きょうのことば
先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の講壇をお伝えします。
國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、45年以上の長きに亘って、岩手で主のご奉仕をしておられます。
8月25(日)の説教は『罪の中に死んでいた私たち』(説教:國光勝美牧師)
聖書引証:エペソ人への手紙2章1~7節でした。
2:1さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、 2:2かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。 2:3私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。 2:4しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、 2:5背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。2:6神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。 2:7それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来るべき世々に示すためでした。
<説教>
(前置き、報告などは割愛いたします)
きょうからエペソ人への手紙2章に入っていきます。
「2:1さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、 2:2かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。」
きょうはこの部分に集中したいと思っております。ちょうど前回の「聖書の言う生と死」というメッセージは、まさにきょうの序論であったと思います。
復習となります。
前回は、「生きていますか?」、そしてさらに「ほんとうに生きていますか?」という問いかけで始めさせていただきました。
「いきていますか?」には、生物的にはたしかに生きているという答えでした。次の「ほんとうに生きていますか?」という問いかけ。それは、神との交わりといういのちの中に生きているかどうかの問いかけであったわけです。生物的な命でさえ細胞と細胞の間の交わりと言いますか、交流というものがあって、それが生物的な命というものであり、それが無くなったときに生物的な死を意味すると生物の専門家が語っているのを聞いたことがあります。生物的な命というものでさえ、細胞と細胞、或いは細胞核との交わりがあるから生きているのであって、その細胞の分裂なり、そういう交わりということが途絶えたときに生物的な死を意味する。まして神との交わりがあることによって、ほんとうに生きるいのちというものがある。交わりこそ、いのちというものの本源的な問題なのだと思ったことであります。
本来神様は、すべての被造物の支配者として聖書の中に人間を描いておりますけれども、神との交わりの中に生きているものであったのです。しかし、そこに、罪、交わりを途絶えさせてしまう罪というものがやってきた。
これが前回のお話しでしたけれども、きょうの2章のこの1節2節を言い表していることと変わりはない、そう思うのであります。
また前回のお話しの続きになりますけれども、これを再び罪から回復してくださるために主イエス・キリストと仰るお方が、私たちの神との交わりを途絶えさせている罪の解消のために十字架の贖いを成してくださり、私たちを生きるものとしてくださいました。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じるものは、死んでもいきるのです」ヨハネ11章25節
今私たちはエペソ人への手紙2章に入ったところですけれども、1章の最後の部分
「20この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせて、天上でご自分の右の座に着かせて、21すべての支配、権威、権力、主権のうえに、また今の世だけでなく、次に来る世においても、唱えられるすべての名の上に置かれました」「23教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ち満ちておられるところです」
これが1章の締めくくりであります。そしてそれを受けて、今回の2章に入っていくところであります。
それを確認する意味で、これを皆さんでご一緒に読んでみましょう。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じるものは、死んでもいきるのです」
そして、この1章の21節の解説のときにもお話しをいたしましたが、きょうの2章の1節、2節。特に2節には、「2:2かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。」という表現がありますけれども、この1章21節のところに、「21すべての支配、権威、権力、主権のうえに、また今の世だけでなく、次に来る世においても、唱えられるすべての名の上に置かれました」とありますけれども、ほんとうにパウロのいっている教会観、あるいは世界観ともいえると思いますけれども、キリストが、すべてのすべてに満ちている。で、21節では「支配、権威、権力、主権」というこれらのもの、これはおそらく当時のユダヤの人たちの宇宙観というようなものを前提にしているのかもしれません。それらの或いは御使いたちの名前であるというように解説する人たちもいますけれども、とにかくそれらのもの、神、御使いたち、それらのものを超えて、そして今の世だけでなく、次に来る世においても、キリストはすべてのすべてのものの上にあるのだという事を述べている。そのことを覚えていただきたいと思います。そして、きょうの2章に本格的に踏み入れたいと思います。
「2:1さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり」、この意味はしっかりと今までのところでご理解いただいたはずです。「あなたがた」というとき、もちろん読者である今の私たちに、これは当て嵌められるものです。今はクリスチャンとして憐れみのゆえに今のように変えられておりますけれども、かつては自分の背きと罪の中に死んでいたものなのです。神との交わりから断絶していたもの、麻痺していたものであったのだ、そのことを深く一人ひとりこれまでのことを考えていただきたいと思います。そして、2節
「2:2かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。 2:3私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」
この2節のところをすこしでも印象深く理解できるようにと思って、このようなイラストを作ってみました。
大水が流れているところです。嵐のあとの大水。川下へ沖へと流されている。で、ここに小さなメダカを書いてみました。何を表そうとしたのか、皆さん、お考えいただけるでしょうか。メダカよりもはるかに大きな流木が濁流の中に流されてきます。いのちのないものは皆その流れのままに流されてしまいます。皆さん、いや私もかつては、というそれにあたるものです。世の中の濁流。濁流という表現をすればこれはきっと世の中の快楽とか、不道徳なそういった価値観を、濁流という言葉で表すことはできるでしょう。しかし、それとともに、必ずしもこれは濁流に流されているというイメージではなく、きよいきれいな流れのように見える、そんなに不道徳な間違っているようには見えない、しかし、そこが、世の中の価値観、それが私たちの心の中に生まれたときから、たとえば進化論というようなものは、私たちが聖書からみたときに、決して受け入れることのできない立場にあります。それが間違っているとは思いません。教会、学校のテストの中で、学習の中で、この進化論というものに裏付けられている世の中の流れがあるわけです。私たち聖書を神のことばと信じているものたちは、この時代にあって、進化論をどう位置付け解釈をしたらいいのかということは真剣な課題です。真実なクリスチャンたちの科学者たちの中にも、色々な立場の違いというものはあります。それを認めたうえで、しかし世の中は、神無しとする考え方、そして、この世の中の神無しとする濁流が原爆を作り、世界を破滅に導いてしまう兵器を無制限に作っている。地球を何回でも破壊できるような、そのような事態にもなっているということを私たちは知っています。
濁流といいますと、もちろん不道徳などもありますけれども、それ以上に罪の中にあって神様なんかいない、人間こそ最高のものなのだというその価値観にあり、罪の中にあって、そうだそうだと言いながら空中の権を持つ支配者、即ち不従順の子らの中に今も働いている霊であるサタン、このサタンが、私たちの心、価値観、生き方というものを捉えて濁流の中に押し流してしまっています。しかし、その中に、もしイエス・キリストのいのち、新しいいのち、キリストのいのちに生かされているものは、メダカのような存在であったとしても、この中にって私たちは生きることができる。流されないで、
「2:4しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、 2:5背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。2:6神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。」
私たちは、このキリストのいのちによっていま濁流には流されず、ほんとうによみがえりのいのち、キリストのいのちに生かされているものなのです。どうかこの価値観をしっかりと持って、いまのこの邪悪な世の濁流に、クリスチャンのいのちを証しするものであらせていただきたいと、心から願うものでございます。
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