TVで先ほど多摩川の氾濫がつたえられた。全国各地で河川氾濫。ダムの緊急放流が。いま岩手に大雨特別警報が。
LED街灯に照らされた樹木が、地鳴りをはらんだような風に煽られ低木が苦し気に上下、高木は葉を千切られそうに煽られている。
恐ろしい事態だ。緊急には避難できるような準備はしておいてある。
停電とならぬうちに更新しておこう。
……… ……… ………

先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の講壇をお伝えします。
國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、45年の間、岩手で主のご奉仕をしておられます。
10月6(日)の説教題『福音への招待』(説教:國光勝美牧師)
聖書引証:マタイ伝22章1~14節
<説教>
22:1イエスは彼らに対し、再びたとえをもって話された。 22:2「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。
22:3王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。 22:4それで再び、次のように言って、別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」と。』 22:5ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、 22:6残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。 22:7王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。 22:8それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。 22:9だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』 22:10しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。 22:11王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。 22:12王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。 22:13そこで、王は召使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』
22:14招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」
<説教>
きょうは、エペソ人の手紙からちょっと外れまして、こんどの聖日への備えとしてこのマタイの福音書22章をお開きしましたが、前回のところも簡単に見ていきたいと思います。
教会は見えない神様を中心に礼拝、交わり、奉仕、そして正しい教理、聖書の教え、そしてまたこれを多くの方々にお伝えする働きをする、見えざる神様を私たちに見える具体的な生活をするところであり、このようにして一つ一つ組み合わされていくのです。このように前回は締めくくらせていただきました。
さて、いよいよ今日のところです。
福音への招待は、「大いなる招き」という言葉で表すこともできます。
皆さん、マタイの福音書22章をお開きですね。ここに「22:2天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。」とございます。
披露宴にお客さんを招待したのです。ところが彼らは来ようとしなかった。それで再び別のしもべたちが遣わされて、「さあいらっしゃい、ぜんぶ準備ができましたから」と言ったのですけれども、彼らはその招待を気にもかけず、自分の畑の方に行った。つまりこの世の中の様々な事柄に時を費やして、何とあまつさえ招待に遣わされたしもべを怒って殺してしまった。このような有様です。これもまた詳しく見ていきますが、「大いなる招き」というときに、ちょっとルカの福音書の方も開いていただきたいのです。
ルカ伝の14章15節からを見ますと、
14:15イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」。14:16するとイエスは彼にこう言われた。「ある人が盛大な宴会を催し、大勢の人を招いた。14:17宴会の時刻になったのでしもべを遣わし、招いていた人たちに、『さあおいでください。もう用意ができましたから』と言った。14:18ところがみな同じように断り始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、見に行かなければなりません…』」14:19別の人はこう言った。「5くびきの牛を買ったので、それを試しに行くところです…』。ひとくびきを2頭とすると、10頭の牛をみるために行きたくない。また14:20また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』こう言って誰も応じなかった。それで「14:21家の主人は怒って、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人たち、からだの不自由な人たち、目の見えない人たち、足の不自由な人たちをここに連れて来なさい』」。とにかくたくさんの人を招くようにと命じたのです。
実はマタイの22章にも同じような招きがあります。基本的には、同じ内容を別のたとえで語っておられるとみて差し支えありません。どちらの引証でも同じ内容のメッセージはできるのですが、しかし、明らかに違う、或いはもっとはっきり言えるのは、きょう開いたマタイの方は、王子様の披露宴であります。そこに留意しながら、マタイの22章の方から、内容を探っていきたく願っております。
ご覧いただいてお分かりの通り、大きな披露宴が催されましたけれども、遣わされた人の招きに対して、22章5節、彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出ていった。そして6節「残りの者たちは、さあおいでくださいと言った王の僕たちを捕まえて、この僕を侮辱して殺してしまった。」これは王に対する決定的な反旗の翻しです。
そこで7節、「王様の怒りが軍隊を送って、その人殺しどもを滅ぼして彼らのまちを焼き払った」、こう、マタイの方には出ております。
皆さん方は、たぶんお分かりになると思いますが、これは招かれていた人たちは誰かというとユダヤ人達だったのです。王様からの招待を受けるにふさわしいものは、それはアブラハムの末、選民イスラエル、彼らこそ神様の祝福を受けるにふさわしい、そういう輩でありました。そして、王子の婚宴、これはまさにメシヤ、大いなる婚宴を催すというテサロニケの、きょうは開きませんけれども、子羊の婚宴の席を思い起こさせる内容でありますが、いよいよ待ち望んでいた、あなた方が待ち望んでいたメシヤが来ました。このすばらしい福音を、ユダヤ人たちにこの招きを伝えたのですけれども、「あんなのはキリストじゃない。だれがキリストであるもんか」と拒絶します。せっかくイエス様が、「神の国があなた方に近づいた」と言ったにもかかわらず、イエス・キリストを拒絶してしまった。何回もイエス様が、「神様は忍耐をもって幾たび呼び集めたことだろうか」とイエス様は、十字架を前にしておられた最後の時に、「ああ、エルサレム、エルサレム、幾たびわたしはあなたを守ろうと招こうと、呼んだことであろうか。けれどもあなた方は聞かなかった」といって、結局最終的にイエス様を拒絶してしまったという、そのことをまさに預言している場所であります。さらに繰り返すようですけれども、この前半の部分8節22:8それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。
こうして、イスラエルの人達はこの招きには与ることはできなかった。これが22章の前半の部分です。
きょう私たちは、それを踏まえたうえで、9節からのところを見ていきたいと思います。
22:9だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。
「大いなる招き」というように、私は、この部分をまとめたいと思うのですけれども、それは何かというと、それは王様からの招きであるという事です。そして2番目に祝福の招きである。そして3番目に、全ての人への招きである。大いなる招き、実は福音というのは、大いなる招きがその根本にあります。他の教え、宗教は、私にはわかりません。しかし、私たちが寄って持って立っているこの福音は何かというと、さあ、いらっしゃい。準備はできていますよ。渇いている者は来なさい。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなた方を休ませてあげます。来なさい。」。まさしくこのことなのです。
王様からの豊かな招きがある。そしてこれは祝福への招きである。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。」
だから大通りで出会った人はみな披露宴に招きなさい。そして、この大いなる招きは、もうすでに整っている。すべてのものが準備完了しているということです。そしてもう一つ大切なことは、招きがあったという事ですけれども、聖霊の招きがあった。しもべたちが行きました。大通りで出会った人はみな披露宴に招いた。そうです。聖霊様は私たち一人ひとりに豊かに招きを語りかけてくださるお方です。そして、この聖霊はまず最初に、私たちに、さああなたは今どこにいるのですかと問いかけます。そのままでいいんですか、と自分自身の今の状態をはたと気づかせてくださる。
ちょうど放蕩息子のたとえ話があります。皆さん、頭に思い浮かべることがおできになると思います。
私のお父さんの家には食物が余りある。そんな私のお父さんの家だけれども息子である私は、ほんとうに身を持ち崩して、豚の食べる餌を食べ物にしなければならないような状態にある。ああ、このままではいけないとその息子ははたと気が付く。そのところを見させていただきました。
2章でいうのならば、遣わされた僕たち、大通りにいって出会った人たちをみな披露宴に招きなさい。今回は今までのように戸別配布を大々的におこなうことは物理的にはしておりませんけれども、しかし私たちにできることを主はご存知です。
チラシを抱えて種入れを持って、そして、出ていきました。それは主のためのご奉仕をさせて頂く喜びでもある、特権でもありました。この「大通り」の意味ですが、固有名詞からは、日本では銀座のような、たくさんの人が溢れているようなところなのかと漠然と想像してしまいますけれども、あるコメントをみましたところ、この当時の「大通り」というのは、貧民窟のようなところとありました。それが的を得ているかどうか、それはわかりません。もしかしたらそれこそ銀座のような大通りであったかもしれませんけれども、そしてそう理解して少しもさしつかえないのすけれども。それこそ、山谷といわれるようなところなのでしょうか。ホームレスの人たちがいっぱいいるような、そこがこの大通りというところ、人があまり意識しないようなそんなところがここでいっている大通りなのだというコメントを見たときに、はたと自分の先入観といいますか、それを気づき直されるというか、気づきを与えていただきました。
この人ならばというのではなく、みんなから見捨てられているような、そんなところにでも行って招いてきなさい。聖霊様は、私たちを遣わしてくださいます。どうぞこの思いを持って残る1週間、種入れを携えてこの主のご命令、御想いを自分のものと受け留めさせていただきたいと、このように思うのです。
さて、主の招きを受けた人たちのことが10節以降にあります。「もべは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも、出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった」とある。よく年末になると、神様の使命と心得、炊き出しでホームレスの人たちに、食べる者を差し上げる、そのような善的な働きをするときに、たくさんの人たちが列を作って並ぶという光景をニュースなどで見たことがありますが、そのようにとにかく、「さあ、あなたのためにすべての準備ができています。」
そして招いたところ、披露宴は客でいっぱいになった。この披露宴というのは、どんな食事だったのでしょう。それはパン一つのようなことでは決してない、王様の、王子の披露宴の食事です。私たちでいうのならば、罪が赦され、神の子とせられ、あの放蕩息子が、父の家にもどったときに受けたあの大歓迎、それとまったく同じであって、それ以下であるはずはありません。それらのものがぜんぶ備えられている。しかし、選ばれる人は少ない。
11節「22:11王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。 22:12王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。 22:13そこで、王は召使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』
22:14招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」
この人は、どういう人でしょうか。友よ、と呼びかけられています。この当時披露宴の入り口には、その披露宴を催す主催者が、招かれた人たち用に、きちんと婚姻出席用の礼服を準備してある。それがその当時のしきたりであったそうです。あるところを見ると、「その入り口には」というふうに書いてあるところもありました。或いはもしかすると、しもべがそれをもってその人の家に行ったのかもしれない。でも少なくともこの大通りにいって、或いは貧民窟に行って、さあいらっしゃい、招かれていますよと言う場合にはその家に持っていくということはありませんから、とにかく、招かれたその人たちの礼服が主催者の責任においてきちんと入口に備えられていた。そして入ってきた、大通りから集められた多くの人たちは、聖霊の働きによって、自分の置かれている実態を照らされ、そして悔い改めて、ああこんなすばらしい恵みをといって神様に感謝しながら、それを礼服として受けて入っていくのです。
しかし、結果的に選ばれなかったこの人は、自分の正しさ、自分の価値観、それを優先して、つまり、こんな既成の神様が準備して下さった礼服なんかいやだ、自分は自分の主義を貫き通す。それで他の人たちとは違った、私こそこれに出席するのにふさわしいものでありましょうというプライドをもって、この人は行ったのかもしれない。決してよれよれのものを着て行ったはずではないと思います。自分なりの在り方でいったでしょう。しかし、王様は仰いました。王様は自分の御子イエス様の十字架の贖いというあのすばらしいキリストの十字架の救いというものを準備して、そして、さあ、これによってあなたの罪はきよめられ、赦され、きよめられ、これを着ることによって、これを自分のものに受けることによって、あなたは、王の王子の披露宴に入ることができる。多くの者たちは、かたじけなく思いながらこれを受けている。しかし、この人は、そんなものはいらない、自分のもので行くとやってきたその結末は、
「22:13そこで、王は召使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。』
神様の御愛を彼は真っ向から否定した男です。「この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。」
そうです。「歯ぎしりすることになる」、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」
天国はその意味で、狭い門かもしれません。多くの者は招かれますけれども、しかし、狭い門をくぐる、それは神様が備えてくださったこのキリストの十字架の救いというただこの一つによるのであり、これ以外のものは決して披露宴に入ることのできないものなのだ、このことを御前に覚えながら、多くの方々にご案内し、お救いの恵に与らせていただきたいと心から願うことであります。
最近のコメント