きょうのことば
今週のインマヌエル盛岡キリスト教会の講壇をお伝えします。
國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、45年もの間、岩手で主のご奉仕をしておられます。
9月8(日)の説教題『私たちは神の作品』(説教:國光勝美牧師)
聖書引証:エペソ人への手紙2章4~10節です
2:4しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、 2:5背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。2:6神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。 2:7それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来るべき世々に示すためでした。2:8この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。 2:9行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 2:10実に、私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをあらかじめ備えてくださいました。
<説教>
エペソ書2章に入りまして、最初の部分1節には「あなた方は自分の背きと罪の中に死んでいたものである」とあります。「死んでいる」ということばの意味しているもの、それは聖書のいっている「いのちの死」というものの正しい理解が必要であります。これは神様との交わりというものが途絶えている状態、神との交わりが絶たれ分離されている状態のことです。「かつてはあなた方もそうであった」ことを確認をいたしました。
それから第2節になりますけれども、「かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い」、つまり、世の流れに流されていたということであります。そして「空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊」、これはサタンと私たちが理解し呼んでいるところのものであります。地上におけるこの世の中の権威を持っているサタンの流れに流されていた。
メダカの画像をご覧にいれましたが、流れに生きるメダカなのですが、これが死んでいるのなら流されます。けれども、盛岡にも鮭の遡上が見られますが、生きております。どんなに激しい流れでも、よくニュースなどでも、北海道の鮭の遡上、すさまじい滝のようなところでさえのぼっていく場面を見たことがありますけれども、生きているのならば、それらのものに逆らって泳ぐことができます。けれども私たちはかつては、みんな世の中の流行、考え方、或いは哲学、価値観そういったものに流されて、他の人たちと同じように生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。生まれながら御怒りを受けるべき子、これはオギャーとこの世に誕生したときから、アダムの末である私たちは罪のゆえに神との交わりが絶たれて、そして、霊的に死んだものとなっている、このように聖書はいっております。
ここで4節、5節、6節というところに目を向けますと、それをよく理解するために、神様は、世の中の流れに従って生きている私たち罪びとに対する容赦ない徹底的な罰を下しなさいます。イエス・キリストの十字架は、これがただ罪というものの思想上のできごとではなく、観念の問題ではなく、神に対して背いて歩んで死んでいる私たちの罪を、神様がどれほど忌み嫌い処罰されるのかということ。キリストの十字架は、罪に対する神様の容赦ない徹底的な裁きであるという面がある。そのことをどうぞ心に留めたいと思うのであります。それを先ずしっかり理解したうえで、このキリストの十字架というものの持つ2面性といったらいいのでしょうか、同じものを表と裏から見たときには違っている。それをお話しいたします。
一つは十字架というのは、神様の罪に対する妥協のない徹底的な処罰です。それゆえにキリストは罪というものをぜんぶその身に背負ってくださったということは、またそれを同じものを裏から見ますと、それ故に神様の私たちの罪に対する無尽蔵で徹底的な赦しがここにある。キリストの十字架にこそ、罪に関わる一切がことごとく解決しているということ、これを前回、見たことであります。そして、このことが5節「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。」。そして8節「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です」にあるわけです。
ここに大切な福音の真理、恵み、信仰、賜物が出てまいります。私たちは信仰によって救われる。特にプロテスタントの私たちは、よきわざによって救われるのではなく、ただ神の恵みと憐れみのゆえに信仰によって救われるといいます。それを意識するために、微妙な表現をするのですが、私たちは恵みによって救われるのでしょうか。私たちは信仰によって救われるのでしょうか。えっ? とお思いになったかもしれません。聖書は両方いっていますね。恵みによって救われる、或いは、私たちは信仰によって救われる。いったいこれはどう理解をしたらいいのか、そのところにきょうはすこしメスを入れていきたいと思っております。
キリストの十字架の救いは神様の恵である。そして私たちはそれを信仰の手によって受ける。賜物を受けるということでありまして、相応しくない者、価値のない者に無代価で与える神の愛の賜物なのです。このような恵み、或いは賜物とは何か。
賜物とは何かを定義するのならば、相応しくない者、価値のない者に無代価で与えられる神の愛の賜物、もう皆さんこれがキリストの十字架の救いであることは理解していただけるだろうと思います。
ここで思い出しますが、神学生のときのことですが、こういう聖書にある大切な真理を神学者たちが、神学という一つの学問領域の中で、賜物とは何かという定義をしていました。その中の「賜物とは」がこのように定義されているわけであります。どうでしょう、私たちはこれに受けるに値する者だったでしょうか。生まれながら神の怒りの子であったはずなのに、まったく相応しくない受くるに値しないそんな者に無代価で与えられる神の賜物。これを私たちは、信仰によって受け取る。信仰というものは、まずこれを受け止める。それからもう一つ、別の表現をするならば握りしめる。受け止めてしっかりと自分のものに握りしめる行為、これが信仰なのです。
さて皆さん、先ほど私は、私たちが救われるときに、恵みによって救われるのでしょうか、信仰によって救われるのでしょうかと訊きましたが、この質問自体誤っている。同列のものではないのです。恵みというものと、信仰というものと同列であってどっちによって救われるのですかということではない。もうこれは、恵みによって救われるに違いないのです。私たちは、恵みによってのみ救われる。で、その恵みをどのようにして自分に引き受けるか、これは条件ですね。どういうようにしたらいいのかということで、受け止めてそれを握りしめることによってそれが自分のものになる。救いはもう一方的に神様の恵なのです。それをどのようにしてよりはっきりと理解できるだろうかと、このようなイラストを探し出しました。
溺れている人がいます。助けようと長い棒を差し伸べて「さあ、これに掴まりなさい」、或いは、錘をつけたバケツにロープをつないで、それが目的のところに届くように、どこかにこんな図が無いかなと思い水難救助と検索してみますと出てきましたので、そこから拝借しました。絵そのものは、溺れている人を見たら周りの人はどうしたらいいのかという水難救助の絵ですけれども。これをきょうのお話しに使わせていただいたらどうだろうかと思ったわけです。
助けようとしている人たちがいる。それで私たちは救われることができる。罪の中に溺れ死んでいる私たちを何とかして救ってあげたいと願われる神様がいらっしゃる。イラストの中で溺れているこの人が、もし、この棒を握る必要がないと思っているとすれば、自分の現状が分かっていない人です。自分が罪に溺れている状態にある現状を示し分からせてくださるのは聖霊様なのです。罪がほんとうにわかる。だから世の中の人と同じように罪の快楽、世の中の価値観の中にあるのは、この状態である事を知らないで、ただただいるだけ。しかし、自分がこういう状態であるということに気がついて、しかも気が付かせてくださった聖霊様が、実はイエス・キリストの十字架、これがあなたのために神様が投げてくださった救いの恵なのですが、ではどうしますか。あなた方は恵みにより信仰によって救われた、これはもう握りしめる以外にないじゃありませんか。これこそ極めて自然なことなのです。
8節をご覧ください。
「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です」
救ってくれるのが当然だというような、受ける何の価値もない怒りの子、このまま滅んでしまって当然の者なのに。ほんとうにそれに気がついて、そして、このお方を見あげ、信じた者が私たちだということに納得していただけましたでしょうか。
そして10節「実に、私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです」
もちろん、この神の作品である私たちというときに、創世記に書いてあるアダムとエバが神によって造られた、この人間の創造から神の作品であるとイメージするのは自然なのですが、しかし、ここでいっているのは、私たちは神の作品であるというときに、これはアダムとエバの創造における神の作品というのではなくして、実に、この第二コリントの5章の17節、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」。このことを意識して10節「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られた」もの、「古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなった」。このようにいうことができます。
私たちが神の作品であるというときに、サタンの巧妙な罠があると申し上げたい。それは私たちが神の作品であるということを理解してもらいたくないこの世のサタンが私たちにコンプレックス、劣等感を投げ込んでくる。キリスト・イエスにあって新しく造られたはずの私たちなんですけれども、悪魔は私たちにコンプレックスを与え惑わし、罠を投げかけてきます。
先ず第一に、私のようなものは神様の目から見たなら不十分、それはそうですよね、ほんとうに私たちそう思いますよね、神の目から見たら。だから私のような神の作品といってももう神様の失敗作ですといいたくなるような。私は立派な者ですといわず、私は不十分な者ですといえば、それはいかにも謙遜にも見えるでしょう。サタンはそのような謙遜という衣でよそわせながら、自信のない者の心にささやく。そうだよ、あなたが神の作品だなんてそんなこと、神に似るなんてあなたはそんな者じゃない。そうだ、他の人から見たって私のようなものは不十分。神の作品であるはずの私たちなのですが、他の人が見ても私は不十分な者、とても神の作品なんかじゃない。そして、自分で見ても私はダメなものなんだ。私たちは神の作品であると10節の中で知っており、主イエス・キリストにあって救われているのに、それをサタンが何とか私たちに惑わしの罠をもって、いやいやそんなこといったって、と劣等感を与えようとしています。
自分を卑下しているあなた、どうかイザヤ43章4節をご覧ください。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」
聖書にはこうあるのです。
神さまの作品である、ややもすると私たちはサタンの惑わしで、自分のような者は、とその価値を見失ってはいませんか。しかし神様は仰います。
イザヤ43章3節「わたしはあなたの神、主、イスラエルの聖なるもの、あなたの救い主であるからだ。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする」
いったいどういうことでしょうか。エジプトは今もその国は存在しておりますけれども、当時に遡りますと、エジプトは世界の超大国でした。ローマもまだない。世界で最も栄えている国はエジプトでした。そして「クシュとセバ」について聖書の欄外を見ますと「エチオピア」とございます。エジプトのすぐ南の方で、世界の富、繁栄がそこに集約されていました。つまりこの表現でいうならば、世界中のぜんぶの繁栄を富を身代金としていいほどに、あなたの代わりとしてもいいほどに、わたしはそれほどにあなたを愛していますよということなのです。
イザヤ書43章4節の最後のところに「だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりとする」。「それほどにわたしの目にはあなたは高価で尊いものなんですよ」と神様は仰るのです。
ちょっと考えますと、イザヤの41章14節、ここに同じ神様が「恐れるな。虫けらのヤコブ、わたしがあなたを助ける」とあります。さっきは、「わたしの目にはあなたは高価で尊い」といわれておりました。同じ神様が、「恐れるな。虫けらのヤコブ」「あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。」15節「見よ。わたしはあなたを鋭く新しい両刃の脱穀機とする」。「あなたを新しく造り変える」こういっているわけです。第二コリント5章17節「だれでもキリストイエスにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」と確認させていただきましたけれども、私たちは虫けらのような小さな、ほんとうに神の怒りの子どもであった者でも神様に造り変えられる。新しくされる、こう約束されている。何とすばらしい恵みでありましょうか。そして最後にこのエペソ2章10節に返りますが、「実に、私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです」とあります。
よい行いとは何でしょうか。これも表面的に見るのならば、功徳をするといえばわかりやすいような気がしてしまう。善行に励む、良いことを一生懸命に行う。このようなことのためにあなた方を新しく造られたのだと理解をすると、ちょっとここは前後の脈絡からすればそうではないと気が付かねばなりません。
詩篇40篇の7節、8節。ここは、イエス様がこの世に人としていらっしゃるときに、天における父なる神様との三位一体の神様のやりとりが何かすこし垣間見させていただける場面でありますが。
7節「そのとき、わたしは申し上げました」。これはイエス様がまだ受肉前の三位一体の第二位格なるお方として父なる神様に申し上げているのですが。
「今、私はここに来ております。巻物の書に私のことが書いてあります。わが神よ私はあなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは私の心の内にあります」
よい行いとは、神様のみこころに従うこと、みこころを聞いて、そして従うことです。イエス様がそうであったように私たちも神様のみこころに従いましょう。これ以外によいものはない。
エペソの2章になりますけれども、よいわざに熱心な神の民となるということは、神のみこころに聞き、それに従うものである。そして、私はこんなに神様に愛されている者なのだということを心に留めて歩ませていただきたいと願うことです。
⛳説教は私が礼拝でICレコーダーに録り起しています。写真も私が礼拝で撮り任意で掲載しています。イラストは教会からお借りしました。日曜礼拝を休んだ日には、教会から記録を送信いただいております。もっとも欠席は年に1,2回。冠婚葬祭が理由、直近では賢治の会(現在会員ではありません)の碑巡りに参加のため1日だけお休みいたしました。きょうは約6000字のアップです。
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