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きょうのことば

 けさ4時の室温25℃。昨朝4時は29℃。たった一日でこんなに涼しくなりました。ナイアガラがちょっと甘みがします。蜂が来るまではまだ食べごろではありません。一気に秋に傾いたかに感じられる今朝です。

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先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の講壇をお伝えします。

國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、45年以上の長きに亘って、岩手で主のご奉仕をしておられます。

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 8月4()の説教は『教会はキリストのからだ』(説教:國光勝美牧師)
聖書引証:エペソ書11723でした。

1:17どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。 1:18また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、 1:19また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。 1:20この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、 1:21すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。 1:22また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。 1:23教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

 

<説教>

(先週の復習は割愛いたします)

前回のエペソ書の117節、18節のところですが、これが前回の復習というよりも、ここをしっかりと捉えることこそが、きょうのメッセージの中心になるのではないかと思っております。
特に18節、「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、」、まずここにきょうのメッセージの始まりを持ってきたいと思っております。

「心の目がはっきりと見えるように」。これは第二コリントの書46節にも書かれてありますけれども、「「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。」。

 前回、山崎さんという方のお話をさせていただきました。私自身とても大きな恵みをいただいた方です。念のためにネットで「山崎 レンズ磨き」と検索してみますと写真も出てきました。この人だ、間違いない、よく似ている。この人のお祖父ちゃんとそっくりなんです。ああ、山崎のお爺ちゃんは、確かにこの人のお父さんだと思いました。
 この山崎さんは、当時のインマヌエルの丸の内教会、今は中目黒教会ですけれども、そこで蔦田真理先生と同年配の方で、蔦田真理先生を囲む何人かの同年代の方々と、私は青年会に関わっていましたが、お爺ちゃんをよく覚えております。ネットに出ている写真の方のお父さん、つまり山崎のおじいちゃん、この方は優れた研磨の技術をもっていました。今はコンピューターで為される時代ですが、当時は、レンズの歪みやひずみを手の感覚でやっていく。私は先代の山崎さんがいつ召されたのか、ずっと盛岡に来ておりましたので、知りませんでしたけれども。今は後継ぎの方がしっかりと継いでおられる。小さい頃からレンズを磨いており指が変形しておられました。
 山崎さんのレンズ磨き、それは焦点がぼけていたり、傷がついたり、さまざまな問題のあるところを、丹念にきれいに磨いてくださる、まさにご聖霊様の働きがそれです。私たちは、聖霊の御手の中に、キリストにある作品として、お一人おひとりが、神のひとり子の尊い命と引き換えに、生かされ作られ磨かれているものです。あなたは私のものです、とおっしゃるお方は、ご自身の栄光を表すために、ご聖霊様がねんごろにねんごろに私たちを取り扱い、磨き、キリスト様がはっきり見えるように、天国の栄光がはっきりと見ることができるようにしてくださる。私たちには思わずも通らねばならない問題、試練、課題がある。できるならこんなところを通りたくなかった、神様を信じているのにどうしてこんな目にあうのでしょうかと問うてしまう。
 しかし、現実問題に直面したなら、ああ、山崎レンズさんじゃないけれども、神様こういうところを通って磨いていてくださるんだな、ぴかぴかに。試練のさ中には、どうかこの試練をはやく取り除いてくださいと祈る。そこを通っているお一人おひとりを、神様は最善をもって磨いて磨いて、さあ、見えるようになったかね、どうだね、天の栄光はキリストの栄光が、と、神様は聖霊なる神様の御手にわたしたちを落とし込んでくださいます

 きよめとは何でしょうか。色々な表現があるでしょう。だけれども、きよめというときに、この神様の手から逃げよう、もうこんなところになんかいたくないといって、それを拒むのはそれは罪です。好ましからざる境遇や環境に自分が置かれたとき、その理由はなぜかわからない、絶対にわからないのです。ダビデでさえ、詩篇の中で「主よ、いつまでこうなんですか」と訴えています。涙の革袋が裂けるまでに涙を流さねばならないくらいたくさんの辛いところを通ります。ダビデのいいところは、神様、イエス様なぜですかと叫んでいるところなんです。苦しく辛いときに神様という言葉が出てこない、もう信仰なんかと捨ててしまう。そうではなく、苦しい、もういやだというそんな中においても、神様を仰いで祈る、そこにダビデのきよめの器としてのすばらしさがあります。神様なぜですか、神様どうしてですか。なぜ私の友が私を裏切るんですか。なぜ昨日まで一緒に神の礼拝をしていた友が私を裏切るんですかというような中で、彼は、ダビデは、神様の御手の中で磨かれ磨かれて磨かれて、いよいよ神様をはっきりと見ることのできる器になっていくのです。

 そして18節、もう一度注目していただきますが、「1:18また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、 1:19また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを」
 どうぞ磨かれ磨かれ磨かれて、はっきり見えるようになるようにという事なんです。では、この「望み」というのはなんでしょうか。神の召しによって私たちはキリストに召された、呼び出された者たちです。教会とは、呼び出された者たちが集まっているところです。
 エクレシアとは荒野から呼び出された者たちの集まっているところです。その神の召しによって与えられる望みとは。何のために私たちは呼び出されたのか、それは一時的な希望とか、一時的によくありたいといったような世の中的なものではない。究極的な望みのことです。私たちは、贖い主なるお方が天からこの世に王の王、主の主としておいでくださるのだという究極的な望みを持っている。その意味において、どうか私たちの心の目がいつでも、永遠的な、究極的な望みにしっかりとピントが合っているように。ただ一時的な世の中的な望みというのではなく、はっきりと見えるように、あなた方はクリスチャンになった、罪がゆるされた、そして、このお方が王の王、主の主として、私たちのこれからに与えられるお方なのだ、これが究極的な望みです。どうかそのことがはっきりわかるように。それから同じようなことですけれども、将来的なこととして、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んでいるものなのか。あのルカの15章の放蕩息子という有名なたとえ話があります。放蕩息子は地上的な一時的なものに心を奪われ、お父さんのもとから離れていきました。しかし、豚飼いになるという当時のユダヤ世界では卑しい仕事とされていた身分に、ほんとうに落ちるところまで落ちてしまった。何もなくなった時に、はっと彼は気が付いた。お父さんのところには、雇人、食べ物が有り余っているのに、子どもである私には、食べるイナゴマメさえもない。お父さんのところに帰ろうと決心します。帰っていったとき、お父さんは、よく帰って来た、あなたの帰ってくるのを待っていたんだと大喜びをした。そして、ぼろぼろの着物を着た息子に、いちばんよい衣を着せ、後継ぎとしての指輪をはめさせ、履物をはかせた。私の世継ぎなのだ。私たちがどれほどの祝福の世界に、世継ぎとして栄光に富んだ嗣業をいただくことになることか! 

 どうですか皆さん方、心の目が、かすみが、だんだんだんだん磨かれて磨かれて、そうだ、私の将来にはこのようなものが待っているんだ。何という祝福だろうとわかりますか?

 私は、初代総理であった蔦田二雄先生が、天に帰るまえの丸の内教会での礼拝のことを覚えています。保存してある古いテープで聴くこともできますが。
 丸の内教会の会衆席の前の方にはご婦人方が座っておられました。和服の方々が履物を脱いで正座しておられるすがたが珍しくない。そのうちのお二人が、船橋でインマヌエルの始まりになった開業医をしておられる双子の長谷川姉妹でした。蔦田先生が、この双子の姉妹の口調、声色をまねて天国がどんなところかを語ったことがあります。天国とはどういうものか、天国がこういうものだとかああいうものだとか言えば言うほど価値が下がる。あなたが天国とはこんなものだと言ったって、それはあなたの理解の精いっぱいのことであって、言えば言うほど価値が下がってしまう。天国というのは「ンまあ! ンまあ!」というのが天国だ。それが蔦田先生の地上生涯における最期の礼拝メッセージになりました。どれほど栄光に富んだものであることか!

 そして、こんど19節「1:19また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。

 これは、神の大能の力というものがどんなに優れて大いなるものであるか、あなた方が知ることができるようにとパウロが祈っているのです。そして、その神の大能の力が何であるのかということが20節、「1:20この大能の力を神はキリストのうちに働かせて」といって、「キリストを死者の中からよみがえらせ」た力。その力が、あなた方にも働いている、あなた方、それを知っていますか? 「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなた方は力を受けます」というその力をあなたは知っていますか? 主よ、どうぞその大能の力、信じる者に与えられる神のすぐれた大いなる力がどれほどなのか、もっともっと知らせてください。私は渇いています。神の力を、主よ、そのように知らせてください。心の目がはっきり見えるようになるために、私たちは聖霊様の手にあって磨かれ磨かれ磨かれ、或いは二重に見えるところが調整されて、キリストの栄光が天の栄光がたまにずれていると、悪魔が世の中の栄光を見せて、ほら、そんなに神様神様というよりも、もっといいことがあるじゃないか、と惑わされ二重に見えてしまう。でも、それをぴちっとフォーカスを合わせて、ああそうだ、これが福音の大きな恵みなのだということがわかるように信仰を働かせましょう。
 説教題である「教会はキリストのからだ」については、後にお委ねすることとして、きょうは、ここまでのお話しとさせていただきます。

 一つ例話をもって締めくくります。お亡くなりになった田部井淳子という登山家がいらっしゃいました。この方がまだ学生時代だったころ、仲間たちと一緒に美ヶ原高原に行きました。リーダーは田部井さんです。
 私は長野県松本市の出身、地元ですから、美ヶ原のようすはよくわかります。自宅から、友達は下駄を履いて、私はふつうの運動靴をはいて、朝7時ごろに作ってもらったおにぎりを持って、12時ぐらいには頂上に着いて、というような気軽に出かけられるところで、遭難するようなところはまったくない。いちばん安全な道です。ところが、美ヶ原は、また霧の名所でもある。田部井さんが仰った、ここから何分か歩けば必ず大きな山小屋、ホテルのようなところですが、それに着くはずだというのでルンルン気分で歩いていたところが急にふわーっと霧に巻かれてしまう。霧がミルクのように流れる。自分たちがどこにいるのか全く分からなくなった。田部井さんも、わー、困ったなーと思ったけれども、リーダーである自分が困ったというと皆が不安になるので、「平気よ、霧が晴れるまで歌でも唄いながらここでちょっと休みましょう」と、内心は、もうすぐそこまで来てるはずなんだけど、ないなーと思いながらいる。それが、休んでいるうちに霧がぱーっと晴れた。晴れたら、何と目の前に大きなホテルがあって、何だここまで来ていたのに、霧でぜんぜん見えなかった、となった。霧が晴れるとのどかな牛の啼き声が聞こえてきたり。間違ってなかった、良かったと思ったと。印象深く記憶にのこっています。

信仰生活の中で、私たちは霧にまかれることはないと思っても、実際そういう事はあり得る。でもそのときに、どうか信仰をしっかり持って、聖書のみことばと、お祈りと、神様の御心を求めながら行くときに、はっきりと見えることがあるのです。
 では、みなさんでご一緒に18節、19節をお読みいたしましょう。

1:18また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、 1:19また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。

 

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