きょうのことば
先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の講壇をお伝えします。
國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、45年以上の長きに亘って、岩手で主のご奉仕をしておられます。
7月28(日)の説教は『栄光にあふれた嗣業』(説教:國光勝美牧師)
聖書引証:エペソ書1:15~23でした。
1:15こういうわけで私も、主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛を聞いているので、 1:16祈るときには、あなたがたのことを思い、絶えず感謝しています。1:17どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。 1:18また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、 1:19また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。 1:20この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、 1:21すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。 1:22また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。 1:23教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。
<説教>
(先週の復習は割愛いたします)
きょうはエペソ書の1章15節のところから入ってまいります。
「1:15こういうわけで私も、主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛を聞いているので、」という書き出しになっております。やはり、パウロはここでも信仰、これは「主イエスに対するあなた方の信仰」、それから、「すべての聖徒に対する愛」、この二つがバランスよくパウロに理解されております。私たちは、このバランスというものを、非常に意味のあることだと思います。
ある方々は、イエス様に対する信仰だけに注目をし、同じ主にある仲間たちとの交わりに無頓着である場合がある。そんなのあまり意味がない、大切なのは主イエスに対する信仰なのだとしている。確かに主イエスに対する信仰は大切です。しかし、それと共に、おなじ信仰に立つ者への愛も大切です。それぞれの人たちのために祈り交わりを持つべきです。パウロは、この二つのことを、「エペソの人たち、このバランスが大切なんですよ」と教えている、このことを先ず私たちが心に留めさせていただきましょう。
そして次に、「1:16祈るときには、あなたがたのことを思い、絶えず感謝しています。1:17どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」と続きます。聖霊のあることすら知らなかったエペソの人たちに、パウロはここでしっかりと福音をのべ伝えています。ローマの獄中から自分が産み出したともいえるエペソ教会に、いまこうして「神を知るための知恵と啓示の御霊」を書いている。ここでもやはりパウロはバランスがとれていると思うのです。「神を知るための知恵」とあります。それから「啓示の御霊」。この場合の「知恵」は神様を知るための「知恵」です。ただ、世の中での一般的な知恵、世学を神様のこととは関係がないからと価値を認めないなどという極端に走ってはいけません。世の中での一般的な知恵、世学もまた大切なものとして受け止めるべきです。それを通してもまた「神を知るための知恵、知識」に心が開かれますように。しばしば私は聞いたことがありますが、科学者たちが学問を突き詰めていくと、真理のそこに神様という存在を認めざるを得なくなるそうです。世の中の学問に真剣に取り組んでいくと、そこに神様というお方を見出さざるを得なくなる。そのような意味の神を知るための知恵、或いは、知識というものが大切だと思っています。
それと、「啓示の御霊」とあります。これは学問を突き詰めていってわかるものではありません。それとは反対に神様の側から示してくださる。それまで私たちにはベールで隠されていたのが、その覆いのベールがあげられて、ああ、こういうことだったのですね、と分からせてくださる。啓示について、救いについて、メシアについて真剣に学んできたことを、なるほど、こういう事だったのですね、というように、それまで閉ざされていたベールをさっと開いてわからせてくださる。パウロは、この「御霊」がそれぞれにあたえられるようにと祈っているのです。
「1:17どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」
そして18節には
「1:18また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、」とあります。この「心の目」という表現は、聖書の中ではエペソ人への手紙にしか見出すことができません。私たちはクリスチャンとなって聖霊が与えられ、「心の目がはっきり見える」ようになっているとあります。「はっきり見える」、この意味を考えておりましたところ、丸の内教会時代のことを思い出しました。
先ごろ音響設備を整える関係で後ろの棚を整理しておりましたところ、永井良子先生のCDが出てきました。私が丸の内教会にいた当時、奏楽をしてくださっていました。礼拝が始まるまえにこの曲を流しました。聴くうちに半世紀も前のさまざまなことが思い出されました。
インマヌエル綜合伝道団の丸の内教会は現在の中目黒教会の前身です。千代田区のビジネス街にある新国際ビルの9階にありました。昭和40年代でいいますと有楽町駅の皇居側の出口のすぐ前がそごうデパートで、その交差点を越えたすこし皇居寄りに新国際ビルという大きなビルがありまして、そこの9階でした。ビジネス街ですから、そこに入っている会社はみな日曜日は休みでした。丸の内教会は、礼拝のある日曜日と祈祷会のある木曜日だけこのビルの9階を借りて、そこを教会としていたという、実にイレギュラーなところでありました。初代の蔦田二雄代表は、これを何とか一つの会堂にとのビジョンをもっておられたことを思い出します。
日曜の礼拝がどのようであったか。まず横浜の聖宣神学院の神学生たちが車や電車で9時半ごろには着くようにやってきて、守衛さんに教会の者であるという証明書を提示して中に入れてもらい、礼拝の会場準備に当たります。一般の信徒の方々も同様に証明書提示です。会場では約300席の椅子が並べられます。その並べた椅子を拭くのです。あとはマイクの準備をしたり。奏楽の準備、これは永井先生でした。男子、女子神学生の仕事はだいたいこのようでした。
そこに必ずひとりの一般信徒の方がいらっしゃいました。山崎さんというお齢を召した細身の小柄なご老人です。神学生が椅子を並べるところで、「はい、こっち、こっち」「まっすぐ、まっすぐ」「ああ、そんな(椅子の)拭き方じゃダメだ」と一生懸命やってくださる。何しろ年配の方なので心配でもあり、「けっこうですよ」と奉仕を代ろうとするのですが、「これが俺の楽しみなんだよ、椅子を拭かせてくれよ」とほんとうに楽しそうに仰る。そして10時半になると一般信徒の方々が集まってくるのですが。
この山崎さん、後で知ったのですが、日本でも指折りの卓越した技術を持つ精密工学レンズを磨く職人さんだといういうことでした。ほんの僅かなひずみ、ゆがみを触って確かめ磨いてゆくのだそうです。
いわんとすることは、私たちも、山崎さんのような人によってレンズを磨いてもらう必要がある。私たちは確かにイエス様を知ることができています。救われて喜んでいます。しかし、世の中で生活し、地上生涯を歩んでいるときに、レンズにほこりがついていたり、軽い衝撃にあって、使っている人にはわからないけれども、プロの目から見ると、ああ、これはダメだと、磨きなおさなければならないことがないでしょうか。
「1:18また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、 1:19また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」
どうですか? 私たち、神の召しによって与えられる望み、これがはっきりと見えていますか。この望みとは、イエス様の再臨に関わる生ける喜び、望み、そして聖徒たちが受け継ぐ嗣業。天国にある豊かな嗣業が、私たちにはっきり見えているでしょうか?
19節の「1:19また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるか」、これがはっきり見えていますか?
この問いかけを、きょうのメッセージの締めくくりにさせていただきたいと思うのです。私たちは、はっきり見えていますか?
世の中のあのこと、このことは、どうしてもせねばならないことですけれども、或いは、目にひずみやくもりができてはいませんか? しっかりと磨いてよく見えるようでありたい。パウロはそれを祈っているのです。
「1:17どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。 1:18また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、 1:19また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」
この次の礼拝に集われるとき、この光栄に満ちた喜びに、勇んで、山崎さんではありませんけれども、ほんとうに主を愛し、主に仕えることを喜びとするクリスチャン信仰生活を共に歩ませていただきたいと思うのであります。
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