きょうのことば
先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の講壇をお伝えします。
國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、45年の間、岩手で主のご奉仕をしておられます。
9月15(日)の説教題『聖言の杖と共に歩む』(説教:國光勝美牧師)
聖書引証:イザヤ書46章3,4節
3ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。4胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。4あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。
<説教>
いつものように簡単に前回の復習をいたします。私たちは今年、エペソ人への手紙をベースに学んでおりまして、エペソの2章になりましたけれども、「私たちは神の作品である」ということ。そして、それを第二コリント5章17節「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」を心に留めました。そして私たちは「キリストによって新しく造られた」そういった者ですけれども、しかし、この世に敵対するサタンの巧みな罠が張り巡らされており、新しく造られている神の作品なのに、自分は神様の目から見たのならば、乏しい不十分な者なのだという劣等感、これを私たちは持ちやすい。そして、自分が他の人の目から見ても、不十分な者だという他の人との比較のコンプレックス、そしてまた、それらのものとリンクして、もうこんな者は、といった劣等感、これはまさにサタンの罠であります。私たちは、神の作品である。神様は「あなたは高価で尊い」。人がどういおうと、或いは自分で自分をどう見ようと、神様は、「あなたはわたしの目には高価で尊い」者なのだということを私たちに教えているものであります。私たちは神の作品としてよい行いに励みましょう。それは、神の御心に聞き、そして神の御心に従う事を喜びとするそういう神様の作品でありますように。これが前回のエペソ人への手紙の簡単な大急ぎの復習になります。
きょうはいつものエペソ人への手紙からすこし離れまして、敬老の日の今日に与えられたおことばをご紹介をさせていただきたいと存じます。
いきなりですが、ここに聖言(みことば)を記したカードがございます。この教会の病んでいる方に宛てたメッセージです。ある姉妹が送ってくださいました。
Let the beloved of the Lord
rest secure in Him,
for he shields him all day long,
and the one the Lord loves
rests between His shoulders.
Deuteronomy 33:12
これから困難な治療に立ち向かわれる方へのメッセージです。
教会はプライバシーに関わることは本人の同意なしには、決してお話はしません。それは大切な教会の姿勢であります。教会員だからと言って個人的なことまでぜんぶ話さなければならないことは決してありません。ただ一たび祈祷の依頼があれば、教会は全力を尽くして祈ります。そしてそれは本人の了解を得てから教会の皆様にお祈りの依頼をいたします。それをまず覚えていていただきたいと思います。教会に個人的なことまで公開したからといって、それが信仰的であるとか信仰的でないといったこともありません。あの人はこうだから、この人はこうだからなどと、それが前例として捉えられることではないということも、先ずしっかりと心に留めておいていただきたいということであります。
このメッセージが送られてきましたのは、火曜日でした。いま病んでいる方が、医師から「これは手ごわい治療になりますけれども」といわれたその直後でした。
これは聖書の申命記33章32節の聖言です。有名なモーセという人が書いた文章中にあります。神の人モーセが、その主を前にしてイスラエルを祝福したことばであるとまとめられているのが申命記の33章です。イスラエルには色々な部族があるんですけれども12節、ベニヤミン族について書かれてあるところです。
主に愛されている者。
彼は安らかに主のそばに住まい、
主はいつも彼をかばう。
彼は主の背中に負われる。
恵まれる良いおことばです。主に愛されている。そしてかばってくださる。主におんぶしていただく。「おんぶ」という表現をひさしぶりに発音しながら、私がおんぶされた記憶はいつごろだったかなあと子どもの頃に思いを馳せました。「彼は主の背中に負われる」。そして気づいたことは、これはイザヤ書の中にあることばだったと。それで今日、イザヤ書46章3,4節の聖言を取り上げました。
3ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。4胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。4あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。
きょうはちょうど敬老の日、これを敬老の日のメッセージとして捉えさせていただきました。
きょうは「杖」という説教題でありますが。
デーリー・ライトという日々の聖書のことばが書いてあるものがあります。英語版、日本語版とありまして、「日々の光」と訳されています。私は信仰をもった当時から、英語が得意ではなかったのですが、英語の勉強にもなるということで、英語版を愛用しております。ちょうど12日は八幡平の家庭集会でした。この日のデーリー・ライトは、イザヤ書57章18節「彼の道を見たが、それでも私は彼を癒す」でした。その次を見ますと出エジプト15章26節「私は主、あなたを癒す者だからである。」と書いてある。デーリー・ライトを持ってらっしゃる方はご存知と思いますが、トップテキストが大きくあって、そしてこれに類似した聖書のおことばが幾つかピックアップされています。12日のデーリーライトのいちばん最後はマルコ5章34節でした。
マルコ5章34節「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい」。励まされました。1年365日、1日からずっとのことなので、色々な聖書の箇所はあるんですけれども、よりによってといいますか、いちばん欲しいなあと思うことばが出ておりました。
私たちの教団ではありませんが、心が通じる素晴らしい先生が福井県にいらっしゃいます。去年、富山にいったときにお会いしてきました。その先生にもお祈りをしてくださいと連絡したところ、お返事がきました。「私は家内を胃がんで亡くしています。その時、私が神様に祈ったのは、私はまだ一人で生きて行く準備ができていません。どうぞ、……」というお祈りをしたということでした。そしてくださった聖言が、
ピリピ4章6~7節「4:6何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 4:7そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
私はこれらのおことばを「神の杖」と理解したのです。敬老の日です。あのスフィンクスの謎かけ、世界でいちばん古い謎かけだといわれているようですが。「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足の生き物はなあんだ?」。その答えは「人間」です。赤ん坊の時は4本でハイハイ。立ち上がって大人になり2本足、年老いて杖をついて3本足というわけです。杖が必要になる。
私は山歩きが好きです。そのときに、トレッキング棒っていうんでしょうか、杖を使います。バランスがとりやすく歩きやすい。使いなれることはもちろん必要ですけれども、杖に導かれ、助けられる。これもまたいいなと思います。信仰生活においてちょっと険しい山道、ちょっと踏ん張らねばならないときに、杖を使う。杖があればとても助かります。実際に山歩きをしているものですから一層実感がこもるのですが、この杖、下りるときが大切なんです。下りるときに杖をついて巧く力を分散させながら進む。もし杖のストッパーが壊れたり、ぼきんと折れたりしたら一大事です。調節のストッパーをきちんと締めておかないと、どんとついたときに外れてしまう。杖はじょうぶなもの、確かなものでないとすべての存在を任せることはできない。
こうしてみると世の中には杖がいっぱいありますよね。その杖ってほんとうに大丈夫ですか。本当に確かな、決して折れることがない、確かな杖というものを私たちは聖書の中から見出すことができる。多くの人たちに用いられるおことば、それが励ましになります。先ほどの申命記の33章には、こんなすごい杖があったのを、うっかりしてたよと思わず発見して、ああいいなと思いました。2017新改訳聖書には、「背負う」とありますが、英語では「shoulders」、肩と肩の間にという表現がしてあります。「背負う」、良い表現だなと思います。大きな恵です。
聖書の中の杖と言えば皆さんどんな杖を思い起こしますか。
モーセの杖は凄かった。エジプト王パロの前で数々の奇蹟を繰り広げ、或いは紅海に差し伸べれば海は二つに分かれ、或いはアマレクと戦うときに、神様はモーセにその杖を持って山に上れと命じられ、そしてモーセが手をあげていればあなた方が勝ち、そうでないときにはアマレクが勝つというように、杖が大切な役目をもっておりました。私たちの全存在を支える神の杖が聖書のことばです。私たちは確かな杖をいっぱい与えられています。それをしっかり握る、これが信仰です。どうぞ杖をしっかり握りしめて、与えられている山を越えましょう。どうかすべてを任せられる杖を持って歩かせて頂きたいと思います。
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