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きょうのことば

 九州、大雨の被害が伝えられております。心が痛みます。殺伐としたニュースも伝えられるなかで、けさの家の外回りを掃くなどしながら、さまざまな事をおもいながら、タチアオイやマリーゴールドの咲きがらを取りのぞいて回りました。曇ってはおりますが、こうして何かすることがある、日常通りであることに感謝をし、コーヒーで一息ついてから、このページの仕上げに取り掛かったことでした。

先週のインマヌエル盛岡キリスト教会の講壇をお伝えします。

國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、45年以上の長きに亘って、岩手で主のご奉仕をしておられます。
 7月14()の説教は『御国を受け継ぐ者』(説教:國光勝美牧師)
聖書引証:エペソ書1114でした。

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1:1神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。 1:2私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。
1:3私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 1:4すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。 1:5神は、みこころのよしとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。 1:6それは、神がその愛する方にあって私たに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。 1:7このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。 1:8この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ、 1:9みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、 1:10時が満ちて、計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。またキリストにあって、 1:11私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。 1:12それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。 1:13このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。 1:14聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。

 

〈説教〉

(説教のまえに、6月に開かれたバザーの準備、また岩渕氏のコンサートまで労された方々、音響を従来よりも飛躍的に改善して下さった橋本勝兄に教会から感謝のことばがありました)

きょうは、エペソ書1章7節から見ていただきましょう。
1:7このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。1:8この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ、1:9みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、 1:10時が満ちて、計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。」

 神が私たちに知らせてくださった奥義とは何かが、述べられております。
まずポイントとして捉えておきたいことは、「奥義」(おくぎ)ということばであります。
「天の御国の奥義」というように「奥義」が使われている箇所があります。また「神の奥義」、或いは「福音の奥義」とも使われております。この「奥義」にスポットを当ててみます。奥義には(おうぎ)という読み方もあります。しかし、聖書では(おうぎ)とは読みません。(おうぎ)は、修行などを積んでその結果として真理に到達する、悟りに至るような場合に用いられます。しかし、聖書での(おくぎ)は、それとはまったく違います。隠されている真理、神の領域における真理をいいます。幕によって隠されているものが、ある時点でパーッと幕が開かれて、ああ、こういうものがあったんですねというようにわかる。それが、福音の奥義、天の御国の奥義といわれるものでありまして、隔てている幕が開けられ、そしてもたらされるものが啓示です。

 

ヨハネ福音書1417節をご覧ください。
14:17の方は、真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたはこの方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。
 ここに「真理の御霊」という存在が書かれています。16節に「真理の御霊」の説明があります。「助け主」であるとあります。助け主である聖霊なる神様、真理の御霊が私たちに宿ってくださる。そして、この御霊様が、ふつうの人たちには幕がかかって見えなくなっているものを見させてくださる。

 もう一つ確認するために、ヨハネの福音書の1526
15:26わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証してくださいます。
 そうです。つまり、天の奥義、或いは福音の奥義、これは、聖霊なる神様によって、それまでわからなかったできごとが、ぱーっと幕が開いて、ああそうか、永遠のいのち、罪の赦しはここにあるんですね、福音とはこういうものなんですね、とはっきりわかるようになるのです。


 ついでにもう一つ。ヨハネの福音書1613
16:13しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。
 そして14節には、「16:14御霊はわたしの栄光を現わされます」。聖霊によってのみ、私たちはキリストの栄光を十字架の栄光を、復活の栄光を、「ああ、有り難うございます。」と心から受け取ることができる者となるのです。

 エペソ書に戻りましょう。
エペソ1章7~9をお読みいたします。
1:7このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。 1:8この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ、 1:9みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。」
 いまここにいらっしゃるお一人おひとりが、イエス・キリストの十字架の救い、罪の赦し、キリストの復活、これをアーメンと肯くことができるのは、私たちの内にあったかつては見えなかった幕が、聖霊によって開かれて、深くうなずけるものになったことを意味しております。
 そしてこれは「耳があるものが理解できる」。マタイ1115節には「耳のある者は聞きなさい。」とあります。11章の中ではイエス様について、或いは、バプテスマのヨハネについて真理が語られているときに、イエス様は「耳のある者は聞きなさい」と、こういう突き放したものの言い方をしている。言っても分からない人にはわからないでしょう、だけどね、耳のある人にはわかるんだよ。

マタイ139節にも「13:9耳のある者は聞きなさい。」とある。ここでは、「天の御国とはいったいどういうものでしょうか」と質問した人物がおり、それに対してイエス様がたとえを用いて、福音の種を蒔いたが石地に落ちた種があった、或いはいばらの中に落ちた種があったなどと語られたそのときに、「耳のある者は聞きなさい」、このような言い方をしている。つまり、福音の真理は、耳に覆いがあり、目に覆いがある人たちにはどんなに語ってもわからないと仰っている。
 しかし真理の御霊が与えられている私たちには、これがわかるようになっている。そのことを心に留めたいと思います。

 エペソの110節に戻ります。
1:10時が満ちて、計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。  キリストにあってすべてのものが一つに集められる。一切のものが、キリストにあって一つに集められるというのです。今までは、この森羅万象すべてのものが、無秩序にあるようです。どうしてこんなことが、なぜこのように。それは自然界だけではなく、人間の歴史を見ても、争いがあり、混乱があり、混沌としている。しかし「時が満ちた」ときには、すべてのものがキリストにあって一つに集約される。そしてキリストにあるすべてのものが御国を受け継ぐものとなる。
 エペソ書はパウロがローマの獄中で書いたものですが、パウロはローマの獄中にあってすごい事をいっているのです。パウロは牢屋の中にありながら、心は宇宙に向かって、全世界に向かって、すべての者がこのキリストにあって一つにまとめられる、集められるのだというのです。それはどういうことなのか。それまでユダヤ人たちはキリストを否定していました。キリストを受け入れることができなかった。しかしパウロは、ユダヤ人たちもキリストにあって一つになる。さらに異邦人たち、神様の祝福からはるかに離れていた存在である異邦人たちもキリストにあって一つになる。私たちが伝えているこの福音によって、キリストにあるすべての者がキリストによって一つになる。パウロはこのことを、ローマの獄中で、聖霊の光を受けて、私たちに示しているのです。

エペソ112
1:12それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。」
「前からキリストに望みを置いていた私たち」とは誰ですか? 誰の事をいっていると思いますか? ユダヤ人の人たちは、アブラハムの子孫である我らユダヤ民族こそ神様の祝福を受けているものであるといって、やがて現れるメシアを待ち望んでいたわけです。ところがそのメシアをユダヤ人たちは拒絶してしまった。しかし聖霊によって目が開かれたときには、ああ、あのナザレのイエス様こそ旧約聖書が預言していたメシアだったのだ、キリストだったのだとわからせられる。パウロ自身もそうでした。以前はユダヤの神を信じ、キリストを拒絶していた人たちであったけれども、キリストに望みを置いてきた人たちがそこにおいて一つとなる、救われるのです。以前からキリストに望みを置いていた私たち、ユダヤ人たちがみな神の栄光をほめたたえるものたちになります。

そしてエペソ113
1:13このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。」
「あなたがたもまた」、かつては神の約束に遠く離れていて何の特権もない異邦人たち、私たちです。アブラハムの約束にはるかに遠く離れていた異邦人である私たちがこのキリストにあって、ここで13節をよくご覧ください。
「あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。」
 「耳ある者はそれを聞くべし」とありましたけれども、あなた方の救いの福音をまず聞いて、聖霊の憐れみによって、ああそうかと福音がわかるものとされて、そして聞いただけではなくそれを信じて、そして信じたことのゆえに、確かにあなたは神の子どもになりました。

エペソ114節を見ると、
1:14聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」とまでいっています。そうです。かつては罪の中にあって、神様から当然怒りを受けるべき怒りの子であった私たちが、キリストにあって、まず、それも聞いて、その後信じて、そしてあなたは確かに救われたという約束の聖霊によって証印を押された、救われた。これが、パウロのいっている一切のものがキリストによって一つに集められるということばの意味している内容です。

エペソ110節
1:10時が満ちて、計画が実行に移され」
神の御子が人となって生贄のための贖いの仔羊としてこの世に送られ、そして「時が満ちて」、ついにそのことがなされた。イエス様は「私の心ではなく、御心のままに為してください」とお祈りをされて、父なる神様の御心を行うために十字架の贖いを成し遂げてくださった。「時が満ちて」これが実行された。「神様、すべてが完了しました」。十字架の上で贖いを成し遂げたお方、そしてその後聖霊が注がれるという、あのペンテコステのできごとにつながっていくわけです。これはぜんぶ「時が満ちて」神の計画が実行に移され、天にあるもの、地にあるもの、一切のものが、このキリストにあって一つに集められる。そして、私たちは御国を受け継ぐものとされたわけであります。

エペソ114
1:14聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。」
では、異邦人は、ユダヤ人たちが先に救われて、その後、異邦人たちが救われるのか、これは、確かに順序から言えば最初にペテロやそのほかユダヤ人たちがイエス・キリストを信じて、救われたわけです。しかし、ペテロたちが救われたのも、それは、割礼を受けていたアブラハムの子孫だから救われたと聖書に書かれてはいない。ペテロたちが救われたのも、同じく十字架の福音を聞いて信じて証印を押されたからです。ユダヤ人だからといって特別な救いがあったのではない。十字架の福音を聞いて信じて救われたのです。それで証印を押されたのです。それとまったく同じように、異邦人である私たちも福音を聞いて信じて証印を押されたのです。そこには何の優劣もありません。ただ時間的に次に異邦人が救われておりますけれども、そこに質的な違いは何もありません。キリストにあって私たちが御国を受け継ぐものとなっていることに感謝したいと思います。 

 

 

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