それとは全く与りのなかった者が救われていた。それまでは選民と異邦人との間には大きな隔てがあって、救いは我等のものだという特権意識を彼らは絶えず持ち続けておりました。またそれを知れば知るほどに、こんどは逆なりの偏見といいますか、ユダヤ人に対して先入観と偏見が持たれるようになりました。ご存知の通り欧米の方はキリスト教が精神土壌に大きくあります。ローマ帝国以降そういう流れの中にユダヤ人というものは蔑視されてきた民族だったわけです。選民意識が強ければ強いほど、逆なりに迫害も多かったでありましょう。キリスト教国の価値観からは、彼らユダヤ人は、我らの救い主イエス・キリストを十字架につけた、救い主を十字架につけた輩なのだ。その証拠のように聖書のことばをもって彼らユダヤ人たちは、イエスを助けようとしたピラトに、「イエスを十字架につけろ、この男の血がわれらとわれらの子孫にかかってもかまいはしない、奴を十字架につけろ」と叫び、そして主を十字架に追いやった。これがユダヤ人に対する欧米諸国からの強固な偏見、先入観となっている。近代でいうなら第二次大戦のナチス・ドイツによるユダヤ民族抹殺でありました。あるクリスチャンになったユダヤ人がいいました「どうか我らを、イエスを十字架につけた民族であると言わないでくれ、これがどれだけ偏見に満ちた敵意をナチスに与えたかわからない。また非人道的なことをしている人たちに、クリスチャンたちが心のどこかに、そうだ、そうなったのは自業自得だというような言葉に出す出さないにかかわらず偏見を持っている。どうかこれを取り除いてほしい。決して我らをこのように見ないでくれ」といっています。
イエス・キリストは、全ての隔ての壁を取り除いたお方です。聖書の中では、偏見を持たれていたのは律法学者、パリサイ人、それと、罪びとと呼ばれる取税人、或いは羊飼いです。この羊飼いですが、よくわかるように書かれているのがクリスマスの場面です。天使がイエス様の誕生を真っ先に知らせたのは、野山で羊を飼っている羊飼達にでした。羊飼いに救い主の誕生を真っ先に教えたのです。私たちは聖書からそれをロマンティックに牧歌的に理解しやすいのですが、これが実はラン・メッセージである。人間が知らねばならない、聞かねばならないメッセージ。きょうあなたがたのために救い主がお生まれになった、このお方はいま飼い葉おけの中にやすんでおられる、この方こそメシヤなのですという神様が全人類に関わってくださったというラン・メッセージであります。
何と神様は、偏見で一番社会で見くびられていた、ユダヤ人のサークルからも除け者にされ、やつらは安息日を守ることもしない、できないような職業についている、もう箸にも棒にもかからないやつらなんだというその人たちに、イエス・キリストの誕生のメッセージが最初に与えられたということは、実に意味深い。このような観点から見れば見るほどにそれを思うことであります。
どうか私たち、人に対する、或いは、これを自分に対する偏見、先入観、これらのものから救われてください。それらの隔ての壁をすべて取り除くお方が、我らの主イエス様であります。このお方に私たちのすべての平和の基があるという事をどうか知ることができますように。イエス様の十字架の血こそがあらゆる偏見を取り除く平和の源であります。これが前回のメッセージでございました。
そしてきょうのメッセージに入ってまいります。
19節「2:19こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。」
つまり、神様がアブラハムの子孫に約束してくださったすべての良きもの、それは、同じく私たちのものとして享受することができる。そして私は今日、神の家族という事に非常な恵みをいただいております。家族。冷たい組織、血の通わない、そういう組織に組み込まれるというのではなく、あなた方は、イエス・キリストの十字架の救いを受けているあなた方は、神の家族であり、天国の諸々の祝福を受け継ぐ者たちであります。
放蕩息子が父のもとに帰って、頂いたすべての祝福は、あれは私たちに与えられているものと全く同じ約束のものです。そのことを思います。私たちはその意味で神の家族です。神の家族になるということは、一人ひとりが、イエス・キリストの前に罪をお詫びし、イエス・キリストの十字架を私のためであると自分の罪を認め、神の裁きをそこにある、神の愛がそこにあると知って、有り難うございますと、キリストの十字架を感謝して受け取る信仰によって受けたとき、私たちは神の家族の一員となっている、そのことを覚えたいと思います。
さてこんどは20節「2:20使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。」
こちらの図の方がもとになっているものです。使徒たち、預言者という土台の上に立って私たちはこの恵みの中に今あるのだという事をもう一度確認させていただきまして、さて、神の家族、これが教会とどう結びつくのか。19~21節に目を留めてください。
19節の最後に「家族」とあります。何回も申しましたとおり、神の家族、家族が住むところはどこか、当然それは家になるわけです。その家という発想のもとに、21節の、「建物」というパウロの言及に進むわけです。イエス・キリストご自身が、こんどは家族の建物の要石なのですよ。そしてこのキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。
「家族」に注目をして、最初に礼拝ということを申し上げました。家族、それは神を一緒に礼拝するグループです。
これは私自身が経験したところでありますが、私がお救いに与ったのは、お茶の水のキリスト教会館の特別集会のメッセージで、イエス・キリストの十字架を信じたのです。その時に、そこの先生から、君、ここは会館であって教会ではない、だから君たちが教会に結びつくことを僕たちは祈っているからね。という指導を受け、そして 私は、摂理的に恵みを頂いてインマヌエルという教会に導かれることになりました。さて、ここは会館であって教会ではない。だって会館だってイエス・キリストの十字架の福音を伝えてくださった私の魂の故郷でもある。それなのに、そこが教会ではないってどういうことなんだろう。何かわかったようで、今一つもやもやとした思いを持っておりました。
そこの会館に集っている人たちは、いろいろな流れの教会の人たちがおられた。インマヌエルの者もいれば、改革派の人もいれば、ルター派の人もいれば、いろいろな人たちがそこでお話しをし恵みをいただいて福音を伝えている。その意味で、広い意味では目に見えない教会の働きではあるんですけれども、その会館というところは、やはり教会ではない。どこが違うのだろう。
それは、会館というのは責任がない、というとおかしな言い方になりますが。教会というのは神の家族という意味で、もっと深い大切な意味がある。その教会に属している者たちが一つの目的のために協力して働きを進めているのが会館の働きである。やはりその働きには違いがあるということがわかるのです。
私たちは会館ではない、教会なのです。救われた人たちが家族として主を礼拝する。それから家族というところには交わりがある。人生の問題に立ち向かわせて、互いに思いやりの心を育てるところ、これが家族としての教会、その意味だろうと思います。互いに思いやりの心を育んで、一緒にさあ行きましょうと立ち向かう。特に、問題、課題のさ中にある方々にとって、教会の祈りの交わりは何と素晴らしいものだろうかと思います。
昨日、郵便受けに手紙が2通届いておりました。1通は「ひろ子先生へ」とあり、北海の方からの手紙でした。もう1通はそれよりすこし分厚い。それは私が敬愛する福井の方、私と交わりのある先生からでした。教会の病む方への励ましです。「私の家内が胃がんだという時に、とても恵まれた賛美歌があります。人それぞれの趣味があるので、会うかどうかはお委ねして、非常に励まされたCDを送ります」とそのCDが送られてきました。これ、家族だなあ、ほんとうに問題に立ち向かわせてくれる。互いに思いやりの心を育ててくれる教会、この21節に「建物全体が組み合わされて成長する」とあります。何か既成のできあがったこれというのではなく、私たちはこういうところを通りながら、生きて、だんだんと成長し続ける、それが教会なのだなと思うのです。それから「家族」ということに注目するときに、それが教会と一体であると考えます。私たち家族は互いに仕え合うことを喜びとする、お手伝いができるのを喜びとする、これが家族だと思うのです。そして自分を、教会を通して成長する建物としてみるときに、ああ、自分はこのことで神様のお役に立てる、自分はあのことはできないけれども、神様は私に、小さいけれどもこういう賜物を与えていてくださったというときに、それをもってお仕えする喜び、それを発見し、それぞれが家族のために奉仕をする。何という恵みでしょうか。それからもう一つ言えること、神の家、というとき、これは学習の場といえるだろうと思います。実は今度の特集の時にどなたかに証しをしていただきましょうという話し合いがなされたとき、じゃ最近救われたS兄に、ということになりました。そのSさんが、「クリスチャンってずるいなと思った」というのです。え? と思いました。それは何かというと、こんな素晴らしいものを持っているのに、私はここに来るまで理解することができなかったというんですね。旧約聖書はしっかり読んでいて、何だ旧約聖書でいってる救いって、新約で言ってるイエス様のことなんだということを、クリスチャンたちこのことを知っているのに、どうして教えてくれなかったのか。
教会に来ればわかりますよということであるのですけれども、これは一つの例なんですけれども、教会は福音を、勿論、慎重に、これがパーフェクトというわけではないにしろ、祈りながら、できるだけ健全に福音というものがなんであるか、それを、教えていくところ、これがきちんと為されていないと、間違った方向に進んでしまう。
一か月ほど前になりますか、この教会に仙台からのご夫妻がいらしたことを覚えておられるかと思います。それはご自分の教会の抱えている痛みや悲しみというものを交わりの中でお話しくださったのではありますけれども、私たちはどんな先生を特別集会の講師としておまねきしたらいいかわからない。何が健全なものであって、教会がいともたやすくカルト化、カルトってあまりいいひびきではありませんが、しかしきちっとした理解がされていないとカルト化してしまうという現状を目の当たりにしたときに、ああ、ほんとうに教会は健全なものが必要だと仰る。
そのお話を伺いながら蔦田二雄先生のことを思い起こしました。蔦田先生が、インマヌエルを興しなさった時にすぐに、教団の始まりと共に作ったのが神学校だったのです。どうしてかというと、仲間の牧師たちみんな一生懸命ですばらしい牧師たちなのだが、戦争中に特高の尋問に遭ったとき、信仰が分からなくなってしまう姿を蔦田先生は目の当たりにしておられた。そして、専門のものを扱うようなときに、ただ信ぜよ、信じる者は皆救われんアメーンと言って、タンバリンをたたき、太鼓を打ち鳴らして、これは卑屈な意味でいうのではなく、ただそれだけだったときに、そういう特高の調べを受けた場合、きちっとなぜキリストが神なのか、日本の神道と、伊勢神宮と、そういう日本のものとどこが違うのか、きちっと頭脳的にも学び理解しておくべきである。でなければ迫害に遭ったときに、不思議なほど熱心だった方が信仰が分からなくなってしまうという事態となる。熱心は必要だけれども、頭脳的なきちっとしたキリスト教理解というものがないと、試練に特に、長きに亘る試練に耐えることはできない。だから、絶対に正しい神学というものを持つ必要がある。迫害から出て来たばかりの先生だからこそ、痛感されたのはそれだったのです。教会は健全な学問の場所。でないと簡単にカルト化してしまう。そういう恐れがあります。だからこそ、私たちは一層遜って遜って、自分たちはということでなくして、遜って神様の前にどうか正しい神様の福音をしっかりとお伝えすることができるようにという教会が正しい聖書信仰の理解を深める場所であるという事、これはほんとうに必要なものであろうと思います。そしてもう一つ、この福音を伝える働きをする、これは、家族、それはイエス様が私たちの愛して止まないお方が、さあ、これをもって出て行きなさいと主はお命じになられたこのお方が、私たちに命じた葡萄畑における働きをしないままであることは到底できません。どうぞ、この福音ために働く、伝える働き人としてあらせていただきたいと思うのです。
最後、このチャートを掬ってみました。22節、「2:22このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。」
先ほど申しました。礼拝において、交わりにおいて、奉仕において、学習の場において福音を伝える働きにおいて、それぞれが組み合わされて成長する。組み合わされるというときに、よく大工さんが縦木を組んでいくところがあります。さすがプロだなあと思うのは、私はこの建物が建てられていく様をいちばん近くで見ることになったのですが、離れた作業所の方で、柱に溝を掘ったり、いろいろな作業をするのでしょう。そしてこの柱、梁はというようにぜんぶ頭に入っている。最後は木づちというのでしょうか、掘っている溝に合わせてトーントーンと。組み合わせるってこういうことなのでしょう。建物全体がそのときに調整される。削られたり、もう少し広く穴を掘ったり。というような様々な微調整、それは私たちが組み合わされて行くとき、私もいま言ったような中を通っております時に、神様の前にほんとうに砕かれ教えられ神様が私にこういうことを教えようとしておられるんだ、こういうところができていない、ほんとうにそれらのことを教えられながら一つ一つ組み合わされて、礼拝において、交わりにおいて、奉仕において、学習の場において、福音を伝えるための働き、これらのものを私たちイエス・キリストというあの方の血潮によって一致して平和の福音を生きる者でありたい。
そして22節「2:22あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」
築き上げられる。この恵みを私は、そして皆さん方もそれぞれの日々の歩みの中で神様から扱われ、そしてどうかみんなと一緒にこの「組み合わされて成長する」聖なる宮を一緒に築き上げていこうではありませんか。
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