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きょうのことば

先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の講壇をお伝えします。

國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、45年以上の長きに亘って、岩手で主のご奉仕をしておられます。

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 8月11()の説教は『教会はキリストのからだ2』(説教:國光勝美牧師)
聖書引証:エペソ書11723でした。

1:17どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。 1:18また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、 1:19また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。 1:20この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、 1:21すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。 1:22また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。 1:23教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

 

<説教>

エペソ人への手紙の中から「心の目がはっきり見えるように」に焦点をあてながら、まず過去においては、神の召しにより与えられる望み、これがどんなものなのか、それは、地上的な望みをはるかに超えて、究極的にはキリストの再臨の望みであることがわかりました。これこそ究極的な希望であります。そしてまた、これは将来的にいうのなら、コロサイ3章3節で「あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです」とすでに去年学んだところでございます。
聖徒達の嗣業のいかに栄光に富んだものであるのか、キリストとともに神のうちに隠されてある復活の命、永遠の命、このことが、どうかはっきり見える者でありますように。そしてある意味、それと同じ内容に違いありませんけれども、「神の大能の働きによって私たち信じる者に働く神の優れた力がどれほど偉大なものであるのか」、これをはっきりと知ることができるように。過去、将来、そして現在、特に今そのキリストの復活という力が私たち信じる者の心のうちに力強くはたらく。20節をご覧いただきますと、

1:20この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、」とありました。つまり、私たちはイエス・キ

リストの復活に表された神の大能の力がどのようなものであるのか、どれほど優れて大いなるものであるのかを、どうか心の目がしっかりと焦点を合わせて、ひずむことなく

理解できますように、このことは前回、或いは前々回も心に留めさせていただきました。

 1章の学びの締めくくりに21節~23節を読みましょう。

1:21すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。 1:22また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。 1:23教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

 教会というものが、私たちが自覚する自覚しないに関わらず、どんなに大いなるものであるのか、この教会というものにはっきりと心の目が開かれたものでありたいと願っております。

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 教会ほど不思議な集合体はありません。それはイエス・キリストの救いに与った者たち、キリストの命に与った者たちの集合体です。一つところに集まっていまキリストのからだを構成しているのを思う事であります。

 21節にあるようにキリストは「すべての支配、権威、権力、主権の上に」坐しておられる。そして「今の世だけでなく、次に来る世においても」と記され更に「となえられるすべての名の上に」キリストというお方は君臨しておられる。
 この「支配、権威、権力、主権」という言葉は何を意味しているのか、解説が必要であるかと思います。手元にある信頼のおける注解書には、これは、神様の領域の中に立てられた御使いの中にもいわゆる色々な階層といったらいいのでしょうか、それらのものを「支配、権威、権力、主権」と一つの御使いのランク、階層をあらわすものとあります。また私が救われたばかりの頃に聞いた事があるのですが、この教団の丸の内教会の講壇で、これに類似したところが扱われて、これは御使いたちを表しているのだと語られていたことを思い出します。講壇で語られたからそれが絶対的であるというのではありませんが、しかし、信頼のおける注解書の幾つかと合わせて、そのように解釈していいのだろうと判断できます。
 それは、イエス・キリストと仰るお方が、天のすべての上にある御座にあり、神と等しくあったお方が、父なる神が、誰かわたしのために、救いをもたらすための働きをしてくれるだろうかという要請に応えられ、神、子なるキリスト、聖霊なるお方が、私たちの理解を超えた、この宇宙全体を貫いているすべてのものの上にあるお方が、すべてを貫いて、何とこの世においでくださった。栄光のお方が、最も貧しい家畜小屋の中に、人の子としてこの世においでくださった。すべてのものを貫いてこのお方はおいでくださった。

 そしてこのお方が地上で使命を果たされ、十字架上ですべてを成就された。そして主は大能の力をそのお方の内に働かせてご自身の栄光を表してくださいました。つまり、20節でみると、「キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせ」のです。この表現に見られるように、まさにキリストがおいでになるときに、神の右の座にあるところから、貫いていちばん低くまで下りてきてくださって、御力を成してくださった。すべての階層の中から御使いさえもうらやむようなその贖いの御業を主は成してくださり、そして、先ほどは上から下までの謙卑、最も大きな神様の救いのための謙遜のわざが成されたとき、こんどは、よくやったと、父なる神様は、いちばん低くまで下られたお方を、天にまで引き上げてくださったなかに、全ての支配、権威、権力、主権の上にこのお方を置いてくださったと理解するときに、私たちの救いというものが、何か一つ吹っ切れるのです。ものすごいスケールのみわざです。

 

しかも、21節を見ると、「今の世だけでなく、次に来る世においても」とあります。これは、まさにアイオンをいっているのです。しばしば語らせて頂きましたけれども、一つの無限の世界なのですけれども、これを、天地創造において、私たちのアイオンでいうなら、「はじめに神が天と地を創造された」という創世記の11節の始まりから、歴史の神様、His Storyである神様は、この歴史の締めくくりを、すべての新しい天、新しい地を神様はこの世で締めくくりとして成してくださった。そして、これが、一つの、いまの私たちに与えられているアイオンの、しかもそれは、私たちの救いに関わる神様の言葉として、この聖書が、創世記の始めからこの世の締めくくりに、ここに人とは何であるのか、そして、神とは何なのか、私たちに、救いに関わるぜんぶのことをこの聖書のお言葉によって啓示してくださった、それがこのアイオンである。そしてこの世のアイオンが締めくくられるとするのならば、さらに、これにつなぐところのもう一つのアイオンというものが、つまり無限の一つの宇宙、或いは世界というものが、またここから始まっていく。このアイオンという言葉はまさに、このところを理解するのにとても意味のある、そういう一つの理解ではないでしょうか。今から50年近く前、救われた当時に講壇で語られた記憶に鮮やかであるアイオンという言葉をお話をさせていただくのならば、神様は、一つのアイオンというものをこのように今私たちが生きていく中に、これは、モラル、神様はこのアイオンのモラルビューティーというそういう価値観の中に、このアイオンを造られたのではないだろうか。これはもちろん、ではないだろうかというのが当然つきまとう。そうであると断定することは、それは行き過ぎであるし、しかし、一つの大きな示唆にはなると思います。そしてその時に語られた一つは、もしかしたのならば神様は、もう一つ私たちの先にあるアイオンが、どういう価値観であったとするかといえば、もしかしたらば、それはミネラルビューティーの価値観であったのかもしれない。それは黙示録に散りばめられているダイヤモンドとか緑柱石とか宝石の名前がありますが、それは神の栄光を私たちがわかるために、神様はそのようにして私たちに啓示していて下さるわけです。前のビューティーが何なのかという時に、もしかしたら、モラルビューティーのないアイオンというのは、ミネラルビューティーであったかもしれないという、このことは妙に心に残っているものであります。


 つまり、何がこのアイオンにおいていちばん価値があるのか。尊いものであるのかというのは、そのアイオンによって違うとするならば、まさに神様はこの今私たちに啓示されているアイオンの中にこの神の御子の贖いを成してくださった、被造物である私たちの救いのために、神様が御子を下してくださった。この神様の御愛、21節にある「すべての支配、権威、権力、主権の上に」というのは、今私たちの限られた世界の中で天上を見るに、今の私たちの世界のすべてを貫いて神の御子がおいでくださり、こんどはそのお方が、それらのものを逆なりにすべてを突き抜けて、神の右の座に着座してくださった。そして、私たちが今の時代にキリストにあって救われたという以上に、次のアイオンがどういうアイオンになるのか私たちにはわからない、しかし、世々にわたって神様が用意しておられるアイオンの中に、私たちはキリストと共に王となる。これもまたすごい事です。次のアイオンにおいて、キリストの命に与って、さあ、この次がどういうものであるのか、このみ言葉によるのならば、21節に「今の世だけでなく、次に来る世においても」すなわち次に来るアイオンにおいても、「このキリストとともに私たちはある」。そして、「1:22また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。 1:23教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

聖書が記している教会のイメージが大きすぎて、私の頭はパンクしそうです。この教会には、このお方が満ち満ちている。そういうところです。

きょう申し上げたいメッセージは、教会が私たちがイメージしている教会とは重なる部分もあるけれども、それよりもはるかにすばらしい意味合いがあるということです。

実はきょうもう一つの賛美歌をと幾つか考えていたのです。8月といえばどうしても広島、長崎、敗戦という大きなことがあるときに、平和の器にしてくださいというこれに優るものがないと思いもしたのですが、「村の小さき教会」が浮かびました。村の小さき教会、いまもそこにあるか。麗しい賛美歌です。しかし、私はある人から、教会はいつもこれを歌っているからダメなのだという話を聞きました。村の小さき教会で満足しちゃだめだと。

 この後は簡単な蛇足だと思って聞いてください。先日、カナン工房の開所式に行ってまいりました。小さなご奉仕をさせていただいて、その後、開所式,市長挨拶がありまして、だいたいは市長挨拶は代読が一般的です。やはり代読の方がいらっしゃいました。名刺交換するときに、「先生、私〇〇です。覚えてますか」。ああと思い出しました。まだ教会が北天昌寺町にあった頃に町内にいらっしゃいました。「先生の教会、あっちにありましたよね」。そうでした。「何回か行ったんですよ」。村の小さき教会いまもそこにありや。教会の働きを50年近くしておりますと、ああ、あの当時幼稚園だった、小学生だったお子さんたちが「いまもそこにありや」といってきっと帰ってくるのかなと思いながらきたんですけれども。

話しが脱線したのは、教会には「村の小さき教会」のようなイメージもあります。けれども、教会というものは「このお方の満ち満ちているところである」、「その体である」。

 

天からこのお方があらゆるものを貫いて下りてくださった。そして、このお方が、すべてを成し遂げて復活をなさり、そして神のお言葉の通りに私たちと共に交わりをなしてくださる。これはブラックホールの理論的にはあると思われていたけれども、それを初めてデータ化したという発表があったのはつい数か月前でしたか。それが公開されておりますけれども。これは今も私たちの次元を超えて一つの別の世界でありますが、これをも貫いておられるお方はキリスト、このお方の満ち満ちておられるところが、私たち教会なのです。どうか、自分たちが所属している教会が、今持っているイメージで終わってしまってはならない。教会とは何なのか、私たちにもっと大きく目を開かせてくれるのがこのエペソ書であるのです。

パウロはローマの獄中にあって、教会とはこういうものなのだという教会観を示していたのです。

この次はエペソ書2章から入っていきたいと思います。

⛳写真は礼拝で撮ったものですが、画像は教会からお借りしています。説教はICレコーダーから起こし、若干編集させていただいております。

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