« J-MEROピックアップ | トップページ | 2019/8/26クラシック倶楽部を聴く »

きょうのことば

先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の講壇をお伝えします。

國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、45年以上の長きに亘って、岩手で主のご奉仕をしておられます。

Dsc08760

Dsc08454d

先週はS姉妹の記念会と納骨式がありました。

Dsc09025  

8月1()の説教は『聖書の語る生と死』(説教:國光勝美牧師)
聖書引証:ヨハネの福音書112526でした。

11:25イエスは彼女に言われた。わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 11:26また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。

Dsc09024

<説教>

いま礼拝ではエペソ人への手紙を連続して学んでおります。きょうは(18)エペソ人への手紙第2章に入るところでしたが、ちょっとそれをお休みいたします。日本ではいわゆるお盆を終えたばかりでございますけれども、このような時期に「聖書の語る生と死」というテーマでみことばを取り次ぐことは御心に適っていると思いますし、また何よりも、きょうは1年前に召されなさったS姉妹を記念する日であります。また納骨式もございます。この日に「聖書の語る生と死」で礼拝が立てられることは、それなりに尊い意味があると覚え、連続講壇とはすこし異なるみことばの時を持たせていただきたいと願っております。

 

さて、唐突ですがみなさんに質問をしてみたいと思います

「あなたは生きていますか?」

おいおい変なことを聞くもんじゃないよ、生きているからここに来たんでしょ。多くの方はそう思われるでしょう。そんな声が耳に聴こえるかどうかは別として、きっと、うん? と思われたのではないかと思います。
 では、これを、もういちど、このように訊いたらどうでしょう。

「あなたはほんとうに生きていますか?」

こう質問されてみると、ああこれは世の中でいわゆる一般に訊かれている類のものではなく「ほんとうに」ということばからして、この質問者はちょうど相手の目を覗き込んで質すように、常識的な何かよりももっと本質的な深い何かを問いかけていると気づかれるはずです。きょうはこの問いかけでメッセージを始め、この問いかけでメッセージを締めくくらせていただきたいと思っております。

「聖書の語る生と死」とは。

私たちが生きている、だからここに来たんじゃないの。それは当然です。決して間違ってはいません。これは生物的といったらいいでしょうね。心臓が動いている、そういう中で生きているから、だから来られた。それはもっともです。聖書は私たちが肉体を持って生きていることの大切さも教えています。決して軽んじたり軽蔑してはいません。聖書は生物的な命も大切であると示してくれるのですけれども、もう一つ、聖書はもう一つのいのちを私たちに教えております。それは、神との交わりのあるいのちのことです。
「本当に生きていますか」との問いかけに、実は根本的なポイントがあるわけです。つまり、私たちは他の動物たちが生物的な命を持っているその意味と同じような命だけのものか、それとも聖書は、私たちが生きるものとなるというときに、犬とか猫とかその他の動物とは人間は根本的に違ういのちというもの、つまり、それは神との交わりのあるいのちを持っているかどうか。本来人間のいのちは、神との交わりのあるいのちなのです。そこで「ほんとうにこれをあなたは持っていますか」という問いかけとなるわけであります。

聖書は、神様はすべての被造物、その造り主でいらっしゃる、そのことを創世記のいちばん初めに記してあります。もちろんその被造物の中で、神様は私たち人間をご自分に似せてお造りになられました。そして、本来私たちは神様と神に似せて造られた者であり、神様と豊かな交わりの中に存在している。これがほんとうに生きている状態なのです。

ところが、聖書はそこに「死」というものが訪れることを、やはり創世記のはじめのところに記してございます。この神様の豊かな交わりがあるところに、実はこのいやな障害物、これがやってきました。聖書はこれを「罪」と呼んでいます。豊かな交わりの中にあってほんとうに生きていた私たちが、いつしか、神様との交わりは私には意味がない、私には必要がない、私には関係がないと言いだし、神様との交わりを途絶えさせてしまう。その障害物を「罪」と表現させていただきます。世の中の犯罪を目にしたときには容易に「罪」という言葉を思い浮かべます。しかし、そのような表面的ではない、もっと根源的な罪があります。それは神様との交わりなんか要らないといって神様との交わりを途絶えさせてしまうこと、それを罪と聖書は呼んでいるわけです。

しかしそれを憐れんだ神様は、神様の側から、私たちにほんとうのいのち、祝福を与えようと神様からの豊かな救いがやってまいりました。これが主イエス・キリスト様です。イエス様が罪を取り除き、途絶えておりました交わりを回復します。色々な表現が可能でしょうけれども、イエス様がその罪を身代わりとして背負って、そして神の裁きを私たちに代って受けてくださった。さあ、あなた方のいのちの回復はここにありますよと、主イエス様が十字架に救いを全うしてくださった。私たちが生きるために、罪のないお方が身代わりとして死んでくださった、救いを成してくださったと私たちに教え示しているのは聖書です。
 ヨハネ1125節にございます。

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

わかったようなわからないような。先ほども、あなたはほんとうに生きていますか? という問いかけ、そして、そのいのちとは生物的な命だけでなくして、人間は神との交わりの中にあってこそほんとうに生きるということができる。その交わりが途絶えているのが死であること。しかし、その死んでいる私たちを救ってくださる救い主は、わたしは死からよみがえったまことのいのちであって、わたしを信じる者は死んでも生きると、こういわれるのです。イエス・キリストは十字架に架かり、ほんとうにみんなの見ている前で息絶えられました。ローマの兵隊が、彼がほんとうに死んだかどうか、槍で脇腹を突き刺して、死んだことを確認しました。ローマの人たちは、或いは、キリストに反対する人達は、そういえばイエスが生きていた時、私はよみがえるだのと大ぼらを吹いていたなと恐れていました。よみがえったなどと人々にまことしやかに言われでもすれば困るというので、十字架につけられ息絶えてしまったお方を墓の中に埋葬しました。これは日本のお墓とはずいぶん違います。昔は、身分の高い人は、生きている間にできるだけ自分が葬られる立派なお墓を作るのがステータスだったようです。そういう社会の中にあって、イエス様を信じて救われているアリマタヤのヨセフという裕福な人が、ああ、イエス様、どうか私のお墓に、ここをお使いくださいといって彼は、自分のために用意していたお墓に、イエス様の亡骸を入れました。そして、誰もこの墓から屍を持ち出すことがないように、丸い大きな岩で穴を塞ぎまして、そして当時の地上における最高権力と言っていいでしょう、ローマ皇帝の封印をこのところに致しました。この石を動かす者は、ローマ皇帝に反逆する者ということで、誰もこれに触ってはいけない。しかし、死んで葬られて三日後に、この石が御使いの力によってまろばされ、そしてこのお方はよみがえられました。

私たちは聖書でイエス様のよみがえりを信じて知っておりますけれども、先ほどいったように「いのち」には、二つ、生物的な命と、神との交わりのいのちと両方あります。死んで葬られる生物的な命は一時的なものです。しかし目に見えるところからは消えますけれども、イエス・キリストを信じて永遠のいのちを持っているものは、このキリストのいのちにつながって永遠のいのちを得ることができるのです。

わたしは、よみがえりです。いのちです。

はっきりとこのお方はご自分を現してくださいました。

わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

どうでしょうか、みなさんでこのことばをもうちど声を合わせて読んでみましょう。

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

あなたは、ほんとうに生きているでしょうか。

わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」とは、まさにこのことであります。

 

⛳写真は礼拝で筆者が撮り任意で掲載させていただいております。説教はICレコーダーから起こし文章化のための編集をしてございます。画像は教会作成のものをお借りしました。

|

« J-MEROピックアップ | トップページ | 2019/8/26クラシック倶楽部を聴く »

教会」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« J-MEROピックアップ | トップページ | 2019/8/26クラシック倶楽部を聴く »