きょうのことば
先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の講壇をお伝えします。
國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、45年の間、岩手で主のご奉仕をしておられます。
9月22(日)の説教題『先入観と偏見からの解放』(説教:國光勝美牧師)
聖書引証:エペソ人への手紙第2章11~18節
2:11ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、 2:12そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。 2:13しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。 2:14実にキリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ちこわし、 2:15さまざまな規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、2:16二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。 2:17また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。 2:18このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。
<説教>
前回は、病んでいる方々のために、さまざまなおことばが与えられた祝福を証しさせていただきました。
「日々の光」、これは私たちの家庭礼拝において使っているものでございますけれども、おりに適うおことばがそのときそのときに与えられる喜びは大きなものであります。前回はこのようなことを紹介させていただきながら、ちょうど私たち信仰者にとって神様のおことばというのは、杖のようなものであると申しました。聖書には、モーセの杖、或いは、アロンの杖が出てきます。紅海を二つに分け大きな奇蹟が行われた杖の存在があります。小さな経験ではありますが、山に登ったりするときにも非常に重宝するのが杖。杖に体重をあずけて登ることもできるし下ることもできる。杖がしっかりしたものでなければいけませんね。
そしてお話の最後には、10年ほど前に深刻な病を負ったと聞いた方から、最近になって電話がありました。「私たち守られて今ふつうに生活しております」ということでした。そして「神様に支えられる信仰というのは、そういうことなのですね」と実感をこめておっしゃいました。その方は小さい頃から教会に関わっていたようです。信じるといえばキリスト教以外に考えられないというような、そういう意味では恵まれた環境にあったわけですが「平穏無事であるときには、どうしても理屈が勝ってしまう。単純におことばにすがることができなかった。しかし今回のことを通して、ほんとうに考えさせられた」という彼の話もさせていただきながら、私たち、せっかく与えられる神様のおことばの杖を、多くの方から差し出される杖をしっかりにぎるという握力、これは、信仰の握力のことですが、これによってこれを捉えたいものです。どうか信仰の握力を主に求めて、しっかりと握りしめて、さまざまな問題課題を乗り越えていきましょう。
きょうはエペソの2章11節からでございます。その一つ前の10節に、一つのポイント「実に私たちは神の作品であって」があります。私たちは神の作品である。私たちはややもすると自分のようなものはという思いにとらわれるときがありますけれども、しかし、そうではない。私たちは神様の手による作品なのです。これを心に留めることができたなら、正しい意味で、傲慢ではなく自分自身の尊さを正統的に理解できる。これはとても意味のあることなのです。
TVで、陶芸、絵画、書などを鑑定する番組があるようです。私にはよくわからないのですが、何々作といった署名があるかないか、或いは、絵画や書の特徴が作家その人のものであるかどうか、それによって価値が2千円なのか2百万なのかと価値が変わるのだと面白く見ておりますけれども。どうでしょうか、私たち、私はこのようなものですけれども、ここにキリストの作、これは傑作であるという神様の印が押されていると分かったなら、恐れ多いことでありますけれども、恵みだなあ、私たちは神の作品なのだ、大切なものなのだ。
そうです。「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(第二コリント5:17)。
さて、きょうは11節からですが、進んで行きたく思います。11節からは神に選ばれた選民イスラエルと、それから私たちのような異邦人、この対比がテーマになっています。 神様はアブラハムの子孫、アブラハム、イサク、ヤコブのやから、そこに祝福を与えてくださった。神に選ばれた選民に。確かに聖書の中には選民イスラエルがあります。しかし、それと関係のない異邦人、異邦人というのは、その意味の対比である存在というように覚えていただきましょう。11節「2:11ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ」ていた。イスラエルの人たちは、神に選ばれた外見的なしるしとして割礼を受けている、他の選ばれていない異邦人たちとはまったく我らは違うのだという、イスラエルの人々は、外見的なそういう目に見えるしるしの割礼というものを非常に誇りとしておりました。ですから、彼らは私たち異邦人を割礼なき者と軽蔑しておりました。それからこんど11節には「あなた方はかつては」とありますけれども、12節「2:12そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。」とあります。このようにキリストから遠く離れ、つまり、ユダヤの人たちは、「われらにはやがて神様がメシヤを与えてくださるのだ」、そのようなメシヤを待ち望む、神は我らに必ずメシヤを与えてくださるのだというこの特権を、彼らは持っておりました。しかし、私たちは、異邦人たちはそのようなメシヤであるキリストから遠く離れていた。こういう神様の祝福からまったく離れていた。イスラエルの民から除外されていました。イスラエルの人たちは神様を神殿に入って礼拝をすることができた。しかし、神殿でも、異邦人の人たちはここまで入ってもいいですが、ここからは入ってはいけませんとなっており、異邦人の庭というところがあって、イスラエル人だけが神に近づくことができた。
そして12節を見ると「約束の契約については他国人で」、これはモーセの十戒というものにあらわされると見ていいでしょう。これはイスラエルだけに与えられた民族的な誇りでした。神は我らに十戒を与えてくださった。つまり、ユダヤの人たち、イスラエルの人たちが、徹底的に自分たちは神に選ばれた者であって、あなた方異邦人は神様の祝福から離れている者なのだ、だから、と続くわけです。だから神様がメシヤとしてイエス・キリスト、十字架の福音というものを与えてくださったとしても、それはイスラエルにであって、異邦人には関係がないのだと彼らは主張したわけです。
そんなときに、このエペソ書を書いたパウロは、そうじゃない、神様はイエス・キリストによってイスラエルの人も異邦人も一つのものとして、同じ一つのものとして神様によって救われる。神の前に選民も異邦人もない。キリストにあって我らは一つなのだ。神にあって一つ。御霊は一つ。我らは一つ。これがパウロがここを通していわんとしているところです。
これらの背景を心に留めながら、皆さんも、聖書にちょっと目を留めていただきましょう。
12節から「2:12そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。 2:13しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。 2:14実にキリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ちこわし、 2:15さまざまな規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、2:16二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」。こう続いていくわけです。
この背景、勿論この一つ一つをみことばに従って解説し理解をするということは、大切なことですけれども、私はこれを神学校の教室の講義のような形で、この一節一節というものを解説をするというよりも、むしろ、ここで神様がいわんとしていることを皆さんと一緒に理解することによって、実践的に、この二つのものが一つになる、お互い敵対していたものが一つになるということの意味を持たせていただく、知らせていただく礼拝でありたいと思っております。
あとは画像の方をご覧ください。
いまいったように選民イスラエル、ここにはもう決定的な隔ての壁が、ということを前提にしているところなのですが、このようにチャートを自分なりに整理していきましたときに、ふと、あれ、これ、似ている隔ての壁というのがどこかにあったな。で、思い浮かんだのは、ルカ16章の金持ちとこじきのラザロでした。神様を信じていたラザロは、亡くなってアブラハムのふところに行った。しかし、彼の地には、この世で贅沢三昧に暮らしていた金持ちも死んできており、そのものは裁きの火の中におかれていた。これはたとえ話と理解すべきでしょうか。解釈は色々とあるようです。ただ、そこには苦しんでいる金持ちがおり、上を見るとアブラハムの懐に抱かれているラザロがいる。金持ちは、父アブラハムよ、どうぞラザロを遣わして私の舌を冷やしてください、ゲヘナの火で焼きつくされそうです。しかし、ゲヘナとラザロのいる世界のあいだには深い淵がある。そこからこちらに、こちらから向こうに行くこともできない、こうイエス様が仰られた。
隔て。まさにそれに類似した、どちらからも近づくことができない隔ての壁がある。そのとき、私は、ユダヤ人とその彼らに対する偏見、これを考えさせられました。ご存知のとおり、イエス様を十字架につけたのはユダヤ人です。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に」ふりかかってもいい、奴を「十字架につけろ」といって、キリストを十字架に追いやったのは、まさにユダヤ人たちでした。このとき、私は一つの印象的な文章を目に致しました。それは、ユダヤ教徒として生きていた人がキリストの福音に触れて扱われて立派なクリスチャンになった。そのクリスチャンになったかつてのユダヤ教徒、ユダヤ人であった彼。彼のこの文章の背景になっていたのは、ちょうど奴隷解放のキング牧師や公民権運動であり、白人の偏見や差別でした。外からはアメリカがキリスト教国であると見える。それが何であの偏見が、あの暴力が、黒人と白人との間にそういうものがあるのか、そのような只中に生きていた人の文章なのです。
このクリスチャンになったユダヤ人である彼が、福音派のいちばん健全な、保守的なといったらいいのか、アメリカの福音的なフラー神学校というところがあるのですが、そこに講師として招かれたときがあった。クリスチャンになったユダヤ人牧師の彼は、自分たち民族がどれだけ迫害を受け、あらぬ偏見に直面してきたか、特にあのナチス・ドイツのユダヤ人迫害、アーリア人種を優越とし、ユダヤ人は抹殺されねばならないといった考え方でユダヤ人たちは迫害されていったわけですけれども、その中に、彼らの迫害する理論の中に、あのユダヤ人たちは迫害され滅ぼされて当然の者なんだ、聖書にそう書いてあるじゃないか。神のひとりごイエス・キリストを十字架に追いやって、その罪は我らと我らの子孫にこうむってもいい、奴を十字架につけろと叫んだユダヤ人はあのイエス様を十字架につけたその報いを受けているのだから当然だというような思いが、ユダヤ人を迫害する人たちの心のどこかにあった。それはフラー神学校で学んでいるすばらしいクリスチャンのそういう学生たちにあっても、彼らが生まれながらクリスチャンとして、良い意味でクリスチャンとして信仰を持って、学んでいた者たちであっても、心の中のどこかにユダヤ人に対する蔑視が、つまり白人が黒人に苛酷にやっていたあの時代の差別意識、こういったものがぬぐい切れないほどに心の内にある。
今こうしてお話ししながらもう一つの例話を思い起こしました。それは、インドで長いあいだ宣教活動をしておられた竿代信和先生のお話しです。竿代先生がインドの神学校で教えておられるときに、いつも仲のいい人たちでしたが、食事をするときに分かれて食事をする。で、日本人はそういう感覚が、その彼らが持っているほどではなかった。インドの人たちにとってカースト制度は生まれながらにあって、自分のカーストよりも、たとえば極端なはなし、乞食のカーストというのがあるそうです。乞食のカーストはそのカーストで一生あり続けることは、次の世にもっと良いカーストに生を享けるというようなことで、そういう意識の中にあって、インドは、それほどの人種差別がまかり通っていたそうです。そのときは分からない竿代信和先生は、一緒に食事をすればいいのにどうして? と思ったけれども、どうしてもどうしても一緒にはできない。そういう偏見、差別というものがあった。頭で分かっていてもそれをすることができない。フラー神学校に来たその教師が、ここにいる福音的な信仰を持っている皆さん方に伝えたい。これからは、ユダヤ人たちも、救い主を殺そうとした民族だということは決して言ってもらいたくない。その考え方、価値観というものが、あのヒットラー達によってユダヤ人が虐殺されたあの思想のほんのわずかであるかもしれないけれども、同じ思いでそれをやってしまっている。どうか、我々ユダヤ人をそのように言ってもらいたくない。そう訴えたそうです。
聖書の中には、イスラエル人のサマリヤ人に対する蔑視という、そういう偏見というものがありますし、それから、律法学者パリサイ人と取税人罪びとたちのあいだにも。イエス様があんな人たちと食事をしたという記事がありますよね。
私はあえてここに「罪びと」、蔑視される存在として、分かりやすく「羊飼い」を、罪びとと言えばみな羊飼いなのだという意味ではなくして、羊飼いというのは、生き物を、しかも神殿で生贄を捧げるための大切な誰かがしなければならない大切なお仕事なんですけれども、羊飼いはそれゆえに安息日を守ることができない。安息日を守れない、守らなくていい、そういうやからであり、健全な信仰者であると自負するユダヤ人から見たらば蔑視されるようなお仕事として羊飼いというものはいる。取税人もそうです。当時のそういうような人たちに対してイエス様は、どうだったでしょうか。手を差し伸べ、取税人にもザアカイのところにも一緒に客として呼ばれていく。これ、ふつうの感覚だとあり得ない。しかし、イエス様のお誕生の時に、羊飼いたちが真っ先にこの素晴らしい拝謁の恵みに与ったことなどを思います。イエス様は、当時取るに足りないものとされ、どうでもいいような扱いを受けていた幼児にもそばに来られるようになさいました。「うるさい、先生は今お疲れなんだ」とイエス様のところに来るのを妨げようとしたお弟子さんたちに、「子どもがわたしのところに来るのをゆるしなさい」こう言ってイエス様は子どもを受け容れられた。私たちこうしてみると先入観、偏見というものが、自分たちの責任である無しに関わらず、そういう価値観の中に今ある。この先入観、この偏見というものを取り除くことこそエペソ書を学んでいる私たちのあり方ではないでしょうか。このように思いました。
14節に「2:14実にキリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において」というこの隔ての幕を、壁をイエス様は、イエス様こそ、十字架こそこの隔てを乗り越えさせてくださるものであります。
偏見というものは何かというと、自分たちはあの人達よりも優れている者だ、という単純にいえば、そういうところから偏見というものが来ます。イエス様は私たちに偏見を取り除くために、あなたたちはぜんぶユダヤ人も異邦人もない、全員罪びとなのだ。随分乱暴な言い方かもしれませんが、イエス様は、私たち全員を罪びととしてのレッテルを貼ってくださった。そして、全員罪びとであるその私たちに、イエス様が現れてくださって、私たちをそこから解放してくださった。これがキリストが私たちの平和であるということの意味であります。
先ごろ仙台で聖化大会があり、田辺先生が独特な切り口でお話してくださいました。その中で、あなたが今赦すことができない人の名前をそこに書いてください。田辺先生が言おうとしていることは、あなた方はほんとうに自分が罪赦されているものなのか、自分がなにかその人よりも上にあって、その人を見下すような無意識のうちにそんな気持ちがあるから偏見や誤解を生じてしまうと。私はそれを思い起こしながら、イエス様の十字架の血潮、どうしても私は赦すことができない人、どうしても挨拶をしたくない人、そのようなところに、キリストの十字架の血潮をそこに置いて、先入観と偏見をそこに置いて、先入観と偏見をイエス・キリストの十字架によってそれを乗り越えて、そこに本当の夫婦の平和、家庭での平和、社会でのそういう人間関係の平和がそこから始まるのだということを、そこから教えられたことであります。
きょうは、このお話しのきっかけとしてエペソのところ、神学校の何かクラスのように割礼とは、とか、ここはどうのこうのというよりもむしろ、ここのところが実践できるかどうか、ほんとうにキリストの平和が私たちのものとなっているか、そのことを心に留めさせていただきたいと思います。
この秋にインマヌエル盛岡キリスト教会では次のようなお話しの会を開きます。ユニークな楽しい先生です。おでかけください。
このチラシは、國光先生のご息女A姉がボランティアで作ってくださいました。
| 固定リンク
「教会」カテゴリの記事
- 2026/01/11 聖日礼拝 説教 インマヌエル秋田・盛岡キリスト教会 神谷光一牧師(2026.01.17)
- 2026/01/04 聖日礼拝 説教 インマヌエル秋田・盛岡キリスト教会 神谷光一牧師(2026.01.10)
- 2026/元旦礼拝 説教 インマヌエル秋田・盛岡キリスト教会 神谷光一牧師(2026.01.04)
- 2025/12/28 年 末感謝礼拝 説教 インマヌエル秋田・盛岡キリスト教会 神谷光一牧師(2026.01.03)
- 2025/12/21 第四アドベント クリスマス礼拝説教 インマヌエル秋田・盛岡キリスト教会 神谷光一牧師(2025.12.27)






コメント