きょうのことば
先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の講壇をお伝えします。
國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、45年以上の長きにわたって、岩手で主のご奉仕をしておられます。
9月1(日)の説教題『恵み・信仰・賜物』(説教:國光勝美牧師)
聖書引証:エペソ人への手紙2章1~7節です
2:4しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、 2:5背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。2:6神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。 2:7それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来るべき世々に示すためでした。2:8この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。 2:9行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 2:10実に、私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをあらかじめ備えてくださいました。
<説教>
先週の復習も兼ねながら、きょうの大切なメッセージとしてエペソ人への手紙の2章1節から見ていきましょう。
これは、パウロが、ローマの獄中に囚われ、外に向かう行動が制約されたときでした。パウロはそれを良きに変えて内側に深く思いをいたし、私が伝えている福音はいったいどういうものなのかを深く思いめぐらし、それをエペソ人への手紙としてのこしました。パウロが理解していた福音、私たちが理解すべき福音が実によくまとめられ記されています。
その中の2章の1節に「あなた方は自分の背きと罪の中に死んでいたものであり」とあります。「死」、これは前回は、神とのまじわりの麻痺してしまった状態、或いは、まじわりが絶たれてしまう、断絶、分離と解説しました。ぜんぶ同じ内容です。ただ言い方を変えただけでありまして、私たちは本来神とのまじわりの中で生きている。しかし、その神とのまじわりが途絶え、断絶し、神と分離してしまっているなら、それは、あなた方が「自分の背きの罪の中に死んでいたもの」の状態です。これが霊的な死です。
そして2章2節
「かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました」
かつては霊的に死んでいた私たちです。前回、イラストで濁流を表しましたが、私たちは、その濁りの流れのままに、世の中の流れのままに流されていました。今の時代の思想、今の時代の価値観に掴まっていました。自分に都合のいい、そういった価値観です。それはテモテの書の中にもパウロが示しております。終わりの日になると、人々は自分に耳障りのいい教えに皆流れていく。このことを、パウロはテモテの手紙で警戒しております。この世の価値観の圧倒的な力で流されている。
前回、濁流にも生きているメダカの画像をご覧に入れました。このメダカは自分たちは小さなものという意味です。流されている大きな流木に対して、この小さなメダカです。前回は、濁流でも生きているメダカでしたが、実はどんなに小さなメダカでも、生きていれば、濁った流れに逆らって泳いでいくことができる。それができる神のいのちを私たちは受けているのです。このことを分かっていただければと思っております。
2節「かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者」、これは神に敵対する勢力、この世の王のことであり、聖書でいうサタンのことです。このサタンが、いつでも私たちを濁流に押し流そうとしています。
そして3節「私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」
そうなんです。私たちはみな、かつてはこのような生き方をしていた者です。これはパウロが自分の経験を振り返って、自分は世の中の人と同じレベルではないということをいっているのではなく、むしろパウロは自らを深く知れば知るほど、自分もかつてはあなた方と同じように、いやむしろ罪びとの頭といえるほどにそういう者だった。
3節に「ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」とあります。ここが文語訳聖書には「生まれながら怒りの子であった」と記されてございます。新改訳、或いは新改訳2017には、この「怒りの子」は、できるだけ誤解を受けずに、福音的に「怒りの子」という意味がストレートにわかるように「生まれながら神様の御怒りを受けるべきものでした」とある。読んでああそうだったとすぐ納得できます。
けれども「生まれながら怒りの子でした」というと、おぎゃーと生まれたときからぷんぷんと怒っている、みんなそういうような人だったなどといった誤解がないようにという意味で、良い訳が使われているなと感謝しております。
私たちはこの世に生まれたときから神から離れて自分勝手な道を歩んでいるのですが、これは罪を表すわけですけれども、神様は罪に対する容赦のない徹底的な処罰をなさいます。生まれながらこの神様の御怒りを受けるに相当する、私は罪びとの頭であるとパウロが言っている。自分はキリストに仕える者を迫害し、自分こそ神に仕えているものだという自惚れをもって、知らなかったこととは言いながらキリスト者迫害の急先鋒だった。それらのことを思えば思うほどパウロは一層私こそ罪びとであるというのです。
ですからキリストの十字架を、私たちは、先入観で、麗しいロマンティックなものであるという捉え方をすることがありますけれども、掘り下げると、キリストの十字架というものは、神がいかに罪というものを憎み、容赦ない徹底的な裁きを下すものであるか、キリストの十字架は、私たちに罪の恐ろしさを見つめれば見つめるほど、教えてくれるものです。これが3節です。
4節の「しかし」という接続詞、この「しかし」の前には、これだけ深刻な大きな罪の裁きというものがある、それを受けて「しかし」とあるとき、ここには大きな逆転があります。罪に対する神の容赦ない徹底的な処罰を見ますときに、しかし、神の愛と憐れみ受ける私たち。この私たちに対する神の無尽蔵で徹底的な赦し。私たちに対する神の無尽蔵で徹底的に赦してくださる神様の愛がわかります。これが4節、5節にあります。目を止めてみましょう。3節までには、ただ外面的に罪を赦さない厳しいお方というのではなく、それが具体的に神の御子をあのむごたらしい十字架につけなければ決しておさまらない、他の何をもってしても決しておさまらないほどの罪に対する厳しい罰を下される。しかし、神様はそれをぐるっとひっくり返して、「2:4しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、 2:5背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです」といわれるのです。「しかし」。これほど大きな意味のある「しかし」なのです。神様はそれほど私たちの罪を徹底的にこのお方に背負わせて、あなたの罪はもうここでぜんぶ終わったからね。だからこのお方を信じるならば、あなたの罪がたとえどんなに大きなものであったとしても、私はあなたの罪を赦す。これが「しかし」に見られる無尽蔵な神様の愛であります。
5節、6節を読んでいきますと、「2:5背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました」。このお方がよみがえってきてくださったから、罪のないお方が徹底的に裁きを受けて葬られて、しかしこのお方はまさに身代わりであって、われらの罪の赦しを徹底的におこなってくださったあと、この使命、私たちを生かしてくださるために、いのちを与えてくださるために、まじわりを回復してくださるために、神との深いまじわりを回復してくださるために天と地を結んでくださったこの道を、キリストとともに生かしてくださった。
「2:5背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。2:6神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。 2:7それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来るべき世々に示すためでした。」
またここに「世々に」ということばが、前回、前々回も出たことがありますが、宇宙的に広いキリストの愛のいかばかりのものなのか、私はしばしばこれを思うのです。神に似せて造られた人間が、堕落をしてしまった。そのときに神は惜しみなく自分の最愛のひとり子を私たちの代わりにこの世に降してくださった。けれども御使いが神に背いてそのところから落ちたとき、人間のときには神はこれだけのことをしてくださいましたけれども、それを思うと、この身に神のひとり子の十字架の救いというのは、世々限りなく、次の世も、来るべき世々にも神様の愛というのはこれほどのものなんですよということを、世を貫いて教えてくれるものです。
1章の21節でしょうか、「すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。」
このメッセージを思いながら、私自身がお救いに与ったときのことを思い出します。
私はクリスチャン家庭で育ったわけではありませんでした。まったく知らないまま学生時代の最終学年のときに、一枚のトラクトを持って特別集会に行きました。そこで、キリストの十字架のことを聞きました。神様の憐れみのとき、救いの恵みのゆえに、私は、決心をし、ほんとうに行って数日後決心をしてクリスチャンになっただけに、わからないこと、疑問がいっぱいありました。
疑問を抱えながら毎週毎週、或いは毎日毎日の集会に行っておりました。色々な先生方が入れ代わり立ち代わり聖書の話をしてくださっていました。そうかそうかと毎回聞きながら恵みを覚えていたのです。数ある疑問の一つですが。ある先生が十字架のお話をしてくださったとき、「あなたがたの罪がキリストを十字架につけたのです」と仰る。まさしくそうですね。あなた方の罪がキリストを十字架につけたのですというメッセージを伺って、そうか、そうなのだと、なるほど。ところが次の集会に出たとき、別の先生がお話をしてくださった。「ここに神様の愛がある。神の愛がキリストを十字架につけたのです」。あれ、きのうは罪が十字架につけた、しかし、神の愛がキリストを十字架につけた、同じ場所で、同じ講壇で。果たして十字架って、どう理解したらいいのだろう。
皆さん方、その当時、私に聖書知識があまり無かったことがおわかりいただけるだろうと思います。いったいどっちなのだろうか。両方なのです。このキリストの十字架の意味が、この「しかし」という接続詞で繋がれる3節、それから4節以降のこれが、キリストの十字架の意味だったのです。私たちはこのキリストの十字架に、そして復活に顕された神の愛の中に今あります。そして今日、締めくくりに、これは、手を描かせていただきました。
8節「2:8この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」。
この信仰ということばも、教会でしばしば語られることばです。そしてわかってはいる。だけれども難しい面もあります。じゃ、何ですか。そのとき、自分で非常にはっきりしたのは、そして自分なりに理解できたのは、信仰は神様の恵みを受ける、いただく、神様の賜物をこの信仰の手で受け止める。これは神様の賜物です。神様の恵みです。それを私たちは、信仰の手をもって受け止めるのです。受けるのです。これが信仰の大切な意味です。神様が斯くまで私たちのためにすばらしい救いの恵みを備えてくださった、これは神の賜物です。賜物というのは私たちが受けるから意味があるのです。そして恵み、これは神様の一方的な御愛です。愛のゆえにあなたにこれを差し上げますよ、さあ、受けなさいというこれだけの神様の御愛を「はい、ありがとうございます」と言って受けること。
「2:8この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。」
これは、人が誇るべきものは何もありません。受けるのです。頂戴するのですから、賜物なのですから。何か私たちが良いことを一生懸命励んで、何かするというのではなく、これほどまでの神様の御愛でキリストの十字架があるのだということを知ったときに、備えられたときに、さあ、あなたのために備えられているものですよというときに、「ありがとうございます」といって受け止めること。それが信仰によって救われるという意味なのです。
「あなたがたは信仰によって救われたのです」
最後にひとつ、この信仰によって、救いの賜物を受けるということについて、お話しさせていただきます。
「きよめの恵」ということを、それから後にすぐに大きな課題として、自分の大切な受けねばならない神様の賜物であるということを気づかされ、それを求めました。そして、このきよめの恵は信仰によって受けるのだということも聞かされていますし、教えられてますし、しかし、なかなかそれを自分のものとして受けることがこれほどのきよめの神様の賜物、キリストが罪のためにすべてを成し遂げてくださった、あなたの罪の解決はぜんぶここにある、さあこれを受けなさいといって、救いのときはあれほど、ある意味、良い意味でわからなかったから信じることができたといえるでしょうけれども、なまじわかってきて、そして、きよめという問題が自分の課題となったときに、きよめ、私はそんな心の中を見ると、とてもそんなことを言えるものではない、そのことでわからなくなってくることがありました。信仰によって受ければいいのだということは、すべて神様の賜物なんだから、それを受ければいいんだ、その意味で、救いの延長線になる。或いは、その拡大版であるといったらいいのか、当然受けるべきものとして、ここに出てきたものですけれども、それがなかなかわからなかったとき、ある一冊の本を読んで、これが祝福になりました。それは、S.Aキーンの「信仰の盈満」でした。彼はこう表現しています「私はきよめられることを求めていた。神様、きよめてください、きよめてください、と求めていた。けれども得られなかった」、私と同じ経験だと思いながらいたのですが、「しかしそのとき、私は気づいた。私は神様が備えてくださったものを懐に、神様にはい、これがきよめですよと言って私は神様が与えてくださるまで待っていた。きよめの恵が与えられるまで待っている、でもそうではなくって、神様がこれだけの十字架の恵みを備えていてくださったときに、神様、ありがとうございますと言って手を伸ばしてうけとればいい。信仰によってなんです。私がここまで神様が入れてくださるまで待っていた気がするんです。ありがとうございます。これが私の欲しいものなんです。これこそ、といって手を伸ばし自分で受け止める。これが、ある意味、救いもきよめもその意味で、同じ意味をもっているのかな、このように気づかされたことであります。
「2:8この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」
ぜんぶこれは神様が備えてくださった、信仰をもって受ける。どうぞ、この信仰の手を神様に期待し、手を伸ばし、それは私に必要ですといって手を伸ばして受けること、それをさせていただこうではありませんか。
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