2019年9月
2019/9/30クラシック倶楽部を聴く
今朝はまず6時からの散歩を先行させました。主人の「歩いてきたら」の押しだしの一言で。いいよいよ健康あっての芸術鑑賞の年代に。備忘録書き込み作業は朝食を終え、一段落した8時45分から。
それにしてもクラシック倶楽部が始まる5時前にルネサンスの彫刻、ベネツィアが流れていましたが、何ともすばらしかった。
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クラシック倶楽部
中川 英二郎 トロンボーン演奏会
(トロンボーン)中川 英二郎、(ピアノ)宮本 貴奈、(トランペット)オッタビアーノ・クリストーフォリ
2018年12月1日富山県射水市アイザック小杉文化ホール 公開収録
射水市は人口約9万3千。富山湾に接し早朝だけでなく昼にもセリが行われている。これは全国でも珍しい。冬には旬の味のカニを求めて多くの客が。内川(新湊地区)の景観は日本のヴェニスと呼ばれる。小杉地区は旧北陸道の宿場町として栄える。左官職人を数多く輩出。
中川 英二郎
音楽家一家、育ち、5歳でトロンボーンを始める。高校在学中に初リーダー作をニューヨークで録音。以来クラシック、ジャズ、ポップスとジャンルを問わない活躍であまたのビッグアーチストやオケーケストラと共演を重ね、世界各地で演奏活動を行っている。2002年金管八重奏団「侍ブラス」結成。2008年朝のTV連続小節「瞳」のメインテーマを演奏。国内主要オーケストラとメインソリストとして共演。国立音楽大学ジャズ専修講師。2018年に開館25周年を迎えたアルテック小杉文化ホールにトロンボーンの豊かな音色が響き渡らせる。
コメント
この作品(竹内源造記念館にある「双龍」)とか見たら、芸術的じゃないですか。これってもう職人をさらに一つ越えているもんじゃないか。トロンボーンは同じように職人なんですよね。同じ職人の演奏家として感銘を受けますね。自分がこの楽器を演奏するときに気を付けることは、彩パレットをなるべく多くしたい。音楽をやるうえではそのパレットというのは、恐らくリズムや音色だとおもうんですけど、音色とリズムの組み合わせがもう無数にあるんですけど、それを自分でコントロールして、そうやって表現するという事をいつも考えてるんですね。それがトロンボーンのいちばんの魅力なんじゃないですかね。
オッタビアーノ・クリストーフォリ
イタリア・ウーディネ市出身。2009年日本フィルハーモニー交響楽団に入団。ソロ・トランペット奏者を務める。中川率いる「侍ブラス」のメンバー。
宮本 貴奈
茨城県結城市出身。アメリカ・バークリー音楽大学卒業後、ジャズピアニスト、作曲家として幅広く活躍。全米エドマンジャズピアノ大会優賞。国立音楽大学ジャズ専修講師。
曲目
☆「管弦楽組曲 第3番 から アリア」バッハ:作曲
☆「歌劇「運命の力」序曲」ヴェルディ:作曲、ニール・ベネット:編曲
☆「ファンダンゴ」ジョゼフ・トゥリン:作曲
現代アメリカの作曲家ジョゼフ・トゥリンが、メキシコの吹奏楽団のため2000年に作曲。スペイン発祥の舞踊ファンダンゴのリズムとメロディーが引用されている。
☆「シークレット・ゲート」中川英二郎:作曲
2007年自身のアルバム制作のために作曲。扉を開くような曲想から後に名がつけられた。ジャズセッションのような即興演奏や楽器同士の掛け合いが聴きどころ。
☆「トライセンス」中川英二郎:作曲
トライ(3つの)センス(感覚)の名の通り3部で構成され演奏技術の粋を尽くした作品。
☆「チャールダーシュ」モンティ:作曲
🎵「トライセンス」、大事な解説を録り落としてしまった。奥行きもある。空気感を伴う場面、色彩の展開。アクティブなピアノ。トロンボーンの右手操作、的確に音が響き出でくるのが不思議。演奏者は職人であるという側面があるというが、とはいうもののたとえばピアノでも同じショパンの同じフレーズでも、落涙させる奏者と、これでいいのかしらんの奏者が。そこは芸術的センスの違いなのか。職人と自称する職人の方の中にも芸術の域の方もたくさん。
🎧名曲アルバム
「よさこい~よさこい鳴子踊り」高知県民謡、和田薫編曲
【唄】高橋キヨ子,【はやし詞】岡本知高,三山ひろし,千田けい子,天野りえ,【指揮】岩村力,【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団
⛳10時22分更新
きょうのことば
先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の講壇をお伝えします。
國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、45年の間、岩手で主のご奉仕をしておられます。
9月22(日)の説教題『先入観と偏見からの解放』(説教:國光勝美牧師)
聖書引証:エペソ人への手紙第2章11~18節
2:11ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、 2:12そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。 2:13しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。 2:14実にキリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ちこわし、 2:15さまざまな規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、2:16二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。 2:17また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。 2:18このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。
<説教>
前回は、病んでいる方々のために、さまざまなおことばが与えられた祝福を証しさせていただきました。
「日々の光」、これは私たちの家庭礼拝において使っているものでございますけれども、おりに適うおことばがそのときそのときに与えられる喜びは大きなものであります。前回はこのようなことを紹介させていただきながら、ちょうど私たち信仰者にとって神様のおことばというのは、杖のようなものであると申しました。聖書には、モーセの杖、或いは、アロンの杖が出てきます。紅海を二つに分け大きな奇蹟が行われた杖の存在があります。小さな経験ではありますが、山に登ったりするときにも非常に重宝するのが杖。杖に体重をあずけて登ることもできるし下ることもできる。杖がしっかりしたものでなければいけませんね。
そしてお話の最後には、10年ほど前に深刻な病を負ったと聞いた方から、最近になって電話がありました。「私たち守られて今ふつうに生活しております」ということでした。そして「神様に支えられる信仰というのは、そういうことなのですね」と実感をこめておっしゃいました。その方は小さい頃から教会に関わっていたようです。信じるといえばキリスト教以外に考えられないというような、そういう意味では恵まれた環境にあったわけですが「平穏無事であるときには、どうしても理屈が勝ってしまう。単純におことばにすがることができなかった。しかし今回のことを通して、ほんとうに考えさせられた」という彼の話もさせていただきながら、私たち、せっかく与えられる神様のおことばの杖を、多くの方から差し出される杖をしっかりにぎるという握力、これは、信仰の握力のことですが、これによってこれを捉えたいものです。どうか信仰の握力を主に求めて、しっかりと握りしめて、さまざまな問題課題を乗り越えていきましょう。
きょうはエペソの2章11節からでございます。その一つ前の10節に、一つのポイント「実に私たちは神の作品であって」があります。私たちは神の作品である。私たちはややもすると自分のようなものはという思いにとらわれるときがありますけれども、しかし、そうではない。私たちは神様の手による作品なのです。これを心に留めることができたなら、正しい意味で、傲慢ではなく自分自身の尊さを正統的に理解できる。これはとても意味のあることなのです。
TVで、陶芸、絵画、書などを鑑定する番組があるようです。私にはよくわからないのですが、何々作といった署名があるかないか、或いは、絵画や書の特徴が作家その人のものであるかどうか、それによって価値が2千円なのか2百万なのかと価値が変わるのだと面白く見ておりますけれども。どうでしょうか、私たち、私はこのようなものですけれども、ここにキリストの作、これは傑作であるという神様の印が押されていると分かったなら、恐れ多いことでありますけれども、恵みだなあ、私たちは神の作品なのだ、大切なものなのだ。
そうです。「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(第二コリント5:17)。
さて、きょうは11節からですが、進んで行きたく思います。11節からは神に選ばれた選民イスラエルと、それから私たちのような異邦人、この対比がテーマになっています。 神様はアブラハムの子孫、アブラハム、イサク、ヤコブのやから、そこに祝福を与えてくださった。神に選ばれた選民に。確かに聖書の中には選民イスラエルがあります。しかし、それと関係のない異邦人、異邦人というのは、その意味の対比である存在というように覚えていただきましょう。11節「2:11ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ」ていた。イスラエルの人たちは、神に選ばれた外見的なしるしとして割礼を受けている、他の選ばれていない異邦人たちとはまったく我らは違うのだという、イスラエルの人々は、外見的なそういう目に見えるしるしの割礼というものを非常に誇りとしておりました。ですから、彼らは私たち異邦人を割礼なき者と軽蔑しておりました。それからこんど11節には「あなた方はかつては」とありますけれども、12節「2:12そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。」とあります。このようにキリストから遠く離れ、つまり、ユダヤの人たちは、「われらにはやがて神様がメシヤを与えてくださるのだ」、そのようなメシヤを待ち望む、神は我らに必ずメシヤを与えてくださるのだというこの特権を、彼らは持っておりました。しかし、私たちは、異邦人たちはそのようなメシヤであるキリストから遠く離れていた。こういう神様の祝福からまったく離れていた。イスラエルの民から除外されていました。イスラエルの人たちは神様を神殿に入って礼拝をすることができた。しかし、神殿でも、異邦人の人たちはここまで入ってもいいですが、ここからは入ってはいけませんとなっており、異邦人の庭というところがあって、イスラエル人だけが神に近づくことができた。
そして12節を見ると「約束の契約については他国人で」、これはモーセの十戒というものにあらわされると見ていいでしょう。これはイスラエルだけに与えられた民族的な誇りでした。神は我らに十戒を与えてくださった。つまり、ユダヤの人たち、イスラエルの人たちが、徹底的に自分たちは神に選ばれた者であって、あなた方異邦人は神様の祝福から離れている者なのだ、だから、と続くわけです。だから神様がメシヤとしてイエス・キリスト、十字架の福音というものを与えてくださったとしても、それはイスラエルにであって、異邦人には関係がないのだと彼らは主張したわけです。
そんなときに、このエペソ書を書いたパウロは、そうじゃない、神様はイエス・キリストによってイスラエルの人も異邦人も一つのものとして、同じ一つのものとして神様によって救われる。神の前に選民も異邦人もない。キリストにあって我らは一つなのだ。神にあって一つ。御霊は一つ。我らは一つ。これがパウロがここを通していわんとしているところです。
これらの背景を心に留めながら、皆さんも、聖書にちょっと目を留めていただきましょう。
12節から「2:12そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。 2:13しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。 2:14実にキリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ちこわし、 2:15さまざまな規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、2:16二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」。こう続いていくわけです。
この背景、勿論この一つ一つをみことばに従って解説し理解をするということは、大切なことですけれども、私はこれを神学校の教室の講義のような形で、この一節一節というものを解説をするというよりも、むしろ、ここで神様がいわんとしていることを皆さんと一緒に理解することによって、実践的に、この二つのものが一つになる、お互い敵対していたものが一つになるということの意味を持たせていただく、知らせていただく礼拝でありたいと思っております。
あとは画像の方をご覧ください。
いまいったように選民イスラエル、ここにはもう決定的な隔ての壁が、ということを前提にしているところなのですが、このようにチャートを自分なりに整理していきましたときに、ふと、あれ、これ、似ている隔ての壁というのがどこかにあったな。で、思い浮かんだのは、ルカ16章の金持ちとこじきのラザロでした。神様を信じていたラザロは、亡くなってアブラハムのふところに行った。しかし、彼の地には、この世で贅沢三昧に暮らしていた金持ちも死んできており、そのものは裁きの火の中におかれていた。これはたとえ話と理解すべきでしょうか。解釈は色々とあるようです。ただ、そこには苦しんでいる金持ちがおり、上を見るとアブラハムの懐に抱かれているラザロがいる。金持ちは、父アブラハムよ、どうぞラザロを遣わして私の舌を冷やしてください、ゲヘナの火で焼きつくされそうです。しかし、ゲヘナとラザロのいる世界のあいだには深い淵がある。そこからこちらに、こちらから向こうに行くこともできない、こうイエス様が仰られた。
隔て。まさにそれに類似した、どちらからも近づくことができない隔ての壁がある。そのとき、私は、ユダヤ人とその彼らに対する偏見、これを考えさせられました。ご存知のとおり、イエス様を十字架につけたのはユダヤ人です。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に」ふりかかってもいい、奴を「十字架につけろ」といって、キリストを十字架に追いやったのは、まさにユダヤ人たちでした。このとき、私は一つの印象的な文章を目に致しました。それは、ユダヤ教徒として生きていた人がキリストの福音に触れて扱われて立派なクリスチャンになった。そのクリスチャンになったかつてのユダヤ教徒、ユダヤ人であった彼。彼のこの文章の背景になっていたのは、ちょうど奴隷解放のキング牧師や公民権運動であり、白人の偏見や差別でした。外からはアメリカがキリスト教国であると見える。それが何であの偏見が、あの暴力が、黒人と白人との間にそういうものがあるのか、そのような只中に生きていた人の文章なのです。
このクリスチャンになったユダヤ人である彼が、福音派のいちばん健全な、保守的なといったらいいのか、アメリカの福音的なフラー神学校というところがあるのですが、そこに講師として招かれたときがあった。クリスチャンになったユダヤ人牧師の彼は、自分たち民族がどれだけ迫害を受け、あらぬ偏見に直面してきたか、特にあのナチス・ドイツのユダヤ人迫害、アーリア人種を優越とし、ユダヤ人は抹殺されねばならないといった考え方でユダヤ人たちは迫害されていったわけですけれども、その中に、彼らの迫害する理論の中に、あのユダヤ人たちは迫害され滅ぼされて当然の者なんだ、聖書にそう書いてあるじゃないか。神のひとりごイエス・キリストを十字架に追いやって、その罪は我らと我らの子孫にこうむってもいい、奴を十字架につけろと叫んだユダヤ人はあのイエス様を十字架につけたその報いを受けているのだから当然だというような思いが、ユダヤ人を迫害する人たちの心のどこかにあった。それはフラー神学校で学んでいるすばらしいクリスチャンのそういう学生たちにあっても、彼らが生まれながらクリスチャンとして、良い意味でクリスチャンとして信仰を持って、学んでいた者たちであっても、心の中のどこかにユダヤ人に対する蔑視が、つまり白人が黒人に苛酷にやっていたあの時代の差別意識、こういったものがぬぐい切れないほどに心の内にある。
今こうしてお話ししながらもう一つの例話を思い起こしました。それは、インドで長いあいだ宣教活動をしておられた竿代信和先生のお話しです。竿代先生がインドの神学校で教えておられるときに、いつも仲のいい人たちでしたが、食事をするときに分かれて食事をする。で、日本人はそういう感覚が、その彼らが持っているほどではなかった。インドの人たちにとってカースト制度は生まれながらにあって、自分のカーストよりも、たとえば極端なはなし、乞食のカーストというのがあるそうです。乞食のカーストはそのカーストで一生あり続けることは、次の世にもっと良いカーストに生を享けるというようなことで、そういう意識の中にあって、インドは、それほどの人種差別がまかり通っていたそうです。そのときは分からない竿代信和先生は、一緒に食事をすればいいのにどうして? と思ったけれども、どうしてもどうしても一緒にはできない。そういう偏見、差別というものがあった。頭で分かっていてもそれをすることができない。フラー神学校に来たその教師が、ここにいる福音的な信仰を持っている皆さん方に伝えたい。これからは、ユダヤ人たちも、救い主を殺そうとした民族だということは決して言ってもらいたくない。その考え方、価値観というものが、あのヒットラー達によってユダヤ人が虐殺されたあの思想のほんのわずかであるかもしれないけれども、同じ思いでそれをやってしまっている。どうか、我々ユダヤ人をそのように言ってもらいたくない。そう訴えたそうです。
聖書の中には、イスラエル人のサマリヤ人に対する蔑視という、そういう偏見というものがありますし、それから、律法学者パリサイ人と取税人罪びとたちのあいだにも。イエス様があんな人たちと食事をしたという記事がありますよね。
私はあえてここに「罪びと」、蔑視される存在として、分かりやすく「羊飼い」を、罪びとと言えばみな羊飼いなのだという意味ではなくして、羊飼いというのは、生き物を、しかも神殿で生贄を捧げるための大切な誰かがしなければならない大切なお仕事なんですけれども、羊飼いはそれゆえに安息日を守ることができない。安息日を守れない、守らなくていい、そういうやからであり、健全な信仰者であると自負するユダヤ人から見たらば蔑視されるようなお仕事として羊飼いというものはいる。取税人もそうです。当時のそういうような人たちに対してイエス様は、どうだったでしょうか。手を差し伸べ、取税人にもザアカイのところにも一緒に客として呼ばれていく。これ、ふつうの感覚だとあり得ない。しかし、イエス様のお誕生の時に、羊飼いたちが真っ先にこの素晴らしい拝謁の恵みに与ったことなどを思います。イエス様は、当時取るに足りないものとされ、どうでもいいような扱いを受けていた幼児にもそばに来られるようになさいました。「うるさい、先生は今お疲れなんだ」とイエス様のところに来るのを妨げようとしたお弟子さんたちに、「子どもがわたしのところに来るのをゆるしなさい」こう言ってイエス様は子どもを受け容れられた。私たちこうしてみると先入観、偏見というものが、自分たちの責任である無しに関わらず、そういう価値観の中に今ある。この先入観、この偏見というものを取り除くことこそエペソ書を学んでいる私たちのあり方ではないでしょうか。このように思いました。
14節に「2:14実にキリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において」というこの隔ての幕を、壁をイエス様は、イエス様こそ、十字架こそこの隔てを乗り越えさせてくださるものであります。
偏見というものは何かというと、自分たちはあの人達よりも優れている者だ、という単純にいえば、そういうところから偏見というものが来ます。イエス様は私たちに偏見を取り除くために、あなたたちはぜんぶユダヤ人も異邦人もない、全員罪びとなのだ。随分乱暴な言い方かもしれませんが、イエス様は、私たち全員を罪びととしてのレッテルを貼ってくださった。そして、全員罪びとであるその私たちに、イエス様が現れてくださって、私たちをそこから解放してくださった。これがキリストが私たちの平和であるということの意味であります。
先ごろ仙台で聖化大会があり、田辺先生が独特な切り口でお話してくださいました。その中で、あなたが今赦すことができない人の名前をそこに書いてください。田辺先生が言おうとしていることは、あなた方はほんとうに自分が罪赦されているものなのか、自分がなにかその人よりも上にあって、その人を見下すような無意識のうちにそんな気持ちがあるから偏見や誤解を生じてしまうと。私はそれを思い起こしながら、イエス様の十字架の血潮、どうしても私は赦すことができない人、どうしても挨拶をしたくない人、そのようなところに、キリストの十字架の血潮をそこに置いて、先入観と偏見をそこに置いて、先入観と偏見をイエス・キリストの十字架によってそれを乗り越えて、そこに本当の夫婦の平和、家庭での平和、社会でのそういう人間関係の平和がそこから始まるのだということを、そこから教えられたことであります。
きょうは、このお話しのきっかけとしてエペソのところ、神学校の何かクラスのように割礼とは、とか、ここはどうのこうのというよりもむしろ、ここのところが実践できるかどうか、ほんとうにキリストの平和が私たちのものとなっているか、そのことを心に留めさせていただきたいと思います。
この秋にインマヌエル盛岡キリスト教会では次のようなお話しの会を開きます。ユニークな楽しい先生です。おでかけください。
このチラシは、國光先生のご息女A姉がボランティアで作ってくださいました。
J-MEROピックアップ
J-MERO
東京スカ・パラダイス・オーケストラ
9人編成
コメント内容の概ね
いろんな人に届くようなセットリスト考えてます。ライブはエネルギーの交換。お客さんと僕らがどんどん元気になって行けばいい。お客さん全員に踊って盛り上がって欲しい。音楽好きじゃない人がたくさん集まっているところでやるのが好きだし、そういうところこそ燃えるのだという。逆風受けるからこそ、飛行機が飛べるんだ~。
コラボレーションするときは相手の手の内を知りながらやるわけで、勉強になってる。
結成当時からスカをやってる。デビュー当時は歌謡曲、今だったら南米のもの、とにかく新しいものをミックスして未来に向けてスカを再構築していく。
これまでで忘れられないのは、3・11後、後ろ髪惹かれながら4月にメキシコ・イン。観客全員が両手をあげて、日本の国旗を掲げて日本頑張れと声援いただいたこと。
🎵どんなところもフェステバル変容させ全員をノリノリに。地味目のテーラードスーツに身を包み、堂に入ったエネルギーを発散、炸裂させるパワフルさ。などと書く必要もないようで、いまでは世界を代表するグループの一つだとか。
⛳6時57分更新
2019/9/27クラシック倶楽部を聴く
パヴェル・ハース・クァルテット 演奏会
2016年12月7日 トッパンホールでの収録
パヴェル・ハース・クァルテットは、2002年にチェコの作曲家パヴェル・ハースの名を冠して結成されたチェコの「弦楽四重奏団。2005年のプラハの春国際コンクール、イタリアのカオロボニ国際コンクールで優勝。結成から何度かメンバーチェンジがあり、2016年3月にはビオラのラジム・セドミドィプスキーが加わり、新生パヴェル・ハース・クァルテットとして活動している。
チェロのペチェル・ヤルーシェクのコメント
この弦楽四重奏団の魅力は、仲間と協力しながら共に作品を創造することです。ときにはいやになることもあります。しかし、それを経ることで聞き手を異次元にいざなうことができるのです。美しい“共同の創作”ですよ。大切なのはお互いを好きになり尊敬しあうこと、そして同じ目標を持つことです。熱意や欲望も不可欠で、それがあってこその音楽です。
かつて仲間だったビオラのパヴェル・ニクルは、しばしば曲を「脚本」に例えていました。脚本に書かれたセリフは、役者の解釈によって違いが出ます。これは自然なことです。しかし私たちは「人と違うようになりたい」というわけではありません。「あなたは他の四重奏団との違いを出すためにどのような努力をしているか」と聞かれたことがあります。この考え方は間違っています。初めからそのように考えていては、いい音楽を作り上げることはできません。作曲家のことを第一に考え、次に成し遂げたいことを共有するのです。
曲目
☆「フラトレス」アルヴォ・ペルト:作曲
1977年エストニアの作曲家ペルトが、古楽アンサンブルのために作曲。その後ペルト自身が様々な楽器編成のために編曲。弦楽四重奏版は1989年に編曲。
☆「弦楽四重奏曲 第5番」バルトーク:作曲
バルトークは生涯に6曲の弦楽四重奏を作曲している。第5番は、1934年に完成された全5楽章から成る作品。第3楽章ではブルガリアの民族舞曲のリズムが用いられている。
☆「ワルツ イ長調 作品54第1」ドボルザーク:作曲
🎵「フラトレス」、起伏、抑揚が伏せられたかのような旋律を、チェロのピチカートが奥から相槌を打っているような、おもしろい曲。バルトークの5番、輻湊する各部分の輪郭をリアルに描き出している。3楽章、民族舞曲のリズムらしいところ、一種の狂気をモダンダンスの静と動に置き換えて見せてくれたような。4楽章、サスペンス、ミステリアス。おわりに謎を深めていくよう。5楽章、ざわつくような謎の解き明かし。実にスリリングで魅力的な演奏だった。
🎧名曲アルバム
「このすばらしき世界
【歌手】福島康之,【コーラス】前田比呂実,日野しおん,村上勧次朗,土居康宏,【指揮】角田鋼亮,【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団
1967年に発表されたこの曲はベトナム戦争激化の中、美しい世界を願って作られたという。1901年アームストロングが初めて管弦楽団と歌い新境地を見せたバラード。このとき66歳であったようだ。
⛳聴いたという充実感で7時7分更新
2019/9/26クラシック倶楽部を聴く
小山実稚恵&アルティ弦楽四重奏団 演奏会
~2018年9月30日東京 第一生命ホール~
小山実稚恵
日本を代表するピアニスト。チャイコフスキー国際コンクール、ショパン国際ピアノコンクールに入賞してから国内外で積極的に演奏活動を広げている。アルティとは2016年に初めて共演。初共演をきっかけに2018~22年まで第一生命ホールで室内楽演奏会が企画され、長期的なシリーズに発展することになった。
コメント
アルティとの共演については、ピアノだけと対話していると、どうしても自分の音楽がピアノをもとに作った音楽になりそうになるんですけど、こういうそれもすばらしい演奏家の方たちとすると、ああほんとうに、ピアノがどうにでもできる楽器だったら、自分だってこう弾きたかったというフレーズがいっぱい出てくるわけで、そういうときにやっぱり、それがふっとこう自分の音楽を見直すきっかけになったり、合わせる喜びもあればそういう自分のほんとうに好きだったものに立ち返るチャンスを貰えるしゅんかんでもあるし、やっぱりあとは想像力が広がるとかいろんな魅力があるので大好きです。
アルティ弦楽四重奏団
1998年結成。4人のメンバーはソリストとして活躍しながら弦楽四重奏曲の演奏活動を意欲的に続け、20018年に結成20周年を迎える。日本を代表する弦楽四重奏団の一つ。メンバは(バイオリン)豊嶋泰嗣、(バイオリン)矢部達哉、(ビオラ)川本嘉子、(チェロ)上村昇。
矢部達哉 コメント
最初にカルテットをやりだしたときに、やっぱりカルテットのレパートリーってたくさんあるので、先ずそれをやらなきゃいけないというのでゲストを呼んだり、そういうことしないようにして、つい最近なんですけれども、そういう別な方と一緒にやろうという機運が生まれて、それで小山さんとご一緒させていただくことになって、カルテットとクインテットは全然ちがうものかもしれないんですけど、僕は、小山さんと一緒に弾く時は、その延長線上でピアノがより奥行と彩りを加えていただけるような、なんかそんな感じで弾いていました。
曲目
☆「弦楽四重奏曲 変ロ長調 作品67から 第2楽章」ブラームス:作曲
アルティ弦楽四重奏団。
☆「弦楽四重奏曲 変ロ長調 作品67から 第4楽章」ブラームス:作曲
アルティ弦楽四重奏団。
☆「ピアノ五重奏曲 変ホ長調 作品44」シューマン:作曲
小山実稚恵&アルティ弦楽四重奏団
🎧名曲アルバム
モーツァルトが22歳のとき、パリに同伴したモーツァルトの母親が亡くなり、葬儀のあったサン・トゥスタシュ教会。
⛳何とか7時には終わらせたいこの作業。自分のコメントはまず措いて演奏者の声が書き込まれてあれば価値はあるかと。小山さんの登場、うれしかった。きのうのバンドネオンも言いたいことはさまざま、すばらしかった! 7時1分更新
2019/9/25クラシック倶楽部を聴く
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三浦一馬クァルテット
(バンドネオン)三浦一馬、(バイオリン)西江辰郎、(チェロ)向井航、(ピアノ)松本和将
2017年6月11日香川県三豊市文化会館マリンウェーブマーガレットホール 公開収録
三浦一馬
10歳からバンドネオンを始め、16歳の時アルゼンチンに渡り、バンドネオンの世界的権威メストル・マルコーニに師事。2008年18歳の時にイタリアで開催された国際ピアソラコンクールで日本人初史上最年少で準優勝を果たした。現在までマルタ・アルゲリッチやユーリ・バシュメット、恩師ネストル・マルコーニら世界的名手と共演。
西江辰郎
桐朋学園大学デュプロマコース終了。24歳の時に仙台フィルのコンサートマスターに就任。2005年からは新日本フィルのコンサートマスターを務めている。ソリストとしても国内外のオーケストラと数多く共演し、室内楽奏者としても活躍。
向井航
東京芸術大学在学中にハンガリー国立リスト音楽院に留学し研鑽を積む。現在、関西フィルハーモニー管弦楽団特別契約チェロ奏者として活動するほか、ピアノトリオを組み、ジャズ、ポップスなど幅広いジャンルで活躍。
松本和将
高校在学中にホロヴィッツ記念国際ピアノコンクールに第3位入賞。1998年日本音楽コンクール優勝。2003年エリザベト王妃国際音楽コンクール第5位入賞。ソリストとしてだけでなく、室内楽にも積極的に取り組み、後進の指導にも力を注いでいる。
三浦一馬のコメント
バンドネオンの魅力について
なんといっても奥が深いですね。もう奥が深すぎるのでいまだに厭きることがない。この楽器で真ん中にジャバラというものがついていて、これが伸び縮みさせて、空気を起こすところがあって、風がくるんですよ、これがまさに人間の呼吸と似たところがあって、ちょっとした音の揺れ、揺らぎみたいなものが、自分の呼吸であったり、気持ちのちょっとした揺れとそこと何かリンクしてて、それがそのまま音に乗っかるという、これはもう良くも悪くもですけど、もう自分がそのまま出ますから、そういった意味でも音楽家として、演奏家としては面白い部分だしどこまでも突き詰めていく、もうきりがないなというぐらいですけども、そこはもうおもしろくてしょうがないですね。
今回でのメンバーとの演奏について
この4人との組み合わせは初めてでしたが、もちろんお互いに勝手知ったる仲というか、お互いよく知ってるメンバーですから、そういう相手のよく知ってるところを、逆に本人以外のところから引き出していくというのが客観的に見て非常によくはたらいてるなと。具体的にいえば、たとえば、僕自身でも、たとえばピアノの松本さんから言われて、そこ一馬君こうやったらいいんじゃないのと自分でも気づかないところ、そういわれると、あ、そうか、じゃこうしてみようとか、お互いがお互い相手の良さを引き出していく、それが相乗効果としてより良いアンサンブルになっていく。お互いやっぱりリハーサルの段階から楽しかったですし、だから本番はどうなるんだろうかとか、すごく楽しみにしてます。
曲目
以下はすべて、三浦一馬:編曲
☆「ラプソディー・イン・ブルー」ガーシュウィン:作曲
☆「サマータイム」ガーシュウィン:作曲
☆「リベルタンゴ」ピアソラ:作曲
☆「ブエノスアイレスの冬」ピアソラ:作曲
☆「ブエノスアイレスの夏」ピアソラ:作曲
☆「ブエノスアイレスの秋」ピアソラ:作曲
☆「ブエノスアイレスの春」ピアソラ:作曲
🎵
🎧名曲アルバム
「ジークフリートの葬送行進曲」ワーグナー作曲
【指揮】飯守泰次郎,【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団
詩 雨ぁふるども
いちどだけでも方言で何かを書いてみたいと思っていた時期がありました。そのときに書いた詩です。
雨ぁふるども
雨ぁざんざどふって
風ぁ暴れでらども
おめだじゃ泣ぐな
ついだばりの愛(め)んげ花っこ
びじゃびじゃど濡れでも
やっとなったばりの実っこ
びだびだど叩がれでも
おめだぢや泣ぐな
やっとごさ張った根っこで
ぎっちりど土つかんで
堅ぐ組んだ手しばさ
蔦きづぐ絡ませで
ぜって倒れるな
童(わらす)だったどぎ
そごらの堰さ入って
びょんびょんず蛙捕ったり
起ごしたばりの土さ
びろびろど動ぐ蚯蚓(みみず)捕まえだった倅ぁ
街さ行ってしまった
今みてでなぐ
ずーっと広がった田さ
耕運機かげだった父さんも
遠ぐさ稼ぎに出で
居ねども
おればりぁ残ってらがらな
朝がらばげまで
背中さでっけ空しょって
草も取ってやる
水も肥料も入れでやる
腰いで(いたい)たって
頭病めるたって
何じょなごどあったたって
畑ぁおれゃまもらねばね
あどぺっこ待でば
こっただぼろ綿みでな雲ぁ裂げで
陽っこぁ出てくるべ
天気ずものぁ
いっつも同じでねがらな
陽っこさえ出れば
びっしりどくっついだ滴さ
光ぁまっすぐに落ぢで
そっちもこっちも、は、
びがーびがど光るべな
誰も居ねたって
誰も見ねたって
ひび割れだとまとだの
しょぼくれだ胡瓜の花だの
くたびれだよんた葉っぱだたって
も、は、
活ぎー活ぎど光るべな
離農の進む中で一人で一心に田畑を護る姿に感動、詩にしたものです。
因みに日本の食糧自給率は37%。干ばつ進む先々は?
2019/9/24クラシック倶楽部を聴く
エベーヌ弦楽四重奏団 演奏会
2017年10月10日 ハクジュホール
ピエール・コロンベ(ヴァイオリン)写真の左端
ガブリエル・ル・マガデュール(ヴァイオリン)写真左から2番目
マリー・シレム(ヴィオラ)
ラファエル・メルラン(チェロ)
ピエール・コロンベがジャズ作品についてコメント
五線紙に書かれるクラシック音楽は、ある意味「賢い」のかもしれません。一方感動的なテーマから生まれる即興の音楽ジャズもまたすばらしいのです。しかし私たちはどんな音楽も楽しめることを証明したいのです。ジャズが新しく自由な音楽だからではなく楽しむためのものだからです。コンサートのチケットを買うときに、「よし、今夜は知識を得よう」と思うでしょうか? いいえ1時間ほど厄介なことを忘れ、良い気分になり喜びを感じるためです。私たちが舞台で自由になりどんな音楽でも楽しむ姿を伝えたい。ジャズはそれを可能にし、心地よい関係を築く音楽なのです。
2020年にカルテット創立20周年を迎える
パリでイザイ弦楽四重奏団に学んだ他、ガボール・タカーチ、エバーハルト・フェルツ、ジェルジ・クルタークなど優れた音楽家の下で研鑽を積んだ。2004年難関のARDミュンヘン国際コンクール優勝(合わせて5つの特別賞を受賞)に続き2005年にはフォルベルグ・シュナイダー財団よりベルモント賞を贈られた。同財団の援助により、個人所有の貴重なイタリア製の楽器がメンバーに貸与されている。
曲目
☆「弦楽四重奏曲 へ短調 作品95「厳粛」」
1810年ベートーベンが40歳で作曲。11番目の弦楽四重奏。ベートーベンはこの作品に「厳粛に」という意味を持つイタリア語「セリオーソ」という副題をつけた。
以下のジャズはすべてエベーヌ弦楽四重奏団によって編曲
☆「フットプリンツ」
☆「ベベ」
☆「マイルストーン」
☆「アナ・マリア」
☆「ネイチャー・ボーイ」
🎵「知識を学ぼうとして音楽会に来るひとはいない、音楽を聴いてそのあいだ喜び楽しみたいのだ」といったコメントに、耳が痛く、近頃はちょっと的外れな視聴になっていたかなと。
聴衆に楽しんでもらいたいとの意図からジャズも。室内楽団、というよりも、クラシック界は模索、試行錯誤を重ねながら独自の方向性を探り当てつつ進んでいる感じが。ドビュッシー、ラヴェル、フォーレ作品CDは独ECHO-KLASSIK「最優秀室内楽レコード賞」、仏ル・モンド・ドゥ・ラ・ミュジック「ショック賞」、英グラモフォン誌「年間最優秀レコード賞」等々多くの権威ある賞を、2011年に再び独ECHO-KLASSIK受賞。演奏活動の他に20年間にこれだけの大活躍。2020年のベートーヴェン生誕250年記念に向け世界規模のプロジェクト、『ベートーヴェン・アラウンド・ザ・ワールド』を2019年よりスタートさせるというが、日本公演は予定されていないようだ。
🎧名曲アルバム
「序奏と華麗なポロネーズ 作品3」ショパン曲
【チェロ】遠藤真理,【ピアノ】菊池洋子
アントニ・ラジヴィウ公爵の館
⛳7時ジャスト 更新
11時半に捕捉し再び更新
2019/9/23クラシック倶楽部を聴く
ノトス・カルテット 演奏会
2019年7月2日 京都コンサートホール アンサンブルホールムラタで収録
ノトス・カルテット
シンドリ・レーデラー(Sindri Lederer ヴァイオリン)
アンドレア・ブルガー(Andrea Burger ヴィオラ)
フィリップ・グラハム(PhilipGraham チェロ)
アントニア・ケスター(Antonia Koster ピアノ)
ノトス・カルテットはロンドン・パークハウスアワード、チャールズ・ヘンネン・コンクール(オランダ)で優勝、フィレンツェのヴィットリオ・グイ国際室内楽コンクールで優勝など、数々の国際音楽コンクールにて優秀賞を受賞。2014年の大阪国際室内楽コンクールでは、ピアノ三重奏及びピアノ四重奏部門で第2位。ロンドンのウィグモア・ホール、アムステルダムのコンセルトヘボウ、ベルリンのコンツェルトハウスなど、主要な音楽祭での演奏・ラジオ出演など様々な活動を行っています。彼らの音楽性の高さについては「ファンタスティックなアンサンブルだ」(ズービン・メータ)、「素晴らしい、これこそ真の音楽性の高さだ」(リン・ハレル)、「メンバー同士のみならず、聴衆へのコミュニケーションの力が素晴らしい」(シュロモ・ミンツ)など、名だたる巨匠演奏家たちが絶賛の言葉を惜しみません。(掲載のディスク頁からの転載)
☆「ピアノ四重奏曲 イ短調」マーラー:作曲
☆「ピアノ四重奏曲 ハ短調」バルトーク:作曲
☆「愛の悲しみ」クライスラー:作曲
☆「愛のあいさつ」エルガー:作曲
中でも世界初録音となるバルトークのピアノ四重奏曲ハ短調は注目です。バルトーク17歳の1898年に書かれたこの作品は出版されておらず自筆譜も紛失されたと言われていましたが、ノトス・カルテットのメンバーらは何年もかけて探索しついにその楽譜を発見したのでした。今回が世界初録音となります。(輸入元情報)
🎵
番組予告を見ておらず、けさはもうパスしようかと思っていたところが、習慣で1時間前に目が覚め、何者かに「見なさい」と促された気がして時計を見ると5時に15分前だった。カメラの充電もしていなと思いながらTVスイッチオン。
ノトス・カルテット、これが面白い内容だった。バルトークの「ピアノ四重奏曲 ハ短調」、これはバルトークがまだギムナジウムで学んでいる17歳の学生だったとき1898年に作曲したものだった。しかし楽譜は行方不明、長い間演奏されることはなかった。それを彼らノトス・カルテットが必ずやどこかにあるはずと諦めずに探し続けたところ、ついにブダペストの公文書館で発見、世界初演に漕ぎつけたのだ。素晴らしい! メンバーが「ロマンチックで若々しく情熱的、17歳の彼がその後どのように成長していったかがわかる」と語っていたが、彼らの演奏もバルトークの想いの具現化とともに我々がこの楽譜を発見したのだという誇りと気概に満ちており、聴いていてとても気分がよかった。
アンコールではビオラのアンドレア・ブルガー、こういう自然な感じ(ステージではディスクジャケットの雰囲気とは別もの)の雰囲気が私には好ましく思われるのだが、日本語で「私たちはアンコール曲をもっています」と。こんなとき嬉しさを覚えるのだが、自分が日本人だと意識したことはないが、はいわたし日本人ですと思えるところが可笑しくもある。それもあり、これもあり、このカルテットに対する好感度は上がる一方。というわけでディスクの紹介も。

🎧
名曲アルバム
「バイオリン協奏曲 鐘」パガニーニ作曲
【バイオリン】木野雅之,【指揮】飯守泰次郎,【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団
🎵
これで何回目か。認めます。パガニーニ、はい、否定はできません。そう言わせられたの心境。実際に聞いてみたかった超絶技巧。
パガニーニの素行については、超有名になり、もてはやされ、パガニーニの財力はどうであったかは分からないが、財力もついているとなれば、周りが放っておかないわけで、人が高慢になり、堕落する条件が揃いやすいわけで、パガニーニが教会に疎まれるようになった責任はパガニーニにのみにあるのかどうか、彼を取り囲む人々の責任である側面もあるのかも。真相は謎。
⛳きょうは一日雨となるのか。「雨ぁふるども」という自作の詩を口ずさんでいた今朝がた。6時50分更新
きょうのことば
先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の講壇をお伝えします。
國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、45年の間、岩手で主のご奉仕をしておられます。

9月15(日)の説教題『聖言の杖と共に歩む』(説教:國光勝美牧師)
聖書引証:イザヤ書46章3,4節
3ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。4胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。4あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。
<説教>
いつものように簡単に前回の復習をいたします。私たちは今年、エペソ人への手紙をベースに学んでおりまして、エペソの2章になりましたけれども、「私たちは神の作品である」ということ。そして、それを第二コリント5章17節「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」を心に留めました。そして私たちは「キリストによって新しく造られた」そういった者ですけれども、しかし、この世に敵対するサタンの巧みな罠が張り巡らされており、新しく造られている神の作品なのに、自分は神様の目から見たのならば、乏しい不十分な者なのだという劣等感、これを私たちは持ちやすい。そして、自分が他の人の目から見ても、不十分な者だという他の人との比較のコンプレックス、そしてまた、それらのものとリンクして、もうこんな者は、といった劣等感、これはまさにサタンの罠であります。私たちは、神の作品である。神様は「あなたは高価で尊い」。人がどういおうと、或いは自分で自分をどう見ようと、神様は、「あなたはわたしの目には高価で尊い」者なのだということを私たちに教えているものであります。私たちは神の作品としてよい行いに励みましょう。それは、神の御心に聞き、そして神の御心に従う事を喜びとするそういう神様の作品でありますように。これが前回のエペソ人への手紙の簡単な大急ぎの復習になります。
きょうはいつものエペソ人への手紙からすこし離れまして、敬老の日の今日に与えられたおことばをご紹介をさせていただきたいと存じます。
いきなりですが、ここに聖言(みことば)を記したカードがございます。この教会の病んでいる方に宛てたメッセージです。ある姉妹が送ってくださいました。
Let the beloved of the Lord
rest secure in Him,
for he shields him all day long,
and the one the Lord loves
rests between His shoulders.
Deuteronomy 33:12
これから困難な治療に立ち向かわれる方へのメッセージです。
教会はプライバシーに関わることは本人の同意なしには、決してお話はしません。それは大切な教会の姿勢であります。教会員だからと言って個人的なことまでぜんぶ話さなければならないことは決してありません。ただ一たび祈祷の依頼があれば、教会は全力を尽くして祈ります。そしてそれは本人の了解を得てから教会の皆様にお祈りの依頼をいたします。それをまず覚えていていただきたいと思います。教会に個人的なことまで公開したからといって、それが信仰的であるとか信仰的でないといったこともありません。あの人はこうだから、この人はこうだからなどと、それが前例として捉えられることではないということも、先ずしっかりと心に留めておいていただきたいということであります。
このメッセージが送られてきましたのは、火曜日でした。いま病んでいる方が、医師から「これは手ごわい治療になりますけれども」といわれたその直後でした。
これは聖書の申命記33章32節の聖言です。有名なモーセという人が書いた文章中にあります。神の人モーセが、その主を前にしてイスラエルを祝福したことばであるとまとめられているのが申命記の33章です。イスラエルには色々な部族があるんですけれども12節、ベニヤミン族について書かれてあるところです。
主に愛されている者。
彼は安らかに主のそばに住まい、
主はいつも彼をかばう。
彼は主の背中に負われる。
恵まれる良いおことばです。主に愛されている。そしてかばってくださる。主におんぶしていただく。「おんぶ」という表現をひさしぶりに発音しながら、私がおんぶされた記憶はいつごろだったかなあと子どもの頃に思いを馳せました。「彼は主の背中に負われる」。そして気づいたことは、これはイザヤ書の中にあることばだったと。それで今日、イザヤ書46章3,4節の聖言を取り上げました。
3ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。4胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。4あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。
きょうはちょうど敬老の日、これを敬老の日のメッセージとして捉えさせていただきました。
きょうは「杖」という説教題でありますが。
デーリー・ライトという日々の聖書のことばが書いてあるものがあります。英語版、日本語版とありまして、「日々の光」と訳されています。私は信仰をもった当時から、英語が得意ではなかったのですが、英語の勉強にもなるということで、英語版を愛用しております。ちょうど12日は八幡平の家庭集会でした。この日のデーリー・ライトは、イザヤ書57章18節「彼の道を見たが、それでも私は彼を癒す」でした。その次を見ますと出エジプト15章26節「私は主、あなたを癒す者だからである。」と書いてある。デーリー・ライトを持ってらっしゃる方はご存知と思いますが、トップテキストが大きくあって、そしてこれに類似した聖書のおことばが幾つかピックアップされています。12日のデーリーライトのいちばん最後はマルコ5章34節でした。
マルコ5章34節「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい」。励まされました。1年365日、1日からずっとのことなので、色々な聖書の箇所はあるんですけれども、よりによってといいますか、いちばん欲しいなあと思うことばが出ておりました。
私たちの教団ではありませんが、心が通じる素晴らしい先生が福井県にいらっしゃいます。去年、富山にいったときにお会いしてきました。その先生にもお祈りをしてくださいと連絡したところ、お返事がきました。「私は家内を胃がんで亡くしています。その時、私が神様に祈ったのは、私はまだ一人で生きて行く準備ができていません。どうぞ、……」というお祈りをしたということでした。そしてくださった聖言が、
ピリピ4章6~7節「4:6何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 4:7そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
私はこれらのおことばを「神の杖」と理解したのです。敬老の日です。あのスフィンクスの謎かけ、世界でいちばん古い謎かけだといわれているようですが。「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足の生き物はなあんだ?」。その答えは「人間」です。赤ん坊の時は4本でハイハイ。立ち上がって大人になり2本足、年老いて杖をついて3本足というわけです。杖が必要になる。
私は山歩きが好きです。そのときに、トレッキング棒っていうんでしょうか、杖を使います。バランスがとりやすく歩きやすい。使いなれることはもちろん必要ですけれども、杖に導かれ、助けられる。これもまたいいなと思います。信仰生活においてちょっと険しい山道、ちょっと踏ん張らねばならないときに、杖を使う。杖があればとても助かります。実際に山歩きをしているものですから一層実感がこもるのですが、この杖、下りるときが大切なんです。下りるときに杖をついて巧く力を分散させながら進む。もし杖のストッパーが壊れたり、ぼきんと折れたりしたら一大事です。調節のストッパーをきちんと締めておかないと、どんとついたときに外れてしまう。杖はじょうぶなもの、確かなものでないとすべての存在を任せることはできない。
こうしてみると世の中には杖がいっぱいありますよね。その杖ってほんとうに大丈夫ですか。本当に確かな、決して折れることがない、確かな杖というものを私たちは聖書の中から見出すことができる。多くの人たちに用いられるおことば、それが励ましになります。先ほどの申命記の33章には、こんなすごい杖があったのを、うっかりしてたよと思わず発見して、ああいいなと思いました。2017新改訳聖書には、「背負う」とありますが、英語では「shoulders」、肩と肩の間にという表現がしてあります。「背負う」、良い表現だなと思います。大きな恵です。
聖書の中の杖と言えば皆さんどんな杖を思い起こしますか。
モーセの杖は凄かった。エジプト王パロの前で数々の奇蹟を繰り広げ、或いは紅海に差し伸べれば海は二つに分かれ、或いはアマレクと戦うときに、神様はモーセにその杖を持って山に上れと命じられ、そしてモーセが手をあげていればあなた方が勝ち、そうでないときにはアマレクが勝つというように、杖が大切な役目をもっておりました。私たちの全存在を支える神の杖が聖書のことばです。私たちは確かな杖をいっぱい与えられています。それをしっかり握る、これが信仰です。どうぞ杖をしっかり握りしめて、与えられている山を越えましょう。どうかすべてを任せられる杖を持って歩かせて頂きたいと思います。
2019/9/20クラシック倶楽部を聴く
牛牛(ニュウニュウ) ピアノ・リサイタル
2019年6月27日 神奈川県立音楽堂
牛牛
1997年中国生まれ。11歳でCDデビューし、国際的な活躍を始める。その後アメリカに留学。2018年にジュリアード音楽院を卒業。TVアニメ「ピアノの森」に登場するキャラクター、パン・ウェイの演奏を担当している。
コメント
牛牛(ニュウニュウ)というニックネームは生まれたときに両親がつけました。中国の暦でうし年に生まれたからです。ジュリアード音楽院には音楽のほか、舞踊と演劇部門もあります。舞踊部門・バレエの学生と友達になりました。どのように身体の動きを考案するのか彼らの話を聞き、演奏するときの手の動きをダンスとして考えるようになりました。コンサートでの演奏では視覚的な要素も大きいと私は考えています。演奏の視覚的な側面により集中するようになりました。自分が弾く曲のもっともドラマティックで激しい瞬間にあっても、心をクリアに保つべきだと気づきました。演劇では役になりきっているときにも常に自分自身を保つことが必要ですから。
曲目
☆「即興曲 第2番 嬰ヘ長調 作品36」ショパン:作曲
☆「即興曲 第3番 変ト長調 作品51」ショパン:作曲
☆「ピアノ・ソナタ 第2番 変ロ短調 作品35」ショパン:作曲
☆「スケルツォ 第3番 嬰ハ短調 作品39」ショパン:作
☆「ウィーンの夜会 第6番(シューベルトによるヴァルス・カプリス)」リスト:作曲~2019
🎵たしかに舞踊の影響ある彼の動き。これがカメラでは捉えかねたのだけれども。ダンサーがピアノに舞い降りてきて弾いている、そんな感じも。第2番のなかの葬送行進曲に、聖母の涙が流れるような響きも。スケルツォ、聴くたびに、作曲家が、繊細で細やかな音を最速でなぜにこのように美しい連なりをもってどこぞから汲みあげられるものかが不思議でならない。
🎧名曲アルバム
交響曲第3番「英雄」ベートーベン作曲
【指揮】大友直人,【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団
⛳🎵以外はみな番組から。7時01 分更新
2019/9/19クラシック倶楽部を聴く
アリス・紗良・オット ピアノ・リサイタル
2018年9月27日東京オペラシティ コンサートホール
ドイツ人の父と日本人の母のもと、ドイツで育ち、幼い頃から数々のピアノコンクールで優勝。活動は音楽のみならずアートの世界にも広がっている。2018~19年にかけて日本とヨーロッパの各地で行われるリサイタルは、「ナイトフォール」というコンセプトで企画された。
コメント
ナイトフォールというのは、日の入りの直後の空がちょっと薄暗いときの光の世界と闇の世界がぶつかりあって混じり合う、一日の中の私はとても好きな時間なんですけどそのことであって、日本語に訳すとけっこう難しいんですけど、「たそがれ」とか「宵の口」とかともいうんですけど、それだと演歌っぽくなってくるので、私は個人的に「逢魔時(おうまがとき)」という言葉が好きなんです。それがナイトフォールという時間です。何なんか前に親友であるピアニストのフランチェスコ・トリスターノとリリースさせてもらって、その時はほんとうに20世紀の頭のパリが舞台なんですけれど、当時アートと音楽の世界で起きた革命がメインであって、当時からけっこうその時代に作曲された音楽家にすごい興味があって、ソロの曲ももうちょっと知りたいなと思って、「夜のガスパール」とか「ベルガマスク」の組曲とかを探っていったんですけど、最初はパリというイメージのプログラムを作ろうかなと思ってたのが、なんか、その曲に取り掛かっている最中に、パリではないなと思って、けっこうほんとうにその光と闇の部分がぶつかり合うので、「ナイトフォール」というタイトルが浮かんできたんですけれども、ほんとうに、まさにその二つの世界がぶつかり合うプログラムで、特にドビュッシーとか「夜のガスパール」、サティでもそうなんですけど。私は、人間にも光の部分と闇の部分、そういった二面性があると思うんですね。ふだんは、何が間違っていて何が正しいのかを判断できても、時と場合によってそれは難しくなってくる。白黒ではない時があると思うんですね。だから人間にもそのナイトフォールの部分があると思うんですけど、音楽でもナイトフォールをお客様に(聞き取れず)っていただいて、同時に自分の中にある二面性を探ってもらいたいです。
曲目
☆「夢」ドビュッシー:作曲
☆「グノシエンヌ第1番」サティー:作曲
☆「ジムノペディ第1番」サティー:作曲
☆「グノシエンヌ第3番」サティー:作曲
☆「夜のガスパール」ラヴェル:作曲
☆「亡き王女のためのパヴァーヌ」ラヴェル:作曲
🎵この方について、飛び交うブラボーの熱烈さに、もう何もかたることはないというほど。彼女自身が芸術。コメントを聞いてから聴いたところ、知ってる、これももう知ってるの曲にさらに人間の負の部分が描き出され浄化された音の世界が現れてくれた。「逢魔時(おうまがとき)」、こんなことば、ほんとうにあったかなと検索したところ、出て来ました。魔がひたひたとが忍び寄り、寄り添い、ささやきかけてくる、そんな、なにか美しく恐ろし気な感じも。
🎧名曲アルバム
「ホルベアの時代から」グリーグ
【指揮】円光寺雅彦,【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団
⛳大急ぎで6時55分更新。それにしても朝はさすがに涼しくなったなと。
2019/9/18クラシック倶楽部を聴く
原田英代 ピアノ・リサイタル さすらい
2017年3月3日ハクジュホール
原田英代
東京芸術大学大学院修了後、ウィーン、モスクワへと渡り、ロシアピアノ界の重鎮ヴィクトル・メルジャーノフのもとで研鑽を積む。1984年ジュネーブ国際音楽コンクールで最高位入賞。以来長年にわたり、ロシアやドイツ音楽に力を注いできた。腕や上半身を用いるロシアの伝統的な奏法を受け継いでおり、ロシアピアニズムの貴重な継承者という評価も得ている。現在はベルリンを拠点に活動、国際コンクールの審査員や教育活動にも力を注ぐ。今回(2017)の演奏会は日本で行うリサイタルシリーズの一回目にあたり、「さすらい」をテーマにプログラムが組まれた。
コメント
結局、人生ってずっとさすらいだろうと思うんです。こうしたいと目的があっても目的地に着くまでにどういう道を通るかがもう一寸先もわからない、そういう意味では人間一人ひとりがいつもさすらっている。ですから全体のいちばん最初に「さすらい」をテーマにあげました。
シューベルトは、さすらうことに喜びを感じている。「美しき水車小屋の娘」の一曲目のあの感覚なんです「さすらい幻想曲」というのは。もうほんとうに喜びに満ちてさすらいを始めるというはなしですね。
結局、今回「さすらい」なので、変奏形式になってしまったんです。自分というものが毎日まいにち変わっていくじゃないですか。さすらおうがさすらうまいが。それをやはり変奏という形がものすごくだしてくれる。ほんとうに人間の頭というのは毎秒毎秒くだらないことも含めてほんとうに考えますね、それがやはり変奏だとおもうんですよ。変奏曲の醍醐味としたらそういうふうに変化があるということを見つけていくのが楽しいんですけど、これ曲として一つにまとめるというのはとても難しい。その場その場で聴いているときにはわからないけれども最後まで聴き終えたときに何かが見えてくる。そういうふうに作るのが大変かなと思います。
曲目
☆「幻想曲 ハ長調 作品15 「さすらい人」」シューベルト:作曲
交響曲「未完成」や「ミサ曲第5番」と同時期の25歳の作曲。第2楽章に歌曲「さすらい」の旋律を用いていることからその名がつく。シューベルトのピアノ曲の中でも高い演奏技術を必要とする難曲。
☆「コレッリの主題による変奏曲 作品42」ラフマニノフ:作曲
コレッリのバイオリン作品「フォリア」の旋律を用いたラフマニノフ最後のピアノ独奏曲。物悲しい主題が多彩に変化し、20の変奏曲が展開。ラフマニノフの才能を凝縮した作品。
☆「前奏曲 ト長調 作品32第5」ラフマニノフ:作曲
☆「「四季」から「六月 舟歌」」チャイコフスキー:作曲
🎵楽曲からの的確な引き出しで総体をこころに残してくれる。ロシアピアニズムの継承者であることに納得。
🎧名曲アルバム
「ボレロ」ラヴェル作曲
【指揮】渡邊一正,【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団
🎵メトロノーム支配感覚のあの単純なリズム、どこまでも飽きさせずに人に聴かせてしまうすごい作曲家。
⛳7時から書き始め、7時54分更新
2019/9/17クラシック倶楽部を聴く
ミシェル・ダルベルト ピアノ・リサイタル
2018年11月1日 浜離宮朝日ホール
ミシェル・ダルベルト
1955年パリ生まれ。12歳からパリ国立高等音楽院でアルフレッド・コルトーの愛弟子であるブラド・ペルルミテールにピアノを学ぶ。1975年クララ・ハスキルピアノ・コンクール優勝。1978年リーズ国際ピアノ・コンクール優勝。シューベルトのピアノ・ソナタ全集のほか、数々の名録音を残す。力強いタッチから、深く輝くような音色を奏で、現代を代表する巨匠として世界中から賞賛を集める。
コメント
今回のリサイタルのテーマについて
このリサイタルはフランクとドビュッシーを軸に構成しています。西洋音楽史はドビュッシー以前と以降に分けられると言っても過言ではありません。ドビュッシーは作曲の初期から、それまでと全く異なる音楽を目指したのです。一方のフランクの視線は、過去の時代へ向いています。バッハやそれ以前にまでさかのぼる音楽です。当時のフランスではフランクを父とあがめ、古い音楽を解雇する作曲家たちがいて、一方ではドビュッシーを新時代の旗手にすえた急進的で未来志向の作曲家がいました。こうした19世紀後半から20世紀前半にかけてのフランスの音楽の潮流を紹介したかったのです。
ドビュッシーの作品について
ドビュッシーは昔から演奏していますが、集中的に弾いてはいませんでした。それが15年ほど前から頻繁に取り上げるようになりました。ドビュッシーの楽譜を見ていると、ある「言葉」が繰り返し記されていることに気づきます。柔軟性を求める「ルバート」で、どの作品にも共通して求められる表現です。学生にはよく「ドビュッシートラヴェルを同じように弾かないで」と注意しています。柔軟な「ルバート」を求めるのがドビュッシーの音楽で、ラヴェルはメトロノームのような厳格な拍を求める作曲家です。ドビュッシーを弾くうえで大切なのは響きに対する豊かな想像力です。ドビュッシーは「空想」で曲を書く作曲家だからです。彼の作品には題名を持つものが多いですが、どれも漠然としたものばかりです。あくまでイメージにすぎず、異なるアイデアで弾いてもいい「ご自由に」という感じです。ですからドビュッシーを弾くときは想像力を膨らませることです。
楽曲
☆「前奏曲、コラールとフーガ」フランク:作曲
フランクは技巧派のピアニストとしてキャリアをスタートし、20代後半からは教会のオルガン奏者を長く務めた。作品を通してフーガの主題が循環し、終結部では曲を構成するテーマが同時に鳴らされ荘厳な響きをつくる。
☆「「ベルガマスク組曲」から 月の光」ドビュッシー:作曲
「ベルガマスク組曲」はドビュッシーが28歳となる1890年頃に着手され1905年に出版された。「月の光」はこの組曲の第3曲にあたり、単独で演奏される機会も多い。この作品でドビュッシーは、きらめく月光のイメージを甘美な旋律と色彩豊かな和声で見事に描き出している。
☆「こどもの領分」ドビュッシー:作曲
この作品はドビュッシーが46歳になる1908年に完成し、当時まだ3歳だった愛娘エマに捧げられた。大人の視点でとらえた子どもの世界をドビュッシーは愛情深くユーモアを交えて描いている。
☆「前奏曲 嬰ハ短調 作品45 (アンコール)」ショパン:作曲
🎵きのうのラフマニノフ1番、捉えどころが…と書いたのだが、そのあとレコーダーに録り置いたものを聴き返したところ、随所にこれぞラフマニノフが現れており、どうやら自分の耳の方に問題が。その時々によって聴く態勢がどうあるかにもよると。
きょうのダルベルト、これも以前聴いたもの。価ある映像の一つであると。ドビュッシーの繊細で微妙な表現、同じ指でもこのように奏することができる不思議。この「月の光」はいまにも壊れそうな薄いガラスに色彩が流れ浮かびあらわれしているのだが、永遠に朽ちないだろう確かさが。
🎧名曲アルバム
「未完成交響曲」シューベルト
【管弦楽】NHK交響楽団,【指揮】飯守泰次郎
シューベルトの死後40年経って発見された「未完成交響曲」の楽譜。
⛳きょうは見終えて、先ずは6時に朝食を摂り、6時40分ごろから筆記。これで朝食を出さねばという拘束感に追われずに済む。写真がうまくいかないままアップ。8時4分更新
2019/9/16クラシック倶楽部を聴く
アレクセイ・ヴォロディン ピアノ・リサイタル
2016年11月浜離宮朝日ホール 収録
アレクセイ・ヴォロディン
1977年ロシア、レニングラード生まれ。グネイシー音楽大学とモスクワ音楽院で研鑽を積む。2003年スイスのゲイターアンダーコンクールで優勝。優れた技巧で繊細な音楽を導き出す演奏は高く評価され、世界的なオーケストラと共演を重ねる。
楽曲
☆「夏の夜の夢の音楽から スケルツォ」メンデルスゾーン:作曲、ラフマニノフ:編曲
☆「おとぎ話 作品35から 第4曲 嬰ハ短調」メトネル:作曲
☆「ピアノ・ソナタ 第1番 ニ短調 作品28」ラフマニノフ:作曲
☆「13の前奏曲 作品32第12」ラフマニノフ:作曲
☆「10の小品 作品12から 第10曲」プロコフィエフ:作曲
🎵2016年の録画。生演奏はじっくりとした味わいがあるがその場で消えてしまう。録画は年月を経ても損なわれるところがない。前にも何か書いたような気もする。ラフマニノフの1番が捉えどころなく感じられ、聞き流しであったかもしれない。しかし思えば、あえてこのような曲を演奏するピアニストに演奏家気質といったものを感じる。今回、自分にはメトネルや最後の2曲が分かりやすかった。
🎧名曲アルバム「セビリアの理髪師」
映像はスペインの春祭り。1週間に400万人が来るという。この「フェリア」のためにおしゃれする人々に腕を振るう理髪師のすがたや、テント「カセータ」で飲み踊りあかす人々のすがたが。
⛳カメラ不調、ブログ不調で記事未完成のまま更新。6時42分。
きょうのことば
今週のインマヌエル盛岡キリスト教会の講壇をお伝えします。
國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、45年もの間、岩手で主のご奉仕をしておられます。
9月8(日)の説教題『私たちは神の作品』(説教:國光勝美牧師)
聖書引証:エペソ人への手紙2章4~10節です
2:4しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、 2:5背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。2:6神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。 2:7それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来るべき世々に示すためでした。2:8この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。 2:9行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 2:10実に、私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをあらかじめ備えてくださいました。
<説教>
エペソ書2章に入りまして、最初の部分1節には「あなた方は自分の背きと罪の中に死んでいたものである」とあります。「死んでいる」ということばの意味しているもの、それは聖書のいっている「いのちの死」というものの正しい理解が必要であります。これは神様との交わりというものが途絶えている状態、神との交わりが絶たれ分離されている状態のことです。「かつてはあなた方もそうであった」ことを確認をいたしました。
それから第2節になりますけれども、「かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い」、つまり、世の流れに流されていたということであります。そして「空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊」、これはサタンと私たちが理解し呼んでいるところのものであります。地上におけるこの世の中の権威を持っているサタンの流れに流されていた。
メダカの画像をご覧にいれましたが、流れに生きるメダカなのですが、これが死んでいるのなら流されます。けれども、盛岡にも鮭の遡上が見られますが、生きております。どんなに激しい流れでも、よくニュースなどでも、北海道の鮭の遡上、すさまじい滝のようなところでさえのぼっていく場面を見たことがありますけれども、生きているのならば、それらのものに逆らって泳ぐことができます。けれども私たちはかつては、みんな世の中の流行、考え方、或いは哲学、価値観そういったものに流されて、他の人たちと同じように生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。生まれながら御怒りを受けるべき子、これはオギャーとこの世に誕生したときから、アダムの末である私たちは罪のゆえに神との交わりが絶たれて、そして、霊的に死んだものとなっている、このように聖書はいっております。
ここで4節、5節、6節というところに目を向けますと、それをよく理解するために、神様は、世の中の流れに従って生きている私たち罪びとに対する容赦ない徹底的な罰を下しなさいます。イエス・キリストの十字架は、これがただ罪というものの思想上のできごとではなく、観念の問題ではなく、神に対して背いて歩んで死んでいる私たちの罪を、神様がどれほど忌み嫌い処罰されるのかということ。キリストの十字架は、罪に対する神様の容赦ない徹底的な裁きであるという面がある。そのことをどうぞ心に留めたいと思うのであります。それを先ずしっかり理解したうえで、このキリストの十字架というものの持つ2面性といったらいいのでしょうか、同じものを表と裏から見たときには違っている。それをお話しいたします。
一つは十字架というのは、神様の罪に対する妥協のない徹底的な処罰です。それゆえにキリストは罪というものをぜんぶその身に背負ってくださったということは、またそれを同じものを裏から見ますと、それ故に神様の私たちの罪に対する無尽蔵で徹底的な赦しがここにある。キリストの十字架にこそ、罪に関わる一切がことごとく解決しているということ、これを前回、見たことであります。そして、このことが5節「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。」。そして8節「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です」にあるわけです。
ここに大切な福音の真理、恵み、信仰、賜物が出てまいります。私たちは信仰によって救われる。特にプロテスタントの私たちは、よきわざによって救われるのではなく、ただ神の恵みと憐れみのゆえに信仰によって救われるといいます。それを意識するために、微妙な表現をするのですが、私たちは恵みによって救われるのでしょうか。私たちは信仰によって救われるのでしょうか。えっ? とお思いになったかもしれません。聖書は両方いっていますね。恵みによって救われる、或いは、私たちは信仰によって救われる。いったいこれはどう理解をしたらいいのか、そのところにきょうはすこしメスを入れていきたいと思っております。
キリストの十字架の救いは神様の恵である。そして私たちはそれを信仰の手によって受ける。賜物を受けるということでありまして、相応しくない者、価値のない者に無代価で与える神の愛の賜物なのです。このような恵み、或いは賜物とは何か。
賜物とは何かを定義するのならば、相応しくない者、価値のない者に無代価で与えられる神の愛の賜物、もう皆さんこれがキリストの十字架の救いであることは理解していただけるだろうと思います。
ここで思い出しますが、神学生のときのことですが、こういう聖書にある大切な真理を神学者たちが、神学という一つの学問領域の中で、賜物とは何かという定義をしていました。その中の「賜物とは」がこのように定義されているわけであります。どうでしょう、私たちはこれに受けるに値する者だったでしょうか。生まれながら神の怒りの子であったはずなのに、まったく相応しくない受くるに値しないそんな者に無代価で与えられる神の賜物。これを私たちは、信仰によって受け取る。信仰というものは、まずこれを受け止める。それからもう一つ、別の表現をするならば握りしめる。受け止めてしっかりと自分のものに握りしめる行為、これが信仰なのです。
さて皆さん、先ほど私は、私たちが救われるときに、恵みによって救われるのでしょうか、信仰によって救われるのでしょうかと訊きましたが、この質問自体誤っている。同列のものではないのです。恵みというものと、信仰というものと同列であってどっちによって救われるのですかということではない。もうこれは、恵みによって救われるに違いないのです。私たちは、恵みによってのみ救われる。で、その恵みをどのようにして自分に引き受けるか、これは条件ですね。どういうようにしたらいいのかということで、受け止めてそれを握りしめることによってそれが自分のものになる。救いはもう一方的に神様の恵なのです。それをどのようにしてよりはっきりと理解できるだろうかと、このようなイラストを探し出しました。
溺れている人がいます。助けようと長い棒を差し伸べて「さあ、これに掴まりなさい」、或いは、錘をつけたバケツにロープをつないで、それが目的のところに届くように、どこかにこんな図が無いかなと思い水難救助と検索してみますと出てきましたので、そこから拝借しました。絵そのものは、溺れている人を見たら周りの人はどうしたらいいのかという水難救助の絵ですけれども。これをきょうのお話しに使わせていただいたらどうだろうかと思ったわけです。
助けようとしている人たちがいる。それで私たちは救われることができる。罪の中に溺れ死んでいる私たちを何とかして救ってあげたいと願われる神様がいらっしゃる。イラストの中で溺れているこの人が、もし、この棒を握る必要がないと思っているとすれば、自分の現状が分かっていない人です。自分が罪に溺れている状態にある現状を示し分からせてくださるのは聖霊様なのです。罪がほんとうにわかる。だから世の中の人と同じように罪の快楽、世の中の価値観の中にあるのは、この状態である事を知らないで、ただただいるだけ。しかし、自分がこういう状態であるということに気がついて、しかも気が付かせてくださった聖霊様が、実はイエス・キリストの十字架、これがあなたのために神様が投げてくださった救いの恵なのですが、ではどうしますか。あなた方は恵みにより信仰によって救われた、これはもう握りしめる以外にないじゃありませんか。これこそ極めて自然なことなのです。
8節をご覧ください。
「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です」
救ってくれるのが当然だというような、受ける何の価値もない怒りの子、このまま滅んでしまって当然の者なのに。ほんとうにそれに気がついて、そして、このお方を見あげ、信じた者が私たちだということに納得していただけましたでしょうか。
そして10節「実に、私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです」
もちろん、この神の作品である私たちというときに、創世記に書いてあるアダムとエバが神によって造られた、この人間の創造から神の作品であるとイメージするのは自然なのですが、しかし、ここでいっているのは、私たちは神の作品であるというときに、これはアダムとエバの創造における神の作品というのではなくして、実に、この第二コリントの5章の17節、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」。このことを意識して10節「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られた」もの、「古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなった」。このようにいうことができます。
私たちが神の作品であるというときに、サタンの巧妙な罠があると申し上げたい。それは私たちが神の作品であるということを理解してもらいたくないこの世のサタンが私たちにコンプレックス、劣等感を投げ込んでくる。キリスト・イエスにあって新しく造られたはずの私たちなんですけれども、悪魔は私たちにコンプレックスを与え惑わし、罠を投げかけてきます。
先ず第一に、私のようなものは神様の目から見たなら不十分、それはそうですよね、ほんとうに私たちそう思いますよね、神の目から見たら。だから私のような神の作品といってももう神様の失敗作ですといいたくなるような。私は立派な者ですといわず、私は不十分な者ですといえば、それはいかにも謙遜にも見えるでしょう。サタンはそのような謙遜という衣でよそわせながら、自信のない者の心にささやく。そうだよ、あなたが神の作品だなんてそんなこと、神に似るなんてあなたはそんな者じゃない。そうだ、他の人から見たって私のようなものは不十分。神の作品であるはずの私たちなのですが、他の人が見ても私は不十分な者、とても神の作品なんかじゃない。そして、自分で見ても私はダメなものなんだ。私たちは神の作品であると10節の中で知っており、主イエス・キリストにあって救われているのに、それをサタンが何とか私たちに惑わしの罠をもって、いやいやそんなこといったって、と劣等感を与えようとしています。
自分を卑下しているあなた、どうかイザヤ43章4節をご覧ください。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」
聖書にはこうあるのです。
神さまの作品である、ややもすると私たちはサタンの惑わしで、自分のような者は、とその価値を見失ってはいませんか。しかし神様は仰います。
イザヤ43章3節「わたしはあなたの神、主、イスラエルの聖なるもの、あなたの救い主であるからだ。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする」
いったいどういうことでしょうか。エジプトは今もその国は存在しておりますけれども、当時に遡りますと、エジプトは世界の超大国でした。ローマもまだない。世界で最も栄えている国はエジプトでした。そして「クシュとセバ」について聖書の欄外を見ますと「エチオピア」とございます。エジプトのすぐ南の方で、世界の富、繁栄がそこに集約されていました。つまりこの表現でいうならば、世界中のぜんぶの繁栄を富を身代金としていいほどに、あなたの代わりとしてもいいほどに、わたしはそれほどにあなたを愛していますよということなのです。
イザヤ書43章4節の最後のところに「だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりとする」。「それほどにわたしの目にはあなたは高価で尊いものなんですよ」と神様は仰るのです。
ちょっと考えますと、イザヤの41章14節、ここに同じ神様が「恐れるな。虫けらのヤコブ、わたしがあなたを助ける」とあります。さっきは、「わたしの目にはあなたは高価で尊い」といわれておりました。同じ神様が、「恐れるな。虫けらのヤコブ」「あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。」15節「見よ。わたしはあなたを鋭く新しい両刃の脱穀機とする」。「あなたを新しく造り変える」こういっているわけです。第二コリント5章17節「だれでもキリストイエスにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」と確認させていただきましたけれども、私たちは虫けらのような小さな、ほんとうに神の怒りの子どもであった者でも神様に造り変えられる。新しくされる、こう約束されている。何とすばらしい恵みでありましょうか。そして最後にこのエペソ2章10節に返りますが、「実に、私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです」とあります。
よい行いとは何でしょうか。これも表面的に見るのならば、功徳をするといえばわかりやすいような気がしてしまう。善行に励む、良いことを一生懸命に行う。このようなことのためにあなた方を新しく造られたのだと理解をすると、ちょっとここは前後の脈絡からすればそうではないと気が付かねばなりません。
詩篇40篇の7節、8節。ここは、イエス様がこの世に人としていらっしゃるときに、天における父なる神様との三位一体の神様のやりとりが何かすこし垣間見させていただける場面でありますが。
7節「そのとき、わたしは申し上げました」。これはイエス様がまだ受肉前の三位一体の第二位格なるお方として父なる神様に申し上げているのですが。
「今、私はここに来ております。巻物の書に私のことが書いてあります。わが神よ私はあなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは私の心の内にあります」
よい行いとは、神様のみこころに従うこと、みこころを聞いて、そして従うことです。イエス様がそうであったように私たちも神様のみこころに従いましょう。これ以外によいものはない。
エペソの2章になりますけれども、よいわざに熱心な神の民となるということは、神のみこころに聞き、それに従うものである。そして、私はこんなに神様に愛されている者なのだということを心に留めて歩ませていただきたいと願うことです。
⛳説教は私が礼拝でICレコーダーに録り起しています。写真も私が礼拝で撮り任意で掲載しています。イラストは教会からお借りしました。日曜礼拝を休んだ日には、教会から記録を送信いただいております。もっとも欠席は年に1,2回。冠婚葬祭が理由、直近では賢治の会(現在会員ではありません)の碑巡りに参加のため1日だけお休みいたしました。きょうは約6000字のアップです。
2019/9/13クラシック倶楽部を聴く
アンドレアス・シュタイアー チェンバロ・リサイタル
(チェンバロ)アンドレアス・シュタイアー
2018年12月20日いずみホール(大阪市)で収録
アンドレアス・シュタイアー
1955年ドイツ生まれ。フォルテピアノとチェンバロのスペシャリストとして世界的に活躍。
今回のプログラムはバッハの平均律クラヴィーア曲集を軸にバッハに影響を与えた多彩な作曲家を織り交ぜて構成されている。最初はバッハよりも100年以上前に生まれたジョンブル。次にオランダの作曲家スウェーリンク。半音階で下降していく主題がバッハのイ短調の前奏曲に共通している。次はバッハより17歳年上のフランソワ・クープラン。フランスで一時代を築いた彼の作品からバッハは華やかな装飾音の技法を学ぶ。続いてドイツの作曲家フローベルガー。ヨーロッパ各地の様式を融合させ、バロック音楽の礎を築く。自らの死を予感して作られた瞑想曲には、印象的な半音階の音型が使われている。
楽曲
☆「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ」ジョン・ブル:作曲
☆「半音階的幻想曲 SwWV258」スウェーリンク:作曲
☆「平均律クラヴィーア曲集 第2巻から第20番 イ短調 BWV889」バッハ:作曲
☆「クラヴサン曲集 第2巻 第8組曲から「ラファエル」」クープラン:作曲
☆「クラヴサン曲集 第2巻 第8組曲から「ガヴォット」」クープラン:作曲
☆「平均律クラヴィーア曲集 第2巻から第13番 嬰ヘ長調 BWV882」バッハ:作曲
☆「トッカータ 第2番 ニ短調 FbWV102」フローベルガー:作曲
☆「組曲 第20番 FbWV611aから「瞑想~来るべき我が死を思って~」」フローベルガー:作曲
☆「平均律クラヴィーア曲集 第1巻から第24番 ロ短調 BWV869」バッハ:作曲
🎵ここのところ、すばらしい演奏続き、きのうも何も書かなかったけれども、心の滋養が詰まっている感じだった。きょうはまた音楽学者の演奏を聴いたという感じが。この短時間で書き表せるものでもないし、少なくともあと4、5回は聴いてみなければわからないという気も。そのうち再放送、再々放送もあるだろう。バッハ以前の作曲家が、バッハにどのような影響を与えたかを解説を交えての演奏だ。特に興味深かったのは、フランスのクープランがバッハに与えた点。バッハの嬰へ長調にはクープランと同じ付点のリズムが出てくる、またフーガにはクープランのガヴォットの典型的なリズムが出てくるといったあたり。バッハの旋律の華やかさはこんなところにあったのかと。またドイツのフローベルガーはバロック様式組曲を完成させた作曲家のようだが、フローベルガーの半音階の音型にあらわされる苦しみ悲哀がバッハのきょうの最後の曲第24番ロ短調にあらわれ、これは平均律クラヴィーア曲集 第1巻の極めつけであるということだ。バッハの作曲に結果的に貢献したといえる先達を知ることができた。
2019/9/12クラシック倶楽部を聴く
リナ・トゥール・ボネ&ムジカ・アルケミカ 演奏会
バロック期の作曲家ビーバーの大作「ロザリオのソナタ集」から2夜にわたる全曲演奏会の一日目の抜粋。
2018年4月9日 武蔵野市民文化会館 小ホール
リナ・トゥール・ボネ
スペイン、イヴィサト生まれ。父の手ほどきで3歳から音楽を始め、フライブルク大学、ウィーン大学で学ぶ。バロックから現代にいたるまで幅広いレパートリー。多くの著名な演奏家と共演。現在めざましい活躍を見せる。またリナ・トゥール・ボネは新しい表現の形を求めてアンサンブル「ムジカ・アルケミカ」を設立。人形劇や詩人といったほかのジャンルとの共演を通して音楽の可能性を追求し続けている。「ムジカ・アルケミカ」は曲によって演奏者が変わるフレキシブルなアンサンブル。きょうは5人のメンバーが演奏。
曲は聖母マリアの秘蹟を題材にしたソナタは第1曲と終曲を除くすべてが異なるスコルダトゥーラ、変則調弦で書かれた作品。
リナ・トゥール・ボネのコメント
スコルダトゥーラについて
スコルダトゥーラとは、あえて調子を外してバイオリンを調弦することです。きょうは4丁のバイオリンを使い分けて演奏します。一つの曲が終わるたびに調弦を変えることで、いろいろな音をだすことができます。
前半の曲について
まず天使が翼をはばたかせて入ってきて聖母マリアの胎内にキリストが宿っていることを告げます。ソナタ第3番はキリストの降誕です。暗いハーモニーの中で輝き鳴り響くようなスコルダトゥーラに調弦され、まるで全体が暗い中かごの中の幼児のみが輝いているバロック様式の絵画のような印象をこの響きの中で聴くことができます。第4番はキリストの神殿での拝謁です。神殿を訪れたキリストは、これから困難な運命をたどると告げられ、聖母マリアは心臓を突き刺されることになるといわれる場面です。辛く悲しい雰囲気を持った美しいソナタです。
☆「ロザリオのソナタから 第1番 受胎告知」ビーバー:作曲
(バロック・バイオリン)リナ・トゥール・ボネ、(テオルボ)トーマス・ボイゼン、(ヴィオラ・ダ・ガンバ)パトヒ・モンテーロ、(ハープ)西山まりえ、(オルガン)ユージン・ミケランジェリ、(チェンバロ)アンヌ・マリー・ドラゴジッツ
☆「ロザリオのソナタから 第3番 降誕」ビーバー:作曲
(バロック・バイオリン)リナ・トゥール・ボネ、(ハープ)西山まりえ
☆「ロザリオのソナタから 第4番 拝謁」ビーバー:作曲
(バロック・バイオリン)リナ・トゥール・ボネ、(テオルボ)トーマス・ボイゼン、(ヴィオラ・ダ・ガンバ)パトヒ・モンテーロ、(ハープ)西山まりえ、(オルガン)ユージン・ミケランジェリ、(チェンバロ)アンヌ・マリー・ドラゴジッツ
☆「ロザリオのソナタから 第6番 オリーブの山での苦しみ」ビーバー:作曲
(バロック・バイオリン)リナ・トゥール・ボネ、(テオルボ)トーマス・ボイゼン
☆「ロザリオのソナタから 第7番 鞭打ち」ビーバー:作曲
(バロック・バイオリン)リナ・トゥール・ボネ、(テオルボ)トーマス・ボイゼン、(ヴィオラ・ダ・ガンバ)パトヒ・モンテーロ、(チェンバロ)アンヌ・マリー・ドラゴジッツ
☆「ロザリオのソナタから 第8番 茨の冠」ビーバー:作曲
(バロック・バイオリン)リナ・トゥール・ボネ、(テオルボ)トーマス・ボイゼン、(ヴィオラ・ダ・ガンバ)パトヒ・モンテーロ、(オルガン)ユージン・ミケランジェリ、(チェンバロ)アンヌ・マリー・ドラゴジッツ
🎵
🎧名曲アルバム
「このすばらしき世界」
【歌手】福島康之,【コーラス】前田比呂実,日野しおん,村上勧次朗,土居康宏,【指揮】角田鋼亮,【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団
少年院で音楽と出会い、60を過ぎて豊かで平和な温みで世界を包んだジョージ・デヴィット・ワイスと、ジョージ・ダグラスの作曲。
⛳大急ぎで7時7分 更新
2019/9/11クラシック倶楽部を聴く
ジャン・ロンドー チェンバロ・リサイタル
2017年4月10日 東京文化会館小ホール
ジャン・ロンドー
1991年フランス生まれ。幼い頃ラジオで聴いたチェンバロの音に魅せられ、6歳からこの楽器に親しむようになる。パリ国立高等音楽院、ロンドンのギルドホール音楽演劇学校などで研鑽を積む。ブルージュ国際古楽コンクール、チェンバロ部門第一位。やプラハの春国際音楽コンクール、チェンバロ部門第2位。期待のチェンバロ奏者として世界各地で演奏活動を行う。またロンドーはピアノでジャズの即興演奏を行うなど、枠にとらわれない活動も注目を集めている。自由で瑞々しい音楽が多くのファンの心をとらえている。
コメント
チェンバロの魅力について
チェンバロを「うまく歌わせる」ためには、繊細さが必要です。この楽器は、いちど鍵盤を押してしまったら音をコントロールすることができません。鍵盤に触れる前後の一瞬の音の切れ目が演奏の鍵を握るのです。ほとんど気づかれることのない音の切れ目、無音の瞬間によって繊細な響きが生まれるのです。「大きな波の中の一滴の水音を聴くようなもの」といえるかもしれません。繊細な感覚に訴える響きがまさにチェンバロの魅力だといえます。音のない一瞬がチェンバロの「歌」を奏でるのです。音楽をより深く考える過程でわかったことです。音楽は音のないところに生まれるのです。
「ゴールドベルク変奏曲」を選曲した理由
特別なことを語る必要がないほどすばらしく崇高な作品です。作品のもつ神秘的な世界が大きな音楽探求の源を与えてくれます。ことばでは語りつくせない神秘がこの作品にはあります。私たちの感覚を超えた何かがあり、そこに心躍らされるのでしょう。
「ゴールトベルク変奏曲 BWV988から」バッハ:作曲
曲名は「ゴールドベルク」というチェンバロ奏者が不眠の伯爵のために依頼し演奏したという逸話による。
🎵ぽたりと水の中に落ちるもの。次つぎに落ちていく。海底への沈殿、沈着を一音一音確かめていくかのような魅力あふれるプレリュード。透明な水面下から陽光のゆらめきを静かに眺め楽しむかのようなアリア。そして波間に自由闊達に乱舞する変奏へと。変奏曲15でそれが息を沈めるかにおさまりゆく。すばらしい。ジャン・ロンドーのゴールドベルク、陰影、音への憶測をも伴い変幻する。
🎧名曲アルバム
「フルートとハープのための協奏曲」モーツァルト作曲
【フルート】吉岡アカリ,【ハープ】田島緑,【指揮】沼尻竜典,【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団
1778年3月22歳の青年モーツァルト、パリへ。音楽愛好家ド・ギーヌ公の依頼で作曲。公はフルート、娘はハープをたしなんでいた。同行していたモーツァルトの母は体調を崩し、7月にこの地で亡くなる。以後、モーツァルトがパリを訪れることはなかった。
モーツァルトのお母さんが眠る寺院であったか、何という名であったか? 見落とし。
⛳6時55分更新
2019/9/10クラシック倶楽部を聴く
クリストフ・コワン アルペジョーネを弾く
(アルペジョーネ)クリストフ・コワン、(フォルテピアノ)金子 陽子、(バイオリン)ジェローム・アコカ
2018年4月19日 武蔵野市民文化会館 小ホール
☆「アルペジョーネ・ソナタ イ短調 D.821」シューベルト:作曲
(アルペジョーネ)クリストフ・コワン、(フォルテピアノ)金子 陽子
☆「バイオリン・ソナタ イ長調 D.574」シューベルト:作曲
(バイオリン)ジェローム・アコカ、(フォルテピアノ)金子 陽子
🎵
コワンは、アルペジョーネが哀愁と神秘性であると。19世紀半ばミュンヘンで製作されたらしい。シューベルトは1824年、27歳のとき、ちょうど開発されたばかりのアルペジョーネのためにソナタ、イ短調を作曲。音がストイックに聴こえた部分もあるけれども、情感豊かな激しさが輻輳するところでは引き込まれた。アコカが古楽器を説明。フォルテピアノは金属製のフレームを持たない。弦楽器はガット弦も弓もその時代に合ったものを使用する。弦は強い照明が当たっただけでも音程が変わるという。温度変化に弱いのだろう。「バイオリン・ソナタ イ長調 D.574」はシュベルト20歳の作品。歌心にあふれている。繊細な音に絹の光沢のようなはかなげな艶やかさが。
🎧名曲アルバム
「セビリアの理髪師」ロッシーニ作曲
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団,【指揮】角田鋼亮
⛳聴き落したアコカのプロフィール、適切なものをウェブに見つけかねたまま 6時41分 更新
2019/9/9クラシック倶楽部を聴く
ピエール・アンタイ&スキップ・センペ 目黒雅叙園
(チェンバロ)ピエール・アンタイ、(チェンバロ)スキップ・センペ
2017年12月5日 目黒雅叙園
ラモー作曲、アンタイ&センペ:編曲
☆「2台のチェンバロのためのシンフォニー」
☆「歌劇「優雅なインドの国々」から序曲」
☆「歌劇「優雅なインドの国々」から ロンド形式のミュゼット」
☆「歌劇「優雅なインドの国々」から メヌエット」
☆「歌劇「優雅なインドの国々」から タンブーラン」
☆「歌劇「優雅なインドの国々」から ポーランド人のエール」
☆「歌劇「優雅なインドの国々」から アフリカの奴隷たちのエール」
☆「歌劇「プラテー」から ミュゼット」
☆「歌劇「ダルタニュス」から シャコンヌ」
☆「歌劇「ピグマリオン」から 序曲」
☆「歌劇「イポリットとアリシー」から メヌエット」
☆「コンセール用クラヴサン曲集から 挑発的な女」
☆「歌劇「プラテー」から ヴィエル風のメヌエット」
☆「歌劇「優雅なインドの国々」から 未開人」
☆「歌劇「ダルタニュス」から 前奏曲」
☆「歌劇「優雅なインドの国々」から シャコンヌ」
☆「歌劇「ダルタニュス」から タンブーラン」
🎵きのうの暑さでダウン。ついでにカメラを貸し出したことで記録モードもダウン。番組予告も見ておらず、きょうは聴かなくても、と思いつつも一応TV、オンしたところ、これがすばらしかった。現代を代表するチェンバロ奏者のデュオ。伝統をつたえることこそ現代の芸術、メトロノームが音楽が本来もっていたリズムを破壊したと語っていた。それぞれに個性的なふたりは30年前にデュオを組む。驚かれたらしい。雅叙園は昭和6年に料亭として開業。内部は江戸時代を象徴する装飾に満ちている。この美とバロック音楽とのコラボというわけだ。
演奏、いま何を弾いているかというよりも、一連の演奏が、海の波間にあって次つぎに100景を見せられているようなすばらしさだった。岩に打ちあたる波、ざんざんとリズムを刻んで砂をたたく音。遠景に傾く午後の光の屈折。波間にちりばめられ煌めく宝石の砂。環境も演奏になにがしかの情感をもたらすというけれども、この音色に雅叙園の豪華さが溶けていたかどうかは判然としないけれども、チェンバロは音の切れ消えが速いにも関わらず、それが露わになるところのない連続した響きがすばらしかった。4本の手のいまどの手が鍵盤をたたき、はじき、いまどの手が空にあって鍵にどのように舞い降りていくかを見るのも楽しかった。
ついでにジークリフトの葬送も厳かなる悲哀が何とも!
🎧名曲アルバム
「ジークリフトの葬送行進曲」ワーグナー作曲
【指揮】飯守泰次郎,【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団
⛳6時35分更新
きょうのことば
先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の講壇をお伝えします。
國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、45年以上の長きにわたって、岩手で主のご奉仕をしておられます。
9月1(日)の説教題『恵み・信仰・賜物』(説教:國光勝美牧師)
聖書引証:エペソ人への手紙2章1~7節です
2:4しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、 2:5背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。2:6神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。 2:7それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来るべき世々に示すためでした。2:8この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。 2:9行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 2:10実に、私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをあらかじめ備えてくださいました。
<説教>
先週の復習も兼ねながら、きょうの大切なメッセージとしてエペソ人への手紙の2章1節から見ていきましょう。
これは、パウロが、ローマの獄中に囚われ、外に向かう行動が制約されたときでした。パウロはそれを良きに変えて内側に深く思いをいたし、私が伝えている福音はいったいどういうものなのかを深く思いめぐらし、それをエペソ人への手紙としてのこしました。パウロが理解していた福音、私たちが理解すべき福音が実によくまとめられ記されています。
その中の2章の1節に「あなた方は自分の背きと罪の中に死んでいたものであり」とあります。「死」、これは前回は、神とのまじわりの麻痺してしまった状態、或いは、まじわりが絶たれてしまう、断絶、分離と解説しました。ぜんぶ同じ内容です。ただ言い方を変えただけでありまして、私たちは本来神とのまじわりの中で生きている。しかし、その神とのまじわりが途絶え、断絶し、神と分離してしまっているなら、それは、あなた方が「自分の背きの罪の中に死んでいたもの」の状態です。これが霊的な死です。
そして2章2節
「かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました」
かつては霊的に死んでいた私たちです。前回、イラストで濁流を表しましたが、私たちは、その濁りの流れのままに、世の中の流れのままに流されていました。今の時代の思想、今の時代の価値観に掴まっていました。自分に都合のいい、そういった価値観です。それはテモテの書の中にもパウロが示しております。終わりの日になると、人々は自分に耳障りのいい教えに皆流れていく。このことを、パウロはテモテの手紙で警戒しております。この世の価値観の圧倒的な力で流されている。
前回、濁流にも生きているメダカの画像をご覧に入れました。このメダカは自分たちは小さなものという意味です。流されている大きな流木に対して、この小さなメダカです。前回は、濁流でも生きているメダカでしたが、実はどんなに小さなメダカでも、生きていれば、濁った流れに逆らって泳いでいくことができる。それができる神のいのちを私たちは受けているのです。このことを分かっていただければと思っております。
2節「かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者」、これは神に敵対する勢力、この世の王のことであり、聖書でいうサタンのことです。このサタンが、いつでも私たちを濁流に押し流そうとしています。
そして3節「私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」
そうなんです。私たちはみな、かつてはこのような生き方をしていた者です。これはパウロが自分の経験を振り返って、自分は世の中の人と同じレベルではないということをいっているのではなく、むしろパウロは自らを深く知れば知るほど、自分もかつてはあなた方と同じように、いやむしろ罪びとの頭といえるほどにそういう者だった。
3節に「ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」とあります。ここが文語訳聖書には「生まれながら怒りの子であった」と記されてございます。新改訳、或いは新改訳2017には、この「怒りの子」は、できるだけ誤解を受けずに、福音的に「怒りの子」という意味がストレートにわかるように「生まれながら神様の御怒りを受けるべきものでした」とある。読んでああそうだったとすぐ納得できます。
けれども「生まれながら怒りの子でした」というと、おぎゃーと生まれたときからぷんぷんと怒っている、みんなそういうような人だったなどといった誤解がないようにという意味で、良い訳が使われているなと感謝しております。
私たちはこの世に生まれたときから神から離れて自分勝手な道を歩んでいるのですが、これは罪を表すわけですけれども、神様は罪に対する容赦のない徹底的な処罰をなさいます。生まれながらこの神様の御怒りを受けるに相当する、私は罪びとの頭であるとパウロが言っている。自分はキリストに仕える者を迫害し、自分こそ神に仕えているものだという自惚れをもって、知らなかったこととは言いながらキリスト者迫害の急先鋒だった。それらのことを思えば思うほどパウロは一層私こそ罪びとであるというのです。
ですからキリストの十字架を、私たちは、先入観で、麗しいロマンティックなものであるという捉え方をすることがありますけれども、掘り下げると、キリストの十字架というものは、神がいかに罪というものを憎み、容赦ない徹底的な裁きを下すものであるか、キリストの十字架は、私たちに罪の恐ろしさを見つめれば見つめるほど、教えてくれるものです。これが3節です。
4節の「しかし」という接続詞、この「しかし」の前には、これだけ深刻な大きな罪の裁きというものがある、それを受けて「しかし」とあるとき、ここには大きな逆転があります。罪に対する神の容赦ない徹底的な処罰を見ますときに、しかし、神の愛と憐れみ受ける私たち。この私たちに対する神の無尽蔵で徹底的な赦し。私たちに対する神の無尽蔵で徹底的に赦してくださる神様の愛がわかります。これが4節、5節にあります。目を止めてみましょう。3節までには、ただ外面的に罪を赦さない厳しいお方というのではなく、それが具体的に神の御子をあのむごたらしい十字架につけなければ決しておさまらない、他の何をもってしても決しておさまらないほどの罪に対する厳しい罰を下される。しかし、神様はそれをぐるっとひっくり返して、「2:4しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、 2:5背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです」といわれるのです。「しかし」。これほど大きな意味のある「しかし」なのです。神様はそれほど私たちの罪を徹底的にこのお方に背負わせて、あなたの罪はもうここでぜんぶ終わったからね。だからこのお方を信じるならば、あなたの罪がたとえどんなに大きなものであったとしても、私はあなたの罪を赦す。これが「しかし」に見られる無尽蔵な神様の愛であります。
5節、6節を読んでいきますと、「2:5背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました」。このお方がよみがえってきてくださったから、罪のないお方が徹底的に裁きを受けて葬られて、しかしこのお方はまさに身代わりであって、われらの罪の赦しを徹底的におこなってくださったあと、この使命、私たちを生かしてくださるために、いのちを与えてくださるために、まじわりを回復してくださるために、神との深いまじわりを回復してくださるために天と地を結んでくださったこの道を、キリストとともに生かしてくださった。
「2:5背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。2:6神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。 2:7それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来るべき世々に示すためでした。」
またここに「世々に」ということばが、前回、前々回も出たことがありますが、宇宙的に広いキリストの愛のいかばかりのものなのか、私はしばしばこれを思うのです。神に似せて造られた人間が、堕落をしてしまった。そのときに神は惜しみなく自分の最愛のひとり子を私たちの代わりにこの世に降してくださった。けれども御使いが神に背いてそのところから落ちたとき、人間のときには神はこれだけのことをしてくださいましたけれども、それを思うと、この身に神のひとり子の十字架の救いというのは、世々限りなく、次の世も、来るべき世々にも神様の愛というのはこれほどのものなんですよということを、世を貫いて教えてくれるものです。
1章の21節でしょうか、「すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。」
このメッセージを思いながら、私自身がお救いに与ったときのことを思い出します。
私はクリスチャン家庭で育ったわけではありませんでした。まったく知らないまま学生時代の最終学年のときに、一枚のトラクトを持って特別集会に行きました。そこで、キリストの十字架のことを聞きました。神様の憐れみのとき、救いの恵みのゆえに、私は、決心をし、ほんとうに行って数日後決心をしてクリスチャンになっただけに、わからないこと、疑問がいっぱいありました。
疑問を抱えながら毎週毎週、或いは毎日毎日の集会に行っておりました。色々な先生方が入れ代わり立ち代わり聖書の話をしてくださっていました。そうかそうかと毎回聞きながら恵みを覚えていたのです。数ある疑問の一つですが。ある先生が十字架のお話をしてくださったとき、「あなたがたの罪がキリストを十字架につけたのです」と仰る。まさしくそうですね。あなた方の罪がキリストを十字架につけたのですというメッセージを伺って、そうか、そうなのだと、なるほど。ところが次の集会に出たとき、別の先生がお話をしてくださった。「ここに神様の愛がある。神の愛がキリストを十字架につけたのです」。あれ、きのうは罪が十字架につけた、しかし、神の愛がキリストを十字架につけた、同じ場所で、同じ講壇で。果たして十字架って、どう理解したらいいのだろう。
皆さん方、その当時、私に聖書知識があまり無かったことがおわかりいただけるだろうと思います。いったいどっちなのだろうか。両方なのです。このキリストの十字架の意味が、この「しかし」という接続詞で繋がれる3節、それから4節以降のこれが、キリストの十字架の意味だったのです。私たちはこのキリストの十字架に、そして復活に顕された神の愛の中に今あります。そして今日、締めくくりに、これは、手を描かせていただきました。
8節「2:8この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」。
この信仰ということばも、教会でしばしば語られることばです。そしてわかってはいる。だけれども難しい面もあります。じゃ、何ですか。そのとき、自分で非常にはっきりしたのは、そして自分なりに理解できたのは、信仰は神様の恵みを受ける、いただく、神様の賜物をこの信仰の手で受け止める。これは神様の賜物です。神様の恵みです。それを私たちは、信仰の手をもって受け止めるのです。受けるのです。これが信仰の大切な意味です。神様が斯くまで私たちのためにすばらしい救いの恵みを備えてくださった、これは神の賜物です。賜物というのは私たちが受けるから意味があるのです。そして恵み、これは神様の一方的な御愛です。愛のゆえにあなたにこれを差し上げますよ、さあ、受けなさいというこれだけの神様の御愛を「はい、ありがとうございます」と言って受けること。
「2:8この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。」
これは、人が誇るべきものは何もありません。受けるのです。頂戴するのですから、賜物なのですから。何か私たちが良いことを一生懸命励んで、何かするというのではなく、これほどまでの神様の御愛でキリストの十字架があるのだということを知ったときに、備えられたときに、さあ、あなたのために備えられているものですよというときに、「ありがとうございます」といって受け止めること。それが信仰によって救われるという意味なのです。
「あなたがたは信仰によって救われたのです」
最後にひとつ、この信仰によって、救いの賜物を受けるということについて、お話しさせていただきます。
「きよめの恵」ということを、それから後にすぐに大きな課題として、自分の大切な受けねばならない神様の賜物であるということを気づかされ、それを求めました。そして、このきよめの恵は信仰によって受けるのだということも聞かされていますし、教えられてますし、しかし、なかなかそれを自分のものとして受けることがこれほどのきよめの神様の賜物、キリストが罪のためにすべてを成し遂げてくださった、あなたの罪の解決はぜんぶここにある、さあこれを受けなさいといって、救いのときはあれほど、ある意味、良い意味でわからなかったから信じることができたといえるでしょうけれども、なまじわかってきて、そして、きよめという問題が自分の課題となったときに、きよめ、私はそんな心の中を見ると、とてもそんなことを言えるものではない、そのことでわからなくなってくることがありました。信仰によって受ければいいのだということは、すべて神様の賜物なんだから、それを受ければいいんだ、その意味で、救いの延長線になる。或いは、その拡大版であるといったらいいのか、当然受けるべきものとして、ここに出てきたものですけれども、それがなかなかわからなかったとき、ある一冊の本を読んで、これが祝福になりました。それは、S.Aキーンの「信仰の盈満」でした。彼はこう表現しています「私はきよめられることを求めていた。神様、きよめてください、きよめてください、と求めていた。けれども得られなかった」、私と同じ経験だと思いながらいたのですが、「しかしそのとき、私は気づいた。私は神様が備えてくださったものを懐に、神様にはい、これがきよめですよと言って私は神様が与えてくださるまで待っていた。きよめの恵が与えられるまで待っている、でもそうではなくって、神様がこれだけの十字架の恵みを備えていてくださったときに、神様、ありがとうございますと言って手を伸ばしてうけとればいい。信仰によってなんです。私がここまで神様が入れてくださるまで待っていた気がするんです。ありがとうございます。これが私の欲しいものなんです。これこそ、といって手を伸ばし自分で受け止める。これが、ある意味、救いもきよめもその意味で、同じ意味をもっているのかな、このように気づかされたことであります。
「2:8この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」
ぜんぶこれは神様が備えてくださった、信仰をもって受ける。どうぞ、この信仰の手を神様に期待し、手を伸ばし、それは私に必要ですといって手を伸ばして受けること、それをさせていただこうではありませんか。
J-MEROピックアップ
J-MERO
小野リサ、平原綾香、the GazettE
小野リサ 日本にボサノバの魅力を紹介。ブラジル生まれ。10歳で日本に移住。1989年ボサノバ歌手としてデビュー。故郷ブラジル、北アメリカ、アジア、昨年初めてオーストラリア、ことしはニュージーランドを予定、近年、毎年のように中国でライブ。今回は3曲紹介。「あの日に帰りたい」「星陰の小径」「いのちの歌」
コメント
去年のオーストラリア公演はオペラハウスで演奏。ニュージーランドは初めて。中国の方のボサノバの反応は、若いカップルが多い。中国のおしゃれなところに行くと、若者たちのちょっと粋な音楽という感じ。若者が多いのでアイドル気分を味わえる。海外では、現地のみなさんが大切にしている歌を現地の言葉でアンコールでやっている。それを歌うと大合唱になる。色々な文化から生まれる音楽、歌なので、気持ちがすこしわかったような気にもさせられる。
平原綾香 2003年19歳でCDクラシック曲に歌詞をつけた「Jupiter」でデビュー。近年はミュージカルや映画の吹き替えに挑戦。8月には1年3か月ぶりにオリジナル・アルバム「はじめまして」を発表。タイトルとなった曲「はじめまして」は「世界に一つだけの花」の深みのある楽曲を書く槇原敬之が書き下ろす。
コメント
槇原さんには愛をテーマに曲を作って欲しいと委嘱。平原のジュピターのような世界観の歌をと作曲されたのが「はじめまして」。争い合う国に住む二人の男女が一緒になれないことを悟って、また生まれ変わったらこの場所で、偶然に出会うことからこの恋の続きを始めようという歌。いままでこういう歌があったかなと思う世界観。平和な時代に生まれたい、しっかりこのメッセージを伝えたいと思いました。初めて聴いたとき涙がでて、この歌をしっかりと届けられる自分がいなきゃダメだなと感じて、また聴き終わって電話すると槇原も喜んでくれた。曲へのこだわりは私よりも槇原がこだわってくれた。レコーディングに対する志というのが印象に残っていますね。
♪(次の世での再会)
君に向かって誰かが笑顔で「はじめまして」と声をかけてきたなら
それが僕だから
声をかけてきたなら
それが僕だから
(詩の最後部分を抜粋)
アルゼンチン、ウルグァイなどからのリクエストで登場したのがthe GazettE。世界ツァーを終えたばかり。
the GazettE 2002年結成のビジュアル系バンド。非現実的な世界観が受けている。2006年ドイツで単独ライブ。2013年世界ツァー実現。今年は役年ぶりの世界ツァー。北米、中南米、ヨーロッパ、アジアを回る。
コメント
わりと日本とかわらないようなライブ観をみんなに感じて欲しい。南米は安定した盛り上がりがある。アジアは日本に近いような盛り上がり方。意外だったのはヨーロッパの盛り上がり方が熱くて、こんなに熱かったかというのがわかった。海外にファンがいるのを実感してなかったので、「ほんとに大丈夫」という入りからだった。最初呼ばれたのがアニメのフェスだった。これがスタートだった。今後も、ライブがいちばんの自分たちの魅力だとおもっているので、何回ライブをやるかになる。いかにライブの場所を増やすかがコミュニケーションになるのかな。海外に関しては。
⛳ざっと海外に出ているアーティストたちの近況、意識を見てみた。それにしても、「はじめまして」、近頃にない素敵な歌だったな~。で、7時23分更新。これもいつまで書けるやら。やらねばならぬことが山積。
盛岡タイムスに連載の「楽都のユニゾン」第63回(最終稿)が出ました
最終稿では現在、鳥取春陽の唄が岩手のどこにも流れていないこと。「岩木のおろしが吹くなら吹けよ」と青森の大鰐町には流れていても、「岩手のおろし」となってどこにも吹いてはいない。ユーチューブで聴くことはできますけれど。全国的なヒットも出している春陽が残念に思っているのではないでしょうか。
太田カルテットは音楽的な貢献はもちろんですが、文化団体的な役割を大きく果たしたといえるかと思います。
音楽のひとり旅、これはほんとうにそちこちを旅するというのではなく、この岩手の地にあってこれからも音楽を楽しんでいこうというささやかな願いです。
これまで読んでくださいました方々に心からの感謝を申し上げます。
ほんとうに有り難うございました!
2019/9/6クラシック倶楽部を聴く
笛田博昭&ヴィンチェンツォ・スカレーラ リサイタル
(テノール)笛田博昭、(ピアノ)ヴィンチェンツォ・スカレーラ
2019年6月9日テアトロ・ジーリオ・ショウワ
笛田博昭:コメント
今回のプログラムについて
あまり日本で歌われないというか、みんながやるようなプログラムではないようなものをやりたかったかなということはありますね。「アマランタ」これも初めてやったんですけども、すごく大好きになりました、やってみて。やればやるほど歌えば歌うほどどんどん掘り下げられる。あんまり歌曲もたくさん勉強してこなかったので、すごく楽しかったし、その勉強する作業が。歌うということに、僕は声を出すということにすごくとらわれていたわけですよ。アクート、高い声を出すのにはそこに集中しなければいけないし、でもそうするとドラマが見えてこない。で、「アマランタ」を勉強してあるとき、ほんとにその、オペラ歌手というのは役者以上に芝居ができなければ成立しないんだなということをすごく思ったんですよね。何でかというと役者みたいにオペラの人はそんなに、もちろん歌いながらなので、動いて表現するよりも言葉のニュアンスとか、動かないでそのドラマを再現するという意味では、ものすごく芝居心とかが必要だなというところがよくわかりました。
ヴィンチェンツォ・スカレーラ:コメント
今回初挑戦するマスネの歌曲について
フランス語のマスネのアリアは私のアイデアでした。彼の声に合っていると思ったのです。ベッリーニの歌曲からイタリア歌劇のアリアへの橋渡しになると思いました。私がそうだと言っているわけではありませんが。歌手の息が続かないなどトラブルが起きたとき助けられる人です。リハーサルからやり方を変えて演奏を音楽的に成り立たせるのです。
☆「フィッリデの悲しげな姿よ」ベッリーニ:作曲
ベッリーニの若き日の恋から生まれたといわれる作品。今は亡き恋人に変わらぬ愛を歌いかける。
☆「マリンコニーア」ピンデモンテ:作詞、ベッリーニ:作曲
「マリンコニーア」はイタリア語で「憂愁」「哀しげ」の意味。恋人をニンフ(妖精)に例え、「憂愁」にひそむ甘美を歌う。
☆「お行き、幸せなバラよ」ベッリーニ:作曲
「6つのアリエッタ」の第2曲。ベッリーニらしい旋律美にあふれた作品。
☆「アマランタの4つの歌」ダンヌンツィオ:作詞、トスティ:作曲
トスティの生涯の友人で詩人・劇作家のダンヌンツィオと意見を交わしながら作曲した歌曲集。
☆「あなたの青い目を開け」ロビケ:作詞、マスネ:作曲
マスネが母校パリ音楽院の作曲家教授に就任した1879年の作品。歌曲集『愛の詩』の第3曲。
☆「エレジー」ガレ:作詞、マスネ:作曲
ピアノ独奏だった曲にガレが詩をつけた作品。フランス歌曲の名作の一つとして広く愛唱されている。
☆「歌劇「ウェルテル」からオシアンの歌「春風よ、なぜ私を目ざますのか」」マスネ:作曲
若き詩人ウェルテルが人妻シャルロッテへの思いを、伝説の詩人オシアンの詩に託して歌う甘美なアリア。
☆「タイスの瞑想曲」マスネ:作曲
☆「歌劇「運命の力」から「この世は地獄」「天使のようなレオノーラよ」」ヴェルディ:作曲
アルヴァーロが不幸な生い立ちを振り返り、レオノーラへの愛と絶望を情熱的に歌うアリア。
🎵近頃はコメントがおもしろい。歌に立ちあらわれるもの、あらわれさせるものには、ステージを見ただけではわからないどのような学び、努力が払われているかを知る。
🎧名曲アルバム
「序奏と華麗なポロネーズ 作品3」ショパン作曲
【チェロ】遠藤真理,【ピアノ】菊池洋子
2019/9/5クラシック倶楽部を聴く
清水 華澄 メゾ・ソプラノ・リサイタル
(メソ・ソプラノ)清水 華澄、(ピアノ)越知 晴子
2018年6月26日 紀尾井ホール
清水 華澄
静岡県生まれ。国立音楽大学大学院を修了。イタリア、ボローニャへの留学を経て、オペラの舞台を中心に精力的に活動し、このたび自身初のリサイタルを行った。
コメント
歌手として大切にしていることは?
毎日が当たり前のように訪れるというのは奇跡だと思い始めてるんですね。だんだん大人になって色々なことを経験していくうちに、明日が無事にくるというのはほんとうに奇蹟なんだなと思うようになって、さらに感謝の言葉は必ず伝えるということは心がけるようにしてます。音楽を心から楽しめる時間というものを必ず持つようにしてるんです。どうしても仕事にしてしまうと違う感情も芽生えてしまうと思うので、オーケストラの演奏会とかに足を運んでそこで音楽を思いきり浴びて、そこでプレーしているプレーヤーの皆さんを心から尊敬する気持ちを忘れないようにしています。
根本卓也の「臨死船」との出会いについては?
私と根本さんは新国立劇場の音楽スタッフさんで入ってらして、私は歌手で、根本さんがプロンプターだったり、その時にちょろっと発音を始動してくださったりする時もあるんですね。で、根本さんにぜったいディクション習いたかったんです。ラテン語もそうなんです。で、そこでその話を根本さんに相談したら、じゃ、僕の曲を歌ってもらえますか、というので、仰ってくださって、私でも。根本さんが作曲家であるなんてぜんぜん知らなくて、申し訳ないんですけど、そこで初めて知って彼の作品を集めたCDをいただいて、そこで聴いたらそのときの私の気持ちとほんとうに合ったんですね、谷川さんの詩が合って、根本さんの曲がほんとうに素敵だったので、是非これを歌わせてほしいとお願いしたのが始まりです。
越知 晴子
ミュンヘン国立音大の大学院を修了し、ソリスト、また歌の伴奏などで高い評価を得ている。
鈴木広志(サクソフォーン)
東京芸術大学器楽科でサクソフォーン専攻。演奏家のみならず作曲家、プロデユサーとしても幅広く活躍を続ける。
☆「さすらう若者の歌」マーラー:作曲
失恋した若い男の嘆きをつづった4つの自作詩による歌曲。創作の背景にはマーラー自身の実体験があったと言われる。
☆「オペラ・オラトリオ「エディプス王」から「恥と思わぬか、王子たち」」ストラヴィンスキー:作曲
テーベの王エディプスは不吉な占いにとり乱している。そこに現れた妻イオカステがこの曲を歌う。この歌をきっかけに、エディプスは、幼いころに自分を捨てた実の父親を殺害し、母親を妻としていた事実を知る。
☆「カンタータ「臨死船」」谷川 俊太郎:作詞、根本 卓也:作曲
2016年に書かれた歌、チェンバロ、サソフォーンのための作品。この演奏会のためにピアノを使用した改訂版が作られた。長編詩としてつづられた「ある男の臨死体験」が歌と語り、そして器楽によって劇的に書かれている。
☆「うたうだけ(アンコール)」、谷川 俊太郎:作詞、武満 徹:作曲
🎵「さすらう若者の歌」、マーラーの自作実体験が基になっているようなので、ちょっと詩を抜粋してみた。
「彼女の婚礼の日は
いとしいひとがお嫁にいく日は
婚礼が華やかに行われる日は
ぼくはひとり部屋にこもって
暗い部屋の中でたったひとり
あのこのために泣きぬれる
……
鳥よ鳴かないで
花よ咲かないで
春はもう過ぎてしまったのだから
今はもう歌っているものは何もない
……」
燃えるような短剣で夜となく昼となく突っつきまわされるといった表現もある。ついて離れない苦しみと惨めさから若者を救ったのは、真夜中に出発した旅。一本の菩提樹の下でかれはやっとゆっくりと眠る。菩提樹の花が雪のように降りそそぐ。その光景にこの世の苦しみを忘れる。「すべては昔のようにすてきだった!
すべて!すべて!
愛も悲しみも
またこの世も
また夢も!」
こんな境地に達している。マーラーがこのような詩を! マーラーが書いたのだろうか、書いたのだろう。
「恥と思わぬか、王子たち」、預言者は信じられない、すべて嘘つきだ」が繰り返される。疑いを劇的に歌い上げ圧巻。「臨死船」、このタイトルに曳かれて歌詞を聴きとおした。語りと歌いが半々、語っている部分よりも歌っている部分がよく耳に届いた。意外性のある展開。生々しさも。今回は詩の方に意識が集中してしまった。歌に惹きつける魅力があるので詩に引き込まれたという感じも。
🎧名曲アルバム
「バイオリン協奏曲 鐘」パガニーニ作曲
【バイオリン】木野雅之,【指揮】飯守泰次郎,【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団
⛳7時25分更新
2019/9/4クラシック倶楽部を聴く
タリス・スコラーズ 演奏会
(合唱)タリス・スコラーズ、(指揮)ピーター・フィリップス
東京オペラシティ コンサートホール
ピーター・フィリップスのコメント
タリス・スコラーズの響きの特色
ルネサンス音楽を演奏するためにこの合唱団をつくりました。当時はこの時代の作品を演奏する団体はまれでした。合唱団のメンバーに求められるのは、透明かつ強い声です。そして常に新しい技術を習得することを心がけてきました。ルネサンス音楽は、その後のバロック音楽とはまったく異なったスタイルが要求されます。リズムもチューニングも違いますし。ルネサンス音楽は独唱ではなく小規模の合唱ですから、これだけ大きなホールで歌うのはとても難しいのですが、日本は大きなホールが多く、声の響かせ方を学ぶことができました。
ビクトリアの「レクイエム」について
ビクトリアの才能を説明するのは難しい。彼は奇跡の作曲家です。とにかく響きが強烈で、ごくふつうの和音をより印象深く響かせる能力に優れていました。パレストリーナやタリス、バードのような作曲家はもっと音楽が複雑で、声部も入り組んでいます。一方で、ビクトリアは和声の選択が巧みで、聴く人に感動をもたらします。彼は聖職者で敬虔なキリスト教徒でした。レクイエムは彼の親愛なる主人皇太后マリアのために書かれました。ビクトリアの感情と宗教観のすべてが彼女への思いとして表現されたのだと思います。これは彼の音楽の極致であり、ルネサンス音楽の極致でもあると私は思います。
☆「マリアよ あなたはすべてに美しい」ゲレーロ:作曲
ゲローレは、16世紀後半に活躍したスペインの作曲家。多くの教会音楽を残している。この作品は1570年に出版されたモテット集に含まれている。
☆「レクイエム(死者のための聖務)」ビクトリア:作曲
ビクトリアは1548年にスペインで生まれ、教会のオルガン奏者や楽長を務めた。この作品は彼が司祭として仕えたマリア皇太后の死を悼んで書かれ1605年に出版された。
🎵女声の響きが印象的。心やすまる朝のひととき。聴き始めるのに数分遅れ、この合唱団がどのように紹介されていたのか聴き落し。興味のある方はリンク先をクリック願います。
🎧名曲アルバム
「交響曲第3番 英雄」ベートーベン作曲
【指揮】大友直人,【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団
楽譜の表紙に書いたナポレオンの名を消し(白い穴のように見える部分)、作品は「英雄」と改めたとも伝えられる。ベートーベンの落胆の跡が。
⛳きのうは7時半更新だったか。きょうは7時4分更新
2019/9 / 2019/9/3クラシック倶楽部を聴く
ラケル・アンドゥエサ ソプラノ・リサイタル
(ソプラノ)ラケル・アンドゥエサ、(テオルボ)ヘスス・フェルナンデス・バエナ、(バロックギター)ピエール・ピツル
2016年6月7日 王子ホール
ラケル・アンドゥエサ
スペイン、パンプローナ生まれ。イギリスのロンドンギルドホール音楽演劇学校で学ぶ。その後、古楽や17世紀のイタリア音楽を中心に演奏活動を行い、2010年自身のアンサンブル「ラ・ガラニヤ」を結成。世界各地で演奏活動を行っている。
ラケル・アンドゥエサのコメント
お気に入りの曲は?
「わかっている 私が死にかかっているのは」の曲で「愛のせいで死にかかりながらもなお私はかくもよき調べに苦しむのだ」と。バロックには「苦しい愛を楽しむ」という歌がたびたび出てきます。とても変わっていますね。私にとって歌詞はとても大切で、メロディーよりも歌詞に注目することが多いです。魅力のない歌詞は自分のものにできず、とても歌いづらいのです。
古楽の魅力は?
私は色々なレパートリーが好きです。ロマン派やオペラ、現代音楽も好きです。でも古楽には説明できない魅力を感じます。ドラマが繰り広げられる歌詞の扱い方やメロディーの美しさ。歌手というより俳優に近い歌い方にとてもひかれます。とりこになってしまいました。古楽の美しさは、そのシンプルさからきていると思います。洗練された音楽でもたくさん盛り込まれた派手な音楽でもない。単純な音楽だけれど簡単にできるものでもない。私は人々の魂にまっすぐ届く音楽だと思います。そしてお腹というよりもお腹の底から頭よりも心で歌うものだと思うのです。それがとても好きです。このころまだ作曲家がテンポを書き残していません。楽譜が無いので。ですから歌い手が主体的に感じたことを素直に歌えます。その日の気分で変えることもできるのです。
ヘスス・フェルナンデス・バエナ
スペイン生まれ。セビリア高等音楽院オランダ・ハーグ王立音楽院で学ぶ。その後、ラケル・アンドゥエサとデュオを結成して演奏活動を行っている。
ピエール・ピツル
ウィーン国立音楽大学でデュプロマを取得。その後ソリストやアンサンブルで演奏活動を行っている。
☆「私は狂気」バイイ:作曲
バイイは17世紀のフランスの作曲家。ルイ13世の音楽監督を務めた。「狂気」と名付けられた背景には、この頃変わった手法を試すために作曲家たちが好んで使っていた。
☆「ピエール・ピツルマリサパロス」作者不詳:作曲
17世紀のスペインで広く知られた俗謡。歌いやすい節回しを繰り返しながら歌詞が変化する有節形式を用いる。
☆「わかっている 私が死にかかっているのは」リュリ:作曲
リュリ(1632~1687)はイタリアの作曲家。フランス国王ルイ14世の宮廷楽長として活躍した。
☆「ろう屋のハカラ」ケベド:作詞、作者不詳:作曲、トレンテ:編曲
作詞のケベドは17世紀のスペインを代表する作家・詩人。ハカラとは演劇の幕間に行われていた寸劇音楽。風刺的な笑いのある歌詞が歌われた。
☆「そんな風に思うなんて」メールラ:作曲
☆「恋するヘラクレイトス」ストロッツィ:作曲
☆「私の美しい人」作者不詳:作曲
メロディは即興的に展開することが求められた。この曲は恋の悩みをシンプルな歌詞で歌いながら、即興的に装飾音を加えるなどしている。
☆「安らかにみな忘れ」モンテヴェルディ:作曲
モンテヴェルディ(1567~1643)はイタリアの作曲家。オペラの創世期に主要な作品を残す。
☆「シャコンヌによるカプリース」コルベッタ:作曲
コルベッタ(1615~1681)は、イタリアの作曲家・ギター奏者。ギター教師としてルイ14世に仕えた。シャコンヌはスペイン起源の変奏曲形式の一つ。フランスでは宮廷舞踏のフィナーレなどに用いられた。
☆「これほどにも甘美な苦悩が」モンテヴェルディ:作曲
モンテヴェルディはオペラだけでなく小規模な歌曲(マドリガーレ)の発展にも大きく貢献した。この曲は1624年に刊行されたマドリガーレ集の1曲。
🎵このうえ言うことは何も、解説がみな言い尽くし教えてくれている!
🎧名曲アルバム
「ボヘミアン・ラプソディ」フレディ・マーキュリー作詞・作曲
【歌】西川貴教,【コーラス】フェイス・ミュージックfeat.,【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団,【指揮】渡邊一正
「ママ、人を殺してしまった!
銃を突き付けて引き金をひいたんだ
人生は始まったばかりなのに
すべて台無しになってしまった」
衝撃的な冒頭
これが作曲されたのロック・フィールドスタジオ。1975年8月のこと。3週間にわたる伝説のレコーディング。1965年音楽好きの兄弟が納屋を改修、そこに当時の最新音楽機材が集められた。
⛳ディスクを買うともう解説などは読み切れないほど書いてある。解説は簡潔なほどいい、というわけで、半ば道楽的気分でこれを書いている。録画も録らずに。
2019/9/2クラシック倶楽部を聴く
ウィーン少年合唱団 演奏会
(合唱)ウィーン少年合唱団、(指揮)マノロ・カニン
2019年5月29日東京芸術劇場コンサートホール
ウィーン少年合唱団
15世紀末に神聖ローマ帝国の王宮礼拝堂聖歌隊として創立、500年以上もの歴史を誇っている。ハイドンやシューベルトも少年時代にこの合唱団に参加していた。合唱団の活動拠点はウィーン市内のアウガルテン宮殿にある全寮制の学校です。オーストリア国内外から集まった10歳から14歳までのおよそ100人の少年たちが、ブルックナー組、ハイドン組、モーツァルト組、シューベルト組の4つのグループに分かれ、この学校で学んでいる。彼らは日々の学習はもちろん、海外へのツァーも含むさまざまな演奏活動をこなしている。2019年はイタリア出身のマノロ・カニンが率いるブルックナー組の少年たちが来日し、30回以上の公演を行った。カニンは合唱団について、先ず歌うのは最高に楽しいと感じること、そしてプロとして常に高いレベルを目指しながら、互いを尊重しあい、チームワークを築くことが大事と語っています。
ベーゼンドルファーの特別仕様
☆「喜べ 正しい人たちよ」ヴィアダーナ:作曲
16世紀初期に活躍したヴィアダーナが、詩篇第33番を歌詞として作った。
☆「オラトリオ「天地創造」から「天は神の栄光を語り」」ハイドン:作曲
「天地創造」の第一部を締めくくる曲。天使たちが重唱と合唱で神の偉業をたたえる。
☆「詩篇第13番「主よ、いつまで私をお忘れになるのですか」」ブラームス:作曲
20代の半ばのブラームスが、故郷ハンブルクの女声合唱団のために作曲し、自身の指揮で初演した。
詩篇第13番
主よ
いつまで私をお忘れになるのですか?
いつまでお顔を私から隠されるのですか?
いつまで私の魂は思い悩み心の不安は続くのですか?
いつまで敵は私を威圧し続けるのですか?
私に目をかけ お答えください わが神 主よ!
私の眼を見開かせてください
私が死の眠りに陥らないように
私の眼を見開かせてください
私が死の眠りに陥らないように
どうか敵が「おまえを制圧した」と驕ることがないよう
サタンンが私の敗北をほくそ笑むことのないよう
私はあなたの慈しみを切に願い
お救いを心から喜びます
お救いくださることを!
主を讃えて歌います
「主は私を慈しみお救いくださった」と
主を讃えて歌います
「主は私を慈しみお救いくださった」と
(訳・井形ちづる)
☆「3声のためのカプリース/動物たちの対位法」バンキエーリ:作曲
「木曜の夕食の前の豊かなひとときの前に」と題され、1608年に初演されたマドリガル・コメディの一部。
☆「リベルタンゴ」ピアソラ:作曲、エスカラーダ:編曲
曲名は自由を意味するスペイン語「リベルタード」と「タンゴ」を組み合わせたもの。タンゴの革命児といわれたピアソラは、この曲名に「因習からの脱却」という意味を込めた。
☆「ひとりぼっちの羊飼い~映画「サウンド・オブ・ミュージック」から」、マースタイン:作詞、ロジャーズ:作曲
☆「ねむの木の子守歌」上皇后様:作詞、山本正美:作曲
上皇后様が高校生時代に作られた詩を基に秋篠宮便文仁様のお誕生を記念して作曲された。
☆「ふるさと」高野辰之:作詞、岡野貞一:作曲、ヴィルト:編曲
1914年文部省の「尋常小学唱歌集」に掲載された。
☆「内なる平和」カビール:作詞、ヴィルト:作曲
インドの宗教改革者カビールによる哲学的な詩を同じくインドの詩人、思想家タゴールが英訳した。
庭に入ってはいけません
花咲く庭に!
友よ! 入るのはそこではありません
友よ!
あなたの身体のなかです
花咲く庭があるのです
たくさんの蓮の花弁に座り
そこで無限の美をみつめなさい
☆「ポルカ「雷鳴と電光」」ナイダー:作詞、ヨハン・シュトラウス:作曲
原曲は1862年に書かれたオーケストラ作品。歌詞はウィーンの指揮者・ピアニストのナイダーによる。
☆「ワルツ「美しく青きドナウ」」ベック:作詞、ヨハン・シュトラウス:作曲
☆「花は咲く」岩井俊二:作詞、菅野よう子:作曲
🎵[美しく青きドナウ」も井形ちづる氏の訳。すばらしい。詩篇33篇もわかりやすい訳だと思った。「内なる平和」、タゴールの英訳を和訳したのが誰であるかは見落としたような。この合唱団からは、音楽のみならず、いまさらながらに様々教えられること多々。
🎧名曲アルバム
「ホルベアの時代から」グリーグ作曲
【指揮】円光寺雅彦,【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団
⛳解説、画像はすべて番組から 7時34分 更新
きょうのことば
先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の講壇をお伝えします。
國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、45年以上の長きに亘って、岩手で主のご奉仕をしておられます。
8月25(日)の説教は『罪の中に死んでいた私たち』(説教:國光勝美牧師)
聖書引証:エペソ人への手紙2章1~7節でした。
2:1さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、 2:2かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。 2:3私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。 2:4しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、 2:5背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。2:6神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。 2:7それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来るべき世々に示すためでした。
<説教>
(前置き、報告などは割愛いたします)
きょうからエペソ人への手紙2章に入っていきます。
「2:1さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、 2:2かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。」
きょうはこの部分に集中したいと思っております。ちょうど前回の「聖書の言う生と死」というメッセージは、まさにきょうの序論であったと思います。
復習となります。
前回は、「生きていますか?」、そしてさらに「ほんとうに生きていますか?」という問いかけで始めさせていただきました。
「いきていますか?」には、生物的にはたしかに生きているという答えでした。次の「ほんとうに生きていますか?」という問いかけ。それは、神との交わりといういのちの中に生きているかどうかの問いかけであったわけです。生物的な命でさえ細胞と細胞の間の交わりと言いますか、交流というものがあって、それが生物的な命というものであり、それが無くなったときに生物的な死を意味すると生物の専門家が語っているのを聞いたことがあります。生物的な命というものでさえ、細胞と細胞、或いは細胞核との交わりがあるから生きているのであって、その細胞の分裂なり、そういう交わりということが途絶えたときに生物的な死を意味する。まして神との交わりがあることによって、ほんとうに生きるいのちというものがある。交わりこそ、いのちというものの本源的な問題なのだと思ったことであります。
本来神様は、すべての被造物の支配者として聖書の中に人間を描いておりますけれども、神との交わりの中に生きているものであったのです。しかし、そこに、罪、交わりを途絶えさせてしまう罪というものがやってきた。
これが前回のお話しでしたけれども、きょうの2章のこの1節2節を言い表していることと変わりはない、そう思うのであります。
また前回のお話しの続きになりますけれども、これを再び罪から回復してくださるために主イエス・キリストと仰るお方が、私たちの神との交わりを途絶えさせている罪の解消のために十字架の贖いを成してくださり、私たちを生きるものとしてくださいました。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じるものは、死んでもいきるのです」ヨハネ11章25節
今私たちはエペソ人への手紙2章に入ったところですけれども、1章の最後の部分
「20この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせて、天上でご自分の右の座に着かせて、21すべての支配、権威、権力、主権のうえに、また今の世だけでなく、次に来る世においても、唱えられるすべての名の上に置かれました」「23教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ち満ちておられるところです」
これが1章の締めくくりであります。そしてそれを受けて、今回の2章に入っていくところであります。
それを確認する意味で、これを皆さんでご一緒に読んでみましょう。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じるものは、死んでもいきるのです」
そして、この1章の21節の解説のときにもお話しをいたしましたが、きょうの2章の1節、2節。特に2節には、「2:2かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。」という表現がありますけれども、この1章21節のところに、「21すべての支配、権威、権力、主権のうえに、また今の世だけでなく、次に来る世においても、唱えられるすべての名の上に置かれました」とありますけれども、ほんとうにパウロのいっている教会観、あるいは世界観ともいえると思いますけれども、キリストが、すべてのすべてに満ちている。で、21節では「支配、権威、権力、主権」というこれらのもの、これはおそらく当時のユダヤの人たちの宇宙観というようなものを前提にしているのかもしれません。それらの或いは御使いたちの名前であるというように解説する人たちもいますけれども、とにかくそれらのもの、神、御使いたち、それらのものを超えて、そして今の世だけでなく、次に来る世においても、キリストはすべてのすべてのものの上にあるのだという事を述べている。そのことを覚えていただきたいと思います。そして、きょうの2章に本格的に踏み入れたいと思います。
「2:1さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり」、この意味はしっかりと今までのところでご理解いただいたはずです。「あなたがた」というとき、もちろん読者である今の私たちに、これは当て嵌められるものです。今はクリスチャンとして憐れみのゆえに今のように変えられておりますけれども、かつては自分の背きと罪の中に死んでいたものなのです。神との交わりから断絶していたもの、麻痺していたものであったのだ、そのことを深く一人ひとりこれまでのことを考えていただきたいと思います。そして、2節
「2:2かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。 2:3私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」
この2節のところをすこしでも印象深く理解できるようにと思って、このようなイラストを作ってみました。
大水が流れているところです。嵐のあとの大水。川下へ沖へと流されている。で、ここに小さなメダカを書いてみました。何を表そうとしたのか、皆さん、お考えいただけるでしょうか。メダカよりもはるかに大きな流木が濁流の中に流されてきます。いのちのないものは皆その流れのままに流されてしまいます。皆さん、いや私もかつては、というそれにあたるものです。世の中の濁流。濁流という表現をすればこれはきっと世の中の快楽とか、不道徳なそういった価値観を、濁流という言葉で表すことはできるでしょう。しかし、それとともに、必ずしもこれは濁流に流されているというイメージではなく、きよいきれいな流れのように見える、そんなに不道徳な間違っているようには見えない、しかし、そこが、世の中の価値観、それが私たちの心の中に生まれたときから、たとえば進化論というようなものは、私たちが聖書からみたときに、決して受け入れることのできない立場にあります。それが間違っているとは思いません。教会、学校のテストの中で、学習の中で、この進化論というものに裏付けられている世の中の流れがあるわけです。私たち聖書を神のことばと信じているものたちは、この時代にあって、進化論をどう位置付け解釈をしたらいいのかということは真剣な課題です。真実なクリスチャンたちの科学者たちの中にも、色々な立場の違いというものはあります。それを認めたうえで、しかし世の中は、神無しとする考え方、そして、この世の中の神無しとする濁流が原爆を作り、世界を破滅に導いてしまう兵器を無制限に作っている。地球を何回でも破壊できるような、そのような事態にもなっているということを私たちは知っています。
濁流といいますと、もちろん不道徳などもありますけれども、それ以上に罪の中にあって神様なんかいない、人間こそ最高のものなのだというその価値観にあり、罪の中にあって、そうだそうだと言いながら空中の権を持つ支配者、即ち不従順の子らの中に今も働いている霊であるサタン、このサタンが、私たちの心、価値観、生き方というものを捉えて濁流の中に押し流してしまっています。しかし、その中に、もしイエス・キリストのいのち、新しいいのち、キリストのいのちに生かされているものは、メダカのような存在であったとしても、この中にって私たちは生きることができる。流されないで、
「2:4しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、 2:5背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。2:6神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。」
私たちは、このキリストのいのちによっていま濁流には流されず、ほんとうによみがえりのいのち、キリストのいのちに生かされているものなのです。どうかこの価値観をしっかりと持って、いまのこの邪悪な世の濁流に、クリスチャンのいのちを証しするものであらせていただきたいと、心から願うものでございます。




















































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